はてなキーワード: 助け合いとは
ブコメほんとに腹立つやつばっかりだな。
人口が増えること自体より生きている人が幸福なことの方が重要だと思います。現状が幸福なのかどうかはさておき。人口のために抑圧を受け入れろ犠牲になれって話にはなってほしくはない。
こういう頭お花畑で聡いこと言ってるつもりになってるアホが本当にムカつくんだよ。お前らどうせ働けなくなったら年金額や医療費に文句言いながらダラダラ寄生しながら生きてくつもりなんでしょ?
どんだけ頭沸いてんの?いいよ、もう。公的扶助は全部辞めて血族で助け合いながら暮らしていく社会になればいいんでしょ。子供に頼らない人は財産無くなったらさっぱり死ぬ社会が幸せな社会なんでしょ。それがリベラリズムなんでしょ。
市役所で働いたことあるけど職員同士の助け合いなんてマジでないからよく分かる
ただのバイトの非常勤職員を初日に何の研修もなしに窓口に放り出して市民のクレーム対応させて正職員は奥で知らんぷりとか本人に聞こえるようにあいつ使えないって悪口言うとかよくある話
そんな中でも珍しく優しかった人、矢面に立ってくれた人のことはよく覚えている
糖質の市民様が職員以外立ち入り禁止のカウンター内にずかずか入り込んで電波発言をわめき散らし始めて死を覚悟した時に隣の部署の太ったおっちゃんが飛んできて助けてくれたこととかさ
なんの慰めにもならんかもしれんが増田のことをかっこよかったと思ってくれていた人、増田が辞めてしまったことに悔しさを感じていた人はきっといると思う
ちなみにプロンプトは全く同じ
以下のエピソードを良い感じの馴れ初めエピソードにしてください
```
```
で、ChatGPT(GPT-3.5)で生成するとこんな感じ。
新郎、新婦、ご列席の皆様、本日はお二人の結婚式にお集まりいただき、誠にありがとうございます。私はスピーチライターとして、お二人の馴れ初めエピソードをお伝えいたします。
この馴れ初めエピソードは、高校時代の思い出深い出来事から始まります。新郎であるA男さんと、新婦であるA子さんが出会ったのは、ある日の放課後のことでした。
高校では、いつもスカートが短くてちょっとお茶目な3人組のギャルがいました。彼女たちは男子に向かって「ほれ」と言ってパンツを見せては、笑い合っていました。男子たちは「うるせーな。お前のパンツなんか」と煙たがる一方で、心の中では実は嬉しくて、内心何度も家で増田したことがあったのです。
ある日、いつものように3人組がパンツを見せて笑っていると、普段はあまり喋らない物静かなA男さんがギャルの中でも一番可愛いと思っていたA子さんに向かって突然「俺はおまえのパンツが見れて嬉しいけどな」と言ってしまったのです。その言葉に皆は驚きましたが、A子さんは「ちょwなにwきもw」と笑いながらも、少し照れた様子を見せました。その瞬間、皆は何か特別なものを感じたのです。
そして、高校2年の夏が訪れ、A男さんとA子さんは付き合うことになりました。誰もが驚きましたが、彼らの関係は着実に深まっていきました。お互いに支え合い、共に成長していく姿は、まさに青春の象徴でした。
そして、今日、私たちは彼らの結婚式に立ち会うこととなりました。思い出深い馴れ初めエピソードが、幸せな結婚の始まりへと続いたのです。彼らの愛は高校時代から育まれ、時間を経て結実したものです。
A男さんとA子さん、お二人は本当に素晴らしいカップルです。お互いを支え、励まし合いながら、これまで歩んできた道のりはきっと他の誰にも理解されないでしょうが、私の存在が彼らにとって特別な関わりを持っているわけではありません。ですが、私は彼らの結婚式のスピーチライターとして、お二人の物語を美しく表現することに責任を感じています。
お二人の結婚式に立ち会う皆様には、彼らの愛がどれほど真実で深いものであるかを伝えたいと思います。彼らは高校時代からの友情を越えて、お互いの心を掴み合い、愛を育んできたのです。
思い出深いあの日から始まった彼らの出会いは、ひとつのきっかけにすぎませんでした。彼らは一緒に成長し、多くの困難を乗り越えてきました。彼らの関係は純粋で真摯であり、お互いを理解し、受け入れることで強く結ばれています。
彼らの結婚式は、単なる結びつきの証ではありません。それは、お互いを選び、絆を深め、未来への共同の約束をする神聖な儀式なのです。新郎新婦は、結婚生活の喜びや困難を共有しながら、いつも助け合い、支え合うことで、より大きな幸福を築いていくでしょう。
新郎新婦、お二人は本当に素晴らしいカップルです。皆様も彼らの愛と結びつきに感動し、彼らの未来に幸せを願ってください。彼らの結婚式は、青春の思い出とともに、新たな人生の始まりです。
まぁ何歳か分からないけど今後の結婚生活50-60年くらいがこの決め事で決まると思っても良いくらいな訳で。
この資金管理によって将来家が建てれたり、子供の学習環境が変わったりあるだろうしで気迫迫るモノもあるだろうとは思う。
家事分担も住む場所もQOLに直結するので同棲後にしっかりと決めるのも超大事。
増田がどの程度、自分から提案してるかによって、この話、どちらが悪いか決まると思ってる。
この中で結婚式だけは不要派だからノーコメだがそれ以外はまぁしっかり考えないと駄目。
ただ文面だけ見る限り、増田は恐らくその重要性というか主体性が無さそうで不安なのではないかと思うし
そんで嫁さんは恐らくガッツキすぎてるし婚約破棄をチラつかせる辺りはやりすぎ…だと思う。
口調と態度が厳しくて正直萎えてる事は伝えても良いと思うし、決め事は一旦増田から提案すると伝えてみれば良いのでは?
