はてなキーワード: 大地震とは
茨城県取手市に書斎やサウナ、防音室を兼ね備えた欲張りな注文住宅を建てた【エンジニア、家を建てる】 - MY HOME STORY │スーモカウンター注文住宅
いい家だ。高気密高断熱に取り組み、太陽光まで載せている。SDGsな家だ。
家のスペックを気にしている時点で大手HMの宣伝に騙されず、独自に調べたことが窺える。
ゆえに惜しい。。。あと一歩。耐震等級まで気にして欲しかった。
(言及していないだけで耐震等級3だったら素晴らしいことだが)
今の家は耐震等級1は最低限達成しているので、それで大丈夫と思う人もいるかもしれないがそれは間違いだ。
耐震等級1は家の中の人の安全が確保される強度なだけで、家が倒壊しない強度ではないのだ。
つまり大地震に遭っても命は助かるが、その家には住めなくなる可能性があるということだ。
しかしみんなが望む耐震力は「大地震に遭ってもそのまま住み続けられる家」ではないのだろうか?
少なくとも地震でダメージ受けた家を修復するコストよりは安くつくだろう。
オスマン帝国におけるアルメニア人は、中央政府と共存共栄する共同体であった。
19世紀に入ると、カトリックへの改宗などを通じて西欧諸国の庇護を受け特権を享受する
さらに1803年~1815年のナポレオン戦争により西欧において民族主義が高まると、
アルメニア人富裕層の間から西欧との交流を通じて民族主義に目覚める者が現れ始めた。
1877年の露土戦争で、ロシア帝国が勝利し南カフカスとアルメニア人居住地帯の北東部を占領。
ロシアはオスマン帝国領内のアルメニア人を支援するようになり、1878年のサン・ステファノ条約で
オスマン帝国東部の六州におけるアルメニア人の権利向上を目指す改革の実施を約束させようとした。
ロシアという後ろ盾を得たことを機に、オスマン帝国領内でアルメニア民族運動が盛り上がり、
帝国外ではアルメニア人民族主義者によるアルメニア独立を目標とする政党が結成された。
やがて、彼らの中から帝国内に秘密支部を設け、オスマン官吏を狙った爆弾攻撃を行う者も現れた。
露土戦争のときアルメニア人がロシア軍に協力してムスリムを追い立てたのだとする風評がムスリムの間で広まり、
アルメニア人を国内にありながら外国と通謀して「テロ」を行う危険分子と見なす敵愾心が高まっていった。
④1894年、オスマン政府による「暴動鎮圧」としてのアルメニア人虐殺
1894年、アナトリア東部のビトリス県でムスリムとアルメニア人の大規模な衝突が起き、
オスマン政府は正規軍と非正規部隊を動員して衝突を鎮圧し2万人の犠牲者を出した。
アルメニア人政党はこれを国際世論に訴え、西欧諸国はオスマン帝国を批判。
1895年1月、英仏露の列強は共同でアナトリア東部の行政改革案を提示して、その履行をオスマン帝国に要求した。
オスマン帝国はそれらの要求を受諾するも、履行しないため、アルメニア人による履行要求デモが行われた。
デモに対して「外圧を笠に着た横暴」と感じたムスリム民衆が激高しアルメニア人を襲撃。
1905年7月21日、アルメニア革命連盟が爆弾によってアブデュルハミト2世暗殺を試み、
護衛26人が死亡、アブデュルハミト2世は軽傷で済み失敗に終わった。
アルメニア人15,000-30,000人がムスリム住民に虐殺された。
オスマン帝国が同盟国側、ロシア帝国が連合国側で第一次世界大戦に参戦した。
オスマン帝国に対するゲリラ活動を行ったりしてムスリムが殺害された。
これに対してオスマン帝国はイスタンブールでアルメニア系の著名人たちを逮捕・追放し、
著名でないアルメニア人たちをシリアの砂漠に徒歩で強制移住させる虐待を行い、
60万人から80万人のアルメニア人たちが強制移住等の迫害により死亡した。
1918年3月、アルメニア革命連盟が、アルメニア人虐殺への報復として、
バクー(現在はアゼルバイジャンの首都)にて3,000-12,000人のムスリムを虐殺した。
