はてなキーワード: 地縁とは
元増田が
>「昼間でも場所によっては強盗性犯罪当り前。地下鉄には独りで乗るな」「目立つ格好をするな」「アジアンは狙われやすい」
と書いてる通りに海外では見ず知らずの女性に対する犯行が多いのだろう
相手を言いくるめて黙らせるうえでも
職場の上司とか年長の同僚とか年長の親類とかのほうがヤりやすいんだろうな畜生めが
セクハラの類も通りすがりの見ず知らずの人間相手には成立しない
だから見ず知らずの男(俺)に「私を襲うかもしれない」って目を向けんな
人口密度の高い日本の都市部でそんなリスクの高いことする阿呆は滅多におらん
(きわめて稀には家宅侵入して犯行する強行レイプ犯もいるけど)
そして職場の部下とか年少の同僚とか近隣の顔見知りの目下の若い娘とかなら
手を出してもなんとかできると思ってるクソ男全員金玉砕けろ
民間の非営利団体による社会的課題に対する(時には発見するところからの)アクションにはいろいろ細かい種類がある。管轄官庁の違いであったり。ボランティア活動とイコールではないが連続していたり。そのへんをひっくるめたズバリの一語がないので、ここではざっくり「非営利団体(の活動)」と呼んでおく。
日本で「NGO」と言うとなんか国際的に活動してるニュアンスがつくし。
非営利団体の役割は、行政による社会福祉の補完であるという。近い所で、官民パートナーシップとか新しい公共といった枠組みも近年提示されているな。
行政の補完的存在というのは勿論それはその通りなのだが、枠組みとしてはごもっともでも、補完という言葉のイメージから「安上がりな下請け」と捉えられかねない危うさについては注意喚起しておきたい。
ボランティア団体やってる人で「行政のしりぬぐいをしてやってる」みたいなことを言う人がよくいる。これは「下請け」の裏返しみたいなものだ。行政がやるべきことを自分が善意で肩代わりしてやってるという意識は活動の可能性・想像力をあらかじめ縛ってしまう。
行政に従属的でも対立的でもなく、必要な連携をとりつつ自由に動いた結果が相補的相乗的効果を生むというのが一番理想ではある。
もともとの出自として地縁による互助システムの後継的存在というのも無論誤りではないのだが、非営利団体の活動って別に「助け合い」的なことに限るものではない。それもまたイメージによる桎梏の一つではある。
自分としては、非営利団体活動とは単純に社会の中の余力的なリソースをかたちにする手段の一つであると捉えている。政治行動(投票とか)、経済活動(起業とか)に並列的な位置づけのものだ。
たとえばオープンソースのソフト開発、リナックスコミュニティみたいなのがまさにその代表例と言っていいだろう。政治の論理や商売の論理とはちょっと違うルールで、人々の持つリソースを結集させて社会に役立つ形にすること。
地域の助け合いとか「顔の見える活動」「心に寄り添う活動」とか、「非営利団体活動シーン」でよく言われるそういうものばかりが非営利団体のあるべき姿ではない。
さて、あなたは非営利団体が活きるフィールドの例として災害ボランティアを挙げている。
ある意味ではほんとうにそう。民間有志の力がうまく使われれば災ボラくらい非営利活動に「向いてる」分野はないだろう。でも実際のところ、言うほどうまくは行ってない。
めちゃくちゃもったいないことになっている。
現にあれやこれややってるじゃないか、みんなの骨折りを全否定するのかと言われればもちろんそういうことではない。リソースを活かすシステム(の不在)の話だ。神戸の震災時が本邦災ボラの黎明期だとしたらいまはせいぜいが中世の暗黒時代というところだ。
まあこのことについて具体的に詳論しだしたらキリがないので…。
非営利団体の情報公開のありかたについて、ネットの鵜の目鷹の目でやいのやいの監視するのがアホらしいのは全くその通り。
DX的なことだとかの、テクニカルなフォーマット作りの議論が必要というのも全く同意。
