はてなキーワード: 教理とは
人が死んでも天使になるわけじゃない、キリスト教的世界観においても
この表現を多用している一番有名な漫画はおそらくドラゴンボールだろう
どこかで発想の飛躍があったのかな
気になるねえ、ぐぐりましょうねえ
天使に限らず聖人などを描いた絵画にも、聖人の後ろに光が差す表現が用いられたのだとか
天使に限らないのであれば以降は天使の輪じゃなくヘイローとここでは書くようにしておこう、ブルーアーカイブ風の呼び方
発想としては仏教の後光と同じか
まだ足りない
天使や聖人を描いた絵画→???→漫画的表現の死者を表す記号としてのヘイロー、間に挟まるものを探さないと
なんかこれだ!って情報がなかなかヒットしないな
勘だけど風刺画が間に挟まる気がするんだよな
天使や聖人を描いた絵画のパロディで、天使を例えば政治家に差し替えた風刺画みたいなのがどっかにあるんじゃないか
それが転じて死者の頭上にヘイローを用いるのが一般化したとか?
一応、英語圏のイラストで死者の頭上にヘイローがあるイラストはまあまああるっぽいが……
日本でもなんかドラゴンボール以前に死者の頭上にヘイローがある表現をした漫画無いかな
……手塚治虫がやってる気がする
あの人だいたい何でもやってるからな、あとで探すか
うーん、探し方が下手
wikipediaの「光輪 (宗教美術)」の「大衆文化における使用」の記述が少ないな
英語版だと……英語版の「Halo (religious iconography)」には大衆文化の項自体無いのか
うーんアメコミにもヘイローの使用あるかもだが、アメコミに詳しくない
ここまで調べたというメモ
なんかコレ!っていう本があれば読みたいんだが、この疑問をずばっと解決する文化史本は無いかもなあ
今週の『サチ録』、番外編15を読んだ結果
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こういう路線で調べていくのがよさそうか
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なぜ亡くなった人の頭上に「天使の輪」を描くようになったのでしょうかよろしく... - Yahoo!知恵袋
漫画の記号的表現としては昔からある定番スタイルですよね。 ディズニーのアニメにも、ヨーロッパのカートゥーン(cartoon)にも良く死者の記号として使われていますね。
人間は死ぬと天使になりますか | ものみの塔 オンライン・ライブラリー
アリーロという,まだ7歳の幼い女の子が亡くなりました。悲しみに打ちひしがれた両親は,柩に横たわる白いドレス姿の娘を前に,ぼう然としています。慰めようとして,神父がこう言います。「神様は,天使をもうひとりお望みになって,アリーロちゃんをお召しになったのです。幼子の魂は,今ごろ,神様のみそばで翼を広げて飛んでいますよ」。
死んだ人間の魂が天使になる,と信じている人は少なくありません。公式の教理として教えられることはまれですが,映画やテレビの連続ドラマでは,死んだ人が翼のある天使になって,生きている人を守る,という話がよく取り上げられます。
あなたはいかがですか。愛する人が死後に天使になると考えておられますか。聖書は何と教えているでしょうか。では,天使の本質について,また死んだ人の本当の状態について,聖書そのものが何と述べているかを調べてみましょう。
うーん、「死んだ人間の魂が天使になる」という発想は無いわけではないのか
それが転じて天使ではない死者の霊魂的な何かの頭上にもヘイローが描かれるようになった?
っていうかドラゴンボールつまみ食い的にしか読んだこともアニメを見たこともないんだよな
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ここら辺の本があるいは参考になるか
だいたい最終章は「現代における天使がどのような姿で描かれているか」みたいな話題だから、そこに期待が出来る
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英語圏の情報を探そうとしてもゲームの『HALO』ばっかり引っ掛かってやりにくいったらありゃしない
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そうだ、『トムとジェリー』で爆死したトムが雲の上でヘイローつけた状態で不満そうな顔してるってオチのエピソードがあった気がする
プレゼントボックスに入ったトムが針でめった刺しにされるシーンは涙なしでは見られない
やっぱり「死んだら天使になる」って発想がポップカルチャーである程度一般的に表現されていたようだ
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ってことは
天使や聖人を描いた絵画→死後に天使になる認識、またそれを表現したイラストやアニメ→天使ではなく単なる死者にもヘイローがつけられた
……か?
まだ足りないぞ
キリスト教の教義だと死んでも天使になるわけじゃない、それはカトリックだろうがプロテスタントだろうがエホバだろうが他の何かであろうがだいたい同じだろう
ヘイローは聖なるものの加護を表すからどんな死者でもヘイローは頭上に表れる?
