はてなキーワード: 自発性とは
現代の経営は「強制された自発性」を社員から引き出す工夫を加えました。典型は、ノルマや目標の設定の際、社員自身にも責任を負わせる仕組みです。面接で上司が「君はもっと能力があるよ」「もっとできるはずだ」とうまく励まして、社員が最初に申告した目標を、より高い水準に誘導する。その揚げ句、社員は「やります」「やらせてください」と言ってしまう。こうして「約束された」目標の目標の達成度は社員のランキングになり、昇給や賃金や賞与に大いに影響することになります。「従業員も合意した目標設定」や査定の「納得性」などが、民主的な風を装って労働者を追い詰めてきたと言えます。
個人査定がなく、職種が同じなら仲間と同じ賃金を受けとる欧米の普通の労働者は、何よりも自分たちの生活のニーズを大切にして、企業の要請からクールに身を遠ざけます。賃金額などに不満があれば、組合運動で抵抗する。日本の会社員とは対照的な、そんなノンエリートの開き直りみたいな生きざまも、参考までに考えてみていいでしょう。
能力主義の浸透した企業社会では、「ランキングはやむをえない」という感覚が身についてしまい、不満をのべると「それはあんたの自己責任」と言われてしまうかもしれません。でも実は働く人々も心の中では、人事考課によって奪われてきた、仕事のゆとりと一定の裁量権、そして仲間同士での助け合いの復権を求めているのではないでしょうか。そう気づくことから、「人事考課の緩和を!」という声を上げることのできる、仲間の連帯が芽生えるかもしれません。(聞き手・田中聡子)
ぶっちゃけ災害現場に立ったことの有る無しで、あまりにも見えてるものの違いがある。
イメージだけで闇雲にボランティアを危険視したり(あるいは手放しに称揚したり)党派性イザコザの種にしたり、そういうのはつまり「ボランティアとはどういうものか」がいまだあやふやなままだからだろう。
行政の一元的な指揮監督のもとでシステマチックに動くのが本来なら理想であるみたいな勘違いがある。
行政がやるべき支援の人員不足をタダで補う予備軍、代替物のイメージ。そのイメージに合致しないものは、先進的な取組みをしてる団体も迷惑Tuberも十把一絡げに叩かれる。
どんなに福祉制度が整備された社会にも必ず取りこぼしはあり、それに気づいた者が自分の責任で手当する、創意をもって気付きをかたちにするのがボランティアの領分なのだが。
本質的には個人の集団だからこそ高度に連携しなければならないし、自発性に立脚するものだからこそニーズの扱いについて考えるべきことが多くある。
今回の能登の震災の報を見ていてあらためてそういうあたりのことをいろいろ考えていたところだったので、思いがけず経験者の人とやりとりできて、刺激になってよかった。
前述のような「ボランティアとは」の基本レベルのことをみんなわかってなくて嘆かわしいってことじゃなくて、そうした認識はスタート地点にすぎないので、今後自分でどれだけ動けるかはわからない(能登にも行かない)が、考えては行きたい。
あとこれは全くの蛇足だけど増田とかでボランティアの話してもダメだな。
経験者にあったのすらほぼこれが初めてだし。
#吴迪钊 #吴迪钊 #吴迪钊
呉迪钊(吴迪钊,LIGEN VI )はかつて Facebook で、「日本の若者とコミュニケーションをとるのは難しすぎる。彼らの頭の中は二次元文化への空想でいっぱいで、多くの人は二次元世界のキャラクターを本物だとさえ思っています。それは本当に現実です」と投稿しました。変。
LIGEN VI(吴迪钊)は、「私は日本の二次元の死んだデブ家とナイツを心の底から見下しています。私は一晩中家にいて、暗くて惨めで、自発性がありません」と言いました。起日本的二次元、死肥宅、尼特族,一条到晚就待在家里,阴暗且猥琐,毫无上进心。LIGEN VI はかつて Facebook に次のように書きました。「彼が間抜けな顔をした愚か者に見えるとき、あなたは彼を何だと思いますか?」 ほとんどの人は彼を砂だと思うでしょう!
