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はてなキーワード: 公武合体とは

2023-09-23

宮崎駿後のスタジオジブリ、おそらく2代目宮崎駿襲名するものが現れる

宮崎駿は、単なる宮崎駿個人名ではなく、名跡・家名となる。

4代目宮崎駿が次代の宮崎駿は実力制とすることを決める。

5代目宮崎駿(初代実力制宮崎駿)が誕生

8代目宮崎駿、中興の祖となりジブリ復活。

13代目宮崎駿とき公武合体運動が起こり東映動画ジブリ合併

15代目宮崎駿大政奉還

2023-07-22

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(後編)

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(前編)

名称概要
1531年享禄・天文の乱浄土真宗本願寺派権力闘争である享禄の錯乱管領細川晴元一向一揆を利用したら暴走してしまったので本願寺を討伐した天文錯乱
1532年北部九州天文の乱大内氏大友氏が北九州を巡って抗争を行うなかで、大内義隆大友氏の支援を受けた少弐氏を滅ぼし、豊前筑前肥前を平定した。
1533年稲村の変安房里見当主里見義豊が、叔父里見実堯を誅殺したところ、その息子の里見義堯が謀反を起こして義豊を殺し、自らが当主となった。
1536年花倉の乱駿河守護今川氏輝と弟・彦五郎が急死、その他の弟で出家していた玄広恵探栴岳承芳が後継を争った。栴岳承芳勝利今川義元を名乗った。
1537年河東の乱北条氏今川氏は長く同盟を結んでいたが、今川氏武田氏と手を結んだため、武田氏と争っていた北条氏今川領に攻め込み河東地域占領した。
1542年天文の乱伊達当主・稙宗とその息子・晴宗の内紛。婚姻外交が進んでいた奥州を二分する大乱に発展した。最終的に晴宗が当主となったが伊達氏は衰退した。
1550年二階崩れの変豊後大名大友氏において、嫡男の義鎮を支持する勢力が、当主の義鑑と三男の塩市丸を襲撃して殺害した。事件後に義鎮が当主となった。
1551年大寧寺の変周防大名大内義隆に対して、家臣の陶晴賢が謀反、義隆は自害に追い込まれた。後継は大友から迎えられ、陶晴賢が実権を握った。
1565年永禄の変畿内勢力を誇る三好氏が、将軍足利義輝を襲撃して殺害した。その後、将軍の後継争いから、三好氏の内紛へと発展していった。
1568年本庄繁長の乱越後上杉家臣・本庄繁長が上杉謙信に対して反乱を起こした。繁長がよく戦い、謙信被害も大きかったので、繁長は降伏して帰参を許された。
1569年本圀寺の変本圀寺にいた将軍足利義昭三好三人衆が襲撃した。幕府軍がよく守るあいだに畿内織田方の勢力が救援に駆けつけたため、三好三人衆は敗れた。
1569年大内輝弘の乱九州に侵攻した毛利氏の後方撹乱を狙った大友氏が、大内氏再興を目指す大内輝弘を周防挙兵させた。毛利元就九州侵攻を諦めて引き返し鎮圧した。
1570年元亀の変伊達晴宗と伊達輝宗の父子が対立するなかで、晴宗に重用されていた中野宗時が謀反の疑いをかけられ、中野一族粛清追放された。
1574年天正最上の乱出羽最上氏の当主となった最上義光と、その父・義守が対立し、伊達氏が義守に味方して内乱となった。最終的に義光有利で和睦した。
1576年三瀬の変伊勢北畠氏は織田氏に降伏し、織田信雄を養子に迎えて家督を譲っていたが、その後も叛意が残っているとされ、そのため北畠一族粛清された。
1578年御館の乱上杉謙信の死後、その甥の景勝と、北条氏から迎えた景虎という、謙信養子二人で後継争いがあり、武田氏を味方につけた景勝が勝利した。
1578年天正伊賀の乱伊勢を掌握した織田信雄が続いて伊賀に攻め込んだが敗退、数年後に織田氏はあらためて大軍で侵攻し、伊賀を平定した。
1582本能寺の変織田家臣・明智光秀が謀反を起こし、本能寺宿泊していた主君織田信長を襲撃した。信長自害した。
1582天正壬午の乱織田信長の死去により武田旧領から織田軍が撤退し、空白地帯となった武田旧領を巡って徳川北条上杉が三つ巴で争った。
1585年粟ノ巣の変伊達氏に降伏した畠山義継が、前当主伊達輝宗を拉致した。追いかけた伊達軍により、輝宗ともども義継は討ち果たされた。
