「フランス軍」を含む日記 RSS

はてなキーワード: フランス軍とは

2024-09-12

ウクライナ軍特殊部隊ネオナチ部隊)による黒人マリ虐殺について

背景

マリ北部砂漠地帯には非黒人系のトゥワレグ人が住んでいる

トゥワレグ人は昔はサハラ奴隷貿易をやっていて黒人奴隷にしていた

この奴隷は売るためだけでなく自己使用もする

ちなみにトゥワレグ内の奴隷階級ハラティン・ベラ・イクランなど地域によって名称が異なる)は自由民と同数~2倍超とも言われる

黒人奴隷階級として差別しているわけだから、当然マリニジェール国内では他の民族黒人)と対立している

マリのトゥワレグは北部依拠して独立テロ内乱を行ってきた

21世紀

2010年代にはリビア政権崩壊により傭兵だったトゥワレグ人が無職チンピラとなり大量に帰還

さらアルカイダ系イスラム国系のテロリストも侵入し、トゥワレグ人反乱軍と結託して黒人虐殺を開始

マリ政府フランス軍にトゥワレグ人反乱軍を掃討してもらうが、全く役に立たない

激怒したマリ国軍クーデターを起こしロシアのワグネル現在アフリカ部隊改名)と組んでテロリスト討伐の成果を上げつつあった

ついでに仏軍米軍は難癖付けてきたため追放

ウクライナ軍による虐殺現在

ロシア軍がアフリカ善行を働いていることを憎悪した黒人差別主義者ウクライナ軍マリ侵略

トゥワレグ人反乱軍勝手支援してマリ軍兵士600人を捕虜とし、火あぶり・生き埋め・食人などの方法処刑

マリニジェールブルキナファソセネガルネオナチウクライナ断交

ウクライナはこれを逆恨みしてニガー連呼して発狂している

2024-08-03

anond:20240803203029

歴史勉強時間だ、増田

中世ヨーロッパの「百年戦争」を知っているか

この壮大な戦争は、1337年から1453年までの116年間に及び、イングランドフランスの間で繰り広げられたものだ。

興味深い点は、この戦争の中で時折見られる手のひら返しのような戦略転換である

例えば、ジャンヌ・ダルクの登場によって、フランス軍が大きく勢いを増したことがある。

最初のうちは女性である彼女指揮権疑念を抱かれていたが、オルレアンの包囲戦を勝利に導いたことでフランス軍内外の評価が一変した。

まさに手のひら返しだ。

君の指摘する現代社会現象も、ある意味歴史パターンと通ずるところがある。

人間評価立場は、状況次第で大きく変わることがある。

歴史を学ぶことで、どうすればそうした「手のひら返し」を未然に防ぐことができるのか、何かヒントが得られるかもしれない。

2024-02-26

メガテンで仲魔やペルソナになる実在した人物

カエサル

古代ローマ政治家ガイウス・ユリウス・カエサル

カンセイテイクン

三国志劉備に遣えた武将関羽呼び名「関聖帝君」。

キャプテン・キッド

17世紀活躍した海賊船船長ウィリアム・キッド

ゴエモン

安土桃山時代盗賊首長あった石川五右衛門

ジャンヌ・ダルク

15世紀フランス軍勝利に導いた軍人聖人

セレスティーヌ

オペラカルメン』でカルメンを演じた女優

テンカイ

徳川家康の側近でもあった南光坊天海

トキサダ

島原の乱総大将であった天草四郎本名益田時貞

ハヤタロウ

長野の光前寺で飼われてた犬。

マサカド

平安時代関東豪族平将門

ミチザネ

平安時代貴族菅原道真

ヨシツネ

平安末期の武将源義経

リョウオウ

6世紀中国北斉の高長恭という人物称号蘭陵王」または「羅陵王」。

実在微妙

キントキドウジ

金太郎名前で有名な坂田金時のこと。実在は疑わしい。

ジャック・リパー

19世紀ロンドンを賑わせた連続殺人犯通称切り裂きジャック」。犯人が誰かわかってないので妄想、あるいは怨念産物ということになってる。

トモエ

平安末期の女武将。後世の創作実在しないと言われる。

ヒミコ

邪馬台国女王魏志倭人伝記載があるので実在したとされるが、肝心の日本でまだ証拠が見つかっていないため実在しなかったとも。

ハンナ

歴史上唯一の女性教皇創作と考えられている。

番外編

タトゥーマン

ヤ○ザ

フーリガン

サッカーで暴れる観客

2024-02-02

悲報放送作家さん、革命にはジャンヌダルク必要と言ってしま

ジャンヌダルクフランス軍を指揮してイギリス軍とたたかったので体制側なんだよね

ドラクロワの「民衆を率いる自由の女神」をジャンヌダルク勘違いしてるんじゃないだろうか

2023-05-23

インディアンの偉大な英雄打線組んでみた

1.三 ポンティアック

2.二 リトル・タートル

3.捕 テカム

4.遊 オセオラ

5.中 レッドクラウド

6.一 シッティング・ブル、クレイジーホース

7.左 キャプテンジャック

8.右 ジョゼフ酋長

9.投 ジェロニモ

解説

ポンティアック

 五大湖周辺のオタワ族の酋長。元々フランス人交易を通じ友好な関係を築いていた。しかし、フレンチインディアン戦争イギリス勝利すると、情勢は変化する。フランスに変わり台頭したイギリス人は次々に入植し土地を奪う、一方的交易制限するなどの横暴に出る。これに脅威を感じたポンティアックオジブワ族、ポタワトミ族などの諸部族提携し、イギリスの一斉攻勢をしかける(ポンティアック戦争1763)。イギリス人の完全追放という目的には失敗したものの、大打撃を受けたイギリスは広大なインディアン保護区を制定するなどの大幅な妥協を強いられた。

・リトル・タートル

 北東部マイアミ族の酋長アメリカ独立戦争ではイギリス同盟し、フランス軍のオーギュスタン・ド・ラ=バル大佐戦死させるなど活躍した。戦後オタワ族、ショーニー族、レナペ族などと共に北西インディアン同盟を結成。イギリスとも結託し、北西インディアン戦争(1785~95)を戦った。1790年ハーマー作戦では250名以上の米兵戦死させる戦果を挙げ、更に翌年ウォバッシュ川の戦いでは包囲奇襲により米軍の死者600名以上、インディアンの死者20名程度という大勝利を収めた。これはインディアン戦争で最大の勝利であるしかし、フォールンティバーズの戦いで破れ、イギリスに見捨てられたため降伏、広大な土地割譲することになった。

・テカム

 北東部のショーニー族の戦士。北西インディアン戦争でショーニー族は敗れたショーニー族は抵抗意志を失っていた。しかし、テカムセは弟の預言者テンスクワタワと共に白人への抵抗運動を再開する。土地を守るために全インディアンの団結が必要であると考えた彼は各地を訪問し、インディアン部族連携を呼びかけた。1811年ティッペカヌーの戦いで米軍に敗れたが、その後も抵抗を諦めず、米英戦争ではイギリスと組んで米軍と戦う。デトロイドの戦いで勝利、メイグス砦包囲戦では攻略には失敗するも大損害を与えた。しかし、1813年テムズの戦いで戦死し、彼の壮大な夢は実現することなく幕を閉じた。

オセオラ

 フロリダ半島セミノール族の戦士アメリカフロリダからセミノール族を追放しようと3渡に渡る侵略戦争を仕掛ける。オセオラが活躍したのはその中でも最大規模の第二次セミノール戦争(1835~42)である。彼の指揮する巧みなゲリラ戦に苦しめられた米軍は37年和平交渉最中オセオラを捕らえ獄死させた。しかし、セミノール族の怒りは収らず戦争は続いた。第三次セミノール戦争でも米軍は苦戦した。セミノール族の一部はフロリダの奥地エバグレイズに立て籠もり続け、現在に至るまで降伏していない。そのためセミノール戦争は「インディアンベトナム戦争」と呼ばれ、フロリダセミノールは征服されざる人々を自称する。

レッドクラウド

 グレートプレーンズラコタスー族オグララ酋長モンタナ州鉱山が発掘されると、アメリカララミー砦から鉱山に至る道路建設を企む。これに反発したレッドクラウドシャイアン族、アラパホ族と連携し、レッドクラウド戦争(1866~68)を戦う。途中のフェッターマン虐殺では陽動に乗せられたウィリアム・フェッターマン大尉指揮下の米軍80名が完全包囲され全滅した。米軍道路建設を諦め、ララミー砦を放棄したため、レッドクラウドは唯一アメリカ勝利した偉大なインディアンとして賞賛されることになった。しかし、米軍の強さを実感した彼はそれ以後白人と戦わなくなり、晩年キリスト教改宗居留地に入った。

シッティング・ブル&クレイジーホース

 シッティング・ブルはラコタスー族ハンクパパ、クレイジーホースはオグララ戦士本来ならば別個に扱うべきだが、打線に収りきらないのでやむを得ず同じポジションに収めた。二人はレッドクラウド戦争でも活躍し、その知略と武勇を称えられた。その後インディアン聖地ブラックヒルズで鉱産資源が発掘されると、聖地を巡りブラックヒルズ戦争(1876~77)が勃発,ラコタスー族は再度シャイアン、アラパホ族と共に戦うことになる。76年リトル・ビッグホーンの戦いではジョージカスター大佐指揮下の騎兵連隊250名が完全包囲され全滅した。そのため、シッティング・ブルとクレイジーホースの二人は偉大な戦士としてインディアンから賞賛され、白人からは恐れ憎まれるることとなる。しかし、米軍の容赦ない猛攻と兵糧攻めの前にインディアンは敗北、クレイジーホースは捕らえられ刺殺された。シッティングブルはカナダ亡命し、帰国後無実の罪で逮捕されそうになり抵抗したため射殺された。

キャプテンジャック

 カリフォルニア溶岩地帯モードック族の酋長モードック族は故郷から追放されるが、キャプテンジャックと数十名の戦士はこれに反発し居留地脱出した。彼らは複雑な地形を利用したゲリラ戦10倍近い戦力の米軍を1年近く苦戦させた。手を焼いた米軍は和平交渉のためにエドワードキャンビー少将派遣するが、交渉が決裂し殺害されたため、インディアン戦争で唯一米軍将軍戦死した戦争となった。白人の猛攻の前に降伏したキャプテンジャック将軍殺しの罪で処刑され遺体見世物にされた。