でもトムは爆死して天使になっとるじゃろがい
まだまだ調べないと納得できないな
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ひょっとしたら演劇やミュージカル側の文化が関係している可能性もある
死者を表現する記号として頭の上にヘイローをのっけた衣装を着ていた……とか、あるかもしれない
一応留意して調べる事
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「池にコインを投げる風習はいつから始まったのか?」みたいなテーマでおととい調べて日記書いたときは、その風習を有名にした「Three Coins in the Fountain」っていうアカデミー賞受賞作品を見つけたんだよな
聖者の記号としてではなく、単なる死者の記号としてヘイローを使った何らかのヒット作品があったので一般化したみたいなキッカケがひょっとしたらあるかもしれない
しかしあんまりこの仮説に固執するのはよくないな、気長に探そう
あるとすれば19世紀後半以降くらいのはず
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そうか、調べるポイントが二つに分かれちゃったんだなあ
②漫画的表現で死者が天使となった描写→漫画的表現で死者に(翼など他の天使的要素抜きで)ヘイローのみが付与される描写となった転換点を探すルート
こりゃ大変だ、いったん追加調査ここまで
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次にやる事
→実は守護聖人の頭上にヘイローだけでなく、翼がはえているなどあったりするかどうか
:積んでるキリスト教入門みたいな本をさっさと読む
→なんもかんも体系的な知識が欠けているのが悪い
→でもなー、自分の興味の向き先は「キリスト教の教義はこういうものです」って知識じゃなくて「人々はキリスト教をこのように解釈して信仰していました」という知識なんだよなあ、基礎の勉強ってどうしても飽きちゃって
→第一次世界大戦は1914年7月28日~1918年11月11日、ちょうど探したい年代
:キリスト教的素養がない私がヘイローの描写を見たとき、それが宗教的な性質を持っているのかそれとも記号化したものなのかを区別できるのか?という点について考える
:そもそもヘイローがあって翼があったらそれは天使とみなしていいのか?「天使」って何?「御使い」って何?何もわからない、調べる
→基礎(略
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②についてだが「ゲームのドット絵でキャラが死んだことを表現するのにヘイローが便利で、ドット絵で翼を描くのが大変だったから省略された」という仮説を思いついた
流石にお話として出来すぎな気がする、この仮説は最終的に棄却することになりそうだ
しかし調べるとっかかりとしては魅力的
ヘイロー関係ないけど「ゲームで戦闘不能をどう表現するか?」というテーマを調べるのめちゃくちゃ楽しそう
また別の機会に調べよう
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「Heaven Cartoons」というジャンルの風刺画があるらしい
画像検索してみるとなるほど確かに天国で天使がなんやかんやする種類の一コマ漫画
いつ頃から描かれているかをちょっと調べてみたがなかなか難しい
Wikipediaの「カリカチュア」のページの「主な作家」の項に載ってる人の代表作を一つずつ見ていくしかない
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星新一がアメリカの一コマ漫画を蒐集してそれについてエッセイを書いた『進化した猿たち: The Best』をkindleで購入
権利関係の問題のせいかほとんど掲載が無くなってしまっているようだ
もっと挿絵を見たいから挿絵が載ってる物理書籍のほうを読まないといけないなこれは
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やっとひとつ見つけた
ざっくり言うと政治家が天に召されている様子の風刺画が1868年?1869年?に描かれた、ってところか
翼があり、ヘイローもしっかり完備
しかし余談だけれど死後4年後たってから風刺画が描かれていて不思議だ
なんか「天使になる」ってのは語弊があって「昇天するときに天使と同じ装いをする」という言い方の方が正確なのかもしれない
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トムとジェリー以前のオールドカートゥーンを片っ端から観ているが、天に召されるシーン自体を全然見つけることができていない
ところでチャップリンの『キッド』に天使が登場するシーンがあった
オールドカートゥーンの本当に初期の初期は紙の漫画をそのまま映像化したようなやつだったから、漫画の文脈だと思うんだけどな……
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『マーク・トウェインの天国建設の旅』という論文を見つけたが、これは読む価値がありそうだ
絵やイラストとして描かれていなくても天国に行くとヘイローと翼とハープが通行証かのように与えられる認識は当時の人々視点で昔からあったようだ
18~19世紀の文学作品で天国を描写しているものを探すべきだな
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Elizabeth Stuart Phelps Wardという人が書いた『The Gates Ajar』という宗教小説がアメリカで1868年に刊行されめちゃくちゃ売れたらしい
当時の人々の天国観に影響ありそうに見える
In contrast with traditions of Calvinism, Phelps's version of heaven is corporeal where the dead have "spiritual bodies", live in houses, raise families, and participate in various activities.