1591年九戸政実の乱南部晴政の死去に起因する後継争いか南部家臣・九戸政実が反乱を起こした。南部当主・信直は豊臣秀吉に救援を求め、諸大名軍により平定された。
1599年庄内の乱島津忠恒重臣伊集院忠棟を誅殺した。伊集院氏は籠城して徹底抗戦したが、秀吉死後に実権を握った徳川家康の調停により、最終的に降伏した。
1637年島原の乱島原天草苛政に耐えかねた領民が、旧領主に仕えていた浪人たちを中心として一揆を起こした。一揆勢は籠城して戦ったが、幕府軍鎮圧された。
1651年慶安の変軍学者由比正雪が、教え子の浪人たちと共に、幕府転覆計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。由比正雪自決した。
1652年承応の変軍学者の別木庄左衛門が、仲間の浪人たちと共に、幕府転覆計画をしていたが、事前に幕府側に露見して失敗した。別木庄左衛門は磔にされた。
1837年大塩平八郎の乱腐敗した大坂町奉行所や、飢饉でも米を買い占める豪商失望した元・町与力大塩平八郎らが決起し、豪商などを襲撃した。半日鎮圧された。
1837年生田万の乱国学者生田万が、大塩平八郎の乱に感化され、仲間とともに越後桑名藩陣屋を襲撃したが、長岡藩によって鎮圧された。
1860年桜田門外の変攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、安政の大獄引き起こし水戸藩を圧迫していた開国派の大老井伊直弼を襲撃し、暗殺した。
1862年坂下門外の変攘夷派の水戸脱藩浪士たちが、公武合体推し進めていた開国派の老中安藤信正を襲撃し、負傷させた。
1863年朔平門外の変破約攘夷派の公家代表格であった姉小路公知暗殺され、薩摩藩田中新兵衛逮捕されたが、新兵衛が自害したため真相不明
1863年天誅組の変尊攘派公家による倒幕計画に基づき、尊攘派の「天誅組」が大和国挙兵したが、幕府鎮圧された。同時に京では政変があり尊攘派公家が失脚した。
1863年生野の変長州支援を受けた尊攘派浪士らが、天誅組と同様に但馬国挙兵をしたが、幕府鎮圧された。
1864年天狗党の乱水戸藩内の尊攘過激派天狗党」が急進的な攘夷を求めて筑波山挙兵したが、幕府鎮圧された。この内乱により水戸藩の影響力は低下した。
1864年禁門の変前年の政変により京から追放されていた長州藩が、復権を目指して京で挙兵会津藩薩摩藩らと戦ったが敗れた。これにより長州征伐が決まった。
1874年喰違の変征韓論で失脚した不平士族たちが、征韓反対派の右大臣岩倉具視を恨みに思い襲撃、負傷させた。下手人らはすぐに逮捕され処刑された。
1874年佐賀の乱征韓論で失脚した江藤新平らが中心となって不平士族佐賀県挙兵したが、政府軍により鎮圧された。
1876年神風連の乱熊本県の不平士族が結成した「敬神党」が廃刀令への反発から挙兵したが、政府熊本鎮台軍により鎮圧された。
1876年秋月の乱神風連の乱呼応して、福岡県で不平士族挙兵したが、政府小倉鎮台軍により鎮圧された。
1876年萩の乱神風連の乱呼応して、山口県で不平士族挙兵したが、政府広島鎮台軍により鎮圧された。
1877年福岡の変西南戦争呼応して、福岡県で不平士族挙兵したが、福岡城に残っていた政府軍などに鎮圧された。
1878年紀尾井坂の変石川県の不平士族たちが、内務卿・大久保利通を襲撃、暗殺した。下手人らは自首し、処刑された。

Wikipediaで立項されているものだけまとめた。「〜の変」「〜の乱」という別称があっても、その呼称で立項されていなければ除外している)

明確な定義は決まっていないという前提で、だいたい以下のような基準だと思う。

〜の変:大きな戦闘を伴わない政変。謀反・暗殺粛清・失脚など。権力上下関係ない。成功たか失敗したか関係ない。

〜の乱:大きな戦闘を伴う内乱。反乱・暴動後継者争いなど。国家同士の戦争を指すことはほぼ無い。成功たか失敗したか関係ない。

こういった呼称は「絶対にいずれかに統一しなければならない」というものではないので、「これって乱というより変じゃね?」と思うような事件は、だいたい「変」「乱」どちらで呼んでも通じたりする。たとえば蘇我氏物部氏の戦いである「丁未の乱」は他に「丁未の変」や「丁未の役」とも呼ばれる。将軍足利義教暗殺された事件は、その暗殺の部分だけを見れば「嘉吉の変」と呼ばれ、その後の赤松討伐戦も含めれば「嘉吉の乱」と呼ばれる。

