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2024-11-25

獣医学科の学生生活就活国家試験を語る

1年

選択授業や第二外国語サークル活動など唯一大学生らしい大学生活を送れる。ただし2年次からパンパンに詰まっている必修単位のせいで時間割毎日比較的詰まっている。

上下関係の厳しさが1つ上の先輩から示唆される。独特な文化を前にやや選択を後悔しだす。

2年

必須単位が牙を剥く。5年次まで時間割が必修単位で詰まっているため、この先の落単は=留年意味する。また一般教養も同じ理由でこの先ねじ込む先がないため、やはりこちらも落単すると留年。6年次に国試があり留年組は不利になるため皆必死

基本的に午前は座学、午後は実習(授業終わりの時間は決まっておらずレポート必須)のため、実家サポートの有無(バイトをしなくてよい等)が成績の明暗をわけるが、実家が裕福な学生が多いため基本的には問題がない。

3年

基本的に2年と同じ。この2年間が1番キツい。

秋以降は4年次の研究室配属にむけて情報錯綜し、緊張感が走る。成績の悪い学生前評判の悪いアカハラ研究室に叩き落とされ、地獄の3年契約を交わす羽目になる。

4年

研究室配属。アカハラ教授、疲れ切った准教、5,6年の先輩に囲まれ実験主義を教わりつつ研究室雑用をこなす掃除備品管理、果ては忘年会幹事など。

授業は臨床科目(座学)がメインを占めるようになり獣医学生らしい日々を送る。また面倒見のよい研究室では卒論の準備を始めるところも。

学年末にオスキーという仮免試験があり、こちらも落ちたらもちろん留年来年病院実習に出られないため)

5年

座学がかなり減り実習メインになる。大学病院での小動物診療だけでなく学校外での公務員や大動物診療の実習もここ。1番気楽な一年間。卒論を書き始めるが、テーマによっては気楽でなくなる。

民間企業への就職(ほぼいない)を考えているごく少数の人間就活もするが、ハンデが凄まじく一般大企業はだいたい落ちる。

冬、1学年上の先輩がノイローゼゾンビとして一日中国試勉強している姿を見て来年の今頃は…とゾッとする。


6年

授業はほぼなくなる。民間企業以外を希望する学生は春から就活開始。よほど選ばなければ病院公務員、その他診療系、だいたい受かるので、キャリアセンターで取り急ぎの面接対策をしてゆるく過ごす。

からは秋冬の卒論〆切に向けてラストスパート卒論で落ちることはほぼないため、内定後の夏から開始した自由研究並のクオリティ卒業研究を行う者もいる。

11月-12月卒論提出後から国試対策を開始。この時ばかりはほとんど全員が朝から晩まで勉強し、大量の語呂合わせを作りながら2月の本番での合格を目指す。

出題範囲が膨大、過去問の解答はあっても解説がない、ノウハウ化されていない等の理由によりボッチは合格できないことが多い。不思議と毎年9割前後合格するが、合格率以上の難易度が確かにそこにある。

合格できなかった場合大学からのアフターケアはないため、卒業後も出入りできるよう研究室先生や後輩とは極力仲良くしておくのが無難である

なお、東大北大学生以外は就活難易度と引き換えに獣医師免許必須内定が出ている場合が多いので、落ちたら就活もやり直しである

3月合格発表と卒業式をもって大学卒業

なお、数年後には小動物臨床に進んだ人以外のほぼ全員が獣医になったことを後悔しだすが、待遇小動物臨床が1番悪い。

医学部受験をする者が後をたたない。


番外編

卒業試験: 私立にはある。国試の合格見込みがないもの強制留年とする親切なのか余計なお世話なのかよくわからない制度

国試対策授業: 私立にはある。科目毎に先生から重要ポイントを教えてもらえるらしい。

国試浪人のアフターケア: 私立にはある。詳細不明

2024-09-24

特別支援学校教員なんだが、もう限界かもしれん

関東公立特別支援学校正規教員をやっている。

一応中高の免許は持っているが、特別支援学校免許は持っていない。無免許教員だ。

なぜ無免許教員ができるのかというと、いろいろ事情がある。

特別支援学校といっても、障害の種類によって実態は様々である

そのうち、身体障害者知的障害を持たないため、高等学校に準ずる教育をしなければならないことになっている。つまりは、高校と同じ教科指導を行う必要があるのだ。

特別支援学校免許をとるためには、基礎免許状といって小中高のいずれかの免許をとらなければならないが、だいたいの人は小学校免許をとる。

高校免許を持っている人間結構レアだ(自分の周りでは)。そのため、身体障害者特別支援学校では常に人手不足状態に陥っている。

ではどうやって人材を確保しているのかというと、うちの自治体高校枠の教員が教科指導のために特別支援学校で勤務させられている。

学校の枠を超えて、高校いくらでもいる教科指導ができる人間を引っ張ってくることが認められているのだ。

だが、高校生に教えたくて教員になった人間特別支援学校希望することはほぼありえない。

希望者なんか募ってもゼロに近いだろう。それに、ちょうどよく不足している教科の教員が来るとは限らない。

から自治体は、どこに配属されても文句を言えない初任者を特別支援学校で勤務させるのだ。

自分は運悪く、初年度に特別支援学校に配属されてしまった一人だ。

一応、教科の免許は持ってはいるが、障害がある生徒を相手にしているので、普通に授業をするわけにいかない。

障害理解し、個々に応じた指導をしなければならない。そのために何時間残業することは当たり前。

右も左もわからない状態でなんとかやっているのに、ベテランから支援がなっていないとボロクソに詰られる。

研究授業でも褒められるポイントは授業内容ではなく、支援策。やってられるか。

そして、勤務校は身体障害者がメインの学校とはいえ最近知的障害を併せ持つ生徒が増えてきている。

障害の程度は様々だが、中にはトイレの世話を見なければいけないような生徒もいる。

特別支援免許を持っている人間にとってはそんなのは当たり前だと思うかもしれないが、仕事先で生徒のケツを拭く(物理)なんて思ってもいなかった高校枠の人間としては、かなりキツいものがある。初めてトイレについていかなければならないと知ったときのなんとなくわかってはいたけどマジか…という感覚は今でも忘れられない。

コロナ禍に学生生活を送っており、介護体験でも特別支援学校に行けなかったので、本当に初めての特別支援学校で、自立活動なんて言葉も初めて聞いたレベルだ。

それなのに、かなり課題があるであろう生徒の自立活動マンツーマンで持っていたりする。

本来高校免許では教科指導しかできず、重複障害学級の授業は特別支援免許を持っていないとできないはずなんだが、人手不足からと見逃されている。

人事異動でどうしても高校に行きたいと毎年訴えているが、うちの自治体の初任者は最低3年勤務しなければいけないというルールがあるため、異動は厳しいといわれる。

しかも、最低年数を超えていても異動できないこともある。そして異動できたとしても、なぜか次も特別支援になる可能性もある。

ちなみに、最初から高校に配属された教員特別支援に異動したい場合、かなり複雑な手続き必要らしい。なんだこの不平等は。

正直メンタル限界で、心療内科に通院していることを伝えているが、労働者健康よりも自分たちで作ったルールのほうが大事なようで、校長からは軽く流されている。

から学校現場は人手不足なんだなと納得している。休職可能性をほのめかしたところ、「異動は健康な人がするものからね、高校に異動するのが長引くだけだよ(笑)有給をうまく使って頑張ってください(笑)」と自分高校に行きたい気持ち人質に、休職をとらないよう脅すようなことを言われたので、もう来年退職することも考えている。

本命高校教育ができなかったことは残念だが、これ以上専門知識もない自分のような人間障害者の教育に関わることに耐えられない。

そういえば、本採用前に人事面談があった。そこで希望を書いた用紙に「特別支援での勤務を希望するか」という欄があり、自分は「希望はしないが不可ではない」にチェックしてしまった。

「不可」にチェックした場合、不可の理由を書かなければならず、どうしても障害差別的な内容になってしまう気がしたからだ。

なので自分はまだ自業自得という感じがしている。その場で良い人ぶろうとして相手の罠にハマったのだ。

ただ、同僚で「不可」にチェックしていたのに、勝手に「希望有り」に変えられたという話も聞いた。

自分もやたら特別支援学校で勤務するならどの障害種がいいですか?などと、希望していないと言っているにも関わらず、やたら深堀りされた記憶があるので、人事は気が弱そうな人間を狙って言質をとろうとしているのではないかと思う。

そろそろどの自治体合格発表があると思う。高校枠で採用されたみなさんには、絶対特別支援学校希望しませんと強い意志で言い切ってほしい。

障害差別だなんだと言われても、もう受かっているのだから今更不採用なんてことにはならない。その場で取り繕うよりも、4月から自分生活を優先してほしい。

特別支援に興味がある人もいるかもしれないが、ちゃんトイレの世話や生徒のよだれ拭きといった仕事があることも覚悟したうえで希望してほしい。

初任者研修特別支援学校枠で受けることになるので、他の人が当たり前に身に着けている高校必要知識ひとつも教えてもらえません。

自分が失敗しているので、他人には失敗してほしくない。何を言われても絶対拒否してください。自分の後任がいなくなるので、自分が異動できる可能性は低くなりますが、人事が困るなら本望です。地獄に落ちろ。

これを読んでいる特別支援学校の生徒の保護者がいたら、教育委員会に問い合わせるなどしてほしい。

免許あなたの子供に教育してます障害知識なんかないので、常に探り探りやってますあなたよりも障害知識が乏しい可能性もあります

一部身バレを防ぐためにフェイク入れてますがほぼ実話です。

同じような無免許教員が何人もいますなんやかんやみんな責任感があるので、文句を言いつつ仕事ちゃんとやっています

なので現状を誰も問題にしてくれません。

助けてください。

2024-08-14

SideM 9thライブを見たら入学辞退したはずの大学院に入りたくなった話

ちょうどアイドルマスターSideMの9thライブ2日目から一か月たつわけですが、

一か月もたったらこ気持ちも落ち着くかな?と思っていたのにあまり落ち着かなかったので折り合いをつけたくて文字に起こしてみることにしました。

長いし、読みにくいし、自分の恥ずかしい話をする感じの日記です。

3か月ほど前のこと、わたしはせむPだったので、「2日目せむ揃ったのか!!現地はもう間に合わないので配信見るぞ!!」という気持ちで日々を過ごしていた。

そして時は流れ9th直前の金曜日仕事でどうしても納得できないことがあり、

2024年はいってからずっとバタバタしてるし、その上先輩へのモヤモヤチリ積もで無視できなくなってきたしで珍しくめちゃくちゃ落ち込んでいたわたしは、とにかくこの配信を楽しみにしていた。

なぜなら、SideMの曲ってものすごく元気になるから

ライブは本当に良かった。

当時せむの最新CDは未発売で、あえて視聴も聞かないようにしていたので、Life’s Side Menu!の衝撃はすごかった!せむってこれだよな~~~~~

そんなこんなでライブも終わった頃、自分が思っていたより元気になっていないことに気付いた。

当然、SideM摂取したはずなのになぜ……という思いがぐるぐると渦巻く。

かに子どものころアイドルになりたかたこともあるよな…なりたかった気持ちを思い出しちゃってセンチになったのかな……うーん。

もう寝ようかという頃、ある一曲が引っ掛かっていることに気付いた。

それが『Eteniteen Age!!!/S.E.M』である

特にこのフレーズ

『今になって やればよかった なんて思うこと やろうよ一緒に』

これをきいて無意識のうちに「今になってやればよかったと思うこと」がジワジワと心に染み出してきていたことに気付いた。

アイドルになりたかったとか、お笑い芸人にもなりたかったんだよなとかいろいろあったが、その最たるものがまさに大学院進学だったのだ。

最近しんどいし、やっぱり本格的に大学院戻りたいかも……

でも辞退した身で、就職して2年目となり権限付与された身、いまさら戻る決心もできず、

あと後述のとおり先輩へのモヤモヤで院進から逃げたのに職場の先輩のモヤモヤで院に戻りたいなんて、お前はまた逃げるのか???となり、

とにかく自分選択が正解であったことを確めるためにとにかく一か月間いろいろ考えた。

それはつまり、なぜ院をやめて就職を決めたのかを振り返る時間だった。

〇この日記はつまり、振り返ったことを整理したいというのが主な目的です。

大学入学したばかりのころは、当然院に進学することまでセットだと考えていた。

しかし2年のときコロナウイルスが突然猛威を振るい、外出自から映像授業で完全に家に引きこもらざるを得なくなった。

1年の頃はあんなに時間割詰め詰めで忙しかったのに、急にあまりにも時間が増え、世の中が変わりすぎて漠然とした不安を覚え、そこでふと「公務員になりたかった」ことを思い出した。

小学生のころ、響きのカッコよさで国家公務員になりたいと思ったことがあったのだ。

あらためていろいろ調べてみると、合格したら3年(今は5年らしいけど)は有効なので、「学部合格しておけば院いってから就活楽じゃん」と安直に考え、学部4年で受験することを決めた。

2年の途中から、「実験科目は対面でないとどうしようもない」ということで少しずつ家を出る機会も増えたが、このころにはわたし公務員試験受験の決意は固まっていた。

また、この2年から3年にかけての実験授業で諸事情あって手が爆荒れしたので、もともと有機に憧れていたものの「実験系はやめよう」となり、もう一方で興味のあった物理系を志すことにし、研究室計算系のところを選んだ。

さて、この研究室先生も先輩も同期もみんないい人で居心地は大変良かった。

しかし、あまりの緩さに、というか、先生はきちんとコアタイムを定めていたが、月に1~2週間程度リモートワークで研究室にいなかったり、

当時M1先輩が若干先生のことをナメていて(個人の感想)平気で「コアタイム?ないよ」と言い放って午後5時に来たり(まあPCがあれば計算できるので100歩譲ってこれは良いとしても)、

週に1回ある、英語の本の読み合わせを頻繁にぶっちしたり、予習忘れたので変わってなどなどあったりした。

もともと夜型でなまけ癖のあるわたしは、3年の3月に配属されてから数か月この環境で過ごす中で、

「このままでは、わたしもああなってしまう……それどころか、もっと完全にダメ人間になって研究どころではなくなってしまう、、、、、、どうしよう」

と考えるようになった。(シンプルめっちゃ腹立った、というのも、もちろん考えたことあります。)