カルヴァン主義の伝統とは対照的に、フェルプス版天国は、死者が「霊的な身体」を持ち、家に住み、家族を養い、さまざまな活動に参加する身体的なものである。
とのこと(『The Gates Ajar』のwikipedia英ページより引用しdeepl翻訳)
うーむ、おぼろげに流れが見えてきた気がする
『マーク・トウェインの天国建設の旅』という論文の序文あたりに19世紀半ば以降に天国ものの小説が流行ったみたいなことが書いてあったが、その一因はこの小説な気がする
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そういえばこの日記メモには記述をしていなかったが、宗教美術におけるヘイローは写実主義の高まりによって19世紀までにほとんど衰退しているらしい
なので宗教美術において死者(例えば聖人、殉職者など)にヘイローが描かれたものがあったとしても、カートゥーンのヘイロー描写がその影響を受けているとはちょっと考えにくいのではないか
一度断絶しているのでは?という疑問を持っている
ヘイロー描写は一度衰退し、再び風刺画やカートゥーンなどで記号として便利なので復活したという前提で調べている
あー、いや……この前提本当に大丈夫か?自信ないな
19世紀のアメリカで人々が見ることが出来た美術や絵画はどのようなものだったのか?というのがわからないと正確なことは言えないな……
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自分が確認した限り、カートゥーンアニメで「死んだら天使の装いをして天に召される」表現をやった一番古いものは『トムとジェリー』の『ネズミ取り必勝法』
オールドカートゥーンを全て総ざらいして確認したわけではないからもっと古いのがあってもおかしくはない(アカデミー短編アニメ賞受賞作品すらすべて確認できていない)
幽霊は沢山出てくるんだけどねえ
『ネズミ取り必勝法』はアカデミー賞とる程度には人気だったので、カートゥーンにおける元祖でなかったとしてもビジュアルイメージ固定に大きく貢献したといっていいかも
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キリスト教の教義では死者は天使になるわけではない、という認識があった(今でもそうではある)
→19世紀半ばにスピリチュアルな小説が流行り、人々の天国観を変えた
→それは死後に霊的な体を持った死者が天国で現世と同じような生活を営むものだった
→たまたま印刷技術の発展とタイミングが同じで新聞の挿絵、風刺画、漫画などで聖人でもなんでもない普通の人の死者の絵が多く描かれるようになった
→死者に天使の装いをさせた風刺画、紙の漫画、カートゥーンアニメでビジュアルイメージが固定される(この時点ではヘイローと翼はセット、あくまで天使など聖なる魂的な存在(専門用語を適切に使う自信が無いので曖昧な表現)と同じ装い)
→日本でキリスト教の文脈が無視された記号的な描写がされ、ヘイローのみで死者を表す記号的表現となる
……という流れだという仮説を立てることが出来た
うーん、自信ない
「18世紀以前に普通の死者も天に召されるときは天使と同じ装いをするという認識があった」と言える材料を見つけることができていない
印刷技術が生まれる以前だと絵画にそこらへんの人が天に召される絵なんて描かれないんだよなあ
探すとすれば厳格な宗教者が教義通りに書いた本でなく、人々を慰撫する目的で教義からすれば不正確な内容が書かれた本みたいなのがあればあるいは……(というか、それが『The Gates Ajar』なのよ)
また、『The Gates Ajar』などの天国観を変えるイベントによって死者が天使の装いをするようになった、とある程度の自信をもって言えるような材料は正直見つけることができていない
しかし、とりあえず一定のレベルで納得は出来たからこの疑問はクローズ
日本人の中には、子どもが生まれるとお宮参りをし、結婚式は教会で挙げ、お葬式はお寺でするということに、何の抵抗も疑問も持たない人々が多くいます。
結局は、神道もキリスト教も仏教も本気で信じてはいないからだともいえますが、では、信仰心そのものがないのかといえば、そうではないようです。
例えば、仏滅の日は割引をする結婚式場があったり、友引の日は休業する葬儀場や火葬場があったりするのは、そういうことを気にする人が決して少数派ではないからです。何かの教理に基づいてはっきりした根拠を持ってそれを避けるというわけではなくても、縁起が悪そうなことはできるだけしたくないという気持ちには根強いものがあるようです。
テレビ番組や雑誌に占いのコーナーが欠かせないのも、先祖や水子のたたりを脅しの手段に使う霊感商法が成り立ってしまうのも、人々の中に目に見えない超自然的な力や霊の世界を漠然と信じる心があるからではないでしょうか。
この漠然とした気持ちがひとたび具体的な信仰の対象を得ると、驚くほどいちずな強さを見せることがあります。例えば戦国期の一向宗の門徒たちは、当時の大名たちが恐れてその顔色をうかがっていた織田信長をも敵に回し、命を賭して戦いました。キリシタンたちも、キリシタン禁制がしかれてからもその信仰を捨てることなく、拷問や死刑によって命を落としていった信者たちが大勢います。
明治から第2次世界大戦が終わる頃にかけては、天皇を現人神とする皇国信仰が日本の宗教になったともいえます。特に敗戦間際には、最後には神風が吹いて日本が勝つと信じたり、天皇のために死んでいくことが最高の名誉とされたりする世論は、まさに宗教そのものでした。
終戦とともに天皇が神の座から降り、日本の経済が発展の一途をたどり始めた1950年代後半になると、テレビ、冷蔵庫、洗濯機が「3種の神器」と呼ばれるようになりました。これらをそろえれば幸せになれるという日本国民の心情を表したネーミングです。