あとついでに。

〜の役:大規模な軍役。必然的辺境への遠征対外戦争が多い(がそれに限らない)。例として前九年の役後三年の役富山の役・文禄の役慶長の役など。

〜の陣:長期間の在陣。遠征戦線の膠着・包囲戦など。例として鈎の陣・志賀の陣・天正の陣・大坂の陣など。

という感じだと思う。「役」と「陣」はなんとなく互換性があり、「小田原の役・小田原の陣」「朝鮮の役・朝鮮の陣」「大坂の役・大坂の陣」などはどちらも用いられる。

2023-03-21

anond:20230321045834

明治政府 vs 徳川家」というか、「薩長同盟 vs 徳川慶喜」の権力争いってのが実態

徳川慶喜推し進めた公武合体運動により、薩摩長州権力の中枢に入り込むことができなくなって、危機感を持って倒幕に転じたという流れ。

ちなみに、

水戸学の影響で徳川慶喜徳川幕府不要論者だった

というのも額面通り受け取っちゃダメで、慶喜あくま諸侯会議ベースとした徳川家による実権確保を狙っていたというのが真相

改めて「なんでやらなきゃならなかったのか?」と言われれば、権力の中枢から疎外されていた薩摩長州が実権を握るため、ということになる。

2021-09-28

令和の公武合体に相応しい髪型は鬟(ミヅラ)

幕末期、公武合体すなわち朝廷伝統権威現実統治者の結合による統治者権威けが図られたが、その具体的手段和宮親子内親王徳川家茂への降嫁であった。

翻って主権在民が謳われる日本国憲法下において天皇家君主として権威を持つとすれば、民主主義精神の不足と言わざるを得ない。現実に先の東京五輪でも、選挙で選ばれた議会が選んだ首相差し置いて、天皇五輪への苦言を言わせようとする王政主義(反民主主義)を公言する者も少なく無かった。嘆かわしい限りである

我が国が真の民主国家たらんと欲すならば、あたか天皇首相の上に立つかの如き思想を抱かないよう、その権威剥奪しなければならない。

これを公武合体に準えるならば公民合体とでも言おうか。その具体的手段は、公武合体に準えるならば、皇族一般人への降嫁となる。

この合体は、民の側が皇族歴史をも伝承・吸収してこそ成る伝統が皇統に専属せられたままでは、伝統に基づく権威もまた皇族に残置されるためである

したがって、逆説的ではあるが、降嫁を受ける者においても皇族伝統体現する必要がある。それは例えば装いであり、髪型である

まり、「令和の公武合体」を体現するためには朝廷伝統髪型である鬟を結える必要があり、それには髪を伸ばす必要があったのである

2021-07-11

日本天皇100~

101.称光天皇(1414~1428))

 在位中は後小松天皇院政を行った。病弱で子はなかった。

102.後花園天皇(1428~1464)

 譲位後に発生した応仁の乱を嘆いて出家政務放棄した足利義政を戒めたこともある。

103.後土御門天皇(1464~1500)

 大嘗会を催したが、直後に応仁の乱が発生したため、中世最後の大嘗会となった。

104.後柏原天皇(1500~26)

 即位時、朝廷財政は困窮しており、父であった先帝の葬儀も40日後、即位式も即位後21年という有様であった。

105.後奈良天皇(1526~1557)

 飢饉と疫病に苦しむ民を救うため、諸国一宮に直筆の般若心経奉納した。

106.正親町天皇(1557~1586)

 毛利元就の献上金で即位織田信長豊臣秀吉の援助で皇居の修復、伊勢神宮の造営などを実現した。

107.後陽成天皇(1586~1611)

 秀吉の援助で朝廷権威回復に努めた。聚楽第行幸を行った。学問を好み、日本書紀などの慶長勅版を刊行した。

108.後水尾天皇(1611~1629)

 紫衣事件により幕府対立し、譲位

109.明正天皇(1629~1643)

 女帝

110.後光明天皇(1643~1654)

