はてなキーワード: 消極的安楽死とは
俺は、爺さんと親父と2人の車いすを押してきた人間として、映画館の対応で炎上している今の騒動を複雑な気持ちで見ている。
単純な話として、もし自分の働いているところにああいう車いすユーザーが来たら、表面的な対応は別としても内心では腹が立つ。これはもうしょうがない。
クソみたいなクレーマーは多いし、ちょっとこっちが仏心を出すとそこにつけこむクソ客も多い。
とりあえず言ってみて通ればめっけもん、一度通ればそっからはソコを最低ラインとしてさらに言う、対応できなきゃ文句を言う。対応する側としてはクソ客以外の何物でもない。
ただ、そういう対応する側からすると速やかにおかえり願えないかなと思うようなゴリゴリ押してくる車いすユーザーが先陣を切ってくれなければ、変わらなかっただろうな、とも思う自分が居る。
爺さんの時は、俺も車いすを押したが、主に調べたのは親父やおふくろだった。
何を調べたか?外出する際のすべてだ。
移動手段から、途中の休憩所、行く店や行きたがりそうな店、レストランや喫茶店、経路上にある公園のトイレに至るまで全部だ。
そんなん普通にしてれば良いじゃんって思うかもしれないけどそうじゃない。
車いすを押す側としては、車いすユーザーって言うのは、おおむね3つのパターンがある。
爺さんは、2番目の支えられながらなら乗り換えできる、だった。いわゆる介助が入ればベットから車いすへ、車いすから椅子へ行けるってやつだ。
それでも、爺さんのころは相当面倒だった。
今回の件で多少は周知されたようで何よりだが、車いすにとって段差は割と致命的だ。
出張で使うようなキャリーケース、無理したら行けるような段差があると思う。アレが致命的なレベル。
想像してほしいのは、女性だと両手で押して限界って感じの巨大なスーツケースだ。アレに近い。段差即詰んだって感じ。
それでも、先人のおかげで都内ならかなり自由がきいた。事前に連絡しておけばバスもJRも問題ないし、問題がある場合(エレベーターが無いとか乗り換えが面倒とか)でも教えてもらえた。
店もまあまああったし、爺さんが好きな美術品なんかも、まあ結構柔軟に対応してもらえるところは多かった。やはり大手に限られるけど、飛行機もなんとかなった。
とはいえ、気苦労は多かった。昔の人に比べたら事前準備さえすればできることは格段に多いとはいえ、家族としてはやはり一大イベントにならざるを得なかった。
これが、まあ平成後期や令和になってからの親父の時は、相当に楽になった。
例えば行きたい美術館が車いすOKって書いてあったら、特に調べず一発行ってみっかで行って詰むことはほぼ無くなった。
流石にバスやタクシーの時は事前に確認の連絡を入れたが、親父の時は車のトランクに入る折り畳みの車いすを使っていたこともあり、何だったら普通のタクシーでも捕まえれば乗れたりした。
JRなんか事前連絡なしで行っても対応してくれることが多かったように思う。爺さんの時には考えられないスムーズさで対応してもらえた。
チェーン店のレストランなんかだと、よっぽどのことが無い限り車いすでも特に問題無く食事できるようになった。ホテルのレストランだと親父の時に断られた記憶は一度もない。
店からすりゃ面倒が増えたんだろうけど、こっちが事前連絡なしでいきなりいっても対応してくれる場所や店は相当多かった。
親父は最終的には3番の、車いすからはプロに頼まないと(家族であっても)乗り換えできないようになった。
なんかゲーミングチェアーに自転車の小径車タイヤが付いた装甲車みたいなゴツイ車いすに、酸素ボンベと薬を積んで、きつかったらボタン押して薬が自動で入る、みたいな状態でも出かけた。
これは、相当に制限がかかる。移動はほぼ専門の介護タクシーを呼んでなんか自動エレベーターで後ろに積み込まれるみたいな状態でないと難しかった。
それでも、だ。
そんな折り畳み車いすの何倍もでかい状態であっても、結構な場所には行けたし、なんだったらレストランで食事もできた。
まあ流石に予約するときに車いすで結構デカめなんすけど、みたいな話はするが、サイズを伝えて問題になることはほぼなかった。
驚くなかれ、博物館や美術館だと、事前に確認さえとっときゃ普通に行けることもあった(さすがに特別展とかにはいかなかったが、常設展だと普通に行けることが多い。ただ流石にこれは個別調べてくれ)
で、こっからが本題だが。
くだんの映画館の件は、まああり得ないだろう。善意にフル乗っかりした上で、責任取れないんでムリっすって言われて逆ギレしてるようにしか見えない。
ただ、だ。
ああいう、もークソ客きたよめんどくせぇなーと俺が思うようなユーザーがいないと、商業施設なんか一ミリたりともお金出して改善する気が無いのも確かだ。
いま、都内の大手の映画館で、車いす席がないシアターは無いと思う。これは俺からすれば画期的だ。正直な話親父とも何度か映画は観に行った。普通に行けたし苦労もなかった。