「宗教に頼るほど弱くない」と言って、真の意味で何にも頼らず、何にも左右されず、ただ自らの努力や才能、目に見える世界がすべてだと思って生きている人は、実は日本の中で(あるいは世界中どこを探しても)少数派なのではないでしょうか。
いやたしかに日本の仏教がふにゃふにゃなのは同意なんだが、大乗仏教の歴史をざっと見ると、龍樹とか世親とかのビッグネームがいるじゃん
こいつらが説いた理屈はかなり強度がありそうに思えるから、潜在能力としてはなかなかしっかりした教理がありそうに思える
ポストモダンというのは基本的に「色即是空」としか言っていない。
仏教はそこから「空即是色」としてこの世界を引き受けようとするところがある。
ポストモダン的に言うと、すべてのものには本質や根拠、意味なんかなくて、単に名前をつけられた存在にすぎない。
でも仏教は、であるが故にこの世の中をどういうふうに引き受けるのか、この現世の中で意味ある生を生きていくのか、その精神をもう一度問う。
大乗仏教はプレモダンのように思えて、実はポストモダンを超克し得る可能性があるらしいんだわ
(色即是空空即是色つってるからここで言及されてる「仏教」は大乗仏教のことだわな)
こんな感じで、上座部を現代思想として捉えたとき、どういう視点を提供できるのかについてわりと気になってるんで、詳しい人いたら教えて欲しい
emuaeda 仏教を研究しても仏教からは何も学べなかったのかな。個人的な感覚だけど、上座部仏教を学ぶ人は本当の仏教だと主張が激しく攻撃的かつ排他的な人が多い気がする。実際、大乗仏教と比べて紛争なども絶えないし。
2021/01/30
上座部仏教と大乗仏教なら確かに前者が後者に対し批判的になりがちだと思う。
(そういう対立が出る場合はということであって、その二者が同席したって99%そんな論争なんかしないが)
大乗仏教って何をやるんですかっていうと、お葬式やって、ふにゃふにゃしたお説教して、いい加減なもんでしょ。
だから地元檀家が減ったり葬式ビジネスが揺らいだりした途端に大乗仏教のお坊さんには売るものが無くなっちゃった。
だから上座部のお坊さんが売ってるような瞑想を急ごしらえで真似る大乗のお坊さんとかが増えてきた。
このあいだ増田でバズってたお坊さんだって、出家比丘の智慧と言えるようなものがどっかにあった?
どこにもないでしょ。
お説教慣れいい話慣れした学校の道徳の先生とかが言いそうな話でしかなかった。
色んな呪術的な儀式や祭礼とその格式みたいなものは構築してた。
でもそういうのに檀家としてガッツリ付き合ってくれる人達が減れば立ち行かなくなってくるよね。
その儀式に何の意味があるんだって言われると文化財的な価値認めてもらえない限り「無」だしさ。
情念というか、元増田に対する寄り添いの感情で押し切るような話だってでしょ。
上座部のお坊さんはあんな風に「温か」くはなくて、結構突き放したようなことを言う。
もっとましなことで悩んでもらえませんか?ぐらい言うことだってある。
鈴木大拙は大乗を情の仏教で上座部を理の仏教だみたいに書いてたけどまさにそれ。
なんとなく寄り添って、肩入れして、励まして、あとはお経を唱えるだけで阿弥陀様が救ってくれるからねとかいって、それで解決するのかと。
ちゃんと仏法を説いて、理屈で説明して、実践手段を与えて、やらせて、指導して、時に「だらしねえぞ」としばいて、頑張らせる、当人が頑張るのが仏教でしょうと。
もともと大乗仏教という名乗りは上座部仏教を「小乗」として見下し自分達を持ち上げる名乗りだったわけ。
念仏を一回唱えただけで極楽往生間違いなし!みたいなことじゃなきゃ世の中を広く救う、大多数のバカまで救う事なんてできないでしょうと。
いや念仏唱えて救われるってもう仏教でも何でもないし、呪術と迷信の凡庸な宗教ですよねと。
そんな話を広めたって迷信広めてるだけで誰のことも救ってないじゃんと。
自分達の教えは自分で頑張る人しか救わないけど、でもお釈迦様の教えがそうなんだからさと。
お釈迦さまは救い主じゃなくて教師だと名乗っていて、頑張るのはあんたらだよと言ってたよねと。
このような大乗VS上座部の激しめの論争がかつてはあり、(何百年以上前、さかのぼれば二千年前からの話よ)
大乗の方が後からできたものの常として勢いも鼻息も強くて攻める側だったの。
でも現代では大乗の大衆向けヒット商品だった呪術的な儀式とか念仏とかが全部通用しなくなって
上座部の教えとか瞑想のメソッドが「マインドフルネス」なんてパチモンが出回るぐらいに売れるようになったわけ。
だから今は上座部側の方が理屈で大乗に攻め込む立場で、大乗の方がそういう場面ではまあまあと誤魔化す、ぐらいになった。
ただ大乗仏教に紛争がないなんて言われるとそれはさすがにどうなのかってことで
日本の歴史の中で寺同士で殺し合い燃やし合いした荒くれ坊主は全部大乗仏教ですからね。
今でも創価学会が仲間割れした兄弟みたいなとこと争いまくってるけどあれだってどっちも大乗仏教の中の近い宗派でしょ。
世界的に見れば上座部仏教で仏教徒とイスラム部族と争ってるとことかあるけど
あれは上座部だから大乗だからっていうよりも政情とか民族とか経済の問題なんじゃないのかね?しらんけど。
“当人が頑張るのが仏教” こういう考えが嫌い。どうしようもなくなったときに、絶望しないためにあるというのは宗教の一つの機能の気がする。それがないなら、大乗でいいです
だから上座部仏教は宗教ではないという人が上座部のお坊さんにもいます。
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教皇が女性の信者に掴まれた手を叩いて振りほどき憤怒の表情を見せたことに私は失望した。
ただそれにしてもあのような態度を取る必要があったのかと思う。
