はてなキーワード: 日本軍とは
そろそろ戦後80年にもなるし「軍隊らしさ」をアップデートしよう
まずもって軍は役所で軍人は公務員です。何をしていいかはすべて規則に定められています。
その原則がほとんど守られず、士官学校も出ていなければ戦時国際法もわかってない有象無象が大量にいたのが日本軍です。
そろそろ忘れましょう。
アメリカ軍で士官として入隊した場合、その生涯の半分が教育期間になります(司令クラスになるとちょっと話が変わる)
軍では職種の変更に際して必ず専門の軍学校かカリキュラムに入ります。
歩兵士官として初等教育を受け、昇進するにも転科するにも必ず学びなおしです。
ちなみに自分で手を挙げて脇道にそれることも可能で、空挺降下やレンジャーの資格を取りに行く士官もいます。
「戦闘機のパイロットは士官しかなれない」という原則があります(艦長や戦車長も同じ)
これは司令部から孤立した状況において、他人を殺害してもよいという判断を下せるのが士官以上に限るからです。
(士官は戦時国際法や国内法、軍の規則について学んでいるため)
軍では全ての責任が指揮命令者にあります(もちろん個別の犯罪行為は別として)
兵隊は自己判断で発砲すらできません(とはいえ撃たれたら撃ち返してよい:レギュレーションあり)
百済滅亡の報せが朝鮮半島全土を駆け巡るとき、そこには絶望だけでなく、わずかな希望が残されていた。それは、百済の地を追われた者たちが、遥か倭の国――大和への亡命の道を選んだことだった。
百済の都泗沘(しひ)が炎に包まれ、王族や貴族、そして多くの百済の民が散り散りになって逃げる中、一握りの者たちは東へ、海を越えて大和へと渡ることを決断した。彼らにとって、倭はかつて同盟を結び、文化や技術を共有してきた縁のある国だった。遠い異国ではあったが、そこに生き延びる希望があると信じていた。
夜の海は静かだったが、波は冷たく、命の危機を感じさせた。百済からの亡命者たちは、わずかな船団に身を寄せ合い、倭の地を目指した。彼らの目には、故郷を失った悲しみと、新しい土地での不安が浮かんでいた。
中でも、若き百済の貴族、武珍(ムジン)は、家族と共に海を渡ることを決断した一人だった。彼はかつて百済の王宮で官職を務めていたが、新羅と唐の連合軍が攻め込むと、命からがら国を脱出した。彼の目の前には、父祖の地であった百済が失われ、愛した仲間や民が散り散りになっていく姿が浮かび続けていた。
「いつか…いつか、この地に戻ることができるのだろうか」と、武珍は呟いたが、その声は波音にかき消された。
やがて、彼らの船は倭の大地に辿り着いた。彼らを迎えたのは大和朝廷の役人たちだった。百済からの亡命者たちが次々と上陸し、武珍もまたその一人として新たな生活を始めることとなる。だが、そこには異国の地での試練が待ち受けていた。
亡命者たちは大和王権に迎え入れられたものの、その生活は容易なものではなかった。彼らは、異国の地で自らの文化や風習を持ち込む一方で、大和の風土や習慣に馴染む必要があった。特に、故郷を失った哀しみが胸に深く刻まれている者たちは、再び自らのアイデンティティを見つけるまでに長い時間がかかった。
武珍もその一人だった。彼は大阪南部に割り当てられた土地で、新しい生活を始めることとなった。この地には既に百済からの移民が住み着いており、互いに助け合いながら新たなコミュニティを築いていた。大阪南部の河内平野は肥沃な土地であり、農業が盛んだったが、何よりも彼らにとって特別なものは、地名の中に「百済」という故国の名を残せることだった。
「ここは、我々の新たな百済だ」と、武珍は言った。
百済からの亡命者たちは、単に新天地で生活を始めるだけではなかった。彼らは百済で培った高度な技術や文化を大和王権にもたらし、その地位を高めていった。特に、天智天皇の治世において、亡命者たちは重要な役割を果たすこととなる。
天智天皇(大化の改新を主導した中大兄皇子)は、近江京を築いた際、百済からの亡命者たちを積極的に受け入れた。天智天皇自身が百済との強い同盟関係を保っていたため、亡命者たちの技術や知識を利用して、近江の地を発展させることを狙っていたのである。武珍を含む百済の貴族や技術者たちは、天智天皇の招きに応じ、滋賀県周辺へと移住していった。
「新羅に滅ぼされ、百済を失ったとしても、我々の技術や文化がこの地で花を咲かせるなら、それが我々の新しい故郷となるだろう」と、武珍は自らを励ました。
