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2024-02-18

スクールカウンセラー雇い止め問題について

筆者は臨床心理士公認心理師心理士/師 と記します)の資格を有し,会計年度任用職員であるスクールカウンセラーとして働いていた時期があるが,現在はある行政機関で働いている。

この日記に記すような考えを持っていることは,名前を添えて発信することはとてもできないので,初めて匿名ダイアリーをお借りします。

行政観点は持つものの,あくま行政を専門とするわけではないので,誤りについてはご容赦ください。

1 用語説明事実記述

(1)スクールカウンセラーについて

   スクールカウンセラーは,「会計年度任用職員」として都道府県及び政令指定都市に任用され,小中・高等学校特別支援学校教育センターにおいて,

  児童生徒の相談に応じるほか,教員保護者への助言,研修等を行い,もって,児童生徒の支援にあたる。

   令和2年3月以前は,特別職非常勤職員として「スクールカウンセラー委嘱」されていたが,同年3月以降は,「会計年度任用職員採用」されることとなった。

   財源は「いじめ対策不登校支援総合推進事業スクールカウンセラー活用事業及びスクールソーシャルワーカー活用事業)」による国の補助が1/3,

  都道府県及び政令指定都市が2/3を負担する。文部科学省による令和6年度要求要望額は90億円。

  参考:tps://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/1328010.htm(スクールカウンセラー活用事業)

     tps://www.cfa.go.jp/assets/contents/node/basic_page/field_ref_resources/2190fb02-e55a-4041-a510-f98183ca6a8b/ae2f9d28/20230908_councils_ijime-kaigi_dai1_03_1.pdf

      (いじめ防止対策に係る取り組み状況及び令和6年度概算要求について)

(2)会計年度任用職員

   会計年度任用職員は,令和2年4月に施行された「地方公務員法及び地方自治体の一部を改正する法律平成29年法律第29条)」により導入され,

  地方公務員法第22条の二によって任用される非常勤職員である

   基本的な考え方として,会計年度任用職員としての任期終了後,再度同じ職に「任用」される(「再度の任用」という)ことはあるが,これは「更新」とか「任期の延長」,「同一の職に再度任用」

  されるのではなく,「あくまで新たな職に改めて採用された」と整理されるべきもの

   なお,事務処理マニュアル及びQアンドAにおいては,繰り返し同一の者を任用することは長期的計画的人材育成への影響等の理由から留意必要と示されているほか,

  国としては,公募によらない再度の任用は可能であるもの平等取扱いの原則及び成績主義を踏まえ,公募によらない再度の任用は連続2回までとするよう努めていることが示されている。

   これらの文言をうけて,スクールカウンセラーについては,例えば,「公募によらない再度の任用は4回まで」と回数を定める自治体が多く認められる。

  参考:tps://www.soumu.go.jp/main_content/000853430.pdf会計年度任用職員制度の導入等に向けた事務処理マニュアル

(3)雇い止め

   『「雇い止め」(更新拒絶)とは、有期雇用契約において、雇用期間更新せずに契約を終了させること』(東京弁護士会HPより引用

   なお,今回の問題について「解雇」と記す記事があるが,「再度の任用」をしないことは「解雇」には当たらないので,誤りである

  引用tps://www.toben.or.jp/bengoshi/soudan/work/yatoidome.html

2 スクールカウンセラー雇い止め事実記述

  東京都会計年度任用職員であるスクールカウンセラーが,4回の「(公募によらない)再度の任用」を終える令和6年度に向け,公募による募集に応募したところ

 不採用となる者が相次ぎ,問題となっているもの

  鈴木都議によるXへのポストによれば,「今回契約延長を求めた1100人の現役のスクールカウンセラーのうち、およそ15%程度が不合格となった」とのこと。

 参考:tps://www.tokyo-np.co.jp/article/307027(東京新聞

    tps://www.jcp-tokyo.net/2024/0212/90022(東京民報

    tps://twitter.com/Retsu_SUZUKI/status/1757670551433453730(鈴木都議によるポスト

3 問題の整理(個人的意見

(1)スクールカウンセラー雇い止め問題について

   次の点から,今回多くのスクールカウンセラーが再度任用されないことは,何ら問題なく,むしろよいことだと思う。

  ア スクールカウンセラーが再度任用されないこと(雇い止め)は,法律にそった対応であることから,何ら問題ではない。

  イ スクールカウンセラーの入れ替わりが促進されることから資格取得後間もない若手にも活躍の場が与えられ,心理士/師にとってもよいことである

  ウ 今回の問題を機にスクールカウンセラー会計年度任用職員にそぐわないことがよく理解されれば,常勤採用につながるきっかけとなる。

(2)社会に訴える論点のズレについて

  ア 再度任用されないことは問題であるという論調記事等では,例えば次の理由(というかご意見)が挙げられていますが,再度任用されないことを問題とする根拠とは言えない。

    (tps://www.tokyo-np.co.jp/article/307027 より)

    ・雇用継続されたが,いつ自分も切られるか不安 ➡︎ 多くの労働者は同じ不安を抱えて生活しているので,不安であるというだけで,再度任用する根拠理由にはなり得ない。

                             (実際にそのとおりかどうかは疑問が残るが,不安の中では相談において十分な能力を発揮できないかスクールカウンセラー

                              会計年度任用職員にそぐわない,という主張は可能かも。)

    ・駒のように人を代えられるのは納得がいかない ➡︎ 職員の入れ替えがあるのは教員も同じであるので,再度任用する根拠理由にはなり得ない。駒のように,というのは受け止め方の問題である

    ・児童生徒,保護者来年度の不在を伝えることが大変気が重い ➡︎ 教員も異動等で変わることがあるものであり,再度任用する根拠理由にはなり得ない。

                                    (別れもまた成長の機会であるのだから児童生徒の成長につながるように交代の話をしてほしい,と言われそうな印象。)

    ・これまでの経験や成果が全く考慮されず,残念 ➡︎ さらなる活躍が期待できる人の応募があればそちらを採用するものであるから,再度任用する根拠理由にはなり得ない。

    ・評価がAであるにもかかわらず補充任用でした ➡︎ 現場評価面接での評価が一致しないこともあるのだから,再度任用する根拠理由にはなり得ない。

    ・現場評価無視した採用になっている ➡︎ 同上

    ・向き合っているのは人の生死。現任者を切るやり方は,児童生徒に不利益を与える ➡︎ 現任者の交代によりどのような不利益が生じるのか明らかでないので,再度任用する根拠理由にはなり得ない。

                                             (この意見の伝え方は,必要以上にエモーショナルで,一般的には受け入れられにくいだろう)

     (不安定な状態継続的な相談に応じている中で交代することにより相談一時的な停滞が想定される,という主張であれば,もとよりスクールカウンセラー相談長期間継続を想定しておらず,

      継続相談を要する場合は,その判断があった時点で近傍医療機関へ紹介されているべき,という反論がありうると思います。)

  イ そもそも,この問題は,再度任用されないことは問題なのではなく(問題として扱えないレベル),スクールカウンセラー会計年度任用職員にそぐわないことにあると思います

   そのあたりの整理ができないまま,再度任用されないという個人的不利益について児童生徒を持ち出して訴えるので,話がややこしくなり,また理解されづらくなっていると思います

(3)今後の方向性について

  ア 上に記したとおり,スクールカウンセラー会計年度任用職員にそぐわないことが問題なのであり,スクールカウンセラー自治体教育委員会の職員とする等,他のあり方へつなげることが,

   そもそもの狙いになるのではないでしょうか。

    そのためには,東京都総務省に対し再度任用されないことを問題として訴えても話にならないのであって,主管である文部科学省との間でスクールカウンセラー会計年度任用職員にそぐわないこと

   について話をしていかなければいけません。

    ただし,この時,ではどういう採用をしてほしいのか(立場は?人数は?財源は?)という案まで考えた上で伝えていかなければいけません。

   一緒に問題解決するという立場で,むしろ自分自分問題解決するという姿勢で,行政に働きかけていかなければいけませんし,できることならば政治問題として取り上げて行く方が望ましいです。

  イ そのように,行政に働きかけ政治問題としていくためには,職能団体としてしっかりまとまらないといけません。

    (案のまともさは前提として)この案は全スクールカウンセラーの総意です,というものをもって行政に働きかけていけるよう,皆んなで先生応援しますのでよろしくお願いしますと

   頭揃えができるように,職能団体としてまとまりを持つ必要があります

  ウ さらに,このような働きかけをしていくとしたら,また,ニュースにあるような声を上げるということ自体が,他の会計年度任用職員存在おざなりにしていることを自覚しなければいけないと思います

    事務処理マニュアルにおいては,スクールカウンセラー以外にも,保育士看護師掃除作業員医療ケアのために置かれる看護師言語聴覚士作業療法士理学療法士スクールサポーター

   様々な人が会計年度任用職員に該当することが記されています

    多くの人が,スクールカウンセラーよりも安い賃金で,同じ不安を抱えながら生活していることを理解し,会計年度任用職員制度のもののあり方を問うて行くことが必要だと思います

   そういった俯瞰的視点を持たず,スクールカウンセラー雇用についてだけ声を上げるというのは,社会的な支持を得にくく,何も成果をもたらさないと思います

    個人的には,そういう視点が持てなければ(持てていないから),スクールカウンセラー会計年度任用職員まりなのだと思います

(4)自分たちの総括について

  ア スクールカウンセラー専門性外部性である,という意見をよく聞きます。外部の立場からこそ,客観的アセスメントができるものである,等の意見です。

    果たしてそうでしょうか。ここで議論することではないので何も触れませんが,外部性を訴える以上,会計年度任用職員以上の常勤職には,外部性と相反することから,なれないでしょう。

    そもそもどうして外部性というアピールが生まれたのでしょうか。本当に,非常勤でなければ客観的アセスメントができないのでしょうか。常勤職につけない正当化であった可能性はないでしょうか。

  イ 公認心理師ができても常勤職は少なく,会計年度任用職員という非常勤ポストすら奪い合いの状況です。

    学会を見ても,多くの理事先生方はとうに65歳を過ぎておられ,若手に席が回ってきません。

    ベテラン先生退職しても開業されますので,開業カウンセリング市場も奪い合いです。みんなが食べられる状況ではないことは明らかです。

    大学院生はどんどん修了し,供給けが進みます大学院での学びを活かし,心理士/師として働くよりも条件が良い仕事,働きがいのある職場はたくさんありますよ。

  ウ スクールカウンセラー全員が学校に歓迎されているわけではありません。ニュースになった事件もありました。

   予算執行調査でも,「SC等の資質向上は最重要事項」と言われています

   これは,若いスクールカウンセラー資質向上という意味ではありません。ベテランスクールカウンセラーでも,何も言われなくても,イマイチと思われていることもあるのです。

    また,税金を投入する以上,本当に効果があるのか,どの程度の効果があるのか,という問いからは逃れられません。

    曖昧模糊な言葉で訴えるだけでは,カウンセリング重要性を理解してもらえません。予算レベルでは,文科の担当者の方が頑張って財務省と話をして予算をとってくれるわけですが,

   自分たち自身も,日頃,スクールカウンセラーカウンセリングによってどういう効果があるのかを,専門家でない人でもわかるように説明できるようにならないといけないと思います

   とにかく大切だとか,命に関わることだとか,そういう説明では,その場はそうですよねと言ってもらえますが,実は理解を得られません。

   また,言葉で訴えるだけではなく,定量的指標効果を示せることが必要です。

    我々は,こういった努力を惜しんできていると思います

   参考:tps://www.mof.go.jp/policy/budget/topics/budget_execution_audit/fy2021/sy0309/11.pdf(総括調査票)

  エ スクールカウンセラー心理士/師も,社会で働いています

    そのため,組織に関する行政は,ある程度理解する必要があると思います今日リンクを貼った文科のHP等は最たるものですが,見ているスクールカウンセラーはあまりおられないでしょう。

   社会の中での位置付けを抜きにして,児童生徒とスクールカウンセラーとの関係はあり得ませんので,ある程度行政での位置付け,行政での扱われ方も理解した方がいいと思います

    カウンセラー社会性がないとよく言われます個人カウンセリングだけではなく,社会にも目を向ける必要があると思います

4 最後

  スクールカウンセラーは,楽しかったですし,良い仕事だと思います。今の心理士/師としての仕事も,楽しくやっています

  ただ,心理士/師には難しい人も多く,これから国民にとってアクセスやす存在になるにつれ,問題も表面化していくと思います

  これからどうなるのでしょうか。明るい業界であってほしいと思いますが,明るい業界を作り出せるかどうかは自分たちにかかっている中で,地に足のついた議論は乏しいようにも思います