 応仁の乱以降途絶えた伊勢例幣使を再開した。

111.後西天皇(1655~1663)

 明暦の大火、御所炎上など災害が重なったため譲位

112.霊元天皇(1663~1687)

 学問に優れ、6000を超える和歌を詠んだ

113.東山天皇(1687~1709)

 久しく耐えた立太子礼と大嘗祭復興させた。

114.中御門天皇(1709~1735)

 先帝の代に復興した大嘗祭が再び途絶えた。公事部類を残した。笛が巧く、狐ですら聞き入ったとされる。

115.桜町天皇(1735~1747)

 大嘗祭新嘗祭復興させた。

116.桃園天皇(1747~1762)

 竹内式部から垂加神道の進講を受け、宝暦事件が起きた。

117.後桜町天皇(1762~1771)

 日本最後女帝和歌を好み千数百首を詠んだ。 

118.後桃園天皇(1771~1779)

 在位中に安永御所騒動が起き、朝廷への監視が強化された。

119.光格天皇(1780~1817)

 父典仁親王に尊号を与えようとするも松平定信に阻まれる尊号事件があった。

120.仁孝天皇(1817~1846)

 学習所(後の学習院)の建設を命じた。

121.孝明天皇(1846~1867)

 安政5ヶ国条約に反対し、攘夷を主張した。反面、和宮の降嫁に賛成し、公武合体推し進めた。

122.明治天皇(1867~1912)

 大政奉還がなされ、明治政府誕生。在位中は大日本帝国憲法発布、廃藩置県国会創設など近代化が進められた。日清日露戦争勝利韓国併合により日本列強の仲間入りは果たした。

123.大正天皇(1912~1926)

 生まれつき病弱であったため、皇太子裕仁摂政に任じられた。在位中に第一次世界大戦が勃発。皇室として初めて一夫一妻を確立

124.昭和天皇(1926~1989)

 在位中に第二次世界大戦が勃発。日本の敗北を受け入れ、日本国憲法が制定された。

125.上皇(1989~2019)

 世界各国を訪問して皇室外交による親善に努めた。東日本大震災の際には自ら被災地訪問した。

126.今上天皇(2019~) NEW!!

2019-03-29

1945年日本敗戦負債は今も続いている

 

日本敗戦アメリカ属国になっていなければ、日本人が日本を取り戻すための運動は起きなかった。(1960年代1970年代日米安保闘争など)

日本近代史省みると、日本の失敗は、鎖国から開国に転じるとき国家体制に不備があったことが分かる。

 

他国には天皇がいないけど、それでも人間は生きていける。

天皇税金生活する公人ではなく、私財で生活する私人に戻っても、日本人は生きていける。

 

公武合体の代わりに、今なら日本大統領職を新設すべきなのだろう。(大統領現代将軍に相当?)

新しい時代日本は、明治維新以来の失敗を克服して、大統領共和制へ移行するべきではないか

それなら、日本宗主国であるアメリカ了解も得られるのではないか

2018-07-17

日本戦争アメリカに負けた遠因=公武合体の失敗

戦後レジームに至る日本の原因を分析してみた。

 

敗戦

1945年日本アメリカ戦争して負けた。

アメリカ日本へ2発の原子力爆弾を投下して、日本は無条件降伏した。

無条件降伏だったので、日本アメリカ植民地奴隷にされた。

 

鎖国から開国

江戸幕府鎖国政策を行っていたが、欧米はその間にも技術を発達させ、軍事力も増大させていた。

日本欧米列強に対抗すべく、開国へ向けてシフトし始めた。

江戸幕府は当初「公武合体」によって、新しい日本体制作りを目指した。

 

公武合体

公武合体(こうぶがったい)は、幕末1850年から1860年代)の日本において、朝廷(公)の伝統権威と、幕府及び諸藩(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした政策論、政治運動をいう。

公武合体策、公武合体論、公武合体運動、公武一和(こうぶいちわ)とも呼ばれる。対義語尊皇攘夷である

 

明治維新イギリスによる国家転覆

しかし、公武合体は失敗に終わり、薩長テロリストたちがクーデターを起こした。

イギリス支援された薩長同盟 VS フランス支援された江戸幕府

英仏の代理戦争日本国内で展開されて、イギリスフリーメーソン勝利した。

明治維新によって、天皇ワンマン体制日本樹立された。

 