信者の誰もが教皇と言葉を交わすことができるわけでもないだろう。
教皇が自分のすぐ目の前を通る、その千載一遇の機会に腕を掴んででも訴えたいことが、
耳を傾けてほしいことがその信者にはあったのではないだろうか。
もちろん信者の誰もにそんなことをされては教皇の身がもたない。
そこでその信者の声に耳を傾けることはできないというのはわかる。
だが、教皇になにかを訴えたいその気持ちを汲んでやさしく微笑んで静かに腕をほどくことはできなったのだろうか。
私にはその教皇の態度と振る舞いが当たり前のことのようには思えなかった。
芸能人やスポーツ選手など有名人が熱心なファンに服や体の一部を掴まれるような光景はこれまで数多く見てきたが、
掴んできたファンの手を叩いてまで振りほどこうとするような姿はほとんど見た記憶がないからだ
彼らはビジネス上の都合でファンに逆らえず我慢しているだけで本当は腸が煮えくり返るような思いをしているかもしれない。
もし仮に彼らがファンの腕を教皇と同じように軽く叩いたとしても私はむしろ無礼なファンの方を非難したと思う。
しかしながら教皇は芸能人でも政治家でもないと”私は”思っている。
教理を体現すべき立場の聖職者の頂点が自らの生計のためにファンの無礼に耐える有名人未満の振る舞いに及んだことは私を深く失望させた。
教皇はすでにこの件で謝罪をしており、他の人々のように我慢できなくなることがよくあると釈明もしているが、
もしそれが人並みの寛容を持ち合わせていないということであれば、あなたはあなたが持ち合わせている徳にふさわしい立場に居るべきではないかと。
いかなる場合も弱者に対する慈愛と寛容の心だけは失ってほしくないと願っていただけだ。
本当にただそれだけ。
教皇だって人間だもの、つい手が出てしまうこともあるさ?そういう教皇がいいの?
私の理想は高すぎるのだろうか。
外から見た感じが知りたい。
親がエホバの証人で、大人になるまで信じていたけれど、色々あって辞めた。
理由は複合的だから「これ」とはっきり言えるものではないけれど、大まかに上げるとすると
・人間関係が重い
の二つ。
今となってはエホバの証人なんてどうでもいいんだけれど、他の新興宗教と一緒に「危険宗教」みたいに名前を挙げられているのを見ると、そう見られているのかな?と思ってしまう。
(私も経験から危険な宗教……というか有害な宗教だと思っているけれど、一般人がどうしてエホバの証人を危険視するのかピンと来ない。輸血のせい?それとも特に理由なんてなく新興宗教だから?信者の訪問がウザいから?)
追記 02/06
はてなブックマーク見てたらこれがあったからちょっとびっくりした
タイトルの付け方ミスったけれど、個人的にはもちろんヤバイ宗教だと思ってる。
ずっと親がエホバの証人でなければ、と思いながら生きてきた。
信教の自由ってこんな場合にまで認められなければいけないものなのだろうか。
けれどわたしがエホバの証人がヤバイ宗教だと思ってる理由って中にいたからこそ分かることというか、外からはたぶん分かりにくい部分。
それに体育の時間に武道するのも禁止されてるくらいだし、テロとか絶対にしない・できない人たちだと思うから、なぜ外部から危険視されてるのかよく分からなかった。
危険宗教というのは周囲に害を与えるから、という意味ではなく「入るな危険」という意味なのかな?それなら納得できる。
頂いたコメントなど一通り目を通したけれど
・輸血拒否
・終末思想
・制約の多さ
・体罰
・寄付
まとめるとこういうのが理由なのかな
輸血拒否について書いておられる方が一番多かったけれど、これに関しては確かに危険だと思う。危険というか実際これで死んだ信者、結構多いと思う。日本では確か16歳未満の子どもが事故などで病院に搬送された場合、親の同意なしに医者が輸血できる法律ができてた記憶があるけれど、信者は悪魔の仕業だとか言ってたし。亡くなった子どものことを考えると本当に可哀想。
わたしはゆとり世代なので体罰はほとんどなかった。今の30代40代の二世信者はホース、定規、ベルトとかで叩かれまくってたらしい。怖
エホバの証人の組織は「愛の懲らしめ、愛のムチ」とかよく分からんことを言って体罰推奨してたらしいけれど、なかったことのようになっている。
「愛」「感謝」みたいなきれいごとよく言ってるけれど、結局終末思想とか体罰とかで恐怖心を煽って信仰させてるだけなのが最悪。
けれどあの勧誘活動に費やした時間は報告が義務付けられていて、その時間が少なかったらもっと布教に行くように言われたりするし、毎月70時間布教活動に費やすことが勧められてたりする。
お金取られる方がある意味ましかもと思う部分もあるけれど、そもそも布教活動ちゃんとしていなかったのでなんとも言えない。
なんだかまとまりなく冗長に書いてしまったけれど、最後に迷惑な勧誘を断る方法を書いておく。
インターフォンのところに「宗教勧誘お断り」とかステッカー貼ったら来る確率は低くなる。
それでも迷惑な信者が謎理論に基づいて(「宗教勧誘じゃなくて生活に役立つ雑誌を渡すだけ」とか)ピンポンしてくることがあるかもしれない。
もうそういう人とは会話をせずに
とだけ言ってインターフォンを切る。終わり。
https://www.asahi.com/articles/ASL9V41MQL9VUPQJ004.html
確かに世の中には自然権というアクロバティックな概念を理解してない人たちがいるから、「なんだこいつも自然権を知らないのか教えてやろう」という気持ちで書いているんだと思うが、小林よしのりがその程度なのだとは私は思わない。本当のところは知らんけど。
自然権は、しかしやはりアクロバティックな概念だ。だって人間が生まれたとき既に誰か周りにはいるんだから、権利もそういう人たちから与えられるものだと考えるのが普通じゃないのか。みんな最初はそう思うでしょ?