  この日記が,心理士/師業界の発展につながり,ひいては国民福祉健康につながる一助となればとても嬉しいです。

  ありがとうございました。

2024-02-17

AVタイトル女優身長は何cmから書かれるか

日本若い女性の平均身長は158cm程度であり、従ってこの身長前後だと書かれないことも多い。では身長cmから書かれるのかを調べてみた。

調査方法fanza通販DVDより○cmでひたすら検索し、明らかに女優身長でないものを除外していった結果である

先に言っておくが、120~129cm女優身長で引っかかった作品は無かった(全部バストである)。191より上は基本何も引っかからない。

男の娘ものは除外していないことを留意願いたい。

身長作品
130cm3作品
131cm0
132cm2
133cm2
134cm10
135cm15
136cm4
137cm1
138cm30
139cm33
140cm114
141cm14
142cm36
143cm126
144cm56
145cm244
146cm68
147cm173
148cm348
149cm336
150cm266
151cm33
152cm59
153cm59
154cm32
155cm37
156cm16
157cm12
158cm22
159cm2
160cm37
161cm1
162cm15
163cm7
164cm18
165cm65
166cm44
167cm80
168cm80
169cm52
170cm544
171cm112
172cm176
173cm105
174cm41
175cm199
176cm41
177cm49
178cm69
179cm10
180cm131
181cm30
182cm20
183cm12
184cm2
185cm5
186cm2
187cm0
188cm2
189cm0
190cm14


・130cmの3作品は「130cmC学生名前不明)」と「130cm前後」と「130cm台」である。同様に(?)140cmがやたら多いのは「140cm台」のせいである。

名前身長が明記されている女優のうち最低身長綾瀬千佳で132cmである。133cm中居玲奈、134cmは雪野りこ。身長132,133,134は彼女らの出演作が全てである。135cmから複数女優が引っかかる。

・一番身長が書かれないのは160cm台前半であるユーザーコンプレックスを刺激するからか?

高身長もの需要は意外と大きい。

・『女優身長でないもの』はバストヒップ男優身長、「2人合計でウエスト140cm」などである

2024-02-16

天使の輪が死人を表す漫画表現になっているのって変だな

人が死んでも天使になるわけじゃない、キリスト教世界観においても

この表現を多用している一番有名な漫画はおそらくドラゴンボールだろう

どこかで発想の飛躍があったのかな

気になるねえ、ぐぐりましょうねえ

天使に限らず聖人などを描いた絵画にも、聖人の後ろに光が差す表現が用いられたのだとか

天使に限らないのであれば以降は天使の輪じゃなくヘイローとここでは書くようにしておこう、ブルーアーカイブ風の呼び方

発想としては仏教の後光と同じか

まだ足りない

天使聖人を描いた絵画???漫画表現の死者を表す記号としてのヘイロー、間に挟まるものを探さないと

なんかこれだ!って情報がなかなかヒットしないな

勘だけど風刺画が間に挟まる気がするんだよな

天使聖人を描いた絵画パロディで、天使を例えば政治家差し替え風刺画みたいなのがどっかにあるんじゃないか

それが転じて死者の頭上にヘイローを用いるのが一般化したとか?

うーん、あくま根拠のない憶測

こういうのは英語圏情報を探さないといけないな

一応、英語圏イラストで死者の頭上にヘイローがあるイラストはまあまああるっぽいが……

日本でもなんかドラゴンボール以前に死者の頭上にヘイローがある表現をした漫画いか

……手塚治虫がやってる気がする

あの人だいたい何でもやってるからな、あとで探すか

ってことはディズニー作品でもなんかあるような気がしてくるな

うーん、探し方が下手

wikipediaの「光輪 (宗教美術)」の「大衆文化における使用」の記述が少ないな

英語版だと……英語版の「Halo (religious iconography)」には大衆文化の項自体無いのか

うーんアメコミにもヘイロー使用あるかもだが、アメコミに詳しくない

調査頓挫する予感

ここまで調べたというメモ

なんかコレ!っていう本があれば読みたいんだが、この疑問をずばっと解決する文化史本は無いかもなあ

今週の『サチ録』、番外編15を読んだ結果

日記

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ポップカルチャー宗教序論」という論文を読んだ

こういう路線で調べていくのがよさそうか

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なぜ亡くなった人の頭上に「天使の輪」を描くようになったのでしょうかよろしく... - Yahoo!知恵袋

漫画記号表現としては昔からある定番スタイルですよね。 ディズニーアニメにも、ヨーロッパカートゥーン(cartoon)にも良く死者の記号として使われていますね。

http://www.cartoonstock.com/cartoonview.asp?catref=amc0009

ふーむ、やっぱり古くから定番なんだな

この回答者によるとディズニーでもやはり使用されていると

人間は死ぬと天使になりますか | ものみの塔 オンライン・ライブラリー

人間死ぬ天使になります

アリーロという,まだ7歳の幼い女の子が亡くなりました。悲しみに打ちひしがれた両親は,柩に横たわる白いドレス姿の娘を前に,ぼう然としています。慰めようとして,神父がこう言います。「神様は,天使をもうひとりお望みになって,アリーちゃんお召しになったのです。幼子の魂は,今ごろ,神様のみそば翼を広げて飛んでいますよ」。

死んだ人間の魂が天使になる,と信じている人は少なくありません。公式教理として教えられることはまれですが,映画テレビ連続ドラマでは,死んだ人が翼のある天使になって,生きている人を守る,という話がよく取り上げられます

あなたはいかがですか。愛する人が死後に天使になると考えておられますか。聖書は何と教えているでしょうか。では,天使本質について,また死んだ人の本当の状態について,聖書のものが何と述べているかを調べてみましょう。

うーん、「死んだ人間の魂が天使になる」という発想は無いわけではないのか

それが転じて天使ではない死者の霊魂的な何かの頭上にもヘイローが描かれるようになった?

ドラゴンボールの影響がどのくらい大きいか、気になるな

っていうかドラゴンボールつまみ食い的にしか読んだこともアニメを見たこともないんだよな

何より先に原作コミックを読んだほうがいいのかもしれん

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天使とは何か キューピッドキリスト悪魔

天使と人の文化史

ここら辺の本があるいは参考になるか

だいたい最終章は「現代における天使がどのような姿で描かれているか」みたいな話題から、そこに期待が出来る

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英語圏情報を探そうとしてもゲームの『HALO』ばっかり引っ掛かってやりにくいったらありゃしない

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そうだ、『トムとジェリー』で爆死したトムが雲の上でヘイローつけた状態で不満そうな顔してるってオチエピソードがあった気がする

ネズミ取り必勝法』か、これ大好き

プレゼントボックスに入ったトムが針でめった刺しにされるシーンは涙なしでは見られない

オチはやはり爆死で……天使になってるな、これ

やっぱり「死んだら天使になる」って発想がポップカルチャーである程度一般的に表現されていたようだ

翼とヘイローがあってハープを持っている

ネズミ取り必勝法』は1944年11月23日に公開

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ってことは

天使聖人を描いた絵画→死後に天使になる認識、またそれを表現したイラストアニメ天使ではなく単なる死者にもヘイローがつけられた

……か?

まだ足りないぞ

「死後に天使になる」って発想がどこから来たんだって

キリスト教教義だと死んでも天使になるわけじゃない、それはカトリックだろうがプロテスタントだろうがエホバだろうが他の何かであろうがだいたい同じだろう

ヘイローは聖なるもの加護を表すからどんな死者でもヘイローは頭上に表れる?

でもトムは爆死して天使になっとるじゃろがい

まだまだ調べないと納得できないな

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ひょっとしたら演劇ミュージカル側の文化関係している可能性もある

死者を表現する記号として頭の上にヘイローをのっけた衣装を着ていた……とか、あるかもしれない

一応留意して調べる事

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「池にコインを投げる風習はいから始まったのか?」みたいなテーマでおととい調べて日記書いたときは、その風習を有名にした「Three Coins in the Fountain」っていうアカデミー賞受賞作品を見つけたんだよな

これも同じパターン可能性がある

聖者記号としてではなく、単なる死者の記号としてヘイローを使った何らかのヒット作品があったので一般化したみたいなキッカケがひょっとしたらあるかもしれない

しかあんまりこの仮説に固執するのはよくないな、気長に探そう

あるとすれば19世紀後半以降くらいのはず

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そうか、調べるポイントが二つに分かれちゃったんだなあ

①「死後に天使になる」という考えの源流を辿るルート

漫画表現で死者が天使となった描写漫画表現で死者に(翼など他の天使的要素抜きで)ヘイローのみが付与される描写となった転換点を探すルート

こりゃ大変だ、いったん追加調査ここまで

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次にやる事

守護聖人絵画での描かれ方を確認する

→実は守護聖人の頭上にヘイローだけでなく、翼がはえているなどあったりするかどうか

:積んでるキリスト教入門みたいな本をさっさと読む

→なんもかんも体系的な知識が欠けているのが悪い

 →でもなー、自分の興味の向き先は「キリスト教教義はこういうものです」って知識じゃなくて「人々はキリスト教をこのように解釈して信仰していました」という知識なんだよなあ、基礎の勉強ってどうしても飽きちゃって

  →だとしても体系的な土台の知識が無いと何も始まらないだろ!

   →はい、おっしゃる通りです、すみません……

第一次世界大戦風刺画ヘイロー描写が無いか探す

第一次世界大戦1914年7月28日1918年11月11日、ちょうど探したい年代

キリスト教素養がない私がヘイロー描写を見たとき、それが宗教的な性質を持っているのかそれとも記号化したものなのかを区別できるのか?という点について考える

→やっぱり基礎の勉強しましょうね~

そもそもヘイローがあって翼があったらそれは天使とみなしていいのか?「天使」って何?「御使い」って何?何もわからない、調べる

→基礎(略

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②についてだが「ゲームドット絵キャラが死んだことを表現するのにヘイローが便利で、ドット絵で翼を描くのが大変だったから省略された」という仮説を思いついた

流石にお話として出来すぎな気がする、この仮説は最終的に棄却することになりそうだ

しかし調べるとっかかりとしては魅力的

ヘイロー関係ないけど「ゲーム戦闘不能をどう表現するか?」というテーマを調べるのめちゃくちゃ楽しそう

棺桶幽霊化、ヘイロー付与etc……

また別の機会に調べよう

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Heaven Cartoons」というジャンル風刺画があるらしい

画像検索してみるとなるほど確かに天国天使なんやかんやする種類の一コマ漫画

いつ頃から描かれているかちょっと調べてみたがなかなか難しい

Wikipediaの「カリカチュア」のページの「主な作家」の項に載ってる人の代表作を一つずつ見ていくしかない

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星新一アメリカ一コマ漫画蒐集してそれについてエッセイを書いた『進化した猿たち: The Best』をkindleで購入

これにアメリカ一コマ漫画挿絵掲載されて……いない!

権利関係問題のせいかほとんど掲載が無くなってしまっているようだ

しか天国ものについてのエッセイは変わらず掲載がある

数少ない挿絵の作者は……Sidney Harris

漫画家としてのキャリア1955年から

うーん、トムとジェリーのほうが時代が古い

もっと挿絵を見たいか挿絵が載ってる物理書籍のほうを読まないといけないなこれは

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Cartoon of the politics of the Second Empire (Bonapartiste Regime) directed by Napoleon III (Charles... | bridgeman images

やっとひとつ見つけた

ざっくり言うと政治家が天に召されている様子の風刺画1868年1869年?に描かれた、ってところか

翼があり、ヘイローもしっかり完備

トムとジェリー1944年よりだいぶ古い!

しかし余談だけれど死後4年後たってから風刺画が描かれていて不思議

なんか「天使になる」ってのは語弊があって「昇天するとき天使と同じ装いをする」という言い方の方が正確なのかもしれない

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トムとジェリー以前のオールカートゥーンを片っ端から観ているが、天に召されるシーン自体全然見つけることができていない

ところでチャップリンの『キッド』に天使が登場するシーンがあった

翼だけ背中にあってヘイローなし

実写映画も調べる範囲に含まないといけないか

オールカートゥーンの本当に初期の初期は紙の漫画をそのまま映像化したようなやつだったから、漫画文脈だと思うんだけどな……

うーん、難航している いよいよ調査が行き詰まりそうだ

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マーク・トウェイン天国建設の旅』という論文を見つけたが、これは読む価値がありそうだ

天国観の変遷について言及がある

絵やイラストとして描かれていなくても天国に行くとヘイローと翼とハープが通行証かのように与えられる認識は当時の人々視点で昔からあったようだ

18~19世紀文学作品天国描写しているものを探すべきだな

ここらへんは先行研究論文を探しやすそうだ

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Elizabeth Stuart Phelps Wardという人が書いた『The Gates Ajar』という宗教小説アメリカ1868年刊行されめちゃくちゃ売れたらしい

当時の人々の天国観に影響ありそうに見える

その小説で語られた天国観は

In contrast with traditions of Calvinism, Phelps's version of heaven is corporeal where the dead have "spiritual bodies", live in houses, raise families, and participate in various activities.