増長

明治維新以降、日本日露戦争勝利する等、外国戦争して勝つことができた。

日本は、朝鮮中国支配下に置くことができた。

調子に乗ってアメリカにも戦争しかけたら(真珠湾奇襲攻撃)、逆にボコボコにやられてしまった。(原爆投下第二次世界大戦敗北)

 

ワンマン体制欠点

日本がWW2で開戦するとき、御前会議が開かれた。

天皇が「勝つ見込みはありますか?」と尋ねたら、軍部は「短期決戦で勝ってみせます」と応えた。それならOK戦争を開始した。

しかし、アメリカは粘って長期戦に持ち込んだ。

軍部は「アメリカから買っていた石油がなくなったので、これ以上戦争継続できない」と判断した。(そりゃ戦争やってる相手石油を売る馬鹿はおらんわなw)

 

松谷誠

松谷誠のように、早期講和検討した者もいたが、軍部に握りつぶされた。

日本が2年程度で戦争を止めていれば、満州を失うだけで済み、日本本土まで取られることはなかった。

結果的に、天皇軍部判断を誤り、早期の損切りができなかった。

松谷 誠(まつたに せい、1903年明治36年1月13日 - 1998年平成10年10月7日[1])は、大日本帝国陸軍軍人陸上自衛官

主戦派が主流の陸軍の中で、1943年3月陸軍参謀本部戦争指導課長となり、早期講和模索

鈴木貫太郎首相秘書官であった1945年4月、「終戦処理案」をまとめ、ソ連の和平仲介による早期講和を主張した。

 

天皇悲劇は、周りにイエスマンしかおらず、適切な判断材料となる反対意見を言う者がいなかったこと。

天皇一人が悪いのではなく、取り巻きの連中が使えなかった。)

 

もしも、松谷誠らが天皇に直接提案する機会があれば、完全敗北を避けることもできただろう。

歴史を振り返ると、ワンマンリーダー判断ミスすることによって、国が滅ぶ例が多々ある。

日本とて、例外ではなかった。

 

ターニングポイント

日本近代史を振り返ると、日本の岐路は、「公武合体」にあった。

もしも日本が、天皇将軍のツートップ体制だったら、どちらか一方が判断ミスをしても、リカバリーできる可能性があった。

しかし、ワンマン体制だと、一人のリーダー判断ミスすることによって、ドミノ式に全体がミスに巻き込まれる。

これが日本第二次世界大戦の完全敗北の原因だった。

 

公武合体成功していたら、日本は今とは違う歴史を歩んでいただろう。

負け惜しみで、明治維新賞賛する向きもあるが、敗戦の結果を見れば、明治維新天皇制は失敗だったことに気付く。

残念だ。

 

anond:20180717162244

2009-02-13

書評: 中村彰彦・山内昌之黒船以降 政治家官僚の条件』(中公文庫

 あまりに面白いので休日に半日を費やして読了した。

単に幕末維新の歴史の知識だけなら、百科事典講釈師のような物知りも沢山いるが、この対談は人物評が現代的で、政治家として官僚としての力量を問う通信簿的な作業でもあり、ことごとくがリアリスティックなのである。

 しかも幕末維新を、本筋を外さないで不思議な逸話で溢れさせ、しかし歴史観の骨髄をしっかり守っている。

 経済視野から薩長会津を比較してみると、京都守護職を越前松平春嶽から押しつけられた会津松平容保は、財政的艱難辛苦に耐えなければならず、藩士1000名の京と駐留経費の捻出は並大抵ではなかった。京都島原遊郭で遊ぶカネがなく、だから会津武士京都人から嫌われ、薩長はすかれた。

なぜか。長州竹島経由で、薩摩沖縄を梃子に「密輸」をやっていて資金が潤沢、最新鋭の軍艦鉄砲も買えた。中村彰彦によれば加賀前田藩も日本海の北と密貿易を展開した銭屋五兵衛を黙認した形跡があるという。

密輸で設けた諸藩の志士らは、経費をちょろまかして島原で遊興もできた。

 本書で両人からコテンパンな酷評を受ける一つは御三家のなかでもイデオロギーの強い水戸藩、天下の副将軍勝手に僭称した水戸光圀は、伝説では「名君」だが、じつはとんでもない御仁だった。

水戸学が、やがて水戸藩を分裂させ、悲惨な内訌が天狗党の悲劇を生んだが、じつはその後も明治三年まで復讐劇が続き、難を逃れて群馬栃木あたりに逃げ、その末裔現在もいるという後日談も、なんだか、西南戦争に負けた西郷軍のうちの1500名ほどが台湾へ逃れ、現地民に同化したという歴史の裏面の話に通じる。

