はてなキーワード: 1943年とは
ええっと、これが正解!というのはブコメにもトラバにも私の見た限りではありませんでした。近いものはありましたが、これ、知ろうとすると先ずアウシュヴィッツ・ビルケナウのマッフル炉がどんなものだったかを知る必要があります。ええっと、簡単にググった範囲では、このページにある上から3つ目の写真ですね。
わかりますかね、一つのマッフルの口の幅は大体60〜70cmだったかと思います。わかりにくかったら類似画像検索か何かでもっと見やすい写真もあったかとは思いますが、この一つのマッフルが三連になっていて実質的には3つで一つの炉を形成しています。これをトリプルマッフル炉と呼びます。
アウシュヴィッツの大量虐殺の現場はアウシュヴィッツⅡとも呼ばれるビルケナウキャンプの方です。アウシュヴィッツメインキャンプから3キロほど離れた場所にあります。上で示したリンクの写真はすべてビルケナウのものです。
このビルケナウにトリプルマッフル炉を5基備えたクレマトリウムⅡとⅢの2つがあり、そこから少し北に行ったところに……えっと、炉の形式をちょっと忘れましたのでとにかく8マッフルの火葬炉をもつクレマトリウムⅣとⅤの2つがありました。故に、計46マッフルあったわけです。
さて、計算上は1日仮に3,000体ならば、一時間あたり約3体/マッフルとしなければダメであり、一体20分なわけですが、実際はどうやったかと申しますと、実は複数遺体を同時に焼却処分していました。これとほぼ同じ答えはありましたが、でも少し考えてもらいたいのです。
一体を一時間で焼却できるというのは、焼却エネルギーをそれだけ与えるからです。1体につきnカロリーならば、3体なら3nカロリーです。つまりカロリー計算ならば、同時に焼いたところで、炉が与えるエネルギーは同じなのだから、3倍の時間がかかるはずです。
あれ? と思いませんか?
そこで、もっとコークスを入れればいいのだ、という話になってきますよね? 一体あたりのコークス料はこれは流石にデータがまったくないのでわかりません。しかし、幅6,70センチしかないマッフルに三体も入れて、更にコークスを三倍にするなんて、非現実的だと思いませんか?
実は当初、親衛隊自身がそう思っていたフシがあるのですが、これにはカラクリがあります。上で述べたように、実はマッフル一つが1炉ではないのです。トリプルマッフル炉なのです。つまり、炉としては1炉1マッフルよりも三倍も大きいので、熱量/高温をそれだけ維持できるのです(要するに外部へ廃棄されたりして無駄になる熱量が少ない)。しかし、まだ問題は解決してはいません。何れにせよ、遺体量分のコークスが必要なのはそれほどは変わらないからです。
で、一体どうやってこの問題を解決したかというと、それは「遺体自身を燃料にする」だったのです。流石にそれは誰も思いつかなかったのではありませんか?
嘘だろ? と思う人がいたら、そう証言した人がいると答えておきましょう。ヘンリク・タウバーというこの遺体処理作業に当たった、ユダヤ人収容者の作業員、いわゆるゾンダーコマンドがいます。タウバーは酷く否定派に嫌われています。当たり前です、このタウバーの証言を認めたら、否定論は一瞬で破綻してしまうからです。戦後裁判などで当然証言台に立ってます。
で、このタウバーは遺体がよく燃えるので、燃料の追加はほとんど必要なかった、と答えているのです。このタウバー、驚くなかれ一度に9体くらいも遺体を入れたことがあるとまで証言しています。そんな馬鹿な?と思うでしょ?
想像ですけど、おそらく、タウバーのこの証言は、遺体をどんどん連続投入していたがために、実際には同時に9体入れたのではなく、次々に入れていった場合の先に入れた遺体は燃焼して体積が減っていき、それで9体などと言ったのだと思います。あるいは普通に、トリプルマッフル一基を1炉と考えて、3つのマッフルに対しての9体なのかもしれません(それなら理解しやすい)。
何れにしても、遺体自体を燃料にするって少々信じ難いと思いませんか? 人間の体って普通は7割は水です。アウシュヴィッツについてすぐ殺された人が大半ですから、痩せてすらいないわけです。しかも、このついたばかりのユダヤ人の方がよく燃えたというのです。流石にそれは嘘だと、言いたくなってきませんか?
でも、遺体を燃料にしたというのは証言しかないのですが、15分程度で焼いたという当時の文書記録はいくらでもあるのです。
えー、それっぽく引用文献が載ってますが、これはあるページからコピペと少し修正しただけですので、ご勘弁。ともかく文書資料はそれなりに残っていて、多分まだまだあると思いますが、実際に算術的火葬率1体あたり15分程度をやってたということに疑いの余地はありません。
というわけで、こういう具合に細かく突っ込んでくるのがホロ否認論です。そんなの出来るわけない! というのを反論するのが結構大変だということがご理解いただけるのではないでしょうか?
で、どうして引用文献を示したかというと、「Mattogno」という人物の名前が出てきます。この人、超有名なホロ否認論者です。ホロ否認論者が普通に、ホロコーストを肯定するような資料を自著に載せるのです。ホロ否認論者に、粗雑なリビジョニストがやるような「やばい資料を隠す」ような人はいないと言っていいでしょう。
こんなところで質問してもほぼ意味はないような気がするんだけど、他でも誰も答えてくれず困っている。協力があればなと。
これはパズルなのです。
ホロコースト否認者たちは、ガス室だけは絶対に認めません。ガス室を認めると大量虐殺を肯定してしまうからです。ですから、一番目立つアウシュヴィッツを狙ってきます。問題は、アウシュビッツには正確にいうと、ソ連が近づいてきたのでナチス親衛隊は撤退するのですが、証拠隠滅のために、ガス室だったところをダイナマイトで破壊してしまいます。
ナチス親衛隊は、全国指導者のハインリヒ・ヒムラーや1942年に暗殺されてしまったヒムラーの側近中の側近ラインハルト・ハイドリヒSD長官の指導により、徹底的にユダヤ人殺害を隠蔽したので、文書資料にすらほとんど「ガス室」や「処刑」などの用語もなく、ユダヤ人虐殺を「再定住」、処刑を「特別処理」などと言い換えたりしていましたので、これが戦後ずっと続くホロコースト否認者の格好の餌のようなものになってしまい、奴らは平然と「証拠はない!」とほざくわけです。確かに、ガス殺死体はアウシュビッツには一体もありませんでした。なぜなら焼却して骨は砕いて川に捨ててしまったからです。
実は結構あるのです。文書資料として残ってしまう図面にこそ「ガス室」とは書きませんでしたが、報告文書にうっかり書いてしまった記録などはあるのです。それ以外にも沢山あります。当然ですけど、証言記録は滅茶苦茶あります。アウシュビッツ司令官ですら戦後裁判で証言し、死刑になって処刑されるまでに詳しい殺害方法を書いた自伝まで残しています。
ところが、当然といえば当然ですが、否認者たちは証拠資料は解釈で捻じ曲げて歪曲しまくり、証拠ではないと言い張り、流石に否定できない文書資料などがあると捏造だと一切認めず、当たり前のごとくに膨大な証言は適当に難癖的にあそこがおかしいここがおかしいと文句をつけて全否定するのです。証言者が言ってることが多少誇張が入っていたり変だったりすることはよくある話なのに、一切認めません。ガス室の周りの地面に当時のユダヤ人作業員はメモを証拠として埋めたのが戦後発見されていますが、戦後の捏造だと言って絶対に認めようとしません。頭おかしいと思うレベルですが、これマジなのです。
しかし、いくら否認論者でも、当時の文書記録として、加害者側の親衛隊の人物が業務内容として残した資料の中に、ユダヤ人のガス殺の様子を記録した文書があれば、流石に否定しようがないはずです。実はあったのです。
1970年代後半に、グリクシュ報告というのが見つかります。グリクシュ少佐というのは親衛隊人事本庁の職員で、1943年5月にアウシュビッツの視察に訪れ、司令官ヘス同行の上、ガス室を見回って報告書を書いたのです。言葉は選びながらも、どう読んでもユダヤ人をガス殺する手順としか読めない内容がきっちり書いてあるのです。流石にこれは否定できないだろうということになったのでしょうか、10年以上、否認論者はこれを「まぁ偽造だろう」とほったらかしました。何故ならば、その報告書は原本ではなく、戦後に裁判資料を整理していた米軍将校がタイプライターで打ち直したものだったからです。おそらく原本保管のためでしょう。だから、原本じゃないので証拠にならず、米軍により偽造されたものだと言い張ったのです。
で、1991年に、アメリカ人のリビジョニストのある人が、このタイプコピー版を徹底的に内容批判して、偽造だと断定します(実際には根拠は薄弱であり、捏造それ自体の事実は一切証明しておらず、断定は無理です)。それがこちらです→フランケ・グリクシュ「再定住報告」:偽造の分析(レンク)
で、一旦これで否認論者もほくそ笑んだでしょう。原本などないんだから嘘に決まってる、と。ところが・・・
2019年、つまり去年です。ある反否認論者がふと、「もしかしたら?」と思ってドイツ連邦公文書館を検索したのです。すると、その原本(報告書製作時に同時にタイプされたカーボンコピーだった一枚)があったのです。ニュルンベルク裁判等戦後裁判関係資料は膨大な量があり、昔は探すのが大変だったのですが、インターネットと文書のデジタル化が進んで、いつの間にか外部から検索をかければ見つかる状態になっていたのです。まさか探せるとは誰も気づいていなかったわけです。
発見者は、様々な検証を行い(と言ってもデジタル化された写真なので物理的には調べられない)、当時の他の文書とのタイプフォントの照合まで行い、フォントの一部に欠けがあった文字を数文字発見し、他の文書とそれが一致することから、おそらくは原本で間違いないだろうと。他にも色々特徴を調べていますが、疑問点は今の所ありません。
それがこちらです→Holocaust Controversies: Nazi Document on Mass Extermination of Jews in Auschwitz-Birkenau: The Franke-Gricksch Report
詳しく詳細な解説もされていますが、ともかく間違いないだろうと。内容も、否認論者は批判していましたが、それらおかしいと思われる箇所も十分問題なく解釈できる範囲です。何れにせよ、原本です。
否認論者としては、絶対に認められない資料証拠ですからこれを「捏造」と言わなければならないはずです。しかし、「捏造」と仮定した途端に辻褄があわなくなるのです。捏造でなければすんなり理解できます。普通に原本はあった、そしてドイツ連邦公文書館で整理保管・デジタル化されていた、それだけです。
しかし、「捏造」だとおかしなことになります。先ず時期が問題です。
戦後のその米軍将校がタイピングした時点で原本も捏造されていたと仮定すると、ではどうして裁判に提出されなかったのでしょう? タイプ版も結局は裁判に出ていません。それは別に良いのです、証言証拠は沢山あり、グリクシュ報告は特に必要ありません。しかし、捏造だとすると、他の文書とタイプフォントが合っているということから、それらの他のタイプのフォント形式を間違いなく再現するためには、例えば同じタイプライターを探し出してこなければなりません。そんなめんどくさいことするでしょうか? しかもです、そうやって非常に面倒な精巧な偽造をするのであれば、何故タイプコピー版が存在するのでしょうか? カーボンコピー用紙を使えば、カーボンコピー三枚分用意できます。その一枚を裁判で使えるように回せばいいだけです。「捏造」と仮定すると極めて不自然なのです。かなり精巧なのに(調べてもわからないくらい)、裁判に使われていない事自体が不自然です。なおかつ、そんな手間隙かけた捏造が証明された文書資料などただの一つとして存在しません(そもそも戦後裁判資料で捏造が疑われたヴァンゼー会議議事録ですらも、リビジョニストが捏造だと言い張っていただけです)。
あと、この原本は1980年代にイギリスの著名な歴史家デヴィッド・アーヴィングが連邦公文書館で見たことがあると言っており(アーヴィングは異常なほどの資料収集家です)、2005年くらいのこの資料を議論する会でそのインデックスを述べていて、そのインデックスナンバーが原本発見時にほぼ合っていたのです。とすると、1980年代に原本は存在したことになります。では、タイプコピー版が1976年に発見されて以降、アーヴィングが連邦公文書館で見るまでの間に、何者かがグリクシュ報告の原本を捏造し、連邦公文書館に潜ませた、なんてことはあり得るのでしょうか?
今の時代ならばPhotoshopもありデジタル化された資料など簡単に捏造できるのかもしれませんが、1980年頃にそれが出来たとは到底考えられません。ネットすらないので、ハッキングでファイルを混入させることも出来ません(1980年代頃にデジタル化があったとも思えない)。いろいろ考えても、1980年代頃の捏造というのはあまりにも荒唐無稽です。タイプ文字の形を合わせるために、その他の文書すらも探し出してくる必要すらあります。すると、どうやったって当時ならば、連邦公文書館に物理的に侵入しなければなりません。あまりにもハイレベル過ぎます。
はっきり言って、グリクシュ報告の価値は「否認論者が困る」だけのものであり、偽造された「ヒトラーの日記」のように1円の価値があるわけでもなく、書かれた内容についてはなんら未発見内容はないので、通常の歴史家も特に反応を示すわけではない資料です。普通の歴史家はホロコーストやガス室があったことなど一ミリだって疑いやしません。
というわけで、グリクシュ報告原本を「捏造」と仮定することは、どう考えても辻褄が合いません。というわけで、非常にグリクシュ報告原本発見は否認論者にとって困ったものであるはずなのですが・・・
ネット上の一般否認論者は、どうも意味が全くわかっていないようなのです。「そんなもん捏造だろ」と頭から決めつけてかかっているだけで、捏造と仮定するとおかしなことになるとまで考えが及ばないようなのです。ていうか、そもそも「証拠は絶対にない」とすら思い込んでいるようです。信じ切っていると言っていい。ですから、こちらがいくら言っても、否認論者は「捏造とすると辻褄が合わなくなる」ことまで考えは全く及びません。
聞きたいのは、私が変なのでしょうか? 私自身は「ホロコースト否認信者はアホばっかり」と思うようにはしてはいるのですが、だーれも理解しません。一体どうなっているのでしょうか?
id:anmin7相手の人がどうなったら増田は満足なの? 賢さを讃えてほしいの? ただ考えを改めたらいいの? 土下座して許しを乞うならいいの? 愚かさを恥じて以後増田の奴隷になるべきなの?