カルヴァン主義伝統とは対照的に、フェルプス天国は、死者が「霊的な身体」を持ち、家に住み、家族を養い、さまざまな活動に参加する身体的なものである

とのこと(『The Gates Ajar』のwikipedia英ページより引用しdeepl翻訳

うーむ、おぼろげに流れが見えてきた気がする

カルヴァン主義の事よく知らないからそこは調べないといけない

マーク・トウェイン天国建設の旅』という論文序文あたりに19世紀半ば以降に天国もの小説流行ったみたいなことが書いてあったが、その一因はこの小説な気がする

なぜ流行たかというと南北戦争の影響やろなあ

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そういえばこの日記メモには記述をしていなかったが、宗教美術におけるヘイロー写実主義の高まりによって19世紀までにほとんど衰退しているらしい

なので宗教美術において死者(例えば聖人殉職者など)にヘイローが描かれたものがあったとしても、カートゥーンヘイロー描写がその影響を受けているとはちょっと考えにくいのではないか

一度断絶しているのでは?という疑問を持っている

ヘイロー描写は一度衰退し、再び風刺画カートゥーンなどで記号として便利なので復活したという前提で調べている

あー、いや……この前提本当に大丈夫か?自信ないな

記号として復活させたとしても参照元は必ずあるわけで

19世紀アメリカで人々が見ることが出来た美術絵画はどのようなものだったのか?というのがわからないと正確なことは言えないな……

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自分確認した限り、カートゥーンアニメで「死んだら天使の装いをして天に召される」表現をやった一番古いものは『トムとジェリー』の『ネズミ取り必勝法

オールカートゥーンを全て総ざらいして確認したわけではないかもっと古いのがあってもおかしくはない(アカデミー短編アニメ賞受賞作品すらすべて確認できていない)

キャラ死ぬ描写そもそも全然ねーんだわ

トムとジェリーがどんだけ過激なことやってるかって話ですよ

幽霊は沢山出てくるんだけどねえ

ネズミ取り必勝法』はアカデミー賞とる程度には人気だったので、カートゥーンにおける元祖でなかったとしてもビジュアルイメージ固定に大きく貢献したといっていいか

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キリスト教教義では死者は天使になるわけではない、という認識があった(今でもそうではある)

19世紀半ばにスピリチュアル小説流行り、人々の天国観を変えた

→それは死後に霊的な体を持った死者が天国で現世と同じような生活を営むものだった

→死後に天使のような装いになる認識が生まれ

たまたま印刷技術の発展とタイミングが同じで新聞挿絵風刺画漫画などで聖人でもなんでもない普通の人の死者の絵が多く描かれるようになった

→死者に天使の装いをさせた風刺画、紙の漫画カートゥーンアニメビジュアルイメージが固定される(この時点ではヘイローと翼はセット、あくま天使など聖なる魂的な存在専門用語を適切に使う自信が無いので曖昧表現)と同じ装い)

日本キリスト教文脈無視された記号的な描写がされ、ヘイローのみで死者を表す記号表現となる

……という流れだという仮説を立てることが出来た

うーん、自信ない

18世紀以前に普通の死者も天に召されるとき天使と同じ装いをするという認識があった」と言える材料を見つけることができていない

印刷技術が生まれる以前だと絵画にそこらへんの人が天に召される絵なんて描かれないんだよなあ

探すとすれば厳格な宗教者が教義通りに書いた本でなく、人々を慰撫する目的教義からすれば不正確な内容が書かれた本みたいなのがあればあるいは……(というか、それが『The Gates Ajar』なのよ)

また、『The Gates Ajar』などの天国観を変えるイベントによって死者が天使の装いをするようになった、とある程度の自信をもって言えるような材料は正直見つけることができていない

しかし、とりあえず一定レベルで納得は出来たからこの疑問はクローズ

18世紀19世紀の米英のキリスト教史を調べないともうちょっと正確な認識ができるのだろうけれど、それは今後の宿題だな

西洋世界文化史キリスト教歴史は不可分だから体系的に勉強したい

2024-02-13

anond:20240213143933

残念ですがそれは重いうちにはいりません。どんな女も付き合ってりゃそれくらいのケア案件は発生します。あなたからしたら「気立が良いいい女と付き合って羨ましいな〜」と感じてる友人も裏ではケア(重い案件を未然に防ぐor起こっても被害を最小限に抑える)しまくっています

 

ちなみに、女性によってケアミクロ面の正解は異なります。そういう意味では、自分提供やすい「ケアミクロ」を正解と求める女性の方が、労力はかからいかと思います

これを「相性」といいます

 

ただ、労力の大小はあれど、とにかくそういったケアはどんな女性でも存在すると思っておいた方がいいです。

どんなに口で説明されてもこれを真実と受け止めるのは難しいと思います。人数をこなせばこなすほど、女はそんなもんだと理解し、妥協として受け入れられるようになり、ケアもこなせるようになり、男として一人前になるのです。

そして、女が普段からどんだけケア的な行動をとっているかを知る事もできます

からさっさと今の重い女でなく次の重い女と付き合って、女への幻想を捨てましょう。

 

最後に一つだけ本当のことを言うと、

パートナー間で問題が発生した時に、自分の行動を全く省みることなく、また環境や状況など多面的配慮をすっ飛ばし、とにかく「相手が悪い」と結論づけてしま性質を持っている人間は、

どんなにサバサバしたパートナーをも「重いパートナー」に変えてしま能力を持っています

 

そこに留意をしていただき二股からの乗り換えなどではなく、誠意あるお別れが増田増田彼女の間に執り行われますことをお祈り申し上げます

2024-02-06

飼い猫は昔ちょっとブスだった

猫といえば「かわいい」だろ、と思う。

自宅で飼っている猫でも、他人が飼っている猫でも、私の場合、分け隔てなくとにかく「かわいい」と感じる。

だが、猫や犬、ペットの「かわいい」を無闇に、無理やり他人押し付け行為はなんとなく苦手だ。SNSでも、そんな目で見られないようになるべく心がけている。

しか特定の誰かに読ませる目的のないスペースで、宛てもなく猫の話をするのはセーフだろう、と個人的に思っている。

特に私は猫好きなので、ネットに転がっている猫についての文章は大抵ありがたく享受している。

そういう人は多いはずだ。

自分一人が考えていることは、世間で百人以上が同じことを考えていると思う。

ので、増田では好きなだけ猫の話をしたいと思う。

で、飼い猫は昔ちょっとブスでした。

あんまり飼い猫についてこういう話をする人を見かけないので、どこかに同じ体験をした人はいないだろうか、という考えもあってこの話を書き始めている。

いや、猫はかわいいんですよ。

猫はずっとかわいい。フワフワしていて、よく眠るし、たまにニャンと鳴いて、夜に見つめ合うと目がギラギラ光っている。ずっとかわいい

しかし、写真に撮ってもなんだかやけにかわいく見えない時期があった。

自分で撮った写真自分で見返しても、他人に見せても

「なんだかムスッとしている」「不機嫌そう」「ブスに見える」

と、等しく不評だった時期があるのだ。

「昔」ブスだった、とわざわざ言うのにはもちろん理由がある。

なんだか最近やけにかわいく、撮った写真は誰からも好評だ。

「目がきゅるきゅるしている」「人懐こそう」「ハンサムだね」

と、昔と比べると随分な褒められ方をしている。

それはなぜか。思い当たる節はある。

猫は二年前、我が家にやって来てからやけに可愛くなったのだ。

猫のことは二年前まで、典型的人間嫌いの猫だと思っていた。

この増田記述している猫は、もう十歳を超えるじじいキャットだ。

じじいキャットは元々実家で飼っていた猫で、いろいろな事情があって二年前に我が家へやってきたばかりだ。

そのため、じじいキャットの性格は、帰省したときに見せてくれる一面しか知らなかった。

実家帰省した際にひと撫でさせてもらえるかな、と近寄ると、ササーッと遠くへ逃げていく。

撫でさせてもらえなくとも近くで観察させてほしい、と近寄っても、尻尾ブンブン振って無言の抵抗をする。

布団に潜りこんできたり、人間の後ろを着いて歩いたりするなどもっての外だ。

威嚇をするほどではなくても、人間には近寄らない、媚びない。そういう性格の猫だと思っていた。

だが二年前、じじいキャットは十年以上暮らし実家を離れ、我が家暮らし始めた。

それ以降、じじいキャットの行動が全て逆転したのだ。

名前を呼ぶと耳と尻尾をピンと立て、撫でられるために近寄ってくる。

寝姿を近くで見つめていると、「そうか」と言うように薄目を開け、喉を鳴らす。

人間が眠ろうと寝室へ行こうとすると、なんと先回りして布団の上に座って待っている。すごく賢い。

しばらく相手してやると飽きてポテポテとどこかへ歩いていくが、起きていると十分置きくらいに布団へ遊びにやってくる。

別の猫じゃないか?と思うときもある。

だが、じじいキャットは基本的に十年前に実家で飼い始めてから今まで、彼の美学を貫いて生きているのかもしれないと、最近思う。

別に実家で粗末に扱われていたわけではない。むしろとても大切に飼われていた猫なのだが、実家ちゃんとした人間が暮らす家だったので、ちゃんとした猫の飼い方をしていた。

ごはんも、おやつも決まった時間に与える。夜間は寝室を締め切り、猫と人間の夜の時間は完全に区別していた。

この「人間生活別にする時間」が、じじいキャットにとって少し寂しかったのではないか、と私は推測している。

我が家にじじいキャットが来てからは、ごはんおやつも、お腹が空いたであろうとき、食べたいと思ったであろうときにあげている。寝室も開放し、夜間も昼間も部屋を自由に行き来できるようにしている。

人間と似ている。お腹が空いたとき、食べたいとき食事を摂り、家の好きなスペースを自由に行き来できる。わざわざ意識しているわけではないが、我が家では人間と猫の行動に隔たりがそんなにないように思える。

我が家のじじいキャットは、ずっと人間と同じ暮らし方をしたかったのかもしれない、と思う。

目がきゅるきゅると輝き、人懐こさが表情から滲み、生き生きとしている。

なんだかムスッとしていないし、不機嫌そうに見えない。

ブスに見える要素が二年前から、すっかり全部取り払われたのだ。

こんなにブスじゃなくなったのは、二年前から生活の変化が大きいと、不満が少なくなったからだと、私は飼い主として認識している。

もちろん、ペット人間時間区別する育て方も、ペットの心身の健康のためには重要なこともある。ペット人間時間をきっちり区別する方が丁寧だと感じるし、ちゃんとした飼い主だからこそできる飼い方だと感じる。

あくまでこれは我が家だけでの話だということを留意されたし。

我が家のじじいキャットの場合暮らし方が変わったことで本当にブスではなくなったのだ。

この事実を子細に記しておきたくて、個人的に忘れたくないと思ったので、私はこの増田を書いた。

ずっとかわいい猫が、暮らしぶりが変わったことで、もっとかわいくなった。

新しい一面を、十歳を超えて尚見せてくれた。

猫ってすごい。生き物ってすごい。成長ってすごい。

もっともっと、かわいくなるポテンシャルを持っている。

もっともっと、かわいく見える暮らしになるよう人間として努力する。

あと、私が単純に写真を撮るのが下手だった可能性もある。

写真も、もっと上手くなろうと思う。

2024-02-05

生成AI問題視する作家として伝えたい

生成AI特にイラストに関わってる身である私としても現状見る限り非常に問題で、人の作品学習データに無断で用いられる問題意図的に元ある作品の構図を寄せて生成できる技術を使って作品を生成される問題学習データに用いられる問題肖像権かに触れているレベル問題視されてる問題等々、上げたらキリがないほど問題が山積みです。

悪用している人らもそんな被害を受けた作家を煽るなどを行ってるらしく、この問題を深刻化させ、作家憎悪を募らせている。

挙句の果てには作品を無断で学習データにさせられ、望まぬ形の生成データを作られ更には嫌がらせなどを受けてついに筆を置くことになってしまった作家さんの事件を目にし、私は心を痛めました。

同じ作家としてもこのような被害を受けたくはありませんし、何より同じような悲劇を繰り返すべきではありません、作家被害をこれ以上増やさないためにも、この問題は終わらせなければならない。

