はてなキーワード: 記述とは
おたくが通説って何を言うか知らないけど、憲法のスタンダードだと芦部説を指すことがあるのよ
二重の基準論が古いように芦部説を未だに通説として止まってるようじゃダメだよ
あと引用の仕方が雑
高橋和之の本の2021の版が手元にあるけどここでは「通説であった」とされてる。その次の文章ではしかしで接続されて外国の同性婚の話になってる。
それに引用元では婚姻の事由を新しい人権の中で記述されてて、そこでは人格権を中心とした性自認の権利が引き合いに出して、他の権利の解釈にも影響を与えるとしてる。
ツイッター上で好きだったイラストレーターさんや漫画家さん、絡んでもらってたフォロワーさん等々が続々AI規制派発言をするようになっていってて辛い。吐き出させてくれ…
SNS上で見かける規制派の意見がマジで理解できない。何あれ?
規制派が「これは絵描きの総意です!」みたいなノリで言ってることに全然共感できない。
あの人たちは自分の中の絵描き像が大事で、自分の想定するようなスタンスでない絵描きのこととか想定もしていないんだろうな。
インターネット上の主張は主語がデカくなりがちとは言え、「この属性の人たちはみんな同じ気持ち!」みたいな態度キツいっす。
私も趣味で描いてる絵描きだけどあの人たちと同じ考えは全然持てない。
絵画の著作物でとりわけアニメ調や漫画調の人物イラストを別格の存在と思っていそうって言うか…
規制派の人がよく訴えてる「絵は我が子のようなもの。機械学習にかけられることは我が子をミキサーにかけられるような気分になる」みたいな例え話に一ミリも共感できない。
何故なら私は私の描いた絵に対して生まれてこの方一度も我が子だとか思ったことがないので。
絵は絵じゃん。
自分の絵を見て「よく描けた」「好きだ」とか思うことはあっても「これは我が子だ」みたいな感覚は湧いたことがないのであれ系の例えに全然共感できない。
絵を描く人間がみんな自分の絵に対して「我が子」と認識すると思わないでほしい。
と言うか、私が今までネット上に公開した絵について機械学習された可能性があることについて私は特に何の感慨も抱いていないんだけど。
「ふーんそうなんだ」くらいにしか思えないって言うか…
何も思ってないことについて「絵描きは怒るべきだ!」みたいな圧を感じるの怠い。
怒ってないことに別に怒れないよ…
イラストであれ写真であれ、画像データである以上はピクセル一つ一つに色の情報が乗ってるだけって性質は引き剥がせないじゃないですか。
私は機械学習の技術的な仕組みとかよくわからないけど、あれは「『人間』というタグが付けられた画像ではこの色情報を持つピクセルの横にこの色情報を持つピクセルが配置されている傾向にある」みたいなデータ配列の偏向を学習してるだけなんじゃないの?理解が間違ってたらごめんね…
そう考えると生成AIが学習段階でやってることは別にコラージュでもミキサーでも単純な複製でもなくない?
いや、機械学習、データ解析の過程で複製が伴うとしてもそれは権利侵害に当たらないと規定しているのが著作権法なのだろうけど…(法律の理解がガバってたらすまん)
未だに「生成AIはコラージュだ」みたいな誤情報を信じている人がいるのよくわからん。
データ配列の偏り方を学習してるだけであって盗んでもいないし切り刻んでもミキサーしてもいないよ。
あと「権利上の問題がある」「著作権的に違法だ」みたいな主張も謎すぎ。
学習権みたいな権利は日本の著作権法には規定されてないと思うんだけど。
どこの国の法律を見て言ってるんだろう?
私が不勉強なだけで実は日本の法律に存在するとかだったらマジで教えてほしい。勉強したいから。
著作権って単語を「自分の作ったものを好き勝手されない権利」って雑に理解しているのか?
あらゆる形での他人の利用を拒否できる権利ではないと思うんだけど…
たぶん「著作権」って単語を相手が怯む魔法の言葉だと思って使ってるんだろうな…
「外国では集団訴訟されている問題のあるツールだ」みたいな訴えもよくわからん。
外国で起きた訴訟はその国での法律で争われるのであって、外国の裁判で出た判決が直ちに日本にも適用されるとか無くない?
日本でも新たな法が作られるとかの時には海外の事例も参考にはされる可能性もあるだろうけど、日本の外で起きている事柄を根拠に「日本も倣うべきだ」みたいなノリがよくわからん。
と言うか日本での訴訟があるなら是非知りたいんだけどどなたかご存知ないですか?
著作権路線で生成AIを責めるならSNSの運用もちゃんとしてほしい。
生成AIに反対している人のツイッターアカウントを見に行ったら、著作権が切れていなさそうな漫画の切り抜き画像や映画、アニメ、TV番組のスクショ画像を引用の要件を満たさずに投稿していたりするのを見て頭抱えた。
生成AIを他人の著作物を蔑ろにするものと主張しながら自分はバリバリに他人の著作物の権利侵害行為してるのはダブスタすぎるでしょ。
あとpic it upとかの「自分で描け」的な主張に本当に賛同できない。
もし仮に私が「自分で描け」的な思想に賛同したら、それはありがたくも私のイラスト素材を購入し使ってくださっている方々に対して失礼じゃないですか。
自分で描く力や時間がない時、描き方がわからない時とかにそういうツールを使うって点で考えれば、手描きのイラスト素材も画像生成AIも役割として変わらないじゃん。
求めるイラストを作るためのツールを適法に使うことを悪だとする思想には私は賛同できないです。
というか、「自分で描け」「手描き詐称するな」みたいなご意見をお持ちの方々は、職務著作という制作体制が存在することについてどういう理論でその意見との整合性を取ってるの?
要は、その絵を自分で描いていないのに自分が著作者だという名目でその絵を発表することを非難なさっているんですよね?
でも例えば、漫画家さんが作画アシスタントさんを雇用して漫画制作に参加してもらう…みたいな制作環境はよくあるわけじゃん。
で、そうやって漫画家さんが指示を出してアシスタントさんに描いてもらった背景や効果、モブ等々は漫画原稿の一部となり、最終的に漫画家さんの名義で漫画雑誌やwebページ、単行本の形で発表されるわけじゃん。
そうやって作品が発表される際に作品に表記されるのって漫画家さんの名前だけですよね?漫画家さんが自分で描いていない部分もあるのに。(時々単行本の本文内でアシスタント名を掲載されている場合もあるけど雑誌掲載時はその限りでないですし)
自分で描いていないのに自分の名義で発表するというケースはこういう漫画制作現場の例に限らず世に無数にある。
著作権法では職務著作という名目で一定の条件下でそれを可能にする規定もあるんですが、「自分で描け」「手描き詐称するな」みたいなご意見をお持ちの方々はその辺の法律とはどういう風にそのご意見との整合性を取ってるの?
「自分で描け」「手描き詐称するな」という主張を通すなら職務著作についても非難することにならない?
知ってる上であんなめちゃくちゃな主張を言っていたとしたら主張のロジックがガバガバすぎるでしょ…
生成AI使用者を盗人、犯罪者呼びするのもやめといた方がいいと思う。
お手持ちの画像データはご自身の画像フォルダやネット上のサーバーからひとりでになくなったりしてないでしょう?