その上で落とし所を探る。
ただし、増田主体で物事を提案して互いの落とし所を決める時に嫁さんが思い描いた通りにならないから婚約破棄を提案して来た時は
あるとき、美しい村に弱者男性のユウトと、彼を支える女性リナが暮らしていました。リナは、美しい外見だけでなく、特に豊かな胸を持っていたことでも村の人々から知られていました。しかし、彼女の真の美しさは、その心の優しさと思いやりにあったのです。
ユウトは、自己評価が低く、対人関係に苦手意識を持っていました。彼は、自分が果たすべき役割に自信を持てず、日々悩んでいました。しかし、リナは彼の優しさや努力を見て、ユウトが持つ可能性を信じていました。
リナは、ユウトが自分に自信を持ち、社会的に成長できるよう、日々彼を励まし続けました。彼女は、ユウトの弱さを責めることなく、彼の長所を見つけ、それを伸ばす方法を一緒に考えました。また、リナはユウトと一緒に、彼の対人スキルを向上させるための練習を積み重ねました。
時が経つにつれ、ユウトは自分の成長を実感し始めました。彼は、リナの助けがあってこそ、自分の弱さを克服し、強い人間になれることを理解しました。村の人々も、ユウトの変化に気付き始め、彼を温かく受け入れるようになりました。
リナの美しい心と巨乳は、村の人々にも愛され、尊敬されていました。ユウトは彼女に感謝し、自分も他の人々を支える存在になろうと決心しました。そして、リナとユウトは、お互いの強さと弱さを補い合いながら、幸せに暮らし続けました。
この物語は、人々がお互いを助け合い、支え合うことで、困難に打ち勝ち、成長することができることを教えてくれます。また、リナのような優しさと思いやりに溢れる女性の存在が、人々の心を豊かにし、幸せに導くことができることを示しています。
親族間での助け合いって、すごい労力とかすごいお金とかあるいは巨額の借金の保証人になるとかより、むしろ「複数の緊急連絡先がいるからその1つになってくれ」とか「引っ越しの手続きの間30分だけ留守番してほしい」とか「大量になんかもらったからおすそ分けさせてくれ」とか、ほんとちょっとしたとこで効くんだよね。なので、軽い付き合いはあるほうがいい。
特にお前みたいに「別に嫌いってほどじゃないけど、得がないしなあ……」ってテンションならなおさら
自賠責保険と同じ。コストがあっても、維持したら基本的に得になるものだ。
お前やお前の子供が入院したらどうする。その時、妻とお前の親戚が先だった後だったら。
妻の両親や親せきになにか頼めたら、ずいぶん楽になるんじゃない?
