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私は著書「統計データはおもしろい! -相関図でわかる経済・文化・世相・社会情勢のウラ側- 」(2010年10月技術評論社刊)の中で、この図録を含む上記3つの図録にもとづき、「少子化は公的支出で防げるか?」という表題の1章を構成したが、「政治の奇跡」へ向けての具体策として以下のように提言した。
「私は、究極の普通選挙として、選挙権を未成年にも与え、親にその代理投票権を許すという新制度について真面目に検討してもよいのではとさえ思っています。世界史上はじめてこうした制度をつくるとしたら、高齢化のスピードが最もはやく、高齢化に伴う社会保障制度のゆがみが最も深刻な日本においてではないでしょうか。」(p.121)
これは、一般には、なかなか受け入れがたい考えかなと思っていたら、同じことを考えている人は、予想以上に多いようだ。
経済学者の大竹文雄氏は2008年10月20日(月)発売の『週刊東洋経済 』に「子供の数だけ親に投票権を」というコラムを掲載している。
大竹文雄氏のブログでは、他にも同じ提案をしている例として「北海道大学大学院文学研究科の金子勇教授がお書きになった『少子化する高齢化社会』(NHKブックス、2006年2月刊)の148ページから149ページに記述があります。そこには、2004年4月に富士通総研の鳴戸道郎会長が「少子化コンファランス」でこのような提案をされたと記載されています。」とある。
さらに、東京新聞では、「ゼロ歳児から選挙権を」という見出しで、スウェーデンで「赤ちゃんを含めた将来世代に選挙権を広げよと提唱し、」同国で反響を引き起こしたイエーテボリ大学のボー・ロースタイン教授へのインタビュー記事(2011年2月20日)を掲載している。
「昨年9月、スウェーデンの総選挙では与野党は年金所得への減税について優遇策を競い合った。高齢化した有権者層の受けを狙った、投票を金で買うような行為によって政策をゆがめた」「いっそゼロ歳児から全国民が選挙権を獲得すれば、スウェーデンの政党は新たに誕生した約200万人の有権者の獲得を目指すことになる。この大きな一撃は政策の優先順位を必然的に変える。もちろん選挙関連法の改革が必要で、実際には保護者が子どもの代弁者として投票する仕組みが考えられるだろう
-夢物語では。
もともとは10年ほど前にスウェーデンの小児科医らの協会が考えたアイデアだった。彼等は経済的困窮に陥った子供たちを多く見る立場なので発想できたのだろう。私は当初『とんでもない考えだ』と否定的にとらえたが、学者としての調査で過去30年間、西欧社会で子供の貧困や精神的不適応が驚くほど拡大したことを実感しており、人的資源(子供)に投資しない政治、社会をもはや見逃せなくなった」
こうした投票制度は「ドメイン投票制度」としても知られているようだ。
親権者に子供の数だけ投票権を与えることで、間接的に未成年者にも投票権を与えようというアイディアは、「ドメイン投票方式」と呼ばれ、人口統計学者のポール・ドメイン(Paul Demeny)によって1986年に考案されたとされる。「ドイツでは2003年にドメイン投票方式を導入について議会で議論されたが、実現には至らなかった。そして2008年に再び議論されている。なお、ドイツでは ドメイン投票方式は子供投票権(Kinderwahlrecht)の名で知られている。」(ウィキペディア「ドメイン投票方式」2013.4.30)
提唱者のドメイン教授を招いた「ドメイン投票制度」についての討論会が2011年3月に催されている(NIRA該当サイト)。ここで、ドメイン教授は、ドイツ議会での議論のほか、シンガポールのリー・クワンユー元首相が同様の提案を口にしたこと、またハンガリーの新憲法草案として「子どもをもつ母親に1票を付加給付」という考え方が示されたことを紹介している。
そのうえでヤカラ諸君にはその子のことを単なる肉便器として侮っていてほしい。
”清潔でとにかく無口でテンション低いのが平常運転だけど、自分の価値をわかりきってる美人”
が合意の上でそういう男に股を開いて、ハメ撮りや乱交も喜んで受け入れる・・・・・・
そんなシチュエーションに何よりも興奮するんです私は。
多分、中学時代の経験がこういう性癖に影響を与えているのだと思います。
メガネ黒髪無口なのにもかかわらず学年No.1人気があった憂いのある美人の同級生が、学校最凶と悪名高かったヤンキーの同級生と付き合っていたんです。
「非常階段の踊り場でバックでヤったw」とヤンキー君が男連中に自慢してたらしいのを小耳にはさんでほんと最高だったし感謝感激だったんですよ。
贅沢いえば……
「反社・ヤカラにいいように肉便器にされそのことを喜んでいたのにもかかわらず、
大企業勤めの同年代とシレッと結婚し落ち着いた聡明な美人の家庭人として豊洲や二子玉や品川や小杉のタワマンに住む」
そんな締めくくりであってほしいものです。
とにかくですよ?