・ジョゼフ酋長

 アイダホ高原部のネズパース族の酋長平和主義者であった彼はキリスト教改宗するなど白人に対して従順であったが、居留地入りを命じられるとこれに反発、部族を率いてカナダへの亡命を目指した逃避行に出る。彼らは兵力と装備で圧倒する米軍の追撃を巧みにかわし続け、遭遇した際にも返り討ちにしたため、白人はジョゼフ酋長を赤いナポレオン賞賛した。しかし、2000kmにも及ぶ逃避行の末に目的地直前で米軍に敗れ降伏した。故郷を追われ仲間を失った彼は傷心で没することになった

ジェロニモ

 アメリカ南西部国境地帯チリカワ・アパッチ族戦士家族を殺された報復メキシコ軍との戦いに身を投じ武名をはせた。ジェロニモの名は銃弾の雨を無視して襲い来る彼に恐れをなしたメキシコ兵が聖者ヒエロニムスに助けを求めたことが由来である。一旦米軍降伏し、保留地に入るも、1874年脱出し、96年に降伏するまで戦い続けた。ゲリラ戦の名手であった彼は米軍を苦戦させ続け、捕らえられても何度も脱出を繰り返した。彼の降伏によりインディアンの大規模な抵抗終焉を迎えた。彼は見世物にされるなどの屈辱を受けながら虜囚のまま没した。

2023-03-06

ベトナム独立宣言

全国の同胞たちよ、

全ての人はみな、平等権利を持って生まれています創造主は誰も侵すことのできない権利を与えました。その権利には、生存権自由権幸福追求権があります

 

この不滅の文言は、アメリカの1776年独立宣言の中にあるものです。より広く言えば、この文言は、世界の全ての民族がみな平等に生まれ、どの民族生存権幸福権、自由権を持つということを意味しています

 

1791年フランス革命における人間と市民の権利の宣言(※人権宣言)も、「人は生まれながら自由であり、平等権利を有し、常に自由であり、権利について平等でなければならない」と言っています。これは、誰も否定することはできません。

 

それにもかかわらず、この80年間、フランス帝国主義者たちは、自由平等博愛の旗を悪用し、私たちの国を強奪し、私たち同胞を抑圧してきました。彼らの行動は、人道と正義に反するものです。

統治において彼らは、私たち人民自由民主を僅かでも与えることはありませでした。

 

彼らは野蛮な法律施行しました。彼らは中部南部北部でそれぞれ異なる制度を作り、私たち国家統一妨害し、私たち民族団結を妨げました。

彼らは学校よりも数多く監獄を建てました。彼らは、私たちの国を愛し民族愛する人々を斬り殺しました。彼らは、血の海に私たちの蜂起を沈めたのです。

彼らは言論を統制し、愚民政策実施しました。

彼らは、アヘンアルコールを使って、私たち民族を衰弱させました。

経済において、彼らは私たち民族を骨の髄まで搾取し、私たち民族を困窮、欠乏させ、私たちの国をずたずたにし不況に導きました。

彼らは田畑を、坑道を、資源を奪いました。

彼らは紙幣印刷や、輸出入権利を独占しました。

彼らは数百の理不尽徴税を行い、私たち民族特に農民商人貧困に陥れました。

彼らは私たちブルジョワ台頭を許しませんでした。彼らは私たち労働者を情け容赦なく搾取しました。

 

1940年の秋、連合国に対抗する拠点を更に築くため、日本ファシストインドシナ侵略し、フランス帝国主義者らは跪いて日本私たちの国を明け渡しました。そのときから私たち民族フランス日本という二重の枷をかけられたのです。そのときから私たち民族は、日増しに困窮し、貧困にあえぎました。その結果、ついに昨年末から今年の初め、クアンチから北部にかけて、200万人の同胞餓死しました。

 

今年の3月9日日本フランス軍を武装解除しました(※仏印処理)。フランス帝国主義者は逃げる者もいれば、降伏する者もいました。

まり、彼らは私たち保護するどころか、5年の間に2回も私たちの国を日本に売ったのです。

3月9日以前に、ベトミン(※ベトナム独立同盟会)は何度もフランス人に対して、日本に対抗すべく同盟しようと呼びかけました。フランス帝国主義者はこれに応じず、より一層ベトミン迫害しました。更には、敗走の際、彼らはイエンバイとカオバン政治犯を多数虐殺しました。

 

しかし、フランス人に対して私たち同胞は依然として寛大で人道的な態度を保ちました。3月9日の変動後、ベトミン辺境へ逃れた数多くのフランス人を助け、日本収容所から多数のフランス人を救出し、彼らの生命資産保護しました。

 

実際、1940年の秋から私たちの国は日本領土となり、もはやフランス領土ではありませんでした。

日本連合国降伏したとき、全国の私たち民族は立ち上がり政権を奪取して、ベトナム民主共和国を築いたのです。

実際には、私たち民族は、フランスの手からではなく日本の手からベトナム国を取り戻したのです。

 

フランスは逃げ、日本降伏し、バオダイ帝は退位しました。私たち民族独立したベトナム国建設するために、100年近く帝国主義者たちと戦いました。私たち民族は、何十世紀も君主制と戦い、民主共和制を築いたのです。

 

ですから私たちベトナム国臨時政府は、ベトナム国民代表して、フランスとの関係離脱し、フランス署名したベトナムに関する全ての協定を破棄し、ベトナム国におけるフランスの全ての権限を破棄することを宣言します。ベトナム国民は、フランス植民地主義者の陰謀に対抗する覚悟を固めています

 

私たちは、テヘラン及びサンフランシスコ会議民族平等原則を認めた連合国が、ベトナム民族独立する権利を認めないということはあり得ないと信じています

ある民族がこの80年以上にわたりフランス奴隷であることに勇敢に対抗しました。ある民族が数年にわたり連合国と共にファシストに対抗しました。その民族自由を得なければなりません! その民族独立を得なければなりません!

 

これらの理由から私たちベトナム民主共和国臨時政府は、世界に向けて改めて宣言します。

ベトナム国自由及び独立する権利を持ち、実際に、自由独立した国となりました。ベトナム国民は、この自由独立を維持するために、精神軍隊生命、そして財産のすべてを持つ権利があります

 

これを以て「ベトナム日本ファシストから独立した」って喧伝してる人がいるけど、

 

ですから私たちベトナム国臨時政府は、ベトナム国民代表して、フランスとの関係離脱し、フランス署名したベトナムに関する全ての協定を破棄し、ベトナム国におけるフランスの全ての権限を破棄することを宣言します。ベトナム国民は、フランス植民地主義者の陰謀に対抗する覚悟を固めています

 

私たちは、テヘラン及びサンフランシスコ会議民族平等原則を認めた連合国が、ベトナム民族独立する権利を認めないということはあり得ないと信じています

ある民族がこの80年以上にわたりフランス奴隷であることに勇敢に対抗しました。ある民族が数年にわたり連合国と共にファシストに対抗しました。その民族自由を得なければなりません! その民族独立を得なければなりません!

 

これらの理由から私たちベトナム民主共和国臨時政府は、世界に向けて改めて宣言します。

ベトナム国自由及び独立する権利を持ち、実際に、自由独立した国となりました。ベトナム国民は、この自由独立を維持するために、精神軍隊生命、そして財産のすべてを持つ権利があります

 

普通にフランス支配から卒業しか言ってないんだよなぁ。

第二次世界大戦中の日本天皇制ファシズムに侵されていたという言説は今でも普通にあるわけだし。

2022-12-24

なぜ男性肛門砲弾を挿入してしまうのか

今月17日午後9時、フランス南東部トゥーロン市にある病院「Hôpital Sainte Musse」の救急外来にやってきた88歳の男性が「第一次世界大戦使用された砲弾肛門に詰まってしまった」と訴えた。

医師はこの砲弾が爆発する可能性もあり医療スタッフのみでは対応しきれないと考え、警備員消防署応援を依頼し緊急事態宣言され入院患者を外へ避難させる対応を取ることになった。

爆弾処理班が到着し、男性の体内に砲弾が残ったままの状態で爆発の危険がないかどうか確認が行われた。

その結果、この砲弾第一次世界大戦フランス軍使用したもので、一部の愛好家がコレクションとして集める物であると断定された。

また爆発の危険性はないと判断され、医師男性を手術室に運んで砲弾を摘出するため開腹手術を行った。

取り出された砲弾は長さ8インチ(約20センチ)、幅2インチ(約5センチ)で、男性兄弟の家でこの砲弾を見つけたと明かしている。

ちなみに過去には中国で、「便秘に効く」と肛門からウナギを挿入した男性が、腸を突き破られ危険状態に陥っていた。

https://news.livedoor.com/article/detail/23431716/

2022-04-07

多国籍軍ウクライナへの軍事介入可能性について

ノルマンディー上陸作戦実施されたのは1944年6月。

第二次世界大戦が始まったのが1939年9月なので、アメリカ参戦まで5年も掛かっていることになる。

今のウクライナ多国籍軍軍事介入するとしても、最低でも3~4年くらいは掛かると見るべきだろう。

ウクライナ軍がロシア軍に対して優勢となっていても、3~4年も持ちこたえられるものなのだろうか。

どうにもなくなったら、ドイツ軍フランス軍が先手を打って介入するのかもしれないが。

アメリカ参戦の前に、降伏講和によって戦争が終わってしま可能性が高い。

2021-10-18

エロマンガ島歴史

予想以上に凄惨だった

いまのウイグル人みたいなことされてんな

エロマンガ島

出典: フリー百科事典ウィキペディアWikipedia)』

ナビゲーションに移動

検索に移動

エロマンガ島地名: Erromango Island

Erromango, Dillon's Bay. July 8th 1858. John Williams, Missionary, killed 1840 by Thomas Bent.jpg