でも、「自然状態」という誰もが誰をも支配していない仮想的な世界を思い描くこと、本当はないはずのゼロ地点を見つけて、そこからゼロベースで考える手立てを手に入れることで、本来各人が持っているはずの誰にも制限されない権利ってあったはずよね〜と考えることができる。わからんけど、きっとできる。
自然権とは、だからそういう「自然状態」という無重力フィールドで「権利」を発動させたらその考え方のパッケージが裏返ったような概念であって、なんていうか、やはり、足場がないと脆い概念だ。
もちろんこうした考え方をもとにポコポコ近代国家体制を理論的に後ろ盾てきたのだから、これはこれでたいへん尊い考え方だしおれは好きだからブコメの人たちの気持ちもわからないではない。
でも、そもそもその「自然状態」って正しいの?とかみなさんは思わないんだろうか。ゼロと設定したそこは本当にゼロなんですか?自然権は自然状態に依存するんだから、ゼロ地点が間違ってたらその時点で自然権とかそんな確固たる地位を持たなくなるんじゃねーの?
いや別に思わないならそれでもいいんだけど、未だにホッブズとか持ち出してきて(古典は批判的に乗り換えるためには大切だけど)、教理解説するみたいに援用するのダサくないですか?というようなことを思った。
後継者講習会なるものに参加して来た。(http://www.tenrikyo.or.jp/yoboku/kokeisha/)
これは、20~40歳までの男女が3日間で教理を学ぶ合宿みたいなものだ。私も実家の流れには逆らえず今回参加した。
似たような行事(学修・リー講)にはよく参加はしていた。にもかかわらず大して得るものもなくなあなあで続けて来た信仰だが、今回の3日間では色々思うところがあった。
私の実家は教会で、生まれてからずっと天理教の教育を受けていた。毎日のおつとめや神名流し・路傍公演など経験させられて来た。しかも、管内の学校でがっつり教理を学んでさえいた。
だが私は釈然としない。本当に神様などいるのだろうか、いたとしてもコテコテの関西弁をしゃべるような神様なのだろうか
実家の教会を継ぐこともあり得るようなポジションにいる私だが、幼少のころの実家の貧乏な惨状を覚えているので、自身の子供に同じような経験をさせたいとは到底思わないし、性格がねじ曲がっているので教会長を引き継げる気もしない
あくまで天理教を否定しているわけではない。しかし信じてはいない。宗教は社会的にはセーフティネットであり、個人レベルでは内的なスタビライザーとして機能しているのだ。私はその一つとして天理教を見ている。
そんな状態で講習に参加した。
色々な講師のお話を聞いていると、どの講師も同じような話しかしていない。「夫婦仲良く」や「陽気ぐらしは自分がやればみんなに広がる」など、自明なことをつらつらと数十分と語っていることに改めて気づいた。天理教の教理のトピックは幾多にもあるはずだが、幼少から様々な講話や教理を勉強している私にとってはどれも何処かで聞いたような話(しかも自明的な内容)である。それゆえ眠くなっても仕方ない。最初の5分ほど講師の話を聞くといつもまぶたが落ちて来ていた
これは1意見だが、20~40歳の男子女子がそんな好んで教理を聞くだろうか?もっと面白い話や、エッジの効いた弁士オリジナルの教理の解釈を話せば良いのでは?と気になっていた。もし解釈が他人と大きくずれていてもそれでいい。ずれが聞き手に疑問を残す。疑問が議論につながる。議論こそが思考を引き起こす手っ取り早い方法なのではと思う。
また、気になったのがグループワークだ。
このような講習では、毎回知らない人とグループを組み、教理について色々議論する時間がある。3日間でトータル5時間ぐらいだろうか、
参加者は20歳を超えているから一部の大学生とその他大勢の社会人のはずで、前で人が喋っている時にベラベラ喋ったり、出会いを求めにギラギラした目で女性を見る輩はいないだろうと思っていた。
しかし実際は各班30人のうち、一人はそんな輩が存在していた。いったい何をしに来ているのか?天理教の教理を知っていながらどうしてああも横暴がでいるのか、「八つのほこり」を頭にきざみこめ低脳め。
講習中は基本的には各部屋での飲酒が禁止されているのだが、ゆうづとめが終わると、大勢の受講者が近くのファミマでカゴいっぱいの酒を買っている。部屋で消灯を過ぎても飲んでいるzちゅ後者を見ても監督者は見て見ぬ振り。過去には鍋や焼肉も宿泊部屋で行われていたらしい
私としては、同じ部屋の仲間と仲を深めれて楽しかったが、学修やリー講の時は厳しかった門限やその他ルールと比べると、後継者講習会はルールというものが全く機能していない。
