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はてなキーワード: 皇国史観とは

2023-09-07

anond:20230907110640

まあ保守を自認する人が軍国主義皇国史観批判することも…あったっけ。あったはずだよな。

2023-01-02

宗教国家でもなく科学主体資本主義国家皇族を頂点とした政治体系って割と歪な気がする

もし俺なら皇国史観教育を充実させて愛国戦士の育成に励むのだが今はその真逆で実利主義科学思想教育をしているか天皇制度と噛み合ってない気がするんだよなぁ

実利主義科学志向を突き詰めると皇族存在に疑問を覚えるんだよなぁ

どの家も日に丸掲揚する社会にしないと国家の存続は危ぶまれると思うが如何に

2019-09-12

旭日旗ハーケンクロイツの違い

旭日旗

「太陽」「晴れ」を意匠化したもの

元は縁起物として家紋などに使われてきた。

1870年大日本帝国陸軍軍旗採用された。

これは日章旗日の丸)と菊の御紋を組み合わせたもので、

一般的旭日旗の光線が十六条なのは、菊の御紋(十六葉八重表菊)に由来する。

1889年には大日本帝国海軍軍艦旗としても採用された。

戦後、軍の解体に伴って「軍旗としての旭日旗」の歴史は途切れたが、

1954年自衛隊が発足するにあたり、帝国軍旗を受け継ぐ形で自衛隊旗として採用された。

近年、「韓国旭日旗批判2011年以降に作られた新しいもの」との風説があるが、

韓国中国過去ニュースを見ても、それ以前から日本軍国主義を思い起こすもの」として、

旭日旗批判的に認知されてきたのは間違いない。

ただし韓国における「戦犯旗」という蔑称2012年頃につけられたものである

ハーケンクロイツ

鉤十字

ヒンズー教仏教など、古くからさまざまな宗教民間信仰で「幸運の印」などとして用いられてきた。

1900年から、「アーリア人」がヨーロッパ人共通祖先であるという思想アーリアン学説)のもと、

ドイツ国内でハーケンクロイツは「最も優秀なアーリア人であるドイツ人象徴」とみなされるようになり、

1919年設立されたナチスもそれを踏まえて1920年党旗ハーケンクロイツとした。

1933年ナチス政権を掌握するとハーケンクロイツ国旗に準ずるものとされ、

1935年にはハーケンクロイツ正式国旗となった。

終戦後、ハーケンクロイツナチズム象徴とみなされ、ドイツでは公の場での使用禁止された。

1990年東西ドイツ統一以降、ネオナチ活動顕在化するにつれて、

ハーケンクロイツへの警戒も強まっている。

イギリスヘンリー王子ナチス風の軍服を着ていたという2005年問題きっかけに、

ハーケンクロイツ使用EU全域で禁止する法案が提出されたが、

これはヒンズー教徒の反対などにより阻止されている。

考察

こうして見ると旭日旗ハーケンクロイツに大きな差はないように思われる。

特に「元は平和的な図案だったが悪質な政治に利用された」といった話は双方に共通する。

ただ、ハーケンクロイツが直接的に「(悪であるナチスシンボル」とみなされるのに対し、

旭日旗は「(悪である大日本帝国軍隊シンボルであるため、やや間接的な関係に思われる。

このあたりの印象の差があり、ハーケンクロイツほどには規制されなかったのだろう。

また近年のインターネットの普及によって、各国のナショナリズム的行動が可視化されたことで、

より大きく反発が起きるようになった面もあるのではないかと思われる。

旭日旗について言えば、

明治になってから軍旗として採用され、菊の御紋と重ね合わされる「十六条旭日旗」が、

皇国史観軍国主義と結び付けて見られるのは仕方ないのではないか

仮に旭日旗使用擁護するならば、「元は平和的な〜」や「奇誠庸が〜」などではなく、

「十六条旭日旗のみ」に問題限定したり(この場合海上自衛隊自衛艦旗は変更することになる)、

思想的なシンボルではなく軍旗にすぎない」ことを強調する(この場合自衛艦旗としての利用は擁護するが平和的な場では使用を控える)、

といった点を前面に出したほうが良いのではないかと考える。

2019-01-26

例のルーベンス批判ってホイッグ史観なんじゃない?