1858年スケッチ

Vanuatu - Erromango.PNG

地理

場所 メラネシア

座標 南緯18度48分50秒 東経169度7分22秒

諸島 ニューヘブリディーズ諸島

面積 892.25 km2 (344.50 sq mi)

最高標高 886 m (2,907 ft)

行政

バヌアツの旗 バヌアツ

Flag of Tafea Province.svg タフェア州

人口統計

人口 2,109人[1](2016年時点)

人口密度 2.4 /km2 (6.2 /sq mi)

テンプレートを表示

エロマンガ島エロマンガとう; 英: Erromango)は、南太平洋バヌアツのタフェア州最大の島。ニューヘブリディーズ諸島の一つ。「エロマンゴ島」、あるいは「イロマンゴ島」とも表記される。そのエロ漫画を連想させる名称から日本では特に珍地名の一つとして紹介されることがある。

目次

1 地理

2 歴史

3 行政

4 交通

5 言語

6 脚注

7 参考文献

8 関連項目

地理

エロマンガ島地図

島の中心部標高 837 mの火山がある小島で、周囲は珊瑚礁に覆われている。面積 887 km2、人口2016年国勢調査では2,109人[1]。主要な産業牧畜業・農業で、肉牛を飼う大きな牧場が広がっている。西側のディロン湾に好錨地を持つ[2]。かつては全体が密林に覆われ上質な白檀が取れたが、乱伐によって現在ほとんど森がなくなり、白檀も取れなくなった。

歴史

18世紀にはイギリスフランスの旧共同統治領になっていたが、実質上は無政府状態に近かった。ポリネシア系の住民が大昔から住み着いており最盛期には10,000人に達していた。

1830年から各国が宣教師を送り込み教化を試みたが、送られてから数年以内に原住民人間狩りに遭って虐殺されて食べられるという事件が頻発していた。犠牲者の中にはロンドン宣教師協会ジョン・ウィリアムズも含まれていた[3]。

1840年から宣教師白檀目当ての商人たちが持ち込んだ赤痢はしかなどの伝染病が、島中に蔓延するようになり、人口の減少が始まる。商人たちによる住民虐殺なども頻発するようになった。1860年代には白檀の大半が伐採され森林は荒れ果ててしまった。これ以降は奴隷狩りによる人身売買が島を訪れる商人たちの主目的になっていく。1884年フランス宣教師人間狩りに遭い、殺されて食べられるという事件が起きると、フランス軍が上陸報復を行った。しかし、イギリスとの領有権問題からイギリス側の抗議を受けたため、フランス軍は村をひとつ焼き払っただけで撤退した。

1887年に共同海軍委員会設立して島の治安維持に当たることになった。しかし、住民保護する法律もなければ行政機関もなく、住民白人危害を加えたとき報復するためだけの組織としてしか機能せず、実質的には無政府状態のままだった。

1906年イギリスフランスの間で共同統治領とする条約が調印され、各種の法律整備も進められ、行政機関が設置されて無政府状態が解消した。原住民に対してもキリスト教布教を行い食人文化禁止し、文明化をすすめたため、20世紀初頭には食人は完全になくなったといわれている。

最盛期には人口1万人に達した繁栄した島であったが19世紀から激減する。住民現在でもキリスト教宣教師を殺した神罰により衰退したと信じているが、実際の人口激減の理由ヨーロッパ人がもたらした伝染病による大量死、略奪、オーストラリア開拓のための奴隷狩りブラックバーディング)である。このため、島の社会崩壊し、キリスト教化された住民の間にポリネシア伝統文化などはほとんど残っていない。

2021-09-11

今回の自衛隊アフガン派遣の件で、左派の多くはこれまでの立場を曲げていないか

そもそも

安全が確保されている状態ってのがあって、それを満たしてたら派遣してOK

とか

国内法の正当防衛と同じ理屈邦人を警護する」

とか、そういう無理矢理な歴代自民党海外派兵理屈自体がずっと左派から批判されてきたのに

なんでみんな今回はその自民党の「派兵のもの」の理屈に全乗っかりした上で成功だ失敗だってことの議論してるのか?

外務省失策は攻められるべきだけど、同時に派遣自体おかしいはずだろ?憲法違反だろ?

しろ憲法問題に行くと都合が悪いのか?

俺には巧妙に黙るところと攻める所をコントロールしてるように見える。

地対空ミサイル用のフレアばら撒きながら離陸するようなところが「安全が確保されてた」のかよ?

南スーダンやら何やらで自分たちが言ってたこと思い出せよ。




※これに対して外交力の差の話をしてる人がいるが、そこは否定してないんだよ。外務省対応問題があり叩かれるべきだってのは同意してる。

で、同時に法的問題として(ある種切り離された個別問題として)自衛隊も飛ばすべきではなかっただろってことを言ってんの。これまで言われてきた通り憲法違反なんだから

そこを言っちゃうと、そして飛ばさないという判断が実現しちゃうと、外交力の差「だけ」が要因っていう理屈が維持できなかったから黙ったんだろうけどな。

野球の例えで言ってるやつもいるが、敬遠勝負かなんていう次元じゃなく「ルール違反すんな」ってレベルの話であり、この極めて重要な点をみんなしてスルーして作戦どうこう言ってる光景はなかなかおかしいと思うぜ。スポーツ観戦でも、ルール違反プレーが展開されてたらまずそこがツッコまれるだろ常識的に考えて。

フレア象徴的な例として出しただけだけど、一応言うとフランス軍が(21日〜22日くらいに)撒きながら離陸してる動画がある。テロ後の米軍もやってたかな。

2021-08-29

anond:20210829222846

戦前新聞社報道の自由なんてない

自由見解を紙面に書くと青年将校団に新聞社が襲撃される

日本軍に殴られたり殺されるのが怖い記者政府忖度した記事しか書けなくなる

自衛隊だってタリバンに殴られたり殺されるのが怖いか武装程度がどうとか憲法がどうとか言って安全から出ないのでしょ

ドイツフランス軍だってそうだ

2021-08-09

世界大戦争芸術

世界大戦争芸術

1.アウステルリッツの戦い

 西暦1805年冬、ナポレオン率いるフランス大陸軍六万と、ロシアオーストリア連合軍八万がウィーン近郊のアウステルリッツプラッツェン高地西方で激突した。

 フランス軍は当時のロシア軍に対し数的劣勢であったことに加え、アウステルリッツにおいて最重要拠点であるプラッツェン高地ロシア軍に占拠されていたため(一時はフランス軍によって占拠されていたものの、明け渡された)、当時フランス軍にとって有利な状況は何一つ存在していなかった。その上、アウステルリッツ南北双方からは敵増援が到着しつつあり、これら増援ロシア軍が合流を果たせばフランス軍には万に一つの勝ち目も無かった。

 このことからナポレオンは開戦直前に停戦交渉を行う。

 しか連合軍は数的優勢、土壇場になって停戦交渉に打って出たナポレオン弱腰さらには戦場における最重要拠点であるプラッツェン高地を手中に収めていることを鑑み、勝機ありと見た末に停戦交渉を撥ね退け、フランス軍との大規模会戦に打って出たのである。それらが全てナポレオンの張り巡らせた罠であるとも知らずに。


 1805年12月2日、戦端はロシア軍の先制攻撃によって開かれる。プラッツェン高地南方にて、フランス右翼の守るテルニッツ村が攻撃を受けた。

 当時の布陣図によれば、フランス右翼は極めて脆弱であり、ロシア軍はそこを弱点と見做し自軍左翼のブクスホーデン軍を急行させたのである南北に伸びたプラッツェン高地から出撃したブクスホーデン軍によって、フランス右翼陣地はあわや撃滅されようとしていた。右翼が壊滅すれば突破したロシア軍はフランス軍後方へと迂回し、中央フランス主力部隊挟撃することができる。そうなればフランス軍は終わりである

 しかし、まさにその瞬間に――ブクスホーデン軍がプラッツェン高地から、地上のフランス右翼へと殺到し始めた瞬間に――ナポレオン勝利確信したのである


「もしも、ロシア軍が右翼へ向かうべくプラッツェン高地を離れたなら、彼らは確実に敗北するだろう」  - ナポレオン

 フランス右翼は囮であった。ナポレオンの狙いは、ロシア左翼フランス右翼攻撃するために進撃を開始した瞬間に、手薄になった中央プラッツェン高地を集中攻撃することにあった。

 これによって、重要拠点であるプラッツェン高地ロシアから奪回し、戦場の主導権を我が物にしようとしたのであるさらに、アウステルリッツ会戦当日にはプラッツェン高地周囲の森には深い霧が立ち込めており、この霧の存在ナポレオン企図を助けることとなった。

 ロシア左翼プラッツェン高地から出撃して間もなく、スルト元帥麾下の第四軍団14000がプラッツェン高地中央部を急襲し、霧の中突如として現れたフランス軍を前に、ロシア中央は総崩れとなる。また、脆弱だった筈のフランス右翼も、ダヴ―元帥麾下7000の部隊が後方都市から到着したことで、数的劣勢を克服し、戦況を盛り返しつつあった。

(開戦前日にダヴ―麾下7000の部隊は密かに戦場へと到達すると、言わば伏兵として右翼後方に待機していた)

 やがて激烈なフランス軍主力の攻撃により、ロシア中央は壊走を始め、プラッツェン高地フランス軍により奪回された。同時に、フランス右翼攻撃のためにプラッツェン高地から地上へと降り立っていたロシア左翼は、敵陣の中孤立することとなり、戦局はここに決したのであった。


 ロシア軍は戦端を開こうとせず、増援の到着を待ち戦力を増強しさえすれば、少なくともフランス軍との直接対決において敗北を喫することは無かったであろう。

 しかし、ナポレオンはその裏を掻いたのである。彼はロシア軍が友軍と合流する前に会戦の火蓋を切って落とし、大規模な会戦に持ち込むことで、いち早く敵軍主力を撃滅することを画策したのだ。そのために、敢えて戦力劣勢を露呈し、戦場の最重要拠点を敵軍へと譲り、尚且つ弱気姿勢を見せるために仮初の停戦交渉さえして見せたのである。とどめには、勝機に逸るロシア軍の中央攻撃するために、敢えて右翼の布陣を脆弱にするという周到さであった。それら全ての罠がロシア軍の判断能力を奪い、かくしてロシア連合軍八万はアウステルリッツの地にて壊滅したのだ。