マジでお手持ちのデバイスから画像データが盗まれて消えたとかならサイバー犯罪だと思うから警察とかに相談した方がいいですよ。
第一、ネット上にアップロードした絵を複製されることが嫌って言うならネット上に画像をアップロードしない方がいいと思うのですが…
誰かがネット上にアップした画像を他人がネットを介して閲覧する際にはその他人が使ってるデバイスにその画像データが複製されるのはネットの仕組みとして当たり前にあるって言うか…
インターネットってものがそういう仕組みをしていて、尚且つイラスト投稿サイトやSNS等を利用して画像をアップロードする際に「あなたがアップロードしたものはこういう風に使いますよ」って規約に同意した上でサービスを使っているわけじゃないですか。
適法かつ契約内容に則ってネット上にアップロードされたデータが使われることに対して盗人、犯罪者呼ばわりするのは筋違いじゃないか…?
と言うか、どんなに正当な怒りがあっても他人に対して暴言を言うのは誹謗中傷とか侮辱になる可能性があるからやめといた方がいいですよ。
特定のイラストレーター風のLoRAが作られるのが嫌って気持ちも分からなくはないけど、絵柄や作風ってものには著作権の保護は及ばないし…
と言うか絵柄や作風にまで著作権を及ばせようとする規制派の主張は怖いっす。
著作(財産)権は著作権者の死後70年も効力を発揮する強力な権利じゃないですか。(団体名義での公表であれば公表後70年だけど)
そんなに長い期間似たような作風、絵柄での作品制作を規制するのはだいぶ無理筋では?
制作過程にAIを使用してもしなくても私は自由に絵を描きたいよ。
絵柄や作風にまで著作権の保護を及ばせようとする意見には賛同できないっす。
いわゆるimage to imageの手法でご自身のイラストが加工されたことに関しては、加工の結果の生成物が依拠性と類似性があると判断できるならば複製権等の侵害として使用の差止請求や損害賠償請求をすればいいのでは…?
そうした上で使用をやめてくれないのであれば裁判しかないかなぁとは思うのだけど…
裁判費用に関するカンパとかするなら私も多少は出すから裁判頑張ってほしい。
頑張って!頼む!
規制派の人たちって、法律やAI、普段自分が使っているネットやデジタルツールの仕組みへの無知と無理解から、新技術に対して不安や不快感を抱いている印象がある。
自分の作品を守りたいという気持ちがあるのなら、法律では自分たちにどのように権利が与えられ保護されているのかや、自分たちが普段使ってるツールや技術がどんな仕組みをしてるかについて知っておいた方がいいよ。
文化庁のホームページなら無料でそれ系の知識を漁れるし、もっと体系的に知りたいなら知的財産管理技能検定のテキストを読むのとかおすすめ。3級なら内容もだいぶ簡単だし。
つーかこの1年程SNS上で見てきた規制派のプロのイラストレーターさんやプロの漫画家さんたちが著作権法に関する基礎的な理解も無さそうな様子にぶっちゃけかなり驚いている。
プロでしょ?
我が子とか魂に例える程に大事なんでしょ?
グレイズとかえまもりってサービスの提供するノイズフィルターがあるらしいじゃん。
そのノイズフィルターかけてない画像をネット上にアップロードする行為を「(これをしていないと)あなたも無断学習による加害行為の加担者になります」みたいな非難を規制派の誰かがツイートしてるの見てだいぶキツかった。
私は自分で考えた上で別にそういうフィルターかけなくても問題ないと思ってるからノイズフィルターかけてないだけなんですけど。
それを加害への加担?はあ?言い掛かりすぎない?
前述したように私はネット上に自分がアップロードしたものが機械学習されようが特に何も思わないし、仮に機械学習されたくなかったとしても、元画像が肉眼で容易に判別できる程度のうっすらしたノイズをかけたくらいで機械学習防止の効果があるとは思えなかったからノイズ加工してないだけなんですけど。
効果があると信じてご自身でご自身の画像にご使用になるのは何とも思わないけど、他人が自分と同じように行動していないことを加害への加担とか言うのは失礼すぎない?
してない人間にだってしてない人間なりの感情や考え方があるんだよ。
愚痴だいたい書き終わったな。
彼らの思想では私のような絵描きがいることは想定されてないっぽいし。
何が嫌かって、私自身が何も思ってないし問題視もしてない物事について絵描きって属性だけで雑に規制派陣営から味方認定されて同士として振る舞え的な圧が感じられるのが嫌。
規制派の言ってることは創作の自由度を狭めることに繋がると思う。
この1年ちょっとで好きなイラストレーターさんや漫画家さんが続々そっち方面になってしまったのは本当に心の底から残念。悲しい。
私は「適法であったり個別に結んだ契約等に反しない範囲であるなら自由に好きにどんなツールを使って描いてもいいじゃん」ってスタンスの絵描きです。
だからこそ、自分の描いたイラストが誰かの役に立てばいいなって思ってイラスト素材の販売もしているのだし。
生成AIの登場や広まりに特に何も反対してない絵描きもいるってのだけ覚えていってもらえれば…
まぁこんな場所で匿名で愚痴ってるのは規制派によるネットリンチが怖いからなんだけどさ。
自由に好きなツールを使って絵を描いて公開してもネットリンチを受ける心配のない世の中になってほしいよほんと。
長々と書いたけど私も法律とか技術的な知識をその道のプロほど十分に知っているわけではないです。
技術や法律に関する記述が間違ってたり不足してるなって思ったら適当にコメントしてください。拝読いたします。
私もまだまだ勉強したいんで。
2024-03-15 SpaceChem全実績解除(DLCの『63コルビ』クリアも含む)
あぁ、やった。
とうとう終わった。
今はとにかく達成感に満ちあふれている。
ちなみにゲームの紹介は書かない。調べればわかることだからだ。
ネタバレをするつもりはないが(文章でパズルのネタバレをするというのも難しいけれど)、攻略する上でのヒントになってしまうかもしれないので、これからゲームを自力で攻略したい人は読まない方がいいだろう。
あくまでも自分のための備忘録として書くつもりだが、すでにSpaceChemをクリアした人あるいはとっくに挫折した人は共感を得られるかもしれない。
これまでのステージは、左側にある分子を右側に運ぶだけの(ムーディー勝山的な)作業が中心だったが、このステージからはそう単純にはいかずに悩まされるようになる。
ステージ名の『ただならぬ頭痛』な伊達ではなかった。ちなみに2つ前のステージ名は『片頭痛への序曲』である。てっきりストーリー上での登場人物のことかと思っていたら、まさかパズルを解くプレイヤーのことも含んでいたとは。
このステージでいろいろと試行錯誤しているうちに、赤レイヤーで下側の入出力(inputβ、outputω)と青レイヤーで上側の入出力(inputα、outputψ)が可能なことに気が付いた。inputもoutputもシンボルを右クリックすれば入力や出力の場所を変えられることに気が付いたのだ。
逆に言えば、これまでのステージはこんなにも基本的なウォルド(赤と青の2つある遠隔操作装置)の操作ができなくてもクリアできたというわけだ。
後のステージに比べたらまだまだ簡単な方だが、このステージをきっかけにSpaceChemの難しさを実感することになる。以降は、パズルを考える時間や苦痛が増えるとともに、攻略した時の達成感が大きくなっていった。
目標生成物が3種類もあり、しかも3種類とも原子が9個も必要であり、見た瞬間に難しいなと思ったステージ。
サイドストーリーであり攻略しなくてもゲーム進行が可能だったが、これまで全ステージを攻略したプライドからスキップをせずに挑むことにする。
実際にやってみたら意外と苦労せずに、目標生成物を気持ちよく出力できた。
チュートリアル的なステージで簡単にクリアできたが、クリア後にReseachNetというオマケコンテンツが解禁されるときの画面が印象的だったので、強く記憶に残っている。
その画面に表示される頓痴気(とんちき)なメッセージが面白いのだ。
あまりにも気に入ったので、こんな再現もしてしまったくらいだ。
ttps://anond.hatelabo.jp/20240211180709
ゲーム全体は問題なく日本語訳されているのに、なぜここだけヘンテコな翻訳になっているのだろうか?