百済の技術者たちは、瓦や製陶技術、金属加工、建築技術をもたらし、近江京の発展に寄与した。その中でも、仏教文化や先進的な農業技術は、近江の人々にとって大いなる財産となった。百済からの亡命者たちは、大和王権の一部として取り込まれながらも、独自の文化を維持し続けた。そして、その痕跡は、現代の滋賀県に残る渡来系の遺伝子の多さにも反映されている。
時が経つにつれて、百済からの亡命者たちは日本列島に根を下ろしていった。大阪南部には「百済」や「加羅(伽耶)」といった故国の名を冠する地名が残され、滋賀県には亡命者たちの末裔が多く住み着いた。彼らの遺伝子は、日本列島の中で異質な文化を生み出し、後の日本文化に大きな影響を与えた。
武珍も、かつての仲間たちと共に大阪南部で新たな百済を築き上げた。そして、彼の子孫たちは、百済の血を引き継ぎながらも大和王権に忠誠を誓い、その技術と知識を後世に伝えた。
「故郷は失われたが、我々の血は生き続ける。我々の文化は、この新しい土地で栄え続けるだろう」と、武珍は亡命者たちと共に夜空を見上げ、倭の地で新しい未来を夢見た。
こうして、百済の亡命者たちの物語は、日本の歴史の中に深く刻み込まれていった。朝鮮半島を追われた彼らは、決して故郷を忘れることなく、新しい大地でその魂と誇りを守り続けたのである。
天智天皇が近江京を築いた時、百済からの亡命者たちは日本の地に根を下ろし、新しい生活を始めた。しかし、彼らの胸には常に故郷である朝鮮半島への想いが宿り続けていた。日本という国がまだ形成されつつある時代、その根底には、失われた「伽耶」や「百済」を取り戻すという強い願望が隠されていた。
天智天皇は、ただ単に新しい京を築いただけではなかった。彼の統治の下で、大和王権は次第に「日本」という国としての形を整えていった。しかし、その目標の一つには、かつて倭人が支配していた朝鮮半島南部――伽耶や百済の地を再び日本の手中に取り戻すという、壮大な夢が秘められていた。
朝鮮半島に築かれた前方後円墳の存在――それは倭人がその地を支配していたことを示す確かな証拠だ。前方後円墳は日本で発明された墓制であり、その巨大な墳墓が朝鮮半島南部にも点在している事実は、かつてその地が倭人にとっての故郷であったことを物語っている。
天智天皇の時代を過ぎても、この「朝鮮半島奪還」という目標は、日本の歴史の中で幾度となく浮上してきた。その後、豊臣秀吉の時代には、それが現実のものとして動き始める。
秀吉は、天下統一を成し遂げた後、自らの野望を東アジア全域に広げようとした。その第一歩として選んだのが、朝鮮半島への侵攻だった。1592年、秀吉は大軍を率いて朝鮮に進軍し、かつて倭人が支配していた地を取り戻し、さらには中国大陸まで征服するという壮大な夢を抱いていた。
「我が倭の祖先の地、伽耶、百済を取り戻す時が来た。朝鮮半島は、我々日本人の手に再び戻るべき土地である」
秀吉のその言葉には、単なる領土拡張を超えた、失われた故郷を取り戻すという深い信念が込められていた。だが、朝鮮戦役は厳しい抵抗に遭い、秀吉の計画は失敗に終わる。朝鮮半島の奪還は成し遂げられず、秀吉の死をもって日本軍は撤退を余儀なくされた。
しかし、この「朝鮮奪還」の試みは、単なる軍事的野心の産物ではなかった。それは、古代から続く日本人の潜在的な願望――かつての倭人の領土である朝鮮半島南部を再び自らの支配下に置くという、宿命的な思いの表れだったのだ。
大規模な侵攻が失敗に終わったとしても、歴史の中で日本と朝鮮半島との間には、常に緊張と抗争が続いていた。その中で、倭寇(わこう)と呼ばれる海賊集団が、朝鮮半島の沿岸部や中国大陸沿岸を襲撃する形で、奪還の意図を示し続けていた。
倭寇の多くは、正規の日本軍ではなく、小規模な武装集団だったが、彼らもまた、朝鮮半島南部をかつての倭人の地として捉え、そこに自らの足場を築こうとした。彼らの襲撃は、単なる略奪ではなく、失われた倭人の故郷を再び支配するための小さな試みの一環だったと言えるだろう。
倭寇の活動は14世紀から16世紀にかけて活発化し、朝鮮や中国を混乱に陥れた。特に朝鮮半島南部はその影響を強く受け、倭寇の侵略によって多くの地域が荒廃した。これは小規模ながらも、日本と朝鮮半島との長い歴史的な繋がりを象徴するものだった。
そして、最も大規模で決定的な奪還の試みが行われたのは、20世紀初頭の戦前日本だった。明治維新を経て近代化を果たした日本は、軍事力を強化し、再び朝鮮半島に目を向けるようになった。1905年、日露戦争に勝利した日本は、朝鮮半島への影響力を強め、最終的には1910年に朝鮮を併合することに成功した。
これにより、ついに日本はその「歴史的な故地」を取り戻すかのように、朝鮮半島を自らの領土として統治することとなる。豊臣秀吉が夢見た「朝鮮半島奪還」の夢は、この時に現実のものとなったかのように思われた。