 かの有名な書物戦争論』の中で、著者であるプロイセン将校クラウゼヴィッツはこの戦いを次の言葉概括している。 「戦争芸術の粋」。


2.カンナエの戦い

 紀元前219年、遥かアフリカ北端国家カルタゴ将軍ハンニバルは、当時世界最大の強国であった共和制ローマ相手取り絶望的な戦いを挑んでいた。

 その絶望的な戦況を好転させるため、ハンニバルは自ら率いた精鋭部隊スペインからアルプス地方へと経由させることで、ローマの中枢であるイタリア半島本土に対し直接攻撃を仕掛けたのである

 最終的に、ハンニバルイタリア半島に十年間留まり、その間絶えずローマ軍に対する圧迫を続けた。その十年の戦いにおいて世界戦史上に燦然と煌めく、もっとも著名な戦いこそがカンナエの戦いである。


 ハンニバルアルプス山脈を越えイタリア北部に侵攻すると、次々と現れるローマ軍を待ち伏せや正面突破によって壊滅させ、イタリア半島南方へと進撃した。当時、快進撃を続けるハンニバルは数万の軍隊を維持するべく、イタリア半島各地で略奪を行っており、農村を中心に甚大な被害が上がっていたこからローマ軍首脳のストレスピークに達していた。更に、イタリア半島南部においてはローマ軍の補給基地存在しており、そこをハンニバルに抑えられるとローマ軍は南イタリアでの行動を制限される可能性があった。そのため、ローマ首脳陣はカルタゴ軍を撃滅するべくローマ史上最大規模の部隊を編成し、約八万の軍を執政官パウルスとウァロに指揮させた。この時、決戦の地に選ばれたのがイタリア南方カンナエである

 決戦の舞台となったカンナエは、川と丘陵地帯に挟まれた地形であり、カルタゴ軍約五万とローマ軍七万は平原ほとんど埋めるように布陣し、正面からかい合った。

 両軍は双方ともに両翼に騎兵部隊を、中央歩兵部隊を配置しており、いかにも窮屈そうな陣形であった。

 しかし、この人馬が埋め尽くす不自由戦場は、後に分かる通り、ハンニバルの用意した殺戮舞台としてはうってつけのものでさえあった。


 戦端は両翼の騎兵部隊同士の衝突によって開かれる。

 ローマカルタゴ双方の騎兵隊は、狭い地形において機動戦法を取ることができず、正面からぶつかった。

 歩兵戦力ではローマカルタゴで比べるべくもない数的差(6万強:4万)が開いていたが、騎兵の質、量においてはカルタゴ軍がローマ軍を上回っており(6500:1万)、カルタゴ軍は開戦から僅かな間に、左翼での騎兵部隊戦闘において優勢に立っていた。単純な数的有利から繰り出される圧力と、また練度の違いによりローマ騎兵は瞬く間に圧迫され、その算を乱していった。


 一方歩兵部隊における戦力差は繰り返すように圧倒的であり、歩兵同士の戦闘に限ってはカルタゴ軍がローマ軍に勝利する公算は無かった。

 そのため、ハンニバルは一計を案じた。

 ハンニバルカルタゴ歩兵陣形をお椀のように変形させ、その弧を描いた部分をローマ中央歩兵部隊と接敵するようにしたのである。これによって接敵する面積をできるだけ減らし、中央突破されるまでの時間を稼ごうとしたのだ。ハンニバル歩兵同士の戦闘をできるだけ遅滞させ、両翼の騎兵部隊が優勢に立つのを待った。

 また、ハンニバルはお椀型をしていた陣形を、戦闘が推移するに従って屈伸させ後退させた。当初の形(お椀の底の部分が接敵する形)とは逆に、ローマ軍の大半をお椀の中へと誘い込んだのであるさらに、ハンニバルは温存していた自軍左右の重装歩兵ローマ軍へと攻撃させ、ローマ歩兵挟撃される形を築こうとした。

 とは言えこの時点ではカルタゴ軍によるローマ軍への包囲は決定的ではなく、ローマ軍は歩兵戦闘において依然優勢な状況にあった。そのためローマ軍は、優勢な戦況を継続し、カルタゴ中央突破することで戦局を優位に進めようとした。


 ところがその時、歩兵部隊の両翼で戦闘を行っていたカルタゴ騎兵が、歩兵同士の戦闘に加わったのである

 戦端より優勢を維持していたカルタゴ騎兵は、ローマ騎兵を壊滅させた後に、敵歩兵部隊無防備な背後を攻撃した。左右を川と丘陵に囲まれ陣形の狭さ故に、ローマ騎兵有効回避機動を取ることができず、瞬く間にカルタゴ騎兵によって殲滅されたのであった。

 ただでさえカルタゴ軍に包囲されかかっていたローマ軍は、後方から攻撃を受けることによって決定的な混乱を迎えた。周囲を完全に包囲されたローマ軍は逃げ惑い、歩兵中央部では逃げ惑う味方の身体に押されて圧死する者も現れたという。

 この戦いによってローマ軍7万の部隊は完全に壊滅し、6万人が死傷、また、残る1万人は捕虜となった。


 地形を有効に利用し、敵軍を機能不全に陥らせ包囲殲滅する戦法は、いわばハンニバルの御家芸であった。

 機動部隊同士の戦闘を優勢に進め、敵軍を包囲殲滅するこの戦法が、以降近現代軍事教本に取り上げられ、カンナエの戦いのハンニバルに帰する栄光が不動のものとなったことはあまりにも有名であるハンニバルイタリアの地にてローマ軍を完全に破った。この戦闘によって、当初戦闘に参加していた元老院議員政治家八十名が戦死し、議員定員約300名のローマ議会における四分の一が戦死することとなる。


 続く:anond:20210809041010

2021-07-15

圧倒的な戦力差にも関わらず勝利善戦した戦い3

https://anond.hatelabo.jp/20210708183653字数制限に達したので書ききれなかった分はここに付け足しま

ISILに関する記述もありますが、テロを賛美する意図は一切ありません。あくま事実として記載しただけです。無論、ISIL惨敗した戦闘もあります。決してISILを格好いいと思わないでください。

古代

・ペルシス門の戦い

 B.C330 アレクサンドロス大王東方遠征 ペルシア軍700vs★マケドニア軍1万7000

 マケドニア軍の大軍に対し、ペルシス門を少数の守備隊が1か月守り抜いた。マケドニア軍は現地の住民から得た情報を元に挟撃することでようやく勝利を収めた。

中世

マリツァの戦い

 1371年 オスマンセルビア戦争 ★オスマン軍800vsセルビア軍2万~7万

 セルビア軍は大軍を率いて、オスマン帝国の首都エディルネへの奇襲を試みた。しかし、オスマン軍の夜襲に遭い敗退した。

近世

ペンコの戦い

 1550年 アラウコ戦争 ★スペイン・ピウンチ連合軍500vsマプーチェ族1万5000~2万

 スペイン軍はペンコに砦を築いた。マプーチェ族は大軍で包囲するが、攻城兵器もなく砦を突破できなかったため、兵を引いたところをスペイン軍に追撃される。マプーチェ族は4000人が戦死し、捕らえられた200人は鼻と耳をそがれた。

・チャカンの戦い

 1660年 マラータ王国800vs★ムガル帝国2万

 ムガル軍がマラータ軍を包囲。1ヶ月の攻防戦の末にマラータ軍は包囲した。マラター軍の死傷は300人、ムガル軍の死傷者は3000~5000であった。

・スラトの戦い

 1664年 ムガル帝国1000vs★マラータ王国8000~1万

 スラト市をマラータ軍が襲撃、3日間の攻撃の末、同市は6日間略奪の対象となった。ムガル軍の死傷者は28人、マラータ軍の死傷者820人であった。

・サラタの戦い

 1699~1700年 マラター王国300vs★ムガル帝国1万 

 サラタ市をムガル軍が包囲、数ヶ月にも及ぶ包囲戦の末に陥落させ、守備隊も玉砕したが、ムガル軍は3500人が死傷した。

・トルナの戦い

 1704年 マラータ王国700~800vs★ムガル帝国1万5000

 ムガル軍がマラータ軍を包囲、トルナ市を陥落させた。マラータ軍の死傷者は170~180、ムガルの死傷者は300であった。

近代

・コーレーガオンの戦い

 1818年 第三次ラー戦争 ★東インド会社750vsマラータ王国2万8000

ラータ軍とイギリス軍交戦、丸一日の激戦の末にマラータ軍が撤退した。イギリス軍の死傷者175人に対し、マラータ軍の死傷者は500~600人であった。

ブラッド・リバーの戦い

 1838年 グレート・トレック ★フォールトレッカーズ664(200人が非戦闘員)vsズールー軍1万5000~3万

 フォールトレッカーズ(英領ケープ植民地から南ア北部へのブーア人移民)がズールー族の大軍交戦撃退した。ズールー族3000人以上の戦死に対し、ブーア人はわずか3人が負傷したのみであった。

・ヴェコプの戦い

 1836年 グレート・トレック ★フォールトレッカーズ35vsマタベレ軍5000

 マタベレ軍がフォールトレッカーズを襲撃するも、撃退された。マタベレ184名の戦死に対し、ブーア人は2名が戦死した。マタベレは戦闘には5万500頭の家畜強奪することに成功した。

・チンハットの戦い

 1857年 インド大反乱 東インド会社700vs★反乱軍7000

 イギリス軍反乱軍鉢合わせし、敗退するが、全滅は免れた。イギリス軍の死傷者は200人ほどで、反乱軍の死傷者は589名であった。

・トゥエンクアン包囲戦

 1884~1885年 清仏戦争 ★フランス軍630vs清・阮朝1万2000

 フランス軍が清軍に包囲されるが、4ヶ月持ちこたえた末に撃退した。フランス軍の死傷者274名に対し、清軍の死傷者は3000名以上であった。

ドガリの戦い

 1887年  エリトリア戦争 イタリア軍550vs★エチオピア軍1万5000

 エチオピア軍の大軍イタリア軍大隊を襲撃。イタリア軍はほぼ全滅したが、エチオピア軍も1071名が戦死した。

現代

・サポティラルの戦い

 1927年 サンディー戦争アメリカニカラグア占領)・バナナ戦争 アメリカ軍・ニカラグア政府軍20vs★サンディニスタ400人以上 

 アメリカ軍・ニカラグア政府軍撃墜された米軍パイロット2名の救出に20派遣する。救出隊は途中でゲリラ待ち伏せに遭い、奮戦するも撤退し、作戦は失敗した。救出隊は4人が死亡したが、ゲリラは40~60名が死亡し、1人捕虜となった。