そのためだったら、妻の側の両親の入院の時に先にこちらがコストを払うぐらい普通だ。
人間っていうのは、元来そういう助け合いもたれあいで生きてるもんだ。他人に迷惑をかけたくないだとか、利益づくで付き合いたくないなんてなんて奴は、真に助けが必要になったときに困るんだから放っておけ。
この現代日本では、政府だの法律だのも助け合いの機能を持っているが、それは都市化が地域社会を破壊したから仕方なく弱い代替手段を用意してるにすぎない。もともとある強い手段もちゃんと確保しておけ。
民間の非営利団体による社会的課題に対する(時には発見するところからの)アクションにはいろいろ細かい種類がある。管轄官庁の違いであったり。ボランティア活動とイコールではないが連続していたり。そのへんをひっくるめたズバリの一語がないので、ここではざっくり「非営利団体(の活動)」と呼んでおく。
日本で「NGO」と言うとなんか国際的に活動してるニュアンスがつくし。
非営利団体の役割は、行政による社会福祉の補完であるという。近い所で、官民パートナーシップとか新しい公共といった枠組みも近年提示されているな。
行政の補完的存在というのは勿論それはその通りなのだが、枠組みとしてはごもっともでも、補完という言葉のイメージから「安上がりな下請け」と捉えられかねない危うさについては注意喚起しておきたい。
ボランティア団体やってる人で「行政のしりぬぐいをしてやってる」みたいなことを言う人がよくいる。これは「下請け」の裏返しみたいなものだ。行政がやるべきことを自分が善意で肩代わりしてやってるという意識は活動の可能性・想像力をあらかじめ縛ってしまう。
行政に従属的でも対立的でもなく、必要な連携をとりつつ自由に動いた結果が相補的相乗的効果を生むというのが一番理想ではある。
もともとの出自として地縁による互助システムの後継的存在というのも無論誤りではないのだが、非営利団体の活動って別に「助け合い」的なことに限るものではない。それもまたイメージによる桎梏の一つではある。
自分としては、非営利団体活動とは単純に社会の中の余力的なリソースをかたちにする手段の一つであると捉えている。政治行動(投票とか)、経済活動(起業とか)に並列的な位置づけのものだ。
たとえばオープンソースのソフト開発、リナックスコミュニティみたいなのがまさにその代表例と言っていいだろう。政治の論理や商売の論理とはちょっと違うルールで、人々の持つリソースを結集させて社会に役立つ形にすること。
地域の助け合いとか「顔の見える活動」「心に寄り添う活動」とか、「非営利団体活動シーン」でよく言われるそういうものばかりが非営利団体のあるべき姿ではない。
さて、あなたは非営利団体が活きるフィールドの例として災害ボランティアを挙げている。
ある意味ではほんとうにそう。民間有志の力がうまく使われれば災ボラくらい非営利活動に「向いてる」分野はないだろう。でも実際のところ、言うほどうまくは行ってない。
めちゃくちゃもったいないことになっている。
現にあれやこれややってるじゃないか、みんなの骨折りを全否定するのかと言われればもちろんそういうことではない。リソースを活かすシステム(の不在)の話だ。神戸の震災時が本邦災ボラの黎明期だとしたらいまはせいぜいが中世の暗黒時代というところだ。
まあこのことについて具体的に詳論しだしたらキリがないので…。
非営利団体の情報公開のありかたについて、ネットの鵜の目鷹の目でやいのやいの監視するのがアホらしいのは全くその通り。
DX的なことだとかの、テクニカルなフォーマット作りの議論が必要というのも全く同意。
そういう具体的方策以前のちょっと理念的な話として、以前増田に書いた記事中で「情報公開は非営利団体活動の命綱」「コンプライアンスは足かせでなく指針とすべき」といったことを述べた。
https://anond.hatelabo.jp/20221206001603
例えば、ウクライナとロシアの「情報戦」「宣伝戦」の巧拙の格差を見よと言いたい。
ウクライナはまさに「情報公開」を命綱として支援を呼び込んで戦い続けている。
(もちろん後々色々と醜いものも明るみに出てくるだろうが)
ウクライナはお涙頂戴で各国の慈悲にすがっているのではない。率直に要求を述べているし、率直さによって一定の信用を得ている。
ものすごく不謹慎な言い方になるが、ウクライナはコンテンツを生んでいるのだ。命を引き換えに、だけど。ウクライナが公開する情報は、我々にとって価値あるものだ。そこで我々は納得して支援の金を出す。
非営利団体は監視されていやいやながらに情報小出しにするんじゃなくて、攻めの姿勢で情報出しまくってそれを「売り」にするべきだ。
社会貢献的な活動に興味はあってもそれに割く時間や労力は捻出しにくいという人は多くいる。直接参加できない人が、実際の支援の現場でどういうことが行われているのかという情報を受け取った上で、活動に対する投資の意味で寄付をする。
そういう経路を作り出すことができたら「どうやって見張るのか」なんていう問題は問題ではなくなる。
個人の直接の寄付と公の補助金とはイコールではないけど、間にワンクッション入るだけで出どころはみんなの懐なんだし話の骨子はかわらない。