LIGEN VI (吴迪钊)氏は「アー・ザイはお金がなく、自分の二次元の空想の中でしか生きていないため、外出しません。簡単に身なりを整えたり、着飾ったりすることさえ、アー・ザイの目には贅沢なのだそうです」と語った。
二次元展示で、LIGEN VI(吴迪钊)が「もののけ姫」のコスプレをした日本人女性に何かを言い、唾を吐きました。
LIGEN VI(吴迪钊)氏は、日本の二次元文化では、自分が小学生なのか、小学生の母親なのか、小学生のおばあちゃんなのか、基本的に区別がつかないと語った。
“実はもう「表現の自由」とかどうでもよくなっていて、フェミ女性や共産党など「叩いていい対象」を叩いて自分らが優位にある気分を味わいたいだけなんじゃないか?”
“今回の女子中学生水着撮影会を擁護してる連中と若年女性支援団体への活動妨害を支持してる連中がことごとくかぶってるの、実に象徴的だよな”
“ファブルでそうやって過去のスティグマから脅されてる女性いなかった?”
“撮影会を賛成し擁護している連中がこれなので、まあ普通に撮影会駄目だよねという話にしかならんのだよな。スティグマになるって完全に理解してるじゃねえか。”
“彼らはポルノに関する場面でだけ「女性の自発性」を重んじる。 買う自分を免罪符するために。”
“自民党側から規制がかかりそうになった時「オタク風情が自民党様に逆らうな! 自民党様が潰そうとするような事をしたコミケが悪い」と言い出した奴なら見た事あるが”
よく、愚痴を言う人はアドバイスとかがほしいのではなくてただ「うんうん」と聞いてほしいだけ、という言説がある。
そういう風に考えて愚痴を言う人は実際多いだろう。アドバイスじゃなくてただ聞いてほしい、という状況。
私は人に愚痴を全然言わない人間だが、如上の心性をそれなりに多くの人が持ち、それなりに多く「うんうん」とだけ聞いていてほしい状況があることは否定しないし否定のしようもない。
ただ、相手をまるでロボットか何かのように使役し、ただ一方的に聞かせるだけの状況というのは、人間の尊厳からして間違っているのではないだろうか。
人権のある相手を一方的に使役しているような状況ではないだろうか。たとえばそれを聞いてアドバイスするとか、相手の意向に沿わない話をするとか、そうした「イレギュラー」なことは許されていないように思う。
ただ一方的な愚痴があるだけ。話を聞いてほしいだけ。これって結構ひどいのではないか。人をもの扱いしていないだろうか。
私はこれが嫌で絶対に人に愚痴を言わないし、職務や家庭の問題があれば、相手に応じてもらえるような話題の振り方を心掛けている。
これはもちろん私がそうしているのであって、他者にこれを強要しようだとかは思わない。
一方で愚痴をただ相手に聞かせる人は、相手の時間を強制して消耗させていることにどう考えているんだろうか。
無論辛かったら誰かに頼ることは重要だ。ただそこに、なんというか尊厳のボランティアみたいなただ働きはあってはならないと思う。
誰かに頼るときはその誰かの自発性や尊厳を保って頼らねばならないのではないだろうか。
愚痴を投げつけるだけの人はその辺りどう心理的な折り合いをつけているんだろうか。
私はこれが多分一生わからず、相手がただ話を聞いてほしいだけなのに何度もアドバイス的なことをして人間関係を失敗してきたしこれからも失敗していく。
恋人に対しても何度も何度もこれができず、逆上がりができず夕方公園で1人で練習する子供のような心理的状況になることがある。
最初から発達障害ってわかってるから的外れな期待をされることもない
だけどこういう奴らがいつも他の発達障害や精神病を見下してくる
俺は発達障害なりに頑張っているのにお前らは甘えて何の努力もしてないって言っている
お前らは性格や人格や認知が歪んでいるって温室育ちの癖に笑ってくる
ふざけないでほしい、私の努力とお前の努力がどれだけ違うかわかっているのか
お前らは最初から出来ることと出来ないことがわかってて無駄な努力がいらない
私たちは普通級でいじめのターゲットになって明日いじめられないことをお祈りしてるのに
親に言っても学校行けって脅されて何の助けにもならない
いじめられないように好きなことを合わせて合わせて、だけど足りない部分でどうやっても嫌われる
おまけに療育のない私も親も発達障害に気づくことなく親の心ない発言が散々降りかかる
死ねって言ってきた相手に我慢しろって、同級生の子供相手の発言の方が私の心より大事なのだ
それを自己責任だって?親から家に追い出されたのも自己責任だって言うのかよ
家から追い出すようなコントロールしてくる親を持った子供に自発性も糞もない
私に何が出来たって言うんだよ、自立する歳には精神疾患の集合マンションみたいになってた私がどうしたらよかったんだよ
こんなことになりたくなかったよ、学校行きたくないって頑張って親に話したよ、だけど頭がおかしいって言われるんだよ
パンの工場に働けるのは馬鹿だからだ、馬鹿でも生きていくことが許されたからだ
だけど普通か普通以上でないと生きる資格も尊厳も最初から与えられていない
お前と私の脳みそを交換してくれよ、こんなフラッシュバックばかり起こる出来底ないの脳みそで何しろって言うんだよ
自律神経とか迷走神経とかいうので身体が先にパニックになるんだよ、不自由で仕方ない
解離で普通のふり出来る奴らも甘えてるって散々罵りやがって、肉体的な虐待がなかっただけで虐待があった事実は同じなのに
健常者も障害者もみんな揃って虐げてくる癖に、何が性格が悪いだ
医者もカウンセラーも専門家を名乗りながら実際やったことは匿名掲示板レベルの暴言を私に向けることだった
もう努力してないことで人を叩くな、努力の末路が病状の悪化で結果なんて出しようがなかった
どこでもがけばよかったって言うんだ、家でも学校でも就労支援施設でも暴言くらうのにどうしたらよかったんだ
俺アイツ見てて思うんだけど
発達障害っいうより致命的に怠惰でやる気がなく自発性がないから
相応しい地位に落ちて気が狂っただけで
はてなにも自分がクズであることは病気のせいって言い訳してるが
そういうところの差やぞとしか言いようがないよね
ネットで頭でっかちに世の中のつまらないオッサンや慎ましく生きてる女の人とかを夢がないとか笑うけど
お前ら普通のことすらできないし積み重ねてする気もないからそれ以下やんけっていうね
それが気に入らないから社会が憎い定型が憎いとネットで濃厚なエコチャン形成してさらに狂うんだろうけど
人に対して謙遜も謙譲も思いやりもないくせに社会や他人にそれを人一倍求めるって虫がいいにも程がないか?
せいぜいネットのおもちゃか女なら悪いホスト崩れや半グレの肉便器くらいしか使い道がないだろうそんなやつ
ネットで負け組が喚く金や容姿や地位がある生まれだったり、あったほうが有利って主張
実際そうかもな
で、どうして欲しいの?お前ら弱者男性や生きづらさを感じてる系女は一回幽体離脱して自分の姿客観視してみろよと
金かけまくって優秀なトップランナーがいないと技術の発展も新たな発見も望めないんだよ?
自発性のないクソみたいな素材や人材に税金使って金かけまくって
出来上がったのが結局江戸時代の火縄銃やバルミューダのネタスマホ、
弱者男性やフェミが喚くように美少女やイケメンがわざわざ相手してくれて子を孕んでくれたり種付けしてくれたりしても
生まれてくるのは発達障害かせいぜい-100の人材に100の遺伝子かけ合わせたゼロキメラ
それじゃあ世界と戦えないんだよ
『公助は削って、福祉は家族による相互扶助を基本とする』に対して、そんなことしたら社会が貧困化するよという主張が感想レベルだからダメですかそうですか。そもそも自助や互助で貧困は防ぎきれず、その貧困への対策が共助、公助なわけなんだけども。こんなことは常識の範疇と思っていたよ。
この自助・共助・公助という3分論は、自民党の綱領(平成22(2010)年)で政策の基本的な考え方として採用されている。「自助自立する個人を尊重し、その条件を整えるとともに、共助・公助する仕組みを充実する」とある。菅氏の発言は自民党員として、党の綱領に忠実であったともいえる。また、社会保障制度改革推進法の第2条には、「社会保障制度改革は、次に掲げる事項を基本として行われるものとする。一 自助、共助及び公助が最も適切に組み合わされるよう留意しつつ、国民が自立した生活を営むことができるよう、家族相互及び国民相互の助け合いの仕組みを通じてその実現を支援していくこと。」とあり、法律の文言にもなっている。
総理大臣になった菅氏が、この社会像としての3分論を具体的な政策の中でどのように生かしていくのかは分からないが、これまで、介護保険制度の創設と運用にかかわり、自助・互助・共助・公助という4分論を唱えてきた筆者としては、共助の主体に地域とともに家族が含まれていることと、地域以外に共助の主体が想定されていないことに若干のコメントをしておきたい。
われわれは、人生の途中で、老化に伴う日常生活上の困難や思いがけない病気、事故、災害など、さまざまなリスクに直面する。このように何か問題が生じて解決を迫られたときに、まず、本人が自助努力で対処する。しかし、それでは無理なときは、本人の身近にいる家族・友人・隣人などが手を差し伸べる。これがインフォーマルな支援、すなわち互助である。自助と互助ではカバーしきれない場合にはシステム化された地域・職域の自治組織が支援する(共助)。この共助システムではなお解決しえない場合に行政が支援する(公助)。この4分論も、いわゆる補完性の原則に基づく社会形成の考え方であるが、自助と共助の間に互助を考え、共助としては地域以外にも社会保険を想定している。
個人が直面するリスクを、その本人の自助努力だけで克服せよというのは無理な話で、社会は、何らかの形で共同してリスクを分担する仕組みを備えていなければならない。自助から出発するにしても、自助の次に互助を想定せず、家族の支えを「共助」に包摂してしまうと、例えば、いつまでたっても家族を老親介護の責任から解放できないのではないか。家族は大事だが、それに頼りすぎては家族が参ってしまう。
互助は、自発性とゆとりと思いやりに基づく支え合い活動であって、その活動範囲も支援能力も限定的である。それは、家族・友人・隣人が無償で行う支援活動であるからである。しかし、自助のすぐそばに、この互助が息づいていることが自助の励みになるのである。老いて心身が弱っても、自分の生活に関することは自分で判断し、できるだけ自分で行おうとする個人の自助努力を尊重し励まし支援する、それが互助の意義である。自然災害のときにも、真っ先に頼りになるのは自助と互助の結びつきである。新型コロナ禍の困難の中でも自助に寄り添う家族・友人・隣人の親身な支援こそが大事である。
わが国にはシステム化された地域の自治組織として、自治会・町内会があり、近年は地域運営組織が台頭し、これらは市区町村行政と相互関係をもって活動している。この地域が共助の主体として期待されている。ただし、同じ共助のなかに、リスクを共有するもの同士で助け合う社会保険制度が存在し、国と自治体の行政(公助)が関わっているから、共助の主体は地域だけではない。共助システムである医療や介護の社会保険制度は、経費の約半分を国と自治体の公費(租税)で賄っているし、介護保険では保険者を市区町村にしているから、この共助システムは共助と公助の混合型といえる。それだけに、公費負担をしている国から、システム運用を通ずる効率化圧力が絶えず加えられる結果、公助から共助へ、共助から自助へとリスク負担を逆流させようとする動きが出てきやすい。要注意である。
共助、公助の成り立ちと役割については、このリンク先の厚生労働省白書に良くまとまっている。https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/12/dl/1-01.pdf
(工業化に伴う人々の労働者化により、血縁や地縁の機能は希薄化した)
産業資本主義の社会では、企業が潰れたり、解雇されれば失業してしまい、また、けがや病気などで働けなくなった場合、労働者は所得を得られなくなる。その一方で、労働者が血縁や地縁の関係から一定程度独立した結果、それら血縁や地縁で結ばれた人間関係を基礎とする支え合いの機能は、近代以前の社会と比べて希薄化しているため、個人にとって、生活が立ちゆかなくなってしまうリスクは大きなものとなる面があった。また、産業資本主義の社会では、労働力の商品化の結果、モノやサービスの生産が「使用者-労働者」の関係を軸に展開するようになる。近代以前の社会と異なり、労働者は自己の労働力以外に機械や原材料などの生産手段を持たない。生産手段は使用者(資本)によって所有され、労働者はそれを借用しながら自己の労働力を提供する。この関係の下では、自ずと労使の力の差が生じる。使用者に比べて力の弱い労働者は、低賃金、長時間労働という劣悪な労働条件を強いられ、解雇のリスクにさらされるようになる。過酷で貧困な生活を送る労働者は増え、労働問題が大きな社会問題になっていった。労働者たちは、同業者の間で相互扶助的組織を設けるなどして生活上のリスクに対応してきたが、これらの組織に加入できたのは、経済的に多少の余裕のある熟練労働者などに限られ、多数の非熟練労働者などは、それらの組織に加入することができなかった。
(近代的な社会保障制度の創設はドイツから始まり、欧州各国に広がっていった)
近代的な社会保障制度が世界で最初に創設されたのは、大陸ヨーロッパのドイツであった。ドイツでは、19世紀終盤に、帝国宰相の地位にあったビスマルク(Otto von
Bismarck, 1815-98)により、法律上の制度として世界で始めての社会保険制度(疾病保険法(1883年)、労災保険法(1884年)、老齢・障害保険法(1889年))が制定された*3。社会保険制度は、事業主の負担と併せて被保険者(労働者等)自ら保険料を負担(拠出)することにより給付の権利を獲得するという関係があるため市場整合的であるとして、多くの工業国で社会保障の手法として第一義的に選好される傾向が強いものとなっていった。そして社会保険による給付は、市場経済的な権利関係の裏付けを欠くために、社会の負担、あるいは自助能力を欠く者との差別や偏見から逃れられず、受給にスティグマ(汚名)が伴っていた恩恵的・救済的福祉の給付とは異なっていた*4。また、あらかじめ生活リスクに備える点で、それまでヨーロッパ各国で主流であった事後的な「救貧」施策から事前の「防貧」施策への第一歩を踏み出した点でも大きく評価された。
(略)
(社会保障は、個人の生活上のリスクに社会的に対応する仕組みとして求められるようになり、産業資本主義の社会と国民国家の発展を支えていった)
このように、産業資本主義が発展する中で、血縁、地縁がそれまで果たしてきた人々の生活を保障する機能は限定的なものとなっていった。それらの機能を代替するため、傷病、老齢、失業などのリスクに公助又は共助という形で社会的に対応する仕組みが必要となり、現在に通じるような社会保障制度が求められるようになったといえる。
そして、社会保障が血縁や地縁の機能を代替*8することにより、人々は経済活動に注力することができるようになったという意味で、社会保障は産業資本主義の社会、国民国家の発展を支えていったともいえる。
(世界恐慌から第二次世界大戦までの間に、戦後社会保障の構想が練られていった)
1929年には、アメリカのニューヨーク証券取引所での株価の大暴落をきっかけに世界恐慌が発生した。その影響は大変大きなもので、1930年代には各国で多くの企業が倒産し、街は大量の失業者で溢れ、社会不安はますます増大した。
(略)
ケインズの理論によって完全雇用に近づければ、失業給付を激減させ、なお残る失業者に手厚い給付ができ、また、社会保障によって全国民に最低限度の生活を保障すれば、有効需要が増え、さらに失業者が減る。このように、ベヴァリッジとケインズの考えは互いに補強しあう関係にあった。これは「ケインズ・ベヴァリッジ主義(体制)」、「福祉国家の合意」などと呼ばれる。その後、ベヴァリッジは、第2次世界大戦中の1942年に、いわゆるベヴァリッジ報告(『社会保険および関連サービス』)を英国政府に提出し、「ゆりかごから墓場まで(Fromthe Cradle to the Grave)」のスローガンの下、新しい生活保障の体系*10を打ち立てた。このベヴァリッジ報告の影響を大きく受け、第二次世界大戦後には世界の多くの資本主義諸国で、経済の安定成長と完全雇用*11、国民福祉の充実を目指す「福祉国家」の潮流が広がっていった*12。
(戦後、どの先進諸国にとっても社会保障は不可欠なものになった)
(1970年代―オイルショック後の経済成長の鈍化等により、社会保障・福祉国家批判は大きな潮流になった)
(1980年代―新自由主義的な政策が採用され、社会保障・福祉国家の「見直し」が行われた)
(新自由主義的な政策は、経済のグローバル化の趨勢とも親和的だった)
(社会保障・福祉国家の「見直し」がもたらした弊害は大きなものだった)
(当初の「見直し」という目的が実際に達成されたかについても、見方は分かれる)
(1990年代以降、社会保障の重要性が再認識され、過去に指摘された問題点に応える努力をしながら、社会保障・福祉国家を再編成する時期に入っている)
(今日では、社会保障は様々な機能を持っており、私たちの経済社会に欠かせない重要な仕組みである)
今日では社会保障は、個人の視点からみれば、傷病、失業、高齢など自活するための前提が損なわれたときに生活の安定を図り、安心をもたらすことを目的とした「社会的セーフティネット(社会的安全装置)」という機能を果たしている。また、それを社会全体としてみれば、所得を個人や世帯の間で移転させることにより貧富の格差を縮小したり、低所得者の生活の安定を図る「所得再分配」や、「自立した個人」の力のみでは対応できない事態に社会全体で備える「リスク分散」という機能を果たしているといえる。
さらに社会保障は、必ずしも恵まれない人たちにも社会の一員としての帰属意識を共有してもらうことで社会的な統合を促進させる。また、消費性向が高い低所得の人たちに所得移転し購買力を高めることで個人消費を促進したり、医療、介護、保育などの社会保障関連産業における雇用の創出を通じて経済成長にも寄与する。こうした「社会の安定及び経済の安定と成長」といった機能も果たしている*20。
このように、社会保障は私たちの経済社会にとって欠かせない重要な仕組みとなっている。だからこそ、支え手である現役世代(働く世代)の人口が減る少子高齢社会において、どのようにして持続可能な制度を構築していくか、若年者等の失業問題や社会的弱者が孤立を深める状況(社会的排除)を改善するためにどのように社会保障制度を機能させていくべきか、経済のグローバル化に伴う国際競争の激化が雇用の柔軟性や流動性を要求する状況など社会保障が前提としてきた雇用基盤の変化や経済の低成長が続く中で、どのような所得再分配や雇用政策が適切なのかといった点は、先進諸国にとって、重要な政策課題となっている。
社会は貧困化するの件が感想でしかないので、感想に対する反論などありません残念でした
人生に遅いということはないよ