一見すると関東連合と区別つかないようなヤカラの皆さん(できれば学歴弱者の前科持ちであってほしい)は、どんどんこういう女性にアプローチしていってほしいんです。
そうしてくれると私、ドピュッドピュッと良く精子を出すことができるのであります。はい。
余談ですけどねえ。
「この手の女子は才女、育ちが良さそうに見えるだけで実は反社の情婦がお似合いのアッパラパー」
むしろ彼女ら女子校で学年生徒数少ないのに例年東大何人も受かるような中高一貫校に中学受験で入ってたりして、私立専願ながらちゃんとお馴染みの難関大出てたりするんですよ。
受験生時代から英語と世界史が妙に得意だったりしちゃってね!!
それなのに、それなのに……
大学進学後、男なんかに影響されて腹や尻にタトゥー入れてみたり、乱交(反社様やヤリサー幹部様、複数の強き者から求められる悦び)に忌避意識なかったりしてもう最高。
なんのための実家暮しだあ!笑
個人事業主がストっておかしいだろ、下請け会社が客に対して「発注条件を改善しろ!発注を続けろ!」ってストライキ起こすようなものだぞ。労働者の権利が欲しいなら個人事業主の権利を捨てろよ
このあたりの土人っぷりがすごいw
いったいこの人たちは中学高校の世界史とか倫理の授業で何聴いてたんだろ・・・
寝てた可能性が高いな。
教養を放棄するとこういう人材が生まれるのだな分かりやすい指標。
しかし「契約で決めれば何してもいいでしょ」が成り立ったら社会が成り立たん。
19世紀にすでに資本家に過剰な有利すぎる契約の問題が分かったので、労働法やら工場法、最近では下請け法につらなる法規制ができたわけだ。
そうしなきゃ一方が有利になりすぎて人類が成り立たんって気づいたわけだな。
そういう歴史を知らずに資本主義は自由でうんたらとか断言しちゃう若者感がなんだかほほえましい。
「嫌ならやらなきゃいいだけ」って業務を続けたいのに打ち切られたって話でしょうに。下請けは自分たちの権利を主張しているのであって文句を言っているわけではない。
まあ要旨としてはこの人が書いている通りなので付け加えることはないわけだけど。
上の教養がない人たちは「権利」とか「自由」の本当の意味がわかってないわけだ。
というタイトルに対する答えではなく、門外漢の自分がどう考えるかというのを吐き出してみたい。
私自身の前提知識としては、世界史の小話的に、東インド会社によって茶の中国からイギリスへの輸出が確立する中で、ウーロン茶よりもさらに「発酵」をさせたお茶が人気となり、それが紅茶の起源となったというものがあった。そのため、茶が発酵の程度によって分類されるというのは誤りという情報を見て、①そもそも自分の知っていた小話が間違っていた、②根拠となっているISOの分類はあくまでも統一規格として分類上の正確性を必要としているだけ、という2通りの可能性が思い浮かんだ。
そこで、ざっとwebを検索する限り、比較的信頼度が高いサイトでも少なくとも日本語情報では発酵程度を分類の指標にしているものが多くみられた(サントリーなどの大企業サイトや農水省のコラム、JASの紅茶飲料の分類など)。他方で、ISO以外に紅茶の分類を発酵程度で行うことを否定する公的な情報はパッとは見当たらず、この時点で、少なくとも、日本国内においてそのような分類で考えることで法令等に違反することはなさそうだという考えに至った。紅茶の起源の小話については、定説はなさそうだが、概ね自分の認識と同じような話が多くみられ、これを積極的に否定するような話はなさそうというところでいったん腑に落ちた。
もちろん、国際規格での定義がある以上、それに反しかねない情報に問題がないとは言わないし、実際にかなり発酵の程度が弱いものであっても紅茶とする例がある以上、日常用語としても完全発酵茶=紅茶とするのは問題を含んだ用語法ではあるだろう。もとになったサイトでは、「発酵させるか、途中まで発酵させるか、しっかり発酵させるか『のみ』が異なります。」としていて、さすがに修正が必要になる記載だろうとは思われる。しかしながら、これをデマの拡散とまで断ずるかのような反応もあり、その点は、どこまで意識してそのような強い反応をしているのかが気になるところではあった。そもそも、紅茶という言葉は定義が先にあったわけではなく、歴史の中で使われてきた言葉を現状に合わせて分類することで定義づけられたに過ぎない。日常生活において、完全発酵茶=紅茶と理解していて困る場面がそうあるとは思えず、むしろ、世界史のダイナミズムを感じる一つのエピソードにも繋がるものである。どういう意味で、なぜ誤りであるのかということまで含めた理解が大切で、ISOという根拠を示されただけでそれ以外を全否定するという姿勢も、やや極端に過ぎるもののように思われた。
今日息子と一緒に考えたテーマは「無理数に覆われた世界」です。
高さと底辺をそれぞれ1とする直角二等辺三角形を作図することで数直線上に√2をとることができます。
またそのようなことをしなくても有理数である1と1.1の間に無数の無理数を見出すことができます。
息子はショックを受けましたが、半日間一生懸命うんうんと色々考えていました。
デデキント切断を知らない息子がそのメソッドを捉えるか捉えないかのところで一生懸命考える様子に、子供の無限の可能性を見出すことができました。
これまでの数に対する認識を改める良いきっかけになったと感じています。
中学受験を終え、息子の友人や同級生は中学校の数学と英語を1日でも早く終えようと息巻いていますが、私の場合、息子には「当たり前」と思っている物事に対して常に「なぜ?」を持ち、考える習慣を身につけて欲しいと思っています。