からこそ、この問題を終わらせるためにも、生成AIに反対、生成AI問題視してる人たちには問題に取り組む上で押さえてほしいポイントをいくつかお伝えしたいことがあります

規制では解決しない

昨今の生成AI事件を見る限りや、現行法で起きてる事件に対して対応が難しいのであれば法整備をするのが当然と思います

中にはAIのものに「規制をすべき」といった意見もありますが、正直のところ言えば私は単に規制するのでは被害を防いだり、被害者を救うことはできないと思います

「事例があるから一律禁止しましょう」とやったとしても守るべき被害者を助けることができず、当事者であるはずなのに取り締まり対象になってしまったり、かえって被害者までも負担になったり…なんてケースはありえなくない話です。

しかしたらそういう動きを利用して形だけの手抜きな法律を作られたり、人権無視した国民コントロール目的とした法を作られたりする動きを狙ってる人がいると考えてもおかしくありません。

昨今の生成AI問題に注目が集められ、作家ファン問題視し声を上げ、政治にも関わるのは民主主義としてあるべき姿であると感じる傍ら、このままで大丈夫なのかと心配な面と不安が大きくなってしまってます

法を変えることは当然ながら副作用存在します。安直で雑な規制AIではない創作活動を萎縮させかねなかったり、ボーカロイド等の音声合成ソフトウェアが潰されてしま可能性も0ではないことも忘れてはなりません。

私は法整備に関わってる人たちが安直で雑な法整備をせず、被害である作家を救い、被害を的確に防げる方法で且ついたずらに創作活動に萎縮をもたらすようなことがないように整備してもらうことを切に願うと共に、この問題はしっかり注視していく所存です。

AI肯定的作家権利無視してる」はやめた方がいい

生成AI好意的だったり、利点や展望考察したり、規制に慎重な意見に対して、生成AIに反対する人たちからは「生成AI推進派だな」とか「作家権利無視してるのだな」と思われるかもしれません。

これだけはきちんと言わせていただきますが生成AI好意的からと言って作家権利無視してるとかこのままでいいと思ってるわけではないことも事実です。

規制では解決しない」で書いた理由を気にしてる方もいらっしゃいますし、利点と展望問題解決考察正常化を図ることで安全技術発展を目指す方もいらっしゃいます。まぁ、現実そんな姿勢を示してる人を見かけたのは少数ではありますが(表で見えてない可能性も念のためご留意下さい)、典型的先入観がかえって生成AI問題視する私たちを不利にしてしまうことにもなります

意見が合いづらさを感じるのも、疑念を抱く気持ちもわかりますが、決めつけるのは気を付けた方がいいと思います

やっぱりAIについても法律についても正しく知る必要がある

生成AIに対して肯定的であれ、否定的であれ「それ、思い込みで言ってない?」って意見をあふれるほど見かけました。

これはこの問題を考えていく上で大切である「前提」が伝わってないのかもしれません。

AIの仕組みや法律等を正しく知ることは問題解決することに於いて大事なことだと思います特に生成AIをどうにかしたい、一刻も早く解決させたい人ほど尚更大事なことです。

また、SNS不特定多数が利用しているので、全員が全員同じ認識ではないことはおろか、そもそも全く知らないなんてことも不思議なことではありません。

トラブルを最低限避けるためにも知ってる人ならそう思って当然って感じる常識も丁寧に説明するのが一番いいかもしれません。

だいぶ長く書いてきましたが

生成AI問題が思った以上に深刻であり、一刻も早い解決をすべきとも考えていますが、やはり解決していくにあたってどうすればいいかちゃんと冷静になって取り組んでいかなければ明後日の方向にとんでしまうのではないか危惧しています

かくもいう私も具体的な解決方法を見出せているわけではありませんが、判断を見誤らず、厳密な議論必要だと思います

2024-02-03

赤坂アカみたいな漫画家が居るから脚本家がつけあがるのでは

赤坂アカ実写化に関するスタンスを受け入れろって記事ブクマ稼いでいたけど

https://anond.hatelabo.jp/20240130153027

 

正直、ああいう「原作好きは見るな。宣伝のための映画なんでこれ」って明言できるスタンスの奴がどれだけ居るの?

佐藤秀峰も書いているとおり、不満が無い訳じゃなくて言ってないってだけなパターンが多いよね。

https://note.com/shuho_sato/n/n37e9d6d4d8d9

 

あともう、「推しの子」で、脚本家も良いもの作るために頑張ってるんだって描写してたけど、実際の黒沢久子発言見るに、脚本家は己の作家性押し出すのを最優先に考えてて原作者のことなんか頭にないってのが明らかになった以上、

原作者の意見を聞く脚本家」なんてものが完全ファンタジーだってことが分かっちゃったよね。まあ、フィクションだし実際にいないからこそ成り立つ話だけど。増田自作の話公開して力量試したがってる脚本家たちが自分意見補強するための材料しか使われてないよね。

 

あともう、原作者の意見脚本に反映されないのも伝言ゲームの結果なんて言ってるけど、黒沢久子発言見た限りだと、出版社テレビ局プロデューサー側が意図的に止めてるよね。

作中の劇脚本については直接やりとりすることで修正されたなんて事になってるけど、原作者の意図が伝わらない部分の描写は、あまりにもファンタジー寄り過ぎじゃないですかね…

 

あい悪者を作りたがらない描写は良いことだけど、結局割を食うのは原作者側になるってことに留意して欲しいもんだね

2024-02-01

安楽死必要要件を考える

予め言っておくが、自分は「安楽死反対派」である。それもかなり強く反対している。

それを前提にした思考が当然含まれるので留意されたい。

ネット上ではたびたび安楽死に関する法整備を求める意見が見られる。

経済的理由による安楽死は論外として、病気による耐えがたい苦痛を避けるための安楽死を求める意見一定の支持があるようだ。

だが、主張は結構なことだが「国家によって安楽死を認める」ことがどれほど重大なことか理解していない意見が多いように見受けられる。

あくま自分意見だが、「安楽死を認める要件」として最低限以下のようなものがあってしかるべきだと思う。

法的な手続き

具体的には「裁判所許可である

安楽死とは、要するに医師などにより生命活動を停止させること、即ち「殺人」に他ならないのは疑いなく事実である

即ち、「安楽死を法的に認める」ということは「国家によって殺人承認する」ことに他ならない。

国家によって認められた殺人と言えば、「死刑」もそれに相当する。死刑判決を言い渡すのは言うまでもなく裁判所だ。

当然殺人を法的に認める以上、安楽死についても裁判所による手続きがなければならないと考える。

医師による「回復不能」の判断

医師によって、患者がもはや死を避けられない状態であることの証明必要だ。

主治医はもちろんだが、感情的選択を避けるためには利害関係のない複数医師による中立的判断がなければならないと考える。

当然、安楽死を「行う」医師がどれほどいるかという問題もある。

本人の自由意志によるものであることの証明

これが難題である

その意志が、短期的な抑うつ状態や、周囲や「世間」の圧力に左右された一時的ものでないか証明が非常に難しい。

2019年透析中止死事件では、透析を続ける苦痛のあまり透析中止を決断したとされるが、終末期に至って透析中止を撤回したいと言いながらも助からなかったとされる。

本人の意志とはこのように揺らぐものであり、かなり長期間意志確認必須である中立公証人による証明があってもいいかもしれない。

同様に、安楽死を決めたものの直前になって「生きたい」と意志表示したならば即座に安楽死を中止しなければならないだろう。

また、周囲や世間圧力でないことを証明するためにも、「安楽死」を美談にしないようにマスコミSNSには厳重な自制と規制が求められるだろう。

特定病気になったら安楽死するべき、なんて世論が広がることはあってはならない。

なまじハラキリ文化の日本であり、「潔い死」が受け入れられやす社会的素地があるのはかなり危うい。

安楽死を法的に認める」ためには、「安易安楽死は認めない」という国民意識改革がなければならないという矛盾がある。

結論

上記3点は必須であろう。

これらの議論を進められるだけの十分な社会的理解日本にあるかというと、正直言って「ない」と言わざるを得ないのではないかというのが自分意見である

特にマスコミSNSに関しては、現状ではほぼ絶望的なのではないかと思われる。

その他

なお、昨今の安楽死議論の中には「終末期患者を生かし続ける社会的コスト」に言及するものがあるがこれは論外で、

憲法25条の生存権を見れば明らかなように、国民には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」し、

国には「国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とされている。

国民生存を望むならば国は生存保障しなければならない憲法上の義務存在する。どれほどのコストを支払ってもだ。

まり、一番手っ取り早い方法憲法25条の改正と言うことになる。

当然自分はこのような憲法改正には賛成しないし、国際人権A規約にも反する。ハードルは極めて高いと言わざるを得ない。

追記

いくつかコメントが来ていたので補足。

繰り返すが、自分は「安楽死反対」の立場からこれを書いている。

これくらい厳しく要件を掛けなければ、恣意的運用されかねないという強い懸念があってのことである

コメントにあるように「経営者労働者家族安楽死要求する」なんてことが起こりかねない。

裁判所の決定を要するとしているのも、時勢に強く左右されかねない行政ではなく、常に法の番人たるべき裁判所が決定すべきと言う考えからである

実際、裁判によって決定した死刑囚の署名を時の法務大臣意志で停止した過去の例もある。

 

そしてこの程度の要件クリアできないのであれば、そもそも安楽死法制化するべきではないというのが主旨だ。

国民生存保障するためにある国家が、それに相反する法制を行うことがどれほど困難なことかということについて、頭の片隅にでも残れば幸いである。

植物状態

個人的には本人の自由意志確認できなくなった段階で安楽死を認めるべきではないと考えている。

「本人の自由意志がなければ生存権行使している」と見なすべきであり、当然国家はそれを保障しなければならない。

この時点で「本末転倒だ」と思われる人は多いかもしれないが、安楽死法制化は終末期医療コスト削減策「ではない」。

あくまでも本人の自由意志によって死を選択する自由を与えるための法制であるべきであり、

医療コスト削減が目的にすり替わるのであればそもそも法制化の目的を見誤っている。

 

なお、現行法制でも積極的安楽死ではなく、延命治療終了による消極的安楽死は行われており、この手続きで不備があるとは思えない。

この延命治療の終了というレベルまで反対するつもりはない。

2024-01-28

相手と話が合わないなと思った時、角を立てず穏やかにその場を後にして解散できる能力はワイ増田尊敬する能力の上位3位に入るが、

話の合わない相手に徹底的に正論パンチして叩き潰し人間関係を終わらせる能力も同じくらい尊敬する。

ただし後者は恨まれてその後の自分の命や生活を脅かされる可能性があるので、家族持ちには実質不可能である事には留意必要

2024-01-26

anond:20240126183251

9.「平和基本法から佐藤優現象〉へ

 〈佐藤優現象〉を支えている護憲派の中心は、雑誌としては『世界』であり、学者では山口二郎和田春樹である。この顔ぶれを見て、既視感を覚える人はいないだろうか。すなわち、「平和基本法である。これは、山口和田らが執筆し、共同提言として、『世界』一九九三年四月号に発表された。その後、二度の補足を経ている(56)。

 私は、〈佐藤優現象〉はこの「平和基本法からの流れの中で位置づけるべきだと考える。

 同提言は、①「創憲論」の立場、②自衛隊合憲化(57)、③日本経済的地位に見合った国際貢献必要性、④国連軍国連警察活動への日本軍の参加(58)、⑤「国際テロリスト武装難民」を「対処すべき脅威」として設定、⑥日米安保の「脱軍事化」、といった特徴を持つが、これが、民主党の「憲法提言」(二〇〇五年一〇月発表)における安全保障論と論理を同じくしていることは明白だろう。実際に、山口二郎は、二〇〇四年五月時点で、新聞記者の「いま改憲必要なのか」との問いに対して、「十年ほど前から護憲立場から改憲案を出すべきだと主張してきた。しかし、いまは小泉首相のもとで論理不在の憲法論議が横行している。具体的な憲法改正をやるべき時期ではないと思う」と答えている(59)。「創憲論」とは、やはり、改憲論だったのである

 同提言の二〇〇五年版では、「憲法九条の維持」が唱えられているが、これは、政権が「小泉首相のもと」にあるからだ、と解釈した方がいいだろう。「平和基本法」は、戦争をできる国、「普通の国」づくりのための改憲である。同提言軍縮を謳っているが、一九九三年版では、軍縮は「周辺諸国軍縮過程と連動させつつ」行われるとされているのだから北朝鮮中国軍事的脅威が強調される状況では、実現する見込みはないだろう(60)。また、「かつて侵略したアジアとの本当の和解」、二〇〇五年版では、周辺諸国への謝罪過去清算への誠実な取組みの必要性が強調されているが、リベラル過去清算は終わったと認識しているのであるから、これも実効性があるとは思えない。要するに、同提言には、論理内在的にみて、軍事大国化への本質的な歯止めがないのである