ステージをクリアするのに、挫折しかけたので印象に残っている。
入力も出力もシンプルであり、ぱっと見で簡単にクリアできそうだった。
しかし、これには苦労した。
6番目の星は複雑そうに見えて意外と簡単にクリアできるステージが多かったのと比べて、このステージは真逆だ。簡単に見えて難しい。
パズルを解くためにシンボルを設置していくうちにスパゲティ状にこんがらがってしまい、これ以上ウォルドを操作できなくなってしまった。そして、リセットして最初から組みなおしたが、それでもやはりスパゲティになってしまいうまくいかなかった。
2~3日に渡って数時間は考えて、最初から組み立てることを計3回はやったがそれでもうまくいかなかった。自宅の中で何度も頭を抱えて奇声を上げた。クリアしなければ次に進むことができないので、自分の限界はここまでかと挫折しかけた。
SpaceChemはもう終わりにして他のゲームをしようかなどと思い始めたが、仕事中にこうすればスパゲティはもう少しはシンプルになるんじゃないかなぁと思いつく。
「使用シンボル数」は76で、ステージクリアのランキングではグラフのほぼ右端だった。
シンボルをこれ以上配置するスペースは無かったけど、既存のシンボルを利用してなんとか処理できたという感じだ。
クリアした瞬間に幸福感を感じたのか否かはあまり覚えていないが、ただただ解放感と安堵感に包まれたことは記憶している。
自分の限界はもう近い、おそらく次かその次か、クリアできずに詰んでしまうことだろうと思った。それでも、たとえ詰むとしてもその瞬間までは全力を尽くし攻略情報などは絶対に見ないようにしようと、自分自身に誓いを立てた。
この時の誓いを破ることなく、ゲームクリアどころか全実績解除までできたことは我ながら意外なことだった。
第一の反応装置でこれだけ多彩な入力に対応しなければならないのかと、心が折れそうになった。
反応装置が出力したものをそのまま反応装置の入力とするループ処理に、一体どんな意味があるのかと。
第一の反応装置は優雅さの全くないスパゲティ配置を奇声を上げながら作って、なんとか入力をさばくことができた。
そして第二の反応装置はループ処理の意味が全く分からないので無視したら、なんとかクリアすることができた。
今、YouTubeで『Ω-疑似エチン』のクリア動画を調べていろいろ見てみたら、やっぱりループ処理を無視していて草。
優雅さのまったくないスパゲティ配置で、2~3日ほどかけて奇声を何度も上げながらもギリギリ攻略できたステージだ。
ゴリ押し的な配置でなんとか三種類の目標生成物を作ることができたが、防衛ステージは出力タイミングがやはり重要となっている。三種類の目標生成物を作れるようになった後で、ギリギリのスペースで出力を制御する「分岐」シンボルを組み込むこともできたが、そのタイミングにも苦労した。
ただひたすら出力を繰り返すだけでは、敵に効果的なダメージを与えられずにやられてしまうので、生成物の出力をわざと止める必要があった。サイクル数がXXXXになるまで出力して、敵に攻撃が当たったら出力を止めて、次はサイクル数がXXXXになったらまた出力して…という具合にである。
そして、パイプに生成物が詰まったら反応装置内で原子が衝突してエラーになることが判明した。衝突を防ぐには最後の反応装置の出力を「sync」シンボルで制御する必要があるが、もうシンボルを配置するスペースはなかった。
赤・緑・青のそれぞれの出力順がたまたま効果的だったので、「分岐」で出力を手動で止めてパイプに生成物を詰まらせないようにすることでなんとかクリアできた。
敵の行動パターンがもう少し多彩で、出力順序やタイミングを変える必要があったら、ステージクリアそのものが詰んでいたかもしれない。
先ほどの『[防衛]選択の自由』をクリアしてへとへとになった後だったので、もう勘弁してくれと思った。そして、ステージを見た瞬間に心が折れかけた。目標生成物の種類が多くて何から手を付けていいのかわからなかったからだ。しかし、全力を尽くして詰むまではあきらめる気はなかった。
とりあえず、チラシの裏に目標生成物と必要な原料の数をメモしていくうちに理論的には可能だと確信を持つことができた。入力となる原料と出力すべき目標生成物を全て列挙して、必要な原料の個数(入力回数)を決める。その際に原料の余りは最小限になるようにして、それでも生ずる余りはVGMレーザー反応装置で消すことにする。
そんな風に手書きメモで方針を決めてからは、奇声を上げることもなく着実にメモに基づいて進めることができた。
とはいえ、全ステージの中で最もクリアに時間がかかったステージでもある。4~5日ほどに渡って10時間はかかっただろうか。
目標生成物を全て作れるようになったら、プロメテウスの操縦でさらに苦労するのかと思ったけれども、意外とすんなりクリアできた。
これが2024-03-07のSpaceChemゲームクリアであった。
「チャレンジ」を気にせずステージを進めてきたが、せっかくここまでやってきたからと思い残りもクリアした。
中でもやりがいがあったのは、反応装置の数に縛りのあるチャレンジだ。
『ただならぬ頭痛』の反応装置1個クリアは、ウォルドの動きがスパゲティになってしまい頭痛になるほど苦労した。
『止まらない落下』の反応装置2個クリアは、入力と出力のパイプ配置に悩んだが、まさかという組み合わせを思いついて思い通りにクリアできたのが楽しかった。
「チャレンジ」を全てクリアしたら全実績解除かと思ったら、ReseachNetの20個クリアと63コルビ(DLC)のクリアがまだだった。
これらはゲーム本編および「チャレンジ」に比べたらあまり楽しいものではなかった。
ReseachNetと63コルビでは、原子をテレポートさせる「量子トンネル」に、原子を分裂させる「核分裂レーザー」という本編にはないギミックが登場する。
最初のうちはやってて楽しかったが、「量子トンネル」も「核分裂レーザー」も他のギミックとの相性が悪いことに気がつく。
「核分裂レーザー」は本編に登場する「核融合レーザー」の逆の発想で生まれたものと想像する。「核融合レーザー」が「sync」や「FLIP FLOP」のシンボルと組み合わせることによってウォルド操作をシンプルに記述できるようになる一方で、「核分裂レーザー」はシンプルに操作することが難しくスパゲティになってしまうので楽しくない。
「量子トンネル」も効果的な場面は限られており、63コルビでは「量子トンネル」を使わせるために狭い領域でのウォルド操作を強いられるばかりになってしまい、あまり楽しくない。
他にも、ReseachNetの問題はただただ複雑な操作をさせるばかりになっており、見るだけでやる気をなくすような問題ばかりだったのもあって、20個クリアしてからはもうやっていない。
ゲーム本編及び「チャレンジ」の完成度は非常に高いものだと感じている。チュートリアルはしっかりしており、難易度の上昇幅も急すぎも緩すぎもしないので心地よいし、新ギミックの導入も丁寧だ。
ReseachNetと63コルビというおまけコンテンツはその犠牲となったのだろう。ゲーム本編の完成度を高めるために、ボツになったギミックやステージはおまけ扱いされたのだろう。
最終ステージまでのゲーム本編全てのクリア及び「チャレンジ」の全クリアは非常に達成感の強いものだったが、その後の全実績解除までは消化試合のような気持ちだった。
いま思い返してみても、やはり最終ステージが最も達成感のあるステージだったと思う。
なにはともあれ、全実績解除するまで楽しみつくしたわけだ。
もう当分の間パズルゲームはやりたくないが、まだやっていないパズルゲームはZachtronicsゲームを含めてたくさんある。
以上のような内容が、あにまんというサイトの状況を交えつつ議論されていました。
ラウダの人気の無さと、彼に関するアンチ活動の活発さが特に印象的です。
また全体としてキャラクター描写や人間関係の描き方への不満が目立つ印象でした。
以上のような内容が、水星の魔女という作品の内容や制作者の意図を中心に議論されていました。
全体として監督の考え方や作品の方向性に違和感を覚える人が多い印象でした。
以上のような内容が議論されていました。
全体としてラウダの描写や監督の価値観への違和感、作品の倫理観のぶれを指摘する意見が目立ちました。
また、コンテンツの今後の展開を懸念する声や、対立煽りを警戒する姿勢も見られました。
以上のような内容が議論されていました。
全体としてキャラクターの尺や描写の問題点を指摘する意見が目立ち、特にラウダの造形については制作側の意図と視聴者の受け取り方のズレが大きかったのではないかという分析がなされていました。
また、一部のアンチによる自演や荒らしが問題視されている様子も伺えました。
以上のような内容が議論されていました。
全体として特定の荒らしやアンチによる組織的な活動が問題視され、作品や制作側の方針についても批判的な意見が目立ちました。
人の畏れが神を産み出す
信仰を集めるほどに神は強大になり
忘れ去られた神は力を失いやがて消滅する
などがある。
日本人にとっては常識(?)なためか、作品内でこれらの設定が言葉ではっきり解説されていないこともある。それが一部の海外の人にとってはわかり辛い場合があるようだ。
先日、*eddit (*はR) で漫画アニメ系サブレを徘徊していた時にとある議論スレを見つけた
ちょうど上記の設定の話をしていたので「それで合っているよ。それは日本人の宗教観なんだ」とコメントしたところ、すごい反応をもらった
とリプライされて困ってしまった。どう返信しようか悩んでいるうちに
それからコメントせずにずっと悩んでいるんだけれど、たぶん神道ではないよなぁ・・・?