そういう具体的方策以前のちょっと理念的な話として、以前増田に書いた記事中で「情報公開は非営利団体活動の命綱」「コンプライアンスは足かせでなく指針とすべき」といったことを述べた。
https://anond.hatelabo.jp/20221206001603
例えば、ウクライナとロシアの「情報戦」「宣伝戦」の巧拙の格差を見よと言いたい。
ウクライナはまさに「情報公開」を命綱として支援を呼び込んで戦い続けている。
(もちろん後々色々と醜いものも明るみに出てくるだろうが)
ウクライナはお涙頂戴で各国の慈悲にすがっているのではない。率直に要求を述べているし、率直さによって一定の信用を得ている。
ものすごく不謹慎な言い方になるが、ウクライナはコンテンツを生んでいるのだ。命を引き換えに、だけど。ウクライナが公開する情報は、我々にとって価値あるものだ。そこで我々は納得して支援の金を出す。
非営利団体は監視されていやいやながらに情報小出しにするんじゃなくて、攻めの姿勢で情報出しまくってそれを「売り」にするべきだ。
社会貢献的な活動に興味はあってもそれに割く時間や労力は捻出しにくいという人は多くいる。直接参加できない人が、実際の支援の現場でどういうことが行われているのかという情報を受け取った上で、活動に対する投資の意味で寄付をする。
そういう経路を作り出すことができたら「どうやって見張るのか」なんていう問題は問題ではなくなる。
個人の直接の寄付と公の補助金とはイコールではないけど、間にワンクッション入るだけで出どころはみんなの懐なんだし話の骨子はかわらない。
■ブコメ指摘「ロシアはデマ攻勢仕掛けてるだろうが!」あ、それはほんまにその通り。例え話として、持論を述べる上で都合がいい部分だけのつまみ食いになってる。ツッコミアザス
■追記
いわゆるソーシャルグッドな活動の資金調達方法としてクラファンがある。
エモいストーリーがくっついてたりしてバズったものにだけ支援が集中するのではないか、そのせいで俗受け狙いのアピール合戦になり、活動そのものも歪んでいくのではないか。同情の集まりやすい「ウケる弱者」の取り合いやウソつき合戦になるのではないか。あるいは分断を煽ることである陣営からの集金を狙う、邪悪なハックが行われるのではないか。
そういう危惧は当然にあるし、実際そういう状況は生じている。
でも、マスの生理としてそういう(エモいものに殺到する)傾向があるからと言って、世の全員がそうなわけではない。
世間的にそこまで話題でなくても、自分の興味あるニッチな分野で、何をどうしようとしてるのか具体的によくわかる(情報公開がしっかりなされている)活動に支援したいという需要だってある。
自分が大学生だった2000年前後、NGO・NPOの役割は社会学でよく取り扱われるテーマだったように思う。
一般教養の社会学概論の授業ではテンニースのゲマインシャフト・ゲゼルシャフトの概念を習う。要は共同体の相互扶助は地縁・血縁を同じくするものの助け合いから、近代では国家・公的機関が再分配の一部として行うものに移行したというお話だ。
しかしながら現代では、公的機関による直接の福祉には問題が多いことが顕在化している。それは例えば、支援が必要な分野がそもそも議論されていないという議会の問題であり、縦割り組織の合間の部分で押し付け合いになるとか、定期異動のため分野の知見が蓄積しづらいとかの官僚組織の問題であり、あるいは「小さい政府志向」の広がりで大きな予算で公務員を拡充するのが難しいなどの問題である。それを埋める役割を期待されていたのが「NGO・NPO」だ。
例えば「災害ボランティアネットワーク」のような組織はその好例だ。阪神淡路大震災のボランティア経験者などが立ち上げて、当時の経験から志願者と必要な作業・物資の整理と割当、地方自治体・関係省庁との窓口一本化など、ボランティア活動を円滑に行うための知見を蓄積する団体となり全国組織化、中越地震や東日本大震災ではおおいに活躍した。