 佐藤が語る、愛国心必要性(61)、国家による市民監視(62)、諜報機関の設置等は、「普通の国」にとっては不可欠なものである佐藤饒舌から私たちは、「平和基本法」の論理がどこまで行き着くかを学ぶことができる。

 馬場は、小泉純一郎首相(当時)の靖国参拝について、「今後PKOなどの国際的軍事平和維持活動において殉死殉職した日本人の慰霊をどう処理し追悼するか、といった冷戦後平和に対する構想を踏まえた追悼のビジョンもそこからは得られない」と述べている(63)。逆に言えば、馬場は、今後生じる戦死者の「慰霊追悼施設必要だ、と言っているわけである。「普通の国」においては、靖国神社でないならば、そうした施設はもちろん、不可欠だろう。私は、〈佐藤優現象〉を通じて、このままではジャーナリズム内の護憲派は、国民投票を待たずして解体してしまう、と前に述べた。だが、むしろ、すでに解体は終わっているのであって、「〈佐藤優現象〉を通じて、残骸すら消えてしまう」と言うべきだったのかもしれない。

 ここで、テロ特措法延長問題に触れておこう(64)。国連本部政務官川端清隆は、小沢一郎民主党代表の、テロ特措法延長反対の発言について、「対米協調」一辺倒の日本外交批判しつつ、「もし本当に対テロ戦争への参加を拒絶した場合日本には国連活動への支援も含めて、不参加を補うだけの実績がない」、「ドイツ独自イラク政策を採ることができたのは、アフガニスタンをはじめ、世界の各地で展開している国連PKOや多国籍軍に参加して、国際社会を納得させるだけの十分な実績を積んでいたかである。翻って日本場合多国籍軍は言うに及ばず、PKO参加もきわめて貧弱で、とても米国国際社会理解を得られるものとはいえない」と述べている(65)。

 元国連職員吉田康彦は「国連憲章の履行という点ではハンディキャップなしの「普通の国」になるべきだと確信している。(中略)安保理決議による集団安全保障としての武力行使には無条件で参加できるよう憲法の条文を明確化するのが望ましい」と述べている(66)。川端吉田の主張をまとめれば、「対米協調一辺倒を避けるため、国連PKOや多国籍軍軍事活動積極的に参加して「国際貢献」を行わなければならない。そのためには改憲しなければならない」ということになろう。民主党路線と言ってもよい。今の護憲派ジャーナリズムに、この論理反論できる可能性はない。「8」で指摘したように、対北朝鮮武力行使容認してしまえば、改憲した方が整合性があるのと同じである

 なお、佐藤は、『世界』二〇〇七年五月号に掲載された論文山川均の平和憲法擁護戦略」において、「現実国際政治の中で、山川ソ連侵略性を警戒するのであるから、統整的理念としては非武装中立を唱えるが、現実には西側の一員の日本を前提として、外交戦略を組み立てるのである。」「山川には統整的理念という、人間努力によっては到底達成できない夢と、同時にいまこの場所にある社会生活改善していくという面が並存している」と述べている。私は発刊当初この論文を一読して、「また佐藤柄谷行人への点数稼ぎをやっている」として読み捨ててしまっていたが、この「9」で指摘した文脈で読むと意味合いが変わってくる。佐藤は、「平和憲法擁護」という建前と、本音が分裂している護憲派ジャーナリズムに対して、「君はそのままでいいんだよ」と優しく囁いてくれているのだ。護憲派ジャーナリズムにとって、これほど〈癒し〉を与えてくれる恋人もいるまい(67)。

10.おわりに

 これまでの〈佐藤優現象〉の検討から、このままでは護憲派ジャーナリズムは、自民党主導の改憲案には一〇〇%対抗できないこと、民主党主導の改憲案には一二〇%対抗できないことが分かった。また、いずれの改憲案になるにしても、成立した「普通の国」においては、「7」で指摘したように、人種差別規制すらないまま「国益」を中心として「社会問題」が再編されることも分かった。佐藤沖縄でのシンポジウムで、「北朝鮮アルカイダの脅威」と戦いながら、理想を達成しようとする「現実平和主義」を聴衆に勧めている(68)が、いずれの改憲案が実現するとしても、佐藤が想定する形の、侵略植民地支配反省も不十分な、「国益」を軸とした〈侵略ができる国〉が生まれることは間違いあるまい。「自分国家主義者じゃないから、「国益」論なんかにとりこまれるはずがない」などとは言えない。先進国の「国民」として、高い生活水準や「安全」を享受することを当然とする感覚、それこそが「国益」論を支えている。その感覚は、そうした生存の状況を安定的保障する国家先進国主導の戦争積極的に参加し、南北格差固定化を推進する国家―を必要とするからだ。その感覚は、経済的水準が劣る国の人々への人種主義、「先進国」としての自国を美化する歴史修正主義の温床である

 大雑把にまとめると、〈佐藤優現象〉とは、九〇年代以降、保守派大国路線に対抗して、日本経済的地位に見合った政治大国化を志向する人々の主導の下、謝罪補償必要とした路線が、東アジア諸国民衆の抗議を契機として一頓挫したことや、新自由主義の進行による社会統合破綻といった状況に規定された、リベラル左派危機意識から生じている。九〇年代東アジア諸国民衆から謝罪補償を求める声に対して、他国の「利益のためではなく、日本私たちが、進んで過ちを正しみずから正義回復する、即ち日本利益のために」(69)(傍点ママ歴史清算を行おうとする姿勢は、リベラル内にも確かにあり、そしてその「日本利益」とは、政治大国を前提とした「国益」ではなく、侵略戦争植民地支配可能にした社会のあり方を克服した上でつくられる、今とは別の「日本」を想定したものであったろう。私たちが目撃している〈佐藤優現象〉は、改憲後の国家体制に適合的な形で生き残ろうと浮き足立リベラル左派が、「人民戦線」の名の下、微かに残っているそうした道を志向する痕跡消失もしくは変質させて清算する過程、いわば蛹の段階である改憲後、蛹は蛾となる。

 ただし、私は〈佐藤優現象〉を、リベラル左派意図的計画したものと捉えているわけではない。むしろ無自覚的、野合的に成立したものだと考えている。藤田省三は、翼賛体制を「集団転向寄り合い」とし、戦略戦術的な全体統合ではなく、諸勢力からあいもつあいがそのまま大政翼賛会に発展したからこそ、デマゴギーそれ自体ではなく、近衛文麿のようなあらゆる政治立場から期待されている人物統合象徴となったとし、「主体が不在であるところでは、時の状況に丁度ふさわしい人物実態のまま象徴として働く」、「翼賛会成立史は、この象徴人物の未分性という日本政治特質をそれこそ象徴的に示している」と述べている(70)が、〈佐藤優現象〉という名の集団転向現象においては、近衛のかわりに佐藤が「象徴」としての機能果たしている。この「象徴」の下で、惰性や商売で「護憲」を唱えているメディア、そのメディア追従して原稿を書かせてもらおうとするジャーナリスト発言力を確保しようとする学者、無様な醜態晒す本質的には落ち目思想家やその取り巻き、「何かいいことはないか」として寄ってくる政治家や精神科医ら無内容な連中、運動に行き詰った市民運動家、マイノリティ集団などが、お互いに頷きあいながら、「たがいにからあいもつれあって」、集団転向は進行している。

 ところで、佐藤は、「仮に日本国家国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家同胞日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」と述べている(71)。佐藤は、リベラル左派に対して、戦争に反対の立場であっても、戦争が起こってしまたからには、自国国防、「国益」を前提にして行動せよと要求しているのだ。佐藤賞賛するような人間は、いざ開戦となれば、反戦運動を行う人間異端者扱いするのが目に見えている。

 この佐藤発言は、安倍晋三首相の目指していた「美しい国」づくりのための見解とも一致する。私見によれば、安倍の『美しい国へ』(新潮新書、二〇〇六年七月)全二三二頁の本のキモは、イランでのアメリカ大使館人質事件(一九七九年)をめぐる以下の一節である。「(注・反カーター陣営の)演説会で、意外に思ったことがある。人質事件に触れると、どの候補者もかならず、「私は大統領とともにある」(I am behind the President.)というのだ。ほかのことではカーターをこきおろす候補者が、そこだけは口をそろえる。/もちろん、人質にされている大使館員たちの家族配慮するという意図からだろうが、アメリカ一丸となって事件対処しているのだ、という明確なメッセージを内外に発しようとするのである国益からむと、圧倒的な求心力がはたらくアメリカ。これこそがアメリカの強さなのだ。」(八七~八八頁)

 文中の、「人質事件」を拉致問題に、「大統領」を安倍に、「アメリカ」を日本に置き換えてみよ。含意は明白であろう。安倍は辞任したとはいえ総連弾圧をめぐる日本言論状況や、〈佐藤優現象〉は、安倍の狙いが実現したこと物語っている。安倍政権は倒れる前、日朝国交正常化に向けて動きかけた(正確には米朝協議の進展で動かされたと言うべきだが)が、こうなるのは少なくとも今年春からは明らかだったにもかかわらず、リベラル左派の大多数は、「日朝国交正常化」を公然と言い出せなかった。安倍政権北朝鮮外交に敗北したのは明らかである。だが、日本リベラル左派安倍政権ときに敗北したのである

 〈佐藤優現象〉は、改憲後に成立する「普通の国」としての〈侵略ができる国〉に対して、リベラル左派の大部分が違和感を持っていないことの表れである侵略植民地支配過去清算在日朝鮮人人権擁護も、そこには含まれる)の不十分なままに成立する「普通の国」は、普通の「普通の国」よりはるかに抑圧的・差別的侵略的にならざるを得ない。〈佐藤優現象〉のもとで、対北朝鮮武力行使の言説や、在日朝鮮人弾圧の言説を容認することは、戦争国家体制に対する抵抗感を無くすことに帰結する。改憲に反対する立場の者がたたかうべきポイントは、改憲護憲(反改憲)かではない。対北朝鮮武力行使容認するか、「対テロ戦争」という枠組み(72)を容認するかどうかである容認してしまえば、護憲(反改憲)派に勝ち目はない。過去清算も不十分なまま、札束ではたいて第三世界諸国の票を米国のためにとりまとめ、国連民主的改革にも一貫して反対してきた日本が、改憲し、常任理事国化・軍事大国化して、(国連主導ではあれ)米軍中心の武力行使を容易にすることは、東アジア世界平和にとって大きな災厄である(73)。

改憲戦争国家体制拒否したい人間は、明確に、対北朝鮮武力行使の是非、対テロ戦争の是非という争点を設定して絶対的に反対し、〈佐藤優現象〉及び同質の現象を煽るメディア知識人等を徹底的に批判すべきである

(1)岩波書店労働組合「壁新聞」二八一九号(二〇〇七年四月)。

(2)ブログ「猫を償うに猫をもってせよ」二〇〇七年五月一六日付。

(3)ただし、編集者佐藤右翼であることを百も承知の上で使っていることを付言しておく。〈騙されている〉わけではない。

(4)「佐藤優という罠」(『AERA』二〇〇七年四月二三日号)中のコメントより。

(5)インターネットサイトフジサンケイ ビジネスアイ」でほぼ週一回連載中の〈 Permalink | 記事への反応(0) | 18:37

2024-01-24

怠惰勤勉どっち論

https://www.weblio.jp/content/%E6%80%A0%E6%83%B0

> 「怠惰」とは、すべきことをしない様子のことを意味する表現である

怠惰自称する人間たち、特にプログラマ職の多くに対してお前たちは怠惰ではないということを主張したい

すべきことを決めるのは自身であり、そのすべきであることのみに特化して実行する彼らはやはりすべきことは実行しているのだ。

やはり他人とのコミュニケーションにおいて勤勉及び怠惰であることを主張するのであれば

給与額や収入額の方がまだ妥当だと思う。あくまでもまだマシというものであることを留意してほしい。

から一日同じ給与を手に入れるとして8時間働いた場合12時間低賃金で働く場合後者の方が極めて怠惰であると言える。

いわゆるFIREのような形で金を稼いでいる人間と額が変わらなければあくまでもその瞬間的な勤勉さについては同等として見ても俺はいいと思った。

anond:20240124143616

セルフコメ追記

http://m-sugaya.jp/sci-fi.htm

https://web.archive.org/web/20190804191818/http://m-sugaya.jp/sci-fi.htm

第二次世界大戦後、「Famous Monster Magazine」を編集していたフォーレスト(フォーリー)・J・アッカーマンという編集者が、ステレオの「Hi-Fi(ハイファイ)」の発音にヒントを得て「Sci-Fiサイファイ)」という「Science Fiction」の略語を生み出しました。これがウェブスター辞典いうところの1955年なのでしょう。アッカーマン氏は、自分の車のナンバープレートも「Sci-Fi」にして、この言葉の普及につとめたようです。