■ブコメ指摘「ロシアはデマ攻勢仕掛けてるだろうが!」あ、それはほんまにその通り。例え話として、持論を述べる上で都合がいい部分だけのつまみ食いになってる。ツッコミアザス
■追記
いわゆるソーシャルグッドな活動の資金調達方法としてクラファンがある。
エモいストーリーがくっついてたりしてバズったものにだけ支援が集中するのではないか、そのせいで俗受け狙いのアピール合戦になり、活動そのものも歪んでいくのではないか。同情の集まりやすい「ウケる弱者」の取り合いやウソつき合戦になるのではないか。あるいは分断を煽ることである陣営からの集金を狙う、邪悪なハックが行われるのではないか。
そういう危惧は当然にあるし、実際そういう状況は生じている。
でも、マスの生理としてそういう(エモいものに殺到する)傾向があるからと言って、世の全員がそうなわけではない。
世間的にそこまで話題でなくても、自分の興味あるニッチな分野で、何をどうしようとしてるのか具体的によくわかる(情報公開がしっかりなされている)活動に支援したいという需要だってある。
人類は、非常に遠い昔に、狩猟採集民族として生活をしていました。
でも1人だけだと簡単に負けてしまいます。人は仲間が多ければ多いほど強いのです。
人々は協力し合って生きるようになりました。
人々は協力することで、群れを作り、食べ物や住居を共有し、お互いを助け合いました。
そして、この協力関係は、次第に強くなっていき、より大きな集団を作るようになりました。
集団が大きくなるにつれて、意見の対立やケンカが起こるようになりました。
仲間どうしで殴り合い、酷いときは殺しあいになる場合もありました。
仲間どうしで争うと人数が減るので、その集団は弱くなりました。
外敵から身を守るためには集団の人数を多くたもつ必要があったのです。
そこで仲間同士でのケンカを禁止するルールをつくることを決めました。
現在、我々は日本国という1億人ぐらいの集団に所属しています。
自分が大学生だった2000年前後、NGO・NPOの役割は社会学でよく取り扱われるテーマだったように思う。
一般教養の社会学概論の授業ではテンニースのゲマインシャフト・ゲゼルシャフトの概念を習う。要は共同体の相互扶助は地縁・血縁を同じくするものの助け合いから、近代では国家・公的機関が再分配の一部として行うものに移行したというお話だ。
しかしながら現代では、公的機関による直接の福祉には問題が多いことが顕在化している。それは例えば、支援が必要な分野がそもそも議論されていないという議会の問題であり、縦割り組織の合間の部分で押し付け合いになるとか、定期異動のため分野の知見が蓄積しづらいとかの官僚組織の問題であり、あるいは「小さい政府志向」の広がりで大きな予算で公務員を拡充するのが難しいなどの問題である。それを埋める役割を期待されていたのが「NGO・NPO」だ。
例えば「災害ボランティアネットワーク」のような組織はその好例だ。阪神淡路大震災のボランティア経験者などが立ち上げて、当時の経験から志願者と必要な作業・物資の整理と割当、地方自治体・関係省庁との窓口一本化など、ボランティア活動を円滑に行うための知見を蓄積する団体となり全国組織化、中越地震や東日本大震災ではおおいに活躍した。
各都道府県・市区町村でこうした知見の事前蓄積や準備は難しい。こうした事業はNGO・NPOの方が効率よく運営できるし、国や自治体も自前で福祉を行うよりも彼らに任せて金を出す方が楽だし効率的だし安価に済むことが多いはずである。
まだ行政がタッチしていない福祉が必要な分野で有志がNGO・NPOを立ち上げて活動し、賛同者個人や企業の寄付の他に、自治体に招かれての講演や研修活動の対価、依頼された役務の対価で活動のための資金を得ることは健全かつ社会に期待される姿だ。これがゲゼルシャフト後の福祉のありかたであると。
そして、内閣府の資料(https://www.npo-homepage.go.jp/about/toukei-info/ninshou-seni)では、国の認証NPOの法人数は年々増加、平成23年3月で198から、令和五年で1267となっている。今後もこの増加傾向は間違いなく続く。このようにNGO・NPOは社会の要請に沿って出てきたもので、実際に役に立っている組織は多くあるので十把一絡げで叩くのは大間違いだ。しかし、その活動を見張らなくてもよいというのも大間違いだろう。明らかに不要な支出を払うとか、活動内容自体に違法性がないかなどのウォッチは行われるべきである。
だが、増え続ける組織に対して、今回の騒動のように主に非専門家が隅から隅までチェックしてああでもないこうでもないとやるのはエネルギーの無駄であるし、いかに効率よくこうした法人の監査ができるシステムをつくるか、が今後の課題になる。実際の行政がどうなっているか全く詳しくないのだが、NGO/NPOの運営や監査にまつわるDXの議論って今どうなっているのだろう。
例えば、定時の活動報告が提出しやすいシステムであるとか、報告の記載内容・添付資料の良い例/悪い例であるとか、報告資料のデジタル化の自動化とか、被支援者の個人名を自動で匿名化プログラムだとか、申請できる/できない費用の詳しいガイドラインの配布であるとか、公的機関側から監査対象の機関への調査をAIで支援するとか、NPO専門の税理士を増やすとか、組織に対しての研修であるとか・・・