・フォルネブの戦い

 1940年 ノルウェーの戦い 第二次世界大戦 ノルウェー軍7vs★ドイツ軍70~80

 ノルウェー航空部隊ドイツ空軍交戦ノルウェー軍は戦闘機1機、ドイツ軍は4機撃墜されたが、ノルウェー軍の燃料が尽きたため、戦闘ドイツ軍勝利に終わった。

ビルハケイムの戦い

 1942年 北アフリカ戦線 第二次世界大戦 自由フランス軍3703vs★ドイツイタリア軍4万5000

 ロンメル将軍指揮下の枢軸軍自由フランス軍の籠城する砦を包囲、16日間の激戦を経て、砦を占領した。フランス軍の死傷者369名に対し、枢軸軍の死傷者は3300名に及んだ。この戦いはイギリス第8軍の撤退と再建のための時間を稼ぎ、エル・アライメンの戦いでの連合軍勝利につながった。チャーチルド・ゴールは勿論のこと、ヒトラーですらフランス兵の勇気を称えた。

・ヴェロニク作戦

 1955年 アルジェリア戦争 FLN359vsフランス軍5000+航空支援

 フランス軍FLN活動鎮圧するため爆撃を伴った大規模な掃討作戦実施する。FLNゲリラ戦で1か月以上抵抗した後に撤退した。ゲリラ側の死者は9名で、鎮圧の失敗はFLNの影響力を大いに高め、アルジェリア独立につながった。

・ヴェラノ作戦

 1958年  キューバ革命 ★7月26日運動300vsキューバ軍1万2000

 バティスタ政権反乱軍鎮圧のために軍を差し向ける。しかし、カストロチェ・ゲバラ指揮下の反乱軍返り討ちに遭った。この戦いで反乱軍の指揮は大いに上がり、バティスタ打倒に繋がった。

サンタクララの戦い

 1958~1959年 キューバ革命 ★7月26日運動340vsキューバ軍3900

 反乱軍はヒジャ・クララ州の首都サンタクララ攻撃、4日で占領した。その直後バティスタドミニカ亡命し、キューバ革命成功した。 

・ドゥヴロブニク包囲戦

 1991年から1992年 クロアチア紛争 ★クロアチア軍480~1000vsユーゴスラヴィア軍7000

 ユーゴスラヴィア軍はクロアチア軍を7ヶ月に渡って包囲するが、陥落できず撤退した。この戦いで1万5000人以上の難民が出た。

サパティスタの反乱

 1994年 サパティスタ民族解放軍3000vsメキシコ軍3万~4万

 メキシコ最貧州チアパス先住民たちが北米自由貿易協定NAFTAによる貿易関税撤廃に反対、一斉蜂起した。政府ゲリラを包囲し、徹底的な鎮圧を試みるが、反乱が世間の注目を浴びると、一転、停戦を呼び掛けた。両者の間で先住民権利文化尊重するサンアドレア協定が結ばれた。

ファルージャ陥落

2013年 ★ISIL200~300vsイラク軍1万人以上

 ファルージャ市をISILが襲撃。1週間足らずでイラク軍を撃退し、同市を占領した。

モスル陥落

2014年 ★ISIL800~1500vsイラク軍1万2000

 ISILモスル市を襲撃。1週間足らずで陥落させた。イラク軍は6万人で防衛に当たったと主張しているが、実際にはその2割ほどの兵力しか無かったと推定される。

バイジ奪還

 2014~2015年 ISIL1500以上vs★多国籍軍1万5000+米英加の航空支援

 イラク軍は1年弱にも及ぶ激戦の末にバイジ市をISILから奪還した。ISIL2000人以上が戦死したが、イラク軍も2500人以上が死傷した。

・ラマディ陥落

 2014~2015年 ★ISIL150~600vsイラク軍6000

 ISILがラマディ市を襲撃。5ヶ月の激戦の末に同市を占領した。

2021-07-08

圧倒的な戦力差にも関わらず勝利善戦した戦い 2

前回のリストhttps://anond.hatelabo.jp/20210707223409字数制限に達したようなので、書ききれなかった分はここに付け足します。前回はたくさんのブックマークコメントありがとうございました。https://anond.hatelabo.jp/20210715114737も参照ください

古代

・第二次合肥の戦い

 214年 三国時代 曹操軍★7000vs孫権10

 孫権は自ら軍を率いて曹操軍の籠城する合肥城を攻める。しかし、張陵の奮戦に苦しめられた挙げ句、疫病の発生により撤退余儀なくされた。更に張陵に追討ちをかけられ、命からがら逃亡した。

中世

・沙苑の戦い

 537年 南北朝時代 ★西魏1万vs東魏20

 西魏軍は葦原に身を隠し、東魏軍の列が乱れたところを一斉攻撃する戦法で勝利した。東魏軍は6000名が捕らえられ、7万人が捕虜となった。

パリ包囲戦

 885~886年 ★西フランク王国200vsヴァイキング3万~4万

 西フランク王国首都パリヴァイキング大軍が包囲。フランク人達は1年にもわたる激しい抵抗を繰り広げ、やがてカール3世率いる援軍が到着したため、ヴァイキング撤退した

多々良浜の戦い

 1336年 南北朝建武の乱 ★足利1000vs菊池軍1万

 博多へ侵攻する菊池軍と足利尊氏が遭遇。菊池軍に離反者が相次ぎ、敗北した。

ベオグラード包囲戦

 1440年 ★ハンガリー軍3500vsオスマン軍3万~5万

 オスマン帝国はハンガリー王位を巡る内戦に乗じてセルビアへ侵攻、ベオグラードを包囲した。ハンガリー軍は5ヶ月に渡って抵抗し、これを退けた。

・クルヤ包囲戦

 1450年 オスマンアルバニア戦争 ★アルバニア8000vsオスマン10

 スカンデリベグ率いるアルバニア軍がオスマン帝国に包囲された。アルバニア軍は敵軍の補給を断ち、士気の低下と病気流行に苦しめられたトルコ軍撤退した。

近世

ベオグラード包囲戦

 1456年 ★ハンガリー軍4000vsオスマン軍3万~40万

 コンスタンティノープルを陥落させたトルコ軍は勢いに乗じて、ハンガリーへ侵攻するが、ベオグラード英雄フニャディ・ヤノーシュの活躍の前に敗れ去る。

・ヘミングステットの戦い

 1500年 ★ディットマルシェーン500~1000vsデンマーク軍1万2000

 ディットマルシェーンの農民達がカルマ同盟に対して反乱を起こす。農民達はバリケードを築き、土地を氾濫させたため、デンマーク軍は数的優位を活かせなかった上、大勢溺死したため、撤退した。

・ロドス包囲戦

 1522年 聖ヨハネ騎士団6700vs★オスマン帝国8万~12

 ロドス島支配する聖ヨハネ騎士団オスマン帝国が包囲。半年にも及ぶ激戦の末に騎士団降伏シチリア島へ移った。トルコ軍にも2000~5万の死傷者が出た

・クーセグ包囲戦

 1532年 ハンガリー軍700~800vsオスマン12万~20

 ウィーン遠征へ向かうトルコ軍ハンガリーの小さな町クーセグを包囲。貧弱な装備ながらも守備隊は25日間抵抗し続け、ハプスブルクの援軍を恐れたスレイマン1世撤退した。ハンガリー軍最後まで降伏しなかったという説と降伏を受け入れたが少数のトルコ人しか砦に入れなかったという説がある。

カステルヌーヴォ包囲戦

 1539年 スペイン軍3500vs★オスマン軍5万

 現モンテネグロの町カステルヌーヴォをバルバロス率いるトルコ軍が完全包囲。スペイン軍降伏勧告無視し、1ヶ月にも及ぶ激戦の末に100名を除いて全滅したが、トルコ軍8000から2万人が戦死した。

・アンドリエンの戦い

 1550年 アラウコ戦争 ★スペイン・ピウンチ連合軍500vsマプーチェ族2万人

 マプーチェ族はスペイン軍に夜襲を仕掛けるが、スペイン軍は警戒を怠らなかったため、返り討ちにされ、3000人が戦死した。

・エゲル包囲戦

 1552年 ★ハンガリー軍2000vsオスマン軍3万5000~4万

 イシドヴァーン・ドヴォ率いるハンガリー軍トルコ軍に包囲されるも、厚い防壁、イシドヴァーンのリーダーシップトルコ軍の内部対立に助けられ、防衛成功した。

マラッカ包囲戦

 1568年 ★ポルトガル軍数百vsアチェ軍1万5000

 アチェ王国ポルトガルからマラッカを奪還しようと大軍派遣し包囲するが、3000人以上の犠牲者を出して敗北した。

・ファマグスタの戦い

 1570年~1571年 オスマンヴェネツィア戦争 ヴェネツィア8500vs★オスマン10万~12

 キプロスクリスチャン最後の砦ファマグスタが1年近く激しい抵抗を繰り広げた後に降伏した。ヴェネツィア軍は7600人が戦死し、トルコ軍は1万~2万人が死傷した。当初トルコ軍は砦内のクリスチャン安全保証するもその約束反故にし、ヴェネツィア人たちを虐殺し、指揮官ブラガディンは耳と鼻を削がれた上、皮剥の刑に処された。

・英賀合戦 

 1577年 戦国時代中国攻め ★小寺軍500vs毛利軍5000

 織田寄りの小寺氏を討伐するため、毛利大軍派遣する。しかし、小寺軍は敵が上陸した直後を奇襲した。更に農民達に旗を挙げさせ、それを敵の援軍と勘違いした毛利は兵を引いた。

