はてなキーワード: 柳条湖事件とは
関東軍参謀であった石原はこのイデオロギーに基づいて奉天郊外で柳条湖事件を起こし、
これを中国軍のしわざとして軍事行動を開始したことが満州事変となった。
最終戦争では航空機や大量破壊兵器によって殲滅戦略が実施され極めて短期間のうちに戦争は終結することになる。このような最終戦争を戦う国としてはブロック化したいくつかの勢力を列挙することができる。つまり世界はヨーロッパ、ソビエト連邦、東亜、南北アメリカの連合国家へと発展し、つまり日本の天皇を盟主とする東亜と、ヒトラーを中心としたヨーロッパ対アメリカを中心とした南北アメリカと、中立のようだが南北アメリカ寄りのソ連の対立となる。しかしヨーロッパは大国が密集しているため、うまくまとまることができない。ソビエト連邦は全体主義でいかにも強そうに見えるが、ヨシフ・スターリンの死後は内部崩壊する。そうなると、東亜連盟と、アメリカ合衆国の決戦となる。その決勝戦(最終戦争)に勝った国を中心に世界はまとまることになる。これは東洋の王道と西洋の覇道のどちらが世界統一において原理となるのかを決定する戦争となる。
決戦兵器が飛躍的に発達し、特に飛行機は無着陸にて容易に世界を一周し得ること。
の3つを挙げている。
1615-05-07 大阪城が落城し、大坂夏の陣終わる。豊臣氏滅亡
1853-05-23 アメリカ艦隊、浦賀沖に来航(黒船来航)
1861-04-12 アメリカ南北戦争(1865年5月9日まで)
1868-01-03 王政復古
1868-07-17 東京奠都(「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」煥発)
1871-08-29 廃藩置県
1875-06-28 讒謗律(太政官布告)及び新聞紙条例(太政官布告)公布
1877-05-26 木戸孝允死去
1888-03-09 ヴィルヘルム1世・プロイセン王兼ドイツ皇帝崩御
フリードリヒ皇太子(フリードリヒ3世)がプロイセン王兼ドイツ皇帝に即位。
1888-06-15 フリードリヒ3世崩御。ヴィルヘルム皇太子(ヴィルヘルム2世)がプロイセン王兼ドイツ皇帝に即位。
1894-07-25 日清戦争(1895年4月17日まで。宣戦布告は1894年8月1日。台湾平定終了は1895年11月30日)
1898-07-30 ビスマルク死去
1902-01-30 日英同盟成立(1923年8月17日失効)
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1905-09-05 日露両国講和条約(ポーツマス条約)締結(日露戦争終了、条約発効は同年11月25日)
1912-07-30 明治天皇崩御。皇太子嘉仁親王が践祚。元号が明治から大正に改められる。
1914-07-28 第一次世界大戦(1918年11月11日まで)
1922-02-01 山縣有朋死去
1922-02-06 ワシントン海軍軍縮条約調印
1923-08-17 ワシントン海軍軍縮条約発効
1926-12-25 大正天皇崩御。皇太子裕仁親王(摂政)が践祚。元号が大正から昭和に改められる。
1927-03 昭和金融恐慌
1930 昭和恐慌
1930-10-02 日本、ロンドン海軍軍縮条約を批准
1932-05-15 五・一五事件
1936-01-15 日本、ロンドン海軍軍縮条約を脱退
1936-02-26 二・二六事件
1936-12-31 ワシントン海軍軍縮条約失効
1937-07-07 日中戦争(1945年9月9日まで。盧溝橋事件に始まる。当初は宣戦布告をせず、「支那事変」と呼称)
1939-07-26 アメリカ政府が日米通商航海条約の廃棄を通告
1939-09-01 第二次世界大戦(ドイツがポーランドに侵攻して始まる。1945年9月2日まで)
1940-09 アメリカ、対日屑鉄全面禁輸
1940-09-27 日独伊三国同盟調印
1940-11 日本とアメリカの各種交渉(1941年12月まで)
1940-11-30 日本国中華民国間基本関係ニ関スル条約(日華基本条約)調印
1941-01-08 戦陣訓(陸訓一号)示達
1941-04-13 日ソ中立条約調印
1941-06-22 独ソ戦(ドイツがバルバロッサ作戦を発動したことにより始まる。1945年5月8日まで)
1941-08-28 近衛首相、ルーズベルト・アメリカ大統領に首脳会談を提案(結局、沙汰止みとなる)
1941-12-08 太平洋戦争(日本の英米に対する宣戦布告及び真珠湾攻撃に始まる。1945年9月2日まで)
1941年12月(開戦)~1942年7月頃(フィリピン全土占領)まで日本軍の占領区域は拡大を続ける。
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1942-04-18 米空母から発進したB-25爆撃機によるドーリットル空襲(東京初空襲)
1942-06-05 ミッドウェー海戦
1942-08-07 米軍、ソロモン諸島のガダルカナル島、ツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島に上陸
1943-04-18 山本五十六連合艦隊司令長官、ブーゲンビル島上空で戦死(海軍甲事件)。
1943-05-12 米軍、アッツ島上陸(5月29日まで。日本軍は全滅し、「玉砕」の語の使用始まる)。
1943-11-05 東京で大東亜会議を開催(6日まで)、大東亜共同宣言を発表。
1943-11-22 エジプト・カイロで英米中首脳会談(カイロ会談。26日まで)
1943-11-28 イラン・テヘランで英米ソ首脳会談(テヘラン会談。同年12月1日まで)
1944-06-19 マリアナ沖海戦。日本軍は旗艦大鳳以下空母3隻と搭載機400機を失い、西太平洋の制海権と制空権を喪失。
1944-07 ブレトン・ウッズ協定
1944-07-04 本軍、インパール作戦を中止。
1944-08-02 テニアン島の日本軍玉砕(テニアンの戦い)
1944-09-11 米軍、ペリリュー島上陸(ペリリューの戦い)
1944-10-20 米軍、フィリピン・レイテ島に上陸(レイテ島の戦い)
1944-11-24 米軍の新型爆撃機B-29、マリアナ諸島より東京を初空襲。
1945-02-04 クリミア半島ヤルタで英米ソ首脳会談(ヤルタ会談。11日まで)
1945-04-12 ルーズベルト・アメリカ大統領死去。トルーマン副大統領がアメリカ大統領に就任
1945-05-02 ベルリン陥落
1945-08-06 アメリカ、広島県広島市に原子爆弾を投下
1945-08-09 アメリカ、長崎県長崎市に原子爆弾を投下
1945-08-15 玉音放送
1945-09-02 日本政府、ミズーリ号にて降伏文書調印(太平洋戦争(大東亜戦争)終結)
1945-09-09 日本政府、中華民国南京にて降伏文書調印(日中戦争終結)
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1950-06-25 朝鮮戦争
1951-09-08 日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)並びに日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約
(日米安保条約)調印
1952-04-28 日本国との平和条約並びに日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約発効
1952-10-15 警察予備隊が保安隊に改組される。浜松に航空学校が設置される(後の航空自衛隊に繋がる)
1953-03-05 スターリン死去
1954-02-01 保安庁に航空準備室が設置される(後の航空自衛隊に繋がる)
1954-05-29 ビルダーバーグ会議初開催
(於オランダ、ヘルダーラント州レンクム、オーステルベーク(Oosterbeek)、ビルダーバーグホテル)
陸上自衛隊(保安隊から改組)、海上自衛隊(海上警備隊から改組)、航空自衛隊(新設)設置
1956-07 昭和31年度年次経済報告(経済白書)発表(「もはや戦後ではない」)
1958-08 大躍進政策
1960-12-27 池田勇人内閣、「国民所得倍増計画」を閣議決定する。
1964-08-02 トンキン湾事件(8月2日及び4日。アメリカによるベトナム戦争への本格的な介入が始まる)
1964-10-10 1964年東京オリンピック(同年10月24日まで)
1966-05-16 無産階級文化大革命(文化大革命)(1976年10月6日まで)
1971-06-17 琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定)締結
1971-08-15 ドル・ショック
1972-05-15 琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還協定)発効(沖縄復帰)
1972-09-29 日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明
勃発後に産油国による原油公示価格値上げや産油制限が発表され、オイルショックとなる。
1975-11-15 G7サミット初開催(於フランス・ランブイエ)
1978-01-07 イラン革命(1979年2月11日まで)
1978-08-12 日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約調印
1978-10-23 日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約発効
1978-12-22 改革開放(中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議にて提唱)
1985-09-22 プラザ合意
1987-12-08 中距離核戦力全廃条約(INF条約)発効(2019年8月2日失効)
1989-01-07 昭和天皇崩御。元号が昭和から平成に改められる。
1989-04-01 消費税導入(当初は3%)
1989-06-04 六四天安門事件
1989-12-29 日経平均株価、取引時間中に38,957円44銭の最高値を付ける(史上最高値)。終値は38,915円87銭。
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1993-07 衆院選で自民党が敗北し、非自民連立政権が誕生する(55年体制の終焉)
1993-11-11 欧州連合条約(マーストリヒト条約)発効(調印は1992年2月7日)
1995-11-23 Windows95が日本国内で発売される。
1997-07 アジア通貨危機
1997-11-03 三洋証券、経営破綻(会社更生法の適用を申請する)
2003-03-20 イラク戦争(2011年12月15日まで)
2006-12-30 サッダーム・フセイン死刑執行
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ひとまず思いついた順に書いていく。リストの補足は大歓迎。
1.靖国参拝
8月15日が間近に迫っているが、ここで安倍が靖国参拝を敢行するか否かが直近の大問題。
近視眼的キチガイ右翼から熱烈な支持を受けていることは重々承知の安倍にしてみれば、参院選で大勝した直後である今を除いていつ行くんだ?という話だが、実際に参拝した場合、当然ながら中国・韓国との関係を大きく損ねることになる。
なお、安倍本人が参拝を見送っても閣僚クラスに自粛させることはほぼ不可能だが、閣僚クラスが参拝した場合でも中韓は強硬な対応に出るだろう。朴槿恵の大統領就任式の折、名代として派遣された麻生が歴史認識に関して迂闊な発言をしたことに朴はおかんむりだったと伝えられ、この件で原則を曲げることは有り得ない。また直後の9月は柳条湖事件のあった月であり、中国も軽々には妥協しない。そして、いかに現在の安倍が「強い指導者」だとしても、8月15日まで3週間ちょっとで、参拝に向けての全方位的な環境整備など不可能だ。
さて、対中韓関係がこじれた場合、北朝鮮問題を解決するための6ヶ国協議も開催できなくなるため、米国からは相当な突き上げを喰らうことになるだろう。2期目に入って「有終の美」を遂げたいオバマは外交問題の懸案を解決したいわけだが、ただでさえ中東情勢が流動化しつつあるのに東アジア情勢まで(日本の独りよがりに過ぎない小児病的対応が原因で)こじれるのを座視する道理はない。場合によっては、安倍を見切って、もっと「聞き分けの良い」指導者に挿げ替えることも検討するのではないか。
2.世界経済
大きなリスクとなりそうなのは、「米国のQE3終了に伴う景気減速」と「中国のバブル崩壊」の2つ。
このうち、ネトウヨ御用達の産業経済紙などは後者のみに注目して「中国終了!」と今からはしゃいでいるわけだが、真に恐ろしいのは「米国の景気減速が中国のバブル崩壊の引き金になるケース」のはずなのに、なぜ誰も懸念を表明していないのだろうか(或いは、恐ろしすぎて予想したくもないのか)。
米中のどちらか、或いは両方の景気が冷え込んだ場合、日本の製造業に多大な影響が及ぶばかりか、特にアメリカ経済次第で一時的に円高方向に巻き戻される可能性は大きい。いずれにせよ、株価をはじめ各種指標へのマイナス影響は避けられない。
3.自然災害
日本列島全体が地震の活動期に入っており、また富士山の噴火リスクも刻々と高まりつつあると言われる。
東日本大震災の余震がそれなりの規模で襲ってきた場合、福島第一原発の復旧作業が破綻を来す可能性はかねて伝えられている。また東海地震や富士山噴火が起こった場合、少なくとも「浜岡原発への対応」「東海道の物流ストップ」「東海圏の生産活動ストップ」がまとめて襲ってくるという、非常に困った事態となる。
災害そのものの短期的な影響もさることながら、復興費用の調達には長期的に苦しむと予想されるため、長期金利が高騰するというリスクも無視できない。実際に金利が跳ねると、無論「アベノミクス」は詰む。
原発を早く再稼働させたがっているのは分からないでもないが、万一の自然災害や過酷事故に備えて確保しておくべきメンテナンス要員を福島への対応に割かざるを得ない現状をどう考えているのかも不明確。というか、リスク管理としては問題だと叫ばれ続けているのに、現政権は(前政権からではあるが)有効な方策を打ち出していないように見える。
4.ワタミ
「ブラック企業」問題のみならず、国会審議の場でフルボッコにされかねない程に数々の弱みを抱えているところへもってきて、今回の参院選で健闘した共産党がここぞとばかりに調査・糾弾能力を発揮しようと張り切るだろう。
そしてワタミのみならず、今回「勝ちすぎた」きらいがある自民党の当選者には、適格性に色々と疑問符が付きそうな人材がちらほら見受けられる。事前の身体検査が不十分だったツケに、後々まで苦しめられるのではないか。
中国が目指しているのは海底石油資源、およびシーレーンの確保である。
日本人から見れば尖閣諸島の所有権が民間から民間に移ろうが、民間から国に移ろうが、大差ない。
しかし中国人にはその感覚が理解できず、日本「国」に脅迫されているように感じるのだろう。
全国大会を控えての共産党内での権力争いや、軍部・公安の暗躍を説く人もいるが、
私には文官でさえもこぞって(一枚岩で)反日に向かっているような気がする。
これは単純に日取りがまずかった。
つまり共産党にとって神経質にならざるを得ない時期に頭痛の種が増えたことにたいする癇癪である。
おそらく何の戦略も持たずに国有化の日取りを決定したのではないか。
20~30代が圧倒的に多い。
中国は愛国教育のおかけで、いつでも労せず反日デモを発生させることができる。
これからも共産党政権が続く限り、愛国教育と反日デモは繰り返される。
日本には巨大な内需があり、中国一国と経済戦争をしてもどうということはない。
おそらく対中投資を回収できていない方々がマスコミなどを通じて
しかし彼らは
不能者の脅しを真に受けて、
とにかく国際世論(韓国除く)を味方につけることが先決である。
領土紛争があることを正式に認めて(これが最大限の譲歩)
現状で日本を守ることができるのは自衛隊ではない。国際世論だ。
http://anond.hatelabo.jp/20081101232814
どれだけ厳しい批判が寄せられているだろうかと恐る恐るみてみたら、好意的な反響が多く、胸をなでおろしています。
増田に書く理由としては、ひとつめ、専門外のことに長く関わるつもりがないこと、ふたつめ、連休の出先で手元に一冊の参考書籍もなく、HDDとネット上のソースだけを参考に書いたエントリなど、歴史を専攻したものとして、しかも専門外のものとして、とても胸を張って提示できるものではないこと、みっつめ、それゆえ、ホームに書いたら全て書き換えるほどの修正をせずにはいられないだろうが、その気力も時間もないこと、よっつめ、しかし、あれを「論文」とすることには憤りを覚えたので、せめて学問を知る人にはトンデモはトンデモであると伝えてみたかったこと、いつつめ、増田であれば上記の点をそれほど気にやまずに済むこと、このくらいでしょうか。したがって、私のエントリはいわゆる「ちらしのうら」です(文献表記がみにくいのもわざとです。すみません)。私はさくっと書き逃げする卑怯者です。内容がいかがわしいのも推敲が甘いのも全て私の責任です。でも、もろもろの言い訳によって逃げられるものではないですよね。ああ。
さて、前回のエントリでは、後半にさしかかったときにから睡魔に襲われ、最後は「藁人形叩き」ばかりになってしまいました。ようやく投稿できたと思ったら、字数超過で記事を分割せねばならず、つづきでは田母神氏の論文タイトルを間違えてしまいました。謹んで失礼をお詫びします。いろいろとミスがあろうと手をいれるつもりはなかったのですが、批判する論文タイトルの間違いはいくらなんでもひどいので、訂正します(ついでに「シンガポール華僑粛清事件裁判記録」後編のミスも直します)。これも後出しですが、原文が縦書きの漢数字は、横書きなので適宜英数字にしています。
では、気をとりなおして「藁人形叩き」ばかりをしていたところに補足してみたいと思います。最後に与太話の蛇足ですが雑感を述べてしめます。
しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。
(前回と同じく、はてな記法による引用の出所は、田母神俊雄「日本は侵略国家であったのか」2008年http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf)
第2次世界大戦開戦の時点であっても、カナダ、オーストラリア、南アフリカなどが自治領化・独立した例がありますね。フィリピンでも独立を前提とした自治領政府が成立していましたね。
また、どちらかといえば植民地統治体制の比較の話ですが、自治・独立とまではいかないまでも、現地の住民を支配機構に採用していく次のような例もありました。
「1920年代より英国はビルマに赴任するICS〔引用者注:インド高等文官の略称〕に英国人のみならずビルマ人も採用すべく方針を変え、その結果1939年末の段階で、ビルマにおける全高等文官のうちビルマ人は32.8%を占めるに至った」(根本敬「英領期のビルマ人高等文官(ICS/BSC)とタキン党」『東南アジア史学会会報』63、1995年、17ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0004924657)
それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2百年遅れていたかもしれない。
1940年代において、宗主国が疲弊し、植民地の独立運動が高揚したのは確かなことでしょう。ただし、歴史学の領分は、「もしも」を考えるというより、その過程をつまびらかにして、それぞれの要因や重要性を検討することにあります。
まず、開戦の詔書には「東亜ノ安定」「世界ノ平和」「万邦共栄」「東亜安定」「東亜永遠ノ平和ヲ確立」という表現はありますが、肝心の戦争目的を述べている部分は、あくまで「今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切の障礙ヲ砕碎スルノ外ナキナリ」(「御署名原本・昭和十六年・詔書一二月八日・米国及英国ニ対スル宣戦ノ件」1941年12月8日、アジア歴史資料センターレファレンスコードA03022539800。引用部分の漢字は適宜新字体を用いました。センターホームページの検索バーに左記のレファレンスコードを打ち込めば該当資料のページへ飛べますhttp://www.jacar.go.jp/)ということであり、「アジア諸民族の解放」、「植民地の解放」、や「独立」といった文言は一切ないことを指摘しておきます。文面上はまさに自存自衛の戦いをうたっており、解放の約束は明文上ではなされていません(ちなみに、みればわかりますが「八紘一宇」もないです)。では、実際、アジア諸国にどう接し、現地住民はどう対応したのか、前回は文献名をあげただけのものから少し引用しておきます。
「ビルマは1943年8月1日主権を有する独立国家となったが,真の独立を求めるビルマ人にとってそれは,’’偽の独立’’,’’メッキの独立’’にすぎなかった。ビルマ人は,独立が’’空虚’’であることを知っていた。この当時の日本人に対するビルマ人の態度は,「愛していなくても我慢して接吻する」ようなものであった」(大野徹「ビルマ国軍史(その2)」『東南アジア研究』8(3)、1970、360ページ。http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/55632/1/KJ00000134014.pdf原文の注の番号は引用者が削除しました。以下の引用文でも同じ)。
「日本の『朝日新聞』は、この作戦について、「皇軍航空部隊の空襲は一見、印度民衆の苦難を一層増大せしめるかに見えるが、爆弾の雨の中に、皇軍の印度独立運動に対する無限の慈愛と支援が含蓄されている」と書いていた。まことに「含蓄」の深い論評だったと言うべきであろう」(中里成章「日本軍の南方作戦とインド」『東洋文化研究所紀要(東京大学)』151、2007年、190ページ。http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/5716/1/ioc151004.pdf)。
「本稿では不十分ながら、日本の大東亜共栄圏=アジア主義のプロパガンダが、そして、その大枠の中で動いたチャンドラ・ボース等の活動が、インド社会との接点を持てずに、空回りしていたことを明らかにしえたのではないかと思う」(前掲中里論文、195ページ。ボースたちについては、197ページの注6、200ページの注22、202ページの注26、208ページの注80も参照)。
インドネシア、フィリピン、ベトナムの抗日闘争について、詳しくは論文本文を読んでいただきたいのですが、結論としては、
「要するに、東南アジア諸国の反植民地・民族独立運動は、太平洋戦争と日本の侵略によって生じた情勢やその他条件を、主体的、積極的に活用して日本に対応し、戦前に比して飛躍的な成長を遂げた。そして、このことは、戦後における東南アジア諸国の民族独立運動の高揚や民族独立の達成の決定的要因となった。この意味において、太平洋戦争と日本の侵略は、東南アジア諸国の民族独立運動史における一大転換点であったということができよう」(谷川榮彦「太平洋戦争と東南アジア民族独立運動」『法政研究(九州大学)』53(3)、1987年、395ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0008279870原文にあった傍点は除いた)。
以上でつっこみの補足は終わりです。現下の情勢については特に言及しません。
さて、今回のエントリ執筆の目的としては、可能な限り速やかに「論文」が論文になっていないことを示すことでした。大事なのは「内容」とおっしゃるのは結構ですが、学問的に批判可能な形式(もちろん既存の研究にとらわれない革新的な独自形式でも、読者に史料を提示できればかまいません)をとらないものは、「無敵な人」の独自な「歴史観」の告白にすぎないでしょう。それに価値を認めるのは個人の自由ですが、学問や教育の場に持ちこむのはお門違いです。そのような姿勢では、いつまでたっても歴史学における扱いはトンデモのままですよ。もちろん、大学や研究所にいる専門家でなければ歴史の話をしてはいけないということではないです。「昭和史論争」を引き起こしたのは歴史研究者ではありませんでした。しかし、自己の見解を教科書にのるような通説となさりたいのであれば、専門家と同じ舞台に立ち、その批判に応答しなければならないでしょう。「つくる会」はその舞台に立つ気はないと宣言した結果どうなっているでしょうか。今なら学術雑誌に投稿しなくても、インターネット上でいくらでも長文の論文を発表できますよね。
一般に、歴史研究者は、四年生大学で専門的なトレーニングを受け、さらに修士課程二年間、博士課程三年間以上を費やして史料を読み込み論文を紡ぎだしています。それでも、個々の論文の結論で言えることはささやかなことです。また、研究会・学会・書評などの形でお互いに切磋琢磨しています。それぞれが広範な史料に目を通しているからこそ、個々の研究がその時代の歴史像のどこに位置づけられ、どの部分がその時代の特徴をよくとらえられているかを議論できるのです。自分の個別研究が歴史研究の大きな流れのどこに位置づけられるのかをとらえるため、歴史を学ぶ標準的な手順としては、まずは先達がエッセンスを詰め込んだ教科書、概説書を読み、そこから主要な研究文献やレビュー論文、目録等を漁って研究史をたどり、そこで用いられている史料を読み、先人の研究の妥当性を検討したり自己の問題関心を追求していくのです。木簡のように新しい史料が見つかったり、機密文書が公開されたりして史料が増えれば、それがどのように従来の見解に修正を迫り、新たな知見を付け加えるのか議論します。そのような積み重ねのなか、通史は更新され、教科書の記述も変わっていきますが、このことをもって歴史は定まりないものだから最新の研究成果も独自研究も変わりないということは的外れでしょう。それはかえって科学としての歴史学が機能している証拠にほかなりません。
さて、歴史学者全体がイデオロギー的に偏向している、現行の教科書は自虐史観・マルクス主義史観に基づいているという「つくる会」の主張もありますね(それでいて『国民の歴史』のように、専門家の研究から剽窃したりするの会員もいるのは厚顔無恥ですね。参照、尾藤正英『日本文化の歴史』岩波新書、2000年、あとがき)しかし、戦後長く標準的な高校教科書として採用されてきた山川出版社の『詳説世界史』の執筆者には林健太郎(故人への敬称は略します)が含まれていました。日本史にしても伊藤隆氏が編者であった『近代II』を含む、『日本歴史大系』山川出版社、1984-90年、が、受験前に初めて読む通史だった私などには、学会の主流がマルクス主義史観など妄言にしか聞こえません。岩波だから駄目などという意見も見ることがありますが、最新の『岩波講座世界歴史』岩波書店、1997-2000年、では、古代・中世・近世・近代という時代区分はもはや採用されていません。そもそも研究の場では、評価は自分の目で確かめてから下すもので、事前に確定できるものではないのです。
「いずれも〔引用者注:本文でふれられている臼井勝美氏、酒井哲哉氏の研究のこと〕,侵略の時間的連続性〔引用者注:満洲事変から日中戦争へ〕を,陸軍の遠心性,すなわち現地機関の好戦性や暴走に帰さない画期的な研究であった」(加藤陽子「書評 安井三吉著『柳条湖事件から盧溝橋事件へ―1930年華北をめぐる日中の対抗―』」『アジア経済』45(9)、2004年、67ページ。http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/7473/1/kato45_09.pdf)。
「日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する」なんて本質論は、学界ではなされていませんよ。人事面でも、システム設計・運用面でも、上部の問題は大きかったですよね。私みたいなものにも自衛隊に信頼できる友人はいますので、余計に上が軍の失敗を反省するそぶりもみせないのは問題と感じるわけです。
最後に、余計なお節介でしょうが、歴史学入門、史学史についていくつか参考文献をあげておきます。ご興味のある向きは手にとられてみてはいかがでしょうか。
小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年。(CiNiiの定額許諾を契約している大学関係者は、下敷きとなった論文をDLできるかもしれません。私は今DLできる状況にないので保障はしません)
小田中直樹「言語論的転回と歴史学」『史学雑誌』109(9)、2000年。
http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0002622266
歴史科学協議会編『卒業論文を書く―テーマ設定と史料の扱い方』山川出版社、1997年。
今まで述べてきたような研究の積み重ねに対し、自説の根拠もまともに示さずに自分の意見を広めたいと主張する行為がどういうものか、一度お考えになっていただけたら幸いです。
また見苦しい長文になってしまいました。最後まで読んでくださった方に感謝します。
(追記)さすがに人名の誤記は看過できないのでミスを修正しました。
(再追記)引用文の出典が抜けていたのも直しました。すみません。
(再々追記)直ちに答えられるトラバをいただいたので応答します。ホロコーストの研究の進展について次の文献を参照してください。
芝健介「ホロコーストとニュルンベルク裁判」『史論(東京女子大学)』55、2002年。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0008575897
田母神俊雄氏の「論文」が問題になっています。原文は↓からDLできます。
http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf
親切に英訳までしたようです↓。そのおかげか、さっそく海外でも反響を読んでいます↓↓。
http://www.apa.co.jp/book_report/02.html
http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/7702374.stm
http://www.guardian.co.uk/world/2008/oct/31/japan-secondworldwar
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/10/31/AR2008103101475.html
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2008/10/31/AR2008103100989.html
http://www.nytimes.com/2008/11/01/world/asia/01tokyo.html?_r=1&ref=world&oref=slogin
http://www.thestandard.com.hk/breaking_news_detail.asp?id=8886&icid=4&d_str=20081031
http://www.straitstimes.com/Breaking%2BNews/Asia/Story/STIStory_297008.html
http://www.straitstimes.com/Breaking%2BNews/Asia/Story/STIStory_297257.html
ローズベルト陰謀論が結構とりあげられています。どれだけ「国益」を損ねているのだろう。やれやれと、日本の報道に対するブコメや日記を見てみたら、田母神氏の「論文」の内容に肯定的な人もそれなりにいらっしゃるようです。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081031-00000123-jij-soci
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.asahi.com/politics/update/1031/TKY200810310298.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2008110102000087.html
私も別に現代史に詳しいわけではないです(気の向いたときに、中身が増えてきたCiNiiとGoogle Scholar、各研究機関の学術リポジトリを漁ってみる程度)。しかし、その限られた知識から見ても、問題の「論文」はその形を為してすらいないと思いました。そこで、現在パラパラと集めている関連文献の整理をかねて、「論文」原文に逐一つっこみをいれてみようと思い、エントリを書いてみることにしました。はてな記法で引用した部分は、断りのない限り田母神氏の「論文」からです。原文の全角数字は全て半角に直したことをおことわりしておきます。
アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない。
駐留を認めることと、「(被害をこうむる方にとっては)侵略(といわれているが田母神氏はそうではないとされる行為)」を認めることは違うでしょう。軍隊に攻めこまれることに了承を与えていたというのは、どのような根拠に基づいているのでしょうか?
「知られていない」ことを明らかにするのが行論の目的ならば、「新事実」(この場合は具体的な条約の内容や運用)を具体的に提示し、典拠となる史料を明らかにするのが論文の作法です。主張の根拠を示すのは、論文のイロハのイです。しかし、残念なことに、この「論文」では全体的に守られていません。関連して、「・・・・・・という人」とありますが、論文で先行研究に言及するときは、注をつけて批判対象を明らかにするルールも守られていません。
この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない。これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。1936年の第2次国共合作によりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって1937年8月15日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻を膺懲し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。
スターリンと毛沢東がそれほど仲が良かったとは知りませんでした。コミンテルンにそれほどの影響力があることも知りませんでした。繰り返しますが、オリジナルな主張には、その土台となる史料の裏づけが必要です(「実は??」と書いているのですから、普通は知らない新しいことなのですよね?)。大事なことなので強調します。「新しいことを主張するためには、根拠を示さなければならない」、これは学問の基本です。
1928 年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。「マオ(誰も知らなかった毛沢東)(ユン・チアン、講談社)」、「黄文雄の大東亜戦争肯定論( 黄文雄、ワック出版)」及び「日本よ、「歴史力」を磨け(櫻井よしこ編、文藝春秋)」などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。日中戦争の開始直前の1937年7月7日の廬溝橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」と証言していたことがわかっている「大東亜解放戦争(岩間弘、岩間書店)」。もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。
ようやく文献をあげられましたが、刊行年と該当ページも明示するのが一般的な論文のルールですよね。それは百歩譲るとしても、示された著者のなかに査読つき学術雑誌に報告された方が一人もいらっしゃらない。これは信憑性をさらに落とすものではないでしょうか。また、人の発言を引くのであれば、それが掲載された媒体を明示するのもきほんのきですよね。
張作霖爆殺をコミンテルンの仕業とする説に対しては、特に『マオ』について、中国現代史研究者から根拠に疑義が出されています。
「関東軍高級参謀河本大作らがこの事件を企画し実行した固い事実を、この程度の「スパイ情報」で覆せるものか」(矢吹晋「書評『マオ―誰も知らなかった毛沢東』」『中国情報源』21世紀中国総研編、蒼蒼社、2006年、225ページ。http://www25.big.jp/~yabuki/2006/mao-rev.pdf)。
盧溝橋事件についても、「計画」説に対する批判的研究が出ているようです。
「日本の一部の論者が唱える「中国共産党計画」説と,中国側の唱える「日本軍計画」説がともに誤りであり,盧溝橋事件が日中双方にとって「偶発」的なものであったとする」(加藤陽子「書評 安井三吉著『柳条湖事件から盧溝橋事件へ―1930年華北をめぐる日中の対抗―』」『アジア経済』45(9)、2004年、65ページ。http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/7473/1/kato45_09.pdf)。
最後に、既にたくさんのつっこみがブコメで入っていますが、みんながやっていることだからといって、行為に対する責任がなくなることはないでしょう。
我が国は満州も朝鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しようとした。当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。満州帝國は、成立当初の1932 年1 月には3 千万人の人口であったが、毎年100 万人以上も人口が増え続け、1945 年の終戦時には5 千万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。朝鮮半島も日本統治下の35年間で1千3百万人の人口が2千5百万人と約2倍に増えている「朝鮮総督府統計年鑑」。日本統治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠である。戦後の日本においては、満州や朝鮮
半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。
「同じように開発」と主張するには、開発の指標を定め、比較する必要があります。共通の比較の基準が示されていません。データもです。内地、満洲、朝鮮、台湾、他の植民地宗主国本国、その国の植民地それぞれについて、共通の尺度ではからないと比較にならないのではないでしょうか。それをせずに外形が拡大したと言うだけでは、中国の「共産党政権はチベットを・・・・・・」に反論できなくなってしまいます。
「内地化」も定義を明確にして使うべき用語ですね。
また、現実にも、「帝国日本の植民地支配の歴史には,「外地」を法制的・政治的には明白に異域に置きながら、イデオロギー的には「内地化」を標榜するという,理念と現実の「二重性」がその当初からつきまとっていた」(山本有造「植民地統治における「同化主義」の構造」『人文学報(京都大学人文科学研究所)』83、2000年、70ページ。http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/48550/1/83_57.pdf)、「「満洲国」の掲げた「五族協和」にしろ「王道楽土」にしろ,関東軍による露骨な軍事支配を隠蔽するイデオロギーという以上の意味を持ちえなくなる」(山室信一「「満洲国」の法と政治―序説」『人文学報(京都大学人文科学研究所)』68、1991年、150ページ。http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/48355/1/68_129.pdf)といわれる植民地統治を、「極めて穏健」と評価するにもまた、基準とデータの比較が必要です。
また、人口の増加は支配の善さを担保しません(チベット・・・・・・)。
我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。また1924年には朝鮮に京城帝国大学、1928年には台湾に台北帝国大学を設立した。日本政府は明治維新以降9つの帝国大学を設立したが、京城帝国大学は6番目、台北帝国大学は7番目に造られた。その後8番目が1931年の大阪帝国大学、9番目が1939 年の名古屋帝国大学という順である。なんと日本政府は大阪や名古屋よりも先に朝鮮や台湾に帝国大学を造っているのだ。また日本政府は朝鮮人も中国人も陸軍士官学校への入校を認めた。戦後マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身の洪思翊という陸軍中将がいる。この人は陸軍士官学校26期生で、硫黄島で勇名をはせた栗林忠道中将と同期生である。朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人である。またその1期後輩には金錫源大佐がいる。日中戦争の時、中国で大隊長であった。日本兵約1千名を率いて何百年も虐められ続けた元宗主国の中国軍を蹴散らした。その軍功著しいことにより天皇陛下の金賜勲章を頂いている。もちろん創氏改名などしていない。中国では蒋介石も日本の陸軍士官学校を卒業し新潟の高田の連隊で隊付き教育を受けている。1期後輩で蒋介石の参謀で何応欽もいる。
前の段落と同様に、「多く」の中身が不明確に過ぎ、検証のしようがありません。また、植民地が宗主国の支配の下で「植民地近代」化したのはその通りだと思います(松本武祝「’’朝鮮における「植民地近代」’’に関する近年の研究動向」『アジア経済』43(9)、2002年、31-45ページ。http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Ajia/pdf/2002_09/note.pdf)。私はこの辺り特に勉強不足です。各国の軍制についても同じくよく知らないので飛ばします。
孫文をはじめ、アジア各地の革命家が日本に集まったことは特に新しい論点ではないでしょう。ファン・ボイ・チャウの失望も有名な話ですね(白石昌也「ファン・ボイ・チャウと日本」『東南アジア史学会会報』25、1975年、1-3ページ。http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&type=pdf&lang=jp&id=ART0004923536)。
李王朝の最後の殿下である李垠殿下も陸軍士官学校の29期の卒業生である。李垠殿下は日本に対する人質のような形で10歳の時に日本に来られることになった。しかし日本政府は殿下を王族として丁重に遇し、殿下は学習院で学んだあと陸軍士官学校をご卒業になった。陸軍では陸軍中将に栄進されご活躍された。この李垠殿下のお妃となられたのが日本の梨本宮方子妃殿下である。この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。もし日本政府が李王朝を潰すつもりならこのような高貴な方を李垠殿下のもとに嫁がせることはなかったであろう。因みに宮内省はお二人のために1930年に新居を建設した。現在の赤坂プリンスホテル別館である。また清朝最後の皇帝また満州帝国皇帝であった溥儀殿下の弟君である溥傑殿下のもとに嫁がれたのは、日本の華族嵯峨家の嵯峨浩妃殿下である。
旧領主の家系の存続という意味であれば、インドの藩王たちも手厚く身分を保証されていましたね。ベトナムのバオ・ダイもフランスのグランゼコールで教育を受けていましたね(英国人とインド人の婚姻には宗教問題がありますし、バオ・ダイ渡仏時のフランスは共和制だから王室はないですし、この段落については適切な比較が可能な問題設定なのか疑問です。個人的にはそもそも宗主国の王室を嫁がせることが恩恵という考え方がどうなんだろうと思います)。
これを当時の列強といわれる国々との比較で考えてみると日本の満州や朝鮮や台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とは全く違っていることに気がつくであろう。イギリスがインドを占領したがインド人のために教育を与えることはなかった。インド人をイギリスの士官学校に入れることもなかった。もちろんイギリスの王室からインドに嫁がせることなど考えられない。これはオランダ、フランス、アメリカなどの国々でも同じことである。一方日本は第2次大戦前から5族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が入り交じって仲良く暮らすことを夢に描いていた。人種差別が当然と考えられていた当時にあって画期的なことである。第1次大戦後のパリ講和会議において、日本が人種差別撤廃を条約に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付されたのである。現在の世界を見れば当時日本が主張していたとおりの世界になっている。
ロイヤルファミリーの婚姻の件で共和制のアメリカを並べているのは不適切でしょう。既に述べましたがフランスも時代によって共和制です。
エルフィンストーン・カレッジ(1856年設立、現在はムンバイ大に)、カルカッタ大学、マドラス大学(1857年設立)というように、大英帝国は植民地支配の拠点に大学その他の教育機関を設立していますね。
http://en.wikipedia.org/wiki/Elphinstone_College
http://en.wikipedia.org/wiki/University_of_Calcutta
http://en.wikipedia.org/wiki/University_of_Madras
「五族協和」が実態をともなわなかったことについては、前掲山本論文および山室論文を参照。
人種差別撤廃についてはよい提案をしたということに同意いたします。ただし、繰り返しますが、現実の施策がともなわなかったことについては残念です。
時間は遡るが、清国は1900 年の義和団事件の事後処理を迫られ1901 年に我が国を含む11ヵ国との間で義和団最終議定書を締結した。その結果として我が国は清国に駐兵権を獲得し当初2600名の兵を置いた「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会) 」。また1915 年には袁世凱政府との4ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華21箇条の要求について合意した。これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし4 年後の1919年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華21箇条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフランスなどは日本の言い分を支持してくれたのである「日本史から見た日本人・昭和編( 渡部昇一、祥伝社)」。また我が国は蒋介石国民党
との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めている。1901年から置かれることになった北京の日本軍は、36 年後の廬溝橋事件の時でさえ5600 名にしかなっていない「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会) 」。このとき北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。幣原喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそが我が国の基本方針であり、それは今も昔も変わらない。
今回は表現からつっこんでみます。「完全に承諾」というように形容詞修飾をするときには、それが表す具体的な内容を補足して、互いの印象の差を埋める努力をすべきというのが、私の受けた指導です。どうしたら「完全に承諾」したことになるのでしょうか。一番肝心な相手に過大な要求をつきつけ、排日運動を燃えあがらせて宥和に失敗したのは外交の失敗であり、恨み言をつぶやいてもごまかすことはできません。
日中戦争については、派兵前の人員の少なさを根拠に「形の上でも侵略にはほど遠い」と主張するのは無理筋にみえます。
(再々追記)また字数超過?で切れたので、つづきへ (さらに追記)補足エントリをTBしました。 (また追記)補遺エントリをTBしました(11/5)。