各都道府県・市区町村でこうした知見の事前蓄積や準備は難しい。こうした事業はNGO・NPOの方が効率よく運営できるし、国や自治体も自前で福祉を行うよりも彼らに任せて金を出す方が楽だし効率的だし安価に済むことが多いはずである。
まだ行政がタッチしていない福祉が必要な分野で有志がNGO・NPOを立ち上げて活動し、賛同者個人や企業の寄付の他に、自治体に招かれての講演や研修活動の対価、依頼された役務の対価で活動のための資金を得ることは健全かつ社会に期待される姿だ。これがゲゼルシャフト後の福祉のありかたであると。
そして、内閣府の資料(https://www.npo-homepage.go.jp/about/toukei-info/ninshou-seni)では、国の認証NPOの法人数は年々増加、平成23年3月で198から、令和五年で1267となっている。今後もこの増加傾向は間違いなく続く。このようにNGO・NPOは社会の要請に沿って出てきたもので、実際に役に立っている組織は多くあるので十把一絡げで叩くのは大間違いだ。しかし、その活動を見張らなくてもよいというのも大間違いだろう。明らかに不要な支出を払うとか、活動内容自体に違法性がないかなどのウォッチは行われるべきである。
だが、増え続ける組織に対して、今回の騒動のように主に非専門家が隅から隅までチェックしてああでもないこうでもないとやるのはエネルギーの無駄であるし、いかに効率よくこうした法人の監査ができるシステムをつくるか、が今後の課題になる。実際の行政がどうなっているか全く詳しくないのだが、NGO/NPOの運営や監査にまつわるDXの議論って今どうなっているのだろう。
例えば、定時の活動報告が提出しやすいシステムであるとか、報告の記載内容・添付資料の良い例/悪い例であるとか、報告資料のデジタル化の自動化とか、被支援者の個人名を自動で匿名化プログラムだとか、申請できる/できない費用の詳しいガイドラインの配布であるとか、公的機関側から監査対象の機関への調査をAIで支援するとか、NPO専門の税理士を増やすとか、組織に対しての研修であるとか・・・
経済力や社会的地位や容姿や年齢とかの尺度において、自分より圧倒的に格上の女と結婚してる同僚がうちの会社ではめちゃくちゃ多い。
本人は高校中退で35歳年収300万なのに嫁さんは20代でモデル級美人で早大卒で法務局の常勤職員
元不良だったとかお調子者だったとかで学生時代にクラスのカースト上位にいたということ。
「社会的地位や経済力ではなく、小中学生時代の感覚のまま生物的な強さやキャラとしての魅力とかを重視して自分の番を選ぶ」
そもそも底辺職なのにもかかわらず同僚達がそういう格上女性との繋がりを持てているのは弊社が目黒の地場企業だからってのもあるのでは?とも思ってる。
夫の言い出した『たまごどうふ』がわからない - Togetter
これを見て思い出していたんだが、うちの家にはニラ玉という名前で伝わる謎の料理があった。
肉のミンチ、刻んだチルドうどん、いい感じに切ったニラ、生卵を混ぜ合わせて、ちょっと薄くして両面焼くというシンプルかつガツンと来る料理だ。ポン酢で食べる。
幼少のみぎりよりそのように育てられて来ていたのだ。
昔からこの炭水化物と脂質の暴力みたいな食い物がかなり好きだった……。
幸いにして、うちではレシピが伝承され一人暮らし時代にもよく作っていた。
クックパッドにも一切でないし、親に聞いても祖母から聞いた由来のわからん謎の料理であると……。
結婚してからも何故ニラ玉と言うのかわからん。謎すぎると言いながら食べていたんだが。
ある時見つけたのだ。
これだーーー!!!
全く同じ!
だがちょっとおかしい。Wikipediaによるとこの料理は80年代に高槻の主婦から伝承されたとある。
うちの家系はそっちに地縁はないし、祖母の代からならもっと早くから作られていたはずなので。
どういうこと?