結局、水戸藩の“正義”の史観徳川幕府を毀した。

 

本書は、薩摩長州歴史意識政治構造科学天文学への心構え、軍事思想など似ているようで全く異なることを、これまた目から鱗のように別の視点からえぐり出している。

たとえば坂本龍馬が斡旋した薩長同盟の基軸の発想は公武合体の実現だった。

山内教授は「オーストリアハンガリー二重帝国」の例があるように、天皇を頂き、徳川薩長が二分するアイディア存在を告げる。

イギリスオールコックなどの歴史観世界の情勢から、倒幕に踏み切っていくプロセス西郷大久保坂本邪魔になったという闇の部分にも光を当てる。これは中村がまだ直木賞受賞前にかいた『龍馬伝説を追う』(世界文化社)にも詳しい。

また榎本武陽の「蝦夷共和国」構想も、じつはハプスブルグ家の「オーストリアハンガリー二重帝国」が発想にあった、と示唆する。

 脱線ながら、評者(宮崎)が鹿児島指宿の「伝承館」でみたパリ万博記録展示の或る部分に驚いた。パリ万博薩摩徳川幕府が出展した。薩摩焼など、パリジャンの度肝を抜いた。ともにそれぞれの勲章をつくった。

 薩摩は「薩摩琉球国」として勲章をだした。つまり独立国として、国際社会にアピールしていたわけである。

 もう一人、こっぴどく批判されているのは福沢諭吉だ。

福沢が欧米派遣のおりに経費を誤魔化して図書を買いあげたが、それは小学生程度の英語の本が多く、小栗上野介は「あの男の選択眼は節穴、語学能力はその程度だ」と評した逸話は有名だろう。

福沢は本来なら切腹ものだが、ばれて詮議にかかろうとしたとき徳川幕府が瓦解した。

他方では講釈やら近年の小説の裁き方や世評はともかくも、食えなくなった旧幕臣らの面倒をよくみた勝海舟と榎本武陽への評価が高い。

 

 さて表題も示唆する「黒船来航以後」の話であるが、アメリカロシア日本にとって最初の接触だったのは、幕末の混乱期における日本にとって僥倖であり、もし英仏のような『ならず者国家』が日本に先に乗り込んできたらどうなっていたか。

 シナにしかけたアヘン戦争のような略奪と、国内分裂は防げなかったのではないか。幕府フランス薩摩英国に頼ったが、本気で内戦にのめり込んでいったら、日本は良いように利用されたあげくに英仏の植民地化されていた恐れがあった。

 しかし幕末徳川幕府をさしおいて薩長が最新鋭の武器を大量に買えたのも、その先見性や薩英戦争、馬関戦争敗北の体験から軍事知識と実践があり、おりしも南北戦争が終わって大量の武器をもてあましたアメリカから大量に買い付ける。

 市場開拓を狙うドイツ人武器商人だったスネル兄弟は河井継之助長岡藩にガットリング銃を売りつけたが、会津に強力にテコ入れし、最後は榎本軍に従って函館戦争をともに戦った。

 ドイツはむろん、英仏米露の隙間を狙って日本での武器外交が主眼だった。

 しかし幕府敗戦により、スネルは代金を回収できず、兄はやがて会津武士団の食い詰め組を率いてカリフォルニアに移住したり、弟は御維新後、浅草落語を聞いていたとか。脱線する逸話もまた本質に付随した、人間の描写なのである。

 それにしても幕末維新を縦横に語る中村彰彦は歴史作家だから回天の内幕に詳しいのは当然にしても、なぜイスラム中世専門家である山内昌之が、ときに中村を唸らせるほど幕末日本精通しているのだろう。

 もう一つ不思議に思ってきたことがある。山内昌之教授は、『世界』と『諸君』の両方に論文を書く器用な論客でもあり、保守なのか旧左翼なのか、いまもよく分からないところがある。

 山内がいみじくも「後書き」に書いている。

国際会議で、オスマントルコ帝国解体過程やイスラム政治歴史と、日本近世近代との比較をよく問われる。国際的要請でもある。まして日本史を知らずして世界史を語れる筈があろうか、と。

 最後節あたりの日露戦争から大東亜戦争に至る山内の歴史講釈には、ちょっと首肯できない史観部分があるが、山内教授主観だから、その部分は聞かないことにする。

 
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