はてなキーワード: 最上とは
子供の頃、生き物が大好きで将来は生き物博士になるんだ~とか無邪気に言ってたけど、
「お前は博士になれる人間じゃない、博士なんて稼げない、穀潰しになる為にお前を生んだんじゃない」って言われ始めて、
最終的には大学進学すら絶対反対されて断念、地元でちょっと有名な企業に高卒枠で入社した。
その当時は随分恨んでいたけど、
今となっては日本で成功できる知識職はアメリカの最高学府レベルで実績を残せるようなトップエリートの理工系か、
人々に適切な攻撃対象を提案し続けられる山師みたいな左翼人権派社会学者だけってのが分かってしまった。
政治的にも生物学なんて実益のない分野は選択も集中もしてくれないっての理解している。
貴重な資料を収集して博物館に収めたところで、維持管理費の無駄として破棄される。
働きだして分かったが、そもそも私はまっとうに四大に進めるような人に比べて頭が悪すぎるし、
働き始めないとそのことにも気付かない程度には無能だった。
例えそれがどんなに好きな分野であっても一端の者になることはできなかっただろう。
大学に進学せず、競争倍率の低い地元企業の高卒枠を使っての就職は、
私が人生で選択しうる最上最高にして唯一の選択肢であったと今は強く確信しているし、
当時の私の未熟な思い込みによる間違った選択肢を取り除いてくれた親には感謝しいている。
ネットでは親の意見にさからって我道を突き進むことが褒めそやされるけど、
田舎には文化がないだの、都会にある文化は消費するものに過ぎないだろという論争があるが、私は今回の記事に結構共感した。
映画とか展覧会とかが趣味の人間に田舎は辛い。ウィンタースポーツとか山とか海とかが趣味の人は田舎も楽しめるのかも。
もう一つ、田舎は医療が進んでいない。このことも訴えたくて記事に乗っかってみた。
転勤で田舎(富山の東側の方)に来たのだが車の免許を持っていない。これは免許を持ってないのに転勤を命じた会社と見通しの甘い私の両方悪い。
そのため、映画に行きたくてもそもそもIMAXなど存在しない。もちろんスタバもない。
映画、展覧会をネットで探しだし、または買い物に行こうとしたら、まず日を決めて、天気を調べて、交通ルートを調べて、帰りの時間を調べて、もしものために代替案も検討し帰りの時間を気にしながらやっと出発となる。
そのため、会社帰りにレイトショーやウィンドウショッピング、こんなイベントやっているんだちょっと行ってみよう、今日は疲れたから外食しよう、とかいうことは不可能。
これは車を持っていても難しかったかも。そもそも情報を得る機会がないのだから。
富山は良い車に乗り、結婚して男の子を産み二世帯住宅を建てることが至上であり、閉鎖的で常に体裁を気にする。人の噂と陰口が最上の娯楽である地域も多い(違う富山の方、ごめんなさい)。
私は車もなく独身で他県出身、趣味は読書と映画と展覧会やコンサート、とにかく周りと違いすぎていじめぬかれ、現在は適応障害を発症して地元で療養中である。
地元に戻って驚いた。
人が歩いている。誰も私をじろじろ見ない。
駅に行けばイベントやいろんな社会問題に対する啓発のポスターまで貼ってある。
そしてお店の人が丁寧で情報が正しい。
思えば富山のお店は総じてものが高いし、商売がいい加減だった。店舗数が少なく競争がないからだと思う。
かなり前に富山人は嘘つきだというダイアリーがあったが、この辺に端を発しているのだと推測する。
そして私は今地元で、前述の適応障害のためメンタル系と持病の婦人系の病院にかかっているのだが、診断が的確で早くて本当に驚いた。
富山でなんとなく診断されたいくつかの病名は、地元の医者に即否定され、早々にカウンセリングの予約もできた。
多分田舎は、科によっては医者自体に実地に基づいた知識が少ないのだろう。
メンタルクリニックならそこにかかるという発想がそもそもなく、症例も少ないのだろう。
ちなみに婦人科の方は、富山に行ってすぐ、私が住んでいた市唯一の産婦人科に薬をもらいに行ったところ、その病気自体医者は知らず、一から説明するはめになった。これも衝撃的な思い出である。やれやれ。
田舎には文化がないだの、都会にある文化は消費するものに過ぎないだろという論争があるが、私は今回の記事に結構共感した。
映画とか展覧会とかが趣味の人間に田舎は辛い。ウィンタースポーツとか山とか海とかが趣味の人は田舎も楽しめるのかも。
もう一つ、田舎は医療が進んでいない。このことも訴えたくて記事に乗っかってみた。