おそらく社会人になると、いうことを聞かない適当な大人が増えているのだろうと思うと悲しくなった。
働きながら信仰をしている有名な方もたくさんいることに驚いた。
チューリッヒのCEOや万田酵素の社長など、大成しているひともいらっしゃるのだ。こういう大人になりたいものだと私は思った
今回は思いつきばっか書くので、あんまり本気にしないでください。
日本語の「信じる」「信仰する」という言葉は重いと思っている。
自分の神に対するスタンスは、(本当はいるかどうか良く分からないが)①いてくれたら良いな、②いる方に賭ける、③いてくれなければ困る、という幅で気持ちが揺れ動いている状態だ(その理由は以前書いた)。
「信」という漢字は「人」+「辛」+「口」の組み合わせから成るという説があるらしい。
ここで、「辛」は入れ墨に用いる針の象形で、入れ墨による刑罰を示す。「口」は誓いの文書を表す。
この説によれば、「信」という言葉は「その発言に嘘があれば、受刑することを前提に誓う様」を意味するとのこと。
他方、英語の"believe"は、allow(受け入れる)を意味する"be"と、to hold dear(愛しく思う)を意味する"li"から成るとのこと。
この説によれば、"believe"の意味は「対象を受け入れて愛しく思う」というところか。
これらの説が本当なのか文献を当たってないので分からないが、もし本当ならば英語の方がしっくりくる。
聖書の文言というのは非常に抽象的で、中には矛盾するように読める個所もある。
そのため、人生で直面する問題に対して聖書の規定を適用しようとする際、人によって全く違う結論が導き出されることがある。
このことが顕著に顕れるのが同性愛の問題で、①同性愛は全面的に罪だよ説、②欲求を持つのはOKだけど行為に及ぶのは罪だよ説、③ノンケの人が男色に走るのが罪なだけで生まれながらの同性愛者は罪ではないよ説、等々、バリエーション豊かな議論が展開されている。
(ちなみに自分は、どの説に立つにせよ、自説をもって他人〔同性愛者〕を裁くことは「人を裁くな」〔ルカ伝6-37〕に抵触するのでイカンと思っています)
また実際にも、(a)同性愛を罪と考えて信仰に励む同性愛者、(b)同性愛を罪と考えず積極的に差別と偏見と闘う同性愛者、のどちらも間違いとは言えないだろう。
そうなると聖書解釈というのは単なる主観の表明じゃないのか、客観的に正しい解釈というのはないのか、という疑問が湧いてくる。
この問題を考える際に参考になる議論として、法律学で似たような議論がある。
議論状況は泥沼に陥っている上に難解なのでとても要約なんてできないのだが、論者で議論が一致している点として「裁判官は法律家としての直感で結論を決めており、法解釈はそれを検証・正当化するために用いられる」ということが挙げられる。
このことから、法律家はこの「法律家としての直感」を育てることが肝要であるとよく言われる。
大事なのは「キリスト者としての直感」を、信仰と聖書研究を通じて育てることであり、聖書解釈はその直感を検証・正当化するために用いるものなのではないか。
上述した同性愛の問題でいえば、①同性愛者が直面する問題点、苦悩などをよく勉強したうえで、②キリスト教的な価値観に照らして直感で結論を出し、③それを聖書の規定に照らして検証・正当化する、というプロセスになる。このプロセスを経た結論は、いずれの立場にせよ、聖書的と言える(と勝手に思っている)。
なお、「法律家としての直感」の土台には、無神論と(マルクス主義的な理解における)資本主義がある。
「キリスト者としての直感」の土台には、キリスト教的な価値観(人間は堕落しているという人間観、成功より正義を重んじる姿勢、死後の世界の肯定、愛)がある。
「〔パウロ〕の手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています」(ペテロ後書3-16)
「あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい」(テモテ後書2-15)
「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです」(コリント前書2-14)
#ブコメ返信
・いつもありがとうございます。教理問答買って読んでみます。今は詩篇を読んでいるのですが、終わったらコリント前書も読もうと思います。
なるほどね。
最初は戦後の名前を引き合いにだしてるのか思ったが、グーグル先生で調べてみるとどうもそれとは違った「大日教」が存在したようだ。
同じbotのつぶやきには「大日教祖杉本と信者某との質疑応答」とあるので、教祖の名前が違うからだ。