4年になってから研究したり、決意に沿って公務員試験も受けたり、(ちょっと教育実習も行ったり、)して過ごして8月になった。

わたしの通っていた大学の前期の院試8月下旬なので、このころはちょっと研究スピードを落としながら試験勉強をしていた。

大学受験みたいに(まあもちろん過去問とかはありますが)問題集が充実してるわけじゃないので、手探りで不安になりながら勉強している中、

いつものように遅刻をキメる先輩を横目にみていると「このまま院に行ったところで、わたし大丈夫なのか……???」という気持ちがどんどん強まっていく。

また、院試が近付いてきたときに親からかかってきた電話で院の話をしたときに「お金は?また奨学金借りられるんだよね」という話もされた。

まあ、もちろん院でもいったら奨学金を借りるつもりだったが、本格的にお金のことを考えると、また借金が増えるのか…

そういえば高卒就職した妹はもう貯金3桁あるって言ってたな…ゔ、頭が……という気持ちにもなった。

そしていよいよ院試まであと1週間ちょっとというところで、公務員一般職合格発表があった。

と思った矢先、某省庁からいわゆるスカウト電話がかかってきた。

もともと院を卒業したら入りたい省庁だったのもあり、「運命では!?」と思い、ほいほい説明会に行った。

とはいえ、院に行くことを第一に考えていたため、院試も受けた。

このころの時系列としては、

 某省庁の説明会に行く → 院試 → 某省庁面接から内々定 → 院試合格

8月下旬という短い間に、わたしはいきなり二つの選択肢を手に入れてしまったのだ。

ここから半年間、わたしはとにかくいろいろ考えた。

(いろいろではなかったかも、前述のダメ人間になるか否か・お金問題をどうするか・わたしがやりたい仕事はなにかの3点が主です)

結果、いったん就職して、先輩から逃げ、規則正しい生活を手に入れ、お金を稼いで借金を減らすことを決意した。

10月内定式ときの人事課長の「皆さんが4月に来る準備を、我々一同進めていますからね」という言葉に、ここで辞退したら迷惑かけるなという気持ちにさせられたというのもある。)

就職した今となっては、生活リズムは整ってるし、きちんとご飯規則正しく食べるようになったので大学のころは痩せすぎて頬がめっちゃコケてたのがマシになってちょっとだけ鏡見られるようになったし、貯金ちょっとあるし、転勤族になったのでものも減らすようにしてすっきりしたし、いいことばかりではある。

でもやっぱり、今になってやればよかったって思うこともあるなって、SideM 9th ライブを見て思い出した、というところに戻る、というわけです。

2024-08-08

SNSとかで合格発表日に不合格者に説教する奴

みっともねえからやめろよ…ってなるけど、そいつが慰めてる奴は甘やかして人気取りしてるだけ、本人のためにならないつってて

お前もマウント取って優越感感じたいだけだろ正当化すんなよって

2024-07-28

anond:20240728093611

サイゼリアデート試練はしてもいいけど、合格発表もやってほしい感

パチパチパチ、おめでとう君は合格

いや済まない実は試したんだ ← ここまでやって初めて溜飲が下がる

2024-06-13

[]anond:20240613200534

https://utf.u-tokyo.ac.jp/project/pjt83

h抜きする意味が解らないのでリンクしておくね

地方母子家庭出身の女さんが東大博士号を取るまで

生活保護博士号ニキとか授業料値上げの報道かに触発された。

残念ながら、いわゆる理解のある彼くん要素がある。

長いと思ったら一番最後だけ読んでくれるとうれしい。

東大に入れたのは単純にペーパーテストがめちゃくちゃできたからだが、目指すようになったのは模試の結果を見た高校教師が勧めてくれたことがきっかけ。たぶん高2の春。

それから東大意識するようになって、現国問題で毎回おもしろ文章読めて最高〜、図書館で出典探して著者経歴を見ると東大出身者多いな〜、東大に行けばこういうおもしろい考えにもっと出会えるのかな??ぐらいの浅い動機東大第一志望にし始めた。

金のことはあんまり考えてなかった。

高校私立だったが奨学生として学費は全額免除してもらっていた上に(その条件で入学した)、民間団体が県住民対象でやっていた給付型奨学金支給されていた。

学力も授業だけで問題なかったので予備校に通う必要もなく、教育費はほぼゼロ

大学も同じように学力さえあれば行けるし、貧乏人にはそれ相応の奨学制度があってそれで何とかなると思っていた。だってそうあるべきじゃないか?

父親ギャンブルによる借金が原因で離婚し、母親非正規雇用で働き始めていたというのが数年前から我が家の状況だった。養育費もなく、突然働かざるを得なくなった母親は当然ストレスを抱えていた。その捌け口になったのが私。

自分の娘が東大に行けるはずがない、父親似の目つき・言葉存在その全てがとにかくムカつく、おまえもどうせ父親と同じだ、あんたは地頭が悪いからだめ、性根が良くなければ勉強なんてできたってなんにもならない。色んな言葉をぶつけられて、まあ限界でしたわ。

A判定しかない模試の結果を見せ続けてもだめ(ふーん、だから?)、日本学生支援機構の貸与奨学金の話をしてもだめ(あんたも父親と同じで借金踏み倒すんだろ!)、年収400万円以下が対象になる授業料免除の話をしてもだめ(ちゃん免除される保証がどこにあるの!?)、格安学生寮の話をしてもだめ(入れなかったらどうする、女なんだから余計な下宿費がかかる!)。

給付型奨学金地方のしょうもねえ高校全然情報はなく、先生たちも諦めるなぐらいしか言ってくれない。

自分で調べろって? 調べた上で給付型奨学金勘定から外していた。

募集人数がめちゃくちゃ少ないのに、「学業優秀」で「経済的に困難を抱えている」学生自分が「絶対に」該当するなんてどうして言い切れるんだ?

そんな不確かなものを頼みにできるわけがない。

地方、女、貧困が混ざるとこうなる事例としてぜひ参考にしてくれ。

制度存在することと、使えると認識することは違うんだ。うちの場合だけかもしれないけど。

結局「何とかなる」でゴリ押して、受験すること自体同意を得たのは高3の12月浪人なんてできるはずもないので、東大に落ちたらすでに受かっていた防衛大に行くつもりだった。とりあえず家から逃げることが第一目的に変わっていた。その上で大学おもしろそうなことを勉強たかった。そうじゃなきゃ生きている意味がないと思った。

無事に受験できて、合格した。合格たからってごちそうが出たわけでも金一封が出たわけでもなかった。

翌日に大震災。見事に被災して、なーーーーんも調べることもできないまま、ほぼ丸裸で上京した。

大学のこともなんもわからんし、クラスなんそれ、語学ごとに性格あるんだへー、五月祭なんてものがあるのかー、演習ってなんだ?

こんな感じ。臆病な自尊心合格発表前に色々調べておかなかった私も悪い。

ていうかみんな発言ちゃんとしすぎ、英語喋れすぎ、そしておしゃれすぎ。それに対して私は何もかもが終わりすぎ。

慣れない電車通学、週20コマの授業、母親言葉フラッシュバックで病んだ。健康診断の段階で精神科を勧められて受診はしたけど、医師震災サバイバーズ・ギルトですねで終わらせたのもあってその後の通院には結びつかなかった。

毎日何とか自殺先延ばしにして、大学に通い続けた。おもしろ講義を聞いている時だけは生きている感じがした。

そんな感じで大学と寮の往復で友人もできないまま夏学期が終わり、冬学期が終わった。試験対策が高度に制度化されているおかげもあって、単位には困らなかった。ぼっちこそ東大に行け。

2年生になって少しメンタル回復してようやく友人ができた。ようやくふつう大学生に近づけたと思った。3年生のときには友人の繋がりでのちの彼くんとの付き合いも始まった。

優秀かどうかは分からないけれど、友人になったのはみんな良い人たちだったし、私が母子家庭であることを公言していないせいか、友人たちが気を遣ってくれていたおかげか、対等な付き合いができたと思う。劣等感のようなものもそれほど感じなかった。仲良くなったのが都市部出身ゴリゴリ強者ではなく、地方中流〜上流家庭出身者ばかりだったというのも大いにあると思う。父親教授とか銀行員とか(母親は当然専業主婦)、そんなのばっかりだったけど。


仕送りは当然なかった。しかし、授業料全額免除家賃が月1万円程度の学生寮、さらには運良く引っかかった給付型奨学金のおかげで、経済的に困窮することもなかった。自分でも意外なぐらいに何とかなってしまった。

毎年授業料免除のために母親源泉徴収票を手に入れていたのだが、当時の母親年収200万に満たない程度である。たまに母親仕事が嫌になって無職になったり、転職を繰り返したりしていたので、提出書類をそろえるだけでも一苦労だった。

ちなみに震災の影響で提出できなかった書類を改めて提出するために訪れた奨学係で、たまたまリストを渡してもらえたか給付型奨学金に応募できた。


3年生になるとあっという間に就活ですよ。院進も国家公務員試験留学も考えてなかった。そういうのはタフでグローバルなふつう東大生がやるものなので。

自己分析しているとまた病んで眠れなくなった。家と大学図書館の往復の日々を過ごしてきた私に書けることなんてなかった。どうして自分ふつう東大生になれなかったのか。私と彼ら彼女らで何が違ったのか。

考えるのが嫌になって、手持ちのタマが切れた段階で就活をやめた。留年ぼんやり意識し始めて、さてどうしようとなったのが生活費授業料

特に遊びに行くわけでもなく、自炊を続け、節約しまくっていたのと、貸与型・給付型奨学金と細々としたアルバイトのおかげ何とかなりそうな貯金はすでにあった。

しか留年すると、奨学金は止まる上に、いくら世帯年収が低くても授業料免除対象から原則として外される。授業料分までの貯金はなかったし、家に頼ることはできなかった。

結局めちゃくちゃアルバイトをして授業料相当額を稼いで、留年に備えた。


「とりあえず留年」の先に何か目指している進路があるわけではなく、毎日自殺を考えていた。しかし、たまたま履修したゼミに救われて、大学院進学を考え始めた。もっと救われたかった。

成績だけは相変わらず良かったので、無事に合格できた。また、ようやくメンタル問題と向き合う決心がつき、学内カウンセリングに通った。留年した年の学費はこのために支払っていた気がする。

院進後は授業料免除奨学金も復活し、博士課程では生活費研究費付きのプログラム採用してもらえたから何とかなった。


博論書けない無理とふつう院生のように悩んでいたところ、身体を壊してしばらく入院することになった。標準年限の3年で上がれないのが確定したこと生活費のあてがないこと、研究アルバイトを両立させるような体力はないこと、その状況でまた授業料を支払わなくてはならないこと。何度も自殺は考えてきたけど、ついにその時が来たなと思った。

彼くんに頼ることは全く考えていなかった。しかし、結婚し、しか授業料も出すことをあっちから提案してきた。実は親戚に博士号持ちが多く、本人もかなり稼いでいたこと。これが「博士号取得にやたら理解のある彼くん」の背景にあった。

それまでは割り勘だったしお互いの家の話もロクにしていなかったので、そこそこお坊ちゃんであったことに驚くとともに、これが東大生の家庭なのかと惨めな気持ちになった。

しかし、自分人生にここまで賭けてくれる人がいるという事実は単純に嬉しかった。自分の救いのためだけではなく、応援してくれる彼のためにもさっさと博論を仕上げようと奮起し、かなり短期間で博論を仕上げて博士号を取った。

これがいかにして地方母子家庭出身の女が東大博士号を取ったかだ。要するに学力幸運に恵まれていたから。

高校民間公益財団法人東大の奨学制度博士課程学生向けプログラム、そのすべてに感謝している。うまくやれてる限りにおいて、選ばれる限りにおいて、多くを望まない限りにおいて、意外なほどに制度は充実しているというのが一当事者感想


まれながらに貧困だったわけではなく、しばらくはそれなりの生活を送り、両親もそろっていたので、ガチ不利層というわけではない。だから代表者ヅラする気はない。あくまで一つのケースとして見てもらうのがよい。また、学力自体最初から備わっていた。だから学力格差と関連する機会の平等の話ではない。

学力があっても受験自体が危うかったこと、経済的に一度でも詰んでいればそこで諦めていたであろうことが私がお伝えしたかった点である。詰まなかったのは単なる偶然。


博士課程の最後一年ふつう東大生が過ごしてきた環境なんだろうなとも思う。教育のために金を惜しまず、授業料を払い、衣食住が保障されて、何よりも心から応援してもらえる。率直にずるい。それなりにプレッシャーはあるし、生活保障されていても勉強研究が大変なのは分かったけど、でもずるい。

もちろん、そうじゃない人たちもたくさんいた。授業料免除申請の大行列、寮の住人たち、親との折り合いが悪く仕送りもないのに授業料免除から奨学金から対象外にされて私なんぞよりよっぽど厳しい経済状態にあった知人たち。彼ら彼女らと連帯することはなかったけれど、どうにかそれなりの人生を歩んでいることを願ってやまない。



授業料の値上げの必要性は理解している。国立大学法人改革はクソ。競争資金はクソ。

しかし、値上げの代わりに経済的に困難を抱えた層への支援を充実させる案には、次の5点の問題があることから反対の立場だ。むしろ授業料免除制度なんていらないくらいに、学生アルバイトで賄える範囲授業料を下げるべきだとさえ思う。

第1に、書類準備の手間。住民票、源泉徴収票アルバイト先・RA先生に書いてもらう収入関係書類、とにかく書類が多い。家族に提出をお願いする書類も多い。私の母親書類に関しては協力的であり、私自身の事務処理能力もそこまで低くないので何とかなったが、自分家族書類準備能力が不足している場合、あるいは家族が非協力的な場合、容易に詰む。しちめんどくさい書類を準備させる手間を経済的困難層に課すことは正しいことなのか? その手間を背負わされる学生たちを増やすことは正しいことなのか?

第2に、スティグマ。本当に困っている人の授業料免除されるならいいけどという言説はキャンパス内にも普通に存在した。生活保護と同じようなもので、授業料免除されているということは「恥ずかしい」。払えるものなら、こっちだってすばらしい授業と指導の対価として気前よく授業料を払いたかった。

第3に、高い授業料を払う層と授業料免除される層の発生による、「合格さえすれば平等であり対等なコミュニティの仲間である」という虚構崩壊

第4に、親との折り合いの悪い人々が制度狭間に陥る。学部生の場合独立生計を認められるハードルはめちゃめちゃ高かった。つまりたとえ親から仕送りが全く存在せず、世帯から恩恵を全く受けずに自分アルバイト等のみで生計を立てていたとしても、授業料免除対象に入れてもらえない。個人的にはこれが一番の問題。「親との折り合い」を判定条件に入れて、不正を見逃さずに、本当に支援必要学生を正しく判別できるのか? できるなら教えてくれ。そしてすぐ実行しろ。もしかしたらすでに改善されているのかもしれないけど。

第5に、留年すると原則対象外になるので、失敗・留年覚悟の挑戦ができなくなる。


他方で、なぜ高卒の人々には支援が行われずに、同じ年齢の大学生に対してのみ支援が行われるべきなのか、私には分からない。日本社会の発展に繋がるから? 勝手に期待して我々の未来を決めないでくれ。

高卒の人が一足先に社会で働いて収めてくれた税金が巡り巡って私の就学を支えていてくれていたこと、しか学歴理由に彼ら彼女らが下に見られること、さら生涯年収に大きな差が生まれることを考えると、勉強ができて大学入学できたというだけで大学生が優遇されていて非常に不公平だと思う。若者支援というくくりで全員に対して支援をやらないとおかしい。

最後、一番言いたかたこと。

結局東大に金がないのが悪いんだから、「貧しい家庭出身でも能力があるなら東大に行ける」、そういう理想を守りたいんなら自分で金を出してくれ。つまりみんな直接東大に寄附すればいいよ。「修学支援事業基金」っていうまさにその目的のための基金もある。

ttps://utf.u-tokyo.ac.jp/project/pjt83

ちなみに税額控除対象政府に回る金を減らして直接自分の思う公益のために金を投下できるすばらしい制度税額控除だ!

理想を実現するためには金がいる。金もさないくせにごちゃごちゃ抜かすな。口だけの偽善者になるな。

6月13日現在の今年度の寄付総額は約130万円、寄付件数は80件だ。

この数字が増えることを楽しみにしている。

2024-03-07

anond:20240307011115

なんか嫌なことでもあったんか? 合格発表前のメンタルか?

2024-02-26

京大のタテカン

笑える物が多いけど、受験に受かった奴が受からなかった奴を煽ってると思うと味わい深いな。

合格発表時でないだけマシか)

2024-02-07

高校合格発表があった翌日にラーメン屋に行った。合格したけれど別に小遣いがもらえるわけも無く、手元に残ってるのは2000円ほど…でもおなかは減るわけでラーメン屋で800円ぐらいのラーメンを注文。ラーメンを待ってる時に店主が「そう言えば◯くん、受験生だっけ?」と聞いてきた

僕は「もう受験生は終わりましたよ。来年から高校生ですおかげさまでね」と言ったら

「そりゃおめでたいね〜」と嬉しそうだった

んで、出てきたラーメンを見てびっくり

チャーシューどんぶりを埋め尽くすぐらい乗っかってるの。頼むの間違えたかなって思って店主に「私が頼んだのラーメンですよ」って言ったら

「ああ?それ、合格祝い」と店主はこちらに顔も向けず言った。水道蛇口を捻ったみたいに気づいたら涙がおちてて、チャーシューの味がなんだかとってもしょっぱかったな。で、あっという間に完食してさすがに涙も止まったところで店主がにんまり笑って言ったんだよ




「お会計 1500円になります」って

2023-12-13

昨日司法修習の二回試験合格発表があったけど、この時期になっても就職が決まっていない人は少数ながら確かに存在するみたいなんだよねえ

やっぱり法曹資格には昔程の価値はなくなっているし、若くて高学歴陽キャ以外はお呼びじゃないんだなって思う

2023-12-05

Fラン大学合格発表を観に行く

って企画を昔ナンシー関がやってたけど今考えても露悪的だな

2023-12-04

今日が乙4の合格発表だと思ったらネットに出るのは5日やんけ

ガッデェェェム

2023-12-02

職歴無し35歳無職ヒキワイ、明後日が乙4の合格発表日でやんす。

というわけで自宅から5㎞地点にある夜勤募集中セルフスタンドに徒歩で行ってみたぜ。

けっこう寒いぜ。調べてみると外気温4.3℃ぐらいらしい。でも歩いてると汗かくぜ。

なかなか冷たい風に世間を感じつつトコトコ片道55分、往復約2時間自転車だと往復1時間ぐらいか

セルフ夜勤の勤務時間1112時間夜勤で客が来ない間は節度を守りつつ好きな事ができるとはいえ、そんだけ拘束された上に1時間通勤時間はさすがにキツイもんがあるぜ!

3.5㎞圏内に6件ぐらい24時間セルフがあるんでやっぱそれらが募集始めるまで待つかな・・・

歩くと実感するが徒歩だと3.5kmを超えたあたりから遠いわこれ感が明確に出てくる。

徒歩通勤は3㎞がベストだな、往復6㎞で一日に丁度良い運動量だし。

狙いのセルフ募集が始まるまで繋ぎバイトが要るな・・・事情を踏まえた上でパッと辞めさせてくれるバイトが見つかるかしら。

にしても10km歩いただけでだいぶ疲れた。帰りに寄った閉店間際のドラッグストアを出た瞬間はあ~疲れた!って言っちゃったわ。

2023-11-24

にしても狙ってたセルフスタンド夜勤募集が消えてしまったわ

埋まったか…かなC

合格発表まであと2週間だしそらまあ埋まるよなあ

2023-11-20

anond:20231120120834

しっかり元増田自身言語化できてるから必要ないとおもうんだけど一応増田ブクマカにはわからない人が多そうだから解説しておくね

1・高校2年生 クラスメイトに対して

担任は「Bは学校に来るのが難しくなって、別の方法勉強をする決断をした」というような説明をした。

それまで同学年に退学者がいなかったのでクラスはざわついた。ホームルームが終わると、クラスメイトAが私の元にやってきた。

「B辞めるんだ、なんで?」

その程度の人間が、情報を取る時だけ、私に声をかけた。

まず前提として担任が十分配慮した言い方で情報をあたえている。Aも元増田もおなじ情報しかない。

しかしAはBどころか元増田のこともよく理解していないのに「同じ部活」といううわべの情報だけをみて「こいつなら知っているだろう」と情報をとろうとした。

さらに「理由を知っていますか?」ではなく「なんで?」という聞きかたをした。

忖度要求する日本人では「なんで」は聞きようによっては相手をキツく責める・叱るいいかたになる。

cf.強姦されたならなんで助けを求めなかったの」

(この尋ね方は高確率で本気で理由を細かく言語化してほしいのではなく興味本位二次レイプになりますもっと丁寧な聞き方をしろ

それをためらいなくつかうAは元増田をかなり見くびっているので元増田は怒った。

 

2・高校3年生 母親

そして一次試験合格発表で、私は受かった。

帰宅して早々に母に合格を告げたところ、即座に「でも二次で落ちるんでしょ?」と言われた。

合格の報告をして、真っ先に出る言葉がそれ?

私は激怒した。

解説不要。ただもし受かったら親御さんはすぐに入学金を用意しなければいけないので

あらあら、それならいそいで多額の現金用意しなきゃね」のつもりでそういう失言ちゃう人だったのかもしれないとは思う。だとしてもだいぶキツめのコミュ障親ですね

 

3・20歳誕生日 友人

20歳誕生日に「お誕生日おめでとうございます。これでお前も老人の仲間入りだなw」とメッセージがあった。

そのメッセージを送ってきたのは同い年の友人で、友人の誕生日に私は肉を奢ったはずだが。

そもそも友人は既に20歳なので、自分を棚上げして私を老人呼ばわりしているわけだが。

私は激怒した。

おめでとうございますは祝の言葉なのになんで呪いをつなげるんだというのは一般的礼儀だとおもう。

相手は身内のなれ合いのつもりでやってるとおもうけどかなりのマウントしかけている。

しかしたら今は18歳で成人だから20を新しく何と呼べばいいんだ→短絡的に老人と出たのかもしれないが、普通に昔でいう青年とか成年でよかったのでは?

 

1.3は同年齢の友人のわりにかなり言動が幼いのだが、元増田はかなり精神年齢が高い(バイトとかしてそう)。

そういう人が一緒にいる学校では距離をとることで自衛する必要がある。

特に3は20でもこの幼さなので、

この増田で憎まれている「ツイフェミ」や「ウヨ・サヨ」「反ワク」のような「うっかり言動」をSNSでやってしまって炎上する可能性が高い。

なんで私きらわれちゃうんだろう?のまま生きていくのではないだろうか。

逆に元増田リアルだとみくびられやす激怒しても伝わらない柔和タイプなのかもしれないが即ブロック遮断できるSNS親和性が高い。

とはいえ増田なんかにきてもしょうがないやでとも思う。

激怒三選

1・高校2年生 クラスメイトに対して

長らく不登校だったクラスメイトBが退学した時のこと。

私とBは部活が同じだったが、Bは不登校になったタイミング部活にも来なくなっていた。別に仲が良くもなかったので特に連絡は取りあっておらず、いないなーとだけ思っていた(個人競技なのでいなくても困らない)

ある日のホームルームで、Bの退学が告げられた。

担任は「Bは学校に来るのが難しくなって、別の方法勉強をする決断をした」というような説明をした。

それまで同学年に退学者がいなかったのでクラスはざわついた。ホームルームが終わると、クラスメイトAが私の元にやってきた。

「B辞めるんだ、なんで?」

Aと私は仲が良いわけではない。グループ学習でお喋りはするが休日は遊びに行かないくらいの関係性だ。

その程度の人間が、情報を取る時だけ、私に声をかけた。

私は激怒した。

2・高校3年生 母親

大学進学をすることになった。

志望校は堂々のD判定。だが入試形態ひとつだけ入れそうなルートがあり、私はそのルート選択した。

そのルート二次試験まで試験があるが、一次試験突破率が低めな代わりに、二次試験合格率が90%を超えており「一次さえ受かればまず受かる」と三者面談では言われた。

三者面談では同様に「この方法で落ちたら、正直この大学は厳しい」とも言われていた。

そして一次試験合格発表で、私は受かった。

帰宅して早々に母に合格を告げたところ、即座に「でも二次で落ちるんでしょ?」と言われた。

合格の報告をして、真っ先に出る言葉がそれ?

私は激怒した。

3・20歳誕生日 友人

20歳誕生日に「お誕生日おめでとうございます。これでお前も老人の仲間入りだなw」とメッセージがあった。

そのメッセージを送ってきたのは同い年の友人で、友人の誕生日に私は肉を奢ったはずだが。

そもそも友人は既に20歳なので、自分を棚上げして私を老人呼ばわりしているわけだが。

私は激怒した。

いかがでしょうか。皆さんも激怒してみては?

2023-09-11

恐ろしい夢を見た話

増田大学2年、女。

昨日の夜から今日の朝にかけて、恐ろしい夢を見た話がしたい。

どこにも吐き出せないからせめてここにだけ書き残させて。

夢の内容は

高校時代の友人と数年ぶりに会って現在自分生活高校生活を振り返りながら談笑する」という字面だけ見れば何ら恐ろしい要素は無い他愛のない夢だった。

その友人との関係性を加味しなければの話だが。

・・・

その友人はみらい(仮名)という名前だ。

元々面識はなかったが、高2の新学期コロナによる数ヶ月にわたる臨時休校狭間で行われたクラス替えで同じクラスになり自己紹介で私が「趣味読書で◯◯◯◯◯と◯◯◯◯が好きです」と言ったのがきっかけで仲良くなった。

自己紹介が終わって自由に席移動して気になる人と話していい時間になった時、私は元々友達が少ないためクラス内に友達がいないこと、そして他人に執着しない性格だったこともあり手持ちの本を読んでやり過ごそうとした。

すると、「ねえ、◯◯◯◯◯好きってホントわたしも好きなんだ〜」とみらいが話しかけてきた。

第一印象は「綺麗だな」だった。

二重まぶたに通った鼻筋、光を湛える黒目がちの瞳、細く白い腕、赤い唇。

どこをとっても絵に書いたような美少女だ。

◯◯◯◯◯は私達の世代が好んで読むような作家ではないので本物の読書家だということは問わずとも明らかだった。

その後時間の許す限り◯◯◯◯◯や他の好きなこと、部活などの話をした。

その日の下校の時にはどちらともなく先生の目を盗んで校内でスマホの電源をつけ、LINEを交換するほど意気投合していた。

その日から臨時休校で暇を持て余していたこともありほぼ毎日のようにLINEでいろいろな話をした。

初めて話したときからなんとなく感じていたが、みらいは私と思考パターンが似ていた。

そして学力もほぼ差が無かった。

得意な教科の話になったとき時、二人とも同じ教科を挙げた。

その教科は私が1年の間たった1度だけ1位を名も知らぬ誰かに明け渡してしまった教科だった。

まさかと思いながら「もしかして1位取ったことある?」と返信した。

すると、「もしかしてずっと1位だったの◯◯(増田の下の名前)だったの!?私、1回だけ1位取ったことあってその回以外はずっと2位だったの!」と返ってきた。

こんなことってあるのかと思った。

それと同時に彼女のは切磋琢磨しあえる良い関係になる予感がした。

臨時休校が明けて登校が始まると私達はさらに仲良くなった。

それとともに私の中には負の感情が巣食いはじめた

初めて遠隔ではない担任の授業を受け、二人で談笑しながら教室へ向かっていると、担任からしかけられた。

増田新川(みらいの苗字)(仮名)!お前ら1年の頃から同じクラスだったのか?」

担任にはそれぐらい仲がよく見えたのだろう。

「違いますよ〜!担任なら前のクラスぐらい把握しておくのが筋ってもんじゃないですか〜?」

とみらいが軽口を叩いているのを横目に見ながら私は内心嬉しくて堪らなかった。

こんな美少女と対等な友人関係を築けていることが他人の目から見ても明らかなこと、私はその事実歓喜した。

しかし、その数日後私は地獄を見た。

その日、授業が終わると担任ロッカーを整理しているみらいの所へ向かうのが見えた。

その数秒後、廊下から二人の笑い声が聴こえてきて、今度は私のもとに担任がやってきた。

その担任第一声が

「ごめん。新川増田だと勘違いして声かけちゃった。だってお前ら背丈といい雰囲気といいなんか似すぎなんだよ。」

だった。

信じられなかった。あの美少女を私だと見間違えるなんて。

だって私は重い一重まぶたで背も彼女ほど高くはない。

それなのに見間違えるなんて許せない、彼女の美に対する冒涜だとさえ感じた。

きっと委員会の連絡か何がだったとは思うが、担任のその後の言葉が頭に入ってこないほどの衝撃だった。

担任と会話したあとチャイムがなったので自分の席に戻るともう一度さっきのことについて思索を巡らした。

そこで私は気付いてしまった。

私がおかしいということに。

普通人間なら心の中で喜ぶべきことを私は赦されないことだと感じて、しかも怒りさえも感じた。

どう考えてもおかしい。

他人に執着しないはずの私が、彼女には彼女に対しては何故かこんなに心を掻き乱されている。

もう手遅れだった。

その頃にはもう彼女への、そして彼女の美に対する感情はもはや信仰の域に達していたことを、その時ようやくわからされた。

私とみらいはいつもそばに居た。

休み時間になると彼女の方から私の所へやってくるのが当たり前だった。

その美しさや性格から友達は多いが、その数多くの友達の中で私のことを選んでくれた。

それが私にとっては至上の喜びだった。

クラスメイトが

「みらいちゃんかわいい〜」と言うと

みらいは

「まぁね〜」と当たり前だとばかりに返答していた。

そんな彼女自己肯定感の高さがこの上なく好きで、でもそんな彼女が眩しかった。

だってはいつも彼女の影だったから。

彼女が他のクラスメイトの「かわいい」と言われる時、私はいつも息苦しかった。

私をかわいいと言ってくれる人はいいから。

当たり前だ。わかってる。私が彼女より醜い事は私自身が誰よりも知っている。

決して表には出さなかったが称賛を全てほしいままにしている彼女が横にいると気が滅入ることも多々あった。

それでも私は彼女と一緒にいた。

二人でいる時だけは、その美しい瞳に私以外は映らないから。

それから数カ月後、修学旅行が始まった。

もちろん全ての行動を共にした。

一日目は某県の某資料館へ2学年全員で向かった。

みらいも私も暗い場所は苦手なのでドキドキしながら入館した。

手が触れたのを契機に、どちらともなくお互いに指を絡めて相手の震えを感じながら暗い館内を歩いた。

私は手汗が出やすい体質なので1度手を解こうとしたが、

「怖いから話さないで」と小声で訴えられたので逆らえるわけもなく結局出口までそのまま向かった。

その次の日は班別活動で某県の某洋館へ向かった。

私がお土産を見繕っていると、みらいが

「ねえ、◯◯こういうの好きでしょ?」といきなり声をかけてきた。

彼女の指差す先には、色とりどりの硝子でできた美しいエジプト香水瓶(中は空)があった。

美しい曲線と精緻彫刻

まさに私の求めるもののものだった。

凄く綺麗……とつぶやく

「全部一点ものらしいよ!せっかくだからお揃いで買おうよ!」とみらいはもう買う気満々でその手の中には桜色の香水瓶が収まっていた。

私は彼女のそれとデザインの一部がよく似た空色香水瓶を選び二人でレジへ向かった。

その日の夜食ホテルレストランで食べた。

なかなか量が多く、少食気味なみらいは食べきることができるのかと心配になったのでそれとなく隣にいる彼女を見やるともう限界という顔をしていた。

すると彼女の方から

「これとこれ食べれる?」と言ってきたので有り難く拝借した。

それで終わると思いきや、デザートミニケーキの二種盛りがやってきた。

私はぺろりと平らげたが、彼女はどうしても最後の一つが食べられないようだった。

そして

「ごめん。これ食べれる?」と聞いてきた。

私はうんと言おうとしたが、

私の食器フォークはつい先程席を巡回しているホテルの方に回収されてしまったので食べる術がない。

手で食べるのははしたないしと逡巡していると

はい、あ〜ん」

と私の方に彼女フォークで刺したケーキ差し向けてきた。

同じテーブルの生徒の視線彼女の手と私の顔に集まり、恥ずかしさで頬に熱が走るのを感じた。

いつまでもこのままではいられないと思い、覚悟を決めて顔を近づけ、食べた。

修学旅行でそんなことが起こったため、その後の学校生活ではクラスメイトに彼女との仲をからかわれることも増えた。

「なんかみらいちゃん増田さんって二人だけの世界?っていうか独特な空気感あるよね〜」と言われたりなんかもした。

今まではそう感じたことは無かったがあの修学旅行を経ると確かにと思う自分も居た。

その関係に心地よさを感じる一方、今振り返ればどこか嫌悪感があった。

念のため言っておくと、私は普通の女だ。

小中学生の頃は普通男子と付き合っていたし、好きになるのはいつも男だった。

でも共学は嫌いだった。共学の女が嫌いだった。

あらぬ噂を立てて私と彼氏を引き離そうとする、そういう汚い女が大嫌いだった。

から高校女子校を選んだ。

中学時代仲の良かった先輩から

女子校は本当に生きやすい。男がいないとそういう争いとかもないし。」と聞いていたのもあり必死勉強して女子校入学した。

女子校は先輩の言う通り生きやす空間だった。

秘密の花園なんてのは空想だけれど、進学校だったこともあり皆自分が一番大切だから自然無駄な争いを避けるようになっていたから本当に生きやすかった。

彼女存在けが想定外だった。

今思い返すとというより当時から薄々感じていたが、みらいはボディータッチが多かった。

1日に少なくとも2回以上はハグしてくるし、堂々と人前で手は繋ぐし、とにかく距離感おかしい。

最初こそ戸惑っていた私も仲良くなるにつれて気にしなくなってきたものの、時折嫌悪感に近いものを感じることさえあった。

でも、やめてとは言えなかった。

だってそうされている時だけは自分特別だと感じられたから。

2年の3学期になって3年生0学期なんていう進学校あるあるワード教師の口から出始める中、彼女との関係が変わった(と増田勝手に思っている)出来事が起こった。

2学年最後模試だ。

その前の記述模試から国数英3教科に加えて理社科目が追加された。

その記述模試ではあの教科は二人仲良く同点だった。

最後模試マーク模試だった。

2年最後だしここで一つ頑張ってあの教科でみらいに勝ちたいと密かに思っていた。

毎晩負けまいと勉強して迎えた本番。

習っていない範囲もあったが自分勉強してカバーした分自身はあった。

3月、結果が出た。

私はその教科で全国一桁の順位を取った。

模試順位掲示されるので早速見ると、みらいは私のすぐ下の段にいた。

しか偏差値には20程の差があった。

私は勝ったと思う前に彼女の不調が気になった。

トイレに行っていたみらいがこちらに来て順位が張り出された紙を見ると

「やっぱり◯◯はすごいよ、」と一言言って自分の席に戻っていった。

その日は話しかけてもどこか上の空だった。

次の日、彼女は休んだ。

心配休み時間隠れてスマホを起動させ、LINEを開いてメッセージを送った

すると数分後

明日は行ける。心配かけてごめん。」と返ってきた。

こんな時まで謝ってくるのが彼女らしいなとその時は思った。

次の日予告通り彼女は帰ってきたが、いつものボディータッチは無いしなんだかひどく静かだった。

結局2年の終業式の日まで彼女はずっとそんな感じだった。

3年になるとクラスが離れた。

前はあんなに同じクラスがいいと思っていたのに、最近彼女の煮えきらない態度をあまり好ましく思っていなかったので実際の所は

嬉しさ7割悲しみ3割といったところだった。

しかしその思いはすぐ覆された。

一つがクラスメイトの私に対する反応だった。

2年の時みらいと私ともう一人のクラスメイトの3人でたまに会話することがあった。

3年に進級してそのクラスメイトとはまた同じクラスになったので声をかけると

素っ気無いそぶりですぐ別の友達の所へ向かっていった。

そこで私は気付いてしまった。

結局私は彼女が隣りにいなければ価値のない、何も特別なところなどない人間だと。

みらいとはクラスが2つ離れていたため頻繁には話すことは無かったが、たまに会話するとそれはそれは惨めな気持ちになった。

彼女友達が多い。

私にとっての彼女はたった一人の心を許せる友人だった。

けれど彼女にとっては大勢友達の中の一人でしか無いという事実に串刺しにされる気持ちだった。

から私は彼女抜きで特別になると決めた。

2月模試の結果が私の背を押してくれた。

私にはポテンシャルがあることを教えてくれた。

それだけに縋って、今までの人生でやったことのないぐらい死ぬ気で勉強した。

その成果は存外早く出て6月模試では早速学年1位に躍り出た。

この結果には教師陣も驚いたのか露骨におだててくるようになった。

それをあしらいながら只管勉強した。

7月、もう何ヶ月もLINEなんて送ってこなかったのにみらいから急に連絡が来た。

夏休み日中学校勉強するよね?

良かったらうちの部室くる?」という内容だった。

彼女美術部の期待の星で、大学も某美大を目指していた。

3年に入ってからは画塾にも通い始めたと聞いた。

彼女には夏休み特別に部室の一角占領する権利顧問からもらったらしい。

私はその誘いにあっさり乗った。

彼女と実質二人だけで過ごせる時間をみすみす手放す訳がなかった。

夏休み、みらいの部活の日はみらいの部室で、それ以外の学校開放日はひたすら教室図書館勉強をする日々が始まった。

部室ではみらいが自分の背丈ほどの大きさのキャンパスにひたすら油性絵の具を塗りたくっていた。

正直油性絵の具の匂いは苦手だったが、みらいと同じ空間にいる方が大切なので我慢した。

他愛のない話をしながら、彼女は絵を、私は過去問をそれぞれ仕上げていった。

そんな夏が終わると、また連絡を取る回数が減った。

それもそのはず、彼女は推薦と一般美大受験するため、画塾に通うだけでなく面接練習なども必要になったからだ。

私はただ勉強していった。

この頃には志望校偏差値を大幅に上回る成績を取れるようになってきた。

冬がやってきた。

去年のクリスマス彼女と一緒に過ごしたのに今年はひとりだ。

そんなことを思いながら夜食で出されたホールケーキの残りを頬張りながら勉強していると突然LINE電話がかかってきた。

みらいだ。

素早くスマホに手を伸ばし電話に出た。

「ねえ、受験終わったら卒業旅行行こうよ。

修学旅行でまわったとこ、また二人で全部回ろう」

みらいは電話越しにそう言った。

私が

「うん、絶対行こう。約束

と言うと

「うん。約束。」という言葉最後電話が切れた。

突然そんな提案をしてきたのには驚いたが、その約束は私を鼓舞した。

そして迎えた共通テスト

かつて無い手応えを感じた。

自己採点をするとこれまで取ったことのないほどの高得点だった。

私は私大1本だったか2月受験は終わった。

みらいは家の都合で国公立しか受けられないと言っていたか3月にならないと結果は出ない。

祈るような気持ち2月を過ごした。

3月の頭、卒業式があった。

式が終わってもみらいの元へ向かった

「◯◯、待ってた」

そう彼女は言った。

写真撮りたい」

そう言うと彼女は私にカメラを向けてきた。

自分顔面に自信が無い私はせっかくだから二人で映ろうよと言って彼女スマホを借りてツーショを撮った。

その後は卒アル落書きをし合って別れた。

案外あっさりした別れだった。

そのときはそれでいいと思っていた。

だって卒業旅行に行こうと彼女は言ったから。

その日、LINE彼女スマホで撮った写真が送られてきたのを最後彼女からLINEが送られてくることは無かった。

みらいは志望校合格したら連絡すると言っていた。

彼女志望校合格発表日が過ぎても連絡が来なかったので、私はある決意をした。

整形をする決意を。

幼い頃から親に「醜い顔で産んだから形代は出すよ。ただし、高校卒業したらね」と言われていた。

今こそその時だと思い、すぐカウンセリングの予約をし、施術プランと日程も決まった。

私の思い一重は施術とダウンタイムを経て左右差のない整った二重になった。

大学が始まってからもみらいから連絡が来ることは無かった。

私は私で上京したので新しい暮らしと新しい環境に慣れるので精一杯でみらいに連絡している時間もなかった。

二重になってから人生難易度体感20レペル下がった。

大学同級生とはすぐに仲良くなれた。

それこそみらいが高校時代同級生から言われていたように

かわいい」なんて言われるようにもなった。

高校時代までの私からしたら信じられないほど環境が変わった。

やっぱり美は正義だなと感じた。

前期は友達遊んだテストレポートと格闘している間に過ぎ去っていった

夏休みも終わりに差し掛かった頃、ふとみらいのことを思い出した。

そして私からLINEを送った。

時間後、数日後、数週間後。

待てども待てども返信が来ない。

それどころか未読無視をされている。

プロフィール画像などは変更されているかLINEを見ていない訳では無いだろうに。

つの間にか私は彼女LINE確認しなくなっていった。

しかし私は今でもふとした瞬間にかつての彼女を思い出してしまう。

例えば鏡で自分の顔を見るとき

いつだっただろうか。

私とみらいはあの時担任が言ったように本当に瓜二つだと初めて気付いたのは。

卒業式の後、送られてきた彼女と一緒に写った写真をまじまじと見てみると

私と彼女は鼻の高さ、形、口の大きさ、頭蓋の形が本当によく似ていた。

そう、違っていたのは目だけだった。

私が二重に整形したことで、私の目はぱっちりと開くようになり、彼女の瞳の形そのものになっていた。

今の私と彼女双子のようにそっくりなのだろう。

今の彼女はどんな顔をしているのだろう。きっと美しさが増しているだろう。

そんなことを、私は鏡で自分の顔を見ると考えてしまう。

・・・

今日見た夢は

みらいと数年越しに会って食事なんかしながら

近況や今までのこと、あの時はお互いをどう思っていたかについて話し合う夢だった。

美しいのは相変わらずだなぁなんて彼女を見つめていると、

「◯◯、整形したの?良いじゃん似合ってるよ」なんて言ってきた。

本当に彼女らしいなんて思っているとアラームの音で現実に引き戻された。

起きて夢かぁと思いながら十数ヶ月ぶりに彼女LINEを開いたがやはり既読はついていない。

午後、用事を済ませて家に帰って来ると既読がつくはずないのになんとなくまたみらいのLINEを開きたくなった。

その衝動のまま、トーク画面を開き、自分の送ったメッセージを目で追う

「みらい!最近どう?元気?」

見慣れたそのメッセージの上に目を向けると、そこにはそのメッセージを送った日付が表示されていた。

それを見て息を呑んだ。

そこに表示されていたのは

「1年前の今日の日付」だった。

こんなに都合のいいタイミングで夢に出てくるほど彼女の幻影をいつまでもいかけている自分が心底恐ろしい。

という話。

2023-07-10

就職が出来ないまま、アラサーになった。

どこに吐き出せばいいのかもわからない自分気持ちと、きっと誰の記憶にも残らないであろう自分人生増田に投下したい。

要旨はタイトルの通りでしかないが、就活に失敗し続けて無職のままアラサーを迎えてしまった。今年はもう就活すらしていない。

就活は売り手市場だなんだと聞いていたが、それは結局平均的にコミュ力のある人間にとっての話であって、自分のようなコミュ障で陰気な人間にとっての話ではないのだなと痛感した。

ふと思い返せば友達が居た記憶があるのは小学生の頃までだったし、その頃もたまたま流行っていたポケモンに詳しかたから仲間に入れてもらえていただけだったんだろうなと今になって思う。

中学入学したあたりでクラスバラバラになり、小学生の頃のグループ自然消滅してしまった。

誰にも声をかけられることはなく、かといって声をかける勇気もなく、本当にただ孤独に過ごしていた。

部活にも入らなかった。正確には入れなかった。

聞こえてくる話を聞く限り、中学入学した時点で皆は入りたい部活まで既に決めている人が多かったようだった。

特にスポーツ経験もなく、かといって文化的素養もない俺にそのようなものはなかった。

「この部活に一緒に入ろう」と声をかけてくれるような人も当然いなかった。

経験部活の仮入部に飛び込む勇気もなかった。気がつくと入部届の提出日は過ぎていた。

そこから孤立の日々だった。

友達はもちろん欲しかったが、既に俺以外の人たちで完結しているように見えたコミュニティに入り込めるような人間ではなかった。

最初入学式の時点で、席が近い人たちか、同じ小学校出身の人たちで話して仲良くなっていた。俺だけが孤立しているような錯覚を覚えて、行きたくもないトイレに逃げて泣きそうになったのを今でも覚えている。

中学生にもなると皆携帯を持ち始めるようになっており、誰々とメアドを交換したとか言う話題が聞こえるようになった。

親にねだって携帯を買ってもらった。結局誰1人としてメアドを交換することはなかった。

中2の時だったと思うが、モンスターハンター3rdが学年中で流行っていた時があった。

みんなで放課後に誰かの家や公園で集まって一緒にプレイしているような話が聞こえてきた。

親にねだってPSPモンハンを買ってもらった。話しかけてもらいたくてわざわざ学校PSPカセット持って行き、わざと休み時間に机の上にそれらを出した上で寝たふりをしていた。