転勤で田舎(富山の東側の方)に来たのだが車の免許を持っていない。これは免許を持ってないのに転勤を命じた会社と見通しの甘い私の両方悪い。
そのため、映画に行きたくてもそもそもIMAXなど存在しない。もちろんスタバもない。
映画、展覧会をネットで探しだし、または買い物に行こうとしたら、まず日を決めて、天気を調べて、交通ルートを調べて、帰りの時間を調べて、もしものために代替案も検討し帰りの時間を気にしながらやっと出発となる。
そのため、会社帰りにレイトショーやウィンドウショッピング、こんなイベントやっているんだちょっと行ってみよう、今日は疲れたから外食しよう、とかいうことは不可能。
これは車を持っていても難しかったかも。そもそも情報を得る機会がないのだから。
富山は良い車に乗り、結婚して男の子を産み二世帯住宅を建てることが至上であり、閉鎖的で常に体裁を気にする。人の噂と陰口が最上の娯楽である地域も多い(違う富山の方、ごめんなさい)。
私は車もなく独身で他県出身、趣味は読書と映画と展覧会やコンサート、とにかく周りと違いすぎていじめぬかれ、現在は適応障害を発症して地元で療養中である。
地元に戻って驚いた。
人が歩いている。誰も私をじろじろ見ない。
駅に行けばイベントやいろんな社会問題に対する啓発のポスターまで貼ってある。
そしてお店の人が丁寧で情報が正しい。
思えば富山のお店は総じてものが高いし、商売がいい加減だった。店舗数が少なく競争がないからだと思う。
かなり前に富山人は嘘つきだというダイアリーがあったが、この辺に端を発しているのだと推測する。
そして私は今地元で、前述の適応障害のためメンタル系と持病の婦人系の病院にかかっているのだが、診断が的確で早くて本当に驚いた。
富山でなんとなく診断されたいくつかの病名は、地元の医者に即否定され、早々にカウンセリングの予約もできた。
多分田舎は、科によっては医者自体に実地に基づいた知識が少ないのだろう。
メンタルクリニックならそこにかかるという発想がそもそもなく、症例も少ないのだろう。
ちなみに婦人科の方は、富山に行ってすぐ、私が住んでいた市唯一の産婦人科に薬をもらいに行ったところ、その病気自体医者は知らず、一から説明するはめになった。これも衝撃的な思い出である。やれやれ。
育児中にベビーカーを押して、移動がエレベーター縛りになったが、都会のエレベーターは全く乗れなかった。
いつもぎっしり、優先エレベーターと書いてあるのに誰一人として譲らない、運良く降りてくれても一人で、あとから来た人がどんどん乗っていく。
夫親族との百貨店お食事会で早く着いたし子供服フロアで時間を潰してから最上階の店に行こうと降りたのが運の尽き、エレベーターに乗れず何十分、あんなに移動ができないとは思わなかった。
駅からの移動中に乗った専用エレベーターでも、壁一面にベビーカー車椅子のマークが描かれて、車椅子ベビーカー専用エレベータですとアナウンスが鳴り続ける中で、普通に乗っている人達にも驚いた。
ネット見てたら大体の人が他人事だと思って、車椅子ユーザーが愚痴ったら叩いてるが、親が要介護になったり、自分の老後に、誰だってエレベーター移動しかできない身分になる可能性は高い。
このままド底辺マナーのままだと高齢化に伴って移動できない人が溢れてしまう。
エレベーターを車椅子ベビーカー専用にするか、ベビーカー車椅子が居たら降りて譲るるように促すエレベーターガール的なAIロボでも搭載するか、エスカレーターを全て坂道タイプにして車椅子ベビーカーでも普通に乗れるようにしたほうがいい。
私は都知事選挙で、蓮舫さん、安野さん、石丸さんの3人の候補者の間で悩んでいましたが、最終的には石丸さんに投票しました。
子供がいるため、彼女が大人になる頃には、より良い東京、日本になっていることを願っています。
==
日本や東京が今後どのようになるかは多くの点で不確かですが、明確に分かっているのは、人口が減少するということです。
これにより、経済的負担の増加、社会保障制度の逼迫、教育・福祉サービスの質の低下など、多くの面で現在よりも負荷が高くなることで、どれだけ所得が増えたとしても、今より息苦しい世の中になるのではないかと感じます。
そのため、人口減少を可能な限り緩やかにし、食い止め、逆に増やすようなアプローチが必要だと考えています。これは時間がかかることなので、今の利益よりも未来への投資として東京都知事選挙を捉えました。
==