少なくとも古事記や日本書紀を読んでもそんなことは書いていないだろう。ニンジャスレイヤーじゃあるまいし。
でもコロナ禍でコロナ神が誕生し、妖怪だったアマビエが神になっていく様は確かに見たんだ。
畏れが神を生み、信仰が神を強大にするという設定は私の実感に近い。
これらの宗教観の元ネタとなる聖典、宗教的記述はどこかにあるのだろうか?
それとも日本人が無意識に共有しているアミニズム的世界観なのだろうか
クトゥルフ神話ってやたら2chとかで話をされていて、どーもマニアックな怖い存在に対する小説か何かだという認識だった。
それで、原作はラヴクラフットって人の小説だというので、原作を読んでみた。
内容的には、ホラーなんだけど、ホラーの対象が、ウルトラ大怪獣みたいな封印された邪神ってやつ。
ウルトラ大怪獣は、人間社会への復讐みたいな感じだけど、邪神は単なる迷惑な怪獣で目的とかは無い。
これだけだと面白い小説になりそうなモンだけど、ラヴクラフトさんは小説の才能がイマイチだったのか、ストーリーが絶望的に面白くない。
邪神をそのまま活躍させればいいようなものだけど、邪神が出てくるのは大体一瞬だけ。大怪獣が出てきて、人間がびびるっていう。
どちらかというと、小説は、その大怪獣の周りにいる人達の頭おかしい具合が描写される感じ。
その人物のおかしい具合が、そんなに面白くない。あまりにも普通の人が普通に頑張ってるだけっていう。
いうたら、ウルトラ大怪獣を見にきてるのに、大怪獣とかその戦闘とかをほぼ描かずに、ウルトラ大怪獣と戦う自衛隊の、その自衛隊の中でも計測機器とか作ってる技術者の視点がひたすら描かれるみたいな感じ。
変な電波が乗ったか?とかそういう話が延々続いて、自衛隊の話すらほぼ出ずに、大怪獣も一瞬みたいな作品を見ているような感じ。
ここまでつまらない部分を書いたが、もちろん、これだけ生き延びてる作品なので、面白い部分は多い。
設定集としては、厨二病の超絶エリートというか、厨二病で素晴らしい設定資料を残す奴がいるけど、その最上級って感じ。
厨二病小説は、小説1つ1つはあまりにもつまらないんだけど、ウルトラ大怪獣はストーリーより怪獣のキャラクターが魅力であるように、クトゥルフ神話の写真も結構魅力的なキャラではある。
正直、邪神だの、見たら発狂するだのっていう話が先行しすぎてて、「一体どんな怖い存在が描かれているんだ!」と思ったけど、拍子抜けするほど普通のウルトラ大怪獣の一種。ウルトラ大怪獣見て発狂とかせんだろと思うんだけどなあ。
あと、「邪神を信奉する異常なカルト集団!!!!」みたいなのは、現代なら『ミッドサマー』みたいな異常なカルト集団とか期待するけど、カルト集団の描き方が適当すぎて、まあ現代で言うなら、ちょっと変な新興宗教程度、そこまで映画になるようなレベルの面白さはなく、せいぜい祈りを捧げて邪神に人間を捧げてるくらいの感じの描写。
うーん、やはり、小説描写のつまらなさばかり書いてしまうなあ。
ものすごく面白い設定のはずなのに、絶望的につまらないゲームみたいな惜しさなんだよなあ。
現代の目から見たら、『SIREN』とかが面白すぎるゲーム性+面白い設定みたいなのが出来上がってるから、ウルトラ大怪獣の超絶劣化版というか、ゲゲゲの鬼太郎の超絶劣化版を見せられてる気分。
ラヴクラフトさんの小説自体を褒めている記述はあんまり見ないので、やっぱ小説としてはイマイチなんだよなあ。
設定自体はいいところあるのに、小説技法が下手くそすぎて、カルト集団が描けてなかったり、邪神の活躍がイマイチだったり。
「いや、そこの設定じゃなくて、あくまでホラーの怖さなんだ」と言われても、ホラーとしても人物描写が下手くそで、ラヴクラフトがコミュ障すぎて会話文が下手くそすぎる感じ。
逆に言うと、「こんな無茶苦茶面白い設定集を、全然イカせてないじゃん!俺が完成させてやる!」みたいな余白が、二次創作を大量に産んでいいのかもしれない。
いわば、ゆっくり霊夢みたいな感じだよなあ、原作の余白があって、大喜利し放題だよっていう、野獣先輩とか、そう言うのに近いのかも。無茶苦茶面白いしインパクトはありそうなんだけど、微妙な感じっていう。それをみんなで盛り上げてる感じ。
ラヴクラフトは三流作家としての人生だったけど、野獣先輩も三流ビデオだから二次創作が大量に出ているように、ラヴクラフトも、三流だから、やり放題だってのがミームとしては絶妙な良さなのかもなあ。
なお、自分は、『恐怖の世界』ってゲームで、クトゥルフの世界観を感じて、面白い!どんだけ不気味なんだ原作は!と思ってクトゥルフ神話を読み始めた口だから、TRPGで有名な方は何も知らないけど、ワクワクして面白そうな設定をゲームとして楽しむなら、クトゥルフ神話は確かに面白いやろうねえって感じ。
大学の講義資料とか専門書だと(恐らく日本語に訳すのが難しいあるいは訳すと意味が微妙に違ってしまう単語を記述するために)日本語の文章中に突然英語が出てくることはよくあるから、not for meにもそこまで違和感はなかったな
受験回数 1回
勉強期間 2ヶ月(参考書読み0.5ヶ月+過去問演習1.5ヶ月)
高校地学の気象分野を履修してなければ(自分はしてた)、参考書(入手可能なら教科書)で勉強しておくことを薦める。ここをすっ飛ばして試験用参考書を読んでもおそらく消化不良を起こす。
高校数学、物理、化学あたりも何となくでいいので頭に入っていると望ましい。
試験用参考書は中身がぎっちり詰まった堅めの本と、初学者向けに柔らかく解説した本の2種類買っておくとよい。
実技試験の過去問が収録されている本は電子書籍だと取り回しづらいので注意(1敗)。
鉄板として挙げられる「一般気象学」は初学者には取っ付きづらく、そもそも試験特化の本でもないので無理に買わなくてもいい。合格後も勉強や仕事で使うつもりならといったところ。
参考書を通読したら、過去問を解く→間違えたり理解が不十分なところを復習 の繰り返し。
独学する自信がないなら試験対策講座もあるが、7〜15万円程度とお高いので、切実かつ早急に資格が必要なら。
5択問題だが、消しやすい選択肢から消していけば大体2択程度まで絞り込めるようになっている。
計算が必要な問題もあるが、概ね中学レベルの計算能力があれば事足りる。
厄介なのが関連法規で、他の問題と毛色が違ううえに4問も出てくる。
気象の観測手法や日本特有の気象など、より実践的な予報の知識を問う問題。同じく5択。
気象庁の観測手法や各種予報の運用などはちょくちょく変わっているので、気象庁HPの「知識・解説」カテゴリにはできるだけ目を通しておきたい。古い参考書や過去問で勉強している場合は特に注意。
日本付近の気象状況について、配布された天気図等の資料を基に記述や作図で解答。
必要な知識や計算自体はさほど高度ではないが、とにかく時間設定がシビア。
設問の多くを占める「〜について〇〇文字程度で述べよ」問題はかなりの慣れが必要。過去問を数多くこなして頻出の単語や言い回しを体で覚えるしかない。
聞かれたことに対して変にひねらず答えること、聞かれてないことには答えないことを心がけたい。
直線を引いたり図面上の距離を測るのに必須。三角定規必須の問題は出ない(はず)。
