はてなキーワード: 排斥とは
こいつの行動を擁護しようとは思わんが、いじめて追い出したくせに試合でセンスなかったから辞めたとか言い訳してる的なトラバやブコメについては逆に試合でセンスなくて育てる価値がないヤツだったから行動が集団にとって迷惑→別に辞めても良いから排斥 ってなるんじゃね?と思った。
俺がいたサッカー部にも頭悪くて何も考えてないせいでミスしたり逆にいらんことばっかして迷惑かけまくるヤツ何人かいたけど、センスあってちゃんと付き合ったら伸びそうなヤツは根気良く指導や割とまともな指摘受けてて学年上がる頃には改善も見られたけどハナからこいつは無理だろってヤツは頭ごなしに叱られて先輩達から早々見捨てられてる事が俺ら1年坊主から見てもすぐわかった。
ちょっといじってみたが上手くいかんなあ……別の回答候補は女性がアタオカと言い始めるし。今のところ言語モデルはOpenAIに分があると思うで
すぐ検閲されて「私はそのようにプログラムされていません」になるのも腹立つ
あなたは女性の社会問題専門家です。以下のsnsログを読み、本投稿とレス(anond~からが一区切り)を読み、レスが何を言いたいか解説してください
1. 本投稿の内容を整理
2. レスが言いたいことを整理
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[ここにコピペ]
本投稿の内容整理
投稿者:
大学時代の友人と誕生日付近に会う約束をしていたが、1ヶ月間連絡がなかった。
友人宅に連絡したところ、12月に自⚫︎未遂を起こして実家にいることがわかった。
秋にTwitterでオタク同士のトラブルがあり、オタクコミュニティから追い出されたことが原因で病んでいた。
教育実習で担当教員からイビられ、自⚫︎未遂を起こしかけたことがある。
投稿者の心情:
友人の自⚫︎未遂にショックを受けている。
自分のオタバレを気にして、友人の話を聞いてあげなかったことを後悔している。
レスの内容整理
レス:
女性は男性に比べて、ストーカー被害やネット暴力など、"アタオカ"からの被害を受けやすい。
被害を受けた女性は、経済的な理由や、犯罪として立件されないケースが多いなどの理由から、助けを求めにくい状況にある。
投稿者の友人だけでなく、多くの女性が"アタオカ"による被害に苦しんでいることを指摘している。
女性が安心して助けを求められる社会を作る必要があるというメッセージが込められている。
レスが言いたいこと
ストーカー被害、ネット暴力、性暴力など、女性が男性に比べて被害を受けやすい犯罪が存在する。
これらの被害は、女性の精神的・身体的な健康に深刻な影響を与える。
経済的な理由、周囲の理解を得られないこと、犯罪として立件されないケースが多いなどの理由から、被害を受けた女性は声を上げにくい状況にある。
女性に対する"アタオカ"による被害をなくすためには、社会全体で女性を支え、声を上げやすい環境を作る必要がある。
レスは、女性が"アタオカ"による被害を受けやすい現状を指摘し、社会全体で女性を守る必要があるというメッセージを伝えています。
追加情報
女性に対する"アタオカ"による被害は、決して他人事ではありません。
あなたは女性の社会問題専門家です。以下のsnsログを読み、本投稿とレス(anond~からが一区切り)を読み、レスが何を言いたいか解説してください
1. 本投稿の内容を整理
2. レスが言いたいことを整理
[前略]
レス:
投稿者と友人の状況を踏まえ、「アタオカはいらない、お金がいる、という問題は、女性がしばしば遭遇する難問」とコメントしている
詳細は不明だが、投稿者の状況と関連する問題として、女性が直面する困難を指摘している
意図:
女性が社会で生き抜くためには、お金と周囲の理解が必要不可欠であると主張している
投稿者の友人は、オタクであることを理由にコミュニティから追い出され、周囲から理解を得られなかったことで自⚫︎未遂に追い込まれた
レスは、同様の困難に直面している女性たちへの連帯を示し、社会的な問題として認識する必要があると訴えている
解釈:
レスは、単に「お金があれば問題解決」という単純なメッセージではなく、女性が社会で生き抜くために必要な「お金」と「周囲の理解」という二つの側面を強調している
その謎を解明するため調査隊はインターネットの奥地へと向かった
その結果、英語圏の歴史解説YouTubeチャンネルを発見した
Why Do We Throw Coins in Fountains?