日本の2023年の合計特殊出生率が1.20である一方、ニジェールは6.73、アンゴラ、コンゴ、マリなどのアフリカ諸国は5を超えています。これらの国々の多くは社会情勢が安定せず、経済的にも発展途上です。また、平均年収は男女ともに東京が1位、沖縄が最下位である中、出生率はその逆になっています。
平均年収ランキングでは東京が最上位である一方、出生率は沖縄が1.60で、東京は0.99です。
何が言いたいのか、これらは地域のカルチャーや構造が出生率に大きく影響していることを示しています。子育て支援や所得増は重要ですが、それだけでは根本的な解決にはならず、短期的な視点ではなく中長期的な視点が必要です。
具体的には、東京だけでなく全都道府県で見なければ意味がありません。全都道府県で出生率が上がることが東京にも結果的にプラスになると考えています。そのためには構造を大きく変化させる必要があります。
==
石丸さんは、将来への投資としての政策を掲げていたため、私は彼に投票しました。
本来、これは国が行うべきことかもしれませんが、私は期待していないので、都知事選挙で未来を見据えた選択をしました。このまま目先の利益だけを考えて選択し、未来に負担を引きずりたくありません。無理でもいいので、一縷の望みにかけての選択です。
==
応援している候補者の良いところだけを見て、それ以外の候補者の悪いところを掬い上げることがあります。しかし、蓮舫さん、安野さん、その他の候補者にも良いところがたくさんあるので、ぜひ見てください。
武蔵小杉のタワマンから落ちてくる花瓶をヘルメットで壊す仕事をしている。
当たり前だが、花瓶が頭に当たるととても痛い。
だが1花瓶当たり500円もらえるので、我慢している。
1日当たり平均50花瓶落ちてくるので、25,000円の報酬だ。
1日30,000円を30日行えば、なんと90万円の月収だ。
その報酬は武蔵小杉のタワマンの最上階に住んでいる物好き老人から支払われる。
この物好き老人が老後の楽しみとして花瓶を落としているのだ。
だが歩行者などに当たっては危ないため、俺のような人間を雇い、事故を防いでいる。
もし俺がその事故を防げなかったら?
その罰は俺に降りかかることとなる。
老人が落とした花瓶の罪は、俺が被ることになる。
そういう契約を俺は老人と交わしている。
ある日
(早送り⏩)
そうして、俺は武蔵小杉のタワマンから花瓶を落とすようになった。
毎日平均50の花瓶を落とし、雇った若者がそれをヘルメットで壊す。
これが俺の余生だ。
あなたがタワマンから投げた数多の花瓶、それが時空の歪みを生み、あなたの頭に当たるとは。
その謎、俺が必ずや解いて見せます。
私はタワマンから花瓶を投げますが、ちゃんとヘルメットをしている。
負けない。俺は負けない。
来い、花瓶よ!
俺がお前を闇に葬ってみせる!!
花瓶に水をあげましょう
心のずっと奥の方
そのホワイトナンチャラドラゴンが、人種的には黒人より更に下のアジア人の中でもぶっちぎりの最底辺である日本人が、ヒエラルキー最上位の白人アメリカ人様のアイディアをパクって産まれたものって知ったら、白人アメリカ人様以外全員発狂しそうな点もお笑いポイントが高いな
身近な例、知人レベルの例を見るに性的魅力の最上位に君臨する女子ってことごとくエグい目に遭わされてた。
早朝、自宅前で学年屈指のガチDQNに出待ちされたり(毎日毎日父親が追っ払っても無視)。
友達だと思ってた地元の男にある日突然監禁されて10日間レイプ凌辱三昧され、以降爆サイで書かれるような有名ヤリマンになり、監禁当時の記憶を初対面の増田に楽しげに語る元ジュニアモデルの美人とか。
突然攫われて犯されまくって撮影されて情婦にされた、みたいな被害体験や噂がある美人は知ってるだけで他にもいた。
レイプされ"かける"まで広げるとマジでかなりの高確率で経験してた。特に爆乳の人。反社界隈から徹底的に逃げてもバイト先の普通の同僚や社員が豹変してやられかけるとかの事例が多い。
バクサイと呼ばれるSNSをしている若者が実行主体であり、極めて分かりにくい一戸建てやマンションの中に指令者が潜伏し、ターゲットに察知されないよう秘密裏に連絡を取り合い
待ち伏せ等、どのような行動を取るかを決定している上、最終的に人工知能の動画プログラムを当該場所にリモコン送信する機序は、全国の高級マンションの最上階に住んでいる年寄りが
判断し、付近にいる警察車両の中から無線通信によって可能とするものである。形式的かつ無差別、自動的に実施しており、事情を知らない女性や子供を巻き込みかねない極めて悪質な
