はてなキーワード: 慣用表現とは
作業しなきゃなのに
助けて
増田を 10年 やっとるワシも、幾度となく沼を経験してきた。
その度に増田の存在を憎んだものじゃが、あるとき脱出方法を思いついて以来、悩みから解放されたのじゃ。増田は、人の時間を喰らうバケモノから、やりたいときにやればええ、気楽な娯楽に戻った。
ありったけの技巧を込めて、増田で積んだすべての経験を活かすべく、本気で増田を書く。
まずはテーマの選定に気合を入れる。皆が興味のある話題を選んでいるか。その分野で高い解像度を発揮できるか。
読者に伝えたい内容が目に留まるようバランスに注意を払って、構成を練るのじゃ。
タイトルは頭に入りやすいか、タイトルだけ読む連中も祭りに加われるような軽さがあるか。冒頭に引き込むようなフックはあるか。
説得力を持たせるための権威づけはあるか。自分の強みを明かしているか。逆に無意味なマウンティングはないか。
言わんでええことまで言ってないか、すなわち、ブックマーカーの「まとめ作業」をおのれが代行するような愚を犯してないか。
聞き慣れないフレーズを慣用表現に置き換えて。読み飛ばしてもいいパートはそうだと判りやすくするんじゃ。
同じ単語の繰り返しはないか、指示語は最小限か、「だが」などの否定語は極力削られているか、語尾は多彩になっておるか。文章のリズム感は十分か。
末尾にスルーされないための、何かひとこと言いたくなるような煽りはあるか。
すべてのチェックを終えたら、再び最初に戻って検討し直す。何度も何度も繰り返す。
最高傑作を生み出すべく、情熱を注ぎ込むのじゃ。ひとつの増田を書くのに 12時間 かけてええ。
これが増田を止めるコツじゃよ。
置き引きは、置いてある他人の物を自分の方に引き寄せる語感があり、
ひったくりも他人が持つ物を無理矢理手繰ってくる語感があるのに対して、
万引きは、万って何?よろずってこと?とはっきりしないので、何か隠喩表現のように感じられるのがまずい。
例えば、「奥さんがおかんむりだよ」は、「奥さんが怒っていたよ。」にはない、相手(奥さんの旦那さん)に寄り添っている感じが伝わる。
万引きは置き引きほど、窃盗の状況を表してないように感じられる分、窃盗の意味がボヤけるから忌避されるのだろうね。
万引きが、仮に昔から「品窃り」みたいな慣用表現だったら、語感から商品を盗んだと明確なので、こんな目くじらはたてられなかっただろうなぁ。
https://twitter.com/crazyraccoon406/status/1443175558574006278?s=19
見れない→見られない
※「謝罪申し上げる」は「謝罪」単体は動詞ではない上に、「ご報告申し上げる」のように慣用表現ではないため不自然です。原文の内容を伝えたい場合、「ご報告と謝罪を申し上げる」が自然な表現でしょう。
時間がかかった→お待たせした
※駄目という訳ではないですが、「時間がかかった」というのは平仮名も相まって平たい表現に感じさせます。謝罪文である以上はもう少し硬い表現を使ってはどうでしょうか。
※慣用表現と言えなくもないですが、「謝罪させていただきます」は「許可を求める」即ち「相手にの顔色を伺って謝罪する」のようなニュアンスを伝えてしまい、「自身の意志で謝罪する」という意味合いを欠くと捉えられかねない表現です。
※明らかな誤用です。
3ヵ月の活動休止、公式イベントも欠場、VALORANTにて活動していた全アカウントの削除、活動再開後も、作成するアカウントに関して、一年間、調査委員会による管理監視を行う→?