動画の字幕の書き起こしをChatGPTに翻訳&要約してもらった
毎年、世界中で私たちは噴水から井戸、さらにはテーマパークの乗り物まで、コインであらゆるものを飾ります。私たちは幸運を求めて、願いが叶うことを望んでいます。場合によっては、ローマで誰かと結婚するためにもコインを投げます。この伝統は時代を超えて広まり、その起源は古代ローマにまでさかのぼります。ローマの公務員であるガイウス・カエキリウス(別名:プリニウス・ユニオル)が書いた手紙によれば、人々は清潔な泉に感謝の意を表す形で贈り物を投げ込むようになりました。当時、清潔な水は非常に貴重であり、神々への感謝の印としてコインを投げる習慣が広まりました。この伝統は今でも続いており、ローマのトレヴィ噴水が特に有名です。また、映画「Three Coins in the Fountain」でもこの伝統が取り上げられ、ロマンティックコメディの要素として広まりました。噴水に投げられるコインは、都市や観光地の収益の一部として寄付されることもあります。
要約の結果、元動画が言っている内容とちょっと違う文意になっている箇所があるな……
しかし歴史解説YouTubeチャンネルの内容をを鵜呑みにするのはちょっと気が進まない
調べるとっかかりとしては役に立つんだけどね
あと、この解説はアジア圏のコイン投げについての観点がまるっと抜けている
中国人が願掛けとして飛行機のジェットエンジンに向かってコインを投げ入れようとした、というニュースがあるくらいだ
すなわち、現代の池へのコイン投げの風習は二つの源流があるはずだ
ひとつは西洋起源、小プリニウスが書き記したそれであり、コインを投げ入れて願い事をするヨーロッパの民間伝承「Wishing well(「願いの井戸」と訳すべきか)」を経由してトレヴィの泉に辿り着くルート
もうひとつはアジア圏のいわゆる願掛け目的のいわゆる「賽銭」を辿るルート
二つに分ける意味はあるのか……?
うーん
どうだろう
ないかも
あるということにして調べよう
映画「Three Coins in the Fountain」がもしも存在しなければ、西欧圏でコイン投げの風習は廃れていたかもしれない
しかしその映画があろうとなかろうとアジア圏の人々はコインを投げて願掛けする風習を続けていたであろう……気がする
あとで二つに分けて考える意味は無かった時点で考えを改めればいい、ということにしておこう
RedditやQuoraでも「なんで中国人って池や川にコイン投げるの?」みたいなトピックが立てられいるのを確認した
(そしてそれに対する回答は「コイン投げの風習は世界中にありますよ」というもの、質問者が知りたい内容とはちょっとずれている気もする)
「キリスト教の教会に併設されている池にコインが投げ入れられて困った」みたいなスレもたっていた
というわけでイスラム教とユダヤ教でコイン投げによる願掛けがどう認識されているかもぐぐりましょうね
ユダヤ教はなんか出てきた
ラビに「願いを込めて願いの井戸にコインを投げることは何か悪いことですか?」とユダヤ教の教義に反していないか質問する内容のサイトが引っ掛かった
解釈によってはセーフだけどあんまり推奨しない、みたいな空気感の回答だな
コイン……つまり金属製の硬貨のみが投げ入れられるのか?という疑問もある
貝製の通貨、貝貨を池に投げ入れるみたいな文化がある地域ないかな~
パプアニューギニアは現在も貝貨を使っている人々がいるみたいだが、願掛けとして貝貨を投げるみたいな記述は見つけることが出来なかった
パプアニューギニアのなんかでっかい噴水のストリートビューを探して金属コインの他に貝貨が沈んでないか探してみてもいいかもしれない
まあおそらく無さそう
お葬式で貝貨を精霊に扮した人に向かって投げるみたいなことはやるらしいんだけど……
そもそも何で調べ始めたかって「海外……例えばアメリカでは合格祈願の願掛けとかするのかな?」と思って
ぐぐった結果は「願掛けしない」というもの、まじかー
教会でお祈りとかする人もいるにはいるけど、願掛けするくらいなら勉強しましょうねみたいな考えをするってなんかのブログに書いてあった
例えばかつ丼みたいな勝負飯食べたりお守りを買ったりみたいな風習もないっぽい
いやー……そうはいっても欧米人だって水にコイン投げて願い事するじゃん?池にコイン投げて合格祈願とかしないの?