家庭環境にも、交友・恋愛関係にも、問題はないはずなんだけど、常に愛情や承認に飢えている感じがして本当に辛い。
恋愛にしても友人関係にしても、深い関係になる人数が少ないせいか、各々に対して異常なほど重い感情を抱えちゃうから、いずれ破綻する。(たまに破綻せずずっと仲良くしてくれる人もいるため、なんとか生きていられるけれども。)
他人にそんなことを言っても仕方ないから言わないけど、恋人と友人には、自分以外の人間と一切話さないで欲しいとすら思っている。重すぎるから絶対に言わないけど。自分の友達同士が仲良くしているのを見るのはむしろ幸福だからそれはいいんだけど。
正常な人間関係を維持するため、この重感情を口にしておらず(また、口にしてはならないと理解しているため)、結果的に自分の求める愛情と、受け取る愛情が一致せず、際限のない依存ループにハマっているような気がする。
・友人の数を増やす⇨多くの人が、自立するとは依存先を増やすことだと主張している。根本的に性格を直すより現実的な解決策になりそうだと感じる。
・共依存できる人間を作る⇨長期間安定した人間関係を築くためには非推奨な感じはするが、とりあえずは気持ちよくなれそう。
学歴、勤め先、容姿など、全て最上位層には及ばないが、社会的にはそれなりに高い評価や尊敬を得られる位置にはある。
しかし、周りからは褒められても、上の上を知っているため、自己評価と(何も知らない部外者からの)他者評価に乖離が生じる。よって、これまた際限のない上昇欲で死にそうになる。より高い評価が欲しくて七転八倒する羽目になる。
・"競争"を降りる⇨無理。
「好きと良いは違う」に対して還元主義(?)的に考えていった結果、良いと悪いは好き嫌いの多数決でしかないのではないかという結論に至った。
この服はなぜ良いのか?
着心地が快適だから。なぜ着心地が快適だと良いのか?快適である状態は良い事だから。快不快の問題だ。
かっこいいから。なぜかっこいいと良いのか?そもそも「かっこいい」の定義は?かっこいいものを身につける事は精神的充足に繋がるから。かっこいいとは見ていて嫌悪感を抱かず、むしろ快楽や憧れの念を抱かせるような事である。快不快の問題だ。ちょっとトートロジーめいてる気もする。
安いから。なぜ安いと良いのか?可処分所得の減少が少なくなるから。なぜ可処分所得の減少が少ないと良いのか?可処分所得の消費による購買の機会を増やし、効用の追求機会が増えるから。快不快の問題だ。
高いから。なぜ高いと良いのか?高額な消費であればより大きな効用を得られるだろうという誤謬めいた判断が快楽をもたらすから。高額の消費、及びそれを誇示する服を着ることが収入の高さ、引いては社会的評価の高さを示唆し、自尊心の向上や社会的承認が得られるから。快不快の問題だ。
もっと言えばエシカルコンシャスネスだとか、造形の斬新さや精緻さ、テーマ性の反映度合いや精神性が云々だとかいくらでもあるけど、それらを測る評価軸はどこから湧いて出きたのかという事になる。
いずれの評価軸も快不快、好き嫌いの問題へと収束していくはずだ。デニムなんかで着心地が悪いからこそ「良い」みたいな美意識もあるだろうけど、それも然りだろう。
いつからかあってこれからもあり続けるであろう自然法則を所与の前提として持つ自然科学と違って、何が良いかという判断においては意図的に何かを前提として置かなければならないのだから、感覚的な部分に頼らざるを得ないのは当然に思える。
ただそれだと必ずしも多数派に支持されない「権威」の存在の説明がつかない。
ハイメゾンの攻めたコレクションを見て賞賛を送る人間は多数派だろうか?もっと定量的にいけばジャンルを変えてトマトメーターでも見れば分かるけど、権威と大衆の意見は必ずしも一致しない。それなのに権威の意見が良し悪しの評価に無影響だとは受け取られていない。
謎すぎる。
世界共通の自然法則に支配される存在であって、かつ誤差みたいな個体差はあれどほぼ構造も似たような生き物同士なんだから、何かしら共有されている本質的な感覚があるのだろうか。
それはまああるか。
様々なノイズを除去しながら、そういった本質的なものを見極めて評価の対象物と照らし合わせる技能を持った人間が伝導師として権威を握っているんだろうか。
ただ人類の共通の感覚って言ったって大枠のものに過ぎない気もする。ドブ川の水を啜って美味いと感じる人間は多分いないだろうけど、椎茸を美味いと感じる人間もいれば嫌いな人間もいる。
アレルギーでもなきゃ、食わせ続ければいつかは美味しさを「理解」して好きになるのか?