違う違うそうじゃないのです。私一人で考えているだけなので、単に自信がないだけなのです。日本人でホロコースト否認論に反論しようなんて物好きな人はなかなかいません。これで合ってるかどうか、感想でもいいから聞きたいのです。日本人否認論の集まるところへ行くとほとんど孤軍奮闘になってしまうのです。私以外の反否認論側の人がいてもただ、「ホロコーストを否認するなんておかしい」みたいにいう人がいる程度です。ほとんどの人は知識がないのです。
id:rmntc55211精巧に捏造したけど使わなかった、その後、捏造したそれが何かの手違いで文書保管されてしまったなんてありそうだけどね。何もかもが自然にはできていない
そんなこと言い始めたら、あらゆる文書資料は全て捏造になりますよ。本当にそう言ったホロ否認者はいましたが、あまりに非現実的です。グリクシュ報告の一致性は、タイプライターのフォントの欠損が4文字も当時の同時期の文書と一致する、という時点で、捏造なら度を超えて精巧すぎます。むしろ、この欠損フォントで捏造が発覚すべきです。それを捏造でやろうとすると、当時ならば虫眼鏡必須です。今の時代なら、パソコンで画像拡大すれば簡単かもですが(というか、単に画像から同じフォントを使えばいい)、当時はそういうわけにはいきません。また仮に同一のタイプライターを探し当ててきたとしても、戦後ですから、同時期の文書とは2年も差があります。すると、その2年間にタイプライターの他のフォントまで劣化している可能性があります。あるいはその比較された他の文書資料も含めて偽造した、……などと言い出したら結局、ナチスから押収された文書は全て偽造とまで言いええしまい、暴論としか言えなくなるでしょう。何れにせよ、捏造が証明された文書など一枚たりとて存在しませんので、妄想という他はないでしょう。
レオ・カナーが自閉症を報告したのは1943年。それから67年が経過した。そう考えてみると生涯を通じて研究された自閉症者というのはまだ1~2世代くらいしかいないのではないか。
そういや意外に誤解されているんだけれど、「自閉症は母原病」というのは「偏見」の類ではなく、自閉症が発見された当初は精神科医もそう考えていたという「時代遅れの学説」なんですね。
上野千鶴子が「自閉症はマザコンが原因」と言って問題になったという話がある。上野千鶴子の世代なら自閉症は母子関係に起因する精神障害であると習っていてもおかしくない。
時期的に言うと、上野千鶴子は、日本で「自閉症は先天性のもの」ということを普及させるキャンペーンが行われた際に著名人として生贄にさせられたと言える。
ちなみにローナ・ウィングがアスペルガー症候群を紹介したのは1981年。僕が生まれる2年前のことである。酒鬼薔薇聖斗が生まれたのは1982年。そう考えてみると僕は生涯に亘ってアスペとして研究されうる第一の世代に属するのではないか。(ただし僕自身は診断がないので研究対象とはなっていない)
ハーバービジネスオンライン > 社会 > 「星の王子さまとバオバブ」騒動が象徴する「モラルの劣化」
主張に賛成するかしないかは別にいいんだけど、嫌な記事だなというのが正直なところです。
最初は「星の王子さまとバオバブ」の問題に書いているし、タイトルもそれなので、記事の趣旨はこれだと思って読んでいくと。日本におけるファシズムという、星の王子さまに関係のない話が始まります。
昨今の日本は、耳を澄ませばファシズムの足音が聴こえてきます。森友学園や加計学園の問題に代表されるように、総理大臣のやりたい放題が目立つ時代になってきています。官僚の人事も自由に決められ、安倍総理を守るために嘘をついた人が露骨に出世する時代になっています。
ここから、話が続き、LGBT、憲法等のキーワードが登場します。
私は星の王子さまを知らないけど、1943年にアメリカで出版された小説に現代日本の社会のことが登場するわけはないし、騒動と無関係に単体でオリジナルの中身を論じる必要もないので、関係のない話が記事で書かれているという事ですよね。
このように、あるキーワードを使い、関係のない話をさも関係がありそうに混ぜるという【宣伝】をする人は昔からまれに見かけました。
有名なところでは、朝日新聞の2006年の記事にあった、「そういえば、自らの国家や民族に固執する右翼系の若者が世界的に増えているという事実も、多少気になるところだが」 が挙げられます。
関係のない話を混ぜることで、Aの話題に興味のある人に別のBという話題を読ませることが出来ます。
Aの話題を投稿するトピックに対してBという話題を一緒に無理矢理投稿できます。無理矢理なので注意を受けることは多いでしょうが。
星の王子さま問題や日本の情勢についてどのように評価するかは自由ですが、別の話なら記事を分けるべきではないでしょうか。
勿論、他のことに触れたから宣伝だというわけではありません。そんな事を言い出したら、例えも出来ませんし、関連のある事を紹介もできません、読みやすい記事が逆に書きにくくなります。関連度や量や触れ方等総合で見る必要があります。
今回の例でいえば、現代の日本について扱った記事の中で、星の王子さまに触れ、バオバブの木の芽がファシズムの象徴である事、星の王子さまが芽を抜いている事に触れ(導入部分なので、もちろんさらっと簡単に。星の王子さまの面白さを説きたければまた別の記事で行う)、そこから、日本のファシズムの芽抜きに話を展開していけば自然に書けると思います。
もう一つの案は、最近筆者の気になることを幾つか挙げるという主旨で一つの記事を書く事です。
3 何々
このように、記事内で見出しを付けて分ける案はどうでしょうか。
少なくとも、今のような書き方は見苦しいと感じます。
アメリカは日本へ2発の原子力爆弾を投下して、日本は無条件降伏した。
無条件降伏だったので、日本はアメリカの植民地、奴隷にされた。
江戸幕府は鎖国政策を行っていたが、欧米はその間にも技術を発達させ、軍事力も増大させていた。
江戸幕府は当初「公武合体」によって、新しい日本の体制作りを目指した。
公武合体(こうぶがったい)は、幕末(1850年代から1860年代)の日本において、朝廷(公)の伝統的権威と、幕府及び諸藩(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした政策論、政治運動をいう。
しかし、公武合体は失敗に終わり、薩長のテロリストたちがクーデターを起こした。
イギリスに支援された薩長同盟 VS フランスに支援された江戸幕府
英仏の代理戦争が日本国内で展開されて、イギリスのフリーメーソンが勝利した。
明治維新以降、日本は日露戦争に勝利する等、外国と戦争して勝つことができた。
調子に乗ってアメリカにも戦争をしかけたら(真珠湾奇襲攻撃)、逆にボコボコにやられてしまった。(原爆投下で第二次世界大戦敗北)
天皇が「勝つ見込みはありますか?」と尋ねたら、軍部は「短期決戦で勝ってみせます」と応えた。それならOKと戦争を開始した。
軍部は「アメリカから買っていた石油がなくなったので、これ以上戦争を継続できない」と判断した。(そりゃ戦争やってる相手に石油を売る馬鹿はおらんわなw)
松谷誠のように、早期講和を検討した者もいたが、軍部に握りつぶされた。
日本が2年程度で戦争を止めていれば、満州を失うだけで済み、日本の本土まで取られることはなかった。
結果的に、天皇と軍部は判断を誤り、早期の損切りができなかった。
松谷 誠(まつたに せい、1903年(明治36年)1月13日 - 1998年(平成10年)10月7日[1])は、大日本帝国陸軍の軍人、陸上自衛官。
天皇の悲劇は、周りにイエスマンしかおらず、適切な判断材料となる反対意見を言う者がいなかったこと。
(天皇一人が悪いのではなく、取り巻きの連中が使えなかった。)
もしも、松谷誠らが天皇に直接提案する機会があれば、完全敗北を避けることもできただろう。
歴史を振り返ると、ワンマンのリーダーが判断ミスすることによって、国が滅ぶ例が多々ある。
日本の近代史を振り返ると、日本の岐路は、「公武合体」にあった。
もしも日本が、天皇と将軍のツートップ体制だったら、どちらか一方が判断ミスをしても、リカバリーできる可能性があった。
しかし、ワンマン体制だと、一人のリーダーが判断ミスすることによって、ドミノ式に全体がミスに巻き込まれる。
公武合体が成功していたら、日本は今とは違う歴史を歩んでいただろう。
負け惜しみで、明治維新を賞賛する向きもあるが、敗戦の結果を見れば、明治維新の天皇制は失敗だったことに気付く。
残念だ。
鎌倉時代の僧侶・一向俊聖(暦仁2年(1239年)? - 弘安10年(1287年)?、以下「一向」と表記)を祖とする宗派。
一向は筑後国草野家の出身で、はじめは浄土宗鎮西派(西山派という異説もある)の僧侶であった。後に各地を遊行回国し、踊り念仏、天道念佛を修し、道場を設けた。近江国番場蓮華寺にて立ち往生して最期を迎えたという。
以後、同寺を本山として東北、関東、尾張、近江に一向の法流と伝える寺院が分布し、教団を形成するようになった。鎌倉時代末期に書かれた『野守鏡』にはこの教団を一向宗と呼んで、後世の浄土真宗とは全く無関係の宗派として存在している事が記録されている。
一向と一遍房智真は同時期の人物であり、ともに遊行や踊り念仏を行儀とする念仏勧進聖であることから、一向の「一向宗」は一遍の「時衆」と混同されるようになっていく。『天狗草子』に記された「一向宗」は、一遍の衆を指したものである(一向俊聖の項を参考)。たしかに一向も一遍と同様に浄土宗の影響を受けて自己の教義を確立させたものであるが、全く別箇に教団を開いたものである。また、一遍と違い一向の教えは踊り念仏を行うとはいえ、念仏そのものに特別な宗教的意義を見出す事は少なかったとされている。ところが時代が降るにつれ、一向の教えが同じ踊り念仏の一遍の教えと混同され、更に親鸞の興した浄土真宗とも混ざり合うという現象が見られるようになる。特に一向の教義が早い段階で流入していた北陸地方ではその傾向が顕著であった。
浄土真宗本願寺八世の蓮如が北陸地方に活動の場を求めた時に、布教の対象としたのはこうした一向や一遍の影響を受けて同じ浄土教の土壌を有した僧侶や信者であり、蓮如はこれを「一向衆」(「一向宗」ではない)と呼んだ。蓮如布教時に、一向宗や時宗が支配層との結びつきを強め、民衆から離れ、一向宗の民衆が蓮如教団になびいた結果、一向宗と呼ばれるにふさわしかったともいわれる[1]。本願寺及び蓮如の北陸における成功の背景にはこうした近似した宗教的価値観を持った「一向衆」の存在が大きいわけであるが、同時に蓮如はこれによって親鸞の教えが歪められてしまう事を恐れた。さらに別の事由から他宗派より「一向宗」と呼称されていたこと(後述)も彼の憂慮を深めた。文明5年(1473年)に蓮如によって書かれた『帖外御文』において「夫一向宗と云、時衆方之名なり、一遍・一向是也。其源とは江州ばんばの道場是則一向宗なり」とし、一向宗が一向の教団でもあることを明記して本願寺の門徒で一向宗の名前を使ったものは破門するとまで書かれているものの、ここでも一遍と一向の宗派が混同されている。
江戸時代に入ると、江戸幕府は本末制度の徹底を図り、系譜を異にするさまざまな念仏勧進聖が、清浄光寺を総本山とする単一宗派「時宗」の管轄下に編成された。この際、一向の流派は独立した宗派とは認められず、「一向宗」の呼称を用いる事も禁じられた。『時宗要略譜』によると、時宗十二派のうち、一向派と天童派が一向の法脈を受け継ぐものとされている。一向派(かつての一向の一向宗)は再三にわたり時宗からの独立を求めたが実らなかった。
明治時代になって、中期に一向派から独立転宗を唱える者が出現し、一向派は浄土宗宗務院に「所轄帰入願」を、時宗教務院に「時宗一向派独立認可願」を提出した。しかし一向派の独立・転宗を認めてしまうと、明治以降衰退著しく、時宗寺院が少ない上に、さらに減少することになるので、時宗当局は、これを認めようとしなかった[2]
大半の寺院が時宗を離れ、一向の母体であった浄土宗に帰属するようになったのは、昭和時代に入った1943年の事であった。
浄土真宗、ことに本願寺教団を指す呼称。教団自身はこの名を自称しなかったので注意が必要である。
「一向」とは「ひたすら」「一筋」という意味であり、「一つに専念すること」を意味している。『仏説無量寿経』に「一向専念無量寿仏」と記されていることから、とくに阿弥陀仏の名号を称えることと解釈され、親鸞を宗祖とする教団(本項では「真宗教団」とする)を他の宗派から指す呼称となった。とくに浄土宗は、親鸞の教団が「浄土真宗」と自称することを嫌い、「一向宗」の称を用いた。
したがって「一向宗」は真宗教団の門徒から見て正しい呼称ではなく、また一向俊聖の「一向宗」と混同される事から望ましい呼び方でもなかった。だが、中世において同じ念仏を唱える浄土教系宗派であった両派が混同され、更に時衆などとも漠然と同一のものとして捉えられるようになっていった。蓮如は前述のように「他宗派の者が(勘違いして)一向宗と呼ぶのは仕方ないが、我々浄土真宗の門徒が一向宗を自称してはいけない」という主旨の発言をして違反者を破門するとまで述べているが、逆に言えばこれは、真宗教団の門徒ですら「一向宗」を自称する者がいた事を意味する。
こうした指導により教団内部では「一向宗」の語は正式に使われることはなくなり、「浄土真宗」または「真宗」と称するようになった。しかし、門徒たちを中心とする一揆が「一向一揆」と呼ばれるなど、真宗教団のことを教団外から「一向宗」と呼ぶ風潮は収まる事はなかった。
江戸幕府は、真宗教団を指す名称として「一向宗」を公式に用い続けた。この経緯としては、徳川家康が三河一向一揆により家中統制で苦しめられたこと、徳川将軍家が(真宗教団が「浄土真宗」を称することを望まない)浄土宗を信仰していることが挙げられる。これに対して、真宗教団側は本願寺の分裂などの影響があり、長らく具体的な対応が取られることがなかった。
労研饅頭(ろうけんまんとう)は、愛媛県松山市内にある「労研饅頭たけうち」が製造販売している小麦粉を主原料とした蒸し菓子の
一種。和菓子の饅頭(まんじゅう)ではなく、蒸しパンまたは中華料理の甜饅頭(ティエンマントウ、tián mántou)に似る。
直径10cm前後、重さ60g前後の、小ぶりで甘みのある蒸しパン状の菓子である。
小麦粉をこねた生地を酵母で発酵させ、蒸し上げたものである。形状は種類によって円盤状のものと、楕円形のものがある。
生地によもぎやココアなどを練り込んだものや、豆類や乳製品を入れたもの、中に小豆餡を入れたものもあり、種類も豊富である。
太平洋戦争前から続く製法で作られており、素朴な味わいで、地元の一部の人に根強い人気がある。
昭和初期、松山市は深刻な不況に襲われ、夜学生が学資を確保することが困難であった。それを見かねた私立松山夜学校
(現在の私立松山城南高等学校)奨学会は、夜学生の学資を供給する事業がないか模索していた。
その頃、岡山県倉敷市にあった労働科学研究所が満州(現在の中国東北部)の労働者の主食であった「饅頭」(マントウ)を
日本人向けに甘くアレンジし、これを岡山県や京阪神の業者が販売していることを聞きつけた。
