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はてなキーワード: 尾張とは

2020-08-11

日本覇権をかけた戦いで西や南が東や北に勝った例

地方勢力の討伐ならたくさんあろうが、覇権をかけた戦いだと神武東征を無理矢理カウントしても、西や南の勝ちは稀である

壬申の乱は東に回り込んで尾張美濃勢力を味方につけた大海人皇子勝利スタート位置は南だが)

源平合戦も東の勝ち。

承久の乱も東の勝ち。

鎌倉幕府滅亡も新田義貞のおかげ。

室町幕府滅亡も東から

関ヶ原言わずもがな

しかし、室町幕府後醍醐天皇の争いは西日本からブーメランしてきた足利尊氏勝利する変態的なことになった(最強者東北にいたが)。

そして、幕末も(むしろ唯一?)西側が勝った。

維新志士が勤王じゃなかったと批判した足利尊氏戦争では一番倣うべき存在だったということに皮肉を感じる。

2020-08-08

anond:20200808000008

俺も「日本人」ていわれても対象がでかすぎて

自分日本人というだけで優越感とか持てんわ

過去日本人いかに偉大とか言われてもそれ全部俺ではないし

なんでもイタリアにはイタリア人はおらず、フィレンツェ人やトスカナ人やナポリ人と思ってるらしい(昔の薩摩人や尾張人どころでなく、19世紀統一国家になるまで1000年ぐらい本気で別の国だった)

ドイツも似たようなものらしくバイエルン州は今も独立派がいるそうだが、神聖ローマ帝国も小邦分立国家だったうえに、17世紀以降は北部プロテスタント南部カトリックという宗派対立である

そういうのに比べると、日本皇室があったのが都合良かったんだろな

2020-04-23

誰が守ってくれるの

海外出羽守日本尾張守が席巻する今、誰が日本を守ってくれるの。

2020-04-04

anond:20200404124116

いまだに日本テクノロジー企業の過半はこういう認識なんだもんな、、

おなじ口でこれだから文系は、理系はって今だに言っちゃいそうだし

まじ日本オワタ尾張

2020-02-15

 名古屋市は14日、市内に住む60代男性新型コロナウイルス感染確認されたと発表した。米ハワイから今月帰国した後に発熱し、入院中。肺炎患者との明確な接触確認できていないという。

はい名古屋も終わり~~ 尾張だけに 終わり~~。

2020-01-04

anond:20200104010843

なんかそういうんじゃないの。親が糞でリストカットしてます、みたいな南条あやみたいなメンヘラはもう尾張だよねみたいな。

2019-12-24

anond:20191224161128

尾張三河ちょっとキャラ違うけど、名古屋あたりはちょっと癖が強いなと思った記憶

どっちかというと愛知男性より愛知女性の方が難しかった。名古屋嬢ってやつ。

2019-10-26

昔の人ってなんで「台風」を知らなかったの?

「何か知らんけど毎年八朔から秋分にかけて異様に暴風雨になったりするけど何で?」とか疑問に思わなかったのだろうか?

朝廷とか幕府役人諸国から訴状を調べてみたところ「薩摩で暮れ六つに暴風まり、子ノ刻に尾張にて風雨甚だし河川溢る。江戸明け六つに暴風にて屋敷の瓦剥がれ落ち、明くる午ノ刻陸奥にて暴風あり」

とかの知見みたいなのを得て「これは移動性の低気圧である」という結論を出せなかったのだろうか?

卑弥呼くらいの時代から知ってたんじゃないの? 農耕とか治水って政治のものじゃん。

そういう事では無い。只の「夏から秋にかけて発生する暴風雨」としか認識しておらず「日本近海太平洋上で発生し、日本列島を南から北に移動し各地に被害を及ぼす熱帯性低気圧」という事は外国人に教えて貰うまで知らなかったという事をいっている。

「今朝に多摩川洪水引き起こし暴風雨半日後には最上川を氾濫させる事になる」という一般的知識江戸時代の人々は持ってはいない。「台風を知らない」事とは、つまりそういう事。

2019-08-06

脅迫FAXにも負けず

脅迫FAXにも負けず 尾張名古屋のクソ暑さにも負けぬ

丈夫な体をもち

東に歌手がいれば 国威発揚だと嘆き

西に作家がいれば 相変わらずひどいなと言い

南にキッズがいれば ファイル共有ソフトを紹介し

北に女性がいれば トイレの音や匂い想像する

みんなに二枚舌だ ダブスタだと呼ばれ

一貫性はなく 功名心はあり 決して直接的なことはいわず

うまい具合に言質を取られないよう いつも支持者を扇動している

一日にたくさんの人をブロック

表現の自由に 自分たちだけを勘定に入れ

嫌いな表現は つまらいからやめろと言い

謝罪を引き出し そして忘れる

愛知東桜センターの8階の 立派な展示室にいて

党派性が丸出しの 身内受けだけを考えた

そういう美術展を わたしは開催したい

2019-06-29

愛知に住んで4年近くたつが、どうもこの土地・人が好きになれない。

今まであまり住む場所に対してこだわりのないタイプだと思っていたことと、普段はむしろ嫌われる側をあえて好きになるようなことが多いので自分でも戸惑っている。

方言とかもむしろ好きな部類だと思っていたが、名古屋弁三河弁は好きじゃない。品がない。

というか、なにについても品がない、というのが一番嫌悪感を感じているところかもしれない。

高級感・品性を上に見せようとしてそれが裏目に出る感じか、むしろ品性の欠片もないか二極化しているような印象がある。

本当に愛知県民には申し訳ないし、そうでない人ももちろんいることはわかっているが、何が好きになれない原因なのか考えていくとこれになってしまう。

さらにこの前調べていたら、名古屋市の市章の「まる八」マークというのは南方から渡来してきた「八(ヤ)の者」という民が由来であるというような記事も見て、眉唾ではあるけれども少し信じてしまった(名古屋市章は「末広がり」であるとか尾張「オハリ」のハであるとかそういった理由公表されているがしっくり来ていなかった。)

自分の中にこうして差別的感情が出てきていることに対しても、びっくりしている。

2019-06-26

anond:20190625123610

三河について言及している人がいるが、世の大半は三河尾張差異認識していない。

2019-06-21

anond:20190621164358

名古屋ってわりとおかあさん的おだやか味です。

朝ごはん食べる喫茶店なんかはわりと穏やかなあじけがおおいですよ、

赤味噌は苦甘しょっぱ酸っぱいけどこれは汗書いた時にものすごくおいしいのと

あんかけスパゲッティちょっとスパイシーに感じるくらいで。

 

特筆すべきスイーツというと岐阜栗きんとん文化圏が近いか

栗100%栗きんとんのおひねり型のが秋になるといろんなデパ地下で売ってます。 

赤福栗きんとんならべてたべる贅沢ってそういえばやったことないな、形が似てるのに)

 

尾張紀州徳川家の影響が強く残ってるせいか

子供会とかでお茶たてて飲む茶道文化がけっこう残ってます

お寺も京都をさしおいて愛知が全国で一番多いらしい。

そのせいかちゃんとした高級和菓子店がわりといろんなところにあります

県外でやけに有名な「ういろう」なんかもその1つでしかない印象があります

2019-06-11

ポケモン水戸黄門の違い

 ポケモン水戸黄門
御三家くさ・ほのお・みずから1匹選択紀伊尾張水戸から水戸選択
バトル開始ピカチュウ、キミにきめた」「助さん、格さん、こらしめてやりなさい」
敵の屈服のしかたモンスターボールに入る印籠が目に入る
人生観いつもいつでもうまくゆくなんて保証はどこにもない人生楽ありゃ苦もあるさ
仲間を増やして次の街へいつものお供と次の街へ
赤・緑・青など

2019-04-16

ノートルダム大聖堂ってエレベーター無かったらしいね

博愛精神をうたってる割には差別的建物だったんだね...

バリアフリーのバの字も無いじゃん

まあ焼けたのもいい機会だと捉えて、再建する時はみんなが塔に登れるように最新のエレベーター取り付けようよ

名古屋城みたいになったら尾張だよ

大阪城のような人権的に先進的な事例を参考に再建してほしい

どうせ一度焼けたら二度と元に戻らない

あのノートルダム大聖堂は二度と戻ってこないんだから

姫路城と違ってどうあがいても紛い物にしかならないんだから、せっかくなら歴史よりユニバーサルデザイン新大聖堂の売りにしようよ

2019-03-08

「過ぎたるものが二つあり」集

家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八

「唐の頭」とは唐物中国製)の珍しい兜のこと。

追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。実は三河武士あいだでやたらと流行っていて十人いたら七・八人は唐の頭をつけていたと言われており、というのも唐の頭を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。