宗教規範から脱却したように思えてその実人々が未だ様々な信仰に基づいて生きている点は全く変わらないように、本質主義だとか教養主義だとかが社会の中で生き永らえているだけの話なのか?
多数派が好き(あるいは嫌い)だと思わないようなものについても、新たな価値判断の基準を提示して「言われてみれば、確かに……」という共感を呼び、考えを変えてしまうような魔力を持った主張の出来る人間が権威を握るのか?常にそれが達成される訳ではないにせよ。
論理的に分析してみた所でそれが良いか悪いかは論理ではなく基準の問題なので、共感の方が重要に思える。
基準に沿った判断は合理的にやっていけるけども、基準そのものの妥当性はより上位の基準でしか判断出来ない。好き嫌いというのは恐らく最上位の基準であって、それ以上の基準はなく共感によって一変してしまうのかもしれない。
これなら原則として良い悪いが好き嫌いの多数決によって決まるという説の中でも得意的に良い悪いへの影響力を持つ事がさほど矛盾しない気がする。一番しっくり来るかもしれない。
哲学の世界ではとうにこんな議論もグチグチと交わされてるらしいけどおれの中では前向きなニヒリズムが一番納得感があるし、それ以上の理屈を求めようという気にもあまりならない。
勉強は結構好きだったから頑張ってたけど、欲しいものとか行きたい場所とかが皆無だった。
今考えると勉強以外の何かに対する興味関心がものすごく薄かったと思う。
仲がいい友達もあんまりいなかったから大抵一人で授業受けてたし、当然のように恋人もいなかった。
ただ大学院に進学したときに地方の学会発表がきっかけで旅行の楽しさに目覚めてちょっといいカメラが欲しくなって
一時期だけ日雇いバイトをしたことがあった。大学時代のバイト経験まじでこれだけ。
というか厳密にいうと学内のバイトはめっちゃしてた。TAは上限ぎりぎりまでやってたし自習室の受付?とかオープンキャンパスの手伝いとか、、
タイトルみたいな反応する人の中で学内のバイトってきっとバイト経験に入らないんだろうな、と思うからなかなか言えないけど。
その収入で自分の小遣いとか食費はギリギリ賄ってた。家賃は親に出してもらってたからそれで問題なかった。
あ、映画は好きだったから月一くらいで観に行ってたな。逆に言うとそのくらいの頻度でしか観に行く余裕がなかったんだけど、、、
でもそれでなんの問題もなかった。映画に行ったときに一緒にドトールとかベローチェに寄るのが数少ない楽しみだった。
金が無いからめちゃくちゃ図書館利用してたけどあれも楽しかったな。図書館の前にでっかいブロッコリーみたいな木が生えてて可愛かった。
図書館の選書ツアーもよく参加してて、本屋さんに行って自分が読みたい本を片っ端からかごに入れてくのが最高に楽しかったし嬉しかったな。
大学院卒業して就職した後にあたりまえなんだけど月に数十万単位でお金が振り込まれるのが衝撃だったな。
そのあとで大学院時代に使ってた銀行の残高見たら2万円くらいしかなくて笑ったのを覚えてる。よく生活できてたよな、っていう。
大学生の時に当たり前のよう異性とくっついては離れてを繰り返して、バイトも沢山して、友達と飲み会して、旅行行って、、みたいな生活を
この迷文を読むと
不幸には優劣があり
愛する人や身近な人を失った人は誰からも尊重されて大目に見られるべきな最上位不幸カースト
ありとあらゆる場面で優遇される、当たり散らしても許される
かたやワイのような生まれながらの発達障害は生きてるだけで罪だもんな
障害のせいで大鬱にも何度かなってるけど、それでも同情されない
発達障害は毎年死んでるけど、誰も気にしない
同じ不幸ならこの人みたいに
「誰にでも自分の不幸を振りかざして怒り当たり散らせる」
「誰にでもヨシヨシしてもらえる」
そんな不幸が良かった。ワイは不幸カースト低すぎ
身近な人を失った人って
こんなに尊大になっても許されるのか
正義ぶって他人を叩きのめせるのか、その上で自分は正義の使者だと酔えるのか
いいなあ、ワイもほしいその不幸
欲しい欲しい欲しい
ワイのような不幸には「さわんなゴミが!!」ぐらいに思うんやろな