小麦粉で作る饅頭は安価に製造できるため、これを松山で製造販売し、学資を確保するとともに夜学生の主食にもしてもらうことを
こうして1931年に松山で「労研饅頭」の名で販売が開始された。「労研」とは労働科学研究所の略。また、饅頭を「まんとう」と
読むのは中国東北部の主食「マントウ」が起源だからである。なお、当時は4個で5銭、松山市内の学校や軍内で販売され、夜学生の
学資確保に貢献したという。
なお、労研はこれを、当時の女工の厳しい労働環境を配慮し、手を汚さず、素早くエネルギーを補給できる食品として開発した。
労研は、当時、クラボウの社長であった大原孫三郎が、労働者の環境改善のために設立した研究機関だった。
その後、労研饅頭は個人営業の竹内商店(現在の販売店「たけうち」の前身)が製造販売するようになったが、戦火の拡大により、
1943年には小麦粉も入手難となり、販売休止に追い込まれた。しかし、受け継いだ酵母は守り通され、1945年の終戦後には早くも
販売が再開されている。一方、岡山や京阪神では戦火によって労研饅頭の酵母が途絶えてしまい、京阪神では労研饅頭そのものが
復活することなく、消えてしまった。こうして、戦後唯一残った「たけうち」が1952年に「労研饅頭」の登録商標を取得した。
高度成長期には洋菓子などに押されたが、保存料などを使わない自然食であることが見直され、松山の名物菓子として定着している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%B4%E7%A0%94%E9%A5%85%E9%A0%AD
階、枝野、山尾、逢坂と、民進党はエース級をそろえて、完全に共謀罪にロックオンしてますね。がんばってくださいね。
階議員は今日かなりエキサイトしていましたが、支持しますよ。今日も鈴木淳司法務委員長は、職権で法務委員会を開催して、かつ林刑事局長を答弁者に登録することを採決したみたいですが、昨日も書きましたが、委員会が政府参考人を登録することそのものはおそらく、否定できないと思いますよ。でも、前例はほとんどないはずと思ってたけど、一回もなかったみたいだけど。枝野さんが、「民主党政権時代にも、答弁が不安定な大臣というのはいたが、こんなことはしなかった。今までの大臣の中で、金田さんが一番能力がないといわれてるようなもんなんだから、怒るか逃げ出すかするしかないはずだ」といっていましたけどね。まぁ恥の問題ですよ。でも鈴木委員長が、基本的な事項について、質疑者が指名できるはずの答弁者をここまで露骨に林局長を指名しているのは階議員が指摘したように、衆議院規則違反だろ、というのはそのとおりですよ。露骨過ぎるんですよ。一太委員長とかも、結構助け舟を出すけど、たとえば、総理が指名されてても、「まず局長、その後総理行きますから」とかぐらいは言いますよ。鈴木委員長はかなりダメですよ。一応ほめておくと、今日の国交委員会の西銘恒三郎委員長は、同じ時間使うでも、質問の整理をして答弁を促したりしっかりと議事進行されてましたよ。だから基本的な事項について、委員長が局長指名してきたら、質疑を取りやめるよ、という対応は支持します。鈴木委員長は来週あたり不信任動議されるんじゃないですかね、このままだと。
山尾さんです。これはまぁ大事な話なんだけど、山尾さんの質疑を見て。とにかく総理大臣がニヤニヤしながら、「失礼だとおっしゃられましたが、これは事実でございますから」とか言いながら山尾さんをおちょくってた(しかもどうやら嘘か勘違いっぽい)ことの帳尻を林局長に取らされてるのはマジで意味不明。もちろん安倍さんの行動が意味不明。質問主意書だしていいよ。総理が調べた辞書はどれだったのかって。山尾さんにはいつもやり込められてるから仕返しのつもりだったんだろうけど、ちゃんとほんとに調べてなかったのならこんなくだらないことでも虚偽答弁だよ。どこまでもどこまでも国会をなめきってんだよ。
枝野さんと林さんのやり取りは、今日も面白かった。林局長もやり取りをする中で、公式見解をまとめてきていたので、枝野さんも一歩前進したと評価されていた。個人的な予想に過ぎないけど、枝野さんの方針はなんとなく読めてきた気がしました。林局長が、今日まとめてきた公式見解を出すことを予想した上で、実務的にどうやって、担保するのか、過去の例で、公式答弁がどうあろうが、条文上読めなかったら、裁判ではこう扱われてきたんだぞ、っていう路線に進めていくんだろうことを予感させる終わり方でした。枝野さんの質疑はこれだから面白いんだよ。いや共謀罪は面白がってる場合じゃないけど。
長いからまとめちゃうけど、こないだの、違法性の認識のところをはっきりつめてきて、犯罪の構成要件としての故意の認定と違法性の認識の差を明確にしてきました。組織的犯罪集団の構成員として認定されるには、結合の目的が、別表に掲げられた罪を犯すことは知っていないといけない。(それが罪であることは知らなくてもよい)
林局長
「違法性の意識は、故意との関係で論じられます。刑法第38条3項にございます。その際に違法性の意識がいるのかいらないのかが論じられている。そして今回の組織的犯罪集団の結合の基礎としての共同の目的が、別表第3に掲げる罪を実行することにある、といえるために構成員が当該行為を違法であることを認識していることを要するか否か、については、故意の問題とは別の問題でございます。構成要件に該当する客観的事実を認識して実行すれば、違法性の意識がなくても犯罪が成立する以上、犯罪の構成要件に該当する事実を認識した上でそれが結合関係の基礎としての共同の目的になっているのであれば、それは組織的犯罪集団に当たりうると考えます。ただ、もっとも、ある団体の結合関係の基礎となる共同の目的が犯罪を実行することにあるといえるか否か、これは故意の問題とは別の次元の論点でした、個別の事案での集団の結合の目的が何であるかという認定の問題となりますと、当該犯罪行為を反復的に実行しているが、当該行為が違法性の意識がなく、それを認識した後に、結合し続けることがない、といえるような場合には、集団の結合関係の基礎となる目的とは認定されないと考えられる場合もあることから、故意の認定の違法性の認識は必要ではないが、組織的犯罪集団の認定においては、かなり大きなファクターを占めるといえる」
「ようやく、何を言っているのかを整理していただきました。その限りの考え方は、ひとつの考え方だと、なおかつ一歩前進かもしれないと私も認めます。確かに違法性の意識は必要ない。別表3の行為が違法だということを知りながらみんなでやることは必要ない、ただし、違法だとみんなが知ったら、コレはもうやめるよね、というのならば、結合の基礎ではない。これは非常にわかります。つまり後で使う例ですけども、ある合唱団が、一枚だけ楽譜を買って、あとはみんなでコピーして使うんだと。コレは著作権法違反です。これは違法なんだと気づいてやれば当然結合の基礎に当たりうるというか、大変な問題だけど、違法だという指摘をされたなら、やめますと、いうことであるならば、結合の基礎ではない、こういうことですよね。」
略
枝野「摘発されて、摘発されたら、”あー違法だったんですか、気づきませんでした、でも違法だと知っていたらこんなことやらなかったよね”と。これ社会的にもあるいは裁判実務においても、これ許してもらえるんですかね。というのが私はこの論点ではないかと思う。普通の犯罪の成立には違法性の認識は必要ありません。(略)個人の著作権法違反の既遂罪は、違法だと知らなくても処罰されるんです。で、みんなで結合して、コピーして、合唱の練習しようという共謀をしたら、これは違法性を知らなければ、組織的犯罪集団ではないという。コレ、摘発されて、どうやって知らなかったと証明するんですか。供述をどうやって信じてもらえるんですか。これはこういう問題です。」
親告罪の共謀罪は何だという再度の問い合わせについて、捜査機関が、別途知りえた共謀を被害者に知らせて告訴を依頼することがありうるから、存在しうるという反論をする林局長。(国会クラスタが書き起こししてることに言及して、我々をざわつかせる枝野)これ口滑ってる認識はないんだろうけど、要は別件逮捕するために、使えるからだよね、
さらに、金田答弁で「正当な目的で集合なら処罰されない」とかいってたけど、アマチュア合唱団が、著作権法違反はまぁ大体認識してるけど、合唱自体は正当な目的でしょ、と。林さんは楽譜のコピーが結合の目的とはなかなか認定できないから、ふつうは認定されないとかいって、枝野さんがまた、じゃあテロリストが取る暴力的な手段と目的も乖離しているが、これらの例をどうやって区別するのか、条文上区別できないじゃないか、と「普通の人には関係ないとはまったくいえない」と押しまくる枝野。かっこいい。
組織的犯罪集団の認定において、既遂は重要な意味を持つでしょ、としたうえで、「普通の集団が、自分たちの主張が通らないから、一回だけ暴力行為をして、やってみようっていうのと、合唱団が、集まってみたけど、金がないから、著作権法違反だと知ってるけどコピーしてやろうというのは、いったい何が違うのか」という例を出して、既遂は確かに重要だし、「一変した」ということについての何らかの外形的なか行為が必要だという答弁をさせて、過去に同種の犯罪を何度も既遂しているなら、すでに既遂してるわけだから、共謀罪は必要ないし、一回もやっていないんだとすると、綿密に普通の団体を監視しないと取り締まれないだろ、どうやって普通の団体の監視に着手するんだと、役に立たないだろと詰める枝野。かっこいい。
枝野「(合唱団の楽譜コピー事例が、絶対に共謀罪に該当しないということがどこで担保されるのかと)法律というのは、刑事法というのは、(答弁で)いくら入りませんといったって意味ないんですよ、答弁が。
(略)戦前の治安維持法をね最後のほうではやってかなきゃなぁと思っているんですが、これ治安維持法というのは、(条文の上では)国体の変革を求めるものと私有財産制度を否認する、戦前の共産党、これが取締りの対象だったんですが、公明党さんちゃんと聞いてくださいね、わかってらっしゃると思うけど。治安維持法が、それにくっついた枝葉の要件はいろいろつきましたが、最後までその対象だったんですが、1943年7月6日、創価学会初代会長牧口さんと、創価学会の二代会長さん、戸田さんは、治安維持法違反と不敬罪で逮捕をされて、初代会長の牧口さんは、獄死をされている。この法律の目的、取締りの対象は国体の変革と私有財産の否定だったんですよ。創価学会は国体の変革を目指してたんですか、私有財産を否認していたんですか、違いますよね。法律上、絶対入らないという担保がとれないと、刑事法はいけないんです。そういう意味では今日の答弁は、前進した部分もあります。認めます。あ、ここは入らないということもありました。しかし、普通の団体が、これは入らないということが担保できる条文にはなっていないということを申し上げて今日の質問は終わります。」
ドイツ軍のソ連侵攻は「特別行動隊」(Einsatzgruppen :アインザッツ・グルッペン)によるすさまじい組織的殺戮作戦をともなっていた。侵攻から数週間を経ずしてナチスは他のヨーロッパ地域に住むユダヤ人の絶滅作戦の準備に着手した。1941年7月31日、ゲーリング( Herman Göhring 空軍相、元帥)はラインハルト・ハイドリヒ(Reinhard Heydrich SS上級部隊隊長、SS大佐)に次のような命令を伝えている。
「次を命ずる‐貴官は、ヨーロッパのドイツ支配圏におけるユダヤ人問題の『最終的解決』に関する組織、実務、そして財務上の必要なあらゆる準備にかかり、… さらに、ユダヤ人問題の『最終的解決』遂行にかかわる準備組織、実務、そして財務上執るべき手段の計画の全容を、本官に対し速やかに提出せよ」
この任務遂行の準備を調整するためハイドリヒは1942年1月20日、ヴァンゼー(ベルリン郊外)に会議を召集した。会議にはドイツ帝国閣僚の面々、ヨーロッパ占領地域各国のドイツ総督、そして、ゲシュタポ本部ドイツ移民局ユダヤ人局長・アドルフ・アイヒマンを含むSSの上級将校たちが出席した。
「ヴァンゼー会議」の決定はやがて、政治および軍事面において、全世界に重大な展開を引き起こすことになる。
1941年12月11日、日本軍による真珠湾攻撃を受けてドイツはアメリカ合衆国に対し宣戦を布告した。戦争はすでに人類を連合国側と枢軸国側に隔て、全世界を巻き込む総力戦の様相を帯び始めていた。この新しい局面は、ドイツを戦争遂行上の衝害から解き放った。ドイツにはもはや政治的配慮や「ユダヤ人の大量殺戮がもう始まっているのではないか」という世界の世論に気がねをする必要が全くなくなったのだ。
ヴァンゼー会議の進行は詳細にわたって記録され、議事録はニュルンベルク国際軍事法廷に証拠として提出されている。それによれば、ハイドリヒはまずヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決について自分がゲーリングから全権を委譲されていることを告げて会議を始めた。会議の中でハイドリヒは次のように述べている。
「総統の意向により、ドイツ移民は目下ユダヤ人をことごとく東方に追放し、その跡地に対して行われることになった…
ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決の中では、各国に散在する約1100万人のユダヤ人が考慮されなければならない。次のとおり…」
ここでハイドリヒはヨーロッパ33の国と地域のユダヤ人口をリストに揚げている。リストにはドイツの占領国や同盟国とは別にイギリス、ソ連のヨーロッパ地域、また中立国のポルトガル、スペイン、スウェーデン、スイス、アイルランド、トルコといった、ドイツが占領する予定だった国も含まれていた。
ユダヤ人大量虐殺の実際の準備はハイドリヒによる組織の準備と同時に進められた。1941年夏、ハインリヒ・ヒムラーはアウシュヴィッツ強制収容所所長ルドルフ・ヘスを呼んだ。ヘスは戦後の証言で「ヒトラーがユダヤ人問題の最終的解決の実行を決断したことを、このときヒムラーから知らされた」と明らかにし、さらに次のように述べている−「事実、東部で行われているようなやり方(ソ連地域でのユダヤ人殺害—特別行動隊による狩り込みと射殺)では与えられた任務に対応できなかった。絶滅という任務のためには、特にアウシュヴィッツ収容所を対応させる必要があった」。
この会談の直後、アイヒマンはアウシュヴィッツを視察している。二人は、ソ連で行われている射殺は大量の人間を短時間のうちに皆殺しにするには不向きであり、大量殺戮はガスを使う他はないとの結論に達した。
ガスを使った殺害はナチ・ドイツにとって初めての経験ではなかった。すでに「安楽死計画」において、ガスが使用されている。この計画は1939年9月から1941年8月末まで実施され、7万から9万人にのぼる精神病者と重度の障害者がガス殺された。わずかにユダヤ人も含まれていたが、このとき犠牲になったのはほとんどがドイツ人だった。ナチスはこの「安楽死計画」を、「役立たずの穀つぶし」—ナチは彼らをそう決めつけた—を国家から駆逐し、アーリア人種の優性を高めるための手段だと考えていた。ヒトラーはこの計画にあたり「T-4」という秘密組織を発足させている。「T-4」は総統直属の正式な組織として医師を擁する医療関係の諸機関(大学・研究所・病院等)を支配した。不治の病に苦しみ死を待つばかりとなった病人たちの命運が、かれら医師たちの手に委ねられた。