本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。

三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。

家康に過ぎたるものが」はその活躍を称賛した落首である

治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近佐和山の城

治部少は石田三成(1560生)のこと。

島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。

関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。

佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。

駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠

富士のお山」とはもちろん富士山のこと。

白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。

大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。

本所に過ぎたるものが二つあり 津軽屋敷に炭屋塩原

本所とは東京都墨田区地名

津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。

火災ときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所不思議」として知られている。

「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。

明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。

亀山に過ぎたるものが二つあり 伊勢屋蘇鉄に京口御門

亀山とは、現在三重県亀山市にあった、東海道亀山宿のこと。

伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。

現在亀山市の文化会館移植されている。

京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。

坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。

岩槻に過ぎたるものが二つあり 児玉南珂と時の鐘

岩槻藩は埼玉県さいたま市にあった小藩。

児玉南珂」(1746生)は高名な儒学者

祖父江島生島事件江島の弟だったため甲斐流罪となり、南柯は甲斐で生まれ岩槻藩士養子となった。

儒学を学んだ南柯は、藩の要職歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。

「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。

改鋳されたもの現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。

青山に過ぎたるものが二つあり 鳶の薬缶に原宿山車

青山東京都港区の地名

「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。

本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。

原宿山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。

都座に過ぎたるものが二つあり 延寿太夫鶴屋南北

都座とは江戸にあった歌舞伎劇場の一つ。

「延寿太夫」とは、歌舞伎伴奏音楽として発展した浄瑠璃清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。

鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。

一ノ関に過ぎたるものが二つあり 時の太鼓建部清庵

一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在岩手県一関市にあたる。

「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。

建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。

八代に過ぎたるものが二つあり 天守屋根乞食の松

これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。

八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの地名から松江城」とも言う。

熊本藩本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である

その気兼ねもあったのか、城は未完成放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年落雷消失した。

乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明

保土ヶ谷に過ぎたるものが二つあり 苅部清兵衛に花見寿司

保土ヶ谷とは、現在神奈川県横浜市にあった、東海道程ヶ谷宿のこと。

「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。

花見寿司」は程ヶ谷宿名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。

挙母には過ぎたる物が二つあり 大手御門に海老名三平

挙母とは、現在愛知県豊田市にあった小藩のこと。

挙母城は、三河尾張美濃信濃遠江伊勢近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。

海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名当主名跡で、落語家のことではない。

岸和田に過ぎたるものが二つあり だんじり祭りに千亀利のお城

岸和田とは、現在大阪府岸和田市にあたる岸和田藩のこと。

だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。

「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣1827年に焼失している。

鴨方に過ぎたるものが三つあり 拙斎 索我 宮の石橋

鴨方藩は備中の小藩で、現在岡山県浅口市にあたる。

「拙斎」とは、儒学者西山拙斎(1735生)のこと。

松平定信に「昌平坂学問所朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。

「索我」とは、絵師田中索我(1742生)のこと。

京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。

「宮の石橋」とは、鴨神社参道にある石橋のこと。

川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。

京極に過ぎたるものが三つあり にっかり茶壺に多賀越中

京極とは、讃岐丸亀藩主の京極家のこと。

「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。

「茶壺」とは、二代目藩主京極高豊が好んで収集した、陶工野々村仁清の茶壺のこと。

多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀当主名跡

三原には過ぎたるものが三つあり

三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在広島県三原市のこと。

その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。

三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用許可された「葵の御紋」。

日光東照宮工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。

安中に過ぎたるものが三つあり

安中とは、現在群馬県安中市にあたる安中藩のこと。

「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。

現在も名所とされる「安中杉並木」。

第六代安中藩主板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。

桜田に過ぎたるものが二つあり 火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛

桜田東京麻布のあたり。

「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。

箕輪の重兵衛」は桜田町の名主を代々務めたという家の名跡

永坂に過ぎたるものが二つあり 岡の桜と更科蕎麦

永坂は現在東京麻布永坂町のこと。

「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。

更科蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。

保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森要蔵

保科とは上総国飯野藩主の保科家のこと。

「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。

「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。

この飯野藩保科家の江戸屋敷麻布網代にあった。

森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、

更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、

蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、

同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。

高取に過ぎたるものが二つあり 山のお城に谷の昌平

奈良まれ儒学者森田節斎の言葉であり、高取とは現在奈良高取町にあたる高取藩のこと。

「山のお城」は高取城のこと。

日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。

「谷の昌平」とは、幕末儒学者・谷三山(1802生)のこと。

若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。

新城に過ぎたるものが二つあり 前の小川太田白雪

新城は、現在愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。

「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在存在しない。

太田白雪」(1661生)は、地元名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。

土浦に過ぎたるものが二つあり 刻の太鼓と関の鉄砲

土浦藩は、現在茨城県土浦市にあたる小藩。

「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。

「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。

下総に過ぎたるものが二つあり 成田不動に久保木蟠龍

下総下総国のことで、現在千葉県北部茨城県西部のあたりを指す。

成田不動」とは、言わずと知れた成田山新勝寺のこと。

久保木蟠龍」とは、儒学者久保木清淵(1762生)のこと。

伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。

金沢に過ぎたるものが二つあり 刀正次 兜興里

金沢はもちろん現在石川県金沢市、加賀藩金沢城下のこと。

「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。

そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。

しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。

悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎演目になっている。

「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。

番町に過ぎたるものが二つあり 佐野の桜と塙検校

番町とは、東京都千代田区地名

佐野の桜」とは、旗本佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。

「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。

秋元に過ぎたるものが二つあり 無の字の槍と岩田彦助

秋元とは、現在埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。

「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。

岩田彦助」(1658生)は、川越藩家老を務めた儒学者のこと。

松山に過ぎたるものが二つあり 河原布衣徒に千秋の寺

松山は、現在愛媛県松山市にあたる伊予松山藩のこと。

河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。

千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。

谷田部に過ぎたるものが三つあり 不動並木広瀬周度 飯塚伊賀

谷田部は現在茨城県つくば市にあった谷田部藩のこと。

「不動並木」とは、谷田部藩主細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。

広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物

飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学知識を得ていたとも。

徳山に過ぎたるものが三つあり 藩主墓所と桜の馬場奈古里人

徳山は、長州藩支藩で、現在山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。

藩主墓所」は、徳山毛利家の菩提寺である福山大成寺にある歴代当主墓所のこと。

「桜の馬場」とは、初代藩主毛利就隆によって作られた藩士の調馬場のことだが、数百本の桜が植えられて名所となった。

奈古里人」(1671生)は、万役山事件に伴う徳山藩改易の際に活躍し、徳山藩再興運動の中心となった人物

2018-11-28

昨夜の名古屋栄での出来事を詩にしたためた

名古屋栄の夕闇に 今日ネオンが光りだす

DQNがたむろす交差点 嬢の見送りセダン

ドリンクプッシュを断れず 潤う尾張経済

名古屋巻きへと形変え 金のシャチホコ光り増す

ポン引き規制の波もなく キャバクラオッパブガールズバー

腕を引かれてゆく先は カルティエコーチ名古屋

パネマジフォトショはご愛嬌 咲かせて見せましょ栗の花

2018-09-11

息子の就活

息子が東京大学に入り、現在、4年である。無事に内定を得て、来春から名古屋に帰ってくることになった。

偏差値的な観点から東京大学へ行ったのではあるが、

結局、名古屋本社会社に勤めるのであれば、初めから愛知県内の大学に進学していてくれればと思う。

内定を得た会社も、名古屋市内の複数大学内定を出している。

学んだ学問も、別に名古屋市内の大学にもあるし、それぞれのカリキュラムや授業シラバスをみるとそれほど違いがあるとも思えない。


私の勤め先でも、別に何大を出ようと、内定を出すのは人物本位であり、

偏差値10高かろうが、5低かろうが、正直なところ関係ない。

仕事も、英語ができるとか、コンピュータが強いとか、人受けが良いとかはひとそれぞれであり、大学偏差値によってきまるものではない。


娘は名古屋市内の大学に通う。


息子には仕送り10万×12ヶ月+学費95万=216万、たぶん細々とあるので、250万ぐらい

娘には小遣い月3万×12ヶ月+学費53万=89万、こっちは細々がなく、アルバイトでよく稼いでいる

年間150万以上の差があるが、これを埋める経験学習の違いがあるのか、正直なところ疑問である

アメリカ高校生は、無理に高レベル大学を狙わず、まずは手近で、州民ならば学費が安くなる州立大学へ行くというが、

日本だんだんそうなってくるのではないだろうか。東京関西によほどの魅力がないと、親が子どもを出さないようになると思う。


あと2年もしないうちに、メインの子育ては終わりそうだが、偏差値予備校と塾の良い商売ネタという感じですね。

専門家でもないので、いい加減ですが、いま思えば、偏差値小数点第1位まで出すのは正気の沙汰とは思えない

ざっくり5段階か6段階くらいに分けたら、あとは地域、専門、校風ぐらいで考えるのが、よいと思う。

以上、雑感。


追記

都内勤務が確実な会社から内定ももらったようですが、名古屋に帰るそうです。彼曰く「東京でないとダメというコト、モノ、場所は、ボクにはなかった」だそうです。ちなみに私たち両親はもともと名古屋地元ではないので、名古屋に帰ってくることにまったくこだわりはない。

名古屋に帰るということで、2年間付き合った同じ学部彼女とは、風前の灯火状態らしい。これに関しても、「残念ではあるが、仕方ない」だそうです。

・勤め先で大学はあまり関係ないと書きましたが、いま流行りなのか高校の水準はかなり参考にしているようです。これについては名古屋にて会社(授業員400人くらい)を経営する友人が、尾張地区であれば○○高校以上を採用する方針会社に暗にあると言ってました。けっこう、こういう会社いかもしれませんね。

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