https://tbyml.com/2019/01/25/coping-with-misogyny-in-art-history/

ココらへんとか見ると、あれコレってホイッグ史観なんじゃない?っていう疑念が湧いてくる。

ホイッグ史観が何かと言うと19世紀イギリスホイッグ党自分たち歴史の正しい側に立っており、

歴史とは進歩的な我々と遅れたあいつらの戦いである(もちろん勝つのは我々)という歴史である

そのために当時の価値観などを無視して現在価値観過去の人物等を評価断罪するのである皇国史観などもホイッグ史観の影響を受けている。

ホイッグ史批判科学史においては重要位置を占める。

なぜかといえば我々は科学の答え合わせを知っているのでどうしてもその観点から間違った科学者と、正しい科学者という二分論に陥ってしまったという過去があるからだ。

美術史についてはよく知らないがコレを読む限りではこれホイッグ史観なんじゃね?という気がする。

2018-12-22

anond:20181222003722

あー皇国史観を信じちゃってる人ね

早く目が覚めるといいね

2018-10-04

anond:20181004124438

現代においては天皇にその権限がないから。

臣民」などの時代不相応な記述があるから

それらを除いたものは(教育勅語が書かれる前から普遍的道徳観であってその教育にあたって教育勅語に頼る必要がないから。

代替可能な部分のために教育勅語をわざわざ持ち出すということは、代替不可能な部分すなわち天皇中心の皇国史観を復活させるのが本意なのであろうと推察するから

2018-10-03

ウヨ歴史に興味がない

ここ10数年、右傾化ガーとか歴史修正主義ガーと言われて久しい。

ところがウヨが興味あるのは慰安婦とか南京とか戦前戦中の話だけで、それ以前はどうでも良いらしい。

過去10数年ぐらいに刊行されてる、吉川弘文館人物叢書だの、朝日選書だの講談社中央公論社だの各社の新書とかで、古代中世日本史の本を読むと、なぜウヨ激怒発狂しないのか謎でならない。

しろ古代史では『日本書紀』は大ウソだらけ、万世一系ではなく継体天皇の代からは新王朝可能性が濃厚、任那日本府は通説よりずっと規模が小さく「日本府」って名前も後世につくられた、「大化の改新」の中身はほとんど無し、厩戸王実在したけど聖徳太子の手柄の大部分は蘇我氏の業績、藤原氏中臣氏)を美化するための誇張が濃厚、壬申の乱記述天武天皇正当化する作為が濃厚――といった調子皇国史観絶対で「記紀の内容はすべて史実!」て言ってた戦前基準じゃ許されん話ではないか

神武天皇実在した」とかドヤ顔で語ってた自民党議員は怒らないのか?

中世史も、『平家物語』の名場面の大部分は創作源氏卑劣後醍醐天皇政治的無能だったか建武の新政は失敗、戦国時代には住民虐殺奴隷人身売買が通例……とかなんとか、そんな話がフツーに記されてる。

竹田恒泰とかの「日本伝統に詳しい人」と称する連中に言わせると、近代以前の日本には中国韓国のような野蛮で卑劣な話は一切なく、この世の悪はすべて戦後民主主義せいらしいが、全然そんなことはなかったと公然と書かれてる。

やれ「歴史戦」とか言う連中は、なんでこういうここ10数年の歴史学者の成果を「ブサヨ歴史捏造だ!」と言って怒らないのかw

ウヨ連中は本当に、明治期以降か下手すりゃ昭和戦前しか興味ねえんだろうな

専業主婦とか夫婦同姓が本気で日本伝統と思ってたり、小島毅が書いてたように「明治維新が起きたのは江戸時代儒教が広まったから」とか知らんで、本気で「中国韓国儒教国家だからシカラン」とかドヤ顔してる奴多いし

でもさ、ウヨって基本的に「昔は良かった史観」だろ? それがこんな近代以前にはまったく無知でいいのか

ま、あいつら「伝統興味ない」「天皇嫌い」が本音なんだろうけど

2017-06-11

続・白紙に戻せぬ遣唐使教科書の読み比べ)

http://anond.hatelabo.jp/20170611183038

これのつづき。今回も文字数制限にひっかかったので、分割します。

  

桐原書店新日本史B』(日B 011)

一方、インドの僧菩提、林邑(ベトナム中部)の仏哲、唐僧鑑真らの外国人も、遣唐使船に便乗して来朝し、インド西域東南アジア文化を伝えた。

遣唐使船は日本人が唐へ往来するためだけではなく、外国人日本に招くためにも使われていたのです。「遣唐使」「鑑真」というのは中学生レベル用語です。しかし、この2つを結びつけて説明できる人は案外少ないんじゃないでしょうか?