・クヴォダンスコの戦い

 1577年~1578年 クロアチア軍300vs★オスマン軍5000~1万 

 クロアチア都市クヴォダンスコをトルコ軍が包囲した。防衛軍は3ヶ月に渡って籠城し、3度の大規模な攻撃を退けた。守備隊が全員餓死若しくは凍死した後にトルコ軍は砦を占拠し、敵兵の遺体を手厚く葬った

・石城合戦7月) 

 1578年 ★伊東軍600vs島津軍7000

 伊東軍が建設した石城を島津軍が包囲する。しかし、石城は三方を急流、背後を険しい崖に覆われた天然の要塞であったため、島津は一度撤退した。伊東軍の死者10人に対し、島津軍は500人が死亡し、大将島津忠長も重傷を負った。2ヶ月後島津軍は1万人の大軍派遣して城を堕とした。

・ナジカニジャ包囲戦

 1601年 ★オスマン軍9000vsハプスブルク6万5000~10

 現ハンガリー都市ナジカニジャをハプスブルク大軍が包囲。オスマン軍は潤沢な物資があるように見せかけながら防衛戦を繰り広げ、73日目に奇襲攻撃を仕掛けた。これを敵の援軍と勘違いしたハプスブルクは軍を撤退させた。

・パバンカインドの戦い

 1660年 マラータ軍600vs★ビジャープル軍1万

 マラータ王国の台頭を警戒したビジャープル王国は討伐のために軍を派遣する。マラター軍はビジャープル軍の追撃から国王シヴァジーを逃がすため、狭い砦で命がけの戦いに挑んだ。この戦いで両軍とも兵力の半分を失ったが、シヴァジーは逃亡に成功した。

・ハドウの戦い

 1694年 ポーランドオスマン戦争 ★ポーランド軍400vsクリミア・ハン軍4万

 ポーランドポジーリャに侵入したタタール軍とポーランド軍が激突した。ポーランド軍は木製の柵で守りを固め、弾薬が尽きれば、モンゴル軍の矢を打ち返すなど奮戦し、撃退した。ポーランド軍の損害は100名足らずに対して、タタール軍は1万人以上であった。

アナントプルの戦い

 1700年 ★シク教1000vsムガル軍1万

 シク教の台頭を恐れたムガル帝国は討伐軍を派遣する。しかし、グル・ゴービンド率いるシク教徒たちに敗れる。

・ナフプリオ包囲戦

 1715年 ヴェネツィア軍4500vs★オスマン軍7万人

 現ギリシアの町ナフプリオをヴェネツィアトルコから奪還することに成功し、更にパラミディ要塞建設し、防衛強化に努めた。しかし、トルコ大軍に包囲され、1週間ほどで陥落し、住民達は虐殺されるか囚人として連行された。しかし、この戦いでトルコ軍8000人以上が戦死した。

・ガングワナの戦い

 1741年 マールワール軍1000vs★アンベールムガルバラプールなど連合軍1万~4万

 マルワール王国はアンベール王国戦争に敗れ賠償金土地要求されるが、国民が怒ったため、報復戦争を開始する。マールワール軍の騎兵ははアンベール軍を強襲し、蹴散らすものの、ムガル軍の砲撃によって敗北した。マールワール軍は全員が戦死するか負傷したが、連合軍12000人が負傷した。

近代

レイバー橋の戦い

 1855年 第二次フランス・トラルザ戦争 ★フランス軍14vsトラルザ軍1000人

 セネガルセントルイスを繋ぐレイバー橋をトラルザ軍が襲撃するも、14名の守備隊に撃退された。フランス軍は3名が負傷しただけであったが、トラルザ軍は127名が死傷した。

・第二次長州征伐

 1866年 ★長州軍3500vs江戸幕府10万5000

 江戸幕府将軍徳川家茂自ら軍を率いて長州討伐に出征する。しかし、西洋化が進められた長州の装備に苦しめられた挙げ句、家茂が病死したため、撤退した。

カブール英国居住地の包囲

 1879年 第二次アフガン戦争 イギリス軍75vs★アフガン2000

 カブール英国居住地に居たピエールカヴァナリ郷をアフガン人が襲撃した。護衛達は奮戦し、600人死傷させたが、2名を除いて戦死した。

・マイワンドの戦い

 1880年 第二次アフガン戦争 イギリス軍2500vs★アフガン軍2万5000

 アフガン人とイギリス軍が激突、数で勝るアフガン人が勝利を収めた。しかし、イギリス軍の死者1000人に対し、アフガン軍の死傷者は1万人以上と勝者の払った犠牲も大きかった。

・シャンガニ・パトロール

 1893年 第一次マタベレ戦争  イギリス南アフリカ会社37vs★マタベレ軍3000

 イギリス南アフリカ会社は現ジンバブエのマタベレ王ロベングラの逮捕のために軍を派遣するが、待ち伏せに遭い3名を除いて全滅した。しかし、マタベレも400~500名が戦死した。

サンファンデルモンテの戦い

 1896年 フィリピン革命 ★スペイン軍100vsカティナン800~1000

 マニラの東サンフアンフィリピン独立を求める秘密結社ティナン武装蜂起を起こすが、スペイン軍に敗れ撤退した。この戦いがフィリピン独立戦争の始まりとなった。

カカロン・デ・シリの戦い

 1897年 フィリピン革命 ★スペイン軍600vsフィリピン6000

 ブラカンフィリピン人がカカロン共和国設立宣言し、砦を築いた。スペイン軍は討伐軍を派遣し、砦を攻略した。反乱軍の残党達はスペインに対してゲリラ抵抗を続けることとなる。

・サラガリの戦い

 1897年 ティ作戦 イギリス領インド帝国軍21vs★パシトゥーン人1万人

 ティ地方アフガン人がイギリスに対して反乱を起こし、サラガリ駐在していたイギリス軍を襲った。イギリス軍は全滅したものの、アフガン人も450名が死傷した。

サンタ・クルス包囲戦 

 1898年 フィリピン革命 スペイン軍700vs★フィリピン軍1万

 ラグナスペイン軍最後拠点サンタ・クルスホセリサールの兄パシアノ・リサールが包囲した。スペイン軍は2ヶ月に及ぶ抵抗フィリピン軍に大損害を与えたが、降伏した。

・ベーラー包囲戦

 1898~1899年 フィリピン革命 スペイン軍50vs★フィリピン軍800

 教会に立て籠もったスペイン軍フィリピン人達が1年にわたって包囲する。スペイン軍フィリピン軍が700名の兵力を失う程激しく抵抗し続けたが、スペイン本国が敗れたことを知り投降した

現代

・ウェンギエルスカグルカの戦い

 1939年 第二次世界大戦ポーランド侵攻 ポーランド1200vs★ドイツ軍1万7000

 ドイツ軍ポーランド軍の防衛するウェンギエルスカグルカ村を通過する際にポーランド軍と2日間交戦する。ドイツ軍勝利したものの、多大な犠牲を強いられ、ポーランド軍の戦死者は7~20名、7名が処刑された。

・ヴェステルプラッッテの戦い

 1939年 第二次世界大戦ポーランド侵攻 ポーランド205vs★ドイツ軍2600

 ドイツ軍自由都市ダンツィヒのヴェステルプラッテ半島攻撃ポーランド軍は1週間に及ぶ激戦の末に降伏ポーランド軍の死傷者67名に対し、ドイツ軍の死傷者は300~400名であった。

ウィズナの戦い

 1939年 第二次世界大戦ポーランド侵攻 ポーランド軍350~700vs★ドイツ軍4万2000

 ドイツ軍ウィズナ村を通過した際にポーランド軍の激しい抵抗に苦しめられた。3日間の死闘ポーランド軍は壊滅したが、ドイツ軍も1400名の死傷者を出した。

ミルの戦い

 1940年 第二次世界大戦 オランダ侵攻 オランダ2000vs★ドイツ軍3万

 ドイツ軍ミル村を通過する際にオランダ軍の激しい抵抗に遭った。ドイツ軍勝利したが、500人以上が死傷し、オランダ軍は80人が死傷した。

・ソーミュールの戦い

 1940年 第二次世界大戦 フランス侵攻 フランス軍2500vs★ドイツ軍4万

 フランス軍の訓練生達がドイツ軍攻略に2日間抵抗した。フランス軍の死傷者250に対し、ドイツ軍の死傷者は400名で戦車も7両破壊された。訓練生達の勇気ドイツ軍指揮官クルト・フェルトですら賞賛した。この戦いはペタン元帥停戦呼びかけの後に行われたため、最初レジスタンスであるとされる。

・ニリムの戦い 

 1948年 パレスチナ戦争 ★イスラエル軍39~45(内12女性)vsエジプト軍500~800

 イスラエルキブツ共同体)ニリムエジプト軍が包囲した。エジプト軍装甲車航空機などの支援を受けて攻撃したが、イスラエル軍の防御を突破できず撤退した。

・3234高地の戦い

 1988年 ソ連アフガン侵攻 ★ソ連軍39vsムジャヒディーン、パキスタン軍450~650

 3234高地配備されたソ連空挺隊がムジャヒディーンの襲撃を受けた。ソ連軍は34名の死傷者を出しながらも200名以上を殺害し、撃退した。

・ヴコヴァルの戦い

 1991年 クロアチア紛争ユーゴスラヴィア紛争 クロアチア軍1800vs★ユーゴスラヴィア・SAO36000

 クロアチア東部都市コヴァルをユーゴスラヴィア軍が87日間にわたって包囲した。クロアチア軍は大半が死傷し、多くの民間人虐殺追放されたが、ユーゴスラヴィア軍も3600人が死傷し、戦車武装車両1100両以上と航空機3機が破壊された。

2021-07-07

圧倒的な戦力差にも関わらず勝利善戦した戦い

 戦力差が10倍以上のもののみ取り上げています。随時更新中 ★は(戦術的)勝者側  

 多くのコメントブクマありがとうございます。 コメントで私が知らなかった戦いについて教えてくださった方ありがとうございますhttps://anond.hatelabo.jp/20210708183653こちらも参照ください