※伝えたいことは単語から分かりますが、主述関係が全く掴めません。
知識不足でしたら申し訳ないのですが、「全アカウントの削除」まで名詞を並べているだけになってしまい、文になっていないようにしか読めません。語順や句読点の打ち方が英語のようになってしまっていますが、どのような事情があるのでしょうね。
再発防止のため、及び、今後のチームひいては→再発防止のため、及び今後のチーム、ひいては
※「ひいては」の前に読点を打たないのは不自然です。「及び」の後の読点は必須ではないので、こちらを削って「ひいては」の前に補うのが良いと思います。
「表現のための実践ロイヤル英文法」から第19章 比較をやりました。
まず比較の表現が形容詞だけじゃなく副詞にも適用できるってことが自分のなかで言語化できていなかったのに気づいた。
それから形容詞については限定用法(名詞につくタイプ)と叙述用法(補語になるタイプ)の2つの違いが大事になることがあるので、やっぱりこういう文法上の名前というかカテゴリーをちゃんと意識しておくのは大事なんだなあって思いました。
あと慣用表現が忘れてたり初めて見たものが多かったので覚えておかないと。
学生時代から「〜すればするほど…」っていう表現、形としては覚えられるんだけどいざ使ってみようとするととまどう場面が多かったので、これを機にちゃんとモノにしよう。
それからちがうもの同士の比較じゃなくて、おなじもののなかでの比較に使う表現。
窓は横幅より縦幅のほうが長い、とか
なになにはAというよりBだ、みたいな。
とくにこれは more 原級 than のかたちで表現されるので全然忘れてたなあ。
とりあえず、今日は充実。
「バカでもチョンでも」という慣用表現における「チョン」とは「朝鮮人」を指す差別用語である――
という言説に対し、
「バカでもチョンでも」における「チョン」は朝鮮人のことではない――
とする反論がなされて、いまではそれが定着している。
頭が悪い人に対する「ちょん」という蔑称は江戸時代から存在しているので、朝鮮人に対する蔑称とは別物だ、というのがその主張である。
まず、その頭が悪いという意味での「ちょん」の語源はどう語られているのか、と調べてもはっきりしない。
拍子木の「ちょん」という音に由来する説と、「ゝ(ちょん)」という踊り字に由来する説とが一応あるが、それがどうやって「頭が悪い」という意味になったかの説明は曖昧である。
公益役職などにおける役務を帳票に記す際、筆頭名主は役職名と姓名を記したのに対して、筆頭以下の同役に対しては「以下同役」の意味で「ゝ(ちょん)」と略記したうえで姓名を記したことに由来し、「取るに足らない者・物」を意味した。
などとWikipediaに書かれていて多少の納得感があるが、これは定説にはなっていないようである。
一方で「ちょん」の最古の用例として挙げられるのが、仮名垣魯文の『西洋道中膝栗毛』である。
ちょん
[名]
4 俗に、頭の悪いこと。また、おろかなこと。
「ばかだの、―だの、野呂間だのと」〈魯文・西洋道中膝栗毛〉
しかし、「ちょん」の用例が、明治三年の『西洋道中膝栗毛』よりも遡らないのであれば、そもそも江戸時代からあったとする話は怪しいのではないか。
西洋道中膝栗毛での実際の表記は「馬鹿だの豚尾だの野呂間だの」で、「豚尾」に「ちょん」という読み仮名がついており、これは明らかに当て字である。
日清戦争(明治二十八年)の頃には、中国人の蔑称として「豚尾」「豚尾漢」などが使われていたらしい。
明治三年の時点で「豚尾」と「中国人」が結びついていたかは定かではないが、仮に「チョンは朝鮮人ではなく中国人の蔑称だった」なんてことになるとややこしさが極まってくる。
あるいは、「バカでもチョンでも」という表現は、明治や大正の頃でさえ広まっていなかったのではないか、という疑問もある。
調べてみても『西洋道中膝栗毛』の他に同時代の用例は出てこない。
Google Booksなどで検索してみても、どうも広く使われるようになったのは昭和に入ってからだという感じがする。
一方で、朝鮮人が「チョン」という蔑称で呼ばれるようになった時期はいつごろだろうか。
こちらの時期もはっきりとしないが、戦前に遡ることは確実である。
となると「バカでもチョンでも」が広まった時期と「朝鮮人=チョン」が広まった時期とが接近してくることになる。
朝鮮人のことを「朝公(あさこう)」と呼んでいたのが「チョン公」となり「チョン」となった、というのが一応の定説である。
が、頭が悪いという意味の「ちょん」と掛けて朝鮮人のことを「チョン」と言うようになったという説もある。
そうであれば無関係どころかがっつり関係している気がするが…。
1960年代に自動露出のコンパクトカメラが発売されて「バカチョンカメラ」と呼ばれるようになった(ただしこれはVacation Cameraの日本語読みという説もある)。
一種の流行語のように気軽に「バカチョン」と言われるようになったのはこれ以降である。
それから1975年には三笠宮崇仁親王が言った「バカチョンカメラ」が差別用語とみなされて抗議を受けたという。
以降、散発的に抗議が起こり、「バカでもチョンでも」は差別用語である、とする認識が1980年代に形成されていった。
「バカでもチョンでもは朝鮮人のことではない」といったカウンターが盛んに言われるようになったのは1990年代からか。
以上から、「バカでもチョンでも」のチョンはやはり朝鮮人のことであった…などと強弁するつもりは、もちろんない。
ここで言いたいのは「『ちょん』という蔑称は江戸時代から存在していて朝鮮人に対する蔑称とは別物だ」という主張は怪しいぞということだ。
友人と飲んで二次会どこ行くよってなったノリでホストクラブの初回に行った。
入れ替わり立ち代わり色々なホストが現れて、10分弱ぐらい喋っていく。
どうもホストクラブの初回というのはそういうものらしい。通うとなると特定のホストを指名してその人についてもらうことになるが、初めての客は誰を指名していいか分からない。だから、色んなホストと少しずつお喋りして最後に一番良かったホストを選ぶ。で、選んだホストと連絡先を好感しエレベーターまで見送ってもらう。
指名できるのは2回目以降かららしい。なるほど、そういうシステムなんですね。まあ二度と行かないけど。
で、出てきたホスト全員馬鹿で死ぬほどびっくりした。ヤバい。会話が成立しない。いやするけど。成立する範囲で当たり障りのない話をすれば成立するけど。
なんていうかものを知らなすぎる。言葉を知らないからめちゃくちゃ会話が止まる。何の仕事してるのって聞いておいて言ってもその仕事が世の中に存在していることを理解していない。
病院で働いてるのは医者と看護婦だけだと思ってるし学校で働いてるのは先生だけだと思ってるとかそんなレベル。
慣用表現なんか使おうものなら何の台詞って聞かれる。いややべえよ。
まあでも知らないことを知ってるふりする能力は高い。だから最初はまさか何も理解してないなんて気づかなかった。最初だけね。すぐボロが出るけどね。
とはいえはちゃめちゃに顔が良かった。私は現実では全く面食いではないんだが、とにかくヅカ系の王子様が大好きで、つまりお化粧バリバリの王子系ホストの顔面が大好き。
もう、喋らせるとね、あ、この王子マジで馬鹿だわって夢から覚めてしまうのでずっと顔面を褒めてた。
きゃー!顔がいい!顔面が重要文化財!立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花!!!!!
まあ重要文化財って何って聞かれたけど。うん、オスカル様はフランス人だもんね、世界遺産は知ってても重要文化財は知らないよね!しゃーない!
というわけで初めて行ったホストクラブ、オスカル様みたいなビジュアルの男を褒めちぎり倒してめちゃくちゃ楽しかったけど、オスカル様はフランス人だから全然日本語を知らなくてビビりました。
つらいけれど、誰にでもできるというのは
つらいという気持ちに耐えられないひとはできない。そうでなければ、まぁ、何がしかの仕事は割り振れる。
つまり、ある例外を除いたら、できる人が多い。といういみなので、本当にだれにでもできるという慣用句ではない。それに対して、さらにつらい部分が多いと注釈がついている。
誰にでもできるというのは100%という意味ではなく、まぁ希望者で7割、人口だと10%とかそのぐらいあれば、結構多いというのを慣用句的に含んでいる。
もし本当にだれにでもできるとすると、1人でも例外がいてはいけないということになるが、国中探せば1人はみつかるだろう。
つまり慣用句として3年ぐらい下積みを頑張ればなど、あるていどの足切りがあって、その足切りのレベルが簡単な部類だよといういみ。
そして、実際、結構な人が可能なようにみんなでがんばっている業界。優しい仕事を、自分たちで隠さずに初心者にまわして、きっつい仕事を先輩がやってくれているよという意味
海運の現場において重要な役割を果たすスキルに専門性をお持ちの方にとって法や政策の問題が専門外なのは仕方ないけど、ちょっと問題が多すぎる。
検査を強制することはできないという結論は正しいものの、legally-binding とはいえ、IHR(とその国内法化)に直接根拠を求めるのは不適。陸で強制的な検査ができないのと同じこと。
自発的な協力を引き出すことに加え、間接強制も、事前の法整備があればおそらくは可能。
旗国主義は歴史的な経緯に基づくもので、かつては実際に「海に浮かぶ領土」として解されたが、現在ではむしろ運航の便宜のための制度として位置づけるのが通説。
内水 internal waters とは、領土の基準線以内にある水域のことで、港の工作物も領土とみなす。すなわち、港は内水となる。
UNCLOS では内水は旗国主義の例外であり、旗国 Flag States ではなく沿岸国 Coastal States の法的管轄に属す。
ただし、船員 crew については、内水においても旗国の法的管轄となる。その意味で「治外法権」と表現されることはある。
入港拒否を基礎づける法的根拠はない(むしろ、相互主義のもと、救助についてはすべての国の義務とされている)。
ただし、現実的な理由から受け入れを拒否することはありえる。グアムのような飛び地であったり、自国の医療も整備されていない発展途上国では、受け入れたところで医療リソースが足りない蓋然性が高いことから、拒否が乗員乗客の利益になりうる。
ダイヤモンド・プリンセス号の旗国はイギリス、母港はロンドンであり、そこへ行くことも不可能。
主権の発動として任意に入港を拒否することは依然として可能ながら、海事であれそれ以外であれ相互主義の上に立つものであることを忘れていはいけない。
ましてやダイヤモンド・プリンセス号は横浜を発って横浜へ戻るはずの船だった。中国を除けばアジア最大の先進国である日本が入港を拒否すれば、対日世論に与える影響は計り知れない。
ちなみにウェステルダム号は香港発であり、おそらく(当時陽性反応が出ていなかった)船の側の判断で香港へ引き返すことを避けたものと思われる。日本政府はウェステルダムが香港に戻ることを前提としていたと報じられている。ダイヤモンド・プリンセスの受入とウェステルダムの拒否という二つの判断は矛盾しておらず、むしろ一貫している。
「水際」というのは単に日本特有の慣用表現・言い回しであって、なにか「水」の「際」であることを必要とする根拠があるわけではない。
「水際」を border の意味としても、どれだけ対策を強化しても感染症をそこで止めることは不可能というのが常識であって、市中へ拡散した後の抑え込みと一体的に取り組む必要があるというのが専門家が述べているところである。