ちなみに、山川の『日本史B用語集』によると、菩提僊那、仏哲という用語を載せている教科書は、唯一これだけみたいです。しか桐原書店は彼らの業績を説明するための註を設けている徹底ぶりです。入試問題になったら難問だと思いますが、大切なのはこういう人名を丸暗記することじゃなくて、東大寺大仏開眼供養会はインドベトナム出身僧侶たちも参加していた国際色のあるイベントだった、それは遣唐使船がもたらしてくれたものだということでしょう。

  

日本がしばしば新羅従属国として扱おうとしたため、両国関係はしばしば緊張した。しかし、日本遣唐使が唐において新羅人に助けられることもあった。」

これもこの教科書に独特の記述です。遣唐使新羅人に助けられたというのは、円仁著作『入唐求法巡礼行記』のことを念頭に置いているんでしょうか?

また、上掲の講談社日本の歴史シリーズから引用すると、次のような話もあります

遣唐使派遣が間遠になり、日本の船が唐まで行かないなか、それでも求法の念止みがたいとなれば、来航する新羅船を利用するしかない。そしてまた新羅商人たちは、概して好意的に彼らを助けたのであった(坂上早魚『九世紀の日唐交通新羅人』)。こうして入唐と研鑽を果たした天台真言の平安仏教旗手たちが、仏教の使命は鎮護国家にあるとする考えに則り、護国の修法による新羅調伏を担うことになったのは、実に皮肉なことであった。

  

坂上康俊『日本の歴史05巻 律令国家の転換と「日本」』

  

  

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

このころ唐では、みずから世界の中心とみなす中華思想が強まり、周辺の国々を夷狄として見下す考えが生まれていた。この考え方は日本にも影響をあたえ、朝廷新羅や、朝廷に服属しない東北九州南部の人びとを蝦夷隼人とよんで夷狄として蔑視しはじめた。

朝廷東北地方九州南部進出した経緯を説明する際、そこには中華思想の影響があったことを説明しています。それに絡めて新羅との関係にもちょこっと触れているので、先にとりあげた東大入試問題を解くときのヒントになるでしょう。

もっとも、この点はやはり、山川出版社新日本史B 改訂版』(日B018)の方が優れています。私が先に引用した箇所のすぐうしろ([後略]とした部分)では、朝廷が「東北地方蝦夷九州南部隼人異民族夷狄)として服従させ」たことを説明し、「律令国家が蛮夷を服属させる帝国であることを内外に示した」と結んでいるのです。

それに比べると、三省堂教科書は、遣唐使中華思想という2つのものを関連付けて理解することが不可能です。

  

  

  

東京書籍日本史B』(日B 004)

遣唐使8世紀には6回、9世紀には2回派遣され

実教出版にも「奈良時代遣唐使は6度派遣され」たとありますが、東京出版9世紀のことも記述していてグッド。

遣唐使は894年、菅原道真の建議で廃止されました。ですから9世紀末まで遣唐使派遣する制度は残っていたはずなんですが、8世紀と比べるとその回数がめちゃくちゃ減っていることが分かるでしょう。

理由は、日本がもはや唐から学ぶべき必要・意欲がなくなってきたこと、唐が政治的混乱に陥って衰退したことによる国威の低下、商船の往来が活発になったことで日本が唐に朝貢をしなくても舶来品を入手できるようになったこと、などです。

これがさっき桐原書店のところで述べた話にもつながっています時代が9世紀(すでに平安時代)になっても、仏教では唐に確固たる先進性がありました。だから日本僧侶たちは唐に留学することを熱望したのです。しか朝廷遣唐使派遣積極的ではなく、彼らは新羅商人の助力を得なければ、渡航が困難という状況だったのです。

  

[引用者注:702年の遣唐使派遣の再開について] その目的なかには、「日本」という国号を認めさせることも含まれていたと考えられる。

東京書籍教科書にだけある、この一文。「日本」がはじめて国際社会に登場したのがこの時点だったと言っているんです。

これ、すごいことを言っていますよ? 「日本」が太古の昔から存在したという皇国史観に対する強烈な一撃です。

ちなみに、このとき天皇」は国際デビューしていません。倭国はなんとかして「日本」への国号変更を唐に認めさせることはできても、皇帝にあたる「天皇」という称号を用いて唐と対等外交をする力がなかったのです。唐では天皇のことを「日本国王主明楽美御徳」(日本国王メラミコト)と呼んでいたようです。もしかしたら当時の日本朝廷内では、「スメラミコトは唐の皇帝に臣従したが、天皇は臣従していないか日本国王ではなく、したがって日本は唐の朝貢国ではない」という回りくどい官僚的答弁があったかもしれませんが、その点は不明です。このような高度に政治的問題は、国史編纂ときに巧妙な隠蔽がおこなわれるからです。(上掲の講談社日本の歴史シリーズ青木和夫著の中央公論社日本の歴史3巻 奈良の都』を参照せよ)

