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2020-10-11

一生懸命」と「一所懸命

子供ときから一生懸命勉強してきた、大人になってから毎日一生懸命働いている。例えばこういうような言い方をする。私も一度そう言ってみたいものだ。が、ここでの問題は、そういう努力や真面目さのことではなく、「一生懸命」ということばの形である

腰痛力士初日を出すと、スポーツ紙が「一『勝』懸命」などという苦しい見出しをかかげるぐらいだから、たいていの人はふだん「いっしょうけんめい」と発音しているだろう。たまに「いっしょけんめい」と聞こえてきたりしても、全然気にとめない。気がついても、あの人は急いでいるため発音が雑になったんだと思う程度だろう。相手外国人であれば、注意深い日本語教師は「イッショー」と長く延ばすように指導するかもしれない。相手日本人であっても、小学校などでは、「ちゃん発音しなさい」と注意する熱心な先生もありそうだ。

ここで終われば平和な日々がうち過ぎるのだが、なかには気になって「いっしょけんめい」というふうに短く言う俗な発音も認められているのかなあと、念のために国語辞典で引いてみる人もいるかもしれない。すると辞書には、「一所懸命」ということばが出ていて、「武士が賜った一ヶ所の領地を命をかけて守り、生活の頼りとしたこと」と説明してある。そこから一般に、物事を命懸けでやる意味に広がったらしい。びっくりして、それまで疑うこともなく信頼を寄せていた「いっしょうけんめい」のほうを引いてみると、あろうことか、「一所懸命の転」とある。形勢逆転だ。

今まで乱れだと思って軽蔑まなざしで見ていた「イッショケンメイ」がにわかに高貴に見え、これまで牙城を誇っていた「一生懸命」が反対になんだか色あせて見える。なんの引け目もなく天真爛漫に使っていた「一生懸命」という語が、とたんに使いにくくなる。向学心に燃え前後の見境がつかなくなった若人なら、まったくためらうことなく「一所懸命」に切り換えるだろう。

だが、いくら世間というものがわかってくると、手のひらを返すように切り換えることには抵抗をおぼえる。「イッショケンメイ」と発音しては相手に通じないのでは、と心配するからではない。また、別に古なじみの「一生懸命」に侍の義理を感じるわけでもないが、知ったばかりのことばを得々として弁じたてるのは、生半可な知識をひけらかすようで、どう見ても、成熟した大人のふるまいではないような気がするのだ。

そうかといって、「イッショウケンメイ」という発音で通すのも問題がある。そのほうが、世間からの疎外感を味わわなくてもすむ点では無難だが、国語先生のくせにこんなことばも知らないのか、と軽蔑されるかもしれないなどと、今までは思ってもみなかったことが不安になったりする。しかたがないから、「ほんとはイッショケンメイというんだそうですが」とよけいな挿入句を用いたり、意味ありげに二様発音で繰り返してみたり、やむなく単に「懸命」ですませたり、あるいはほかのことばに逃げてしまったりする。ともかく、そのことばを、以前のように無心では使えなくなっているのだ。なまじ知ってしまっていたために、余分な神経を使っているわけである。そんなとき、知らないうちが花なのよという、全然関係のない古い文句が浮かんできたりする。

私にとっては「独壇場」がまさにそれだった。辛口批評となればあの評論家のドクダンジョウだとか投げの打ち合いとなったらあの力士のドクダンジョウだとか、なんの疑いももたずに言ってきた。ところが「壇」でも「檀」でもなく、正しくは「擅」なのだという。「擅」という漢字は「ほしいまま」という意味で、しかも、「せん」と読むらしい。つまり、「独擅場」と書いて「ドクセンジョウ」と読むのが正しいというのである

しかに、これで一つ利口になった。が、そのときから新たな悩みも始まった、「イッショケンメイ」とはちがって、「ドクセンジョウ」のほうは意味が通じるかどうかさえあやしい。通じたとしても、なんというペダンティック言動かと思われるのが関の山だろう。「ほんとはドクセンジョウというんだそうですが」と前置きすると、今度は相手が、学問があるのはわかったから、そんな偉そうな顔をしないで、すっと言え、と言わんばかりの表情になる。そうかといって、辞書ちゃんと「独擅場の誤読から生じた語」とことわっている「独壇場」ということばを、今さら無邪気な顔で使いつづけるのも気がひける。結局、どちらのことばも平気な顔で言えなくなり、自分の話しことばから私はその語を失った。

同じ単語でも、読み方でそういう結果になることもある、「異国情緒」「情緒不安定」などの「情緒」ということばは、ふつう「じょうちょ」と読んでいるが、国語辞書を見ると、「ジョウチョはジョウショの慣用読み」と説明してある。つまり本来「じょうしょ」と読む語なのに、「じょうちょ」というくずれた読みが慣用として世間に広まった、という事情らしい。それまでなんのためらいもなく「じょうちょ」と発音していたこの語を、こだわりなく、すっと言えなくなってしまうのである。そうなると、そんなことを知らなかった昔がなつかしく思い出されるかもしれない。