(まあ、さすがに初回は調べて問い合わせは入れるし、パンフを買う時に親父にはちょっと待っててもらって俺が並んで買ってくる、みたいなのはあったけど)
そしてたぶんだけど、ああいう(もし俺が対応するとしたら内心思う)しちめんどくさい客がいないと、車いすの客が使えるようなプレミアムシートとかアップグレードシートっては、未来永劫設置されない。
ギリギリまで車いすで移動して、あとは家族が介助してなんとか歩けて椅子に座れるって状態なら、飛行機のビジネスにだって乗れるこのご時世に、映画館のプレミアムシートはやたら階段を昇った先にしかない、とかは普通にある。
(ちなみに、探すと車いすでギリギリまで移動して家族が介助すると座れるプレミアムなシートがある映画館も存在はする。主にゆったりできるって理由で階段で移動しなくて良い場所にたまたま設置されているからだが)
この辺は、車いすユーザーを通常より優遇すると悪さする奴も出てくるんで、多少難しいところはあると思う。
海外なんかだと、車いすユーザー+介助者1名だけは別ルートで入れてくれるけど、それ以外の家族は別に並べ、みたいなところは結構あった。まあこの経験は爺さんの時なんで今は違うかもしれんが。
そういう意味で、爺さんは海外では車いす特権じゃないがプレミアムな体験を親父としてたりした(なんなら家族の俺もその恩恵にあずかることもあった)が、国内では優遇されてやっと普通と同じ、という感じではある。
複雑な気持ちなんでまとめようもないんだが、まあそういうことだ。
労働者としての俺は、ああいう客が来たらほんっと勘弁してほしいと思うし、心底はよ帰ってくれんかなーと思う。
また、将来的に車いすユーザーになる可能性が高いだろう俺は、車いすに余計なヘイトをかってくれるなよ、とも思う。
ただ、わがまま放題で主張しまくりで、いわゆる健常者が出来てるプレミアムな体験を俺にも寄越せ!と叫ぶ先駆者がいてくれないと、変わんねえだろうな、とも思ってる。
まあそういう意味ではね、プレミアムな車いす置き場と介助者シートを作って、倍の値段で予約してくれれば良い体験で映画見れまっせってのは、都内ならたぶん予約途切れないと思うんスよ、どうスか?
くらいが関の山ではあるんだよね。実際、マジでめんどい客がいてくんないと世の中変わんないからなー
俺が今回の件で、自分の目の前に来たら正直クソ客帰れよと思ってしまうのと同じ心が、あんまり叩いてくれるなと強く思うのは、これって尊厳死が消極的安楽死から一歩踏み出す時にすごく怖いからなんだよな。
いるじゃん。医療の補助なしで命が繋がらないならそりゃもう寿命なんだって言うヤツ。アレ嫌いなんだよね。爺さんも親父も医療の補助無しならもっと早くに何もできずに死んでた。
間違いなく爺さんも親父も、五体満足で生きてる人に比べれば、社会のリソースに余分な負荷をかけていってみりゃ娯楽だの余生の楽しみだの、別に本人が望みさえしなきゃかけなくて良い負担を社会に強いてたわけだよ。
でもよ、いやじゃん車いすになったとたんに、趣味だった美術館巡りがさ、常設展のこの区画ならお楽しみいただけますが、車いすの方はこちらの別館はちょっと……みたいな状態はさ。
そういう時にさ、なんだよ健常者様ならプレミアムなシートで映画見られんのに我々車いすのユーザーは端っこで見ろってのか!って激昂する人が一定数いてくれるとさ、声上げてくれる人がいるとさ、助かるわけよ。
繰り返しになるけど、俺ですら目の前に来られたら嫌だよそんな客。でもさ、そういう人がいてくれるからこその、今、とも思うんだよね。複雑な気持ちよ。
----
X(旧Twitter)上で、車いすユーザーの問題じゃない、いや障害者問題ですらない、彼女自身の問題だ、みたいなポストを見ちゃって流石にちょっとそれはと思ったんで記録がてら追記しに来た。
まず想像してほしいんだけど、彼女が五体満足で「プレミアムなシートで映画見まーす。イエーイ」みたいな投稿するクソ陽キャだった場合なんだけど、炎上はしないと思うんだよね。
毎回プレミアムで映画鑑賞かよクソが、と、俺は思うかもしれないけど、それぐらいなんだよね。
だからこれはまごうことなき車いすユーザーの問題なわけよ。車いすのクソビッチはプレミアムなシートで映画を見ることが出来ないという問題。車いす専用スペースはあるけどプレミアムじゃない。
ほんで、あんま主張するのが得意じゃない車いすユーザーだった俺の親父とかは、映画がスムーズに見られるだけで感動して、席次(?)に文句を言うようなことは無かったわけよ。実際ありがたかったし。
でもさあ、もしプレミアムなシートでも映画観られますよっていわれたら、そっち選んでたと思うわけよ。やっぱいい席で見て欲しいじゃん。
まあわかるのよ、まったく同じにはならんだろうってことは。俺だって普段は労働者側じゃん。身内にいて苦労した経験があったとしても俺が対応するとしたらゲェって思うわけよ。