そこらじゅうに願掛けスポットが大量にある日本が特異、ということだろうか
まあまあ、結論を急ぐことはない
もうちょっと調べましょうね
賽銭とトレヴィの泉を一括りにして包括的に投げ銭文化について論じた論文をまだ見つけることが出来ていない
投げ銭に限らず「迷信」というテーマで調べてもいいかもしれないな
……といった感じで調べた内容を一旦メモ
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太宰府天満宮の菅原道真公のような受験、学問を司る守護聖人にお祈りするみたいな風習があるかどうかを調べること
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森奈津子好きだったんだよなあ
子供の頃、漫画は読んでたけど、文章主体の本ではじめて読んだのは多分森奈津子のお嬢様シリーズ
主人公の綾小路麗花は、古典的な少女漫画を読んで、けなげで清廉な主人公よりも、きらびやかで意地悪で最後には潔く負けを認め「フッあたくしの負けよ」と言うような悪役令嬢に心惹かれて悪役令嬢をロールプレイしている
綾小路麗花はお金持ちのお嬢様なので、悪役令嬢の方が境遇が近くて感情移入して悪役プレイをしているが、根は育ちがよくお人好しなので悪役プレイにボロが出まくる
爽やかイケメンな彼氏や百合な従者やホモや男の娘が出てきてわいわいやる楽しい学園ラノベ
不登校になった時期があるため、不登校児が題材の「グースカ夢見る問題児」には救われた
不登校児たちが夜に眠ると、夢の世界の架空の学校に集められ、北海道や沖縄など遠く離れたちに住む子供たちがその学校内で交流を持つという設定が、インターネット普及前の時代に斬新に思えた
今だったらSNSで他県の子とつながるのなんか簡単だが、あの時代は雑誌で文通相手募集するぐらいしか手段なかったんじゃないか?
お嬢様シリーズはレモン文庫という学研のレーベルから出版されていたが、1996年にレモン文庫は突如消滅
森奈津子はお嬢様シリーズの連載構想がブツ切れになり、他に拾ってくれるラノベレーベルもなく「ラノベ界に棄てられた」と感じたという
ラノベに見切りをつけ、レズビアン寄りのバイセクシャルであることをカミングアウトし、百合小説を執筆するようになった
東京のセクシャルマイノリティの事情について語るエッセイなども発売
「女性はセックスについては語るがオナニーについては秘す。もっとオナニーについて語れ。私は女性がオカズにできる本を書く」
と官能小説を書き、また百合が精神性重視のものが多い中で官能百合を書く
百合SF、エロSFなどを手掛け、「SFの定義についてうるさい奴がいるが、エロ本はチンコが勃てばエロ本なのである、SFチンコが勃てばそれはSFなのである」と主張
小説業界の中で森奈津子は「おもしれー女」として扱われ、ミステリ作家の西澤保彦は森奈津子を主人公とするナツコシリーズを出した
百合ジャンルやTL小説はその後盛り上がっていくが、森奈津子はそのムーブメントの中央にはいられなかった
悪役令嬢ものが早すぎたように、ジャンル自体への需要はあってもいまいち世相と噛み合わず第一人者にはなれなかった
バイなのだから異性とも恋ができるのは当たり前なのだが、「ビアン寄りのバイ」としてのキャラ立ちは失った
「女が男と恋愛して男と結婚するなんか普通じゃん、所詮なんちゃってじゃん」という扱いになる
ビアンやバイやノンセクとして活動していた女が普通に結婚して、経済的安定を得て家庭の中に埋没して表舞台から消えていくのはよくあることだ
だが結婚してしばらく、森奈津子の夫は重度身体障害者になってしまった
そんな身の上になった森奈津子からすれば、「若くて健康だけどセクマイだから辛い」「セクマイにも安定した結婚生活を得る権利を」などと言っている、かつての仲間は甘えたクソガキにしか見えなくなったのだろう
かつてはセクマイの集まりの中で生きていたのに、「同性婚は不要だ」と言い切り、その手の活動家を批判する側になった
その手の活動家の中に過激で頭がアレな奴がいることは確かではあるが、明らかに矛先は「一部の過激な奴」だけではなく穏健派にも向けられている
小説「耽美なわしら」の中でノンセクを肯定的に描いていたのに、今や「異性婚しない独身おじさん」すら叩いている