古代

テルモピレーの戦い

 B.C.480 ペルシア戦争 ギリシア軍7000vs★ペルシア軍30万以下

 スパルタレオニダス指揮下のギリシア連合軍ペルシア軍の大軍と激突した。狭い地形を活かし、3日間の激戦を繰り広げるが、背後から攻撃され敗北した。この戦いでギリシア軍は1000人、ペルシア軍は2万人の兵士を失った。

 参考作品「300(ザック・スナイダー監督)」

・彭城の戦い 

 B.C205 楚漢戦争 ★楚3万vs漢56万

 漢軍が彭城を制圧した事を知った項羽精鋭部隊を率いて漢軍を襲撃した。攻略成功したことから油断し、酒宴に明け暮れた漢軍は突然の事態太刀打ちできず20万人以上が戦死した。

昆陽の戦い

 23年 ★緑林軍1万vs新43万

 劉秀率いる緑林軍が新軍に包囲される。劉秀は脱出し、外側から新軍を襲撃して壊滅させた。

・ワトリング街道の戦い

 60年 ★ローマ軍1万vsブリタニア23

 ブーディカ女王率いるケルト人ローマ支配に対して反乱を起こした。ローマ軍は反乱軍を狭いワトリング街道に誘い込み、これを破った。ローマ軍の死傷者はわずか400人であったのに対し、反乱軍の死傷者は8万人であった。

・博望坡の戦い

 203年 三国時代 劉備軍4000vs曹操12

 劉備軍と曹操軍が宛で対峙する。劉備撤退したと見せかけ、誘われた夏侯惇撃破した。李典の援軍が来るとみた劉備は兵を引き、曹操軍も撤退した。

淝水の戦い

 383年 五胡十六国時代 ★東晋軍8万5千vs前秦軍117万

 華北統一成功した前秦東晋征服のために大軍派遣する。前秦軍は敵軍を誘うため、先鋒を退却させる作戦をとるが、兵が混乱して退却を止めなかったため、そこを突かれて敗北した。

中世

・チェラーミの戦い 

 1063年 ★ノルマン軍136vsムスリム5300

 アラブ人支配下にあったシチリアにルッジェーロ1世率いるノルマン人が侵入イスラム教徒撃退した。アラブ軍は戦力の7割を失ったとされる。

・黄天蕩の戦い

 1130年 宋金戦争 ★南宋8000vs金10万 

 韓世忠とその妻梁紅玉率いる南宋軍が金軍を打ち破り、2万5000人を討ち取った。

志度合戦

 1185年 治承・寿永の乱 ★源氏80vs平氏1000

 屋島で破れ、志度寺に立て籠もった平氏源義経が追撃した。平氏大軍が後に続くとみて敗走した。

・下赤坂城の戦い

 1331年 元弘の乱 楠木軍500vs★鎌倉幕府1万

 楠木正成は下赤坂城に籠城し、幕府の包囲にゲリラ戦で1ヶ月以上抵抗した。城は陥落したものの、幕府楠木正成護良親王を討ち損ねた。

千早城の戦い

 1333年 元弘の乱 ★楠木軍1000vs鎌倉幕府2万5000

 千早城に立て籠もった楠木軍は幕府軍に包囲されるも、3ヶ月に渡って抵抗した。気が緩んだところを奇襲するなどの奇策で消耗した幕府軍は攻略を諦め、撤退した。

・船上山の戦い

 1333年 元弘の乱 ★後醍醐天皇軍150vs鎌倉幕府3000

 後醍醐天皇隠岐の島から脱出すると伯耆国武将名和長年挙兵し、隠岐守護佐々木氏攻撃した。名和軍は数百の軍旗を見せつけて威嚇する、暴風雨に乗じて攻撃するなどの戦法で幕府軍を破った。

応永の外寇

 1419年 ★対馬国600vs李氏朝鮮1万7000

 倭寇に悩まされた朝鮮はその本拠地と見なした対馬へ討伐軍を派遣するが、宗氏の抵抗に遭い撤退する。対馬側は100~200人、朝鮮軍は3000人ほどが戦死した。

ビルスの戦い

 1444年 旧チューリッヒ戦争 スイス軍1500vs★フランス軍3万~4万

 スイス軍チューリッヒを包囲したことにより、フランス戦争突入した。スイス軍は数で勝るフランス軍死闘の末に壊滅するが、フランス軍2000人の損害を被った。この戦いによりスイス人の勇敢さがヨーロッパ各地に知れ渡った。

土木の変

 1449年 ★オイラト軍3万vs明軍50万

 明の正統帝は自ら大軍を率いて、オイラトの征伐に向かう。しかし、食料配達の困難や大雨により明軍は士気が低下しており、そこをオイラトに奇襲された。明軍はほぼ全滅し、皇帝捕虜となった。

近世

九頭竜川の戦い

 1506年 戦国時代 ★朝倉軍1万5000vs一向宗30万

 越前制圧を目論む一向宗朝倉軍が九頭竜川を挟んで対峙朝倉軍は夜襲により一向宗撃退した。

セントラの戦い

 1519年 スペインメキシコ征服 ★スペイン軍410vsマヤ軍1万~4万

 征服コルテス率いるスペイン軍がマヤ大軍交戦マヤ軍はスペイン人の軍馬に恐れをなして敗北した。スペイン軍の犠牲わずか2名だが、マヤ軍は800の犠牲を出した。この戦いでコルテスは後の妻にして翻訳者としてアステカ征服に貢献するインディオ女性マリンチェを得た。

・オツンバの戦い

 1520年 スペインメキシコ征服 ★スペイン・トラスカ連合軍 7~800人vsアステカ軍4万

 アステカ軍はスペイン軍の侵略を一度退けることに成功した。その後、大軍を率いて追い打ちを試みる。しかし、初めて見る軍馬威力に恐れ戦き、指揮官を含む大勢戦死したため敗走した。この戦いの後コルテスはアステカを滅ぼした。

・プナの戦い

 1531年 スペインペルー征服 ★スペイン軍168vsプナ先住民3000

 スペイン軍がインカ帝国征服へ向かう途中、プナ島で先住民交戦するが、銃と馬の威力でこれを打ち破る。

・ディーウ包囲戦

 1538年 オスマンポルトガル戦争 ★ポルトガル軍600vsオスマン・クジャラー連合軍2万2000

 ポルトガル軍が連合軍に包囲されるも、3ヶ月の籠城戦の末にこれを退けた。ポルトガル軍の死傷者は40名に対し、連合軍の死傷者は3000名。

・スィゲトヴァール包囲戦

 1566年 ハンガリー軍2000~3000vs★オスマン10万~30万

 ウィーン遠征へ向かうトルコ軍クロアチア総督リンスキ率いるハンガリー軍を包囲。1ヶ月にも及ぶ激戦の末に防衛軍ほとんど全滅したが、トルコ軍にも2万人の犠牲者が出た上、スレイマン1世が陣没したため、撤退余儀なくされた。リシュリューはこの戦いを「文明が救われた戦い」と称えた。

今山の戦い

 1570年 戦国時代 ★龍造寺軍5000vs大友軍6万~8万

 佐賀城に籠城した竜造寺隆信を大友宗麟率いる大軍が包囲する。攻防戦は4ヶ月にも及び、落城は目前に迫ったが、大友軍が勝利確信して宴を催したところを奇襲し、これを破った。

木崎原の戦い 

 1572年 戦国時代 ★島津軍300vs伊東軍3000

 島津軍は数で勝る伊東軍を伏兵に背後を突かせることで破った。島津軍は275人が犠牲となったが、伊東軍は指揮官伊東祐安含む800人以上が戦死した。この戦いは後の島津軍の戦いにおいて参考にされ、九州制覇に貢献した。

信長第一回雑賀攻め

 1577年 戦国時代 雑賀衆2000vs織田10

 信長石山本願寺に味方する雑賀衆の討伐を試みるが、雑賀衆は1ヶ月にも及ぶゲリラ戦でこれを退け、両者の間に和睦が成立した。

天目山の戦い

 1582年 戦国時代甲州征伐 武田軍43vs★織田軍3000~4000

 織田軍に追い詰められた武田軍の最後の戦い。武田軍は奮戦虚しく壊滅し、武田勝頼は自害したが、織田軍にも900人近い死傷者が出た。

・沖田綴の戦い

 1584年 戦国時代 ★島津有馬連合軍6000vs龍造寺軍6万

 連合軍は数で勝る龍造寺軍を釣り野伏せで破った。この戦いで総大将竜造寺隆信は戦死した。

・岩屋城の戦い

 1586年 戦国時代 高橋軍763vs★島津軍2万~5万

 島津軍は筑前を攻めた際、高橋軍の籠城する岩屋城を攻略した。高橋軍は講話提案にも応じず、激戦の末に全滅した。島津軍は4500以上の死傷者を出した。

忍城の戦い

 1590年 戦国時代小田原攻め 成田2000vs★豊臣軍2万~5万

 石田三成ら率いる大軍忍城を包囲し、水攻めを行うも、成田軍はそれに耐え、北条氏が滅亡した後に降伏した。 

四川の戦い

 1597年 慶長の役 ★島津2000vs明・朝鮮連合軍10

 島津義弘率いる日本軍が明軍に包囲されるも、これを返り討ちにした。日本軍の勝因として、鉄砲使用したこと、明軍の食料庫を焼くことで短期決戦に持ち込んだこと、連合軍の統制がとれなかった上に圧倒的な兵力差故に慢心していたことが挙げられる。

田辺城の戦い

 1600年 戦国時代 東軍500vs★西軍1万5000

 田辺城に立て籠もった東軍西軍が包囲するが、東軍には文化人細川幽斎が居たため、西軍積極的な攻勢が出来ず、2ヶ月ほど釘付けになった。最後後陽成天皇の命で開城したが、西軍関ヶ原の戦いには間に合わなかった。