 アッカーマン氏はファンジンの祖としても知られている人でして、日本ではマンガ主人公になったこともありますが(^_^;)、コンピサーブ会員の説明によると「(もちろん本人は認めないが)クズSF映画(trashy sf movies)」の愛好者で、彼がこれらの映画に「Sci-Fi」の名前を冠したため、一般メディアは、ゴムぬいぐるみが出てくるモンスター映画のようなもの総称して「Sci-Fi映画」と呼称するようになったのだとか。

2001年宇宙の旅からスターウォーズ」までの期間の前後は、「Sci-Fi映画」といえば目玉の大きなグロテスク宇宙人ロボットなどが出てくるホラー系、モンスター映画代名詞となっていた(いる)のだそうです。

 さら60年代に入ると、出版業界の中で、モンスター映画に似た安っぽいSF小説を「Sci-Fi」と書いて「Skiffy(スキッフィー)」と呼称するようになったのだそうで、「サイファイ」と並行して「スキッフィー」もポピュラー呼称となっていったようです。

Sci-Fi(スキッフィー)」という呼称には、多分に侮蔑的ニュアンス、あるいは自嘲的な意味合いも含まれていたようで、ジョークの中には「SFファンの前でスキッフィーというときは、逃げ出す準備をしてからしろ」というようなものであるそうです。

このような経過を経たせいか、「Sci-Fi」には屈辱的、あるいは差別的ニュアンスがつきまとうようになり、SF作家の中には「Sci-Fi作家辞典」への掲載を断ったりする人も出てきたのだとか。

 そのためコンピサーブの「Sci-Fiフォーラム」は、その名称を「SF/Fantasyフォーラム」に変更し、「GOコマンドからも「GO Sci-Fi」が消えることになったとのこと(1990年頃のことらしい)。ここでいう「SF」とは、「Science Fiction」であり、また「Speculative Fiction」であり、ハインラインクラーク伝統を引き継ぐ作家作品を指しているようです。ちなみにニューウェーブサイバーパンク作家名は出ておりませんでした。

 ただし、ここで留意しないといけないのは、コンピサーブは元もと料金が高かったこともあって会員の年齢層と地位も高く(これを称して「コンピサーブの3高(c)Mitsuru Sugaya)」という)、大半のフォーラムではハンドルが使えないなど、保守的オンラインサービスとしても知られているところです。

 ……てなことを書いていて、またコンピサーブアクセスしたら、最近までは使えなかった「GO Sci-Fi」が復活しておりました。「SF/Fantasy Forum」グループメニューが出てきますコンピサーブもAOL親会社になったことで、ポリシーを変更したのかな? それとも前に探したときタイピングミスしたのかな?

 しかし、このコンピサーブの「Sci-Fi」に関する議論は、なんとなく「ハッカー」についての議論を思い浮かべてしまいました。はい、「ハッカークラッカーを一緒にするな」というアレでございますケーブルテレビにも「Sci-Fiチャンネル」という、24時間連続SF系のテレビ映画などを放映しているテレビ局もあるくらいですから、すでにアメリカでは「Sci-Fi」という言葉市民権を得ているといってもいいのでは……なんて思っちゃうんですよね。これも、「面白ければSFでもSci-Fiでもかまわない」というこだわりのなさからなんでしょうが

 15年ほど昔、手塚治虫先生に、「最近、『ゲームセンターあらし』は、すっかりSFになってますねえ」と言われ、「げえっ! 手塚先生が『コロコロコミック』まで読んでるう!」とビックラこいたものでしたが、そのとき「スキッフィー」という言葉を知っていたら、「いえ、ぼくのマンガはスキッフィーです」と言えたのになあ。あのマンガで目指していたのは駄菓子屋マンガだったから。

すがやみつる(1999/3/20記:1999/8/2一部書き足し)」

😌スッキリした

2024-01-22

パルワールドを受け入れられるんだね。

パクリには血も涙もない連中だと思ってた。

だったらなんでその気持ちをほんの少し・・・

ほんの少しでだけでいいからお前らが殺した異世界転生者殺し-チートスレイヤー-に分けてやれなかったんだ!!!

異世界転生者殺し」は、「ソードアート・オンライン」や「Re:ゼロから始める異世界生活」「オーバーロード」などを想起させるキャラクター「転生者」たちが登場。尊敬する「転生者」たちに故郷の村を焼き払われた主人公は、謎の魔女に協力して「転生者」たちに復讐を誓う……という内容でした。

・「なろう」系を中心に、ネットユーザーに人気のある作品キャラ「転生者」をずらりと出演させ、悪役に仕立てた。

・「転生者」を殺していくであろうタイトル名で、人気作品をおとしめているように見える。

原作者が「賭ケグルイ」を手掛けた人気作家新人ではないのに、なぜ炎上しそうなリスクを取ったのか。

今回の件を受けて、編集者を含めた出版関係者に話を聞くと「作品を熟知した上でのリスペクトに欠ける」という意見大勢を占めました。

一つは作品姿勢への疑問です。「流石におとしめすぎた。パロディーは愛がないとダメ」や「パロディーは、あくま作品スパイスに留めるべき」「モデルとなった各作品キャラは良い人ぞろいなのに、性格悪人に変えたせいで、パロディー対象の全作品ファンが一気に牙をむいた」という指摘でした。

当該作品につきましては、他作品特定キャラクターを想起させるような登場人物を悪役として描いていることについて、読者の皆様より多数のご指摘を賜りました。

ご指摘を受け、編集部としてあらためて検証いたしましたところ、キャラクター意匠、設定等が他作品との類似性をもって表現されていること、特定作品貶める意図があると認められるだけの行き過ぎた展開、描写があること、またそれらに対する反響への予見と配慮を欠いていたことなど、編集部での掲載判断問題があることを認識し、連載中止の決定に至りました。

本件に係り、ご迷惑をおかけした著作者関係者の皆様には、重ねてお詫び申し上げますとともに、同様の不備のないよう厳重に留意してまいります

https://dragonage-comic.com/news/editor/entry-10698.html

2024-01-20

変態は何故パンツを頭に被るのだろう

変態仮面のような仮面スタイルではなく、帽子スタイル場合が謎

仮面スタイルは「何故?」の問いに「ニオイを嗅げるから」という回答を用意できる

しか帽子スタイルは何が目的なんだ

帽子スタイル漫画的誇張表現で、現実変態性欲所持者はパンツを頭に被らないという可能性はある

あるいは、フィクション作品パンツを被っている描写を見てそれを実際に真似する変態存在する可能性もある

その場合パンツを被る描写のあるフィクション作品の有名どころ、またその歴史はどこまでさかのぼることができるのかも調べたいところだ

まぼろしパンティ』が1981-1982年

女性用の洋装パンツ一般に普及したのは昭和からなので、パンツを被る変態もそれ以降に生まれたはずなのだが……

あるいは例えば江戸時代でも女性用の衣服を盗んで身にまとう変態がいたかもしれないが、今回の疑問とは関連が薄いか?一応留意はするべきか

こんなしょーもない疑問でも一応メモしておかないとな

日記

2024-01-17

悪徳?】ヤバそうなコンサル会社に100万円を支払ってしまった。

福利厚生代行の大手サイト掲載されると思って喜んでたら、100万円のコンサル契約を結んで支払ってしまいました。

どうやったら契約解除&返金できるかを、皆様からのお知恵がほしいです...。

登場人物

わたし個人事業主として家事代行サービスをやっている。

IL社:ヤバそうなコンサル会社

◆経緯

ILからあなたSNSを見た。素晴らしいサービスから福利厚生代行サービス大手の"〇〇クラブ"に掲載させてもらえないか」と連絡があった。

わたし歓喜。「ぜひ掲載してください」と回答。

IL社「〇〇クラブへの掲載に5万円かかります。あとランディングページ(LP)をお持ちじゃないのですね。2年間のSEO対策含めLP制作を100万円で弊社で対応します。」

わたし「ちょうどLP制作したいと思ってた!〇〇クラブ掲載してもらえるなら回収できそうだし、契約します!」

契約締結&振込完了

わたし「やったー!私のサービスが認められて大手の〇〇クラブ掲載されることになったよ!100万円の投資になったけど。」

・友人「X(旧Twitter)で"〇〇クラブ SEO"で検索すると、"〇〇クラブ掲載してもらったけど、2年間で1件も問合せがなかった"、”めっちゃしょぼいLP制作コンサルも不十分だった"という投稿が大量に見つかったよ」

わたし「あわわわ」

・友人「さらIL社のHPを見てみるとスカスカの内容だよ。テンプレ素材画像だらけ。会社概要設立年の記載も無い。LP制作SEO対策会社として杜撰じゃない?」

・Aさん(気絶) ←イマココ

留意事項

1.契約書に記載のある解約期間(契約からX日以内)を既に過ぎている。

2.IL社の代表者名前ネット検索しても、ほぼ何もヒットしない。そんなことある

3.X(旧Twitter)で評判が悪いのは「Sングローブ社/Nア社」だが、今回のIL社の名前は1件たりともキーワードヒットしない。そんなことある?(登記簿は入手して商号変更していないことを確認済み)

4.IL社は「うちを通さないと〇〇クラブ掲載できない」という口ぶりで口頭説明をしてきた。実際は〇〇クラブに直接申し込めば5万円で掲載してもらえることが後で判明。

◆今後の動き

弁護士相談だと100万円返金との費用対効果が悪いので、商工会議所中小機構無料相談しようと思ってます

 後は留意事項4を盾に「誤認を招く提案だったか契約解除したい。SNS公表しますよ」と交渉を進めるしかないですかね...。

 皆様のお知恵がほしいです。よろしくお願いします。

※参考にIL社のURLを貼ります。ただしIL社の名誉毀損させる意図はありません。

 → https://intentionliving.co.jp/

暇空の個人情報って

ざっくり大まかに分けて二種類ある。


A:暇空(水原)本人の個人情報。現住所など。

B:暇空(水原)の親の個人情報実家の住所や両親の名前(公には非公開)など。


Aの個人情報は奴と裁判で争っている相手(Colabo関係+20前後?)には、秘匿申請でもしない限り基本的には相手にも通知される。

よって、現在水原個人情報(増田に晒されたものとは別のヤツ)は、基本的には係争相手しか知らない情報…の筈。


Bの個人情報については、弁護士であれば弁護士権限を使って登記を取得するなどして

暇空本人の個人情報から紐付ける形で調査可能らしいが、勿論範囲限定されているので(裁判とは関係無い第三者弁護士を使って調査する事は不可能)

暇空「を」訴えている相手しか知らない情報であると思われる。

尚、当然ながらA・B共に不特定多数への公開は個人情報保護方により禁止されている類の情報である事は念の為留意しておく。


A・Bの個人情報はを知っている人間は限られている…筈なのだが、何故かA及びBの個人情報が度々Xや5chに晒されているのが本当に不思議

また、A・Bの情報をご存知であるという態度の人間もXには少なくない。


少なくともAの個人情報は、裁判での係争相手である堀口英利さんなどを通じて、暇空アンチ活動集団(通称カルピス軍団)に周知されている事は

リークにより判明しているのだが、まだAの個人情報を争っている当事者晒すのであれば(道義的にはともかく)動機としては理解可能である

例えば堀口英利さん(の秘書を名乗る人物)が5chのアンチスレで情報を知っているアピールをして脚光を浴びていたが、その行為裁判が不利になろうがそれはそれで自己責任範疇である


しかしながら、よりプライベートなBの個人情報まで何故か所謂アンチ集団にも周知されているらしく、この事実が本当に恐ろしい。

張本人があまり被害者アピールしないから分かりづらいんだろうけど、住所知ってる上に良くない感情を持っている人間不特定多数いるという事実は、一般人からしたら非常に恐ろしいよ。