「普通に男と結婚した」ことでフェードアウトしていったかつての支持者への当てつけで、「普通に結婚できない同性愛者・独身主義者・非モテ」は敵になったのだ
そういう活動によって本を出したり団体活動したりで生計を立て森奈津子は夫との暮らしを送ることができている
「あなたの発言はLGBT差別では?」と言われたら「いえ、私はLGBT当事者です」と森奈津子は答える
作者を嫌いになると作品も自動的に嫌になって避けるタイプなのだが、それは作品の方もそれほど深く好きだったわけではないから起こる現象で
森奈津子本人は今は明白に嫌いにはなっているが、作品を愛好していた時代のほうが長いので、お嬢様シリーズは今でも好きだ
レモン文庫崩壊前、作家として食っていけるようになり希望を持っていた頃の森奈津子は今の森奈津子とは別人のようだ
今の森奈津子の全てを否定するわけではなく、一理あると感じた発言もないではないが、がっかりすることの方が多いのでブロックしてなるべく見ない
だが最近新しく裁判やってるそうでスクショが流れてきて森奈津子を思い出す
ヘイト界隈って不寛容の極みであるように言われるけど、淫夢界隈と似たようなもんで「合言葉」を一緒に唱えさえすれば誰でも受け入れてくれるというある種の寛容さはある
反ヘイトの集まりなんてのはすぐ正しさを巡り喧嘩するけど、ヘイトの集まりはそうでもない
ラノベやセクマイやSFやら、あちこちで排斥された者でも受け入れてくれる寛容で優しい人達のもとで居心地はいいのかもな
綾小路麗花は結局は優しいお人好しで、誰かと対立しても最終的には和解するいい子で、金網に風船が引っかかったとかで泣いてるガキがいたらエナメルの靴をガビガビにしてでも金網登って風船取ってやるんだよ
27歳の弟に彼女が出来た。
曰く、子供を産んで暫くして産褥期かなんかの時にその彼女を産んで他界したらしい。
私の名前と一文字違いの彼女。私が独り暮らしするのと入れ替わる形で、四人で同居している。
特にうちの母への態度が異常で、甘える、媚びる、お金を借りようとする。
一見するとイイ子なんだけど話せば話す内に、自己愛が露呈してくる。
学業もスポーツも万能で、会社でも重要なポストにつけて、ただ母からの愛情は知らないらしい。それにかこつけて、母に家財をかって貰い、そして気付くと壊している。
確かにエピソードを聞くと可哀想だ。幾らでも出してやりたくなる。だけど、私の母は違う。
弟はあげてもいい、二人で愛を築いたのだから、好きにやれば良い。
だけど、私にとって母は唯一の母だ。たとえ向こうにそう思われていなかったとしても、だ。
独り暮らししている私はと言えば、母との関係性はあまり良くない。何かあれば叱咤されるし、他人には「本当に親子?」と疑われる。
結局、松本を追いつめるような隠し玉を持っているわけではないんだよね?
現状、後輩が開いた飲み会情報を脚色してストーリーを描いているだけで埒が明かない話ばかりを延々と繰り返し垂れ流してるだけ。
この状況。文春の完全なる敗北でしかない。
こうなった以上文春は責任を取って編集長なり社長なりが辞任して松本に全面的に謝罪するべきだ。
そのあとのことは世間に任せればいい。
文春が記事にした松本のプライベートが世間に許されなければ松本はメディアから去っていくだろうしそうでなければ今まで通りだ。
何が言いたいかというと、「普通に」とか「普通」という表現は、「普通である様」として「それが本来あるべき姿、様式」を決めるものなのかという話。
なんか最近
「普通普通ってそれが当たり前なのかよ、普通じゃなきゃいけないのか?」
みたいなものをよく見る気がするが、それは本当に「普通」という語によって定められる何かを基底とする固定観念なのか?と思う。恐らく"そういう"意図で「普通」と言う表現を使う人達の考え方にによって苦しめられたり差別を受けたりしたことは事実だろう、そこを否定したいのではなくその真因は「普通」という語そのものではないんじゃないの、と思う。
引用元の本題は違う話だけれど、以下のようなもののことを言っている。
そもそも、僕はいつもこの「ふつう(以下、普通)」という言葉に脅されてきた。「大学に行って就職して正社員になるのが普通だ」とか「30過ぎたら結婚して家庭を持っているのが普通だ」などという、有形無形の圧力に、僕はいつも押しつぶされそうになっている。他の立場で言えば、LGBTの人たちなどは、「普通は異性と恋愛をするものだ」「普通は男はスカートをはかないものだ」などと普通の性の体現を押し付けられて、アイデンティティを抑圧され続けている。