でもこれもさ、過去「映画観るのは遊興なんだから、車いすユーザーはそこまで求めるの贅沢じゃね?」みたいなのを乗り越えてきてくれた人がいたからこそ、スムーズに親父は映画を観られたわけよ。
だってさ、不要不急かつ生存に必要なわけじゃないじゃん。代替手段として例えばいまならストリーミングサービスとかもあるわけだし。
でも、車いすユーザーが映画館で映画が見られる。どっかで引かれてたラインが、良い方に移動したわけよ。
で、こっからが重要なんだけどさ、わかるよ、正しいルートで正しい手順を踏んで、ちゃんと段階を踏んで法律とか条令とか、企業の努力に訴えかけたりメリットを訴えるって方法があるのは。
でもさ、ほんとは高校デビューしてアタシもビッチとして青春を謳歌してみたかったなみたいな、世間一般で言うところの常識的な車いすユーザーとかさ、その後ろにけっこうな数いるわけよ。いやすんごい良くなってるのよ世の中。
でも、車いすだっていうだけで、できないことがあるのは事実なのよ。正規の手順で正規のルートで訴えていくことが出来る中学生がいたとして、彼ら彼女らの青春が終わる前にプレミアムなシートで映画を体験できるようになりますか?という。
だから、俺個人としては止めて欲しい、もし自分が同じ立場だったら申し訳ないんですが車いす専用スペースで見てくださいプレミアムなシートは席のご用意が無いんですスミマセンスミマセン上に要望は上げるんで、という感じになると思うのよ。
それをぶっ飛ばして、いやプレミアムシートの下の段に自力でスロープで上がるんで、介助者連れてくるんでええやん、みたいな人が居てくれるとさ、いやーそれはどうなんだろちょっと上のものと相談しますね、みたいになると思うのよ。
それがさ、もしかすると、今回の件で、介助者がいて避難誘導時に介助者が誘導補助をするなら、通路に面したシートに普通に座っても良いですよ、となる可能性だってあるわけじゃん。
その結果、車いすユーザーを含む高校生活を楽しむグループが、横一列で映画館で映画を観ることが出来るかもしれない。そういうのがあると良いな、と思うわけよ。
あと見かけたのでは、リソースが有限だからっていう理屈。俺は嫌いだ。
健常者が普通に出来ることが、障碍者なんだから制限受けてん当然、みたいなの、俺は嫌なのよ。
災害時にリソースが足りないのはわかる。避難所では人工透析が出来ないです、インスリン注射も補給できないです、車いすユーザーは車いすを館内に入れないでください。ある程度制限がかかるのはしょうがない。
でもよう、労働者としての俺がさ、いやだってキミ英語も中国語も喋れないじゃん、リソース有限なのよわかる?英語も喋れないようじゃ家は買えないよ常識的に考えてとか不動産屋から急に言われるのとか嫌だよ。
外部環境に左右されるリソースって単語で、日常生活に制限かけられるのは、やっぱ嫌だよ。
車いすユーザーはあんまありがとうとか言わないよな、ありがとうっていうだけでそんな大変?ってのはなー
生まれ育ちや頻度にもよるから何とも言えないんだけど、五体満足である俺ら側が許容してあげる度量は持ちたい。
俺は一回爺さんに言われてやってみたことがあるんだけど、右足と左足を動かすたびに、心の中でいいから右足と左足にありがとう、助かったよみたいに声をかけてあげるの一週間やってみてくれよ。
あ、いま右足で体重支えてくれてありがとう。階段上ってくれてありがとう。止まれて助かったよ。ドア閉めてくれてありがとう、踏ん張ってくれて助かった、立ち上がってくれてありがとう、靴下はくとき位置移動してくれてありがとう、寝返り打てたよありがとう。
俺は3日でギブアップ。確かにこの頻度や感覚でありがとうを言わないといけないんだぜって言われると、それはしんどい。だからしてもらって当然と無感覚になっちゃう人がいてもしょうがないと思う。
あ、見てて気の毒なくらいありがとう、ごめんなさいねっていう人もいるよ。それはいるって。
あと、俺の書き方に配慮が無かったって話(大意)。それは申し訳ないことをしたと思う。
例えば、そもそも配給会社に言うしかないタイプの障害を持ってる人がいるのも知ってはいたけど書かなかった。
その結果、心無い言葉に触れてしまった人がいたのはほんと申し訳なかった。
視覚に障害がある人が映画を観るときに使う音声ガイドがある映画とか、
聴覚に障害がある人が映画を観るときに使う字幕メガネ貸し出しの映画館とか、
そういうのがある。
映画は何も晴眼者で健聴者であるものだけが楽しむ娯楽じゃない。でもそこが十分にフォローされてるかっていうと、たぶんされてない。
そういう意味で、車いすユーザーはある程度わがままを言っても身の危険を感じることが少ないっていうのは、確かにそうかもしれない。
最後になんだけど、俺はそういうクソ客はクソがと思うし、めんどいと思うし、俺の目の前に来たらやっぱ嫌だと思う。