国語先生に見つかって取り上げられ、皆の前で叱られ、反省文を書かされた。あの瞬間が中学生活の中で1番みんなからの注目を集めた瞬間だったんだろうな。悲しすぎる。

今にして思えば、ポケモンに詳しかたことで仲間に入れてもらえた小学生の頃の成功体験を引きずり続けて、同じ手法でなんとか挽回しようと考えている自分の浅ましさがもう情けないよな。

勉強だけは頑張った。成績が良かったテニス部クラスメートが色んな人に「勉強を教えて!」と声をかけられているのを見たからだ。それもまた、今思えば笑ってしまうくらいに浅はかだけれど。勉強ができるから声をかけられていたのではなく、テニス部の人気者だから勉強理由に声をかけてもらえてただけなのに。その構造を見抜くだけの頭の良さは残念ながら当時の私は持ち合わせていなかった。

勉強甲斐あって、地元で1番の公立高校合格した。親以外に祝っては貰えなかったが、それでも良かった。

合格と同時にiPhoneを買ってもらった。LINEインストールした。

中学の頃は初手で部活に入ることに失敗したことや、コミュニケーションを取ろうとアクションする前に既に人間関係ができてしまっていたことが敗因であると考えていた。今回は入学式の日からちゃんと人に声をかけると強く決意した。

失敗した。

出身中学が同じもの同士で既に固まっていたし、何より塾が同じもの同士での結びつきもかなり強固であった。

3~4日目にして、ついに席の近いクラスメートが声をかけてくれたことでクラスラインに加入することには成功したが、人数から察するに私が最後メンバーであった。

私が入った頃にはクラスラインでの会話は殆ど無く、既に仲の良いもの同士でより小さなグループを作ってそこでコミュニケーションをしていた。

同じ塾での繋がりから合格発表があったその日には学年のグループができており、入学式の日にはもうクラスラインが出来ていたらしい。

結局、中学生の頃に友人を作れなかった負債高校生になっても苦しめられるのかと思った。

部活動にも入ろうと思った。未経験でも最初の入部の時点であれば飛び込めるのだと学んでいた私は、新歓で惹かれた剣道部に入部した。

2ヶ月で辞めた。

私以外の入部者が全員経験者であり、初心者が私しかいなかったからだ。

先輩はもちろん自分のために練習に付き合ってくれたが、同級生や先輩達のレベル自分立ち位置があまり乖離しており、自分1人だけが別で初歩的な練習をしているのが、晒し者にされているような気がして嫌になり、逃げ出してしまった。

自分けが初心者だという引け目から同級生ともろくに話せずに終わってしまった。

ここで投げ出さなければ…と今なら思えるが、やはり当時の自分には無理だったのだろうなという諦めのような感情もある。

同じような基礎練習に打ち込む初心者がもう1人でも居れば…と仮定しては、さも自らが理不尽な状況下にあるかのような想像をして自分正当化しようとしていたことを何故か今でも覚えている。

幸いだったのは学校自習室があったことで、これにより部活動の時間分を自習室勉強することで、親には部活動を続けているようなフリをし続けていた。今思えばバレていたのだろうか。

中学の頃から帰宅部であり、友人と遊ぶようなそぶりすら見せてこなかった俺を、親はどう思っていたのだろうか。

何も言わないでいてくれた親の気持ち想像すると、胸が苦しくなる。

高校Twitter流行った時期もあった。例に漏れず私もアカウントを作った。当時のTwitterはまだ身内感が強かったこともあり、高校名や氏名で検索しては片っ端から同級生フォローした。

フォローバックも多少はしてもらえたと思う。

しかしながら、結局何もツイートすることはできず、ただ同級生の動向を監視しているだけの気持ち悪いアカウントに成り下がっていた。

一言も喋らない陰気な奴が変なことをツイートしたらどう思われるのだろうかと、怖くて何もツイートできなかった。

一瞬、LINEツムツムが流行たことがあった。

LINEを交換しているもの同士でスコアランキング形式で共有されるのだが、たまたま引いたマレフィセントというツムで圧倒的なスコアを叩き出したことがあった。

その時にクラスメートが「上手いんだね!」と声をかけてくれたことがあったが、気の利いた返しが浮かばず、ぎこちない笑みを返すことで精一杯だった。

3年以上碌に会話をしていないのだから当たり前なのだが、もはや会話をするという行為自然には出来ないようになってしまっていた。うまく言語化できないが、相手の言っている内容を理解した上で、それに対する返答をいくつか頭で構成し、そのうち最適なもの選択して口からアウトプットするという一連の行為自然に出来ないようになってしまっていた。目を合わせるだとか、自然な表情を作るだとか、そんなことは言うまでも無くできなかった。

その会話での失敗は自分の中でも忘れられず、次に同じように話しかけられた際の返答を何度も何度もシミュレーションした。

ツムツムも継続してスキルを磨き、ランキングではトップを取り続けた。

当たり前だが、次の機会は来なかった。

高校3年間は最も密度の高い青春の3年間だったと知り合いの誰かがTweetしていたが、俺の3年間は思いつく限りの思い出で上記限界だと思うと、本当に虚しい気持ちになってしまう。

大学は通える範囲にある旧帝大合格した。

今度こそ失敗しないようにと臨んだが、やはりダメだった。

講義における自由な席のシステムや、そもそもクラスなどが存在していないという状況で、自ら人に話しかけるだけのスキルを持ち合わせていなかった。出身高校予備校基本的には違うはずなのに、即座にそれぞれで仲良くなれていたのが不思議で仕方なかった。

サークル新歓にも行った。バーベキューだった。同じ机に先輩が2人、新入生が3人の5人で座っていたのだが、気がつけば私を除いた4人での会話になっていた。

先輩が時折私に話を振ってくれていたのだが、明らかに気を遣ってくれているのだとわかり、余計に苦しく、惨めだった。

新歓用のライングループがあったようだが、私には加入の声もかからなかった。

勉強に逃げようと思ったが、逃げる先も見つからなかった。

自ら興味のある分野を見つけ、そこに飛び込むだけの主体性すら持ち合わせていなかった。

テストは同じ授業の過去問を持ち合わせているかどうかで対策の可否が大きく変わるものだった。友達のいない私には非常に厳しかった。

授業に一度も来てないようなテニサーの奴よりも、私の成績の方が悪かった。友人は居なかったが、それでも勉強だけは出来た自分にとって、学業の成績は唯一の精神的支柱であったのだろう。かなりメンタルにきたのを今でも忘れられない。

しかし、そうは言っても今更友人を作ろうと発起するのも見苦しいように思えて、結局何の行動も起こせなかった。

ゼミはそれなりに興味のあった行動経済学ゼミを志望したが、人気ゼミ面接に通るはずもなく落ちた。

結局、不人気な統計学ゼミに入った。幾つ上かもわからない留年生と私の2人だけだった。

自分存在は何度も留年を繰り返す謎の男と同じ程度なのだと言われているようで苦しかった。

そして就活の時期を迎えた。

まず情報弱者だった自分は出だしからつまづいた。

講義室で聞こえる会話で周りが既にインターンというものエントリーしていることを知った。その後、焦って就活について調べ始めるものの、そもそも特にやりたいこともなく、また、特段興味がないものに対して熱意があるかのように見せられるだけの技量もなかった私は、悉くインターンにも落ちた。

志望動機経験(あまり好きではない語彙だが「ガクチカ」と呼ばれるもの)に嘘や誇張した内容を書くような人々を見下していたが、結局採用されるのは見下していたはずの人々だった。

奴らは汚いことをしているのだと内心見下すことで、倫理的には彼らより優位にあると思いたかったのだと思う。そんな卑屈さで小さなプライドを守ったところで、何一つ実利はなく、ただ不幸になるだけだということに気づけなかった。

その後、大学名の威光もあってか1dayのインターンには通ったものの、グループワークが中心の1日に馴染めるはずもなく、ひたすら透明人間を演じた上で、最後儀礼的に連絡先だけを交換して終わった。

同じグループの人は関関同立(関西ではそれなりの地位にある大学群)の同学年だったが、グループワークでのリーシップの発揮ぶりは私とは比にならなかった。社員の見る目も違っていた。もちろんその後を知ることはないが、きっと大手企業内定を得て働いるのだろうなと思う。

休みの会話で、高校は私と同じ地域にある偏差値50程度の私学であることを知った。指定校推薦大学に入ったらしい。

学業しか縋れなかった私は、恥ずかしながらも内心では関関同立を見下していたし、偏差値50程度の高校に行った人とは今後交わることすら無いものだとすら思っていた。卑屈な選民思想を持った自分が恥ずかしかったし、完全に下に見ていた人々にも逆転されたという事実を突きつけられたのはかなりショックでもあった。

後日講義室で聞こえてきた「1dayインターン意味がない」という言説を信じ、1度きりで申し込むのを辞めた。今思えば、傷つきたくないがために縋ってただけなんだろうな。人は信じたいものを信じるように出来ているとはこういうことなのだろう。

そうこうしているうちに、気がつくと本選考の時期が到来した。最終的に50社くらいはエントリーしたと思うが、全落ちした。

就活対策の本を立ち読みしたが、内容のバカバカしさに呆れて買うこともしなかった。ここで変な意地を張らずに素直に買って、その内容を再現できていれば結果は変わったのだろうか。正直そうは思えないが。

他にも面接対策をやっているサークルの一室を訪れようとしたが、室内の華々しさに気圧されて扉の前で踵を返してしまった。

あんな楽しそうに就活に臨んでいる人々はどうせ碌な結果を得られないのだと自分に言い聞かせて帰路についた。

ゼミ教授の勧めで留年することにした。

無職で世に放たれるよりは学生身分があった方がいいとの計らいだった。多分留年を繰り返していた彼も、同じような配慮留年を続けていたのだと思う。本当に有り難かった。

しかし翌年の就活も失敗した。諦めて卒業した。

結局、面白くもないyoutubeを観ていただけの1年だったと思う。観ていた動画の内容すら思い出せない。

卒業の翌年、公務員試験を受けることにした。

勉強だけは出来たのだから学業勝負するのが自分にとって最適な戦略だと今更思い至った。

予備校に通い勉強をしていた。数年振りに自分の得意分野で勝負ができて、純粋に楽しかたことを覚えている。

筆記試験には合格したが、その後の面接(厳密にはこれも試験という名前ではある)で落ちた。

国家だけでなく、地方すらも落ちた。

周りを見るに自分と同程度にはコミュニケーション能力が疑わしい者も散見された。少なくとも就活面接では考えられないほどにレベルは低かったと思う。それでもダメだった。

いよいよ俺に出来ることはないんだろうなと深く絶望した。

無職の悪いところだが、時間だけは無限に持て余しているせいで、絶望的な場面が何度もリフレインしてしまう。

あの時こうしていたら…という後悔があまりに多すぎる。

どこが俺の人生の岐路だったのだろうか。

どうしていれば俺はこうならずに済んだのだろうか。

1年引きこもってもその答えは出せずにいる。

何度考えても、命を絶つ他にないんだろうなとは思うのだけれど、それにしたってどの選択を取っても両親に多大なる迷惑をかけるんだと思うと踏み切れない。

ここまで育ててくれて、何も言わず無償の愛を注いでくれた両親に、最期に出来ることは何かないだろうか。

こう振り返ってみても、本当に家庭環境も含め、両親には恵まれ人間だと想う。だからこそ、その結果がこのザマで本当に情けなく、申し訳ない。

せめて迷惑だけはかけずに、ただ俺1人だけが苦しむだけで済むような方法を取りたいとは考えているが、それすら踏み出せないのかもしれない。

ここまで読んでくれて本当にありがとう

想像の通り俺に友達なんてものは1人たりとも居ないし、今まで生きてきた人生も、今まで抱いた感情も誰にも共有できず、誰の記憶にも残らずに終わったんだと思う。

その意味で、誰か1人でもこれを読んで、誰かの記憶に少しでも残ることができたかなと思うだけで、なんとなく心が軽くなった気がする。

増田があって良かったよ。ありがとう

2023-06-22

高校入試が無いかラク出来ると騙されて一貫校の中学入試を受けた。

おもしろ/鬱屈受験録を期待する人は読まないほうがいいです。おれの内的な整理なんで。

元々進研ゼミか塾かの強制二択で前者を取ったのだけど、家にいてもテキストが視界に入るのが不快でたまらなかった。

いつだか、コレ説明不足だろって感じの算数解説イライラしてた。添えられたイラストナントカ君のつっまんねーギャグが異常に癇に障った。きっかけは些細だけど、募る不快が爆発してテキストをクシャクシャにして投げた所を母に見られた。

で、なんか揉めてヤケになって塾に通うって言ったのを覚えてる。

渋々通ってる内に、なぜか入試を受ける運びになってたような気がする。

6年間のまとまったモラトリアムが手に入るなら、まぁ……って自分に言い聞かせた。PSPモンハンの購入を禁止されたのも我慢した。というか当時は「ダメ」と言われて逆らうって発想が無かった。

そんな感じでマジメというか了見が狭かったんだけど、ある時学校寺島君に誘われて掃除サボるという体験をした。自分人生サボるという選択肢が現れた。

黙ってPSPを買うほどの勇気、というかその発想は未だ浮かばなかったけど、意を決して塾をサボってみた。

バレなかった。10km離れたイオンまでチャリこいでフードコートに居座ってエヴァ読んでた。実はバレてて初犯だから見逃されてたのかもしれない。

そんで調子こいてサボりまくっていたらバレて、嫌なら辞めろと言われた。

冗談じゃない。塾通いでドブに捨てた日々を今更無かった事にしろと?初めは強要されて、今更辞めて良いと言われたってアンタは私の時間を返してくれるのか?

典型的コンコルド効果ってやつだったな。

なんてアンビバレンスな感情に苛まれて泣きながら「通わぜでぐだざい」って頭を下げた。

後日学校で○○塾サボったって本当?と複数人から訊かれた。金輪際母に大事情報を伝えるのはやめとこって決めた。

まあそんな感じだったけど一応第一志望に受かって、晴れてまとまった6年間を手にした。

合格後になって実は土曜も授業があると知らされた。そんなとてつもない重大情報は真っ先に言えよカスコイツらの味噌汁農薬でも混ぜて殺してやろうかな、って本気で思った。

かなりマジで悩んだけど、まあ今更……という事で入学を決めた。

親の意向とは違って上昇志向なんて1ミリも無かったんで、勉強に励む気も毛頭なかった。

初めての定期テストでは当たり前に100点が取れる色刷りのやつに代わって、70とか40とか書かれたザラついたテスト用紙が返ってきた。

塾じゃん。学校テストじゃないじゃんって思ったよね。

学校テストで平均を割るなんて考えられない体験だった。まあ後の惨状に比べれば全然可愛いもんだったけど。

どこかにあったプライドがやや傷つきはしたけど、そこで悔しさをバネに、なんて気持ちサラサラ湧かなかった。

目的を忘れちゃいけないからね。ダラけるために小学生時代放課後を捨てたんだから。ってことでさほどは気にはしなかった。

こんな塾の続きをするために入学したんじゃないんだよおれはって事で、もう勉強は丸投げしようと決めた。授業中は寝るかゲームか買い与えられたばかりのスマホをいじるかだった。

唯一ちゃんと授業受けてた中一1学期に聞いたクリプトコッカスネオフォルマンスとか、バージェス動物群のピカイア、オパビニアアノマロカリスみたいな単語だけ今でもよく覚えてる。

合格発表の時おれが「これでもう勉強しなくて済む!」って言ってた時にはヘラヘラしてた癖して、いざ入ってみれば成績にグチグチ言う両親を適当にいなしながら、モラトリアムに浸った。

考え事してる内に、自分なりに実存主義相対主義に辿り着いたりもした。サルトルとかニーチェとかハイデガー大学入って齧った時、コイツおれじゃんってマジでびっくりしたよね。

道徳の授業で教わるような規範はもうおれにとって意味を持たなかったし、晴れて購入を許可されたゲーム没収されても黙って新しいのをもう一機買うのに罪悪感は微塵もなかった。

歳相応に、というか同年代よりも遥かに時間をかけてアイデンティティかにも悩んでみた。

こういうのは拗らせた10代の一過性の悩み、で片付けていいもんじゃないと今でも確信してる。厨二とかいわれるような心をすっかり忘れてしまったら人間お終いだと思う。

まあそんなんで順当に成績はカスだったけど、教室空気を吸ってるだけでも無自覚に上昇志向というか、学歴厨じみた思考が植え付けられてくるんだよね。

進学校が持つ一番の機能はこれなんじゃないかって思う。

高校にもなれば受験話題が増えて、おれもそれに合わせていった。

こんなに勉強嫌いでも大学受験をする事だけは疑わないんだから恐ろしいもんだね。高卒人生落伍者ってかなり本気で思ってた。

最初勉強ちゃんとやってれば楽しいはずだなんて自分に言い聞かせてみたけど、やっぱり苦痛だった。だから変に楽しもうと工夫なんかしようとしないで、入試の通過手段と割り切っていこうって決めた。

これはそのまま、賃金労働自己実現だとかやりがいなんか求めず生活の糧と割り切って、軸足趣味において生きようという人生方針へとスライドしていく。その「割り切り」は後の人生の後悔にも少し繋がってくるんだけど。

そんな感じでやっていって入試に臨んで、まあぼちぼちの結果といった所に落ち着いた。

終わってみれば後出しで後悔も湧いてくるものだけど、進路に関しする始まりは「ダラけたい」だったんだから小学生の頃の自分への義理はそれなりに果たせたと思う。

大学入ってから世界史とかロクに聞いてなかったからその辺文脈理解必要な話にはやっぱり苦労したけど、一人で考え事してた時の内容は宗教学哲学レポートを書く時大変に活きてる。

教授から直々にメールで褒められた時はちょっとしかった。大学勉強楽しい時もある。大抵ダルいけど。

放っとけばボーっとしてるかたまに好きな事に手を出すだけ、根が遊び人ボンクラから環境下駄を履かされて助かってきた部分はあるんだろうなって思う。

でもアッパードル王道を目指す生き方を非常に中途半端内面化してしまって、好きにも「べき」にも振り切れないハンパなディレッタント崩れになってしまったよね。

思うままに生きた人生は暗澹たるものだったかもしれないし、もっと肩肘張らずに生きていられたかもしれない。考える意味のない可能性をつい思っちゃうね。

振り切れた生き方をする勇気なんて平凡な人間にはなかなかないし、そのバランス課題なんだと思う。

たらればを言えばもっと「好き」に振り切れる期間が欲しかたかもしれない。

高校上がってから嫌々ながらも主体的勉強を始めたと言ったけど、本当はもっとからハンパな「べき」が心にあったんだよね。

6年のモラトリアム期間だって、何をするにも「こんな過ごし方でいいのか」って水を差してきた。

なんというか幼い白黒思考の潔癖状態の段階で、バランスなんか考えられない状態で相反する価値を抱えてしまって、それでどっちつかずになってしまった感じだな。

中庸って言葉にすればありきたりだけど、そこに実感や納得を乗せられたのはせめてもの学びか。

勉強から逃げて(そもそも最初から立ち向かおうする気なんかなかったんだけど)自意識を煮詰めた時間だけは無駄じゃなかったって、そこだけは確信を持って言える。

でも出口のないナイーブな悩みなんか適当な所で蓋をして、どこかで思考停止して目の前の生活をやってく生き方はある種の賢いものなんだろうなとも思う。

まあ人生なんて結果論しか語れないだろうし。電源ボタンはあっても、セーブ機能リセットボタンはないのだし。

正解なんかないんだから納得できるかどうかが全てなんだろうけど、今のところちょっと自信はない。

せめて今ある、これから人生は愛せるようにいたいもんだね。

2023-06-16

情弱就活生、Twitter上の就活アドバイザー詐欺られる

もうみんな就活終わったか??

俺は終わった。

就活って大事だよな。

その割に何すればいいのかわからないし、毎日合格発表日みたいで胃がキリキリするし、嫌でも、過去自分と向き合わなければならないし、本当に辛いよな。

俺のいる学科就活やる奴があんまりいなくて、相談できる人もいなかった。

でも、Twitterだけは毎日見てて一丁前に危機感だけは持ってた。

それで、Twitterにいる嘘くさい就活アドバイザーに助けを求めて結局、お金(3万)払って面談5回の契約をしたんだけど、使わず就活終わらせたって話だ。

2回ぐらいは使ったんだよ。でもその後、使わなかった理由がある。

まず、そいつの喋りがあんまり上手くない。

本当に、就活勝ってきた???って思う。自分の生徒の内定会社を話して希望を見せてくるけど、ただ単にその就活生が優秀だったんだろうなって終わった今なら思う。

その人のもとで作ったガクチカも結局使わなかったし。

でも、それ以上に使わなくなった理由は舐められてるなって思ったから。

LINEで日時を決めて、zoom面談してたんだけど、2回目の面談日をすっぽかされた。時間になってもzoomに誰も入室してこなくてLINEで連絡しても連絡が取れない。

待ってたけど、取れなくて「もういいや」と思って、スマホ放置してたら「すみません」だかなんかそんな内容のメッセージが来てた。

それで「また今度にしましょう」って言われても、そいつへの信頼は無くなってた。取り繕ってたけど、「あーなんか見切りつけられたんだな」って思った。もっと優秀な就活生がいてそいつを優先してるんだろうなって思った。

でも一応、就活はしなきゃ、と思ってたからその後に予約入れようとしても「ごめんなさい。その日は埋まってます」が何度も続いて、次の相談は年明けになるって言われ、あ、もうこいつに頼るのやめよって思った。

そこから大学のキャリセンに通って、無事第一志望群の会社から内定を貰った。

わけわからない社会人よりも同じ大学内定からアドバイス貰った方が5億倍は役に立つ。

もう汗水垂らしてバイトで稼いだ3万円は戻ってこないから同じ被害者を増やさないためにも言っておくよ。絶対お金は払っちゃダメだ。

俺で良ければES添削とかするし、面接練習無料でする。有料だからって責任感持って対応してくれるわけじゃないんだ。大学の先輩やキャリセンの方が全然親身になってくれる。まずはそこに行くべき。

面談枠使ってないんだから一部返金を求めたけど、断られたよ。大したことしてないのに、すごいなって思った。こうやって就活生の不安煽って、詐欺まがいのことしてお金のない大学からお金奪ってるんだって思った。やっぱり金融系のやつって太々しいんだな。

こんな馬鹿あんまりいないと思うけど、一応、警告しとくわ

2023-06-10

中学受験で失ったもの

24年間、私はずっと恵まれていた。

家族はたくさん私のことを愛してくれたし、友だちもみんな優しくて大好きな存在である。来世もまた私として生まれたい。それくらいに、幸せな日々を送っている。

でもひとつだけ、もし叶うのなら次の人生中学受験はしたくないと思っている。私の人生のなかでいちばん苦しい記憶からだ。

先に言っておくと、塾の先生たちも、両親も、みんな私のことを想ってくれていたと思う。そこに在るのは確かに愛であって、その他のなにものでもなかった。ただ、小学生の私には分からなかっただけ。すれ違ってしまっただけなのだ。だから誰も悪くないし、私は両親のことがずっと大好き。

でも、似たような気持ちを抱えている人もきっといる。だからせめて、ある程度の言葉の整理をつけられるようになった自分が残しておきたいと思う。

小学四年生わたしは、中学受験というものをあまり理解していなかった。それまでもたくさん習い事をしていたし、いずれ塾に通うことは聞かされていたからなんとなくそういうものなんだと思っていた。

そして入ったのは、某大手中学受験塾。狙うは日本屈指の名門校。そのために毎日たくさん勉強をした。テストの点数が悪かったら怒られてしまうから放課後は急いで帰ってすぐに塾に行って、テストが始まるまでずっと机に齧り付いて勉強していた。

小学校での成績はいちばんだった。先生に褒められて嬉しかったし、誇らしかった。友だちにすごいねって言われるたび、私は皆とは違うんだと思っていた。多分、周りを見下していた。世界は私を中心に回っていると思っていた。

同時に、朝学校で友人たちが「昨日は楽しかったね」って笑い合ってる会話についていけないことが悲しかった。前述の通り、当時わたしはだいぶ性格が悪かった。その自覚もそれなりにあって、だからこそ私にも屈託なく「次は一緒に遊ぼうね」と言ってくれる友人たちのことが本当に好きだった。本当に、大好きだった。当時は塾や家が(強制的に)勉強をさせられる場所だったからこそ、余計に。

そして小学六年生になった。

受験勉強が本格化していく。友だちと遊べる日なんて1日もなくて、土日は塾に12時間以上拘束されている。家に帰っても勉強息抜きといえばご飯を食べながら観るテレビアニメだけ。そんな毎日だった。

でもそれは私だけじゃない。同じ塾に通う子たちもみんなそうだった。テスト中、何度も何度も鉛筆を腕に刺し続けている同級生がいた。テスト中、ずっと髪を抜き続ける同級生がいた。テストの結果が悪かった次の日、大きなもみじ型の跡を頬につけてやって来る同級生がいた。テストの結果が悪かった次の日、当時流行っていたDSを半分に折られた同級生がいた。もう勉強したくないと言って喧嘩になって、そのときいちばん大好きだった漫画をびりびりに破られたことがあった。私の部屋の壁にいくつかの穴があいた。私の部屋の壁が私の足型にへこんだ。生徒を集めた決起集会で、先生が教壇にマイクを投げつけていた。

そのひとつひとつ、すべてが誰も悪くない。何も悪くない。いまの人生への影響なんて、何ひとつない。たぶん皆そう言う。そんなこともあったなあって、しみじみ言うだけと思う。そこに在るのは、ただ、愛だった。

それでも、それでも。たぶん、そのひとつひとつ光景死ぬまで忘れないと思う。あの時、いつも私はきっと同じ時間公園で遊んでるのであろう大好きな友人たちのことを思い浮かべていた。目の前で広がる現実を、一歩後ろに下がったような場所で見ていた。なんで私はここにいるんだろう、そんなことをぼんやり考えていた。

そして私はついに我慢ができなくなって、中学受験したくないと親に言った。受験総本山である夏を乗り越えた、11月のことだった。もちろん大喧嘩になった。このままいけば、確実に志望校に受かる。あと数ヶ月頑張れば終わるのに、ここまでやってきた努力に報いるためにも、あとちょっとだけ頑張ろうと言われた。それでも、当時のわたしはもう限界だった。いちど口に出してしまえば、止まらなかった。友人たちと同じ学校に行きたいし、少しでもみんなと遊びたい。そう思う今が大事なのであって、未来のことも過去のことも、どうだっていい。

そう泣き叫びながら家を飛び出して、塾をサボる日々が始まった。でも遠くに行くのは怖かったから、隣の家との塀の間にずっと隠れていた。屋根屋根あいから見えた突き抜けるような青い空が綺麗だったことを今でも覚えている。当時の私は、自分意思でもないのに、ここまで苦しい思いをして入る学校に何の意味があるんだろうと思っていた。それは実際、今でも思っている。

ただ昔と違うのは、今の私は、子どもの将来のためにレールを敷くことの大変さも分かるつもりでいる。朝6時に家を出て、夜11時に帰ってくる父親は、そのあと私に勉強を教えてくれていた。土日も、私が家にいるあいだはつきっきりでずっと。社会人になった今、それがどれだけ大変なことだったか、分かるようになった。母親は、塾のお弁当にいつも私が好きな食べ物をたくさん入れてくれていた。成績には厳しいけど、代わりに良い成績を取ったらたくさんたくさん褒めてくれたし、友人たちの誰よりもたくさんの物を買ってもらっていた。服も、本も、文房具も。不自由なんて何ひとつなかった。いつだって私は愛されていた。ずっと、愛しかなかった。でも当時の私は、その愛を目一杯享受して利用しながらも、見ないふりをしていた。

受験当日。結局わたしは、受験会場にいた。

名前欄に自分名前を書かないこともできたはずだった。でも、しなかった。わたし名前を書いて、見直しもして、解答用紙を提出した。結果は合格だった。それが確かに自分意思なのか、既に私の道は最初からまっすぐ一本道しかなかったのかは分からない。でも合格発表のとき母親と抱き合って泣いた。たぶん、色んな感情があったと思う。こうして私の中学受験は幕を閉じた。

この話を通じて、中学受験の是非を問いたいわけじゃない。ただ、あの日々が健全ものだったとは今も思わない。大好きだった漫画がびりびりになったときに、一緒に破れてしまった何かはきっとあったと思う。私にも、親にも。仄暗い恨みみたいなものも長年消えなくて、中高時代は嫌なことが起こるとすべて親のせいにしてしまっていた。嫌なことが起こるたび、私にレールを敷いたあなたたちのせいだ、とずっとずっと詰っていた。今から思えば、まだ親の責任下にある「子ども」に対して与えられたひとつの逃げ道だったのに。私の言葉は、親をたくさん傷付けていたと思う。その後の大学受験では、わたし100%自分自身意思で選んだ進路を一切否定されなかった。そして私は私の意思で、文学部に進学した。ずっとずっと昔はいずれ医学部に行ってほしいということを言っていた親も文学部に賛成してくれた。

中高時代わたしにとって「勉強」は、小学生時代の苦い記憶と共に在るものだった。閉塞的で、強制的な、苦しいものだった。でも大学で、自分意思で選んだ学問は楽しくて仕方なかった。そして、不意に思い出した。ずっとずっと昔、まだ塾に入る前の小学校低学年のとき図鑑百科事典を読むのが楽しかたこと。いつの間にか、そうしたものが苦しい記憶と結びついて蓋をしていたけれど、たぶんいちばん初めは、わたし勉強が好きだった。

文学部卒業して、わたしはずっと夢だった仕事に就いた。他の誰でもない、わたし自身選択の果てに辿り着いた。そのことを親もずっと喜んでくれていて、今は離れて暮らしているけれど、わたし仕事を一番応援してくれている。親はめちゃめちゃわたしのことが好きなんだろうなと思う。そうやって私が自分の夢を叶えることができたのは、たぶん親がわたし選択肢をたくさん増やしてくれたから。その始まりは、中学受験だった。中学受験してなかったら今、夢は叶えられてないかもしれない。だからわたしはこれで良かった。中学受験が苦しかたことも、たくさん喧嘩したことも、その果てに自由選択肢を与えられたことも。その過程はきっと健全もので、まるごとひっくるめて正しかったと思う。でも、それでも。もしいつか自分子どもができたとしたら、わたし子ども中学受験させないと思う。もちろん、本人が自分意思中学受験をしたいと言ったらそのときは全力で一緒に頑張るけれど。

中学受験をして得たものはたくさんある。今の私の人生幸せから。でも、たくさんたくさん苦しかった中学受験記憶から救われるには、いまのわたし幸せになることでしか報われないという意地のようなものも強かった。たぶん中学受験をしていなくても、わたしわたしの力で、幸せになれてたと思う。もちろん、あくま空想しかないけれど。わたし小学生の頃のわたしが、みんなともっと沢山遊びたかった気持ちをずっと覚えていてあげたい。世間一般から見たらわたしはめちゃめちゃ恵まれていて、小学生時代の悩みなんてたぶん本当に本当にちっぽけで、贅沢すぎる悩みだったのかもしれないけれど。それでも、わたしだけは、覚えていたい。あの日々のなかで見た光景のこと。確かにしかった記憶たちのこと。そうすることでしか、あの頃、家と家の隙間で泣いていた自分をひとりぼっちにさせないことができないと思うから

2023-04-21

大学入学したけど、努力もしないくせに劣等感がすごくて辛い

小学生の頃、先生と(後述の問題もあり)性格が合わなかったのかすごい色々言われるのが嫌で中学でも不登校気味になってしまい、受験では内申と出席日数の問題第一希望GOサインが出ず、高校定時制高校に進学した。

小学生の頃から授業への集中力が無くて自由帳でお絵描きしたり寝てたり、勉強は全くできないし、問題児だった。

それでも、自分の得意分野になると記憶力や集中力が極端に上がる。自分の好きな分野については小学生ながらもそこらへんの大人よりも知識があったと思う。

中学生の時は、さすがに授業に参加してノート必死に取るし、頑張って集中力継続できるよう頑張ったけど、いつの間にか寝ていて、それも本当に記憶が無かった。

中学公立のくせに住んでいる街が街だからか、親が金持ち教育熱心家庭が多くまともな生徒が多くて、俺以外でもちょっと違うと攻撃されたり避けられたりしていた。

おまけに教育熱心な家庭に合わせて授業が進むため公立にしてはハイペースな授業だったと思う。授業にもついていけず先生とも合わず人間関係も辛くて、中学ではついに不登校気味に。

朝起きると、平日だけ何故か頭が痛くて起き上がれない。通学路で涙が止まらない。本当に行きたくない日は行かなかった。

なんでみんな1時間も机であんな授業受けれるんだろう。勉強もできないし自分おかしいのかな。なんでだろう。ってずっと思ってた。

親は「学校休みがちならせめても…」ということで家庭教師をつけてくれた。その時は定期試験も少し点数上がった。高校受験に向けても対策をした。

でも、やっぱり勉強が苦手。覚えられない。計算ができない。集中力が続かず、結局バックレて(家庭教師時間になったら外出して逃げた。)家庭教師も中2終わり頃に解約した。

同時期、初めてインターネットで知り合った人と実際に会って遊んだ学校が辛くて、学校を行くふりしてその人の最寄り駅まで行ったり。自分の最寄りまで来てくれたり。

新しい世界が見えた気がして、その時は精神的にも心からしかった。その人と、はまだ繋がっていてたまに遊んだりしてる。本当に感謝

ちなみに家族めっちゃキレてた。「なにしてんだよ」「学校行け」「学校行かないと近所の人から変な目で見られる」。結局家族世間体だけで、多分俺がサボってるとしか思ってなかったんだと思う。まぁ確かにサボりだし。今思えばそうだなと思う。でもその時はこれしか逃げ道がなかったのもわかってほしかった。

そんな中、中3に。周りはみんな受験モード自分はぎりぎり行ける近所の全日高校を狙っていたが、内申点と出席日数的に第一希望として認められず、

定員割れ定時制高校へ進学した。定時制にも理由があって、学校行く前の頭痛体調不良が午後になれば少しはマシになるかな。というのが大きな理由安直だけど。

定時制高校は驚きの毎日だった。本当にごくせんGTO世界

まず、日本語が通じない。噛み合わない。俺よりバカな人がいる。

行動が高校生っぽくない。(言葉に言い表せない感じ。なんか子供っぽいというか…)

イキっている絵にかいたようなギャルヤンキー

覚せい剤を使って同級生逮捕タバコお酒は当然。喧嘩窃盗無免許運転。まだまだある。

本当にこんなことって現実にあるんだ。フィクションじゃないんだ。

自分で選んだ学校から文句は言えない。けど辛かった。中学校とは違うベクトルの辛さ。

学校の最寄り駅降りると蕁麻疹が出るくらいには辛かった。

でも勉強簡単すぎて余裕だったし、校則も緩い。悪いところだけではなかった。

バイトも始めた。

バイトは、本当に向いていたと思う。接客業。高1の1学期から始めた。

お客様「ありがとう」って言われると本当に心からしかったし、クレーマーは来たらちょっと嫌だったけど。

店長社員さんから褒められるのも嬉しかったし、仕事を任されるのも嬉しかった。気づいたら本部研修を何回か受けて名札の★が増えたり。

勉強以外で、自分が認められて本当に楽しかった。週5~6入って必死に働いた。大人との接し方も、電話応対も、社会のアレコレもたくさん教えてもらった。

高校で学んだことよりもバイト先で学んだことの方が今の自分にとって大きいと思う。

高3の頃、大学に進学したい気持ちが強くなった。

小学生の頃から好きだった分野を仕事にしたいと思い始めるようになった。そのためには最低でも専門学校大学はいかないといけない。

専門学校も考えたけど、大学のほうが分野についての授業や設備が幅広くて自分のやりたいことはそっちの方が強かった。

でも、小学校の頃からまともに授業受けていない自分には無理だな。というのが第一に思った。

先生にも相談した。「●●(俺の名前)さんのやりたいことは、大学しか学べないよ」この言葉が決め手だった。

から一般勉強なんてビルギャルじゃないんだし、無理だなと思った。すでに7月

分野が若干特殊なせいか、やっと見つけた大学は、日東駒専レベル大学日東駒専と言えば、インターネット上ではよくバカにされている印象だが

それでも偏差値測定不能高校に通っているヤツが受かる確率は1桁ほどだろう。

そんな中、先生からAO入試を進められた。プレゼンテーションをするだけでよいらしい。

パワポを作るなんて簡単だし、プレゼンの内容を考えるのも楽しそうだった。でもプレゼンするだけでって、そんな都合よい話があるんだろうか…?

あった。

受かってしまった。それも数人しか取らないAO入試だ。倍率はまぁまぁ高かった。

学校行ってないときPCスマホをいじるのが生活の一部になっていたせいかプレゼン資料作るのも苦じゃなかったし、

資料で出典元を見つけたり自分考察、案を考えるのも苦ではなかった。

 

面接からは「高校生でこんなプレゼン初めてみました。」「完成度高いですね」「すごいですね」…。

まさか褒められるとは思っていなかった。面接から鋭い質問されると思ってドキドキしていたのに、プレゼンが終わるとすごい褒めてくれた。

さすがに受験会場で誉められたくらいで、受かるなんて思っていなかったけど、忘れもしない11月とある合格発表日、ウェブサイトには合格表記が出ていた。

正直実感が無いのと、やっぱり勉強についていけるか心配だった。焦って大学に向けて中学校の範囲から少しずつ勉強をし始めたり。

そして入学

もう2~3週間経つけど、割と授業は楽しい小学生の頃から関心があって自分なりに勉強したり調べていた分野だったから専門的な授業は簡単に感じる。

高校までまともな学校行ってなかったのに、大学AO入試で入って授業も割とついていけてます!!!!!!楽しい!!!!」みたいな記事ではない!本題はここから

入学して数日。幸いにも数人、話すような仲の友人…(少なくとも自分はそう思ってる)ができた。

話し方や行動、高校の時の話、上京してる人の地元の話。。。聞く限り「アオハル」を満喫した「ガチ高校生」なんだなと思った。

いや、「ガチ高校生」ってなんだよって感じだけど、自分定時制高校という特殊構造学校でお世辞にも普通高校生活とは程遠かった。

テレビ中学時代の友人を見るたび「青春」が羨ましかった。もちろん、もし普通高校に通ってても青春できる保証はないけど。思うだけなら自由じゃん?

それも、日東駒専レべルだからか、偏差値50後半くらいの高校から指定校推薦や、滑り止めで来た人が多かった。

そんなやつらが勉強もまともにできない底辺高校出身の俺と一緒の大学で一緒に過ごしてる。

本当に申し訳ない。自分は何も努力していない。勉強全然頭に入ってこない。興味ないことは全くできない。人間としての欠陥品。

ちょっとその分野が得意なだけで、取柄もなんもない。

自分バカ出身って明かしても全然みんななんも言わないんだ。

なんでお前がここにいるんだよとか。中学校の頃みたいになんか言われたり距離を置かれるんじゃないか不安だった。

ある日、入試の話になった。周りは共テ利用だったり一般入試だったり。そんな中プレゼンだけのAOなんて言いたくなかった。

けれども、聞かれて正直に答えたら「AO入試!?すごいね!」「才能あるんだね!」って褒めてくれた。お世辞でも嬉しかった。

AO入試で入ったからずるいとか、避けられるかなって思っていたから。優しい。泣きそう。

みんな、高校でフツーの青春をして、人並みかそれ以上に勉強ができて、こんな自分にも優しく接してくれて。

そんなやつらと一緒にいると毎回自分が醜いなって思うのと同時に、

集中力があって、興味がない勉強理解できていれば、自分普通高校生活を過ごせたのかなとか。

普通ってなんなんだろう。なんで自分は頭悪いんだろう。集中力尽きると記憶が無いまま寝っちゃうんだろう。とか。

たらればばかり。

からといって努力もしないくせに劣等感を感じる自分が一番つらい。

日本語めちゃくちゃで見にくい文章最後まで読んでくれてありがとう

追記 4/21 22:55

いつもの流れでトップページ開いたら自分記事があってビックリしました。

ちょっと指摘された部分や日本語おかしい(不適切な)部分を修正しました。

ADHD発達障害の傾向は小学生の時から言われていました。現在正式な診断は受けていないですが、小学生の頃は毎週カウセリングを受けていました。

高校先生について

記事内の大学相談に乗っていただいた先生と当時担任先生には本当に感謝しています。周りの生徒とは少し合わなかったけど、高校先生は本当に優しかった。

小中の先生みたいな人だったら辛かったと思います

優しい言葉、もちろん意見も、いろんな言葉ありがとう。なんだか泣きそうです。

2023-04-18

裏口入学中の人やって病んだ

表題の通りである

増田を書くのは初めてなので変なところがあったらすみません

https://news.yahoo.co.jp/articles/96f03821dedaf7d270db7546e41ff7082d083fce?s=06

このニュースを読んで、学校対応に疑問をもった方も多いだろう。

このケースについて要因を断言することはできないが、似たようなことが以前の勤務校にあったので、書いていく。

(私立学校では大なり小なりあることなのだと思っている。)

まず大前提として、私は既に教員を何年も前に退職し、今は会社員として人並みに働いている。

また、特定されないよう内容にはフェイクを混ぜている。参考程度に聞いてほしい。

某所の中学校

私が裏口入学中の人をやらされたのは、新卒一年目のことだった。

私学適性検査(私立教員就活センター試験みたいなもの)の点数がかなり良かった私は、偏差値も立地も給与もいい感じの学校就職でき、担任も任され、まさにこれからといった感じであった。



母校でもなく、地元を遠く離れ、同期に同郷や同大学の先生はおらず、今思うとアウェーではあったのだが、当時は特に気にならなかった。

何より生徒が賢かった。振れ幅は勿論あるが、素直で真面目な良い子が多い。

生徒との関係もおおむね良好で、どたばたしつつ充実した毎日を送っていた。



入試準備の時期になると、作問者に抜擢された。大役である。手当も出る。

隣のクラス先生にも「新任ではなかなかないですよ、期待されてるんですね〜」なんて言われて、責任を感じながらも喜んだ。

作業は大変だったが、作問も入試も滞りなく終わった。ここまでは良かったのだ。



採点の日が来た。

配点と採点基準は事前に提出しているため、それに従ってつければ良いだけなのだが、なぜか私だけ別室に呼び出された。

呼ばれたのは狭い部屋で管理職教員が二人おり、私が席につくと一人がドアの前に立ち塞がるように立った。

完全に怒られると思った。問題に大きな不備が見つかったのだと思った。

固まる私に、管理職は「いや〜入試無事終わったね!ははは」みたいな感じで、朗らかに話しだした。

あれ?怒られないのか?と思っていると、管理職封筒から受験生の回答用紙を一束取り出し、

ちょっとこの束だけ先に採点してみてくれない?あ、回答用紙に直接点数書き込まないでね」

と言った。

よく分からなかったが、私はその通りにした。

採点が終わると、管理職は点数のメモを見ながら何やら考え込み、おもむろに回答用紙の目隠しを外した。

目隠しというのは、記名欄を隠しているものである。つまり公平性を保つために、採点者から見てどれが誰の回答かわからないようにしているものだ。

私はビックリした。えっ?それ外して良いの?

顔に出ていたのだろう、管理職は私を一瞥すると「あ〜良いから良いから笑」と手を振った。

そして名前確認して1枚の回答用紙を引き抜き、「これなんだけどさあ」と私の前に置いた。

男の子の回答用紙だった。削られていない、潰れた鉛筆で書いたのか、筆圧が高いのか、凄く太い線をしていた。字は汚い。

記述必要以上にいらないことまで長文で回答しているものの、覚えてくれば答えられるような一問一答はことごとく間違えていた。

そして、試験時間中に紙をゴシゴシと擦ったのか、ところどころ変に黒くなり、破けていた。

「この子、点低いよね?」

管理職が言った。採点ミス?と思ったが、明らかにの子の回答には点が高くなる要素がない。

私が黙っていると、管理職が口を開いた。

「この子、この教科が得意科目らしいんだよね、この子合格になる感じにね…採点基準変えて欲しくて」

耳を疑った。え?何言ってるんだ?と思うと同時に、まずい、この子裏口入学?どうしよう、不正だよな、と思って動悸がした。

しかし、私は自己防衛に走り、適当に返事をして、その通りにした。

の子合格するような採点基準に変えるというのは、ほとんど換骨奪胎だった。

一問一答比重は著しく下がり、記述は余計なことを書いていてもとにかく意欲があればOKみたいな感じになった。

同じ束の中でも、点の下がった子がいた。字のきれいな女の子だった。逆に点が上がったラッキーな子もいた。

平均的にはそのままの子も多かったが、私が最初意図した試験とは違う結果になっていた。

そして全体の採点が終わり、家に帰った。

夕飯を食べながら、入試の日に保護者誘導で見かけた女の子のことを思い出した。

本校が第一志望なのだうその子は、お母さんに抱きしめられ、絶対大丈夫!頑張って!と言われ、お父さんに大きく頷いて、お守りらしきものを握りしめて会場へ向かっていった。

の子の点が下がっていたらどうしようと思った。

それから合格発表、新入生登校日があり、入学式を経て、新年度の始まりまで、誰にも不正のことは言わずそしらぬ顔して過ごした。

そして新年度、授業を受け持つ生徒の名簿を見た。

の子がいた。名前を見て動悸がした。

ヤバい子だったらどうしよう。しかし、新入生登校日にも入学式にも特に変な話は聞いていなかったので、大丈夫だと思い込んだ。

結果、ヤバい子だった。(以下、Aと呼ぶ)

床に寝る、騒ぐ、叫ぶ、殴る、人を突き飛ばしながら走る、窓から物を落とす、トイレおしっこスプラッシュ下半身露出して女子を追いかけ回す、ゴミをぶちまける、他のクラス(なんと、上の学年にもだ)の教室にいきなり入って因縁をつける、考えうる悪行は一週間でほぼ全てこなした。

授業中も凄かったが、私の教科は自称得意科目なのもありまあまあ真面目に聞いていた。

それでも授業中に立ち上がり、他の子の筆箱を取り上げてぶちまけるくらいのことは平気でやった。目眩がした。

危険な道具を使う技術家庭ではほとほと困り果て、家庭科先生は泣いてしまった。

すぐに教員シフトが組まれ、Aくんには常に教員が一人以上つくことになった。私も何度かついた。

前述の通り、素直で真面目な子の多い学校だ。異質な彼の噂は瞬く間に広がった。

面白がる子もいたが、幸い同調する子は少なく、みな教員に協力的で、何か起きると何人もすっ飛んできて教えてくれたが、残念ながらAくんのクラス学級崩壊に近かった。

担任先生は本当につらかったと思う。

担任している子たちには、あのクラスの授業をやってるなんてと哀れまれた。

保護者会で保護者にも哀れまれた。

職員室では教員同士が互いに相憐れみ合っていた。

Aくんの担任は、他の保護者から毎日色々言われていた。

Aくんの親はどんな連絡をしても悪びれなかったようだ。

そりゃそうだ、裏口入学させるような親なんだし。

Aくんの学年内では、教員も生徒も色々な理不尽があったと思う。

物を壊された生徒は多数。

特に男子は、体育で競技にかこつけてよく怪我をさせられた。

職員室でAくんの学年の教員管理職に怒鳴られているのを何度も見た。

教員内で情報共有はなぜかされなかった(生徒指導部ではしていたのかもしれない)が、意外と生徒たちの方が詳しく、生徒づてに色々な事件の話を聞いた。

職員室では、なんであんな子がうちに入ってきたんだという話が頻出するようになった。

裏口入学なんじゃないか?」と言われるたびにどこからともなく出る台詞が、「でも、実際得意教科でガッツリ点とってるんだよなあ」

冷や汗が止まらなかった。

その内、Aくんがクラスでこんなことを言うようになった。

「ここの理事長は俺の手下なんだ、俺に楯突いたらお前ら退学だからな」

男子は真に受けなかったが、意外と女子が真に受けて怯え、教員への不信感をつのらせた。

こんなの、自分裏口入学ですと言ってるようなものである

たぶん、Aくんの保護者(もしかしたら年齢的に祖父母かもしれない)が家でAくんに言ったのだろう。

理事長は俺の手下だから大丈夫だ、みたいなことを。

不正の結果ヤバいことが起きた人なら分かると思うが、こうなるともう本当に怖くて仕方なかった。

バレる夢を何度も見た。げっそりしている担任申し訳なかった。何より生徒にバレたらと思うと恐ろしかった。

俺が殴られたのは、私が追いかけ回されたのは、物を壊されたのは、授業をまともに受けられないのは、先生不正を許したからだと恨まれるのが怖かった。

かに相談たかった。しかし、相談出来る相手がいない。

ここは母校でもなく、地元でもなく、同期に同郷や同大学の先生はおらず、何より忙しすぎて親睦を深める余裕はなかった。

あくまビジネスライクな付き合いだ。

よくしてくれる先輩はいたが、皆裏口入学なんて当たり前だと思っているかもしれない。

先輩たちもみんな通った道なのかもしれない。

今思うと考えすぎなのだが、当時はそんな風に考えていた。

作問担当に決まったとき、「期待されてるんですね」と言われたが、なんのことはない。

よく考えなくても、同期はほとんどが本校の卒業生だ。

どこかにチクるツテの無い私はうってつけだったのだろう。

で、まあこれだけが理由ではないのだが、他にも普通に忙しすぎるとかやっぱり地元に帰りたいとかもあって、しばらくして私は教員をやめた。

先生方とはそれっきりだが、生徒とは今も連絡を取り合っている。

このことを、機会があって母校の恩師に愚痴ったところ、慰められたが微妙言葉を濁された。母校でもありそうな感じだった。

しか学生時代明らかに学力が浮いてる子いたし。


多少は清濁併せ呑んで働くべきだったのかなと思った。

以上である

追記

本文中に発達障害という言葉意図して使いませんでしたが、コメントを見ていると逆に良くなかったと思うので追記します。

まず、裏口入学で悪いのは子どもではなく周囲の大人です。

私はAくんの保護者に会ったことがないので深く触れませんでしたが、裏口入学を依頼する親と受け入れる学校が悪いのは明らかです。

子どもは得てして欲望剥き出しの生き物です、親が提示した裏口入学分別なく飛びついても責められません。

冒頭に貼った記事児童も、Aくんも、親さえまともならどこにでもいるただの「支援必要子ども」に過ぎなく、これ自体善悪はありません。

発達障害には天才も含まれるとのコメントいただきましたが、それは当然として、他の圧倒的多数を占める「平凡な発達障害児」と比べてもAくんの問題は明らかです。

しかにAくんの障害は(おそらく)重度ですが、この場合は「裏口入学をさせるようなクズ親に育てられたこと」と「重度の発達障害を持っていること」が掛け合わさって問題が生まれています

発達障害一口に言っても程度や種類は様々で、それぞれ色々な生きづらさや問題を抱えていると思いますが、Aくんを取り巻く問題はその中でも外れ値です。発達障害全体の話題として捉えられるのは本意ではありません。

また、発達障害の方に、自分もAくんのように周囲を困らせていたのかもしれないと思わせてしまうのも申し訳なく、本意ではありません。

これは私の言葉足らずが悪かったと思います

この話は、あくまでAくん個別問題として読んでいただければ幸いです。

2023-03-27

中学受験体験記 - その後

先日、高3の長男卒業式を迎えた。

6年前に「中学受験体験記」という記事で書いた息子だ。

https://anond.hatelabo.jp/20170206102543

いま家族旅行に来ているが、もうみんな寝てしまったので、缶ビールを飲みながら徒然なるままに思うところを書きつづる。

長男卒業した学校について

前回の記事に書いたとおり、当時小6だった長男中学受験に挑戦し、俗に御三家と呼ばれる男子校に進学した。

それからの6年間、長男部活勉強学校行事にと精を出し(なお恋愛)、仲の良い友人もたくさんでき(なお恋人)、とても充実した日々を送ってくれたようだ。

その高校卒業式に出席したが、決して厳かとは言えない雰囲気

いちおう詰め襟の標準服が制服ということにはなっているが、入学式以外で着ることはほぼなく、体が大きくなっても作り直したりはしないので、制服を着ている生徒は一人もいない。

ほとんどは親に借りたと思しきスーツだが、中には普段通りのカジュアルな格好もちらほらいるし、奇抜な格好をした目立ちたがり屋もいる。

その全てが許されている。

男子校ではあるが、女性の格好をした生徒も数名いた。

後で長男に聞いたところ、一人はネタだが、他はトランスジェンダーらしい。

彼ら(彼女ら?)の勇気には敬服するし、トランスジェンダー問題に限らず、素の自分を臆することなさらけだせる環境校風を作り上げてきた学校と生徒たちを賞賛したい。

この学校では自由がとても重視されている。

生徒たちも何かというと「自由」を声高に叫ぶ。その一方で責任についてもしっかりと言及するあたり、なかなかしっかりしているな、と思わされる。

ただ自分卒業した関東公立高校もそれほど変わらない程度には自由だったし、この学校果たしてそこまで特別なのかどうかは分からない。

自由であらねばならないという不自由さ」に囚われているような気がしなくもない。

ともあれ、校則はないし、制服も(実質的に)ないし、髪を染めたり休み時間に校外のコンビニに行ったりしても怒られない(らしい)。

そうするとたまには自由暴走してやらかす生徒も出てくる。

最近ネット高校生のやらかしSNS拡散され退学処分になるニュースを聞くが、たぶんこの学校では同じことをやっても退学になることはない。

退学させてしまったら、更正のための指導教育ができなくなってしまうではないか

高校勉強を教え、その出来を評価するだけの場であればそれでよいのかもしれないが、この学校は「人間を育てる」ことをとても重視してくれていた。

先生方はとても熱心で、生徒たちの将来を非常によく考えてくれている。

PTA役員を2年間務め、校長を含む先生方とも様々な機会で交流させてもらったからこそ、自分もそれを実感できる。

卒業アルバムを開くと「この学校に6年間通えてよかった!」という長男コメントが書いてあった。

今となっては長男がこの学校に通うことになって自分もよかったと思う。

長男の進学する大学について

卒業式から一週間後、受験した大学合格発表があり、第一志望の「東.*大学」に合格した。

ソフトウェアエンジニアにはおなじみの正規表現というやつでぼかしたが、面倒なので以下「東大」と略すことにする。

この東大というところは、多くの人にとって特別意味を持つ大学のようだ。

老衰で死にそうなばあさんや、鬱で生きる気力のなくなったじいさんでさえ、東大合格を伝えると笑顔を見せて喜んでくれた。

実際、長男はよく頑張った。鉄なんとかという塾の宿題にもしっかり取り組んでいた。

一方で自分気持ちは複雑だ。

長男が志望大学合格したことはもちろんうれしい。

しか自分田舎公立中高から塾にも通わず東京とある国立大学に進んだ身だ。

大学入学後、御三家校を含む都会の私立高校出身のやつらから聞く高校生活には、自分のそれとは全く違う華やかさがあった。

全国から集まった同級生の中には、自分には理解できないくらい裕福な暮らしをしている者もいた。

こちらは築数十年の4人部屋学生寮に月5000円で住んでいる。

寮生活は楽しかった。何なら人生で一番楽しい時期だったかもしれない。

しかしそれはそれとして、都会育ちのエリート金持ちにはある種の妬みや反感を持っていたのは否定できない事実だ。

それから30年。

よりにもよって自分の息子が、当時の自分が妬んでいた側の人間になってしまった。

合格した夜、そんな複雑な気持ちを抱えながら、こんなことを伝えた。

「お前はよく頑張った。それは誇っていい。でも周囲の環境に非常に恵まれたことは忘れるなよ。お前と同じくらい素質があったがお前ほどには環境に恵まれなかった人は全国にたくさんいる。決して自分が人よりも偉いだなんて思うなよ。」

もう自分父親として彼に教えられることはそう多くは残っていない。

次男について

長男とは4つ離れた次男私立中高一貫校に通っている。

自分次男にも中学受験を勧めはしなかったが、長男がそういうルートをたどった以上、そうなるのは必然だった。

小3の冬のある日、次男が「塾に通いたい」と言い始めた。

反対する気はないものの一応「何でだい?」と尋ねてみる。

「僕、もっと勉強ができるようになりたいんだよ!」

ウソである。本当は学校の仲の良い友だちが通い始めるからである

しかしこんなことを言われて、長男も通わせておいて、ダメと言えるはずもない。

次男別に勉強ができなくはないし学校の成績も良いのだが、中学受験という競技においては長男ほどの才能はなかった。

そして今は第4志望くらいだった学校に楽しそうに通っている。

偏差値の高低は重要ではない。次男にとってはその学校が合っていたのだと自分は満足していた。

・・・のだが、半年前に予想だにしないことが起きた。

アメリカ高校に進学したい」

ちょっと面食らったが、もともと大学海外に行くことを勧めたい気持ちはあったので、それがちょっと早まるくらいだと思い了承することにした。

だが高校留学のことを調べ始めて顔が青ざめた。

日本人が通えるアメリカ高校は、基本的には全寮制のいわゆるボーディングスクールというやつになるらしい。

そしてこいつの学費想像以上に高い。ましてや円安だ。

無理ではないが、老後の計画根底からくつがえるレベル

でも本人がやる気になっている今になって、やっぱりダメとは言えない。

ここはもう腹をくくることにした。

そして留学エージェントの力も借りて、先日めでたく合格をもらうことができた。

半年後にはもうアメリカだ。

突然子育ての終わりがやってくることになってしまった。

ところでアメリカ高校は4年間あって、1年生から入るには日本中学3年の秋からアメリカに渡る必要がある。

まりいま通っている私立中学中退してアメリカ高校入学する。

なので、もしホームシックをこじらせて志半ばで日本帰国するようなことになると、日本における最終学歴は「小卒」になってしまう。

まあ本人はネタとして面白い、とあっけらかんとしているので、それほど心配はしていない。

自分について

1ヶ月前に勤めていた会社を辞めた。

ここに書くほどの理由はないが、とにかく今は無職だ。

ただ何もしないととことん堕落しそうなので、シニアタレントオーディションというのを受けてみることにした。

最近団塊ジュニア向けの商品サービス広告モデルや、テレビ再現VTRなどで、40代以上のシニアタレント需要がそこそこあるらしい。

そしてめでたく合格した。

4月から3ヶ月ほど演技のレッスンに通うと、タレント仕事を紹介してもらえるようになるらしい。

まあ入所料やレッスン料を支払わないといけないので、最初習い事みたいなものだ。

そういうビジネスだと思えば、たぶんお金さえ払えれば誰でも合格できるのだろう。

タレントになるのが早いかITエンジニアとして再び働き始めるのが早いか、将来のことは自分にも分からない。

この家族旅行について

妻も職場資格試験合格したらしいので、一家全員合格祝いの家族旅行になった。

それにしても海外に来ると、円安と長く続いた日本デフレを痛感する。

タレントとして成功しない限り、次回はちゅうちょしてしまレベル

いや、これまで散々投資してきた息子たちから配当に期待か。

以上、深夜のワイキキビーチより。

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