あとは戦前の「天津教」皇祖皇太神宮天津教 - Wikipedia
(現 皇祖皇太神宮天津教)が戦後の一時期は「宗教法人大日教」という名称だったのでこれかと思ったが、教祖名も違う。
とにかく、一次ソースが気になる。
んで、色々とネット上の情報だけで調べてみた結果、@hukei_botは「昭和特高弾圧史」からの抜粋であることは間違いなさそうだ。
Googleブックス(書籍検索)で「昭和特高弾圧史, 第 4 巻」を引き出し、書籍内検索で「杉本」と検索すれば同じ内容が引っ掛かる。
現在のGoogleブックスは著作権のある書籍は全文表示ができないから(開始当時は見えちゃった気がする)ブツ切りのような情報しか得られないのが難点。
同じく「特高外事月報」と合わせて見ると、全日教教祖は1942年当時60歳、起訴時東京在住、滋賀県出身の大日行者、杉本金治郎というのが裁判記録らしきものから分かる。
108 ページ
... は神去り給ひてより其の誠が大日如来に包摂せられ其の如来は宇宙に瀰漫せる大
自然の誠にして人類並に一切の物を創造し且永遠に之が霊的及現実支配を為たりと
称し、大日教なる教理を創説し爾後之が宣布に努め来たりたるものなる処、該教理たる
や大 ...
「特高外事月報」
59 ページ
... 知得したりと構し、大日教なる教理を創説し衛後之が宣布に努め来たりたるものなる
慮、該教理たるや大日如来は宇宙に瀬夏せる大 ... 四月頃道了奪が大日如来なることを
CiNiiでも引っ掛かった。
CiNii 論文 - 内務省による宗教弾圧 : 創価学会の場合を事例として
CiNii 論文 - 宗教法人法の改正をめぐる問題点 : 宗教団体に対する管理の要素の導入の有無と是非(松本保三先生退職記念号)
1942年の治安維持法違反・大日教事件として記録されている。
しかしまあ、通常のGoogle検索では引っ掛かららんのだね。
戦前・戦中期日本の言論弾圧 (年表) - Wikipedia
↑これにも出てこなくって、忘れられた宗教みたいだ(前述の竹内文書教のせいもあるだろう)
疲れたのでこれまで。
(追記)
(追記2)
↑当時60歳というのが厳しいだろう。
宗教団体法とか治安維持法について知っていたけど、ちょいちょいググってみて、改めてこのあたり軽く考えてたな、と思ったりした。
追加の情報としては
28 ページ
明石博隆, 松浦総三 て、此の大日もその為に行を積んでゐるのである、その修行も半ば
「大平山大日教」ともいう様子。「大日教」が「大日経」の意味で使われる事が多いからかな。
https://www.google.com/#tbm=bks&q=%E5%A4%A7%E5%B9%B3%E5%B1%B1%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%95%99]
神道は穢れ 穢れってのは混じり物ってこと
禊ってのは純粋化する作業であって汚濁を清らかにするって一般的なイメージの意味じゃない
汚濁ってのは「人間にとって使い道がない」って事で単一民族で形成された特色
これは血筋とか由来のものとかで一旦どうにかなったらリセットきかない
きかないかわりにそれを記録したものとして成り立つ
なので死んだらリセットがないので穢れ担当も神になれるようになってる
仏教のほうは不浄な 清められていないってこと
偉い人が「これはOK」って認可すれば良いってこと
多民族の広範な教理はあとから入ってきたやつも許可してやらないといけないからな
不浄ってのはえらい人がOKかNGか決めるわけで
逆にOKがでたらうんこでも食わないといけない
祝福されたら水でも石でも食えるようになるからな
それは土地によって気温が高くて腐敗と管理が難しい動物も食べるのNGにしたりするのな
うんこって決定されたらもう救われないの?ってのを助けるために
阿弥陀 このよのすべてに
仏とかなんとか ○○の名において
って唱えるのな
ダメなものでも自然にかえれば循環してもどってくるので最悪死んだらなんとかなる
また不浄な思いやらお金やらなにやらがでてくるのでオーソライズしていかないといけない
賽銭したりな
そういう意味でお寺は病院と同じ 病気になったやつが病気をもってきてそれをおいて変えるみたいな
興味があったら神学でもやってくれ
ただぼうずがごちゃまぜでうんこはきたないとかいってたらてめえ便所掃除の修行はきたないものをいやいややってたのかボケって殴り倒してもいい
NGが発生したものを救済するのが仕事なのに汚いとかいうやつは職務怠慢すぎる
おまえらのあつめてる賽銭もうんこだから仕事しないなら放り出せといってやれ
穢れとかいうなら穢れの神様としてその役を担ってくれるありがとうになるはず