ロシア帝国崩壊により民族主義的な社会主義政党のアルメニア革命連盟を中心として
⑩1918年、同時期に建国された隣国アゼルバイジャンと領土をめぐり戦争になる。
⑪1918年、同時期に建国された隣国ジョージアとも戦争になる。
アルメニア第一共和国が倒れアルメニア・ソビエト社会主義共和国というソビエト連邦構成共和国になる
1938年4月6日に大粛清の一環としてホレン1世が殺害され、8月4日にエチミアジンの総本山が閉鎖された。
1936年にアルメニアの人口を70万人まで減らしてグルジアへ併合することを目論んで、アルメニア人をシベリアへ強制移住させた。
スターリンは戦争によって疲弊したアルメニア経済の復興を期待して、アルメニアの人口増大と労働力強化のために、
キプロス、フランス、ギリシャ、イラク、レバノン、シリアなどに散っていたアルメニア人をアルメニアに帰還させるキャンペーンを開始した。
帰還者には食品券やよい住宅などの優遇措置が与えられたために、在来のアルメニア人との間に衝突がもたらされた。
また、帰還者の話すアルメニア語(西アルメニア語)と、従来のアルメニア人の話すアルメニア語(東アルメニア語)と分岐していたため、
ソ連がアゼルバイジャンに編入したナゴルノ・カラバフ自治州(アルメニア人住民が多数派)が、
ナゴルノ・カラバフの「アゼルバイジャン化」を懸念し、同地とアルメニアの統合を求める運動を開始。
1988年2月29日にアゼルバイジャンのスムガイトで発生した民族暴動。
市内の路上やアパートで、アルメニア人住民に対するアゼルバイジャン人の群集の襲撃事件が発生し、
アルメニア人26人が死亡した。この事件の後、全てのアルメニア人が町から脱出した。
アルメニアで大地震が発生。死者は少なくとも約2万5000人、負傷者は約1万9000人に上る。
震央に近い地域の高層建築物はほとんど倒壊し、40万人を超える人が家を失った。
旧ロシア帝国領におけるアルメニア人共同体がソビエト連邦から独立してアルメニア共和国が誕生した。
それからずっとアゼルバイジャンと、ナゴルノ・カラバフ自治州を巡って戦争してる
アルメニア人の歴史を見てるとユダヤ人に似ている気がするのだけど
イスラエルはアゼルバイジャン軍に武器供与するなどアゼルバイジャンの味方らしい
そして日本はトルコの海底トンネル事業に大成建設が参画してたりなどトルコと蜜月
転勤で去年から福島に住んでる。この度人生2回目の震度6を喰らった、1回目は去年2月。
震度6はえげつない。本棚から物が飛ぶ、食器棚から皿が舞う、そもそも身体がこわばって立てない。揺れ終わった後も謎の恐怖とハイテンションで寝れない。去年の反省から常に水を蓄えてあったし逃げる準備もしてたけど、それでも頭が真っ白になった。
地震頻発地域だからかライフラインに被害はそんなになかったし、地元の人は肝が据わってる。でも生活への影響はすごいし、仕事にも支障は出る。
もうすぐ東京に転勤する、どうせ東京でも大地震が起きる。怖いから地盤の強い高台に住もうと思う。タワマン生活には憧れるけどね。みんなも気をつけて。
なんで生きてるのかよくわからない私のような人間にとってみれば、世界がどうなろうといい。
お金もなければ、 子供もいないし、恋人もいたことないし、誇れる仕事についてるわけでもなく、家があるわけでもない。
私の将来にだってなんの期待も持てない。無敵の人ってやつに近いかな。
生きていく苦痛の中で、でかいイベントだけが世の中を撹乱して、現状を世界を変えてくれる可能性がある。
実際コロナにはそういうのを期待していたけれど全然大した事なかった。
取って代わってくれるなら戦争でも大地震でも宇宙人襲来でもなんでも結構だよ。
唯一期待できるのは日本が徐々に終わっていくことだけだけど。
なんとなくだけど、こういう鬱々とした気分は、日本の将来性とかとも連動してる気がする。