自分だったら夜も寝られないと思う。新橋九段さんの◯した方が早いという発言にも説得力が出てきちゃって裁判不利になっちゃうよ。

Bの情報まで一体どこの誰から漏れたのか…まさか裁判で争っている相手…例えば裁判で関わっている弁護士当事者本人から流出したのか…

とても考えにくい事だが、何故かリベラル系の人物団体と争うとこの様な事態が発生してしまうのが、本当に不思議で恐ろしい話である

2024-01-12

松本人志強気だった理由の推測と今回の問題点

※読みづらいので断定口調で書くけど、あくまで推測なので語尾には全部「だと思う」がついていると思って読んでください。

ブコメなんかでも指摘されていることだけど、彼が強気である根拠は「同意がある相手しかしなかった」に尽きる。

松本人志にたどり着くまでにいくつかのフィルタリングがあって、それが要するに彼らにしてみれば「同意フィルタリングとして機能をしていた。

若手の飲み会に参加しますか?→同意

場所参加者が変わる飲み会に参加しますか?→同意

この後、偉い人も来るけどまだ参加しますか?→同意

松本人志とのみますか?→同意

松本人志と個室に行きますか?→同意

いたしますか?→同意

この一連の流れの中で一度でも拒否があれば、絶対深追いしないと決めていたのだろう。

当然自分スキャンダルを起こすリスクは十分に承知していて、最後にたどり着くまでかなり慎重に対応していたであろうことが予想できる。

本人はこのフィルタリングが厳格に運用されている限り安全であると考えていたので、当初の強気発言が出たのだと考えられる。

記事には手淫強要してきたと書かれてはいるが、それが事実ならもみ消す前提でここまで強気には言えないことを考えると手淫については同意があったのではないかと考えられる。

「俺の子供を産んでほしい」までは本当かもしれないが、拒否をされれば強制はしなかっただろう。

まり、彼としてみれば自分にたどり着くまでに幾つもの同意を経ているわけだから、そこに問題がない。=事実無根という認識で居たのだと考えるのが妥当だ。

事実、もしこれが本当に正しく運用されていれば、「既婚者による女遊び」という倫理観以外には問題がない。

正しく運用されていれば、である

松本人志トーンダウンしていった理由は、その運用が正しくされていなかったことがわかってきたからではないだろうか。

例えば、若手が成果を上げたくなってチートした場合だ。

具体的には、飲み会の参加にロイヤリティペナルティを匂わせる場合などだ。

「参加すると番組に紹介してもらいやすくなるよ」

拒否するとプロデューサーの期限を損ねちゃうよ」

今日女性を紹介できないと自分立場が悪くなるから協力してほしい」

フィルタリング同意の中で、一度でもこうした理由をもとに同意を得てしまっていたのであれば、このフィルタリング意味をなさなくなってしまう。

不同意性交罪、不同意わいせつ罪は次のような要件がある。

同意しない意思形成、表明 又は 全うすることが困難な状態にさせること、あるいは相手がそのような状態にあることに乗じること」

また、そうなってしまう原因として、経済的、又は社会的関係上の地位に基づく影響力による不利益の憂慮がある。

あくまで8年前にはなかった法律ではあるが、法が施行されるということはつまり過去の事例が問題視されていたということでもある。

罪に問われなかったとしてもイメージを重視する芸能人としてみれば致命的と言えよう。

これもブコメで指摘のあったことだが、水曜日のダウンタウンで行われた「怪しい自称プロデューサーから“100万円で『水曜日のダウンタウン』に出してあげるよ”と言われ払ったらホントに出演できるホントドッキリ」についてだ。

まさにそうした状況の中において100万円という大金の支払いを迫っている事自体問題があり、「払ったから出演できた」「払わなかったか問題ない」以前の話であるということには留意しておきたい。

しかし、現実における認識は、その程度なのだ

100万を払わなかったのだから問題ない。

100万円払っても番組に出演できたのだから問題ない。

相手から拒否されてセックスしなかったのだから問題ない。

相手同意を得てセックスしたのだから問題ない。

これらは理屈としては実に類似している。

しかし、問題本質はそこではなく、如何にしてその選択を迫ったかの部分にある。

番組としてはドッキリという形で終わってはいるが、そのような話が事実として存在していなければ、ドッキリとしてそもそも成立しない。

出演者はドッキリと明かされるまではその交換条件について真剣に悩んだわけで、それが嘘で済まされるなら詐欺未遂の全ても嘘で済んでしまう。

ここらで一度整理が必要な話だとは思うのだが、この「実害がなければ問題ない」という認識はそろそろ改めるべきだろう。

そうでなければ詐欺未遂はし放題であり、目の前で止められたはずの被害者を救うことができなくなってしまう。

実は、これらに共通する視点がもう一つある。

それが、関係者全員が緩やかに共犯関係にあるという点だ。

例えば飲み会女性を連れてくる若手芸人は、連れて行った女性の行き着く先を知っている。

それにもかかわらず、自分がやっていることはただ、飲み会に誘い出すという行為のみで、そこだけを切り取れば何かしら問題があるわけではない。

そうして罪の意識を軽減しながらも、しかし、問題が発覚すれば他人事ではないことも理解しているはずだ。

さらに言えばセックス同意した女性さえ、例えばそれによって自らにロイヤリティがあったりと、セックスを何かの代償行為に置き換えているのであれば共犯と考えるべきであろう。

例えば100万円の支払いと同じく、有名番組への出演権を得ているとすれば、それは正規手段ではなくまごうことな不正行為だ。

この場合、本当の意味での被害者はこのシステムの外にいる真面目に取り組んでいる人たちになる。

こうして関係する人間誰もが緩やかに共犯関係にあることで得られるメリットは2つ。

一つは関係する人間たちだけで利権を牛耳れること。

そしてももう一つは、組織不正を明らかにすることがつまり自らの不正を認めることになるために、内部告発しづらくなり発覚が困難になるという点だ。

思い返せば、2023年を賑わせたニュースにもこの関係性は多く見られた。

ジャニーズの性被害問題

宝塚いじめ問題

ビッグモーターによる保険金詐欺問題

バイトによる強盗事件

政治裏金問題

これらの問題全て、関係する人間が時に被害者であり時に加害者でありと、それでいて一つの利権を牛耳るという緩やかな共犯関係にある。

そして本当の被害者は、その外にいる不正を行わずに真面目に取り組でいる人達であり、搾取だけされて放り出された人たちだ。

こうしたこと社会問題として注目されるようになった結果とも取れるニュースではあるが、こうしたハラスメント連鎖によって作られる閉鎖的な組織についての研究もっと進んでも良いかもしれない。

言うなればハラスメントチェーンによる組織隠蔽を利用した不正組織が世の中にはまだ多く存在しているということだ。

その上で、セックスをさせることが前提で組織が組まれ、そこに誘い込まれ被害者が「自らの選択だった」と後悔することすら許されず、周囲からも「同意があった」とセカンドレイプすらされかねないようなシステムを善と言えるのだろうか。

お礼メールを持って「同意」を確信した松本人志本人は、今頃周囲から指摘を受けてやってきたことの問題の大きさを後悔していると信じたい。

そのシステムに組み込まれていた後輩芸人たちも、自らの責任希薄であることを良いことに自分に罪はないと開き直るべきではなく、もし自分の妻や恋人、愛する娘がそうしたシステムによって権力者に食い物にされたらどう感じるかを考えて見てほしい。

それがどれだけグロテスクであるかが理解できたなら、先輩芸人のためだなんて偽善を捨て、自らの罪を認めて事件の解明に協力するべきだろう。

ジャニーズの次は吉本かなーなんて年末にのんきな話をしていたこともあったが、まさか現実になるとは思わなかった。

テレビ役割が本当に終わったのだと感じる。罪は罪としてちゃんと償いましょう。

2024-01-08

松本人志イーロン・マスクじゃないんだから

年末週刊誌松本人志に関するスキャンダルを報じた影響で松本人志という人物に対して厳しい目が向けられている。

それは女性問題に限らず、過去松本人志が作り出したコンテンツに関してもだ。

この松本が作り出したコンテンツ評価は人によって分かれる。

評価の中には、彼の笑いはイジメ助長するあるいはイジメのものを笑いにしていたというような主張が存在する。

しかし、そのことの真偽を検証するのがこの文章目的ではない。

そのことをまず了承してもらいたい。

彼の笑いの是非を問うものでない。

その上で、あえて彼の作った笑いが極めて有害ものであったと仮定してみる。

そういう話をしたい。

彼が過去に作った笑いのコンテンツ有害であったとして、果たして我々は松本人志を責めることが出来るのか?

いや、それは出来るわけがない。

当たり前のことだ。

なぜなら表現の自由があるからだ。

表現者表現の自由行使して、その許されている範囲内で表現を行ったことを責めることは出来ない。

例えるなら中世ヨーロッパにおいてキリスト教以外の神を否定するような絵画を描いた芸術家断罪することが出来るのか?という問いと同じだ。

わかるだろうか?

表現者というのは芸術家だ。

芸術家というものは自らが作り出したもの検閲することなど出来ないのだ。

自らのうちから生み出された、ある表現が適切かどうかを判断する完全なる客観性表現者は有していないからだ。

だがら、その客観性を有しているものがその表現が適切かどうかの判断をくださなければならない。

その客観性を有したものとは何か?

誰が判断するべきだったのか?

おそらく松本過去コンテンツに関して責任がある存在とは、すなわちテレビ局であるはずだ。

松本いかに偉大な表現者だったとしても関西の一劇場で細々と舞台演劇を行っていただけならば、いかカルトな人気があろうと全国的な影響力など持ちようがないのは言うまでもない。

ネットなどなかった時代なのだ

松本がつくったコンテンツが適切かどうかの判断をし、

広く流布するべきものか、

あるいは極めて優秀な作品だが

これはもっと人の目の触れにくいところに留めるべきか、

その判断をするのは松本人志仕事ではなかった。

このことに松本人志の笑いを否定するものたちはまずは留意すべきだ。

テレビ局は当時、松本人志コンテンツを広く全国民に向けて放送することに問題がないと判断し、流布した。

理解できるだろうか?

松本人志イーロン・マスクではないのだ。

イーロン・マスクのようにメディアのものコントロールするような権力松本は持っていなかった。

一介の芸人である

その松本に対して、イジメ助長するような作品を流布したと批判することは出来ない。

さらにいうならば、その松本の笑いがなぜ広く流布されるようになったのかという原因そのものもっと考えてみるべきだ。

当時はまだネットがない時代テレビ全盛の時代だ。

テレビ以外はすべてがマイナー存在だった。

そのテレビが、ある番組を放映するかどうかの判断の要としていたのが視聴率だ。

テレビ視聴率とは、どれだけの人が、その番組を見ていたかどうかを表した数字だ。

松本コンテンツは、その視聴率で極めて優秀な成績を残した。

たくさんの人が松本コンテンツを視聴した。

それは批判的に見ていたわけではない。

現在ネット炎上コンテンツのようなものではない。

あのとき、あの場所で、多くの大衆松本面白いと思ったか視聴率を稼いだのだ。

松本の笑いは革命的であったといわれている。

その松本の笑いはムーブメントを作り出した。

ムーブメントは当たり前だが松本人の力では作れっこない。

イーロン・マスクのようなメディア支配者でも無理だ。

ムーブメントには必ず、それを支持する多数の大衆必要となるのだ。

賢明な読者であればすでにお気づきだろう。

松本の笑いとはすなわち松本と我々大衆との合作なのだ

松本大衆共犯関係なのだ

大衆が望まなければ、松本の笑いは生まれなかった。

松本のような広いマスに対して自らの表現を売り物とするものは、

常に時代を見つめながらコンテンツを生み出さなければすぐに大衆から見捨てられる。

彼らは我々が思っている以上に、笑いというもの真摯だ。

ウケないものを作ることは死であるとすら考えているだろう。

ウケないものとはなにか?

それは大衆が受け入れないものということだ。

大衆とはなにか?

それはすなわち社会だ。

価値観アップデートしろ

このような言葉使われるようになって久しい。

これはどういうことか?

価値観とは常にアップデートしなければならない。

なぜか?

それは社会というものが常に変動するということだ。

それまでの常識常識ではなくなる。

から常に価値観アップデートしないと常識はずれの言動してしまうぞ、ということだ。

ならば、その逆も真実だ。

過去を振り返るときには、価値観ダウングレードをしなければならないのだ。

理解できるだろうか?

松本の笑いは、過去私たち過去松本との合作作品なのだ

松本のような存在大衆無視して作品を作る事は出来ない。

ゆえに松本の笑いはその当時の社会を反映しているものなのだ

そして、重要なことに価値観社会で常に変動する。

価値観アップグレード必要なのだ

そのアップグレードされた価値観で持って過去出来事を振り返れば違和感しか感じないのが当たり前だ。

なのにそのアップグレードされた価値観過去出来事断罪するなど

愚か者のすることだ。

そうは思わないだろうか?