外来語日本語読みにする際に清音と濁音の違いも、同じような問題をひきおこすことがある。「ニュース」で「クローズアップ」された情報を「スムース」に受け取っていたのに、原語の発音意識した日から、「ニューズ」で「クロースアップ」された情報を「スムーズ」に受け取れなくなるのは、その一例だろう。「スムース」などは比較的すんなりと「スムーズ」に席を譲ったように見えるが、「ニューズ」はまだそこまで進んでいない。そういう発音が聞こえてくると、思わず相手の顔をみたくなる。

まり、これらのことばは、その意味を伝えると同時に、その語を使う人の知識教養の程度をもあらわす。臆面もなく使うとか、照れて使わないとかいたことをとおして、その人の性格を伝える場合もあるから、油断ができない。

これまでは、ふつう気がつかないところに一部の人が気がつくために起こる問題点をあげてきた。その逆もある。人のうわさをしているらしい。ひとりが「あいつネーモーだからな」と言うと、相手が「うん、ほんとにネーモーだ」と簡単に応じて、それでおしまいになる。そんな話を聞いた。おたがいに通じ合っているのだから、なにも今さら話を蒸し返すことはないが、これはおそらく「獰猛」のことだろう。たまたま二人とも「どうもう」と読まずに、「ねいもう」と読むものと思い込んでいたために、運よくツーカーと通じたものにちがいない。

しかし、そうそういつもうまく行くとはかぎらない。聞き手が「どうもう」と読むという知識をもっていることのほうが多いはずだからふつうは「えっ、ネーモー?」と聞き返すことになる。聞き返すのが失礼だと思えば、「ん?ああ」などと曖昧な返事でごまかすかもしれない。が、もし通じた場合はどういう性格コミュニケーションになるのだろう。

獰猛」を「寧」の旁につられて「ねい」と覚えているんだな、と聞き手が頭をまわせば、意味はわかっているわけだから、伝達は成立する。だが、「獰猛」を正しく読めないという話し手についての情報も同時に伝わる。魚の「生け造り」を「生き造り」というのも、程度の差こそあれ、似たような印象を与える。

『影を慕いて』というはるかな昔の歌に「月にやるせぬわが思い」ろいう文句がある。「やるせぬ」という言い方は許せぬなどと息巻く人もいる。「やるせない」という形容詞が「やるせぬ」となるのなら、「はかない」が「はかぬ」となり、「しがない」が「しがぬ」となるはずだから、たしかに、そんな日本語はないと言っていい。リズム関係でそうなったのだろう。が、そういう形が思いつくのは、「やらない」が「やらぬ」となり、「しない」が「せぬ」となる現象があるからにちがいない。つまり形容詞の語尾の「ない」を助動詞混同した結果なのだろう。

同種の例に「あの人みたく」といった「みたく」がある。これは直接には、「みたい」の「たい」を「見たい」の「たい」という助動詞混同したものかもしれないが、「うれしい」「大きい」というふうに、日本語では形容詞終止形はすべて「い」で終わる、ということも心理的背景として働いたような気がする。逆じゃ必ずしも真ではないのだが、「い」で終わると、なんだか形容詞のような気がして、「うれしく」や「大きく」に倣って、「見た様だ」から転じた「みたいだ」という助動詞の「みたい」の場合も、つい「みたく」という連用形を作りたくなるのだろう。

いずれにしろ誤用によって生じた語形なので、ことばにうるさい聞き手は、相手教養を疑うかもしれない。しかし、この種の語感は地域や年齢、それに、もちろん時代によっても違う。「着替え」という名詞は「着がえ」でもいいが、動詞の「着替える」のほうは従来どおり「着かえる」と発音すべきだと、今でも主張する人がいる。靴を履きかえることを「履きがえる」とは言わないから、なるほど、そういう理屈になる。しかし、耳で聞くと蛙の種類とまちがえそうなこの「キガエル」に抵抗を感じる人は今やごく少数だろう。このぐらい定着してしまえば、もうほとんど特別の語感は働かない。

また、最近は、「ゆ」「らゆ」「る」「らつ」という長い伝統を引き継いできた「れる」「られる」の関係にも深い亀裂が入った。「やれる」「乗れる」「張れる」といった可能動詞連想も働いてのことだろうが、助動詞の「られる」との伝統的な使い分けを無視して無差別に「れる」をつけ、「見れる」「寝れる」「入れる」などと新しい臨時可能動詞を作る、いわゆるラ抜きことばの嵐が吹き荒れ、ほとんど修復不可能と思えるまでに日本本土を席捲している。ある若い中国人学者の話では、日本留学したてのころ、某女子大で「眠くて朝なかなか起きられない」と流暢な日本語で話したところ、大学院友達が「られる」は尊敬意味で、可能は「れる」だと親切に教えてくれたそうだ。こうなると、せめて「見れる」は「見られる」のくだけた口頭語形とでも制限して、正式に認めてしまったほうが、かえって勢いをいくらか食い止める力になるかもしれない。

