はてなキーワード: 名誉教授とは
東大名誉教授というのは活動家という意味なのか学者という意味なのかはんだんつかなかったのぉ〜へぇえ〜そりゃたいへんだぁww
「こちらから貴方の意向を断定することはできなかった」ですね、仰られる通り決めつけよくないんで文面通り「大学教授」と解釈しました。
自分:ロックリー氏(活動家)も日大准教授なわけですし、大学教授=学者は必ずしも成立しない(元記事で学者と活動家を対として話しているので、ロックリー氏や上野千鶴子氏のように大学教授が活動家はあるある)と考えます。
まず原文の中で私は「トーマスロックリーは日大准教授である」とは言及しておらず、学者か、活動家であるかを言及していました。
それに対する返信として「上野千鶴子が東大名誉教授なのに?」と来たので、貴方の言う「東大名誉教授」という言い方が「活動家」を指しているのか、「学者」を指しているのか、「大学教授そのもの」を指しているのかこちらで判断をつけることができなかったため、とりあえず文面通りに「大学教授そのもの」を指していると考えて先の返答を書いた次第です。
書いてある以外の事を余分に察すると碌なことにならないので…
ChatGPTに以下のやり取りを解釈して貰いました。
こんにちは、以下のやり取りはどのように解釈されるか意見を聞きたいです。
「トーマスロックリーは「学者」ではなく「活動家」と呼ぶべきでは?」
ChatGPT
こんにちは!このやり取りについての解釈ですが、以下のように考えることができます。
「トーマスロックリーは「学者」ではなく「活動家」と呼ぶべきでは?」:
この発言者は、トーマスロックリー(Thomas Lockley)を「学者」と呼ぶよりも、「活動家」としての側面を強調したい意図があります。このような指摘は、ロックリーの活動がアカデミックな研究にとどまらず、社会的・政治的な活動にも大きく関与していることを示唆しています。
これに対しての反論は、上野千鶴子(Chizuko Ueno)が東京大学の名誉教授であることを指摘しています。この発言は、学者であることと活動家であることは相反するものではなく、両立するものであることを示しています。つまり、上野千鶴子が東大の名誉教授でありながら、社会活動にも積極的に関わっていることを例に挙げています。
このやり取りは、学者の定義や役割に対する異なる見解を示しており、学問的な活動と社会的・政治的な活動の境界が必ずしも明確ではないことを示唆しています。また、一人の人物が複数の役割を持つことができることを強調しています。
いや別に京都大学の教授がなんかよくわかんない枕をつけちゃうのは別にどうでもいい。
まあ確かに権威に追従する人がそういう勘違いすることもあるぽい(現にあった)からちょっとよくないのかもしんないけどな…まあでも彼の言いたい「社会の悪」はそこではなかった。
それより「毒親、そして子供時代に様々な理由で精神的外傷を受けた⼈」が「世の中の悪」の原因だってことにしちゃうのが問題だと思う。
その可能性を高めるだろうっていうことは理解できるけど、それを簡単に社会悪の解釈として使用することは差別につながると思う。
増田はそれを理解するどころか「なぜわざわざ口を開くのか?」って揶揄さえしている。
それは「自分は決してそうではないはず」と信じる「知的な感じへの憧れ」があるから。
人は誰しも愚かなところがあるものだから、そこそこ賢い人はそれをわかってるので他人の行動に対して「理解できない」とは言わない。
読んだ、まぁそうはならんわな
しかし、冷酷で愛情のない親を持った場合、あるいは、子供時代に様々な理由で精神的外傷を受けた⼈の場合、自分にふりかかる困難から自分を守るために幼児性ナルシシズムを発揮するという
↓
増田:親に虐待されたり虐められたから育まれたっていう「病的ナルシシズム」とどう関係するのかはこの文章からは全くわからん。
そして『自己愛性』のパーソナリティ傾向です。「私は特別、私はすごい」という思いが前面に出るパーソナリティ傾向のことですが、
こうした万能的な自己像が損なわれることを恐れて、対人関係を回避する、試される場を回避するといった受身的な形で表れる
自己愛性の高さもあります。ひきこもりの背景要因となる自己愛性とはこの傷つきやすく受身的・回避的な自己資性パーソナリティ傾向だと思われます。
これは、甘やかして育てら れた人、傷つくことなく育てられた人のパーソナリティ傾向と誤解されがちですが、
実際 には健全な自己愛の展開を阻まれたり踏みにじられたりした経験を通じて、
特に思春期青 年期のある局面で均衡を欠くほど高い自己愛性を顕わにするという形成過程を持つのが普通です。
だから自己愛性パーソナリティ障害の人は、自分が特別であるということにこだわりながら、傷つくことを非常に恐れているのです。
なお、ひきこもる中でこうした自己愛性が二次的に高まっていく心理過程もありうると思われます。
京都大学の名誉教授だからといって「社会の悪」の話を正しく語れる保証にはならない。
ホームはここだよね?
wikipediaには「日本の生命科学者。京都大学名誉教授。薬学博士(東京大学・論文博士・1981年)。研究分野は放射線生物学で、長年に亘り、様々な物理化学的ストレスに対する細胞の応答機構について研究を行っている。」って書いてある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E9%82%89%E6%AD%A3%E5%B7%B1
これか。
http://rbnet.jp/shiryo/opinion10.pdf
いうたかてこの人は生命科学者っしょ。社会学者でも犯罪学者でも政治学者でもないじゃん。京都大学の名誉教授だからといって「社会の悪」の話を正しく語れる保証にはならない。
(まあそうだとしても必ずしも正しいこと言うわけでもないけどな。)
むしろ増田が「ちなみに文系の人じゃないからね?」とかわざわざ言ってて、文系じゃなかったら正しいことを言うはずって思ってるのもうける。ネットの言説に追従しすぎだろ。
そんでこの名誉教授の人はつまり、『福島原発事故の原因究明について国家予算委員会で東電が責められてるけど、東電がいくら無理だっつったってそれを押しても調査に入るのがわざわざそのために独立機関にしてる国会事故調査委員会のやるべきことだし東電にちょっと無理じゃねって言われたくらいで諦めちゃうのは論理的な判断ではないでしょ、専門性がいくらあったかてそれを使えないようにしてるのはそういう「俺の専門じゃないから」っていう個々の無責任な判断が積み重なった結果なんじゃね?それが知的怠惰ってことなんじゃね?』って言ってるんでしょ?
まあそんで専門家ってことなら俺も呼べよってことだったのかね…ちょっとその辺はよくわかんないけど、とにかく専門家は自分の専門外かもしれなくても社会貢献のためにいっちょかみしていけよ、それしないことが悪とか社会的愚行に繋がるやぞってことが言いたかったんじゃないかねー。しらんけど。
まあそれなりにいいこと言ってはると思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E9%82%89%E6%AD%A3%E5%B7%B1
でもそれが親に虐待されたり虐められたから育まれたっていう「病的ナルシシズム」とどう関係するのかはこの文章からは全くわからん。
そんでその本題じゃない冒頭を読んでああいう感想になる元増田もちょっとよくわからん。
とにかく多分増田の持論である「世の中の悪は毒親持ちかいじめられっ子によって作られてる」っていう理屈を補強してくれそうなものをチェリーピッキングしてるに過ぎない。
ちょっとむしろ面白くなってきちゃったんだけど、もう書けば書くほど増田自身が権威に追従してるし、それこそが知的怠惰なのではないのか。
まあ毒親とかイジメが茶化すような問題じゃないっていうのは正しいと思うけど、そういうネットに転がってる文章から自分の気にいる部分をつまみ食いして「自分の持論が正しかったのだ」って悦に浸るのこそがつまり「知的な感じがするもの」に執着しているってことだとは思わんかね?まあネットではよく見るやつだけど。
違うってなら違う前提で聞くよ
ただし、増田みたいな人はなんでも権威に追従すると思ってるから、
京都大学名誉教授(文系じゃない)の下記の文章に対してどのような感想持ったか聞きたいね
彼は世の中の悪が、おおよそ「病的なナルシシズム」と「知的怠惰」が原因となって⽣生み出されると指摘する。「ナルシシズム」は、 ある種の⾃己防衛反応であり、通常は、愛情深い理解のある親のもとで正常に成⻑し、⼤⼈に なると「卒業する」ものと考えられている。しかし、冷酷で愛情のない親を持った場合、あるいは、子供時代に様々な理由で精神的外傷を受けた⼈の場合、自分にふりかかる困難から自分を守るために幼児性ナルシシズムを発揮するという。⼀方、「知的怠惰」は論理的な思考を放棄することである。私達は困難な問題に直⾯面し厳しい判断を求められるときに、その重圧から 逃れるために、身近な論理で考え結論を出すこと(常識的行動)を放棄することがある。そして論理を超越したカリスマや国家組織に判断を求める行動を生み出し世の悪を生み出すのだという。
キミが文章読めるならそれを書けないはずなんよ
いわく、下記の本で、世の中の悪が、おおよそ「病的なナルシシズム」と「知的怠惰」が原因となって生み出されると指摘されているそうな
増田はまず本を読んだらすぐ自分がそれを真に理解したって思い込んで知識をひけらかすのをやめたまえよ…
ちゃんとその本読んだか?
毒親待ちとかいじめられっ子とかにそういう傾向があるってだけの話じゃなかったか?
必ずそうだとは普通は書かんやろ。
いいえ、ワイは知的怠惰なくせに賢そう風なものに病的な憧れがあったりしないので
むしろ、キミのその謎の憧れどっから湧いてくるの?って疑問だから尋ねたり突っ込んでるので
さらに下記のように思ってるので
謎増田:小学生のなりたい職業ランキング1位。中国…研究者、アメリカ…科学者、韓国…学者、日本…スポーツ選手。なんで日本ってこんな低レベルなんだ?
↓
- 学者が水俣病の頃より、謎の力学で嘘ばかりつくから。それに加えてSNSで承認欲求目的でロクでもないこと言うの増えたから
- 学者(研究者)が、働く訓練しなかったポンコツor発達ポンコツなの棚にあげて、自分が贅沢できない日本はおかしいと喚くから
- JAXA然り何をしても失敗ではない、学者(研究者)様は正義だから 。なお、日本は科学誌に不正研究を名指しされた国
- エリートではなく、技術職ならどうかというと、エンジニアもなんのすけべ心なのかKADOKAWAの件でよちよちしてる
増田みたいな病的に知的な感じがするものに憧れがある人って、権威ならなんでも追従するんだけど、
この本見て『社会の悪は病的ナルシシズムと知的怠惰が原因である』って言ってるのは、
anond:20240713080441 anond:20240713145546 anond:20240713152240
いわゆるキャンセルカルチャーの怖いところは、私的制裁から社会的キャンセルまでがシームレスなことだ。
ジャニー喜多川は正規の手続きでは捕捉されなかった。「法が裁けないならおれたちが…」という仕事人の論理。ここに一つ分岐点がある。法の網のほうを繕うなり改良するなりしようとするか、人治情治の方に行くか。
ネットリンチとキャンセルカルチャーは別物ではない。暇アノンとかツイフェミみたいな全く話の通じない連中に目をつけられワーワーやられることが、社会的な地位を危うくすることに繋がっている。
東大名誉教授とかを擁する陣営の人は自分たちが暇アノンやら日本保守党みたいなアホ集団と同類だとは気づいてないだろう。
「仕事人」の跋扈がもたらしたものは「面倒な連中に目をつけられないように、何も言わないほうが身のためだ」という空気の支配だ。当のリンチ集団は自分たちの正しさのあまり誰も反論できないのだと自分で自分を騙すことになる。
言論によって正しさを求めた結果が、そんな無法の開拓村みたいな野蛮な状況であるのは随分と皮肉なものだ。
ーーーー
当時、当該プロジェクトの予算執行を正当化する立場から説明していた文科省のメンバーは以下の3人。
磯田文雄も倉持隆雄も内丸幸喜も、叩き上げの文科省エリート官僚で、HPCの研究者でも何でもないよ。経歴を調べてみればわかる。
この事業仕分けメンバーの中で一番HPCのことをわかってるエキスパートは、評価者の金田康正氏。んで、読めばわかる通り、文科省側の説明の適当さや誤魔化しの部分に対して、一番厳しい評価をしていたのも金田氏。蓮舫は金田氏のツッコミに対し、文科省側に助け船を出すという立場だった。
なお名前が出ていない「説明者((独)理化学研究所) 」は、平尾公彦とされている。この人は専門が理論化学・計算化学なので立派に研究者ではあるが、当時すでに63歳の大御所で、論文も何年も前からlast authorとして関わるものばかりになっていた。
2009年当時は東大理事・副学長(普通の副学長より2ランク上)から転じて理化学研究所特任顧問・副本部長と東大名誉教授に就任。2010年には理化学研究所計算科学研究機構機構長に就任している。つまり、増田が言うところの
あの場には事業側の人を呼ばなくちゃだめだったんだよ。
という想定に最もフィットしていた(はずの)人間だと言える。本人もHPCwire Japanというサイト(https://www.hpcwire.jp/archives/16547)で
東大を定年退官する際に、ある私立大学から声を掛けて頂いていたのですが、契約書にサインをする直前に、理研から新たにスパコンのセンターを立ち上げるので、来てくれませんかと話が来ました。私自身は計算機を専門にやっているわけではなく、計算機を使って様々なサイエンスを展開する、計算科学の人間でしたので、果たして私に務まるのかと躊躇しました。
ディスタンクシオンは文化資本元増田の源流にあるブルデューの著作。ディスタンクシオンを直訳すると「区別」になるらしいが、フランス語の語義では「他から区別された」→「特に優れた」→「卓越した」と派生し「卓越化」を訳語としている。訳者は石井洋二郎先生。東京大学の名誉教授。凄い。
文化資本が家庭環境と学校教育の両方によって形成されるものであること
これを念頭に置いた上で、初めて文化資本を捉えることができる。
元増田が話す通り、これが本質。文化資本に恵まれれば「強くてニューゲーム」になる。ここで学校教育機関が登場する。学校は相対文化資本を学歴資本に転換していくもの。そして教育は家庭環境による文化資本の差を拡大する可能性を秘めている。これは上にも下にも働く作用する。学校は教育機関である故に「身分振り分け効果」を見えざる機能としている。
学歴資本を手に入れた人間は、最終的に〇〇大卒という肩書きを手に入れ、社会的承認を得ることになる。社会的承認は文化資本を所有している証明でもある。これを持たない人間は、なんらかのパフォーマンスによって、自分が所有する文化資本の価値を証明する必要がある。これは貴族に比喩される。貴族は「貴族であるから貴族」。日本ならば、天皇は「天皇であるから天皇」である。文化資本のパフォーマンスが要求されることなく、それが本質であること。これを「本質主義」とブルデューは呼んだ。
「東京が文化資本に富んでいる」これを疑問視する意見、あるいは否定的な意見が目立った。先に本質主義の話をした。客体的に東京=優れていると考える人が多いことは、本質的に東京の文化資本を証明している。
これらを捉えれば「東京」とは客体化された形態の文化資本を持っており、文化資本に富んでいることが東京の本質である。
ディスタンクシオンの第1章では美的思考について長く語られている。「趣味や美的思考は人々を区別するものでもある。これが文化的階級に繋がってくるし、諸階級間を隔てる最も超えにくい障害のひとつ」と物凄く端的にまとめた。で、問題なのは。美術館に行くことが身体化された形態の文化資本につながること。これを考えてしまうと、あながち使い方として正しいのかもしれない。もちろん社会資本としていってんだろと感じなくもないが。