あと、法律はそうなってないとか、車いすの作りがそうなってないとか、そういう対応にコストがかかるとかも、わかる。
ハイ今はそういう意味じゃないしそうなってないでーす、バーカバーカじゃなくてさ、
じゃあそれは良い方に変わったら良いね、という風に思ってはくれないだろうか。
車いすユーザーもプレミアムシートで楽しめると良いね、ただクソビッチはむかつく、という風に分けて考えてくれないだろうか。
でもたぶん分けて考えるの難しいよなあとも思って、複雑な気持ちは今も変わらない。
この手の議論する際は、積極的安楽死、消極的安楽死(尊厳死)、終末期医療、あたりのキーワードをしっかり押さえないとダメよね。
医師から余命数ヶ月のような宣告受けたら、公的な費用補助を受けながら終末期医療制度を利用できる。
病院での緩和ケアはもちろんのこと、ホスピスの利用や、QoLを配慮して自宅介護も選択可能だったりする。
また、日本では消極的安楽死(尊厳死)の理解も進んでいて、一定の手続きのもと、延命措置をやめることも認められている。
日本で消極的安楽死が違法(医師が捕まる)だと誤解している人がたまにいるけれど、事件になったのは手続きの不徹底(家族へ十分説明していなかった等)が主な原因なので。
これら制度の整備と一般への理解が進みつつあるところに、その上でさらに積極的安楽死(医師が薬物などの投与で死をもたらす)の制度が必要かどうかを議論しないとね。
予め言っておくが、自分は「安楽死反対派」である。それもかなり強く反対している。
ネット上ではたびたび安楽死に関する法整備を求める意見が見られる。
経済的な理由による安楽死は論外として、病気による耐えがたい苦痛を避けるための安楽死を求める意見は一定の支持があるようだ。
だが、主張は結構なことだが「国家によって安楽死を認める」ことがどれほど重大なことか理解していない意見が多いように見受けられる。
あくまで自分の意見だが、「安楽死を認める要件」として最低限以下のようなものがあってしかるべきだと思う。
安楽死とは、要するに医師などにより生命活動を停止させること、即ち「殺人」に他ならないのは疑いなく事実である。
即ち、「安楽死を法的に認める」ということは「国家によって殺人を承認する」ことに他ならない。
国家によって認められた殺人と言えば、「死刑」もそれに相当する。死刑の判決を言い渡すのは言うまでもなく裁判所だ。
当然殺人を法的に認める以上、安楽死についても裁判所による手続きがなければならないと考える。
医師によって、患者がもはや死を避けられない状態であることの証明が必要だ。
主治医はもちろんだが、感情的な選択を避けるためには利害関係のない複数の医師による中立的な判断がなければならないと考える。
当然、安楽死を「行う」医師がどれほどいるかという問題もある。
これが難題である。
その意志が、短期的な抑うつ状態や、周囲や「世間」の圧力に左右された一時的なものでないかの証明が非常に難しい。
2019年の透析中止死事件では、透析を続ける苦痛のあまり透析中止を決断したとされるが、終末期に至って透析中止を撤回したいと言いながらも助からなかったとされる。
本人の意志とはこのように揺らぐものであり、かなり長期間の意志確認は必須である。中立の公証人による証明があってもいいかもしれない。
同様に、安楽死を決めたものの直前になって「生きたい」と意志表示したならば即座に安楽死を中止しなければならないだろう。
また、周囲や世間の圧力でないことを証明するためにも、「安楽死」を美談にしないようにマスコミやSNSには厳重な自制と規制が求められるだろう。
特定の病気になったら安楽死するべき、なんて世論が広がることはあってはならない。
なまじハラキリ文化の日本であり、「潔い死」が受け入れられやすい社会的素地があるのはかなり危うい。
「安楽死を法的に認める」ためには、「安易な安楽死は認めない」という国民の意識改革がなければならないという矛盾がある。
これらの議論を進められるだけの十分な社会的な理解が日本にあるかというと、正直言って「ない」と言わざるを得ないのではないかというのが自分の意見である。
特にマスコミやSNSに関しては、現状ではほぼ絶望的なのではないかと思われる。
なお、昨今の安楽死議論の中には「終末期患者を生かし続ける社会的コスト」に言及するものがあるがこれは論外で、
憲法25条の生存権を見れば明らかなように、国民には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」し、
国には「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とされている。
国民が生存を望むならば国は生存を保障しなければならない憲法上の義務が存在する。どれほどのコストを支払ってもだ。
つまり、一番手っ取り早い方法は憲法25条の改正と言うことになる。
当然自分はこのような憲法改正には賛成しないし、国際人権A規約にも反する。ハードルは極めて高いと言わざるを得ない。
いくつかコメントが来ていたので補足。
繰り返すが、自分は「安楽死反対」の立場からこれを書いている。
これくらい厳しく要件を掛けなければ、恣意的に運用されかねないという強い懸念があってのことである。
コメントにあるように「経営者が労働者に家族の安楽死を要求する」なんてことが起こりかねない。
裁判所の決定を要するとしているのも、時勢に強く左右されかねない行政ではなく、常に法の番人たるべき裁判所が決定すべきと言う考えからである。
実際、裁判によって決定した死刑囚の署名を時の法務大臣の意志で停止した過去の例もある。
そしてこの程度の要件をクリアできないのであれば、そもそも安楽死を法制化するべきではないというのが主旨だ。
国民の生存を保障するためにある国家が、それに相反する法制を行うことがどれほど困難なことかということについて、頭の片隅にでも残れば幸いである。
個人的には本人の自由意志が確認できなくなった段階で安楽死を認めるべきではないと考えている。
「本人の自由意志がなければ生存権を行使している」と見なすべきであり、当然国家はそれを保障しなければならない。
この時点で「本末転倒だ」と思われる人は多いかもしれないが、安楽死法制化は終末期医療のコスト削減策「ではない」。
あくまでも本人の自由意志によって死を選択する自由を与えるための法制であるべきであり、
医療コスト削減が目的にすり替わるのであればそもそも法制化の目的を見誤っている。
なお、現行法制でも積極的安楽死ではなく、延命治療終了による消極的安楽死は行われており、この手続きで不備があるとは思えない。
そういう認識の人多い印象。
「死んでもいい権利」なことに間違いはないけど、だからといって死にたいから死ねるわけじゃない。ちょっと調べたら出てくるけど、相当条件厳しい。条件厳しすぎて、現実的に「死ねる」→「死ななくてはいけない」になる可能性ってほとんど感じない。安楽死が一般化して条件も緩和されたあとの、随分と未来の懸念を先取りしすぎだと思う。
安楽死導入って、今日本で本当に安楽死を必要としている人たちの実態を、他国を例に挙げて十分論じないといけないと思う。けどそういうのを飛び越して二歩も三歩も先の話をして「日本にはまだ早い」って言ってる人多い気がしてなんだかなあという感じ。
医者は嫌がる人多いだろうし、増田のいうことも多少なりはあるかもしれん。だから日本ではまだ先の話だろうなあと自分も思ってる。
要は自分が何を言いたいかというと「健康診断の検査つらい」なんですが。
それについていろいろと考察した長い文章が下に続いているだけ。
日本人の寿命が長いのって、国民皆保険があるからお金の負担が安いことと、会社員が35歳以降に人間ドックを毎年受けることで早期発見・治療しているからなのだろうか?人類の医療で生かされてる(活かされてる)んだよな、健康的な意味でも、寿命的な意味でも。そりゃあそうだ。予防医学だよな。歯医者の定期健診を受ける、とか。
でも、トシくって様々な検査がちょっと辛かったりするのを目の当たりにすると、
「検査をしたり医療を受けたりしてまでも生き永らえたいというモチベーションが、果たして自分にはあるのだろうか?」
積極的安楽死か、消極的安楽死か、なんか、そういうのが脳裏によぎる。
会社員でいる以上は、自分を労働リソースとして供出しているのだから、その「労働リソースとして将来的にどのくらい使えるか」ということが会社的には気になるわけだし、あと法律で決まってるのかな?その辺の理由で、会社側から言われたとおり健康診断を受けなきゃならない。「直せばまだ労力として使えるのならちゃんと直せ」というのが、営利企業や国力といった視点からの論理と言えるだろう。
なんか、「自分の体は自分だけのものじゃない」という感覚がする。「公僕」、会社や社会の共有物かのような感じがする。
あ、検査がつらいんで受けません。安楽死しまーす。っていう自分の体に自己決定の権利はないのかな。それ人道的にどうなのかな。
その「自分の体が自分のものじゃない」の最たるものが、家族の意向により、胃ろうで生かされている人間でしょう。倫理的にどうなのでしょうか。かくいう私の親戚にもいます。こわいので面会していないです。いまはコロナで面会もままならないですが。
医学は、人為的に死をコントロールできる術です。進歩すればするほどコントローラブルな範囲が広がる。いずれは不老不死も実現するのかも知れない。
そのコントローラーを渡されて握るのは、本人であるべきなのか、他人であるべきなのか。自分というシステムのroot権限は誰が持つのか。
それにしても、35歳くらいを超えてる会社員の全員がこういう検査受けてる、ってすごくないですか?
人によっては人間ドックを毎年サボってる常習犯が居たりして、まあ気持ちはわかる・・・ってなっちゃう。
医療体制がすごいのもあるし、検査にみんな耐えてるのえらいですよね。
医療が進歩して検査の負担を減らす改善も継続的に行われていて、胃カメラを口から入れるときの不快感を減らすためにイカリングみたいな白い輪っかをくわえると、かなりラクになるんですよね。あれ。ノーベル平和賞でしょ。10年前に受けた時あんなのなかったし肩に注射で麻酔してたんですけど、最近はのどスプレー麻酔になったし1時間で麻酔切れるし、カメラ自体も細くなった。昔の胃カメラでトラウマになってる人もいると思いますけど、いまだいぶ負担減ってるんで、バリウム飲むよりもラクじゃないかと思いますよ。
若い頃ってさ、なんか、さまざまな「リソース」というものが無限であるかのように錯覚していた。
言い方を変えれば「有限なリソース」という概念そのものが頭の中になかったのかも知れない。
健康も時間も、仕事にかけられる労力も、無限だと思ってたので、スケジュールも何もなくがむしゃらに働いていたような。
でも社会に出て、あ、いろんなものって有限なんだなって気づいて。そのリソース管理がすごく難しいことに気づいていった。
そして30を超えると、「自分の健康寿命」というリソースの有限さをひしひしと感じるようになる。
若いころはモノを買うとき、お金の使い方がコスパばっかり考えていたように思う。安物買いの銭失いだ。
それはそれで「将来への投資」の考えがなさすぎる、貧者の思想だとは思うけど。お金に対してそういう貧しい考え方で育ってしまったのだから仕方がない。トシとっていってお金の使い方が少しはマシになったし、服にかけるお金がふえたりした。
トシを取ると自分の寿命が頭の隅にチラつくので、コスパが多少悪くてもペイするように意識が変わっていっていると思う。
「いまは時期が悪い」とか言ってチャンスを見送っているうちに自分の寿命のほうがなくなっていくからね。
たとえ時期が多少悪くても、じゃあいまやろう。お金をポンと出してやったぜ。と。
経済の話でいうところの「機会損失」って、商品の在庫があるとか、買える機会とか、開催期間が限定されたイベントとか、そういう「外的な機会」の損失するかどうかを焦点にしがちに見えるけども、それだけじゃないんだな。外的機会がある間に、かつ、自分の健康もなければならない。健康でなければ商品を購入して満足することができないから。
「健康が不足していて機会損失」も大いにあり得るわけです。「大切な推しのイベントなのに風邪ひいていけなくなった」とか。
これっていうのは「推しは推せるときに推せ」「孝行したいときに親はいない」と通じるものがある。
だから商売するのって、「ちょっと健康に不安が出てきて、かつ、そこそこお金持ってる人」を狙うのが効率よさそうですよね。健康商品じゃなくても。
ゲスいですが。足元見てる。
そういうターゲッティングして商売してる人間自体も、いずれはその該当者になるんですよ。
「おれは長生きしないんだ」つって、暴飲暴食してる人、ラクに死ねると思うなよ。苦しむぞ。みたいな脅しツイートを見かけたりしますけど、まあ確かにそうなんですけど、それも安楽死があれば解決するんですよね。
日本における安楽死の議論での反対派って「イジメみたいに同調圧力によって安楽死の自己決定を促されてしまう」危惧をドグマにしてますけど、
すでに「健康診断の圧力によってつらい検査を受けさせられてる」現状があるので、たしかにそうかも。そうなるだろうなあとは思われます。
「自殺と他殺」という対比の概念がありますが、それと同じように「自生と他生」とでもいいましょうか。
どう転んでも、自分の体の健康維持や死についての決定権は、自分だけが独占的・排他的に所有してはいない(できない)ようですね・・・。やはり自分の体は公僕性、公共物性を帯びているようです。それは国民皆保険であるから、国としては保険で治療コストの高い病気をなるべく支払わずに済ませたいので、治療コストの高い病気にかかるリスクを下げておくための検査コストを支払っておく(強制的に受けさせる)ほうがトータルでコストが安い、という計算なのでしょうか。
他者の圧力によって胃ろうで生かされてしまうようなことがある社会と、
どっちがマシなんですかね?