しかし、いずれにせよ津々浦々の老若男女に心底その形が容認されるまで、頑固一徹日本語担い手たちが「アナウンサーよ、お前もか」と眉をひそめるような語感が、そういうことば保守派にとっては」、またしばらくはついてまわることだろう。

ことばの形は崩れたわけではないが、「気がおける」と「気がおけない」という慣用句用法が乱れかかっていることが、ひところ話題になった。例えば、「校長先生は気がおけないので肩がこる」「親友は気がおけるらしい」といった使い方が若い人たちの間に広がりつつある、というのである最近校長が人なつっこくなって、生徒とばか話をしながら遊びまわるとか、今どきの親友は油断がならないから、わきにいると緊張しどおしだとかいうような、時代の変化が起こっているのかもしれないが、それは別の話だ。事態の変化に応じた表現でないとすれば、ことばの使い方が本来用法とむしろ逆になる例があらわれたことになる。

「情けは人のためならず」ということわざの「人」を「他人」ではなく「その当人」の意にとって、全体の意味を、他の人に親切にしておくと、めぐりめぐって自分自身にいいことがやってくる、という本来意味ではなく、へたに情けをかけたりすると、かえってその人のためにはならない、という意味で使う人が増えてきたともいう。

このようなずれた用法のことばは、たとえ通じたとしても、相手も同じようにずれて理解していないかぎり、無教養に類した印象を同時に伝えてしまうだろう。

2019-11-20

anond:20191120091455

紀元前40年頃のポンペイ壁画には遠近法が使われていたようだ。

ポンペイの壁画の様式 - Wikipedia

また壁画トロンプ・ルイユ的効果を与えるための平行投影法(正確な線遠近法ではない)の利用も第二様式を特徴付けている。イオニア式の柱や舞台のような建築構造物を描くことにより画面に表される空間は壁面の後方に押しやられた。これらの壁画ローマの家々の窓がなく狭い部屋を少しでも広く見せる効果があったと思われる。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Roman_fresco_from_Boscoreale%2C_43-30_BCE%2C_Metropolitan_Museum_of_Art.jpg

またそれ以前でも古代ギリシャ舞台美術などに遠近法は使われていたらしい。

遠近法 - Wikipedia

もっとも初期の遠近法は、紀元前5世紀頃の古代ギリシャ舞台美術に使われたものだった。舞台の上に奥行きを与えるために、平面パネルを置いてその上に奥行きのある絵を描いたという。

まり、「本物の風景のように錯覚させる」ための写実的な絵には、古代から遠近法が使われていた。

逆に言えば、中世で主流だった宗教画人物画は、それほど写実的風景を描く必要がないために、遠近法が用いられなかったということだろう。

2017-09-29

ああヘーゲル

止揚

止揚(しよう、独: aufheben、アウフヘーベン)は、ドイツ哲学者であるヘーゲル弁証法の中で提唱した概念揚棄(ようき)ともいう。

解説[編集]

ドイツ語の aufheben には、廃棄する・否定するという意味と保存する・高めるという二様意味があり、ヘーゲルはこの言葉を用いて弁証法的発展を説明した。つまり、古いもの否定されて新しいものが現れる際、古いもの全面的に捨て去られるのでなく、古いものが持っている内容のうち積極的な要素が新しく高い段階として保持される。

このように、弁証法では、否定を発展の契機としてとらえており、のちに弁証法唯物論が登場すると、「否定の否定法則」あるいは「らせん的発展」として自然社会思考の発展の過程で広く作用していると唱えられるようになった。

国語辞典などでは、違った考え方を持ち寄って議論を行い、そこからそれまでの考え方とは異なる新しい考え方を統合させてゆくこと、という説明がなされることがある。

関連項目[編集]

アンチテーゼ

https://ja.wikipedia.org/wiki/止揚

ごめんね

2015-12-12

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福沢諭吉について5 | 雁屋哲の今日もまた

ご無沙汰しました | 雁屋哲の今日もまた

さようなら! 福沢諭吉 日本の「近代」と「戦後民主主義」の問い直し : 安川 寿之輔, 雁屋 哲, 杉田 聡 : 本 : Amazon

福沢諭吉が日本の近代化誤らせた? 8日に名古屋で集い:朝日新聞デジタル

【愛知】2015.12.8 不戦のつどい 「福沢諭吉の正体 アジア蔑視と侵略戦争で果たした役割 ~日本の近現代史を問い直そう~」講演・安川寿之輔氏、雁屋哲氏、杉田聡氏(動画)

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其業たる最も賤しむ可く最も悪(にく)む可くして、然かも人倫の大義に背きたる人非人の振舞なりと云ふの外なし

窃(ひそか)に其無教育破廉恥を憐むこそ慈悲の道なれ。

「福沢諭吉の正体」-⑮

福沢諭吉の正体

朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す

最も恐るべきは貧にして智ある者なり

「“さようなら、福沢諭吉さん あなたに学ぶものはありません“ 」本誌編集委員・編集者・黒田 貴史 | コラム/深層

馬鹿と片輪に宗教、ちょうど良い取り合わせ

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