ニラ玉事件はまだ解決していない。我々の調査はまだ始まったばかりなのである。
いや……わりとマジで気になるので現地に行って確認したいまであるな。
あと本題なんですが、冒頭の件、こんなどうでもいい夫婦のコンテンツでボロクソに叩かれ、あまつさえ離婚しろとまで言われるの、インターネットって怖いところだなって思いました。
迷っていることがある。
とある史跡の多い地域で育ったが、今はそこから車で1時間弱ぐらいの距離の田園地帯の中にある会社(工場)でSEやってる。(現在は自然豊かな場所にある賃貸で職住近接と言えなくはない生活を送っている。)
そこの社員は大半がいったん工場の近くから通う生活をするが、子供の進学を考えてどこかのタイミングで東西南北どっちかの方向の地方都市に移住する選択をする。
自分の出身地の付近もその選択肢の一つとして割と選ばれているような(というか自分もそうするつもりで働き始めた)のだが、
いざ移住先を検討し始めると、気持ちが他の候補地の方に傾いてしまいがちであることを発見してしまい戸惑いを隠せない。
昔は、「この町は史跡が多くてなかなか面白い風情だな」と思っていて
(いちばん長く過ごした場所ではあるが生まれた場所ではないし、物心ついた時は別の地方都市で暮らしていた)
将来またその場所で生活することを割と望んでいた。・・・が、勤務先との通勤距離のこともあって別な方角の地方都市を片っ端から比較のために調べてみていると、
出身地を積極的に選ぶ理由が意外と乏しいことが浮き彫りになってきた。
考えてみれば当然のことで、史跡まみれの町ということは大胆な都市計画ができなくて、さらに観光業っぽい地元の商店の既得権のせいで
郊外かごく限られた地域にしか新しめの商業施設が営業できない状態になっているし、鉄道や道路といったインフラも地元住民以外に観光客のためのものとして整備されていて
普通の生活が(そういうシガラミがない地域と比べると)なにげに不便なのだ。比べる対象を持っていなかった時には気にならなかったが具体的な比較をするとその弱点が際立ってしまう。
もちろん歴史上のエピソードに関連した場所が沢山あること自体はマイナスではないのだが、
その価値(すなわち日本の歴史を勉強する価値)は相対的に下がってきているのではないか・・・?という気持ちが沸くようになってきている。
端的に言うと、そんな優雅なことを守り伝えていく余裕は今後の日本にあるのか?という事への疑念が強くなってきてしまっていて、ただの不便な場所に見えてきているという話である。
(科学的な発見がされた場所とかならまだ良かったのだけど・・・)
いちおう土地勘があるとか友達も若干数いると言う利点はなくはないのだけど、
きれいな水と空気に囲まれた生活に慣れた後では、不便なくせに空気が汚い出身地に戻って住むことが大して魅力のない選択肢に映って仕方がない。
ただいずれ帰るという暗黙の了解のもと両親にはいろいろ支援してもらってしまっているし、今より実家が遠くなるのは良くないという認識はあるし、
地縁もないのに子供を会社周辺で育て続けることはとてもする気にならないので、どこかへの移住はすべきなのだと思っているが、
どうせなら合理的な街づくりができている所に住みたい気持ちがある。
通勤時間さえ長くて良いなら条件を満たす場所はなくはないが、通勤時間がかなり長くなるので即決できない。候補のバリエーションは以下のような感じで、一長一短である。
A:実家の割と近くで駅とショッピングモールの中間(古い住宅地で道路が狭く空気はよどみがち。通勤40分)
B:実家と同じ市町村の辺縁部でバブル後も開発が継続していた地域(商業施設が充実しており斜面が多いが道路は広くて空気も奇麗。通勤60分)
C:実家の隣の市町村で最近開発された大型分譲地(空気は奇麗で道路も広いが、切り開いた斜面であり地盤に不安。また将来ゴーストタウン化の懸念あり。通勤50分)
D:会社のあるところの隣の市町村(会社のある市町村よりはメジャーなチェーン店が多く来ていて道路も広い。人口は同等で実家からは30分ぐらい遠くなる。通勤30分)
E:実家とは別の方向の現在人口増加中の地方都市(大都市に近い場所であり利便性は格段に高いが、実家からの距離はやはり遠くなる。通勤40分)
F:実家とは反対方向の地方都市(県内の最大都市なので、利便性最重視の場所からゆったりとした郊外まで幅広い選択肢がある。実家からは当然遠い。通勤45分)
気持ちを整理するために書き出してみたが、やはり決心を付けづらい・・・。なお通勤はいずれも自家用車。体調的な理由で長時間運転は苦手なので40分以上かかるところはしんどいと思っている。
今の自分の観測範囲外に、観測範囲内で一番面白い漫画の10倍面白い漫画があるのだとしたら、これはもう観測範囲を広げるしかないわけで。
死ぬその瞬間までその10倍面白い漫画を知らなかったらすごく悔いが残ると思う。
今はwikipediaの漫画雑誌一覧やレーベル一覧からも情報を辿れないひとり出版社や独立系出版社というものが続々出ているらしい。
独立系出版社で出されているのはちょっとその概要を調べる限りはルポや小説が主なイメージだが、おそらく漫画を出している出版社も絶対にある。
もしもそのなかに自分にとって一番刺さる漫画があるんだとしたら、見つけるまでは死んでも死にきれない。
むしろ、はっきりいってその漫画以外の漫画を読んでいた今までの時間の方が時間の無駄だと思うぐらいで、もし神様が漫画というものに興味を持った瞬間に俺にとっての一番面白い漫画を提示してくれたなら、漫画を読むときはそれだけを読むと言うのが時間の最も有意義な使い方だと思う。
今俺が漫然と数週間後には読んだことも忘れるような漫画を読んでしまっているのは、発掘行為に対する苦しさへの逃避と、一時しのぎの中途半端な楽しさを享受するための妥協に過ぎないのだ…。
脱線気味なので話を本題に戻す。
つまりそういうひとり出版社とか独立系出版社にしか漫画を出してない人が、読者であった以前にはその漫画家や出版社の人間とリアルでのつながりがなかったような読者と需給の関係を結んでいる事例があってもおかしくないと思うわけだ。
そのようなリアルでのつながりがなかったような読者、つまり読者になる以前にはその人と友達でも、ご近所さん等地理的な距離による地縁があるでも、職場の人間でも、その他あらゆるリアルのつながりがなかった読者は、どうやってその出版社や漫画家を知ったのだろうと思うわけだ。
漫画通には単なるメジャーマイナーではなく、そういう漫画家を知る(発掘する)方法を会得していて、そういった漫画家の読者の一員に滑り込むことさえできる猛者もいるんだと思う。
私はその方法を知りたいのだが、問題を単純化するため、リアルの中で見つける方法はひとまず置いておいて、まずは「インターネット上のそういった出版社をどうやって見つけているのか」ということに話題を限らせてほしい。
今まで書き忘れていたが、そういうわけで私が今念頭に置いている出版社はネット上にSNSでの発信やサイトを開いているという前提が条件としてついてくる。それがないとリアルの中で探すしかなくなってしまって話がややこしくなるので。
具体的に方法として訊きたいのは、たとえば検索ワードを選定するときに意識していることはあるかといったことだ。言い換えれば、そういう出版社とかが出て来るような検索キーワードで意識的あるいは無意識的にググるセンスをどうやって磨いているのかということが知りたい。いうまでもなく言葉を知らない奴より言葉をたくさん知っている奴の方が検索の世界では強いし、さらにやみくもに言葉を打つよりもその界隈の情報がヒットそやすい語群というのがあるわけだ。たとえばこれは倫理的に悪い例だが、ネットでアニメを見る人は単にヘボン式の綴りの知識だけでなく、日本語タイトルをローマ字にしたときどこで区切るものかということを心得ていたりする、みたいなことがある。その変換が半ば瞬時にできるぐらい研ぎ澄まされている。
さすがに「ひとり出版社」と検索して漫画を出している出版社がごろごろ出るほど甘くはないわけで、一つ捻った言葉で検索するセンスが必要なのだとはわかるわけだ。
俺がやってるのが検索時は適度にゆっくり入力して、検索サジェストに出て来る言葉で知らない言葉で漫画関係っぽいものは片っ端から検索することと、あえてたまに誤字って検索してセレンディピティを誘発させたりしてるが、今のところ収穫はないので、これらの方法はだめそうだ。
というわけでそういう出版社にたどり着いたことがある諸賢が見ているなら、そのとっている方法を教えてほしい。
dorawiiより
もしも商業漫画よりも同人誌に面白いものがあるんだとしても、それはまあいっかと思えてしまう。これはもう俺が思えるか思えないかという問題なんだけど、同人誌を探すきりのなさは身に染みてわかっているので、あきらめがついてしまうという感じかな。商業で一番面白いのが見つかれば十分なんだ。
なので勝手ながら、出版社(法人)と契約してる漫画家縛りとさせていただきたい。
出版社を介している以上個人出版(自費出版)ではないものだと思ってたんだけど違うの?逆にkindle無料漫画とかもろ個人出版の典型例だよね。
あくまで俺の興味は同人誌ではなくビジネスとして仕事上のパートナーからマネー(原稿料等)を得る対価として作られた作品にある。
全く趣味で作られた(ものでもないものもあるがこの際細かいことはどうでもいい)同人誌はさすがに有象無象としてどうでもいいやと割り切れるので。
京都に住みたいって動機によると思う。学業のためとか、仕事のためなら別に普通の地方都市に住むのと同じ。イオンモールで買い物して、くら寿司とかサイゼでご飯食べて、トリキで酒飲んでる分には普通の地方都市。
子ができて学校つながりの人間関係発生しても地元民と転勤族半々ぐらいだから、そこまで特異な人間関係が発生するわけではない。
結局、積極的に地元コミュニティに入って京都っぽい生活を送りたいかどうかじゃね?で、地縁でのつながりを求めて移住する場合、おそらく日本全国どこに行っても嫌な思いする確率のほうが高いと思う。
京都に住みたいって言ってる人の多くは、町家とか風情のある物件に住んだり、寺社仏閣めぐりがやりたかったり、昔ながらの生活がやってみたいとか、なんかそういうやつでしょ。それって「田舎に移住して古民家カフェやりたいわー」みたいなやつだから上手くいかないよ。
こんなん払うぐらいなら賃貸の方がマシ
戸建てと違って資産が目減りしないっていうけど、それは単にこれらの固定費を払い続けてるから
おまけに新築で売り抜くためにわざと低めに設定しておいて数年後に値上げするとかもあり得る
そのせいで問題が起きたときに賛成・反対に分かれがちで揉め事しか起きない
まぁタワマンなんてまだ10年も経ってないからそこまで問題起きないだろうけど
そもそもそれって売れたらの話
売りに出して買い手が付けば売れるけど、中古マンションのリスクを考えると買ってくれるかどうか謎
まぁ売れなきゃ価格が下がるから結局価値が下がるっていう話だけどね
不動産投資が過熱しててまだまだ住宅価格は下がらないっていうけど
企業によっては住宅補助出してくれるから高い家賃でもやっていけるはず
と思って広げようと思ってシェアーハウスに計7年くらい住んでたけど、
自宅だとリラックスしてなんーも外行きの精神になれなくて、住民と絡んだことがほぼ無かったなー。
厄介住人が増えて嫌気がさしたことと、掃除当番マトモにしないヤツばかりでクソ汚いのを尻ぬぐい掃除する馬鹿馬鹿しさと、管理会社が全く家のメンテをしないのと、コロナ感染拡大の割と大きな要因が家庭内感染ってリスクもあり、引っ越して久しぶりの一人暮らしで解放感ある。
衛生レベルが一致する者同士じゃないと同居するのは難しいわねー。じゃないとキレイ好きなほうが尻ぬぐい掃除することになる。
なんかー 喋る意思のある住人が、ややウェイ系入った人しかいなかったり趣味合わなそうだった。
趣味合いそうな人は喋る意思が無くてハードルが高かったし。前のシェアハウスのほうがオタク寄りな人間ばかりだったのでまだマシだったかも。やっぱ陰キャコミュ障オタクがシェアハウスするなら似たオタク同士のほうがまだマシだわ。まあそれでもなお交流できるかは怪しいけど。
ていうか、リビングでだらだらヒマそうにしてる人を見かける機会があんま無かった。そういうときじゃないと声かけられないじゃん。雑談の。しかもリビング占有してるのが例の厄介住人だった。いつも。無理。
普通のリア充の人って、生身の人間と絡むモチベーションってどうやって捻出してるの?
やっぱ自分って人間への興味が薄くて、モノとか現象とか物語とか、動植物とか、人間以外のほうが興味が強いんで、そっちのほうやってたほうが結果的に交流増えそうな気はする。
昔ならもっとこう、「近所」とか「地縁」とかの概念があり、双方の交流のモチベーションがあって会話が発生してたのかも知れないけど。なんか現代ってさ理由が無いと会話が発生しなくない?なんか正当な理由なしに話しかけるのがアウトみたいな風潮あるよね。世知辛いねぇ。あいさつ・声掛け運動をすると「事案が発生」して警官に声かけされる時代だ。ポポポポーンwwww
大阪のほう行けばいいの?