「勝手に生きるな」
介錯してラクにさせてあげたほうがいいんじゃない?とも思うし、
人為的に死をコントロールできてしまうということは、サバイバーズ・ギルトってやつが生まれる。生存者の罪悪感。
面倒なことにならないように、自分の生死を他者の人為的なコントロール下に置かれることが無いようにしたいですね。
やっぱ自分がコントローラ握って健康診断うけるかどうか決めたり、コロっと安楽死が理想なんですよ。でもそれって一貫性としては、このコロナのご時世で「公衆衛生を省みない自分勝手な自由な行動に出ることの許容」をも意味してしまうのですが。感染症や、医療保険の有無、といった社会的な連帯関係のものは物議をかもしますよね。そりゃ。
自分が死ぬときはVR-HMDかぶって、なんか、すごい音と映像で逝きたい。
臨床宗教師の仕事の中に「VR機材の管理」も含まれてくると思うんですよね、今後は。「テクノ法要」もありますし。映像や音声のクリエイターも、その走馬灯のような「最期の映像」をクリエイトする日が来るわけですよ。
だからVR業界から法曹界・医療関係に転職するようなキャリアパスもあるでしょうね今後は。
塞翁が馬。
みとりびと、おくりびと
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
---|---|---|---|---|
00 | 82 | 23823 | 290.5 | 62 |
01 | 102 | 14069 | 137.9 | 46.5 |
02 | 113 | 11922 | 105.5 | 47 |
03 | 77 | 8982 | 116.6 | 72 |
04 | 90 | 7727 | 85.9 | 56 |
05 | 69 | 6513 | 94.4 | 49 |
06 | 60 | 6896 | 114.9 | 51 |
07 | 76 | 5604 | 73.7 | 41 |
08 | 65 | 8143 | 125.3 | 39 |
09 | 86 | 9001 | 104.7 | 39.5 |
10 | 66 | 7883 | 119.4 | 54 |
11 | 78 | 9878 | 126.6 | 53.5 |
12 | 194 | 17823 | 91.9 | 43 |
13 | 171 | 20175 | 118.0 | 48 |
14 | 134 | 11038 | 82.4 | 55 |
15 | 210 | 19869 | 94.6 | 51 |
16 | 196 | 22034 | 112.4 | 53.5 |
17 | 135 | 23410 | 173.4 | 53 |
18 | 132 | 12611 | 95.5 | 47 |
19 | 164 | 16498 | 100.6 | 47 |
20 | 171 | 17980 | 105.1 | 36 |
21 | 204 | 18000 | 88.2 | 35 |
22 | 171 | 22958 | 134.3 | 54 |
23 | 302 | 36853 | 122.0 | 43 |
1日 | 3148 | 359690 | 114.3 | 47 |
消極的安楽死(5), 野田洋次郎(7), 積極的安楽死(8), 7月25日(3), 基礎控除(5), ギバラ(3), 終末医療(3), 妊娠中絶(6), 死の商人(5), 笹木(3), 習字(12), 羆(3), 安楽死(88), 安楽(32), 婚姻(10), 中絶(10), 社会保障(11), 国立(7), 遺伝子(26), Python(7), 失業(10), 蔓延(20), 無条件(10), 字(29), 陽性(19), 癌(9), 緊急事態宣言(10), 配偶者(10), 嘘つき(8), 汚い(27), 医師(23), 患者(31), 介護(18), 雨(15), 重症(13), 遅れ(15), 苦痛(15), 実行(14)
■安楽死は絶対に認めてはならない。国民が馬鹿だから /20200725133254(50), ■好きな国語作品書いてけ。 /20200724201858(30), ■ /20200724220745(20), ■結局、東京都の7/24現在って3月とかよりコロナ蔓延してんの?してないの? /20200725002211(17), ■自由恋愛って劣った者を排除し優秀な遺伝子を選別してるんだから優生思想だよね。くじ引きでパートナーを決めるべきだよ /20200725181538(17), ■ガードレール /20200725034817(14), ■えっ日本人男性30〜34歳の平均握力って47.1kgしかないの? /20200725092725(13), ■岩手1号 /20200724235828(12), ■ベーシックインカムって資本家の策略じゃないの? /20200725112945(12), ■なんの土産もない県は福井県 /20200724210154(12), ■字が汚い人、正直ドン引く って話(追記有) /20200724121221(12), ■ソーシャルディスタンスの略し方 /20200724181533(10), ■吐き出させてくれ /20200724233527(10), ■作者に嫌われているキャラクターを好きになってつらい /20200724234926(10), ■水族館て何が面白いの /20200725084245(9), ■ビジネスホテルに泊まる楽しさを共有し合いたい /20200725170811(9), ■昔好きだったライトノベル作家さんが気持ち悪くて切った話 /20200725114946(9), ■ /20200725122308(9), ■逆にカフェインが体に与える悪影響とは何なんだろう? /20200725232203(7), ■現政権と自民党を消極的支持するしか無いというのが一番の悪夢だ /20200725030613(7), ■大人も楽しめるおすすめの『工作・組立おもちゃ』を教えてほしい /20200725070123(7), ■ゲームのシナリオライター買いってする? /20200725093328(7), ■品のないVTuberがそんなにいいの? /20200725130051(7)