  

さて、これは東京書籍にかぎらず、多くの教科書でそうなのですが、古代史において「天皇」「日本」という表記を用いるときには慎重になっている様子がうかがえます。例えば白村江の戦いでは、唐・新羅と戦った国が「日本」ではなく、「倭」倭国」「朝廷」等の表記になっています

なぜ教科書がこんな表記になっているかというと、「天皇」「日本」という称号国号は、ある時期の特定政治状況のもと、人為的に作られたものからです。具体的には天武朝(673年~686年)のころ、大王とその国を神格化する目的で、初めてこれらの称号国号使用が開始されました。ですから、もし神と同一であるところのその「天皇」、その神のおさめる国である日本」が、天武朝より遥か昔から存在していたかのように記述するならば、それは皇国史観に他なりません。

無論、教科書では便宜的に仁徳天皇推古天皇というような表記が使われていますけど、古代史における「天皇」「日本」という表記の取り扱いについては一応注記が設けられていたりします。例えば『詳説日本史』は壬申の乱ののち、天武天皇が「強力な権力を手にし」て、「中央集権国家体制形成を進」めていく過程で、そのころに「大王にかわって「天皇」という称号が用いられる」ようになったと書いています。同社の参考書『詳説日本史研究』はそこがもっとクリティカルです。「大王から天皇へ」というコラムで、「天皇」という称号が天武朝に始まることの歴史学的な検証を載せ、唐の皇帝が一時「天皇」と称していたのを知った日本側が模倣したという説を紹介しています

こういう細かな表記へのこだわりからも、各社の教科書がどんな史観に基づいているかを見ることができるはずです。

2012-12-30

私  「ネトウヨってどういう人たちなんでしょうか?」

教授「うむ。ナチス研究したフランクフルト学派によると、統計的には低学歴・低収入若者たちが多い」

私  「なぜ、低学歴・低収入だとネトウヨに走るのですか?」

教授「彼らは社会的立場が低く抑えられているという抑圧感と欲求不満が強く、その憂さを晴らすために

    彼らの欲求不満のはけ口となる破壊的な思想や過激な宗教などに強く共感するのじゃ」

私  「たとえば皇国史観に憧れたり、ナショナリズムに目覚めたとか言うやつですね?」

教授「そうだね。ファシズム台頭こそが、彼等の復讐であり愛国心の発露なわけじゃな。

    その偏狭ナショナリズム煽りたて政治利用する扇動家が登場してナチスが出来たわけじゃ」

私  「でも、わからないんです。欲求不満の塊であるネトウヨが、なぜ民族差別に走るのでしょう?」

教授「良い質問じゃ」 ・・・・ズズズ(お茶を飲む音)

   「社会への欲求不満ナショナリズム排外主義差別主義は、実のところ表裏一体なのじゃよ」

   「まず、人間には上昇志向本能的に備わっている。それは本来、自分自身を磨いて達成すべきなのだが、

    社会から不当に低く扱われていると思い込むと、自分努力では抜け出せないという心理的抑圧感が

    高まってきて自分社会的信用を築く努力放棄してしまう。これは集団心理としても作用する。

    代わりに自分よりも価値の無い人間や国を作り出すことで充足感を得ようとする。

    自分の過失や身の不遇を常に他人のせいにしたがる人間ほど、この傾向が強いようじゃ。

    かくして血による差別が出来るんだね。日本人であるというだけで自分が優秀であるってことにすれば、

    本人は何の努力もせずに、他者に対する自己優越感を得られる」

私  「なるほど。ネトウヨというのは、因果応報人生補償行為なんですね」

教授「そういうことだね。彼らは公共心正義から動いているわけではなく、単に自分嫉妬心憎悪心・

    虚栄心を増幅させたいだけなんじゃ。本当の愛国心とは程遠いところにいる人たちと言える」

私  「人間的にはかなり未熟な人々とも言えますね。よく分かりました。ありがとうございます教授

 
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