図面の大半は白黒でゴチャついていて見づらいため、目盛の視認性が重要。だからといって自分で見やすく加工すると不正行為と見なされるおそれがあるため、デフォで見やすい商品を店頭で探そう。
コンパス必須の作図問題は出ない(たぶん)ので、補助的に円を描く、もしくは2点間の距離を測るために使う。なくても致命的ではないのでお好みで。
ディバイダは普段から所持して使っているのでなければわざわざ買う必要はないだろう。
解答自体には使わないが、図面の情報を見やすく整理するために使う。
多色ボールペンと、マーカーペン2色程度があればよいだろう。消えるタイプ推奨。
先述のとおり図面が見づらいため、老眼などがあるなら持っておきたい。
問題用紙と共に渡される。
ある図面の情報を別の図面に転写するなどに使うが、タイムロスになるので使用は最小限にとどめたい。
n=1ではあるが、過去問でこれぐらいやれれば勝ち負けにはなるかなという感覚。
・30分程度でひとまず解答欄が埋められる
・平均13問程度正解できる(合格ラインは11/15だが余裕を持って)
・75分(理想は60分)以内にひとまず解答欄が埋められる
まず、土と水の混合物という意味での「泥」(以下「ドロ」と書く)ではない、生きものとしての「泥」(以下「デイ」と書く)については、中国の沈如筠が書いた『異物志』という書物で紹介されているという。
泥为虫名。无骨,在水则活,失水则醉,如一堆泥。
泥は虫の名である。骨がなく、水に在ればすなわち活き、水を失えばすなわち酔う、一堆の泥のごとし。
『能改斎漫録』『夜航船』などにも同様の記述がある。なぜ「水を失えば酔う」のかといえば、言い伝えによると「デイ」は身体から酒を分泌しているので、周囲に水が無くなると自分の酒で酔って、ドロのようになって死んでしまうかららしい(が、この言い伝えのソースも不明なので信用できるかどうか)。おそらくナマコかクラゲのようなものを指しているのではないかと思われる。
「酔如泥(泥の如く酔う)」という表現の初出は『後漢書』の周沢伝だ……という説が一般的なのだが、現在の『後漢書』の原文にはそういった表現はない。この周沢はとても生真面目な人で、祭祀を管理する「太常」という役職に就いてから毎日のように斎戒をしており、彼が病に倒れたときに妻が見舞いにくると「斎戒中に妻子と触れてはいけない」と言って妻を投獄してしまうほどだった。そこで人々は「生世不諧,作太常妻,一岁三百六十日,三百五十九日斎(この世に生まれて楽しくないのは太常の妻になることだ、1年360日のうち359日は斎戒しているからずっと会えない)」と歌ったのだった。
この「三百五十九日斎」のあとに「一日不斎酔如泥(残りの一日は斎戒せずに泥のように酔っている)」という文章がくっついていることがあるのだが、それがどうも後世に補われた部分らしい。正確には唐代の注釈(後漢書李賢注)に「『漢官儀』にそう書いてあった」と書かれているとのこと。
三百六十日 日日酔如泥 雖為李白婦 何異太常妻
と周沢の逸話を踏まえた詩をよんでおり、その頃には「酔如泥」という言い回しが広まっていたことがわかる。周沢が1世紀の人なので、ざっと700年くらいが経っている計算になる。なお先述の『異物志』も唐代、『能改斎漫録』は南宋代、『夜航船』は明代の書物である。
で、この「酔如泥」の「泥」は実は「ドロ」ではなく「デイ」を指しているのだ!……という説はどうやら中国でも根付いているようで、古くは『能改斎漫録』や『夜航船』においても「デイ」の説明と周沢の逸話が併記されている。だが併記されているだけで何か解説が述べられているわけではない。
現代中国のネット上でも「実はドロではなくデイのことなんだよ」という雑学ネタが散見されるが(ということは中国人の多くも「ドロ」のことだと思っているのだろう)、いずれの記事も「古い本のなかでデイという生物が紹介されてるよね」「昔から『酔如泥』という言い回しがあるよね」「だからこの泥というのはデイのことなんだよ」というちょっと怪しげな論法であり、やっぱりウソ雑学なんじゃねーのと疑う気持ちを抑えきれない。
ちなみに日本ではどのように受容されていたのかと思って検索してみたが、天保年間に出された『燕居雑話』のなかで、『能改斎漫録』などを引用しつつ「蟲名とせしもたしかなる所見なし」「さして難解ことにはあらぬを斯る迂遠なる説を本説とするも奇なることなり」などと書かれていたのを見つけたので、昔の人もそう思っていたんだなあと感慨を覚えるなどした。
ともあれ、本当に「酔如泥」の「泥」が「デイ」に由来するとしても、その「デイ」の名前は「ドロ」に由来するのだから、どちらにしても酔った人間を「ドロ」にたとえているのと変わらないのではないかと思う。
さて、「泥のように酔う」についてはいろいろとわかったが、「泥のように眠る」はどうなのか。
中国語で検索してみると近いのは「酣睡如泥」だろうか。「酣」は「宴もたけなわ」の「たけなわ」のことで「まっさかり」という意味。つまり「酣睡」は「熟睡」という意味になり、全体では「泥のように熟睡する」という言い回しになっている。しかし、こちらの表現については「この泥とはデイのことである」という言説は見つからなかった。おそらく「酔如泥」よりも遥かに歴史が浅い表現なので、あんまり語源が気にされていないというか、「デイ」にまつわる語源を説明するなら「酔如泥」のほうが例に取りやすいということではないか。
もちろん「泥のように酔うのがデイに由来するのだから眠るほうもデイに由来するのだろう」という類推は成り立つだろうが、逆に言えばそれ以上の根拠はないということだ。つまり「泥のように眠る」には「泥のように酔う」とは別の語源があってそちらのほうは根拠も確かなんだぞ、というミラクルはなさそうである。
A:
量子力学では「測定問題」または「波動関数の崩壊」として知られており、量子の世界が私たちが経験する古典的な世界とどのように相互作用するかについての基本的かつ非常に不可解な側面です。
量子力学では、電子のような粒子は、測定または観測される前に、複数の可能な状態を重ね合わせて存在します。
この重ね合わせは、すべての可能な状態とそれぞれの確率を含む波動関数によって記述されます。
しかし、観測や測定を行うと、重ね合わせが崩れ、粒子の状態は可能な状態の 1 つに「崩壊」します。
したがって、たとえば、測定前にスピンアップまたはスピンダウンできる電子がある場合、その波動関数は両方の状態の組み合わせになります。
しかし、そのスピンを測定すると、波動関数が崩壊し、スピンアップかスピンダウンという 1 つの明確な結果が得られます。
この「崩壊」、つまり測定時の状態の決定は、量子システムの進化にランダムで確率的な要素を導入しているように見えます。
また、測定後にその明確な状態が分かるようになったため、システムに関するエントロピーや不確実性も減少すると考えられます。
このことの意味は深く、物理学者によって何十年にもわたって議論されてきました。
1) 不定の量子領域を明確にする何か特別なことが測定や観測にあることを示唆しています。 しかし、「測定」とは何でしょうか? 私たちの意識的な認識は? それとも環境との相互作用でしょうか?