かくして犠牲者たちはそれぞれの医療機関に用意された気密構造の部屋へ案内され、ガスによって窒息したのだ。死体は特殊な焼却炉で燃やされた。このガスを使った安楽死はすぐに外部に露見し、ただちにこの殺害行為をやめさせるための抗議行動が‐特に犠牲者の遺族と教会側から‐起こった。ヒトラーは譲歩し、1941年8月末、これら医療をかたる殺人を当面中止するよう命じた。
しかしこの安楽死計画の中で蓄えられた経験は、「最終的解決」の準備をしていたSS当局に役立つことになったのである。
絶滅作戦としての最初のガス実験は1941年9月アウシュヴィッツで行われた。ソ連軍の戦争捕虜たちが実験台に選ばれた。彼らは密封された地下室に閉じ込められ、チクロンBによってガス殺された。非常な短時間で捕虜たちは窒息死した。以後続けられた一連の実験で、ナチスはガスという新しい殺害方法を開発するめどを立てるに至った。同じ頃「特別行動隊」も、ハイドリヒ指揮下のSS技術局の援助を受けて同様の方法を開発している。ここでは「ガス室」の代わりに「ガス・トラック」が用いられた。この車の外見は救急車か冷蔵車に偽せてあったが貨物室は気密構造となっており、マフラーから貨物室まで 延ばされた特殊なパイプが排気ガス中の一酸化炭素を密閉された貨物室に直接流し込むようになっていた。犠牲者たちが貨物室に入れられるとドアが閉まり、鍵が下ろされ、そしてエンジンがかけられた。
「ドライブ」は、全員が死亡するまでに30分も要しなかった。所定の場所に着くとドアが開けられ、死体は運び出されて埋められた。この「ガス・トラック」は、大型のものでは150人を、小型のものはその半数を収容した。ソ連のドイツ占領地域では1941年の12月だけで、数千にのぼるユダヤ人が「ガス・トラック」で絶滅させられている。
1941年12月8日。占領下ポーランドのロッヅ管区ヘルムノ村(ポーランド名ウッヂ市ヘウムノ)近郊で最初の絶滅収容所が稼働を始めた。殺害には「ガス・トラック」が用いられた。犠牲者たちは主に列車で運ばれ、収容所の近くで降ろされた。そこは一部を公園に囲まれ崩れかかった古い宮殿の中央広場で、人びとは垣根に囲まれた区域に通されると「労働に就く前にこれから車に乗ってシャワーを浴びに行く」と告げられ、次のように言い渡された。「衣服を脱いてこの車に乗るように」
「ドライブ」が始まった。車が4キロメートルほど走ったころには、排気ガスによって全員が毒殺されていた。「終点」は森の中の柵で囲まれた場所で、そこにはこの仕事のために特別に殺されずにいるユダヤ囚人の一団が待機していた。彼らが死体を車から降ろし、そして埋めた(後には死体は焼却処理されるようになっている)。ヘウムノではこうした「ガス・トラック」が3台稼働し、当局員として150人ほどの警察官とSS隊員を擁して1943年4月に一旦閉鎖されるまで稼働し続けた(その後1944年春から3ヵ月あまり再稼働)。ここではロッヅ管区他から連行されたユダヤ人と少数のロマ・シンティ(ヨーロッパ語名ジプシー)の集団、合わせて30万人近くが殺害されている。
1941年11月。ポーランド総督管区内でユダヤ人絶滅作戦の準備が始動した。ヴァンゼー会議でハイドリヒの挙げたポーランド在住ユダヤ人口は228万4千人である。ハイドリヒは1942年5月にチェコのレジスタンスに暗殺されたがそれ以後この暴挙は彼のファースト・ネームに因み、ドイツ政府より「ラインハルト作戦」のコードネームを与えられた。作戦指揮官には後のルブリン管区SS司令官兼警察長官、オディロ・グロボチュニクが任命された。グロボチュニクは3つの絶滅収容所計画を実行に移した。1942年3月中旬、まずベルゼック(ポーランド名ベウゼッツ)収容所、次いで同年5月ソビボル(同ソビブル)収容所が、そして7月末には第3の収容所、トレブリンカが大量虐殺を開始した。ドイツの東方植民地に設置されたこれら3つの収容所はいずれもガス室を備えていた。ここでは一酸化炭素ガスが使用され、ガスは屋外に設置されたガソリンまたはディーゼルエンジンからパイプで引き込まれた。それぞれの収容所には2、30名のSS隊員と、90から120名のウクライナ人(もとソ連軍捕虜で、ナチス・ドイツに協力を申し出た者)が 当局員として駐在した。SS隊員のほとんどは「安楽死計画」の要員から抜擢された者たちで占められ、後者のウクライナ兵部隊はルブリン近郊のトラヴニキにあったSS錬兵場で編成・訓練を受けたので、付近の住民からは「トラヴニキ・マン」と呼ばれていた。
ヘウムノ、ベウゼッツ、ソビボルそしてトレブリンカの各絶滅収容所は、文字に違わぬ殺人工場だった。連行された人々は、そのままガス室へ直行させられたのだ。何百人かのユダヤ囚人が 処刑を免れていたが、これは当局員と囚人たちの身の回りの世話のためであり、こういったグループはすべて数週間あるいは数ヵ月ほどで殺され、随時交代させられていた。
ルブリン近郊のマイダネク収容所はユダヤ人、非ユダヤ人双方を収監する完全な構造を備えた強制収容所で、この地区にある他の収容所は全てマイダネクの補助収容所として機能していた。おびただしい数のユダヤ人がここで殺され、あるいは移送中に通過し、あるいは囚人として収監された。この中にはポーランド軍属のユダヤ人戦争捕虜も含まれている。マイダネクを生き残った者は数えるほどしかいい。
強制収容所および絶滅収容所のうち最大の規模を持つアウシュヴィッツ収容所は、第三帝国領ポーランド南部、シレジア地方に建設された。1940年、早くもアウシュヴィッツ村(ポーランド名オシフィエンチム町)に近い旧ポーランド陸軍兵舎の敷地に強制収容所が設置されている。これは元々ポーランド軍将校と政治犯を収容するためのものだったが、I.G.ファルベン社などドイツ軍需工業に囚人労働力を提供するため、収容所近辺に多数の労働収容所が補助収容所として置かれるようになった。1941年にはビルケナウ村(ポーランド名ブジェジンカ)に最大の規模を持つ絶滅収容所、アウシュヴィッツⅡ(ビルケナウ)収容所の建設が開始された。ビルケナウはアウシュヴィッツ基幹収容所(アウシュヴィッツⅠ)から西へ約3キロメートルの地点にあり、1942年5月に稼働を始めている。チクロンBを使用するビルケナウの4つのガス室は一度に1万2千人を殺害する能力を備えており、死体はガス室に隣接し連動する焼却炉(ナチはクレマトリウム=火葬場と呼んだ)で 焼却された。焼却炉は24時間あたり8000人分の死体処理が可能だったが、1日で殺害される人数はこれを上回っており、残りの死体はガス室近くの森の中で野積みで焼かれた。アウシュヴィッツでのガス殺は1944年末まで続けられた。2つの収容所は約2500名のSS隊員を擁して1945年1月まで稼働し、その間に130万から150万のユダヤ人を含む、180万から200万人が殺害された。
アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所は絶滅収容所と同時に強制収容所としても機能していた。殺されるために収容所に到着した人々は「選別」を受けるよう命じられることがあった。若く屈強な男たちは絶滅の集団からはずされ強制労働に就かされるか、他の収容所へ移送された。他に子ども、双生児、脊髄に障害を持つ遺伝病患者などが選別の対象となった。彼らはドイツ人医師たちの医学実験用に選ばれていたのだ。医学博士ヨーゼフ・メンゲレは、医師団の中でもとりわけ悪名高い。
生き残った囚人たちも「選別」を免れたわけではなかった。1日に何度も行われる点呼で衰弱したり病気にかかった者、または労働に適さない者が見つけ出され、彼らはガス室に送られた。
厳格をきわめる制度の下に束の間の余命時間が貸与され、囚人たちはそれを生きていた。飢餓にさらす、むち打ちなど懲罰の苦痛を与える−この種の非道な所業はすべて囚人たちの心身を消耗させ死に至らせることが目的であり、SS隊員でもなければ思いつかないようなものばかりだった。 恐怖は、囚人たちの日常だった。囚人用バラックからは毎日、何十体もの死体が運び出されていた。 アウシュヴィッツ・ビルケナウ−ここで心身を全うし得た者は、ごくわずかにすぎない。
ジョルジュ・サルマナザールはフランス生まれの白人だったが、ウィリアム・イネスという牧師の協力を得て「キリスト教に改宗した台湾人」になりすました。「台湾人の先祖は日本人である」「香草をまぶした生肉を食べている」などデタラメな風習を広め、独自の「台湾語」まで作りだした。当時のヨーロッパでは台湾のことなど全く知られていなかったので、サルマナザールは25年ものあいだ台湾の専門家と見なされ、彼が執筆した『台湾誌』は知識人からも信頼されていた。しかし、ハレー彗星で知られるエドモンド・ハレーが、『台湾誌』に掲載された星図などから矛盾を見つけ出して突きつけたため、彼はついに自らの虚偽を告白した。
数学教授ロデリックと図書館司書エックハルトは、横柄な態度のヨハン・ベリンガーに腹を立て、悪質ないたずらを仕掛けることにした。二人は石灰岩に細工をして、カエルやミミズの化石、彗星や太陽の形をした化石、「ヤハウェ」という文字が刻まれた化石などを作り出し、ベリンガーが化石を採集していた山に埋めておいた。当時は化石が生まれる原因が分かっておらず、神秘的な力によって形成されると考えられていたので、いま見ると明らかにおかしな化石でも、ベリンガーは本物だと信じこみ、図版を収録した書籍まで出版してしまった。話が大きくなって慌てた犯人の二人は偽造であることを明かしたが、ベリンガーはそれを中傷だと考えてまったく取り合わなかったという。
コック・レーンにあるリチャード・パーソンズの家に、ウィリアム・ケントとファニーという夫妻が下宿していた。しばらくしてファニーは天然痘で亡くなったが、それ以来、パーソンズの家では何かを叩くような音や引っかくような音がたびたび聞こえるようになり、パーソンズは「ファニーの幽霊に取り憑かれた」と主張した。ファニーの幽霊は、自分がケントに毒殺されたことを訴えているのだとされた。幽霊のことはロンドン中の話題になり、見物客が連日のように集まってコック・レーンを歩けないほどだった。しかし調査の結果、パーソンズが自分の娘を使って、木の板を叩いたり引っかいたりさせていたのだということが分かり、彼は有罪となった。
ヴォルフガング・フォン・ケンペレンは「トルコ人」という名の人形を完成させた。それは完全な機械仕掛けでチェスを指し、しかもほとんどの人間より強いというものだった。「トルコ人」はヨーロッパ中を旅してチェスを指し、その中にはベンジャミン・フランクリンやナポレオン・ボナパルトなどの名だたる人物がいた。多くの人間がその秘密を暴こうとしたが果たせなかった。ヴォルフガングの死後、「トルコ人」はヨハン・メルツェルのもとに渡り、ふたたびアメリカなどで大金を稼いだが、1854年に火事によって焼失した。その後、最後の持ち主の息子が明らかにしたところでは、やはりチェス盤のあるキャビネットの中に人が入っていたのであった。
宝石商シャルル・ベーマーは、自身が持つ高額な首飾りを王妃マリー・アントワネットに売りたいと思い、王妃の友人だと吹聴していたラ・モット伯爵夫人に仲介を依頼した。伯爵夫人は、王妃に渡すと言って受け取った首飾りを、ばらばらにして売りさばいてしまった。その後、ベーマーが代金を取り立てようとしたことから事件が発覚し、伯爵夫人は逮捕された。しかし「王妃と伯爵夫人は同性愛関係にあった」「本当は王妃の陰謀だった」といった事実無根の噂が流れ、マリー・アントワネットの評判は貶められた。ちなみに、かの有名なカリオストロ伯爵も巻き添えで逮捕され、のちに無罪となっている。
19歳のウィリアム・ヘンリー・アイアランドは、父親を喜ばせるためにシェイクスピアの手紙や文書を偽造するようになった。多くの専門家がそれを本物だと鑑定し、ジェイムズ・ボズウェルなどは「我らが詩人の聖遺物を生きて見られたことに感謝する」と祝杯を上げたほどだった。ついにウィリアムは戯曲の偽作まで行うようになったが、その戯曲「ヴォーティガンとロウィーナ」はあまりにも悲惨な出来栄えだった。また、その頃にはエドモンド・マローンによる批判も広まっていた。ウィリアムは罪を自白したが、世間はそれをウィリアムの父親が息子に言わせているものだと受け取った。当の父親も、無能な息子がそんなものを書けるわけがないと、死ぬまで贋作であることを信じなかった。
イギリスで異国の言葉を話す身元不明の女性が保護された。ある船乗りが「言葉が分かる」というので通訳となった。船乗りによれば、彼女はインド洋の島国の王女カラブーであり、海賊に囚われていたが逃げ出してきたのだということだった。彼女は地元の有力者たちのあいだで人気となり、またその肖像画は新聞に掲載されて広まった。しかし、その新聞を見た人から通報があり、彼女はメアリー・ベイカーという家政婦で、架空の言語を作り出して、カラブー王女のふりをしていただけだということが判明した。
イギリス軍人グレガー・マクレガーは、中南米で実際に功績を上げたのち、イギリスに戻って「ポヤイス国」への移住者を募集した。ポヤイス国は南米の美しい楽園で、土地は肥沃であり、砂金が採れると喧伝された。ポヤイス国の土地や役職、通貨などが高額で売りに出された。それを購入した二百七十人の移住者グループが船で現地へ向かったが、そこにポヤイス国など存在しなかった。荒れ地に放り出された移住者たちは次々に死んでいった。マクレガーはフランスに高飛びし、そこで同じ詐欺を働こうとして失敗した。さらにベネズエラへと逃げて、そこで英雄的な軍人として死んだ。
アメリカの冒険家だったジョシュア・ヒルは、ハワイへ移住しようとして失敗した後、タヒチ島からピトケアン島へと渡った。ピトケアン島は、イギリスからタヒチまで航海したのちに水兵たちが反乱を起こしたという「バウンティ号」の生き残りと、その子孫たちが暮らす絶海の孤島だった。ヒルは、自分はイギリス政府から派遣された要人だと嘘をつき、独裁者として君臨した。逆らう者には容赦なく鞭を振るい、恐怖で島を支配した。それから6年後、通りすがりのイギリス海軍の船に島民たちが助けを求めたことで、ついにヒルは島から追放された。
イギリスの名門ティッチボーン家の長男ロジャーは、1854年に南アメリカ沖で海難事故に遭って亡くなっていたが、その10年後にオーストラリアで肉屋を営む男が「自分がロジャーである」と名乗り出た。翌年、ロジャーの母である未亡人と「ロジャー」はパリで面会した。華奢だったロジャーとは違い、「ロジャー」は体重100kgを超える粗野な男だったが、未亡人は彼こそがロジャーだと認めた。貴族を名乗りつつも労働者であった彼は、イギリスの庶民からも大いに人気を集めた。しかし未亡人が亡くなった後、裁判において彼は偽者であるとの裁決が下され、14年の懲役刑を課されることになった。
ジョージ・ハルは進化論を支持する無神論者だったが、聖書に登場する巨人の実在について口論となり、それがきっかけで巨人の化石を捏造することを思いついた。石膏を巧みに加工し、毛穴まで彫り込んで、いかにも偶然発見したかのように装って大々的に発表した。専門家たちはすぐに偽物であることを見抜いたが、キリスト教原理主義者の一部は進化論への反証としてこれを支持し、また全米から多くの見物客がやってきた。フィニアス・テイラー・バーナムが同様に巨人の化石を見世物にしはじめたことで、ハルはバーナムを訴えるが、その裁判を取材していた新聞記者がハルの雇った石工を突き止めて自白させたため、ハルも観念して偽造を認めてしまった。
ドイツの靴職人ヴィルヘルム・フォークトは、古着屋で軍服や軍刀などを購入し、「プロイセン陸軍の大尉」に変装した。彼は大通りで立哨勤務をしていた近衛兵に声をかけ、十数名の兵士を集めさせると、ケーペニック市庁舎に踏み込んだ。フォークトは、市長や秘書らを逮捕し、また市の予算から4000マルクほどを押収すると、兵士たちにこのまま市庁舎を占拠するよう言いつけ、自分は悠々と駅に向かい、新聞記者からの取材に応じた後、列車に乗り込んで姿を消した。彼はすぐに逮捕されたが、ドイツ全土で人気者となり、時の皇帝によって特赦を受けた。
イギリスのピルトダウンでチャールズ・ドーソンによって発見された化石は、脳は現代人のように大きいが、下顎は類人猿に似ている頭蓋骨だった。ドーソンはこれをアーサー・スミス・ウッドワードと共同で研究し、人類の最古の祖先として「ピルトダウン人」と名付けて発表した。当時は大英帝国の繁栄期であり、人類発祥の地がイギリスであるという説は強く関心を持たれた。しかし1949年、フッ素年代測定により、ピルトダウン人の化石が捏造されたものだと断定された。捏造の犯人は未だに分かっておらず、『シャーロック・ホームズ』の作者であるアーサー・コナン・ドイルが真犯人だという説まである。
後に作家となるヴァージニア・ウルフを含む6人の大学生たちは、外務次官の名義でイギリス艦隊司令長官に「エチオピアの皇帝が艦隊を見学するので国賓として応対せよ」と電報を打ってから、変装をして戦艦ドレッドノートが停泊するウェイマス港に向かった。ぞんざいな変装だったにもかかわらず正体がバレることはなく、イギリス海軍から歓待を受けた。彼らはラテン語やギリシア語を交えたでたらめな言葉を話し、適当なものを指して「ブンガ!ブンガ!」と叫んだりした。ロンドンに帰った彼らは新聞社に手紙を送って種明かしをし、イギリス海軍の面目は丸潰れとなった。
ドイツの曲芸師オットー・ヴィッテは、アルバニア公国の独立の際に「スルタンの甥」のふりをしてアルバニアへ赴き、嘘がバレるまでの五日間だけ国王として即位した、と吹聴した。そのような記録はアルバニアにもなく、当時からオットーの証言は疑わしいものとされていたが、オットーはドイツ国内でよく知られ、新聞などで人気を博していた。オットーが亡くなったとき、その訃報には「元アルバニア王オットー1世」と書かれた。
コティングリー村に住む少女、フランシス・グリフィスとエルシー・ライトは、日頃から「森で妖精たちと遊んでいる」と話していた。ある日、二人が撮影してきた写真に小さな妖精が写っていたことに驚いた父親は、作家のアーサー・コナン・ドイルに鑑定を依頼した。そしてドイルが「本物の妖精」とのお墨付きを与えて雑誌に発表したため、大騒動となった。50年後、老婆となったエルシーは、絵本から切り抜いた妖精を草むらにピンで止めて撮影したと告白した。しかし、フランシスもエルシーも「写真は偽物だが妖精を見たのは本当だ」と最後まで主張していた。
オーストラリアの現代詩誌『アングリー・ペンギンズ』に、25歳で亡くなったという青年アーン・マレーの詩が、彼の姉であるエセルから送られてきた。『アングリー・ペンギンズ』誌はこれを大きく取り上げて天才と称賛した。しかし、これは保守派の詩人であるジェームズ・マコーリーとハロルド・スチュワートが、現代詩を貶めるためにつくったデタラメなものだった。この事件によりオーストラリアの現代詩壇は大きな損害を蒙ったが、1970年代に入るとアーン・マレーの作品はシュルレアリスム詩として称賛されるようになり、以降の芸術家に大きな影響を与えるようになった。
フィリピンのミンダナオ島で、文明から孤立したまま原始的な暮らしを続けてきたという「タサダイ族」が発見された。彼らの言語には「武器」「戦争」「敵」といった言葉がなかったため「愛の部族」として世界的な話題になった。彼らを保護するため、世界中から多額の寄付が集まり、居住区への立ち入りは禁止された。しかし15年後、保護地区に潜入したジャーナリストは、タサダイ族が家に住み、タバコを吸い、オートバイに乗っているのを目撃した。全ては当時のフィリピンの環境大臣マヌエル・エリザルデJr.による募金目当てのでっちあげだったとされた。
評論雑誌『ソーシャル・テキスト』は、「サイエンス・ウォーズ」と題したポストモダニズム批判への反論の特集に、アラン・ソーカルから寄せられた『境界を侵犯すること 量子重力の変換解釈学に向けて』という論文を掲載した。しかしそれは、ソーカルがのちに明かしたとおり、きちんと読めば明らかにおかしいと分かるような意味不明の疑似論文であり、ソーカルはそうしたでたらめをきちんと見抜けるかを試したのだった。それはポストモダンの哲学者たちが科学用語を濫用かつ誤用している状況に対する痛烈な批判だった。
一理あれば一害あり。私法家は個人平等の極端に捗りて社会の秩序を害し易く,公法家は権力相関に偏重して世運啓発に伴ふことを怠るは,各 其(の)専らとする所に於て免れざるの弊なり。唯 此の二元素 相 調和して始めて国家法制の美を成すべしと雖,我邦 維新以來 社会の改新を謀るの急なるより,明治立憲の法度,或は専ら私法家の理論に偏傾したる跡なきにあらざるが,豈に後世史家の浩歎する所ならざるを知らんや。
我(が)国は祖先教の国なり。家制の郷なり。権力と法とは家に生れたり。不羈自由の個人が森林原野に敵対の衝突に由りて生れたるにあらざるなり。氏族と云ひ国家と云ふも家制を推拡したるものに過ぎず。権力相関を指摘するの呼称は異なりと雖,皇室の嬖臣に臨み,氏族首長の其(の)族類に於ける,家父の家族を制する,皆 其(の)権力の種を一にす。而して之を統一して全からしむるものは祖先教の国風にして,公私の法制習慣 之に由るにあらざれば,解すべからざる者 此々 皆 然り。之を要するに,我(が)固有の国俗法度は,耶蘇教以前の欧羅巴と酷相似たり。然るに我(が)法制家は,専ら標準を耶蘇教以後に発達したる欧洲の法理に採り,殆んど我の耶蘇教国にあらざることを忘れたるに似たるは怪しむべし。
耶蘇教以前の欧洲の文化は希臘(=ギリシャ)羅馬(=ローマ)の盛世 之を代表す。当世の史料,素より富胆なり。之を詳にする難きにあらず。況や如今 法制史の大作,クルチウスの希臘(=ギリシャ)に於ける,モムセン及(び)イエリングの羅馬(=ローマ)に於けるあり。専門の士にあらざるも之を窺ふに易きのみ。古日耳曼(=古ゲルマン)に到りては僅(か)にタシタスセーザルの記傅に由ると雖,方今ワイツ以下 古独(=古ドイツ)法制 探究する者少なしとせず。而して耶蘇教以前の古(日?)耳曼(=古ゲルマン?)の制度は,期せずして希臘(=ギリシャ)・羅馬(=ローマ)と其(の)跡を同ふするを発見するときは,耶蘇教の欧洲に入らざりし以前は汎く印度・日耳曼(=ゲルマン),人類に通ずるの主想ありしこと知るべきなり。
欧洲固有の法制は祖先教に本源す。祖先の心霊を崇拜するは其(の)建国の基礎なり。法制史は法の誕生を家制に見,権力の源泉を家父権に溯る。然れども何が故に家父権は神聖なりやと問はゝ,之を祖先教の国風に帰一せざるべからず。祖先の肉体存せざるも,其(の)聖霊,尚(なお)家に在りて家を守護す。各家の神聖なる一隅に常火を点して家長之に奉祠す。是れ所謂 家神なり。祖先の神霊なり。事細大と無く之を神に告ぐ。是れ幽界の家長にして,家長は顕世に於きて祖先の霊を代表す。家長権の神聖にして犯すべからざるは,祖先の霊の神聖にして犯すべからざるを以てなり。家族は長幼男女を問わず一に其(の)威力に服従し一に其(の)保護に頼る。
一男一女,情愛に(由?)りて其(の)居を同ふす。之を耶蘇教以後の家とす。我(が)新民法,亦(また)此(の)主義に依れり。之れ我(が)国 固有の家制にあらざるなり。是れ欧洲固有の家制にあらざるなり。欧土の古法は祖先の祭祠を同ふする者を家族と云ふ。家神は其(の)子孫にあらざれば之を守護せず。各家に其(の)神あり。之を絶滅することを忌む。家運の恒久を顕するなるべし。共に同一の神火に頼る者を家族と云ふ(古語家族とは神火を同ふすると云義なり)。後代,或は家長権の及ぶ處(=ところ)を家属とし,必(ず)しも血縁の因のみに限らざるの制あり。然れども,民法家が我(が)国に行はんとするが如き家とは,一男一女の自由契約(婚姻)なりと云ふの冷淡なる思想は,絶(え)て古欧に無き所なりとす。婚姻に由りて始めて家を起こすにあらず。家祠を永続せんが為に婚姻の礼を行ふなり。茲(=ここ)を以て,古法は娶らざるを禁じ,叉 子無きときは婦を去ることを認め,或は他姓の子を養ふて家祠の断絶を防ぐ,皆 古欧の家制は今の家制と其(の)主想を異にし,祖先教に本源することを証するものなり。之を我(が)国 非耶蘇教の習俗に照応するときは相似たる者あり。欧洲は,彼の宗教行はれしより,独尊の上帝は人類の敬と愛とを専有し,子孫また祖先の拜すべきを知らず。於是乎(=ここに於いて?)孝道 衰ふ。平等博愛の主義 行われて民俗血族を疎んず。於是乎(=ここに於いて?)家制 亡ぶ。而して個人平等の社会を成し,個人本位の法制を以て之を維持せんと欲す。フュステル・ド・クーランジ(ュ)は法制史の大家なり。其(の)古欧家制を解説するに序して曰く,人が「其(の)父,若(しく)は祖先を崇敬(アドレ)すると云ふの事(?)は吾人の信じ難き所なり。然れども是れ事実なりき」と。嗚呼,耶蘇教国に於きて耶蘇教人に孝道を説明するの難(し)き,此の一言を以て証すべし。我(が)国 未だ他教を以て祖先教を一洗したるにあらざるなり。然るに民法の法文,先づ国教を排斥し,家制を破壊するの精神に成り,僅(か)に「家」「戸主」等の文字を看ると雖,却(っ)て之が為めに法理の不明を招く空文 無きの優れるに若かざるなり。嗚呼,極端個人本位の民法を布きて三千余年の信仰に悖らんとす。而して一方に於きては,或は耶蘇教旨の我に行はるゝを欣ばず,強(い)て忠孝の国風を保持せんとす。哲学家は巧妙の弁あるべしと雖,法制史家の眼中に於ては孝道は祖先教家制の影なり。法制 先づ其(の)実体を亡(ぼ)し,教育行政は其(の)影の存せんことに汲々たり。史家は其(の)前後矛盾を笑なるべし。公法は権力相関の秩序なりとは,予が公法の講堂に出入せし人の聞(き)飽きたる説明なり。然れども,公法の研究は,期せずして復た此(の)原則に帰納せらるを得ざるなり。仏人フラフの近著,亦 権力相関の源泉に遡り,制度の変遷を詳(ら)かにせんとす。諸家 皆 其(の)本源を古の家制に帰す。家は家父権 之を統治す。家父は家属に対し殆んど無限の威力あり。後世の羅馬(ローマ)法家 之を夫が婦 及(び)子に対して天然に優れるの実力に帰せんとす。蓋(し)誤解なり。家父は夫 若(しく)は父たるの身分に由りて此(の)権を有するにあらず。権力の源泉は祖先の霊にあり。家を守護するの家神は家属を制裁するの威あるべく,子孫の祖先の霊に服従すべきは,之を顕世の代表者に移すことを得べし。古代「バーチル」の語,常に母の夫を指すのみならず,汎く有権者を呼びたる例なしともせず,亦,以て家父権は法の源たること知るべく,法は神聖なりと云ふ語の完全なる意味をも解することを得べきなり。耶蘇教の入りしより家父権 衰ふ。祖先の霊は子孫を守護するの責を免れ,父子夫婦 同じく唯一上帝の前に平等なり。祖先及(び)父を崇敬するは,神を侮辱する者なり。法は俗界の制 何ぞ神聖と称する事(?)を得ん。博く汝の隣人を愛せ,一視同仁の天帝は血縁の濃淡を認めざるなり。家制 豈(に)久しきを保たんや。家制 衰へてより近代国政の基礎を固ふするに到るの間,欧洲の社会,権力相関の中心を失うこと久し。是れ法度 弛廃し,豪族(が)割拠(し)優者(が)専恣(する)の世とす。僅(か)に其(の)社会を救ふたるものは耶蘇教の力 多しとす。「神聖なる羅馬(ローマ)帝国」は実に宗教の力に頼りて其(の)主権の名分を正し,人心を維持することを得たり。若(し)欧土にして急激の祖先の教法を棄て耶蘇教を入るゝことを拒みしならば,欧洲の社会は道徳法制 其(の)跡を絶ちしならん,後人の鑑むべき所なり。耶蘇教の希望する個人を本位とし世界を合同するは,欧土 尚 之を実践する能はず。家制を脱し族制に遷り,方今は国家を以て相(い)依り 相(い)携ふの根拠とせり。家制主義 既に及ばずとするも,国家主義を以て法制の本位と成すべきなり。史家は一躍 三千年来の家制を看ること弊履の如く,双手 極端個人本位の法制を迎へんとする我(が)立法家の大胆なるに駭(=おどろ)くなるべし。萬世一系の主権は天地とともに久し。其(の)由る所 或は祖先の教法家制の精神に捗るなきか。所謂 君子国の美俗は,祖先教を撲滅し,又,新教を容れず,唯 学校の修身教課書を以てのみ保維することを得るか,史学の一好試験なり。
(法學新報第五號 1891(明治24)年8月15日。『穂積八束博士論文集』(有斐閣,1943年)を底本とし,表記を現代語に改め,適宜 句読点 及び送りがなを補った。)
児玉聡『功利主義入門―はじめての倫理学』読了。読みやすく、しかも、勉強になった。私は今年度初めに、「意味の分からない本は読まない」と決めたため、哲学系の本は一切読まなくなったのだけど、本書は、功利主義を理解するための知識がきちんとまとめられているにもかかわらず、倫理学の素人である私にも意味の分かる本であった。
とりわけ私にとって重要だったのは、功利主義に対する批判者の多くが、「行為功利主義」と「直接功利主義」を念頭に置いたワラ人形攻撃をしている、という話(p.83)。ちまたでは功利主義批判をしばしば目にするけれど、そこで批判されているのがワラ人形でないかどうか、考えるための一つの目安を手に入れることができた。
逆に言えば、本書では、ベンサム説やJ.S.ミル説がそのまま示されるだけではなく(当たり前か)、それらへの批判を経てより洗練された形の功利主義が紹介され、擁護され、さらには今後の課題が提示されている。単に昔の人の思想を勉強するのでなく、論争(と現実的事例への適用)を通じて倫理学に触れられる本書には、「はじめての倫理学」という副題がよく似合うと思う。
功利主義(と功利主義批判)そのものの解説以外にも、公衆衛生に関する政策、幸福論、心理学や脳神経科学による研究、ビルゲイツの寄付先の決め方など、色々と興味深い話題が盛り込まれ、また、倫理学を武道になぞらえた説明にも色々な点でとても納得できた(日常会話で友人の意見を批判するのは、通行人に大外刈をかけるのと同様に危険!)。J美の出番がもっと多ければより楽しい本になっていたと思うが、それを望むのは欲張りだろう。
以下、思ったことのメモ。
p.20)食事のときに音をたててよい文化のルールが、「食べるさいには周りの人を嫌な気分にさせるべきではない」という(より深い)ルールに基づくものと理解できる、というのがどういう解釈なのかよく分からない。音をたてることを禁止したがる人は周りの人を嫌な気分にさせるから、音をたててよいというルールがあるんだということ?
pp.154-155)選好充足と幸福のつながりを疑うための2つの思考実験から、「すべての選好を充足させることが幸福につながるわけではな」いということになりそう、という結論が導かれている。つまりここでは、「選好充足しても幸福にならない」感じのするケースが挙げられているわけだ。しかし、これら2つのケースで想定されている選好充足は、選好充足とは思えない。例えば、ある学者が「ノーベル賞をほしい」と思っていて、その後に政治的理由で「ノーベル賞なんか欲しくない」と思い直して、その直後にノーベル賞受賞発表があった場合、それは明らかに(かつての彼の選好に合致するものではあるが)彼の選好充足にはならないだろう。それと同様で、1つ目のケースでは、現在の妻の選好はかつての彼女の選好とは異なるし、2つ目のケースでは、受賞者発表の時点でカナダ人研究者は(死んでいたので)ノーベル賞受賞を選好しておらず、受賞発表は選好を満たさない。したがって、これらは「選好充足しても幸福にならない」ケースではないのではないか。…と書いてる途中で、「じゃあたった今の選好しかその人の選好として認めないの? それ色々まずくね」という批判が浮かんだ。まあだから、どちらにしても、幸福につながる選好の定義は難しい、ということなんだろう。
p.204)「カントの引用は…」。どこに引用されてるのか、本気で見つからない。
p.219)「同時に日常底に用いたりするのでなければ」。「日常的」の誤植?…と思ったら、仏教用語で「日常底」という言葉がある模様。あとで調べる。
以上。
ところで、最近私が(本書とは無関係に)手に取ったいくつかの本によれば、功利主義者は必ず利己主義的傾向を持っていて、極端な場合、世界は亡びても自分だけ助かればいいというところまで至る(*1)、のであり、また、ベンタムの思想は、ヨーロッパの恥ずべき日々に確立された「快楽と苦痛に関する皮肉な簿記学」であり(*2)、もはや、日本の精神界では「浅薄」なものとしてあまり顧みられず英国でもムーアによる批判以来(理論的倫理学説としては)過去の思想となっている(*3)、のであった。そんな中で、私が本書によって功利主義に入門できたのは、幸運だったと言えるだろう。
==========
(*1)井上哲次郎「日本魂と米・英の功利主義」、『日本公論』1943年8月号所収、p.6。なお井上によれば、ベンタム・J.S.ミル・シジウィク・墨子・荀子・荻生徂徠・太宰春台などが功利主義者である。
(*2)アンドレ・ブルトン(澁澤龍彦訳)「ルイス・キャロル」、『澁澤龍彦翻訳全集12』所収、1997年(仏語底本は1950年)、pp.313-314。ベンタムへの言及は、ルイ・アラゴンの言葉としてブルトンが引用しているもの。
http://www.youtube.com/watch?v=Xxh-sS8Qoco&feature=player_embedded
1911年12月14日 ロアール・アムンセン、南極点に到着。
1914年6月28日 サラエボ暗殺事件から第一次世界大戦勃発
1915年4月22日~1915年5月25日 初めて毒ガス使用
1916年2月16日~1916年12月20日 ベルダンの戦い
1919年1月5日~10日 スペイン風邪の流行が頂点
1921年11月9日 アルベルト・アインシュタイン ノーベル物理学賞受賞
1922年10月27日~31日 ベニート・ムッソリーニのローマ進軍
1927年3月20~21日 チャールズ・リンドバーグがパリへ向け飛行
1928年11月18日 蒸気船ウィリー初演(ミッキーマウス初登場)
1929年10月29日 1929年のウォール街大暴落「暗黒の木曜日」
1930年6月30日 第一回サッカーワールドカップ(ウルグアイにて)
1932年 ワイマール共和国崩壊
1934年10月27日 毛沢東の長征
1939年9月1日 第二次世界大戦勃発
1942年9月13日~1943年2月2日 スターリングラード(現ボルゴグラード)の戦い
1944年6月6日 ノルマンディー上陸作戦(オペレーション・オーバーロード)決行
1945年11月20日~1946年10月1日 ニュルンベルク裁判
1951年 朝鮮の人口?
1954年6月4日 西ドイツがワールドカップで西ドイツが優勝「ベルンの奇跡」
1956年10月29日~1957年3月 スエズ危機(第二次中東戦争)
1959年1月1日 キューバ革命の勝利
1961年10月27日 チェックポイント・チャーリーでの対峙(ベルリン危機)
1964年8月2~4日 ベトナムでアメリカ爆撃される(トンキン湾事件)
1967年6月5日~10日 六日戦争(第三次中東戦争)
1970年4月 カンボジア侵攻
1972年9月5日 ミュンヘンオリンピック事件
1973年10月6日~26日 ヨム・キプル戦争(第四次中東戦争)
1977年3月27日 テネリフェの惨事(テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故)
1981年3月30日 ロナルド・レーガン大統領暗殺未遂事件勃発
1985年3月11日 ミハエル・ゴルバチョフ氏、ソビエト共産党書記長に就任
1988年12月21日 ロッカビー事件(パンナム機爆破事件)
1990年8月2日~1991年5月5日 「砂漠の嵐」作戦(第1次湾岸戦争)
1992年4月1日~1995年12月14日 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
1997年7月4日 マーズ・ローバー(火星探査車) 火星に着陸
2000年1月1日 ミレニアム
2001年9月11日 911攻撃(アメリカ同時多発テロ事件)
2005年8月29日 ハリケーン・カトリーナ ニューオリンズを破壊
2008年10月 金融危機
2010年4月20日 メキシコ湾原油流出事故 ディープウォーター・ホライズン炎上沈没事故
2012 ?
10分どころか、6時間くらいかかったorz
それに、作ったの多分アメリカ人だから、日本にとっての重大事件(オウムとか)は入ってないんだよね。ハイチ地震があるのに、阪神・淡路大震災がないのも明らかに片手落ちでしょう。
(調べてみたら、どちらもM7クラス)
横だけど、結局あなたはゲルマール・ルドルフとゆーオッサンにただ踊らされてるだけという可能性もあるわけだよね?
そのおっさんが妄言垂れ流してる可能性についてはどう考えるのかな。
一方で、たとえばヒムラーが「ユダヤ人絶滅」に関して述べた記録(1943年10月4日付)なんていう一次史料は歴然として存在するわけだよね。ラインハルト作戦、そしていくつもの証言が、大量殺人に関する組織的関与を伺わせるわけだけど、そういった資料を、あなたはそのオッサンの立場を離れて評価し論じることはできるのかね(どの程度信頼できる or 信頼に価しない と、『専門の歴史学者』以上の正確さで? ちなみにゲルマールは知っての通り歴史学者ではないよ。)? できないとしたら、それってそのオッサンに洗脳されて踊らされてるのとどう違うのかね?
物事というのは、どんないかがわしい話でも、見た目だけはもっともらしく話すことはできるものだよ。
http://anond.hatelabo.jp/20081101232814
どれだけ厳しい批判が寄せられているだろうかと恐る恐るみてみたら、好意的な反響が多く、胸をなでおろしています。
増田に書く理由としては、ひとつめ、専門外のことに長く関わるつもりがないこと、ふたつめ、連休の出先で手元に一冊の参考書籍もなく、HDDとネット上のソースだけを参考に書いたエントリなど、歴史を専攻したものとして、しかも専門外のものとして、とても胸を張って提示できるものではないこと、みっつめ、それゆえ、ホームに書いたら全て書き換えるほどの修正をせずにはいられないだろうが、その気力も時間もないこと、よっつめ、しかし、あれを「論文」とすることには憤りを覚えたので、せめて学問を知る人にはトンデモはトンデモであると伝えてみたかったこと、いつつめ、増田であれば上記の点をそれほど気にやまずに済むこと、このくらいでしょうか。したがって、私のエントリはいわゆる「ちらしのうら」です(文献表記がみにくいのもわざとです。すみません)。私はさくっと書き逃げする卑怯者です。内容がいかがわしいのも推敲が甘いのも全て私の責任です。でも、もろもろの言い訳によって逃げられるものではないですよね。ああ。
さて、前回のエントリでは、後半にさしかかったときにから睡魔に襲われ、最後は「藁人形叩き」ばかりになってしまいました。ようやく投稿できたと思ったら、字数超過で記事を分割せねばならず、つづきでは田母神氏の論文タイトルを間違えてしまいました。謹んで失礼をお詫びします。いろいろとミスがあろうと手をいれるつもりはなかったのですが、批判する論文タイトルの間違いはいくらなんでもひどいので、訂正します(ついでに「シンガポール華僑粛清事件裁判記録」後編のミスも直します)。これも後出しですが、原文が縦書きの漢数字は、横書きなので適宜英数字にしています。
では、気をとりなおして「藁人形叩き」ばかりをしていたところに補足してみたいと思います。最後に与太話の蛇足ですが雑感を述べてしめます。
しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。
(前回と同じく、はてな記法による引用の出所は、田母神俊雄「日本は侵略国家であったのか」2008年http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf)
第2次世界大戦開戦の時点であっても、カナダ、オーストラリア、南アフリカなどが自治領化・独立した例がありますね。フィリピンでも独立を前提とした自治領政府が成立していましたね。
また、どちらかといえば植民地統治体制の比較の話ですが、自治・独立とまではいかないまでも、現地の住民を支配機構に採用していく次のような例もありました。
「1920年代より英国はビルマに赴任するICS〔引用者注:インド高等文官の略称〕に英国人のみならずビルマ人も採用すべく方針を変え、その結果1939年末の段階で、ビルマにおける全高等文官のうちビルマ人は32.8%を占めるに至った」(根本敬「英領期のビルマ人高等文官(ICS/BSC)とタキン党」『東南アジア史学会会報』63、1995年、17ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0004924657)
それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2百年遅れていたかもしれない。
1940年代において、宗主国が疲弊し、植民地の独立運動が高揚したのは確かなことでしょう。ただし、歴史学の領分は、「もしも」を考えるというより、その過程をつまびらかにして、それぞれの要因や重要性を検討することにあります。
まず、開戦の詔書には「東亜ノ安定」「世界ノ平和」「万邦共栄」「東亜安定」「東亜永遠ノ平和ヲ確立」という表現はありますが、肝心の戦争目的を述べている部分は、あくまで「今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切の障礙ヲ砕碎スルノ外ナキナリ」(「御署名原本・昭和十六年・詔書一二月八日・米国及英国ニ対スル宣戦ノ件」1941年12月8日、アジア歴史資料センターレファレンスコードA03022539800。引用部分の漢字は適宜新字体を用いました。センターホームページの検索バーに左記のレファレンスコードを打ち込めば該当資料のページへ飛べますhttp://www.jacar.go.jp/)ということであり、「アジア諸民族の解放」、「植民地の解放」、や「独立」といった文言は一切ないことを指摘しておきます。文面上はまさに自存自衛の戦いをうたっており、解放の約束は明文上ではなされていません(ちなみに、みればわかりますが「八紘一宇」もないです)。では、実際、アジア諸国にどう接し、現地住民はどう対応したのか、前回は文献名をあげただけのものから少し引用しておきます。
「ビルマは1943年8月1日主権を有する独立国家となったが,真の独立を求めるビルマ人にとってそれは,’’偽の独立’’,’’メッキの独立’’にすぎなかった。ビルマ人は,独立が’’空虚’’であることを知っていた。この当時の日本人に対するビルマ人の態度は,「愛していなくても我慢して接吻する」ようなものであった」(大野徹「ビルマ国軍史(その2)」『東南アジア研究』8(3)、1970、360ページ。http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/55632/1/KJ00000134014.pdf原文の注の番号は引用者が削除しました。以下の引用文でも同じ)。
「日本の『朝日新聞』は、この作戦について、「皇軍航空部隊の空襲は一見、印度民衆の苦難を一層増大せしめるかに見えるが、爆弾の雨の中に、皇軍の印度独立運動に対する無限の慈愛と支援が含蓄されている」と書いていた。まことに「含蓄」の深い論評だったと言うべきであろう」(中里成章「日本軍の南方作戦とインド」『東洋文化研究所紀要(東京大学)』151、2007年、190ページ。http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/5716/1/ioc151004.pdf)。
「本稿では不十分ながら、日本の大東亜共栄圏=アジア主義のプロパガンダが、そして、その大枠の中で動いたチャンドラ・ボース等の活動が、インド社会との接点を持てずに、空回りしていたことを明らかにしえたのではないかと思う」(前掲中里論文、195ページ。ボースたちについては、197ページの注6、200ページの注22、202ページの注26、208ページの注80も参照)。
インドネシア、フィリピン、ベトナムの抗日闘争について、詳しくは論文本文を読んでいただきたいのですが、結論としては、
「要するに、東南アジア諸国の反植民地・民族独立運動は、太平洋戦争と日本の侵略によって生じた情勢やその他条件を、主体的、積極的に活用して日本に対応し、戦前に比して飛躍的な成長を遂げた。そして、このことは、戦後における東南アジア諸国の民族独立運動の高揚や民族独立の達成の決定的要因となった。この意味において、太平洋戦争と日本の侵略は、東南アジア諸国の民族独立運動史における一大転換点であったということができよう」(谷川榮彦「太平洋戦争と東南アジア民族独立運動」『法政研究(九州大学)』53(3)、1987年、395ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0008279870原文にあった傍点は除いた)。
以上でつっこみの補足は終わりです。現下の情勢については特に言及しません。
さて、今回のエントリ執筆の目的としては、可能な限り速やかに「論文」が論文になっていないことを示すことでした。大事なのは「内容」とおっしゃるのは結構ですが、学問的に批判可能な形式(もちろん既存の研究にとらわれない革新的な独自形式でも、読者に史料を提示できればかまいません)をとらないものは、「無敵な人」の独自な「歴史観」の告白にすぎないでしょう。それに価値を認めるのは個人の自由ですが、学問や教育の場に持ちこむのはお門違いです。そのような姿勢では、いつまでたっても歴史学における扱いはトンデモのままですよ。もちろん、大学や研究所にいる専門家でなければ歴史の話をしてはいけないということではないです。「昭和史論争」を引き起こしたのは歴史研究者ではありませんでした。しかし、自己の見解を教科書にのるような通説となさりたいのであれば、専門家と同じ舞台に立ち、その批判に応答しなければならないでしょう。「つくる会」はその舞台に立つ気はないと宣言した結果どうなっているでしょうか。今なら学術雑誌に投稿しなくても、インターネット上でいくらでも長文の論文を発表できますよね。
一般に、歴史研究者は、四年生大学で専門的なトレーニングを受け、さらに修士課程二年間、博士課程三年間以上を費やして史料を読み込み論文を紡ぎだしています。それでも、個々の論文の結論で言えることはささやかなことです。また、研究会・学会・書評などの形でお互いに切磋琢磨しています。それぞれが広範な史料に目を通しているからこそ、個々の研究がその時代の歴史像のどこに位置づけられ、どの部分がその時代の特徴をよくとらえられているかを議論できるのです。自分の個別研究が歴史研究の大きな流れのどこに位置づけられるのかをとらえるため、歴史を学ぶ標準的な手順としては、まずは先達がエッセンスを詰め込んだ教科書、概説書を読み、そこから主要な研究文献やレビュー論文、目録等を漁って研究史をたどり、そこで用いられている史料を読み、先人の研究の妥当性を検討したり自己の問題関心を追求していくのです。木簡のように新しい史料が見つかったり、機密文書が公開されたりして史料が増えれば、それがどのように従来の見解に修正を迫り、新たな知見を付け加えるのか議論します。そのような積み重ねのなか、通史は更新され、教科書の記述も変わっていきますが、このことをもって歴史は定まりないものだから最新の研究成果も独自研究も変わりないということは的外れでしょう。それはかえって科学としての歴史学が機能している証拠にほかなりません。
さて、歴史学者全体がイデオロギー的に偏向している、現行の教科書は自虐史観・マルクス主義史観に基づいているという「つくる会」の主張もありますね(それでいて『国民の歴史』のように、専門家の研究から剽窃したりするの会員もいるのは厚顔無恥ですね。参照、尾藤正英『日本文化の歴史』岩波新書、2000年、あとがき)しかし、戦後長く標準的な高校教科書として採用されてきた山川出版社の『詳説世界史』の執筆者には林健太郎(故人への敬称は略します)が含まれていました。日本史にしても伊藤隆氏が編者であった『近代II』を含む、『日本歴史大系』山川出版社、1984-90年、が、受験前に初めて読む通史だった私などには、学会の主流がマルクス主義史観など妄言にしか聞こえません。岩波だから駄目などという意見も見ることがありますが、最新の『岩波講座世界歴史』岩波書店、1997-2000年、では、古代・中世・近世・近代という時代区分はもはや採用されていません。そもそも研究の場では、評価は自分の目で確かめてから下すもので、事前に確定できるものではないのです。
「いずれも〔引用者注:本文でふれられている臼井勝美氏、酒井哲哉氏の研究のこと〕,侵略の時間的連続性〔引用者注:満洲事変から日中戦争へ〕を,陸軍の遠心性,すなわち現地機関の好戦性や暴走に帰さない画期的な研究であった」(加藤陽子「書評 安井三吉著『柳条湖事件から盧溝橋事件へ―1930年華北をめぐる日中の対抗―』」『アジア経済』45(9)、2004年、67ページ。http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/7473/1/kato45_09.pdf)。
「日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する」なんて本質論は、学界ではなされていませんよ。人事面でも、システム設計・運用面でも、上部の問題は大きかったですよね。私みたいなものにも自衛隊に信頼できる友人はいますので、余計に上が軍の失敗を反省するそぶりもみせないのは問題と感じるわけです。
最後に、余計なお節介でしょうが、歴史学入門、史学史についていくつか参考文献をあげておきます。ご興味のある向きは手にとられてみてはいかがでしょうか。
小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年。(CiNiiの定額許諾を契約している大学関係者は、下敷きとなった論文をDLできるかもしれません。私は今DLできる状況にないので保障はしません)
小田中直樹「言語論的転回と歴史学」『史学雑誌』109(9)、2000年。
http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0002622266
歴史科学協議会編『卒業論文を書く―テーマ設定と史料の扱い方』山川出版社、1997年。
今まで述べてきたような研究の積み重ねに対し、自説の根拠もまともに示さずに自分の意見を広めたいと主張する行為がどういうものか、一度お考えになっていただけたら幸いです。
また見苦しい長文になってしまいました。最後まで読んでくださった方に感謝します。
(追記)さすがに人名の誤記は看過できないのでミスを修正しました。
(再追記)引用文の出典が抜けていたのも直しました。すみません。
(再々追記)直ちに答えられるトラバをいただいたので応答します。ホロコーストの研究の進展について次の文献を参照してください。
芝健介「ホロコーストとニュルンベルク裁判」『史論(東京女子大学)』55、2002年。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0008575897
日本第3の政党であり自公連立政権を8年以上続けてきた公明党。そしてそれを支える創価学会。決してタブーではないはずなのに、この両者の歴史を語った本やサイトは少数。しかし有権者ならしっておくべき、必要最小限の知識をまとめてみました。
創価学会は、昭和初期に教育者であった牧口常三郎が「創価教育学会」として創設したものが母体になっています。つまり、創価学会は当初、教育団体だったわけで、なんだか宗教ぽくない名前になっているのは、そのためです。
しかし牧口はその後、日蓮宗のなかの一宗派・日蓮正宗(しょうしゅう)と出会い感化され、その後次第に組織の宗教化をすすめていきます(後述しますが、現在は日蓮正宗と創価学会の関係はありません)。
そして牧口は「創価学会」の初代会長として、宗教団体としての創価学会の活動をはじめるわけですが、戦時中はこうした新興宗教などは徹底的に弾圧された時期で、創価学会もその例外ではありませんでした。
戦時中の宗教弾圧は単に天皇制に背くものだけが対象ではありませんでした。むしろ天皇制原理主義のような宗教も危険視されていました。宗教ではありませんが、やはり日蓮宗信者で、極端な天皇主義(天皇の他は万人平等)などを唱えた北一輝は、「2・26事件」の精神的指導者として処刑されてしまうわけです。
いずれにせよ、政治の実験を握り社会をすみずみまで統制しようとする軍部にとって「新興宗教」は邪魔な存在以外の何者でもなく、強力な弾圧対象となったのでした。
このような世情のなか1943年に牧口ら学会幹部は逮捕・起訴され、牧口は翌年に獄死します。この弾圧が、結果的に[天皇制ファシズム・軍国主義反対→平和主義]という創価学会の主張を作ったと言っていいでしょう。このことは、今の創価学会・公明党を知るうえでも重要なことです(新テロ対策特措法再可決に消極的なところなど)。
戦後、民主化にともない、創価学会は復活します。その会長となったのが、牧口とともに捕らえられていた、戦前学会のナンバー2、戸田城聖でした。そして、彼のもとで、学会は飛躍的に発展することになります。
戸田は敗戦後、学会組織の再建に努め1951年に2代会長に就任します。そのとき彼が呼び掛けたのが、「折伏(しゃくぶく)大行進」でした。
折伏というのはもともと日蓮宗の教義で、他宗派を攻撃し、人々を法華経に帰依させることをいいます。戸田は、まだまだ数百人しかいない学会を大きくするため、「75万世帯折伏」を実行するよう呼び掛けます。
とほうもないように見えた計画でしたが、戸田が1958年に死去したときにはすでに百万世帯が学会に入っていました。東京五輪の年には公称5百万世帯です。
強引で悪評もたった(その後、学会自身も公的に反省することになる)「折伏」の姿勢が、学会拡大の1つの要因ではあるでしょう。しかしもう1つの要因は、高度成長につれて起こった日本の人口構造の転換に求めることができます。
農村から若者たちが働くためにやってきて、都市が一気に過密化していったのが高度成長時代の、特に前半期の人口構造変化の特徴です。もっとも現代のように大学に入るために上京してくる若者たちと違って、就職のために上京してきた彼らには大学のような受け皿になるコミュニティがありません。
そんな彼らの孤独の中に入っていったのが創価学会と、もう1つは共産党でした。この両者が今でも都市を中心にした基盤を持っているのはこういった側面からも理解できます。いずれにせよ、こうして学会はそういった人々の「都市砂漠のなかのオアシス」となり、都会に流入していった人々をしっかり取り込んでいったのでした。
こうして創価学会に多数の会員が集まると、会長の戸田はまず1955年の統一地方選挙に候補を擁立、選挙活動を始めます。これで一定の成果をあげると、翌年の参院選にも参戦、学会推薦議員を3名当選させます。59年の参院選では当選は倍の6名へと急進しました。
これが後の公明党になるわけですが、なぜ戸田は政治に活動の場をもとめたのでしょうか。1つの背景として、日蓮宗の開祖日蓮もまた、政治に対する主張をしていった、そういう歴史的なものがあるでしょう。しかし、いくつもある日蓮宗諸団体のなかで、国会議員を自力で擁立したのは創価学会だけです。
1955 年からの高度経済成長は、学会員たちにもとうぜん恩恵をもたらしました。豊かになった彼らとしては、次に社会的地位がほしいと思うわけです。学会員の社会的地位の向上、それを示す手っ取り早い方法が「学会議員」を作ることだったのではないかとガイドは考えています。
折しも創価学会は特に左翼・革新勢力から「折伏(しゃくぶく)大行進」に対する非難を浴びていた時期でもあります。左翼・革新勢力が大きな力を持っていた時代、学会や学会員の社会的地位を向上させることは、そういう意味でも大きな目標だったのかもしれません。
いろいろ言われているように、戸田が国立戒壇、要するに僧侶に日蓮正宗の戒律を授ける場所を国に設けようとか、あるいは日蓮正宗の国教化とか、ここまでのことをどこまで「本気で」思っていたかどうかはわかりません(国立戒壇設置はしばらく主張するのですが)。
しかし戸田は学会の政界進出がはじまった矢先に死去します。しかし、学会の政界進出はさらに続きます。1961年には公明政治連盟が設立され、さらに 1964年には公明党が結成されました。そして1967年の衆院総選挙で25議席を獲得して第4政党としての勢力を誇るまでにいたるのです。
この間、会長は池田大作に変わりました(1960年)。池田は、57年の参院選で公職選挙法違反にあたる戸別訪問をするように学会員に指示したとされ、逮捕されていますが、下された司法判断は無罪判決でした。
この一連の出来事、特に投獄→信念を曲げず無罪獲得、というストーリーによって彼のカリスマ性が高まったことは否定できません。そのためなのか、彼はかなりの若さで頭角を現わすことになったのです。池田の会長就任は実に32歳の時です。
そして公明党と学会はさらに勢いを増し、69年の総選挙では衆院の議席を47議席にまで増やし、さらには雑誌『潮』『第三文明』を立ち上げたり、「民音(民主音楽協会)」をつくってここを拠点に多数の芸能人を送りだしました。学校法人も作り、大学まで設立します。
こうして創価学会と公明党は、その社会的地位の向上という目標を十二分に実現するのでした。
公明党の利害は自民党の、特に主要派閥である田中派との利害と一致し、連携が始まった。
しかし1969年、公明党は1つの岐路を迎えます。それは、明治大学教授(当時)・藤原弘達が書いた『創価学会を斬る』の刊行を、公明党が妨害しようとして、逆に藤原に暴露された、いわゆる「言論弾圧事件」です。
このとき活躍したのが、当時自民党の幹事長だった田中角栄です。このことは、その後のNHKの討論番組でも「よけいなおせっかいをしました」と事実上本当であることを認めています。
自民党は、1960年代を通じて絶対安定多数の議席を維持していましたが、実のところ得票率はゆるやかに低下していました(1960 年:41.9%→1969年:32.3%)。なかでも所得の高くない都市労働者・市民たちの支持獲得はうまくいっていませんでした。彼らは、公明党か共産党の強力な支持層でした(社会党の支持者は移ろいやすい「無党派層」のさきがけ的な人たちが多かったのです)。
さて、田中角栄は地方への「利益誘導」政治を形作った人です。つまり、農村を基盤とした地方に、中央から予算などをつけることによって、地方を豊かにしていく。地方はその見返りに、田中派などの自民党議員に票を集める。今でも批判されているこの図式を確立したのが田中です。
もともと、学会員たちの多くは地方出身なわけで、彼らの生まれ故郷を豊かにしてくれる自民党=田中派と、自身の都会での生活を豊かにしてくれる公明党とは結びつく存在になる。……こうして、いつのまにか田中派と公明党、学会の関係が補完関係になり、親密さを増していた。それを明らかにすることになったのも田中が介入した「言論弾圧事件」だったといえるでしょう。
また1972年には、竹入義勝・公明党委員長が首相となった田中の依頼を受けて訪中、田中訪中→日中国交正常化の地ならしを行っています。
さて、「事件」でバッシングされた公明党と創価学会は、大きなショックを受けます。池田会長は「お詫び」をし、学会と公明党のいわゆる「政経分離」を宣言・実行しますが、それでも公明党は72年総選挙で議席を半数近くまで落とします。
もちろん公明党と創価学会は「国立戒壇設置」なる政策を降ろさざるを得なくなり、池田の政界入りも閉ざされ、池田と創価学会はこれ以降ひたすら、外部に対してはとにかく低姿勢で臨むようになります。実際、今日の池田大作という人は雑誌などを見る限りでは極めて穏やかな宗教家です。
また、どういうわけか創価学会はライバルであった共産党との結びつきを強めます。いわゆる「創共10年協定」というもので、これは公明党幹部にとっても実に寝耳に水の話でした。
学会・共産党は支持基盤を奪い合うライバルであったわけですが、戦時中のファシズムの中でともに弾圧され構成員が獄中にあったという共通する過去も持っていたわけです。これに目をつけたのが作家の松本清張で、彼は池田と宮本顕治・共産党委員長を引き合わせ、この学会・共産党の「同盟」を実現させたのでした。
もっとも、自民接近を行っていた公明党はこれに反発。ここに「政教分離」をし自立しようとする公明党の姿があります。しかし、結局は学会の意向を無視することができませんでした。公明党は学会なしには存在し得なかったからかもしれません。
また70年代は「革新の時代」といわれるほど革新勢力の力が強かった時代。公明党ではむしろ自分たちの軸足を「保守中道」から「革新中道」に移した方が得策、との考えが広がり、結局はこの協定を許すことになるのです。
結局、これで公明党はイメージ向上に成功したのか、76年総選挙で失った議席をとりもどします。反面、共産党には余り効果がなかったらしく議席を落としています。
結局、この共闘は公明党には効果があったものの、共産党には特に利がなく、結局公明党の顧問弁護士が宮本委員長宅を盗聴した事件があり、もともと共産党が早くからこの協定を反故にしようとしたこともあったため、この協定は終わりを告げます。以後は現在に至るまで、公明党と共産党は、逆に犬猿の仲になってしまっています。
新進党を挟んでの公明党の分解と合流の流れ。実際には公明党→新進党の前に短期間だけ「公明新党」が存在する。
1970年代末から1980年代初頭にかけて、社会党を中心とする、あるいは公明党を軸とする連合政権構想が浮上するようになりました。しかし、それが実現することはありませんでした。
1992 年、公明党と民社党は社会党が議員総辞職願いまで出して反対したPKO協力法を支持、自民党への接近を図ります。平和主義をうたっていた公明党がこれに協力したのは、当時の自民党が田中派の系譜を継ぐ竹下派であったからでしょうか(もっとも公明党がPKF(平和維持軍)参加に消極的だったため、2001年まで自衛隊のPKF参加はできないようになっていました)。
また1980年代から地方議会でも公明党が都市部を中心に勢力を広げ、地方政治与党の一員として存在感を増すようにもなっていきます。こうして公明党は連立政権は作らなかったものの、与党的な存在になっていったのです。
公明党の与党化は、1988年に2人の公明党国会議員が受託収賄罪で逮捕・起訴されたことにも現れています。与党的な位置にいるからこそ、このように収賄で逮捕される国会議員も出てしまったといえます。
もっともこの不祥事には創価学会・学会員もそうとう反発をしたようで、それが響いたのか、公明党の国会勢力は1989年の参院選では前回比1議席減、1990年の衆院選では11議席減となっています。
1993 年、総選挙で自民党が過半数割れすると、公明党は非自民・非共産の連立政権である細川内閣に加わります。しかし、創価学会がこのあたりをどう考えていたか、詳しいことはわかりませんし、考える暇もなかったのかもしれません。それくらいこの連立政権は短期間で崩壊してしまいました。
その後、公明党は小沢一郎らが中心になって設立された新進党に「参加」します(1994年)。カギカッコ付きで述べたのは、公明党の地方議員と参議院議員の1995年選挙で改選されない議員たちが別に「公明」という政党を作り、新進党に参加しなかったからです。
結果、学会員ら旧公明党支持者は、旧公明党以外の新進党議員を熱心に支持しませんでした。そして旧公明党勢力も自民党と敵対することに躊躇(ちゅうちょ)をしていました。そのため結局「公明」の新進党への合流が不可能になり、新進党は解党しました。
その後、旧公明党の衆院議員は「新党平和」を、参院議員は「黎明クラブ」を経て「公明」に合流、やがて「新党平和」も合流し「新公明党」つまり現在の公明党が誕生することになります。
新進党当時の公明勢力はバラバラになったこともあり、一部では路線対立や学会との距離などもできていたようですが、新しい公明党の誕生により学会との距離も元通りになり、両者の間で自民との連携が確認されたようです。
こうして小渕内閣(小渕首相も田中派を源流)のとき、公明党は自民党と本格的に連携、地域振興券の実現を成功させます。さらに自民・自由の連立政権に正式参加、自由党が連立離脱すると、(自由党の分派・保守党が2003年まで連立政権に参加していましたが)事実上の自公連立政権がスタートすることになります。
そんななかで小泉政権が発足。公明党は小泉ブームに乗りながら一方で社会保障などに力を入れ、特に年金改革ではその中心となり国民に政権担当能力を見せつけています。そして今日まで連立与党として8年以上の実績を積み上げてきました。
しかし、公明党としてさらなる勢力拡大という路線をとる気配はありません。あくまでも現状維持。二大政党化していくなかで、公称800万世帯を誇る創価学会を母体にして、政界のキャスティングボードを握ることに徹していこうとしているのでしょうか。
また先のページで述べた「地方:自民、都心:公明」という連携の図式も、大都市の地方出身者割合が減少していくことによって、徐々に変化せざるを得ないでしょう。そのようななか、とりあえずは新テロ対策特措法延長をめぐって、その衆院再可決による通過を「平和主義」の観点から渋る公明党の動きが注目されます。果たしてそれでも自公なのか、それとも離反なのか……。
微妙になりはじめた自公連立、公明党はどのように動き、創価学会はそれを支持するか……。
この間、創価学会会長だった池田は1979年、日蓮正宗との紛争の責任をとって辞任し、名誉会長に就任しています(2008年8月現在の会長は原田稔/日蓮正宗とはその後1990年に決別)。しかし、実際には今でも池田名誉会長が創価学会の最高実力者であることは、さまざまな学会系の雑誌・新聞などをみても明らかです。
「政教分離」をした今、創価学会は公明党のあくまで主要な支持母体の1つ。非学会員が公明党や公明党候補に投票することももちろんあります。言われているように学会、特に池田名誉会長の指示1つで党が動くのかどうか、実際のところそれはわかりません。
ただ言えることは、公明党にとって創価学会は頼みの綱、必要な存在だけれども、創価学会にとっての公明党はどうなのかということです。学会の壮年部長は読売新聞の取材に対して「公明党を基軸にしながらそれ以外でもいい議員さんは応援するという人物本位」ということを述べている(2006年4月29日号)ことは注目に値します。学会は公明党以外の政党とも手を組む可能性を模索しているのかもしれません。
公明党はこれからも創価学会の支持をいかにとりつけるか、個々の国会議員は学会員の支持をどのように得るかが課題となっていくのではないかというのがガイドの考えです。創価学会は公明党なしでもやっていけるが、公明党は創価学会なしにはやっていけないわけですから。
さて2008年で池田名誉会長は80歳を迎えました。彼に後継者はいないといわれています。長男の池田博正・創価学会副理事長がいますが、池田名誉会長や幹部は世襲に反対しているとも言われています。その一方で待望論もあるようですが……。
いずれにせよ現在の創価学会の組織力は一見「宗教官僚」ともいわれるほど強固なものとなっていますが、「その後」の創価学会は、そのままなのか、それとも急激に変化していくのでしょうか。その予想は非常に難解だといわざるをえません。
※人名について一部敬称略とさせていただきました。
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/130519
そもそも、第2次大戦が行われていた1940年代には、軍隊用の売春施設は特に珍しいものではなく、
世界各国に存在していた。なぜなら、「戦場におけるセックス」の問題は、
どの国の軍隊にとっても重要かつ解決困難な課題だったからである。
(1)ソ連
世界難民問題研究会協会のドイツ課長であるライヒリンク博士によれば、ソ連赤軍がベルリンまで侵攻してくる間に、
190万人の女性が強姦されたという。そのうち140万人は旧ドイツ東部領など、50万人は後のソ連占領地域において強姦されたとされる。
ライヒリンク博士は、強姦の結果として生まれた子供の数をつかむことは不可能\だとしつつ、その数を29万2000人と推定している。
数値の相当性の問題はおくとしても、こうした戦場の現実が「慰安所」の存在を要求するのである。
(2)アメリカ
アメリカ軍は1945年5月8日時点で、160万人の兵士がドイツに駐留していた。ハイデルベルクの米軍司令部は、
45年3月から4月の間に裁判所で 487件の強姦が扱われたとしている。
1943年のシシリー島占領後、米軍はドイツ・イタリア軍が運営していた慰安所をシステムと人員ぐるみ引継ぎ、軍医とMPが規制した。
アメリカ軍が日本に進駐したとき、最初の1か月、それも神奈川県下だけで2900件の強姦事件が発生した。
7年の占領期間中には2536件の殺人と3万件の強姦事件を起こした。事態を憂慮したGHQは、
ついに東京都に慰安所の設置を要求した。これはうわさや誇張ではなくれっきとした事実である。
(3)フランス
フランス軍は45年4月21日にシュツッツガルトを占領した。福祉・保険関係の責任者になったガウブ教授はこう報告している。
「女性住民はこの災難に十分な準備がなく、多くの場所で強姦事件が何百件となく起こった。
60歳以上の女性も16歳以下の少女もこれを逃れることはできなかった」。
(4)ドイツ
ソ連に侵攻したドイツ軍は、ソ\連ではスターリンが売春を禁じていたので、慰安所を新設せざるを得ず、
慰安婦はしばしば強制徴用された。ドイツ本国への強制労働を拒否した若い女性は、
ノルウェー、デンマーク、ベルギー、オランダ、フランスではドイツ兵の子供が約20万人生まれたといわれる。
(5)韓国
ベトナム戦争に参加した韓国軍は、現地の慰安婦を米軍同様に利用し、ベトナム人との混血児がたくさん生まれている。
そして韓国では、第2次大戦後も長期にわたり、米軍専用の売春施設が存在し、これを国家が管理していた。
日本軍は確かに慰安施設を戦地に誘致し利用していたが、これは専ら強姦事件の発生を最小限に抑えるための措置であった。
日本の軍隊公娼システムにおいて、慰安所を運営したのは民間業者であり、軍の関与は生活物資の供給や衛生管理等にとどまる。
こうした軍隊公娼システムは当時の世界各国に普通に存在していたものであり、
日本だけがことさら非難をされる筋合いは全くない。》
世界各国にもあった慰安婦・慰安所
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/130519
そもそも、第2次大戦が行われていた1940年代には、軍隊用の売春施設は特に珍しいものではなく、
世界各国に存在していた。なぜなら、「戦場におけるセックス」の問題は、
どの国の軍隊にとっても重要かつ解決困難な課題だったからである。
(1)ソ連
世界難民問題研究会協会のドイツ課長であるライヒリンク博士によれば、ソ連赤軍がベルリンまで侵攻してくる間に、
190万人の女性が強姦されたという。そのうち140万人は旧ドイツ東部領など、50万人は後のソ連占領地域において強姦されたとされる。
ライヒリンク博士は、強姦の結果として生まれた子供の数をつかむことは不可能\だとしつつ、その数を29万2000人と推定している。
数値の相当性の問題はおくとしても、こうした戦場の現実が「慰安所」の存在を要求するのである。
(2)アメリカ
アメリカ軍は1945年5月8日時点で、160万人の兵士がドイツに駐留していた。ハイデルベルクの米軍司令部は、
45年3月から4月の間に裁判所で 487件の強姦が扱われたとしている。
1943年のシシリー島占領後、米軍はドイツ・イタリア軍が運営していた慰安所をシステムと人員ぐるみ引継ぎ、軍医とMPが規制した。
アメリカ軍が日本に進駐したとき、最初の1か月、それも神奈川県下だけで2900件の強姦事件が発生した。
7年の占領期間中には2536件の殺人と3万件の強姦事件を起こした。事態を憂慮したGHQは、
ついに東京都に慰安所の設置を要求した。これはうわさや誇張ではなくれっきとした事実である。
(3)フランス
フランス軍は45年4月21日にシュツッツガルトを占領した。福祉・保険関係の責任者になったガウブ教授はこう報告している。
「女性住民はこの災難に十分な準備がなく、多くの場所で強姦事件が何百件となく起こった。
60歳以上の女性も16歳以下の少女もこれを逃れることはできなかった」。
(4)ドイツ
ソ連に侵攻したドイツ軍は、ソ\連ではスターリンが売春を禁じていたので、慰安所を新設せざるを得ず、
慰安婦はしばしば強制徴用された。ドイツ本国への強制労働を拒否した若い女性は、
代わりに慰安所で働かされた。ユダヤ人も同様であった。
ノルウェー、デンマーク、ベルギー、オランダ、フランスではドイツ兵の子供が約20万人生まれたといわれる。
(5)韓国
ベトナム戦争に参加した韓国軍は、現地の慰安婦を米軍同様に利用し、ベトナム人との混血児がたくさん生まれている。
そして韓国では、第2次大戦後も長期にわたり、米軍専用の売春施設が存在し、これを国家が管理していた。
このように、戦場における性の問題は世界的な普遍現象である。
日本軍は確かに慰安施設を戦地に誘致し利用していたが、これは専ら強姦事件の発生を最小限に抑えるための措置であった。
日本の軍隊公娼システムにおいて、慰安所を運営したのは民間業者であり、軍の関与は生活物資の供給や衛生管理等にとどまる。
こうした軍隊公娼システムは当時の世界各国に普通に存在していたものであり、
日本だけがことさら非難をされる筋合いは全くない。》