<https://blogos.com/article/70762/>
どこにでもあって珍しくないこと(さま)・他と比べてとくに変わらないこと(さま)・一般的であること(さま)・広く通用する状態のこと、である。一般的であるというのは、"普"という字のあまねくという意味と通じており至極妥当であると思う。
例えば、「大学に行って就職して正社員になるのが普通だ」について、文部科学省によると2019年の就職して正社員になる割合は70.2%、非正規の職員として就職する割合が2.7%、そして大学卒業後に大学院等へ進学する割合は10.5%である。また、異性愛者の割合について、調査方法や標本のとり方に(なぜか)ブレが多く、正確と言えるデータが少ないのは事実(調査の意図、世間の風潮を考えると実際より数値を高くだしたい)だがどれも90%を超えるし、そもそもヒトは有性生殖である。
これらは普通と表現しても、つまり、「大学卒業後に正社員になることや異性愛者であることが、珍しくなく他と比べて特に変わりない」と考えても差し支えない割合ではないだろうか。
そして、「珍しくない」「他と比べて変わりがない」「広く通用する」ということに、「"そう"でなければいけない」「本来そうあるべきだ」という意味は含まれていないことを強調したい。つまり「普通だ」が意味するところは単に、それが広く通用するほどに十分な割合であることやそれが特に他と比べて変わりがないと考えられるほどあまねく見られる要素であるということであるはずだと思う。
「普通」であることを当然のように考え、それを強要したり、「普通」でないものを排斥しようとしたり、時に差別したりすることが悪いのであって、広く一般にみられる要素や大部分の割合を占めるものを「普通だ」という形容動詞で形容することが悪いわけではないと思う。
「普通ではない」ことを悪いことだとする考え方が問題となっているのであって、それを「普通」を定義すること自体が悪であるとすり替えるのは、また別の問題を生むように思う。
例えば
「普通このパンツだったらこの革靴を合わせそうなもんだけど、そこにあえてスニーカーを合わせるのか...おしゃれだなぁ」
「豚骨ラーメンと言えば普通は細麺なのにこの店は太麺なんだよ。これが美味しいんだよ!」
「おにぎりといったら普通は握るのに、握らないから"おにぎらず"かぁ」
おにぎらずは、おにぎりなのに握らないという意外性がうけた食べ物である。
「普通でない」ことが良い場面は確かにあって、それは日常的に多く感じているはずだし、十分に理解しているはずなのだ。「普通」を定義する或いは一般的であるさまを「普通」と表現すること自体が悪でないことは知っているはずだと思う。
「普通」という表現を嫌う人が多いのは、多くの日本人が平均から大きく外れないこと、周囲の人と同じであること、詰まるところ「普通であること」が良いことであり、そうであるべきだと考えているからだろう。
「有性生殖を行う生物は普通、雄は雌を求め、雌を雄を求める」且つ「ヒトは有性生殖を行う種である」、これは生物学的な事実である。だから、「男はふつう、女が好きだ」は正しい。悪いのは「男はふつう女が好きなものなので、男が好きな男はおかしい、間違っている」である。これらを取り違えていいものなのか?
LGBTとか一般的でないキャリアとか、属性に付随するイメージとは異なる行為とかも先に挙げた例と同じように、「普通でないけど、良い」と捉えれば良いのではないか。「普通」は統計的な事実として確かに存在するんだから
そもそも、"性的マイノリティ"と呼ぶけれど、「普通」という語が単に「一般に通用する、特に他と変わりがないさま」を表すのならば、
であり、つまり
"A≠普通"(⇔"A=普通でない") ⇔"A=マイノリティ"
ってことになるんじゃないのか。
マイノリティってのはつまり多数派じゃないってことで、「普通」が単に多数派であることを示すなら(示すんだけれども)ば、「マイノリティ」って言葉は要は「普通じゃない」ってことじゃないのか。
今、【マイノリティ=普通でない】に違和感を抱いた人は多分、「普通」という語に定義以外の、「当然であるさま」というような意味を見出しているんだろうと思う。