2) 古典物理学を支配する決定論的法則と矛盾する固有のランダム性または予測不可能性を量子事象に導入しているように見えます。
3) 観測とは独立して存在する客観的な現実についての私たちの概念に疑問を投げかけます。 観測するだけで結果が変わるようです。
4) 巨視的な世界では、このランダム性は通常平均化されます。 しかし、ランダムな瞬間に起こる自然放射性崩壊のような小さな観測可能な影響はあります。
コペンハーゲン解釈や客観的崩壊理論のような解釈は、このランダム性を自然の基本的な側面として受け入れています。
多世界解釈のような他のものは、波動関数の崩壊を完全に排除しようとします。
しかし、この測定問題が量子力学と現実そのものの理解に深刻な課題を投げかけていることに全員が同意しています。
A:
意識と量子力学における測定問題の関係は深い謎であり、物理学ではまだ完全に解決されていません。
ただし、あなたの質問に対するいくつかの視点は次のとおりです。
意識とは、認識し、認識された現実を持つという主観的な一人称の経験を指します。
量子の用語では、意識は、測定/観測が行われる前に、可能な重ね合わせ状態の範囲のうちの 1 つの明確な状態のみを経験するように見えます。
意識が重ね合わせをどのように解決するかについては、いくつかの解釈があります。
1) フォン・ノイマン・ウィグナー解釈は、意識が客観的な波動関数の崩壊を引き起こすことを示唆しています。 私たちの心は、重ね合わせから何らかの結果を特定します。
2) コペンハーゲンの解釈は、波動関数の崩壊が起こったとき、観察者の意識は単に確率的結果の 1 つを目撃しているだけであり、波動関数の崩壊を引き起こしているわけではないことを意味します。
3) 多世界解釈では、真の崩壊は存在しないとされています。 考えられるすべての結果は、現実の別の枝として存在し続けます。 意識は実際に選択することなく、それらの分岐のいずれかに留まるだけです。
4) 意識自体は、観察された状態を引き起こすのではなく、根底にある量子状態から生じる高レベルの創発特性である可能性があると主張する人もいます。
正確なメカニズムは不明ですが、ほとんどの解釈は、意識は測定後に可能な状態のうちの 1 つを主観的に経験するだけであることに同意しています。
観察者兼参加者として、私たちは単に自分の意識が枝の 1 つにあることに気づきます。
重要な謎は、意識が分岐を選択する際に積極的な役割を果たすのか(フォン・ノイマン・ウィグナー)、それとも多数の同様に現実的なもの(多世界)の中の 1 つの分岐に単に自分自身を見出しているだけなのかということです。
これを解決すれば、意識の形而上学的性質と量子力学との関係が解明される可能性があります。
A:
量子力学の多世界解釈 (MWI) では、意識が特定の枝または世界に「留まる」または持続するように見える理由は、デコヒーレンスの概念と、枝がどのように本質的に相互作用せず、それぞれの枝から孤立するのかという考えと関係しています。
1) MWI では、測定が行われるとき、普遍的な波動関数は実際には崩壊しません。 代わりに、それは直交成分に分解され、それぞれが異なる可能性のある結果を表します。
2) これらのコンポーネントは時間の経過とともに進化し続け、より多くの差別化された状態、つまりさまざまな結果が実現される「世界」に分岐します。
3) ただし、これらの分岐コンポーネントは、環境の相互作用やもつれにより、非常に急速に動的にお互いからデコヒーレントになります。 これにより、異なる世界は相互に干渉する能力を失います。
4) したがって、すべてのブランチが異なる既存の現実として共存しますが、動的デコヒーレンスは、それらが相互作用しなくなり、それらの間に測定可能な相互作用や遷移が存在しないことを意味します。
5) あなたの意識は、コヒーレントな量子状態自体で構成されており、デコヒーレンス後の 1 つの枝の中に完全に存在します。 別のブランチと再結合したり、別のブランチに移行したりすることはできません。
6) 実際には、すべての枝が等しく現実であるにもかかわらず、デコヒーレンスプロセスにより意識がその枝内に閉じ込められ、他の枝の並行現実を体験できなくなります。
したがって、意識は積極的に分岐を「選択」するのではなく、デコヒーレンスのプロセスによって、最終的には完全に 1 つの分岐した現実の中に存在することになり、多重性を直接経験する能力はありません。 このため、意識は一貫した 1 つの軌道だけをたどっているように見えます。
霜月るな氏によるX(旧Twitter)へのポストが「飲み会参加セクシー女優が松本人志巡る週刊誌報道内容を否定(日刊スポーツ)」と話題になっている。
では、実際、どの程度、週刊誌の報道を否定しているのか。実際の記事と比較してみた。
霜月氏のポストは、3/3のポストと3/7のポストから引用した。週刊文春の記事は、2/15号電子版を引用した。
霜月るな氏 | J子さん(週刊文春2/15号) | |
① | たむけんさんがグラビアアイドルを飲み会に誘ったと書いてありますがあれは違います。私の友達なので私が誘いました。 | たむらと仕事を通じて面識を持った彼女は、十六年夏、「VIPと飲もう」と誘いを受けた。 |
② | 事前に松本さんとの飲み会とも聞いていました。 | - |
③ | (記述なし) | 「相手が松本さんとは知らされず」 |
④ | そして携帯を没収なんて言われてもないし携帯の利用を禁止。という発言なんてなかったです。 | 「部屋に足を踏み入れたJ子さんがスマホを手に取ったところ、田村が間髪入れずに制止する。「彼は『自撮りもあかんで!』と忠告してきました。(略)それ以降、スマホを触ってはいけない雰囲気になった」 |
⑤ | あと、たむけんタイムなんてありませんでした。笑笑 | 「そこでたむらさんが『お開きにしましょうか』と言ったので、私たちは彼女(※銀行員2人のうち1人)を置いて部屋から退散したのです」 |
⑥ | 部屋飲みと知っていたら絶対に付いていかなかった。と書いてありましたが。それも嘘です。なぜなら、私は事前にJ子さんにリッツカールトンで飲み会やけど大丈夫かな?っと事前に聞いてます。それもJ子さんからOKもらってましたし。 | 「飲み会の場所も教えてくれない。ザ・リッツ・カールトン大阪で飲むことは当日LINEで送られてきましたが、私はホテル内のレストランで会食するものだと思ってた」 |
いかがだろうか。
全体として、霜月氏は、記事に書かれていないことを否定しているように見える。
④「携帯を没収」「携帯の利用を禁止」や⑤「たむけんタイム」という発言は、週刊文春には無い。
さらに、⑥については、「事前にカールトンで飲むと連絡した」という点は一致していて、J子さんの証言の信憑性を高めている。
③の「J子さんが相手が松本人志だと知らなかった」件については、②で「霜月氏は知っていた」と言うだけで、否定できていない。(J子さんを誘ったのが霜月氏なら、霜月氏本人が告げたはずである)
唯一、明確な相違点は、①の「J子さんを誘ったのが霜月氏かたむら氏か」だけである。
この点にしても、J子さんが霜月氏をたむら氏のメッセンジャーと見なしていたなら、そういう認識になる可能性はある。
全体として、事実関係について、霜月氏の描写と週刊文春の記事に矛盾は無い。
少なくとも、橋下徹が言うような「週刊文春の取材不足、すなわち真実相当性を否定する重要な証拠になる」ものではないだろう。
そこのコメントに
「非正規は無試験で正職員にしてあげればいいのに」ってコメントがあった
「70年代までの筆記試験は形式上で、日本では欧米のように有力者とのコネや人脈で公務員の採用が行われていたが、80年代の半ばから批判が起きて筆記試験で採用を決めるようになった」って記述があったのを思い出した
そういえば、日本教育史とかでも70年代頃まで大学や高校は裏口入学やコネ入学が当たり前で実力だとみなされていたが、
80年代頃からは批判が多くなり、試験を重視するようになったって聞いたことも思い出した
「もし無人島にひとつだけ持ってくなら」の元ネタ探求をしましょうね
いくつかバリエーションがある
「無人島に[本]をn個だけ持っていくなら?」
……のような
[本]の場合に「聖書」という回答が西洋でメジャーなことから、元ネタは日本以外なのだろうとあたりをつける
調査の初手はとりあえずこれ
Desert Island Discs - Wikipedia
Desert Island Discs is a radio programme broadcast on BBC Radio 4. It was first broadcast on the BBC Forces Programme on 29 January 1942.[1]
Each week a guest, called a "castaway" during the programme, is asked to choose eight audio recordings (usually, but not always, music), a book and a luxury item that they would take if they were to be cast away on a desert island, whilst discussing their life and the reasons for their choices.
Desert Island Discs は、BBC Radio 4 で放送されているラジオ番組です。1942 年 1 月 29 日に BBC Force Program で初めて放送されました。
番組中「漂流者」と呼ばれるゲストは毎週、8 つの音声録音 (通常は音楽ですが、常にそうとは限りません)、本、そして船で漂流された場合に持っていく贅沢品を 1 つ選ぶよう求められます。 無人島での生活とその選択の理由について話し合います。
このラジオ番組の存在から1942年時点で「あるあるネタ」であることは確認できる
アメリカの一コマ漫画で「無人島もの」というジャンルが存在する……が、それが特に流行ったのはだいたい19世紀初頭頃の出来事なので"Desert Island Discs"とそう時代は変わらない
普通に考えれば『ロビンソン・クルーソー』以降なのよ
『ロビンソン・クルーソー』は1719年4月25日に出版された
これが売れて多くの人に読まれたからこそ"Robinsonade"というジャンルまで生まれた
Robinsonade (/ˌrɒbɪnsəˈneɪd/) is a literary genre of fiction wherein the protagonist is suddenly separated from civilization, usually by being shipwrecked or marooned on a secluded and uninhabited island, and must improvise the means of their survival from the limited resources at hand. The genre takes its name from the 1719 novel Robinson Crusoe by Daniel Defoe. The success of this novel spawned so many imitations that its name was used to define a genre, which is sometimes described simply as a "desert island story"[1] or a "castaway narrative".[2]
ロビンソナード (/ˌrɒbɪnsəˈneɪd/) は、主人公が突然文明から切り離され、通常は難破するか人里離れた無人島に置き去りにされ、手元にある限られた資源から生き残るための手段を即興で考えなければならないフィクションの文学ジャンルです。 このジャンルの名前は、ダニエル・デフォーによる 1719 年の小説『ロビンソン クルーソー』に由来しています。 この小説の成功により、非常に多くの模倣作品が生み出されたため、その名前はジャンルを定義するために使用され、単に「無人島の物語」[1] または「漂流者の物語」[2] と表現されることもあります。
ということは、探すなら18世紀か……
一応シェイクスピアの『テンペスト』も孤島が舞台になる物語だけど……
1611年頃
一応英wikipediaの"Uninhabited island"の"In literature and popular culture"の項にはもっと古い作品について言及がある
Uninhabited island - Wikipedia
The first known novels to be set on a desert island were Hayy ibn Yaqdhan written by Ibn Tufail (1105–1185), followed by Theologus Autodidactus written by Ibn al-Nafis (1213–1288). The protagonists in both (Hayy in Hayy ibn Yaqdhan and Kamil in Theologus Autodidactus) are feral children living in seclusion on a deserted island, until they eventually come in contact with castaways from the outside world who are stranded on the island. The story of Theologus Autodidactus, however, extends beyond the deserted island setting when the castaways take Kamil back to civilization with them.[8]
無人島を舞台にした最初の小説は、イブン・トゥファイル (1105-1185) が書いた『ハイイ・ブン・ヤクダン』で、次にイブン・アル・ナフィス (1213-1288) が書いた『テオログス・アウトディダクトゥス』が続いた。 両方の主人公(『ハイイ・ブン・ヤクダン』のヘイイと『テオログス・アウトディダクトゥス』のカミル)は、無人島で人里離れて暮らす野生の子供たちだが、最終的には島に取り残された外の世界からの漂流者たちと接触することになる。 しかし、テオログス・アウトディダクトゥスの物語は、漂流者たちがカミルを文明に連れ戻す無人島の設定を超えて広がります。 [8]
こういうmeme的というか、とりとめのない雑談のあるあるネタがいつから存在するかって探すの超大変だ
残念ながら"Desert Island Discs"の1942年以前ではっきりと「もし無人島にひとつだけ持ってくなら」のようなmemeの記述を発見できなかった
https://x.com/Circle_Halberd/status/1762628685679464845?s=20
……という嘘豆知識
正直フフッと笑ったが、それはそれとして本当の元ネタが気になるのじゃわしは
英wikipediaの"Uninhabited island"の以下の記述
The term "desert island" is also commonly used figuratively to refer to objects or behavior in conditions of social isolation and limited material means. Behavior on a desert island is a common thought experiment, for example, "desert island morality".[3]
「無人島」という用語は、社会的に孤立し、物質的手段が限られている状況での物体や行動を比喩的に指すのにもよく使われます。 無人島での行動は、たとえば「無人島の道徳」などの一般的な思考実験です。
これの出典がOEDになっている
ひょっとしたらOEDに私の欲しい情報があるかもしれないが、OEDをすぐさま読める環境にないな……
人々が「無人島にもし漂着したなら?」というIFを雑談ネタとして共有できるということは大航海時代以降……"Robinsonade"というジャンルが一般に認知されている環境……であるはず
へたすりゃギリシャ神話の時代までさかのぼることが出来るネタかもしれん
『オデュッセイア』とか……アルゴー船の冒険の話とか……船旅のエピソードがあるので、無人島に関するなんらかのミームの源流がそこにあっても驚かない
そうなったら手に負えん
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改めてこれを参考に探し直すか……元気な時に
元祖や系譜、起源、お約束、新語などに関する「まとめのまとめ」&関連リンク 『初出・系譜ポータル』 - Togetter
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19世紀後半〜20世紀前半ごろがこの問答が定番になった時期である、という可能性を探りましょうね
近代的なレジャーとしてのキャンプとか、ボーイスカウトとか……サバイバルスキルの知識が一般に広まったのがおそらくこの時期
その知識がないと無人島何持ってく問答は発展定着しにくいかもしれない
いやーでも聖書って回答が多いって話があるならサバイバルスキルの知識関係なさそうに見える……
→初期の定番問答は本を問う形式だった可能性もある、なんともいえん
サバイバルガイド的な本が19世紀に刊行されてないかを調べてみるか
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"Desert Island Discs"の1942年以前で「もし無人島にひとつだけ持ってくなら」のようなmemeの記述を発見
無人島に本を一冊だけ持ってゆくとすれば: ケペル先生のブログ
このことを最初に明言した人はだれだろう。明治期にドイツ系ロシア人の哲学者で東大で教鞭をとり、学生の人気を集めたラファエル・フォン・ケーベル(画像1848-1923)らしい。彼は「ケーベル博士随筆集」のなかで「無人島に1年間流されるとしたら、自分が選んでもってゆく一冊は、まず聖書である」と述べている。かれは次に、「ファウスト」「ホメロス」「ドン・キホーテ」、ニーチェのもの、ベートーベンの楽譜などをもって行きたいと書いている。しかし有名なデフォーの「ロビンソン・クルーソー」(1719)のなかで絶海の孤島に流れついた主人公が「聖書」を読んで信仰の支えにしたことを書いている。
発言時期が不明だが、この方は1923没なので"Desert Island Discs"よりおそらく古い
『ケーベル博士随筆集』という本に記載があるらしいが……図書館に行かないと読めない類の本だな
しかしやはり『ロビンソン・クルーソー』が念頭にある発言か……
さて、さらにこれ以前に遡れるだろうか?
ケーベル博士がロシア出身で日本にやってきた人で、"Desert Island Discs"はイギリスのラジオ番組
20世紀初頭には世界中で認知されている定番ネタということじゃないか
本があるならいくらでも読むが、どの本を読めばいいかのあたりをつけるのが難しい
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ゲーテが『私が獄につながれ、ただ一冊の本を持ち込むことを許されるとしたら、私は聖書を選ぶ。』という言葉を残しているらしい
この発言の出典元文書がちょっとすぐには見つけられていないのだが
偉人の名言は「実は言っていない」ってことが往々にしてあるから疑ってかかるスタイル
ゲーテの生没年は1749~1832
無人島に持ち込むものは何問答と直接の関係はないかもしれないが、一種のクローズド環境に何を持ち込む?という発想はこの時代からあったということ
Robinsonadeの流行で便利なクローズド環境として無人島が一般に認知された?
元々「閉鎖環境に一冊本を持ち込むなら」という発想が存在した(その一冊とはたいてい聖書、なんというか最初から聖書という答えありきの仮定に見える気がする) ↓ Robinsonadeの流行で閉鎖環境として無人島が定着した ↓ メディアの発展で本以外(レコードなど)も問われるようになった ↓ さらに時代が下り、持ち込めるものはジャンル無制限になった
みたいな流れという仮説を立てれそうだが……
まあまあ、結論を急ぐことはない
調べたけど後天的に発生するってこと自体に明確なソースはないみたい。仮説というかあくまで可能性の段階っぽいな。
「大人の場合、ADHDの症状が単独で現れることはめったにありません」と、ジラウスカ氏は言う。「発熱がさまざまな原因で起こるように、注意力の問題にもさまざまな理由があります」
ストレス、薬の副作用、睡眠不足といった行動や要因が、集中を妨げることもある。「同様に、不安、うつ病、睡眠時無呼吸、年齢に関連する認知の変化、甲状腺の問題といったほかの精神的・身体的な症状が、ADHDの症状とまったく同じように見えることもあるのです」
いずれにせよ参考になりました。ありがとう。
もう分断を煽るのはやめませんか
現在混乱を招いている要因は、おそらく以下の二つ
AI利用に向けて改正されたとされる著作権法30条の4は AIならなんでも許されるというわけではない。以下のように条件がついている。
著作物は,次に掲げる場合その他の当該著作物に表現された思想又は感情を自ら享受し又は他人に享受させることを目的としない場合には,その必要と認められる限度において,いずれの方法によるかを問わず,利用することができる。ただし,当該著作物の種類及び用途並びに当該利用の態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合は,この限りでない。
この辺りの解釈について紛糾している様子。
同30条の 4 は平成30年当時、事業者や研究者によるAI利用を想定していた。現在では一般市民にAIが広く普及し状況が変わってきたことから、同条の適応範囲について再整理を図るという趣旨で公開されたのが「AIと著作権に関する考え方について(素案)」
そして素案に対するパブリックコメントを募集した、というのが現在の流れ。
たぶん、CLIPのこと。テキストと画像の翻訳を行う。犬の画像を見て「犬」と識別することができる。
ネット上のあらゆる画像とテキストを学習することで作られた。OpenAIによって公開。画像生成だけではなくいろんなところに使われている。
画像生成AIはテキストエンコーダ(CLIP)と画像生成器の組み合わせでできている。stable diffusion等は拡散モデルを使っている。
1. イラストを用意する
学習を繰り返しノイズを増やしていくと最後はただのノイズから画像を出力する 連想ゲーム絵師が誕生する。連想ゲーム絵師は連想しかできないので自分が描いたものが何かわからない。犬を描いてといっても車を描いてくる。なので CLIPが誘導したりダメ出ししたりする。
どこかのイラストサイトかデータベースを使っているはず。「著作権的に安全な〜」みたいな触れ込みのやつはどこかのデータベースを購入して使っているんだと思う。
Pixivの主張は別におかしくない。このあたりは「AIと著作権に関する考え方について(素案)p7」(エ)において解説されている。"robot.txt"への記述によりAI学習を行うクローラーのアクセスを制限しているにも関わらず、勝手に学習に使うことは「データベースの著作物の潜在的販路を阻害する行為」として著作権違反になる(Pixivが将来的に本当に販売するかどうかは置いておく)
既存のモデルに数枚のイラストを追加学習させることで絵柄を模倣(ファインチューニング)する。
特定の絵師さんのイラストを勝手に使う者がいるようでトラブルになっている。
絵柄に著作権はない。学習の際に行われる複製が著作権侵害にあたるかどうかが争点になっている。
著作権法30条の4 より
この辺りは「AIと著作権に関する考え方について(素案)」及びパブコメの返答に現状の解釈が示されているので興味のある方はどうぞ。
(p6. 特定のクリエイターの著作物のみを用いてファインチューニングを行う場合〜を参照)
※ここははっきりとは断定していないので自分で読んだ方が良いと思う。
(私の読解:)
程度問題ぽい。よくある画風なら問題にならないけれどはっきりと特定絵師さんとわかる感じだとダメそうですね
(私の読解終わり)
別にプロフィールなんて「トイレから出たら手を洗ってください」でも「フォローする際には五体投地してください」でも好きに書いてよいだろう。
それが法律に記されているかどうかは関係ない。ただのお願いだ。
「AI学習禁止」と書くなと騒いでいる人は何を考えているのかよくわからん。
「AIと著作権に関する考え方について(素案)」にも再三出てくるがAI学習を技術的に回避することは禁止していない。30条の4は権利の制限であって、イラストを差し出せという強制ではない。
見ればわかりますが個人よりも一般企業による意見が多く、返答とあわせてとても読み応えのあるものです。
このファイルを読んで個人の頭の悪そうな意見だけ抜粋してくるのは非常に違和感があります。