・第二次上田合戦

 1600年 戦国時代 西軍2500vs東軍3万8000

 関ヶ原へ向かう徳川秀忠指揮下の東軍真田昌幸率いる西軍交戦した。足止めを食らった東軍関ヶ原に間に合わなかった。

・リオ・サン・フアン・デ・ニカラグアの戦い

 1762年 七年戦争 ★スペイン100vsイギリス軍2000

 イギリス軍ニカラグア処女降誕要塞を包囲するが、スペイン軍は19歳の少女ラファエラ・エレーラの指揮下で奮戦し、砦を守り抜いた。

近代

アラモの戦い

 1836年 テキサス独立戦争 テキサス200vs★メキシコ軍4000

 当時メキシコ領であったテキサス移住したアメリカ人メキシコに対して反乱を起こした。アラモ砦に籠城したテキサス軍はメキシコ軍の包囲に対し13日間持ちこたえた末に全滅した。

 参考作品アラモジョン・ウェイン監督)」

・雨花台攻略

 1862年 太平天国の乱 ★湘軍2万vs太平天国20

 湘軍によって要塞化された雨花台を太平天国軍が5ヶ月にわたって何度も攻撃するが、落とせず1万の兵力を失った後に攻略を諦めた。

・第二次サビーネ・パスの戦い

 1863年 南北戦争 ★南軍50vs北軍5000

 サビーネ湖とメキシコ湾を繋ぐサビーネ・パス防衛する南軍北軍攻撃を受けるも、これを撃退する。北軍100名が死傷し、350名が捕らえられた。

カマロンの戦い

 1863年 ナポレオン三世メキシコ出兵 フランス外国人部隊65vs★メキシコ2000

 65名の外人部隊現金300万フラン輸送する部隊の護衛を任されていた。メキシコ軍の大軍の前に破れ、43名が戦死、19名が捕虜となったが、輸送部隊目的地へ現金を届ける事が出来た。

・ロルクズドリフトの戦い

 1879年 ズール戦争 ★イギリス軍150vsズールー軍3000~4000

 ロルクズドリフト伝道所跡に築かれたイギリス軍の砦をズールー族の大軍が襲う。イギリス軍は2日間の激戦に勝利し、ズールー軍は800名以上の死傷者を出した。

・アブ・クレアの戦い

 1885年 マフディーの乱 ★イギリス軍1100vsマフディー軍1万2000

 ゴードン将軍の救出に向かうイギリス軍とマフディー軍が激突し、マフディー軍は1100人の死傷者を出して敗北した。

・アブ・クルの戦い

 1885年 マフディーの乱 ★イギリス軍1200vsマフディー軍1万4000

 ゴードン将軍の救助に向かうイギリス軍がマフディー軍と交戦し、勝利した。マフディー軍の損失は明らかではないが甚大であるとされる。

現代

盧溝橋事件

 1937年 日中戦争 ★日本軍5600vs中国軍10

 盧溝橋付近日本軍の夜間演習中に日本兵一人が行方不明になる。日本軍がこれを理由中国軍攻撃し、破った。この事件が熾烈な日中戦争きっかけとなった。

タラワの戦い

 1943年 太平洋戦争 日本軍2600vs★アメリカ軍3万5000

 タラワ環礁ベティオ島を防衛する海軍部隊アメリカ海兵隊が激突した。島は3日で陥落し、守備隊は玉砕したが、米軍も3000人が死傷し、軍への志願率が一時的に減少した。

・拉孟の戦い

 1944年 日中戦争 日本軍1300(うち傷病兵300)vs★中国軍2万

 日本軍中国軍が3ヶ月にわたって交戦し、日本軍が全滅した。中国軍8000人が死傷した。

・騰越の戦い

 1944年 日中戦争 日本軍2800vs★中国軍5万

 日本軍中国軍が3ヶ月にわたって交戦し、日本軍が全滅した。中国軍は2万人が死傷した。

アンガウルの戦い

 1944年 太平洋戦争 日本軍1250vs★アメリカ軍2万1000

 日本軍歩兵第59連隊第1大隊守備するアンガウル島をアメリカ軍第81歩兵師団攻略した。1ヶ月以上にも及ぶ激戦の末に日本軍玉砕したが、米軍2000人死傷した。

 参考作品英霊の絶叫(船坂弘著)」

・一江山島戦役

 1955年 第二次国共内戦 国民党軍700vs★共産党軍7000

 人民解放軍が一江山島に侵入、2日で占領した。台湾軍は全員が戦死するか、捕虜となったが、解放軍にも2000人の死傷者が出た。

・ロングタンの戦い

 1966年 ベトナム戦争 ★オーストラリア軍108vsベトコン2500

 ベトコンオーストラリア軍を襲撃するも、撃退された。オーストラリア軍は42名、ベトコンは600名が死傷し、双方が勝利を主張した。

 参考作品デンジャー・クロース 極限着弾(クリフ・ステンダーズ監督)」

・ロンゲワラの戦い

 1971年 第三次印パ戦争 ★インド軍120vsパキスタン軍2000

 ラジャタンのロンゲワラ村でパキスタン軍インド軍守備隊が交戦インド軍航空機支援を得て、パキスタン軍を破った。パキスタン軍の死者200名に対し、インド軍の死者は2名ほどであった

モガディシュ戦闘

 1993年 ソマリア内戦 ★多国籍軍160vsソマリア民兵2000

 アメリカマレーシアパキスタンからなる多国籍軍が、民兵リーダーであるアイディード将軍の側近二人を逮捕すべく派遣され、民兵交戦状態になった。民兵は数百人が死傷し、多国籍軍目的を達成したが、100名以上が死傷した。

 参考作品ブラックホーク・ダウン(リドリー・スコット監督)」

  

 

2020-12-10

精神力の増強とは?

人体改造受けた「超人兵士」、フランス軍倫理委が容認

https://www.cnn.co.jp/world/35163657.html


医療措置義肢装置の埋め込みなどによる体力、認知力、知覚力、精神力の増強」

苦痛ストレス疲労を防ぐための医療措置

兵士捕虜にされた場合精神力を高める薬物」

兵士PTSD戦闘不能にさせないことが目的だとしたら、「精神力」=残虐行為をしても/されても苦しく感じない力、ってことか?

でもそれって裏を返せばその兵士自身の残虐性を人為的に高めるということ。

まり

兵士武力行使抑制できる能力や、人道的な感覚に影響を及ぼすような改造は禁止

兵士自由意思行使に影響を及ぼすような認知装置の埋め込みや、市民生活への復帰に影響を及ぼすような改造なども禁止

の人道的な感覚市民生活への復帰にモロに影響することなのではないだろうか?

2020-11-04

自分家事育児に対して何か意見を言うと、嫁は「あなた家事をしないし、家で酒飲めるし、自由時間もある 私にはそれがない(だから口出しするな)」という論法で封じ込めを図ってくる

(全く家事をしていないわけではなくて、夕飯後の食器は洗うし、毎日18時に帰宅して二人の子供を風呂に入れています)

それを言い出したら家の中のありとあらゆることにこっちは何も言えなくなるし、そもそもそれってただの論点ずらしなんだろって思うけど感情的になってて何も聞かないか反論が出来ない

自分年収900万円、嫁は専業主婦で二人の子供(5歳と1歳)を育てている

の子供は幼稚園にいっているし、1日のうち自由になる時間が全くないという嫁の発言が本当だとはとても思えない

もしそれが本当なのだとしたらかなり非効率家事をしていると思われるので、だとしたら改善余地があると思い「平日どれだけ大変かを確認したいか定点観測カメラつけていい?」と言ったらガチギレされた

「私がずっとさぼってると思ってるんでしょう信じられない」「そんなこというんだったらあなた家事やってみなさいよ」などと叫ばれて議論する余地すら与えてもらえなかった

「じゃあ自分主夫として家事をするから、君が働きに出て年収900万円ほど稼いできなさいよ」とでも言ってやろうかと思って我慢した 多分言っていたら嫁はその場で家を出て行っただろう

嫁を言い負かしたところで家の中の雰囲気悪化するだけで何も得られるものはないのだが、かといって嫁の言っていることが真実だとも思えない

こういった場合どうするのがベストなのかはてなー意見を賜り度い

※現時点で私が選択した軍事ドクトリンは「冬将軍」(フランス軍である嫁の怒りが収まるまで、広い国土を利用して何も言い返さずひたすら耐える)と

パンとサーカス」(定期的に嫁に服や靴を買い与えてガス抜きを図る)の2つです。他に有用ものがあればご教授願います

2019-08-17

フランス軍慰安婦を送り込んでいた、と軍幹部

初日トップブコメ

zakinco アホくさ。はいどうぞ。「軍慰安所はどこの国にもあったの?」http://fightforjustice.info/?page_id=2425

米軍ほかの軍隊場合でも、軍の周辺に来た女性たちを集めて、いわゆる売春婦として管理することはありましたが、その場合にも米軍が集めたわけではなく、米兵が何人いるか女性が何人必要で、だからこれだけ女性調達して来いなどということを軍がしているわけではありません米軍物資食べ物豊富なので、戦場のなかでも人が集まってくる。それを管理するということであって、日本軍と同じとは言えないでしょう。

フランス軍慰安婦を送り込んでいた(調達していた)、と Christian Benoit 中佐(兵と娼婦 "Le soldat et la putain" の著者)は言っています

Prostituees et soldats, le couple indissociable de la Grande Guerre

On fait aussi venir des prostituees. (We also bring in prostitutes.)

なので、zakinco さんの思いとは反対に、事実にもとづけば、日本フランスドイツ比較することは意味があるんじゃないかな。

Fight for Justice にはエビデンスないし、訂正しないのかな。でも正しい情報に訂正してってお願いすると、反省していないって話になって、うやむやに終わるんだけど。

2019-01-21

保釈したら大使館駐在武官フランス軍人が車で駆けつけるんだろうな

あるいはフランスと仲良くなりたい国の領事館が命のビザみたいに外国に逃がす手助けをやりそう

2018-12-18

anond:20181218170107

うーむ、ワイも軍史に詳しい訳じゃないので歴史上一番被害デカかった行軍はなんだったかについては知らんのじゃ。

フロスト将軍にやられたフランス軍ドイツ軍大分被害デカかったくらいは知ってるんじゃが。

2018-12-07

パリ警官隊ヘルメットを脱いだ

これが意味する事は、「警官隊政府には従わない」との意思表示である

フランス革命の時、フランス軍が次々と革命軍へと変わっていった流れにソックリである

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん