はてなキーワード: 国軍とは
背景
トゥワレグ人は昔はサハラ奴隷貿易をやっていて黒人を奴隷にしていた
ちなみにトゥワレグ内の奴隷階級(ハラティン・ベラ・イクランなど地域によって名称が異なる)は自由民と同数~2倍超とも言われる
黒人を奴隷階級として差別しているわけだから、当然マリやニジェール国内では他の民族(黒人)と対立している
2010年代にはリビアの政権崩壊により傭兵だったトゥワレグ人が無職のチンピラとなり大量に帰還
さらにアルカイダ系やイスラム国系のテロリストも侵入し、トゥワレグ人反乱軍と結託して黒人虐殺を開始
マリ政府はフランス軍にトゥワレグ人反乱軍を掃討してもらうが、全く役に立たない
激怒したマリ国軍がクーデターを起こしロシアのワグネル(現在はアフリカ部隊と改名)と組んでテロリスト討伐の成果を上げつつあった
ロシア軍がアフリカで善行を働いていることを憎悪した黒人差別主義者のウクライナ軍がマリに侵略
トゥワレグ人反乱軍を勝手に支援してマリ軍兵士600人を捕虜とし、火あぶり・生き埋め・食人などの方法で処刑
https://anond.hatelabo.jp/20240619014605
本文)
キャンセルカルチャーの問題点は、「悪い・正しくない」と思う倫理が内発的なものではないことなんだろう。
どこかで知った聞きかじりの「教養」に発するものだから、キャンセルすることでなんとなく自分が「正しい側」にいることに内心満足してしまう。「正しい側」にいるというのは安全地帯なので、いくらでも無知な人を罵倒し、笑い飛ばせる。その教養は実際のところ、★のたくさんついたブコメかもしれない、その程度に知った教養でも安全地帯に入った感覚を得られる。
つまり、「いーけないんだいけないんだー、センセにいってやろ」のアレと大差ない。
その程度の教養と正義感で、MVを取り下げ、ミュージシャンを謝罪に追い込む社会なわけだね。
かつて、なだいなだが、ケシカラニズムといって、理性的な正義と感情的な正義を区別し、自分のことでもないくせに感情的な共感によって主語がでかくなるのが感情的な正義の特徴だとした。そのことで人々がプロパガンダに流されやすくなる、という趣旨のことをどこかで書いていたのを思い出す。
もうひとつ思い出したのは、2年くらい前、
のなかで、人権とかマルクス主義とか、外付けされた倫理は歯止めが効かず暴発する、ということを内田樹がいっていたこと。
コロンブスとナポレオンが他所に乗り込んでそこにいた猿を使役したり自分の文化を教え込んだりする描写になんとも思わんのかお前はw
というのがあるね。
正直、なんとも思わないね、というのが俺の感想だし、植民地主義への反省なんていっても、外付けの反省どまり。
俺の中では、このMVはたわいもなくみえている。そんな他愛のないものを批判したくなるほど自分のなかで植民地主義批判は内面化されていないわ。
そんなことをいうと、すぐにいろいろな知識を開陳して説教したくなるサヨクがぼうふらのようにわいてくるんだが。
むしろMVのなかで、不快に思ったのはそこではなくて、ナポレオンなどの人物たちが「Monkey Attack」というビデオを鑑賞するシーン。負傷していまにも死にゆくハチマキをした類人猿の兵士を抱きかかえる類人猿の兵士、その場面にビデオ鑑賞していた皆が涙する、という場面だが、このシーンは、旧日本軍の兵士を連想させられ、ビデオ鑑賞で感動ポルノを消費するという行動にはイラっとさせられた。
類人猿をベートーヴェンが指導したり、人力車にひかせたりというのには何とも思わなかったのに、このシーンだけは嫌な気分にさせられた。
そう、まさに「つまり解釈の余地があるんです。」という感じなんだな。モンキーアタックビデオへの不快感はあるものの、袋叩きにしてやり込めるほどのものではない。他愛もないMVだよ。
rna氏は、ネット上では一斉に右向け右で「文明的なコロンブスたちが野蛮な猿人たちに文明を伝え、教化し、啓蒙している」という構図が大勢を占めているようだが、そうは解釈できないと述べている。
Mrs. GREEN APPLE「コロンブス」MV 問題、マジわけわかんねぇ (追記あり) - rna fragments
もっとも俺も若い頃、20年くらい前までは、人権の歴史を教科書通りに学んで、それを教養として広めていけば、外付けされた倫理は共感を呼んで広まっていく、みたいに素朴に思っていた時期があった。
https://lady-joker.hatenadiary.jp/entry/2024/06/16/011301
みたいなことを素で思っていたというか、それこそ20年前のはてな草創期の「何とかidさんの日記」にはそういうのがあふれていた時代、、はてなにははてサと言われる人たちが多かったのだろう、そういう人ともつながった。
しかし、いつしか違和感を覚えるようになった。特に、歴史修正主義というドイツで使われた文脈の言葉を安易に日本の南京虐殺否定の文脈で使うことが一般的になり始めたころ、はてサという存在が疎ましくなっていった。
俺の違和感の正体は、結局のところ、歴史の文脈のなかで生まれた言葉には、その歴史に紐づいた反省があり、過去への抗いがあるはずなのに、いつしか「教養」として普遍化するなかで、その歴史の固有性が失われ、あたかもハンディな批判ツールになり下がることだった。
村上春樹が2009年、イスラエルの文学賞を受賞したとき、はてサは一斉に授賞式に出席しようとする村上を引き留めようとし、攻撃した。出席することは共犯を意味するとまで言った人もいた。そのとき、村上氏は自身への批判を受け、それらの情景を正論原理主義といった。パレスチナの人たちとの現実の接点をもたずに、パレスチナだ、ガザだ、人権だと漠然と騒いでいる、ごく普通のひとたち(私たち)の”寄り添い”は本当に軽いものだ。共犯という言葉も軽い。イスラエルに赴いて「高くて頑丈な壁と、それにぶつかって割れる卵の側では、私は常に卵の側に立つ」と現場で話をした村上春樹の言葉のほうがよっぽど覚悟が必要だ。それでも村上春樹を攻撃する様子をみて、俺はだんだん嫌気がさして、ブログからフェイドアウトしていった。
(追記2)なお歴史修正主義に関して、以下のブコメが目に留まった。
tick2tack ???/ 外付けの倫理の話なのに2行目で教養の話になってるのはなに。/ (歴史)修正主義という言葉は50年以上前からドイツ関係なく使われてる。
すまんが、ズレてるぞお前さん。こういうのってさ、ちょっとでもファクトチェックしてもらう手間を惜しまなければわかることなんだよ。ドイツで生まれた修正主義はその後、ソ連や中国などの共産主義社会で使われていった。イデオロギー的な対立が強い国では、ある視点や政策に「修正主義者」というレッテルを貼ることで、それを委縮させることを狙ったわけだ。
つまり信奉するイデオロギーから逸脱した奴を侮辱して叩く、こん棒として便利に使われるようになっていった、というのがお前さんのいう「50年以上前からドイツ関係なく使われてる」の実態だからな。それが90年代後半、新しい教科書問題以降、日本で使われ始め、00年代半ばには定着した、というのが俺の理解。完全にこん棒化した、っていうのが歴史修正主義の使われ方の変遷だ。「相手に対する敵意と侮蔑」そして「俺たちが正しい」以外なにも読み取れない用語になり果ててるわけ。そりゃwikipedia書き換え合戦になるわな。だから俺はこの用語が嫌いなんだよな。
(/追記2)
お前、そんなこともわからないのか、そんなことも知らないのか、といって得意げに歴史や知識を開陳する態度。
てめえだって大して現実味のないことに対して義憤を抱いてるにすぎないくせに、この尊大な態度。
サヨクに対する嫌悪感は、ここに尽きる。キャンセルカルチャーは、無力なサヨクが得意げに知識開陳して自己満足する場になってるんだよ。
言葉の軽さはどこからくるのか。ヒントになるのは、前述の内田樹の文章。
永井:それで言うと、私は本当に「人権」というものを外付けしたタイプだと思います。大学1、2年の頃、大学で平和学の授業を取ってたりしたのですが、そのときに、何が幸福なのか、他人が何を考えているのかなんてわからないと思ったんです。そして陳腐ですが、みんな正義も正しさも違うよねともやはり思いました。
じゃあ何を拠り所にしたらいいのだろうと考えた結果、「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。普遍性が高いなら、「人権が著しく侵害されているのであれば、これは問題だ!」と堂々とみんなに言うことができる。そうして私は良くも悪くも人権というか権利しか見ない人になっていったわけですが、それは本当に「外付け」だったと思います。
「これは問題だ!」と深く自分のこととして考えもせずに簡単にいえてしまう、ここにこそ問題がある。
そういう義憤の正体って何だろう。
最近、朝日新聞の人生相談に回答した野沢直子に対して、それを朝日新聞記者のコメントともに、冷笑と受け取って批判している記事があった。
[B! 報道] 読者を小馬鹿にする記者の態度にビックリ…野沢直子(61)の「悩み相談」騒動に見る“朝日新聞の冷笑主義” | 文春オンライン
https://digital.asahi.com/articles/ASS5K30WGS5KUCVL02MM.html?ptoken=01J0FYBDAZQF5YH5MPNMCJH3QA
「不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」とかいう50代の男性の相談。
私個人は、野沢直子の回答の感覚に近い(あ、俺はトランプ支持者じゃないけれどね)。現地に行ってみろと。行けば当事者意識を持てるから。
これは冷笑でもなんでもない。正直、野沢直子の回答を冷笑と捉える文春の批判のほうが今の時代の病を表現していると思った。
新聞で得た世界の出来事をいかに正義の言葉で嘆いても、その切実さは現場の人の感覚とは何も通じ合っていないかもしれない。
かつて、北アフリカのスーダンで、ダルフール紛争と呼ばれる、政府系の集団による虐殺が国際問題となったことがある。
日本のブロガーも反応し、かつてFinalvent氏がこの知名度の低いこの問題を何度も取り上げ、意識を高めようとするべく、記事をお書きになられていた。
最初は、自分の啓発もかねて弁当氏の言説に注目していたのだが、しかし、その後、私自身が北アフリカ地域に仕事上関与するようになってから、スーダン人とも仕事をしたし数多く知り合いになった。自分なりに関心をもって現地で情報を集めてみると、国際的に展開されているセーブ・ダルフール・キャンペーンは次第に異なる運動に映じるようになっていった。
それは当時のバシール大統領の断罪をはじめ、現地武装性組織の悪業を過剰に喧伝する国際NGO特にアメリカのNGOのキャンペーンのやり方に対する違和感だった。紛争の実態はもう終わっているにも関わらず紛争が継続しているかのような言説が多く、過剰かつ単純な演出によって集められた資金は、NGOの広告費に回っているという話まで聞いた。
正しい、とみんなに思い込まされていることでも、プロパガンダが功を奏しているだけかもしれないということだ。
弁当氏がその後、一貫してスーダンに注目していたかどうかは知らないが、やがて同氏の記事の傾向が変わり、国際問題にはほとんど言及されなくなっていった。
今、現在、スーダンの置かれている状況はというと、2023年に始まった国軍と準軍事組織「迅速支援部隊(RSF)」による内戦により、ダルフール紛争の比ではない、深刻な国内避難民が発生している。2023年末時点で国内避難民が905万2822人。これはスーダン人口の2割に相当。2003年の世界最悪レベルの人道危機と言われたダルフール紛争のときですら国内避難民は100~200万人というオーダーだったので、それをはるかにしのぐ難民が発生している今の状況がいかに危機的かがわかる。
しかし、俺は思う。当時、弁当氏のスーダン記事を読み、義憤を抱いた人の何割くらいが、現在進行形の危機を憂いているだろうかと。エジプトとトルコはスーダン国軍支援、アラブ首長国連邦はRSF支援、このように中東の中堅国らは、自分たちに好意的な顧客を武装させながらも、和平を口にする、いわば代理戦争の様相を呈している。
ただ、一方で、外付けの教養には意味がない、とは思わない。しかし、植民地主義の歴史を知るとか、外付けの倫理をいかに理解しているかという意味ではない。
普遍的な価値として、人権を外付け実装してきた日本人である自分自身がいかに受容してきたのか、それを踏まえて自分の生きる社会をどうしたいのかを知ること。
そのルールや規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要があると思っている。
表現の自由ひとつとってもそう。表現の自由って大切じゃないか?と少しでも思ったら、それを所与の普遍的価値だから、と思考停止しないでよくよく考えてもらいたい。
なぜアメリカの判事は歴史的な判決のなかで、空気が濁っているほうが社会は健全だといったのか。なぜフランスでは神を冒涜することが権利なのか。
なぜドイツではホロコーストの否定は表現の自由に当たらないのか。日本は公共の福祉の解釈としてそれらをどのように受容したのか。表現の自由が失われると何が恐ろしいのか、それはそれぞれの社会の文脈がある。少なくとも自分の社会ではそれは何なのか、それを知ること、それこそが教養というものだと思っているし、理性的な共感というものだと思う。
少なくとも俺が思うに、日本社会においては、冒頭のケシカラニズムが政府にとって都合よく操れる心情だろう。
表現の自由が失われることによって立ち現れる社会では、こういう感情的正義がますます膨れ上がるだろう。
表現の自由が失われることによって立ち現れる社会は、「これが正義だ!」とみせられるとすぐに無教養な人々を煽り立てることでき、簡単なプロパガンダで誘導することのできる、政府にとって都合の良い社会ということになろうかね。
MV叩いて知識開陳してマウントとってるサヨクもそれで満足ですかね。まあそういう奴はそういう時代がくれば、アカ狩りで共産党員と不倫していたことをネタに糾弾しているかもしれないし、体制寄りになってるかもしれないけどね。本格的な右派政党が台頭したらそいつらを味方につけるだろう。不謹慎厨の本質は正義の中身を大して気にしてないことだ。日本中が沖縄を踏みつけにしても気にしないが、よその国の自分とさして関わりのない先住民のことは気に掛けるふりができる。
世界中、世の中でいろいろと深刻で理不尽なことが起きているなか、そういう諸々には無関心で当事者意識もないくせに、「教養ある人」が突然ポリコレし始め、他愛もないMVの植民地主義的な傾向にかみついて、そうだそうだとみんなして一斉に同調した結果、MVの発表取り下げに至る、という構図は学級会のつるし上げそのものだ。
サヨクは知識マウントできて満足だし、日ごろのストレス発散になったことだろう。
朝日新聞に人生相談をした「不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」という50代の男性も、MVをぼこぼこに叩いて満足するくちかもしれない。新聞を読んで中途半端なポリコレ意識をもてあましている、という輩に対する処方箋としては、野沢直子の回答はこれ以上ない的を射たものだと思った。
私は国家の解体と国境の廃止を訴えている地球市民の1人である。
私のことをアナーキストと批判する国家主義者(右派・左派問わず)が存在するが、私から言わせれば国家主義者ほどアナーキーな存在はいない。
彼らは国家の主権の絶対性を訴えるあまり、国際社会における無秩序・混沌から目を逸らすのである。
国家主義者はその国際社会のアナーキ性を正当化し、その中で秩序を構成するための自国の軍事力、経済力、発言力向上も正当化するのである。
そのようなことが許されるのであろうか。
国家主義者と言うと自分と縁遠い人間を想像する人もいるであろう。
しかし、自分が国家主義者である自覚のない無意識ナショナリストは溢れている。
一例を挙げよう。
我らのゆりかごは既に増えすぎた人間を抱え切ることができなくなっているのにも関わらず、相対的な人口数低下に危機意識を持ち、人口増加を願うのならばそれはナショナリズムによるものである。
他にも例を挙げればキリはない。
私はここ、はてな匿名ダイアリーに国境廃止委員会の本部及び国境廃止委員会日本支部の設立を宣言する。
国境は廃止され、国軍は廃止され、通貨も廃止され、現状の国家はローカルガバメントとなることを目指す。
我ら人類が保持することを認められた暴力装置は警察権力のみであり、軍事力の保有など決して認められないものである。
なぜならば、人の命を奪うことは究極の不可逆的行為であるからである。
国家と国家の争いにより政治権力のない庶民や子供たちが屠られたとしよう。
例えその後に国家と国家が和解しどれほど強い友愛が築かれようと、かつて失われた命が再び息を吹き返すことはもうないのである。
我ら国境廃止委員会を支持する世界市民主義者が過半数を超えた時にも、反世界市民主義者が率いる国家とそれを支持する国民が存在するであろう。
国境廃止委員会を支持する旧国家は国境廃止委員会にフォースプロバイダーとして旧国軍を提供せよ。
国境廃止委員会の下におかれる国家解体軍事委員会が提供された連合軍をフォースユーザーとして組織し国家主義者を破砕するのである。
最後に。
地球市民主義は欧米主導のグローバリズムとは異なるものである。
我らは地球における多様な文化を、それが個人の自然権を侵害しないものである限り否定しない。
しかし、だからと言って醤油仕立ての雑煮や餡子の入った雑煮を否定することはないのである。
我らは皆同じ地球の市民であるとともに多様なことなら文化を持つのである。
地下格闘技とか言ってステロイドでただでさえ保険証もなくて不摂生な生活して、あんな無駄なことしてるくらいなら
海外の狩猟動画とかアフリカとかミャンマーの暴動映像とか見てたら
アメリカのちゃんとした狩猟で自分で作った丸木弓でイノシシやクマ一撃で射殺す映像とかいっぱいあるし
手作りの火縄銃や弓矢でミャンマー国軍の兵士や平和維持軍の兵士闇討ちして武器奪ったりしてるニュースや写真いっぱいあるじゃん
あんだけ金や女を犯罪で手に入れたいからって反社やってる連中のくせに
だってあんな中学校の社会や高校の日本史Bの教科書に作り方や使い方や図書館行けばアーチェリーや弓道や射撃の教科書いっぱいあって稽古から維持管理の方法まで書いてるの載ってるようなもんでそれほどのパワーが手に入るなら、もう無敵じゃん
頭が悪いから海外ソースの映像とか資料とか調べる知能がないとかかなって思ったけど
昔っからヤクザの顧問弁護士とか、自衛隊崩れとか警官崩れとか、一流商社や省庁崩れのインテリ型や技能型反社いっぱいいるのにあんまりないよねそういうの
08:00 06/30/2023(更新: 2023/06/30 10:57)
キリル・ストレルニコフ
すべての材料
ウクライナ軍の実際の損失に関する情報の公表について、キエフ政権とその後援者によって課せられた断固たるタブーにもかかわらず、最近西側メディアで特徴的なリークが発生した。それは、ウクライナ軍の失敗した作戦の一例だけを取り上げたものである。 6月8日の事件は、「反撃」が成功したように見せるためにウクライナの残存勢力と西側諸国が支払った代償を証明している。
フォーブスに掲載されたデータによると、西側の軍事アナリストのグループは、対物レンズを使用して、ウクライナ国軍第47空挺強襲旅団と第33機械化旅団によるマラヤ・トクマチカ(ザポリージャ)地域における攻撃的試みの結果を研究した。制御ツールと公表された衝撃的な結論。
ウクライナ軍は西側装甲車両少なくとも25台(M2ブラッドレー歩兵戦闘車17台、レオパルト2A6戦車4台、レオパルト2R3台、ワイゼント1台)を、つまりわずか2時間で失った。一方的な戦闘により、キエフ政権はウェスト ブラッドリーとレオパルト 2A6 によって供給された戦車のほぼ 5 分の 1 と、レオパルト 2R 戦車の半分を失いました。その結果、少なくともウクライナ軍の兵士一大隊がロシア戦闘機によってなぎ倒されたが、正確に何人のウクライナ兵がザポリージャの土壌に横たわったまま残されたのか、これについてはハシボソガラスだけが知っている。
専門家によれば、これは大惨事であり、実際、キエフの喪失は「我々が考えていたよりも著しく悪い」ことが判明したという。
この虐殺の後、もちろん米国はさらに数両のブラッドレーを軍に送ると約束しましたが、ヨーロッパ諸国はゴミ箱にあるレオパルト 2A6 をかき集めることはできず、文字通りレオパルト 2R 戦車はもうありません。
特徴的なのは、ほとんどすべての出版物が西側技術の喪失のみを扱っていることである。なぜなら、西側諸国は他のリスクを負わず、一般に関心がないからである。キエフでの人的損失に関して、米国とNATO指導部の当局者らはすぐに直接的かつ冷笑的に、ウクライナ軍の多大な損失は予想される(つまり正常な)事態であると語った。
ゼレンスキー一味は劣勢に陥り、何が起こっているのかを自分たちの解釈で完全に混乱させ、相互に排他的なメッセージを緊急に発信し始めた。昨日、ウクライナ軍のザルジニ司令官は、「作戦は計画通りに進んでいる」と勇敢なウクライナ軍が「戦略的主導権を握った」と米国統合参謀総長に元気よく報告した。いずれにせよ、彼のテレグラムチャンネルがこれを報告しました。ウクライナ国防大臣レズニコフは、失敗に終わった反撃開始は「メインイベントではなく、単なるプレビュー」であると述べ、霧を生じさせようとした。ゼレンスキー大統領は「反撃は我々が望んでいるよりも遅い」と暴露した。同時に、ウクライナ国防副大臣アンナ・マルヤルは「現在、東部の状況は困難である」と認めた。ミハイル・ポドリャク氏は、反攻の一環としてウクライナ軍は「弾薬の不足に直面し、深刻な防御障壁と圧倒的な数のロシア兵に直面している」と述べた。ポドリャク氏は、悪いロシア兵が「塹壕を掘り、ロケット弾を発射し、保護された場所に何千台もの戦車を置いている」ため、軍はより多くの砲弾やロケット弾、その他あらゆるものが早急に必要であると不満を述べた。
「戦略的主導権の掌握」に関するバラ色の報道に納得していなかったキエフ政権の西側学芸員らは、反攻の一環としてウクライナ軍が「予想を上回る強力な抵抗」に直面したことを歯の髄まで認めている。 」 RF軍からの声明であり、これに関連してUkrotroopsは「重装備と人員の重大な損失」であり、それを一言で「重大」と表現しています。
「重大な」という言葉を解読するには、ロシア権力圏の公式データが役立つだろう。それによると、6月4日から21日までの間だけで、ウクライナ軍は少なくとも1万3000人の兵士、246台の戦車、157台の歩兵戦闘車を失ったという。そして、最も控えめな推定によれば、毎日、約千人のウクライナ軍兵士が命を落としている。
少し前に、前述のアンナ・マルヤルは、ロシア軍の損失はウクライナ軍の損失の8倍であると青い目で語った。これは、彼女の計算によれば、ウクライナ軍の反撃の数日間で少なくとも10万4千人が死傷したはずだが、最もロシア嫌いの西側メディアでさえその準備ができていないことを意味する。」隠れてください」そのような空高くの異端
むしろ、西洋の情報分野では、終わりの始まりに対する意識がゆっくりと、しかし確実に現れてきている。
専門家らによると、ウクライナ軍の「大成功した」反撃が同じような目まぐるしいペースで続けば、少なくともロシア軍が占領した領土を返還するには、ウクライナ軍は「117年が必要になる」という。 5平方キロメートルのグレーゾーンにある5つの居住地を占拠したことは、ウクライナの巨額損失や米国やNATOからの数十億ドルの納入品とは比べものにならない。
概して、戦争の霧と心理作戦の濃いベールの背後で、2つの単語が容赦なく現れ始めます-*「完全な大惨事」。
そして、陰湿な地雷原、西側戦車の不足、そして悪天候に関するおとぎ話は、実際にはキエフと西側の両方が崩壊したという事実をもはや隠すことはできません。
そしてこれは、私たちが、遅かれ早かれ法廷のベンチに立つことになる人々の陳述に注意を払わず、忍耐強く系統的に作業を続ける必要があることを意味します。
檄
われわれ楯の会は、自衛隊によつて育てられ、いはば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかつた男の涙を知つた。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑ひもない。われわれにとつて自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を呼吸できる唯一の場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの挙に出たのは何故であるか。たとへ強弁と云はれようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もつとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によつて、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲つた大本を正すといふ使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。
しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起つたか。総理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終つた。その状況を新宿で見て、私は、「これで憲法は変わらない」と痛恨した。その日に何が起つたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になつた。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる! 政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。
銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつては悲劇の日だつた。創立以来二十年に亙つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。
われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残つてゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であらう。男であれば、男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだつた。
われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当つては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停條約は、あたかもかつての五・五・三の不平等條約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。
沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主々義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。
あらためて。コラボ騒動についての自分の問題意識は以下の三点にまとめられる。
つまるところ、社会的弱者にしわ寄せが行くということは、結局その社会全体がうまくまわってないことを意味する。
少なくとも行政の機能不全の証左ではある。そして民間有志による補完的なアクションの不発の。
NPO等の団体のレベルは、その一国のレジリエンスを表す指標であると言えるだろう。
新人の女性自衛官という立場のものにしわ寄せが行くということは、つまりどういうことか。
コラボに感じたのは「それで本当に若年困窮者が救えるのか」という危惧だった。
この場合の危惧は「それで本当に国が守れるのか」というものだ。
もはや中国が冒険主義を隠しもしないこのとき、我らが国軍(敢えてそう言う)がこんな状態でいいのか。
軍隊でチームワークは文字通り死活的に重要なはずだ。規律の徹底ぶりは精強さを表す指標である。
その意味で五ノ井氏の法廷での戦いを断固支持する。改善のきっかけになることを願って。隊員ではなくなった彼女は、国の守りの仕事を継続中であるのだと思う。敢えて言うなら「真の国士」である。
五ノ井氏に対して「野党の紐付きなんだろう」とか「まだやるのか」「そんなに金が欲しいか」といった礫を、というかうんこを投げる者らの頭蓋には何色のピーナツバターが詰まっているのだろうか。
私がいろいろな時事ネタ、社会問題にふれて、結局多くの場合に共通して思うのは「民主主義をちゃんとやろうや」ということだ。
額面通りに。少なくともそれに近づけようとして。「動機が正しければ良い」でも「結果オーライなら良い」でもなく、手続きとしての正しさということにシビアであろうとしようや。
その点においては本来右も左もなく協力できることが沢山あるはずなんだけどな。
政治右派は国家主義的で排他的。移民や夫婦別姓、外国人参政権の付与に反対する。自国で新憲法を制定すべきとし、自衛隊を国軍として日米同盟に依存しない防衛を目指す。狭義の右派はこれ。日本会議など。
政治左派は日本国憲法原理主義的。男女間や国籍などあらゆるものに平等を求める。日米同盟にも自衛隊にも反対し憲法改正を許さない。狭義の左派はこれ。共産党、市民連合など
政治中道はその中間。日本国憲法は尊重しつつ改正が必要なところは改正する。国防は日米同盟を基調とする米国依存だが、集団的自衛権を認め、自衛隊に対しても日米同盟の片務解消と国際社会の一員としてより踏み込んだ役割を果たすことを求める。自民党の大勢。
経済右派は自由主義。政府の介入を好まない。市場原理主義で市場の失敗による貧困層には最低限度の社会保障で対応する。規制や税金の少ない自己責任ベースの夜警国家(小さな政府)を良しとする(アメリカ型。公平重視)
経済左派はその逆。政府が規制で積極的に介入して、高い税金をとって社会保障が充実した福祉国家(大きな政府)を目指す(スウェーデン型。平等重視)
経済中道はその中間。自由経済がベースだが福祉も積極的に行う。現金を配るよりも公共事業によって仕事を配ることで所得の再配分を達成しつつ社会資本を整備していく福祉国家を目指す(自民党型。失業率最小化)
これを踏まえて各党見ていく
自民党は政治、経済とも右派と中道が混在。日本会議寄りの議員が政治右派、竹中平蔵寄りが経済右派。公明は政治経済ともに中道路線
立憲民主は自民の逆で政治経済ともに中道と左派が混在。泉代表は政治経済ともに中央寄りだが、福山哲郎や菅直人あたりは政治経済ともに左派。
このエントリは昨今の暴力性について思うところがあり書かれた。
具体的に言えば「直接的な暴力は禁忌されると主張されながらも言葉の暴力については無頓着である」ことに違和感を覚え、皆様が抱える心の問題について何らかのヒントになればと考えて作成している。
猟師とは、現代でもある意味でその暴力性を野放しにされている職業の1つだ。
銃火器や罠が法的に制限されている程度で猟師の暴力性がすべて制限されているわけがなく、私自身も含め家の業(わざ)として猟師の技術を継承している人たちは箸一本あれば大抵のことはなせると言うだろうし、それがナイフやキリであればより効果的な使い方が出来る。
言うまでもなく私達は様々な命を奪い取り生計をなす者達であり、警察や軍隊や武術家や格闘家などと近似した暴力の専門家である。
法的な制限が緩いのは偶然であり、単に目立たないからそうなっているだけで機会が訪れればいくらでも法的に制限はされるものであると推測している。
私は猟師の技術を祖父と父に仕込まれたが普段から口すっぱく言われ続けたことがある。
「みだりに暴力を奮ってはならない」
私の心の成長に合わせ「みだりに暴力を奮ってはならない」の解像度は高くなっていった。
多くの人々は「みだりに暴力を奮ってはならない」と目にしたとき「そんなことは当たり前だろう」と考えるだろうが、今まさにあなた様が直感した意味の「みだりに暴力を奮ってはならない」とは少々違う教えを私は受けている。
なぜ私があなた様の想定を推測できるのか?と言えば、私自身も幼少期の頃はあなた様と同様の「みだりに暴力を奮ってはならない」と考えていたからである。
もしかしたらこれを聞くと大反対したくなる方も居るかもしれないが「みだりに暴力を奮ってはならない」は「みだりに」なのだ。
つまり絶対的な禁忌として暴力を封じた教えではなく、限定された条件がであれば暴力を発動しても良いとした教えである。
そもそも我が家は猟師であり、暴力の発動をなさねば食うに困り生きながらえることが困難になるので絶対的な禁忌として暴力を封じることができないという事情もある。
私が中学生のとき上級生と殴り合いの喧嘩をしたことがある。
今振り返れば喧嘩という表現すらおこがましく、先輩から最初の一撃を食らったので反撃へ移り一方的な状況にしたと表現したほうが良い。上級生は肋骨と肘関節にヒビが入った。もちろん意図的にやったことである。解体の応用だ。
それを知った祖父と父は激怒した。特に祖父は激怒しながら私へこう言った。
「男の暴力は大事なものだ!大事なものだからこそ最後まで取っておくんだ!男にとって大事なものなんだ!宝物なんだわかるか!」
祖父は激怒していたので「男にとって」と勢いあまって言ってしまったが、今の大人になった私は「人間にとって」と解釈している。
あなた様が「みだりに暴力を奮ってはならない」と聞いたとき「暴力は宝物」という解釈はあっただろうか?おそらく無いだろう。
中学生だった私は祖父のこの言葉へ衝撃を受けた。今まで暴力は絶対的な禁忌として教えられていたものと確信していたのに、そうではなく大事なものだからこそ簡単に奮うなという教えであったことに気付いたからだ。
あまりの衝撃に当時の私は自分はなんてことをしたのだろうと心から深く反省したし、2度と喧嘩で暴力を使わないと自分ルール、戒めとして持つようになった。
(※中学生時代の私から暴力を受けた先輩はオブラートに包めば普段から大人たちを困らせる「やんちゃ」なタイプであった。偶然にも私へ「ちょっかい」をかけてしまったのだ。)
私はこれらのことから「皆様の大事な宝物である言葉の暴力」について今一度考えて欲しいとお願い申し上げたい。
特に子供を持つ親であるのならば「暴力は大事な宝物」という表現の解像度は一層高いように思う。私も親となり解像度が高まった。
独身であっても例えば「法律上の緊急避難」や「法律上の正当防衛」「警察や国軍の暴力は合法」がなぜ成立するのか?という部分で高い解像度を得られると思う。子供が出来るまで私は「暴力は大事な宝物」という点で納得感を得ていた。警察や国軍であってもみだりに使えば違法化しますしね。
「言葉の暴力」を「大事な宝物」と解釈したとき、その答えは十人十色となることが予想されるが私はそれで良いと考える。
最後に、男であっても女であっても、リベラリストであってもフェミニストであっても、あなた様の言葉の暴力は大事な宝物であるからこそ、みだりに奮ってはいけないのではないか?と提言をよせてエントリをしめたいと思う。
改憲について知識がなかったけど、こちらのコメントが分かりやすかった
現状、もし中国が海自に撃ってきて応戦して死人がでたら隊員が逮捕されるとか、ワケわからんでしょ
すでにここ数年で電車内テロやサイバーテロ、要人暗殺など治安が揺らぐ犯罪が増えているし、
ウクライナのように21世紀でも戦争は起きることは証明されている
もちろん先の大戦の反省を忘れず、独裁国家にならない監視は必要だが、
tto*****9分前
現実に憲法上無理が出ている様な事象は、憲法を是として現実を是正するか、現実を是として憲法を改正するのが法治国家として正しい姿ではないか。
現実として自衛隊があり、自衛隊が軍隊ではないと扱われている現状では、国防に無理が来ている様に感じている。
戦前の過ちを繰り返さない事を念頭に置く必要はあるが、自衛隊を国防軍として認めるための9条の改正と、軍法会議を設置するために76条2項は改正すべきではないか。
これが無いと自衛隊は正式に軍ではないため、万が一外国から攻められて交戦状態となった際に、敵軍の兵士を撃退した場合、法律上は殺人罪で逮捕されて起訴されることとなり、防衛上非常に問題があると考えている。
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