笑いというのは毒である

人は毒を面白がるのだ。

しかし毒は

その時々で

使っていい量

使っていい種類

が異なる。

常にその許容は変動していき、

それを間違えれば死をもたらす。

2024-01-02

https://article-image-ix.nikkei.com/https%3A%2F%2Fimgix-proxy.n8s.jp%2FDSXZQO4279347002012024000000-2.jpg?ixlib=js-3.8.0&w=3251&h=2033&auto=format%2Ccompress&fit=crop&bg=FFFFFF&s=8f3f9b9e0783c7d3c9454d8d3cd2c082

輪島市で倒壊したビルの基礎部の画像液状化の特徴を示している。

複数報道記事には根本からぽっきり折れたという表現があるが、画像をみるかぎり建物は折れたのではなく構造ごと転倒したように見える。

画像から判明する特徴

  1. 地中に埋まっている基礎梁がほぼ無傷で露出している。
  2. 基礎梁交差部にパイル穴が確認できる。
  3. 基礎部の付着物が水と砂に見える。
  4. 歩道地盤が波打っている。

これらはいずれも液状化痕跡の特徴に合う。特筆すべきは2。

躯体がパイルから抜けた結果建物は基礎を喪失し転倒した可能性がある。

現在工法が想定していない力がかかったことを示している。

浅い活断層、とくに逆断層上にある杭基礎建造物にかんしては留意する必要がある。

液状化が起こりやす地盤ではパイルと躯体の固定方法をふくむ基礎工法を見直す必要がある。

2024-01-01

anond:20240101105256

ただ留意しなくてはいけないのはテレビから流れてくる音というのはライブで聞いた感じとはかなり違う場合があるということだ。

コロナ禍で配信ライブを見る機会が何度もあったが、収録の仕方で同じアーティストでもこんなにも悪く感じたり良く感じたりするもんなんだ、とびっくりしたことがある。

あと、音源あくま音源しか無いということも。

音楽を歌って演奏するというのは音源再現するということではない。

音源再現を聴きたかったら音源を聴けばいいんだから

ただあまりに酷すぎる場合というのももちろんあるにはある。

でも最近アーティストライブをやらないと稼げないからそれほどひどい歌唱演奏はしないはずなんだけどな。

ライブで聴かせるための音楽づくりをかなり意識してるから歌えない高音とかで無理して曲を作ろうとしたりしない傾向にはあると思う。

2023-12-31

大晦日だし35歳の価値観をまとめて書く

人間は一つの正解に固執しがち。二つの派閥があるとどちらが上かで争いがち。でも殆ど場合は正解を決める必要がない。少なくとも自分が正解を決める必要はない。わからないことはわからないままにしていい。そして他者自分意見いかに両立させつつ穏便に済ますかが処世術になる。

人間ネット言語を十全に扱う能力が無い。ネット上では基本的言葉に振り回される。人間ではなく言葉相手一人相撲を始めるのが人間。論争に出口は無いし、最後には言葉自分ペルソナを上書きしていく。

・人は簡単には死ねない。死にたい死にたい適当に生きてると苦しむ時間けが伸びる。健康に健やかに長く生きた方が楽。

・人の体は食べたもの構成される。間食は避け、外食も減らし、食材国産にこだわること。水はたくさん飲め。

筋トレより有酸素運動重要。足を使う機会を惜しんではいけない。仕事中も1時間に1回は席を立つこと。トイレに行った後で軽くストレッチと足踏みをすること。

・大便に勝る快感は無い。

交通事故複数ミスが重なった時に起こる。交通ルールをよく理解し、他人ミスを織り込んで用心深く生きること。

あの世は想定する必要がない。人間は肉の生き物であり、死んだら死体としてきちんと形が残る。ありのまま人間を受け入れればいい。

・人の社会は不幸なニュースほど話題性が高いが、個々の人間はそれほど不幸ではないと思って生きたい。

・憎い相手は大抵自分のことを何も考えていない。好きな相手自分のことは眼中に無い。

歩きスマホはやめろ。

・数か月に1回は歯医者に行くこと。

早起きは出来る時でいい。早寝は徹底すること。

・親とは喧嘩してもいいが縁は切るな。兄弟勝手に生きていく。

職場人間とは週に一回でいいから楽しく雑談しろ毎日喋ろうとするより寧ろ上手くいく。

生活上の困りごとは早めに人に言え。斜め上の回答が返ってくる。

過去の失敗を振り返る時もあるが、今が幸せなら全部オッケーだ。

ネガティヴ感情を振り払えない時は場所を変えろ。とにかく動け。

・大きな買い物は自分だけで決めないこと。家族や友人、同僚に雑談がてら相談しつつ気長に悩め。

人間全体を肯定する必要なんてない。自分の家庭と職場円満ならそれでいい。

・世の中に怖い人間はどうしても存在する。そういう相手には勝とうとしなくていい。とにかく逃げきれ。

人間本質的に「見なかったフリ」はできない。見ないなら見ない方がいい。自分が見せる側になった時はとりあえず謝って去れ。

善悪という軸は融通が利かない。フィルターとして使い分けろ。多少の悪は翌日には消えてなくなるし、微量の善は記憶されない。

・憎しみは5年で色あせる。幸せは一瞬で過ぎ去る。車輪の様に回りながら人生は続いていく。悔いのない人生なんて存在しない。大抵の失敗は忘れられる。

・人は思っているほど仮想現実区別していない。仮想のような現実なのか、現実のような仮想なのか、本人にも分からないことが多い。ネット上のやり取りではその点に留意すること。

他人一挙一動一喜一憂しないこと。みんな自分が中心でこちらのことなんて考えていない。

他人が丁寧な対応をしてくれた時はこちらも丁寧に対応すること。

・上手くいかないことが続く時は衣食住のどれかが欠けている可能性がある。

人間はどこまでいっても動物だ。生きるために生きている。価値観習性の一つにすぎない。

大晦日だし35歳のおっさん自分価値観をまとめて書く

人間は一つの正解に固執しがち。二つの派閥があるとどちらが上かで争いがち。でも殆ど場合は正解を決める必要がない。少なくとも自分が正解を決める必要はない。わからないことはわからないままにしていい。そして他者自分意見いかに両立させつつ穏便に済ますかが処世術になる。

人間ネット言語を十全に扱う能力が無い。ネット上では基本的言葉に振り回される。人間ではなく言葉相手一人相撲を始めるのが人間。論争に出口は無いし、最後には言葉自分ペルソナを上書きしていく。

・人は簡単には死ねない。死にたい死にたい適当に生きてると苦しむ時間けが伸びる。健康に健やかに長く生きた方が楽。

・人の体は食べたもの構成される。間食は避け、外食も減らし、食材国産にこだわること。水はたくさん飲め。

筋トレより有酸素運動重要。足を使う機会を惜しんではいけない。仕事中も1時間に1回は席を立つこと。トイレに行った後で軽くストレッチと足踏みをすること。

・大便に勝る快感は無い。

交通事故複数ミスが重なった時に起こる。交通ルールをよく理解し、他人ミスを織り込んで用心深く生きること。

あの世は想定する必要がない。人間は肉の生き物であり、死んだら死体としてきちんと形が残る。ありのまま人間を受け入れればいい。

・人の社会は不幸なニュースほど話題性が高いが、個々の人間はそれほど不幸ではないと思って生きたい。

・憎い相手は大抵自分のことを何も考えていない。好きな相手自分のことは眼中に無い。

歩きスマホはやめろ。

・数か月に1回は歯医者に行くこと。

早起きは出来る時でいい。早寝は徹底すること。

・親とは喧嘩してもいいが縁は切るな。兄弟勝手に生きていく。

職場人間とは週に一回でいいから楽しく雑談しろ毎日喋ろうとするより寧ろ上手くいく。

生活上の困りごとは早めに人に言え。斜め上の回答が返ってくる。

過去の失敗を振り返る時もあるが、今が幸せなら全部オッケーだ。

ネガティヴ感情を振り払えない時は場所を変えろ。とにかく動け。

・大きな買い物は自分だけで決めないこと。家族や友人、同僚に雑談がてら相談しつつ気長に悩め。

人間全体を肯定する必要なんてない。自分の家庭と職場円満ならそれでいい。

・世の中に怖い人間はどうしても存在する。そういう相手には勝とうとしなくていい。とにかく逃げきれ。

人間本質的に「見なかったフリ」はできない。見ないなら見ない方がいい。自分が見せる側になった時はとりあえず謝って去れ。

善悪という軸は融通が利かない。フィルターとして使い分けろ。多少の悪は翌日には消えてなくなるし、微量の善は記憶されない。

・憎しみは5年で色あせる。幸せは一瞬で過ぎ去る。車輪の様に回りながら人生は続いていく。悔いのない人生なんて存在しない。大抵の失敗は忘れられる。

・人は思っているほど仮想現実区別していない。仮想のような現実なのか、現実のような仮想なのか、本人にも分からないことが多い。ネット上のやり取りではその点に留意すること。

他人一挙一動一喜一憂しないこと。みんな自分が中心でこちらのことなんて考えていない。

他人が丁寧な対応をしてくれた時はこちらも丁寧に対応すること。

・上手くいかないことが続く時は衣食住のどれかが欠けている可能性がある。

人間はどこまでいっても動物だ。生きるために生きている。価値観はただの習性にすぎない。

2023-12-25

おそらく昔の時代にも作法存在していただろうけれど、各地域や各流派で差があったのではないか

しか現代だと単一の「正しい持ち方」が広く認知されている

伝統的な持ち方」が広まった歴史を調べるのは面白そうだ

『箸の文化史世界の箸・日本の箸』市内の大きい図書館に蔵書有

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武士作法小笠原流寺子屋教科書(往来物)、明治時代作法

日記

2023-12-21

マスクを着けない者と、漏らしたパンツを履く者を比較してみた

外出するのにマスクを着ける気がない人と、外出するのに漏らしたパンツを履いたまま着替える気がない人の違いを考えてみた。(なお、この記事事実関係比較するためのものであり、漏らした方やマスクを着けない方に対して差別を呼びかける意図はありません。また、病気によりトイレに間に合わない方、病気によりマスクを着けられない方、また偶々間に合わなかった方、偶々マスクを忘れた方もいらっしゃいますので、重ね重ねご留意ください。)

ブツを漏らした臭いパンツで出歩いても、マスクを着けなくても、犯罪じゃない。(ただし、そのブツを落としたら器物損壊罪マスクをしないでくしゃみしたら暴行罪。)

ブツを漏らしたパンツを変えるかどうかは、マスクを着けるかどうかは、一応は任意である。そのため、漏らしたパンツを変えない人を殴ったり、羽交締めにしてパンツを替えたりして、強制してはならない。

パンツを変えるかどうか、マスクを着けるかどうかは、法的義務がない以上、個人判断に委ねられてはいる。

雇い主は「お漏らしパンツを替えてこい」と、「マスクを着けてこい」と、業務命令を行えるし、度重なる指導に従わなければ懲戒対象になる。

店は「ウ*コ臭い人は帰れ」と、「マスクしない人は帰れ」と、管理権に基づいて命ずることができる。

航空機の機長は「その臭いパンツを変えろ」と、「マスク着けろ」と、命ずることができ、従わないと航空法違反になる。

臭いから帰れ」で、「マスクしないなら帰れ」で、帰らないと不退去罪になる。

お漏らしパンツを履いて店に入ったり、マスクしないで店に入ったりして、営業を妨げると威力業務妨害罪になる。

ただし、どれも「命令に背いたから」「帰れと言われて帰らないから」「営業を妨げたから」犯罪となっているだけで、「お漏らしパンツを履いたから」「マスクをしないから」犯罪に問われているのではない。

…となるらしく、あまり違いがない模様。

chatgptに聞いてみた

User

増田って知っていますか?

ChatGPT

増田」は一般的日本の姓や名前の一つです。ただし、具体的な人物場所言及しているのか、それとも他の文脈での「増田」について尋ねているのか、詳細がわからないため、もし特定増田に関する情報を求めているのであれば、もう少し詳しく教えていただけますか?

User

はてな匿名ダイアリーのことです

ChatGPT

はい理解しました。はてな匿名ダイアリーにおいて「増田」とは、投稿者匿名で行うコメント投稿のことを指すことがありますはてな匿名ダイアリーは、はてなブログの一部で、ユーザー匿名記事を書き、コメントを残すことができるサービスです。

このコミュニティでは、「増田」という用語特定匿名発言者コメントを指す俗語として使われることがあります掲示板オンラインコミュニティにおいて、匿名性を活かして率直な意見感想を書き込むことができるため、これを指して「増田」と呼ぶことがあります

ただし、具体的な投稿コンテキストによっては、「増田」が異なる意味合いで使われることもありますので、具体的な文脈によって解釈が異なることに留意すると良いでしょう。

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