しかし、この支配もまた、長くは続かなかった。第二次世界大戦の敗北と共に、日本は朝鮮半島から撤退せざるを得なくなり、再びその地は遠い存在となった。
イスラエルがユダヤ人にとって失われた故郷であったように、朝鮮半島南部は倭人――すなわち日本人にとっての歴史的な故地であり、その奪還は、古代からの目標であった。日本の前方後円墳が朝鮮半島南部に点在していることも、その歴史的なつながりを証明している。これらの墳墓は、単なる埋葬の場所ではなく、倭人がこの地に深く根を下ろしていた証拠だ。
天智天皇から始まり、豊臣秀吉、戦前日本、そして小規模な倭寇――いずれも朝鮮半島南部を取り戻すという潜在的な思いを抱いて行動していた。この「奪還の夢」は、日本の歴史の中で脈々と受け継がれてきた宿命とも言える。
現代においても、日本と朝鮮半島の関係は複雑でありながらも、歴史的な繋がりは消えることなく残っている。かつて倭人が歩んだ地、朝鮮半島南部――それは、日本にとって単なる隣国の土地ではなく、彼らの魂が宿る場所であったのだ。
あえてここで私が「衰退」するという言葉を使ったのはスト6プレイヤーのホモソーシャルへの皮肉でもある、彼らは衰退というワードを冷笑することで衰退していく格闘ゲームに対して建設的な議論をすることを恐れているからである。
増田はスト6をプレイしているインフルエンサーを認知している程度の人間が大半だと思うのでスト6界隈という小さな村落で発生する「有害な男らしさ」がどのような事例で観測できるかということを並べていく。
①マスターは誰でも行ける論争
まず、スト6界隈の男性は「努力」に対して絶対性を置いているのである。
100m走で遅い人はどれだけ走っても遅いままだし、球技などを経験していれば何度練習してもリフティングすら出来ない人間も観測できるがスポーツマンは大人であるため、向いてないのかもしれない程度の認識に留まる。
しかしスト6界隈の有害な男性はマスターに行けないと言っている人間に「努力が足りないから誰でも行ける」と言い放つのである。
それはもし、マスターが目標で到達したとしても「誰でもいけるもんな……」つて思ってしまうだろう。これがサッカーのプレイヤーやランナーならありえないセリフなのは理解できるだろう。100m12秒を目標にしてる人に「努力すれば誰でも行ける」などマウント以外の目的では発言するはずがないのだ。
家庭環境や職場環境によりけり、有線無線を選べない方も勿論いらっしゃると思う。
スト6プレイヤーは無線プレイヤーに「失礼」という言い方で侮辱するのである。
その人はその人の臨める環境の最大パフォーマンスで向かっているはずである、また「失礼」という言い方は第三次世界大戦の日本軍を彷彿とさせるような侍気取りなようで暴力的で抑圧的な人間らしさが垣間見える。
私はキンバリーが可愛いと感じたのでキンバリーを使用していた。しかし、「ポリコレ忍者(スト6プレイヤーの殆どはネトウヨだ)」だの「金色足削地蔵」だの揶揄されているうちに「私が可愛いと思ってるのに汚すなよ」という苛立ちを感じるようになった。
新キャラクターのA.K.Iも可愛いと思ったのだがTwitterでは「キノコの山」だの……
創作物とはいえ女性への容姿批判を容易に行うホモソーシャルでそれが内輪ならまだしもそれが大々的に行われているのである。
正直、このコミュニティに参入しないと大会やカスタムなどには参加できないと考えると一人でワールドツアーを回そうという思考になる。こうやって、ストリートファイター6は有害な男らしさによって衰退していくのである。
青識亜論→自分が勝った時(石川優実を論破した時)は大々的に広めようとするのに、石川優実との訴訟で敗訴した事実を大々的に報告する事無く逃げている
暇空茜→Colaboに対して訴訟を起こした時は大体的に広めたのに、Colaboから起こされた訴訟で敗訴した事実は大々的に報告する事無く逃げている
音無ほむら→Colaboとの訴訟については大々的に広めようとするのに自身の離婚訴訟の経過については一切ひた隠しにしている
暇空茜は青識亜論の後継者に成りうると思って見てたけど、Colaboに敗訴してから、Colaboの話題から逃げて自分が勝てそうな相手にばかり執着する様になって、だめだこいつはって思ったな。
青識亜論にしても、暇空茜にしても、音無ほむらにしても、自分の勝利は大々的に報告するのに、自分の負けを大々的に報告・宣伝出来ない辺り、大事に世界大戦末期の日本軍みたいな事してるなと思う。
これについては、フェミ側も同様でもある話だが。