そもそも積極的安楽死反対派(消極的安楽死は賛成)だけど、そのパターンは積極だろうと消極だろうと反対だな。最新の意思表明が本人からなされており、それが正常でないとは言い切れない以上、不可逆的な処置はとるべきではないと思うわ。
なんかTwitterでもありとあらゆる人がそのあたりを雑に扱って議論してるんだよなぁ。
というか消極的安楽死は既に認められてるし(合法化って意見もあるけど、そもそも「してはならないこと」を定義する刑法で合法化ってなんだよ)、これ以上何もなくね?って気がするけど。
故意に患者の死期を早める目的をもって行う処置。日本では以下の4要件を満たしていなければ患者自身の希望があったとしても違法行為とされる
・死が避けられず死期が迫っている
死ぬと分かっていながら救命・延命に必要な処置をとらないこと。
日本においてもDNAR等、生前に本人や家族の意向を聴取して急変時に挿管や心肺蘇生、補助循環などどのような処置を行うか・行わないかを決めておくことがある。
これは患者や患者家族が説明を聞いたうえで医療を選択する権利でもある。
生命短縮の危険を伴う苦痛緩和の処置を行うこと。モルヒネやドルミカムなどの投与。ただしこれらの処置が本当に生命短縮を伴うかは議論が定まっていない
不治で末期に至った患者が、本人の意思に基づいて、死期を単に引き延ばすためだけの延命措置を断わり、自然の経過のまま受け入れる死のこと(日本尊厳死協会)
尊厳死について決まった定義がないので日本尊厳死協会の言う尊厳死を載せる。
意識がない状態でもリビングウィル(終末期医療における事前指示書)を残しておくことで自分の意思を表明することができる。
消極的安楽死と似ているが、国によっては積極的安楽死を含むことがある
癌性疼痛のようなある程度医療人の中で合意がとれている苦痛ならまだしも、ALSや難病はわからんわなぁ。
個人的にはやっぱり積極的安楽死は認めるべきではない(刑も免除すべきではない)と思う。積極的安楽死の4要件を満たす状態であれば何らかの延命処置が必要になっているケースが大半だろうし、ターミナルケアだけ行う消極的安楽死で十分患者の意志は実現出来るんじゃないかな。射水市民病院事件をみる限り、消極的安楽死は社会に受け入れられてると言ってもいい気がするし。
https://president.jp/articles/-/28042?display=b
これも殺人罪といわれているが、しかも医者は安楽死のつもりで患者の方は苦しんで死んでる。
仮にこの記事のタイトルが殺人罪でなく自殺幇助罪でないのか?という記事であっても
国民が合意して法律をちゃんと改正させ、苦しまない死に方とはどういうものか定義までしないことには
医者というプロの手によりますます安楽死がとおざけられるだけです。
簡単に安楽死(=プロによる苦しまない他殺をうける)を口にし望まないこと。
望むなら望むでしっかり最後まで政治に働きかけないといけない。
無知な国民は長谷川豊(金がかかるから透析禁止と書いたブログで炎上)みたいな無知な政治家を増長させるだけ。
追記 どうせ増田は上のリンク先よまないから定義部分だけでも転記しておくね
死が迫る終末期において、延命治療を中止し、自然な死を迎える方法もある。「尊厳死」と呼ばれる死である。
尊厳死は医学界で常識である。日本老齢医学会は2012年に「胃ろう」を止めるための指針をまとめ、日本救急医学会も2007年に一定の条件下でのレスピレーター(人工呼吸器)などの生命維持装置の取り外しを提言している。
今回の公立福生病院の事件は、こうした医学界の考え方と大きくかけ離れている。病院が終末期医療や尊厳死の在り方を自分勝手に、都合よく判断した結果、透析患者の命を奪ってしまったのではないだろうか。沙鴎一歩はそう考える。
尊厳死と混同されがちなものとして、「安楽死」という言葉がある。
1995年3月、横浜地裁が東海大安楽死事件の判決で安楽死の3つのタイプ(積極的安楽死、間接的安楽死、消極的安楽死)を示している。東海大安楽死事件とは、東海大付属病院で末期がんの患者に医師が塩化カリウムを注射して死亡させた事件で、安楽死の問題が初めて司法の場で大きく問われた。判決後、医師の殺人罪(執行猶予付き)が確定している。
どうにも長谷川の「透析患者は殺せ」の時から,議論の一部に違和感を感じていたのだが,今回の福生病院の件ではっきりした。表題の,私が大前提だとおもっている事実が(なんと医者であっても)共有されてはいなかったのだ。
消極的安楽死というと,自力呼吸ができなくなった患者の人工呼吸器を外す,というようなものが普通は想定されるだろう。人間は呼吸ができなくなれば,数分のうちに,長くても十数分のうちに意識を失い死に至る。
だが,人工透析患者に消極的安楽死は適用できない。透析をやめても患者はすぐには死なないからだ。少なくとも一週間,長ければ数週間は生き続ける。そして最後の数日は,尿素や老廃物が「死ぬほど」体の中にたまり,苦痛のうちにのたうち回ることになる。緩和ケアなんて無理だ。体中に毒物がたまった苦痛を除去できる技術なんか無い。
「人工透析患者は死ね」という論者であっても,さすがにそれを望むほどには鬼畜ではないだろう。なので,仮に人工透析の本人の意志による中止を認めるならば,中止の決定と同時に患者を薬殺してあげなければならない。それが議論の大前提だ。