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はてなキーワード: 仏教用語とは

2020-07-05

anond:20200705045953

目出し失礼希望仏教用語に変換して頂けると更に味わい深い仮名

SE・SO・N

SE・SO・N(替え歌元: A・RA・SHI

Take it may so(瞑想), take it may so

Take it may so, take it may so, oh, let's get it

悟れりゃ Yea! 素直に Good!

からちょいと迷うのは Boo!

That's all right!

それでも此岸で極める

そうさボクらはSyugyou Sya(修行者)!

We are "cool"(色即是空

やな事あってもどっかに欲を捨てる

やるだけやるけどいいでしょ?(修行

夢だけ持ったっていいでしょ?(成道への希望

You are my road! road!

いつもすぐそばにある

ゆずれないよ 誰もじゃまできない

体中に智慧を集めて 呼び崇め

SE・SO・N

SE・SO・N for dream(成道を願う)

今日もお経で言っちゃってる

悲惨な苦海だって言っちゃってる

ボクらはいつも探してる

でっかい慈悲とか涅槃探してる

Everyday! Everybody!

まだまだ輪廻は終わらない

いまから始めてみればいいじゃない

Let's get on!

Let's get on yea!

Step by step ブッ飛ぶよりも(酒・薬物の否定

裸のまま突っ込め(身一つでの出家

Day by day 渇愛よりも

Ah 救いがほしいか

大きな思惟を広げよう

You are my road! road!

いつもすぐそばにある

ゆずれないよ 誰もじゃまできない

体中に智慧を集めて 呼び崇め

SE・SO・N

SE・SO・N for dream

Take it may so, take it may so

Take it may so, take it may so, oh

激しい嵐 完璧に捨て去り(執着の止滅)

渇望を捨てて 今飛び立とう(解脱

天を飛び交う 無敵の仏は

Flay away

Step by step ブッ飛ぶよりも

裸のまま突っ込め

Day by day 渇愛よりも

Ah 救いがほしいか

大きな思惟を広げよう

You are my road! road!

強くしてくれるから

お経だって そうさ明日のEnergy

未来に向かって激しく突き抜けろ(只管打坐)

SE・SO・N

SE・SO・N oh yea!

You are my road! road!

いつもすぐそばにある

ゆずれないよ 誰もじゃまできない

体中に智慧を集めて 呼び崇め

SE・SO・N

SE・SO・N for dream

悟れりゃ Yea! 素直に Good!

からちょいと迷うのは Boo!

That's all right!

それでも此岸で極める

そうさボクらはSyugyou Sya!

We are "cool"

やな事あってもどっかに欲を捨てる

やるだけやるけどいいでしょ?

夢だけ持ったっていいでしょ?

You are my road! road!

いつもすぐそばにある

ゆずれないよ 誰もじゃまできない

体中に智慧を集めて 呼び崇め

SE・SO・N

SE・SO・N for dream

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追記

目出し失礼希望仏教用語に変換して頂けると更に味わい深い仮名

まこともっとも。「希望涅槃」と修正

2020-04-04

anond:20200404123210

検索してみたらThree Csもすでにマインドフルネス界隈みたいなところで使われているフレーズなのだな。

Don't Criticizing. Don't Comparing. Don't Complaining. でCにあてはまる単語は唱えている人によって少しづつ違うようだ。

仏教用語の三密と違って元々否定すべきものごとだというのはましなのかもしれない。

2019-12-14

神道」ってもともと仏教用語なんだな

古代中国語では仏教の仏様とかをまとめて呼称する言葉だけど、日本書紀では仏教外の神々って意味で使われる。

読みは古来では「ジンドウ」、14世紀に「シントウ」に変わった。

なるほどなー。

2019-07-17

anond:20190717115219

嫁→女+家で、家に入る女の意。女性を物のようにやりとりしていた悪しき家父長制の象徴

妻→手+女で、家具を持つ女の意。女性を家政婦としか見ていない悪しき家父長制の象徴

旦那仏教用語で「お布施」の意。大金差配できる一家の主人として男性を扱う悪しき家父長制の象徴

ワイフ→「女性」の意。WifemanがWomanに変化した。ニュートラル差別的意味合いのない素晴らしい言葉

2019-06-19

断捨離商売したい人たち

断捨離仏教用語とか一般用語とか言ってる人いるけど、完全に個人による造語なのは間違いないようだ。守破離のように昔からある言葉だと思わぜるものがあるので広まったのだろう。まあ商標権あるからと言って実際どこまで使用制限できるもんなのかはわからんけど。

2018-09-21

彼岸花の別名を集めてみた

彼岸花の別名は1000種類を超えるらしいが、全てを書いてるサイトを見つけられなかったので、取り敢えず見つけられた分だけメモ

彼岸花彼岸の頃に咲く、食べたら彼岸に行く)

お盆花(旧8月に咲く)

曼珠沙華(天上の花を意味する仏教用語。一説に、東北弁の「まんず咲ぐ(葉のつく前にまず花が咲く)」が訛って、美しい漢字をあてたものとも言われる)

死ね死ね、親殺し、親知らず(親子が互いに殺し合った結果花と葉が同時に出ないと言われている)

花知らず葉知らず(花と葉が同時に出ない)

狐の提灯、狐の花火、狐の簪、狐の扇、狐のたいまつ、狐のロウソク、狐のタバコ、狐の嫁御(狐の嫁入り行列で火を灯すのがこの花と言われている)

提灯煌々、提灯灯籠、チャンチャンゲーロー、チンカラポン、チンリンボーリン(煌々と燃える提灯のように赤い、後半は訛っていった物)

喉焼花(食べた時の中毒症状)

南無阿弥陀仏、なんまいだっぽ(食べたらお陀仏)

水子衆花(腹の中や生まれてすぐに死んだ水子達の魂が咲いて現れたと言われている)

馬背花(馬の鬣のような花、もしくは馬も背を向ける)

吐掛婆、鬼婆、婆殺し、歯抜け婆、嫁簪、姑花、舅花(嫁姑戦争関連?)

死人花地獄花、幽霊花、手腐花、手焼花、野松明、猫騙花、雷様花、雷花、夕立花、忘花、道忘花、道迷草、牛舌曲、蛇舌曲、毒花、痺れ花、天蓋花、剃刀花、龍爪花、捨子花、石蒜、三昧花


英語圏

Magic Lilly(魔法百合

Red Spider Lilly(赤蜘蛛百合

中国

銀鎖匙(銀のカギ)鬼蒜、避蛇生(蛇も食わない植物)石蒜,烏蒜,龍爪花,山烏毒,新米夜飯花,義八花,老鴉蒜,蒜頭花,水麻,壱枝箭,蒜頭草,紅花石蒜,蟑螂花(ゴキブリ花),红花石蒜, 毒蒜(ドクニンニク),彼此岸花,秃蒜,月月红,野蒜,一支箭〔江西〕,赤色箭,寒心花,蒜头草,

韓国

想思花、相思華、相思花、相思草(想いを思う花、彼岸花は花と葉が同時に存在することは無い。それでも、花は葉を想い、葉は花を想っている)

2018-07-14

[] アビラケツノミコト「神軍を率いる光の命」

オウム真理教の「アビラケツノミコト」とは、一体何だったのでしょうか?

1985年には「アビラケツノミコト(神軍を率いる光の命)になれ」と啓示を受けたと述べる

アビラケツノミコトとは「軍神を率いる光の命」という意味単語だそうです。

 

アビラケツノミコトの初出は、「トワイライトゾーン1985年10月号(KKワールドフォトプレス刊)でした。

考証の資料として、原文を見てみましょう。

アビラケツとは、地水火空の意味で、アビラケツノミコトとは、「神軍を率いる光の命」、戦いの中心となる者

 

仏教用語サンスクリット語a vi ra hūṃ khaṃの音写。以上の5音綴は,それぞれ万有の構成要素である地,水,火,風,空を表わし,大日如来内面悟りを表明するとされる。一般には,すべてのことを達成するための一種呪文として用いられる。

地水火風空(a vi ra hūṃ khaṃ)のうち「風」(hūṃ)が揃ってないので、まだ不完全(未完成)な状態、という意味もあったようです。

 

トワイライトゾーン 1985年10月

編集部不思議体験レポート(22)

最終的な理想国を築くために

神をめざす超能力者

レポート/■■■■■

 

今月号の口絵14ページで、空中浮揚の連続写真を紹介した麻原彰晃氏。彼は師にもつかずに、独自修行でこのレベルに到達した。だが、この超能力者目的は、はるか先にある。

 

★8年前、すべてを捨てて修行に入る

 麻原彰晃氏。あと1年もすれば、空を自在に飛ぶ人である

 彼は、特定宗派の僧でもなければ、団体トップに座す人でもない。人間の師ももたない。彼の修行独自で、しかも数千年も伝わる聖典の奥儀なのである

 麻原氏が修行を思いたったのは今からわずか8年前である。世の中すべてのものに強い矛盾を感じたのだ。何もかもウソだ。自分さえもウソツキだ。まわり中のこと一切が限りなくイヤになった。

 どうしたら正しく生きられるか。彼は、その日からすべてを捨て、行に入った。

 行は毎日2~5時間に及ぶ。仙道大乗仏教密教、チべット密教ヨガひとつに執着せず、数数の修行法をとり人れ、自分が納得する形で行なっていった。

 修行を始めると、様々な神秘的なことが起こりだした。たとえば、トランス状態での異言。

 その時のテ―プを聞かせていただいた。東洋系の言葉らしいが、私としては、TVなどでも聞いたことのない言葉だ。口調はかなり激しい。過激な説法、または、訴えのように聞こえる。

アジアの、インド中国チベット、その辺の言葉だと思います。おそらく、自分過去生と関係のある言葉でしょう」

 麻原氏が、修行8年にして空を飛ぶということは、過去生でかなりハード修行をしていたに違いない。彼は、テ―プに吹き込まれ自分の口から発した言葉を訳せる人を希望している。でも、もしかしたら、現在ではすでに死滅してしまった言語かもしれない。

 修行3年にいたったころ、彼の魂は彼の肉体を抜け出し始めた。「体が回転するような感じになったんです。ウォンウォンというモーター音に似た音がして、それからシューという音がしたんです。その時、魂が抜け出してゆきました。

 抜け出した先で、魂は宇宙の星星を見たり、『人』と会ったりするんです」

 こんなこともあった。シャヴァアサナ(屍のポーズ)をとり、トランス状態に入っていた。

 彼は、大ス夕ジアムのようなところにいた。観客スタンドは、裸の僧で埋まっている。中心で、やはり裸の僧の彼が説法をしている。

霊界での説法なんですね。私はそこで説法をして帰りました」

 聖典を読んで帰ることもあるという。魂が、修行において気になることを調べに行くのだ。

自分現実で読む本を先読みしているのです。だから、実際に読む本の内容は、すでに知っていることが多いのです」

 魂が抜け出さずとも、本の内容を理解していることも度々ある。修行中「ああ、これはこういうことなんだ」と感じた通り、後に読む本に同じことが示されている。

 もちろん、修行危険が伴わないわけではない。普通だったら死んでいるというような目にあったことも1度や2度ではない。

「その時は、自分守護神に頼むのです。そうすれば、必ず、元のところに帰ってこられる」

 

★突然、天から聞こえてきた神の声

 麻原氏には、たくさんの信仰している神、守護している神がいる。彼は、それらの神々から修行法を学んでいるようである

トランス状態とき、神々が現われることがあります。神々はヒントを与えてくれることもあります。または私が質問し、神が答える。質疑応容形式のこともあります。その中で得たのは、『生きることを否定せよ』ということです」

 麻原氏は、いつも出会う神とはニュアンスを異にする3人の女性出会っている。彼には、霊界人とも宇宙人とも感じられた。

「まず1度めは、5年前。妻の出産の時のことです。朝、自宅で目覚めるとロングへアで緑色の服を着たグラマーで美しい女性が、私に向かってオイデオイデをしているんです。

 全身はエーテル体とも思えるもので、炎の赤をしているのです。髪の色は、全身の色を薄くしたような感じで、ジャンパースカートのような形の服に茶色のべルトをしめていました。

 会話はありません。『私があなた守護しているのです』と私に見せているように思えました」

 2回めは2年前です。自宅で、眠る直前のことです。髪は肩まで垂らし、オレンジ色の服をきた目鼻立ちの美しい女性でした。体色は人間と同じでした。この時も会話はありません。

 3回目は今年の5月。ここ(麻原氏の道場)でです。髪の長さは肩ぐらい。やはりオレンジ色の服ですが、体の色は、何というか、この世にない色なんです」

 3人の女性たちは、共通して美しく、グラマーであり、口をきかない。決まって、彼の左側に現われる。そして、彼女たちが去った後、場の空気が揺らぐという。

最後はいつも、霧のようにかき消えてしまますひとつ修行が進むと、異なった人が現われるんです」

 麻原氏は、これまで世に出ようとは考えなかった。ところが、ある時、声を聞いたのである

地球はこのままでは危い!』

 彼は今、シャンバラのような王国神仙の民の国を築く準備を開始するため、多くの人に修行法を関放する必要を感じた。

 今年の5月のことである。彼は神奈川県三浦海岸で頭陀の行を行なっていた。五体投地をしていたときのことである。突然、天から神が降りてきた。神は彼に向かってこういった。

あなたに、アビラケツノミコトを任じます

 アビラケツとは、彼の初めて聞く言葉であった。彼は、サンスクリットを教えている人を訪ねた。

 すると、アビラケツとは、地水火空の意味で、アビラケツノミコトとは、「神軍を率いる光の命」、戦いの中心となる者と判明したのである

 彼は、天から降りてきた神によって、西暦2100年から2200年頃にシャンバラが登場することを知り、それまでアラビツノミコトとして戦うように命じられたのである

 彼は考えた。チべットのような王国を造らなくてはならないことはわかっている。しかし、チベット戦争を好まない国である理想国を造るため、戦さを用いてよいのであろうか。

 彼は、シヴァ神や、ヴィシュヌ神などの自分信仰する神々や自分守護してくれる神々に相談した。神々は「命を受けるべき」と返答した。

 

完璧超能力者たちの国をめざす

 麻原氏は、神を感じるだけでなく姿を見るという。それによると、たとえばシヴァ神は、白銀のような色、ドライアイスのような色の神体を持っているという。

 ところで、ここでいうシャンバラとは幻の国、聖人たちが住み、全宇宙の、そして過去から未来永劫に至るすべての英智が納められている国である。かつて、秦の始皇帝アレクサンダー大王も求めてやまなかった土地なのだ

 シャンバラは、地下深くにあるといわれている。そして、地球上のある地点からは、シャンバラへの通路が開けているという。

 その昔、チべットの首都ラサにあった古ポタラ宮の地下の一室はシャンバラへの入口であったと伝えられている。そこで、チべットはシャンバラの影響を受け、チべット密教を開花させたのだ。

 聖者たちのひと握りの者たちはシャンバラを訪れることができる。そこで、ある者はシャンバラの住人となり、ある者たちは社会に戻り、許された者にだけシャンバラを伝えたのである道教の祖・老子は、シャンバラの人になったといわれている。

 麻原氏の話に戻ろう。

2006年には、核戦争の第1段階は終わっているでしょう。核戦争なんて、ほんの数秒で終わってしまい主す。日本死の灰の影響を受けているはずです。

 核戦争は、浄化手段ですね。だから、私は『ノアの箱舟』も信じられます。選りすぐったレべルの高い遺伝子だけを伝えるんです。

 だけど、人が『自分の分け前をさいて人に与えよう』というように考えない限り、『浄化』はなくならないんですね。そういう気持ちになかなかなれないのが人間でしょう。

 もし、それが真実でないとしたら、地獄餓鬼畜生人間阿修羅・天という六道はなくなってしまうでしょう。

 私の目指すのは『最終的な国』なんです。それは、仏教的・民主主義的な国で、完璧超能力者たちの国なんです」

 

★神が授げた神秘の石ヒヒイロガネ

 そのためには、修行解脱しかないのである修行意味を麻原氏に語っでもらった。

 「修行とは、ジュースの1滴を、テ―ブルクロスの上に落とさず、水の中に落とす、ということなんです。1滴のジュースとは、人間のことです。1滴のジュースは、テーブルクロスの上に落とせば、ただのシミです。でも、水の中に落とせば広がるでしょう。

 水の中にただ1滴のジュースを入れたって、水は色を変えないでしょう。でも、水の中には確実に1滴のジュースが入ったんです。

 魂の根元的な状態ですね。拡散した1滴は、水の中のことすべてを知り、経験できるんです。これが空であり、寂静です。高次元昇華した状態ともいえます

 大きな水がめの中の世界体験している麻原氏の身辺は、アラビツノミコトを任じられて以来、急転しだした。

 修行岩手県におもむいたときのことである。彼は、天からオリハルコン、またはヒヒイロガネと呼ばれる神秘の石を与えられた。

 ヒヒイロガネとは、超古代文献『竹内文献』などにも登場する石である神社玉砂利のように滑らかだが、それよりずっとツヤがあって黒い。ズッシリと重たく、力ネの名の通り、金属的な感じの石なのだ

 麻原氏は、この石の様々な利用法を考案中である

 水を張ったバケツに石を入れ、念を入れる。その石で円陣を作り円陣の中で瞑想する。

 ヒヒイロガネは、手に入れた人誰にでもパワーを発揮するものではないという。念を入れられる者の手にわたってはじめて、パワーを与えられ、驚異の力を噴き出すらしい。

 念を入れたヒヒイロガネは、多くの人々を同時にトランス状態にすることもできるという。この石については、いずれまた機会があったら報告したいと思う。

 麻原氏に行法の一部を実際に行なっていただいた。

 麻原氏は、座して、様々な印を結ぶ。印は2、3秒で変化する。

「これはチャクラ開発のための印です」

 次に、立ち上がり、上半身を少し前方に傾けた。腸というか、腹の中がゴロゴロと動き出した。これは浄化法・ナウリのひとつ。腹にあるマニプーラ・チャクラ覚醒に役立つ行だ。

 次は仰向けに寝てから足を天に持ち上げるショルダースタンドの形。空中浮揚に欠かせないビシュダ・チャクラ覚醒目的だ。

 それからライオンポーズ。これは、クンダリニー覚醒必要ポーズである

 麻原氏の修行には、かなり危険ものも多い。たとえば浄化法のひとつで、幅7センチ、長さ3メートル半の布を呑み込むというものなどだ。この時は、呼吸ができなくなるほどだという。

 

重要なのは正しい生活食事修行

 彼は、修行中、シャヴァアサナに入ったときチャクラの光を度度見るという。

 ちょうどフラッシュがパッパッと飛ぶような感じで、下のチャクラから順に光を放ち、同時にやはりフラッシュのような音がするという。音と画像シンクロするのだ。

 経験によると、音と光は様々な神秘体験には、共通して現われるらしい。たとえば未来過去タイムトリップするときは、マーチリズムのような音、霊体が離脱するときブーンという振動のような音。

 これは、各種の教典とも矛盾しないという。そこで、そのような音を作って流せば、修行者は案外簡単タイムトリップや霊体離脱経験できるのではないかと麻原氏は考えている。

 それでは、私たちがすぐにでもできる修行法について尋ねてみた。

「それは、まず何よりも五戒ですね。1が殺生をしないこと。蚊が自分の血を吸っていたら吸わしておくことです。

 2が盗みを働かないこと。

 3が誠実にして、ウソをつかないこと。

 4が邪淫をつつしむこと。

 5が禁酒すること。

 以上の五戒に徹することですね。悪の行為をやめ、将来にするだろう善行をどんどんすることです」

 集中的に瞑想などをしようと思うなら、空気きれいなところの方が効果的だ。プラーナ(気)の満ちあふれた海や山を選ぶとよい。ただし、風のないところで行なう。地・水・火・風・空のエネルギーは、想像以上に誘惑的なのだ

 次に、食物は、玄米菜食の方がよい。1日に1回、または2回。または少しずつ、数回に分けて食べる。ヨーガの激しい修行をする行者の場合、日に1800~2000カロリー理想といわれている。一般の人なら1200~1500カロリーで足りるだろう。ただ、カロリー栄養とは異なるから栄養はしっかり摂らなくてはならない。

「(日に)3食は獣の食事、2食は人間食事、1食は聖者食事という釈迦言葉があるんですね。

 でも、日に1食では、一般的には栄養が足りなくなってしま心配がありますから。日に1度という場合は、夕方に摂るのが理想ですね」

 玄米菜食だけで、スワジスターナ・チャクラ(腰・仙骨)までは開発できる。しかし、それより上のチャクラは、修行しか開発できない。

「スワジスターナ・チャクラ植物を司るんです。ここが開発されれば、低い次元超能力は身につきますね」

 麻原氏は、腹のマニプーラ・チャクラが開くまでは、外食は一切しなかった。もっとも、化学物質などの変なものを食べることを体が受け付けなかった。

 でも、今は多少腐ったものを食べようが何を食べようが平気である。火のエレメントがすべてを燃やしてしまうのである

 チャクラが開くということは、規制がなくなるということも意味しているのだ。

 尾骨のムラダーラ・チャクラが開くと規制され、腰のスワジスターナ・チャクラが開けば性欲の規制がなくなる。腹のマニプーラ・チャクラが開けば食欲の、胸のアナハタ・チャクラが開けば行為規制がそれぞれなくなる。

 規制がなくなるとは、「何をしてもいい」ではなく、規制をせずとも自動的コントロールされるということである

食べ物に気をつけるのもいいが、もっと大切なのは精神です。食物の害より精神の害の方がずっと悪いです。肉を食べたからってすぐ内臓が悪くなることはない。でも気持ちに及ぶ害は、すぐに体を悪くします」

 つまり、肉体への栄養よりも精神への栄養の方が大切なのだ適当食事よりは、瞑想1時間の方がずっと栄養になるらしい。

物質人間は救えないということをもっとよく考えるべきなんですね」

 

超能力自分を神々に変えていく

 正しい食事をし、正しい修行から得られるもの、それが超能力である最近は、魂の浄化・向上こそ第1義で、超能力邪道という考えも広まりつつあるので、麻原氏における超能力の実義をしてもらった。

「魂の進化・向上という考え方がありますが、それは、人間の魂が阿修羅・神々に至ることなんですよ。つまり超能力の獲得と魂の進化・向上ということとは、矛盾しないばかりか、正しい相関関係にあるんですよ」

 それゆえ麻原氏は自分を神に変える修行をし、「完璧超能力者集団」と彼のいうところのシャンバラ王国設立するべく、神軍を率いて戦うのだ。

 麻原氏のまず当面の目標は、自由自在に空を飛べる空中浮揚。それと、大脱身を成功させたいという。

「これは、アジナ・チャクラから自分の魂を抜き出させ、目的としている相手身体に人る超能力のことです。これが可能になると、三界欲界色界無色界)を自由に行き来できるんですよ。ここまでくると、もう人間といっていいかどうかわかりませんけどね。また、核戦争の脅威から身を守るには、極熱にどれぐらい耐えられるか、放射能いかに防ぐか、ということになると思うんですよ。今の修行方法でそれに耐えられる身体はできると思っています

 麻原氏は、空中浮揚の初歩までの修行か達成した。しかしながらこれは、全修行の段階の4分の1にすぎない。生きているうちに、全部達成できればいいという。

「私は、ハ夕ヨガでいうところの解脱はすでにしています。真我も見ています。これから求めるのは仏教でいう真解脱です。それがいくつもの決め方がある解脱のうちでも最高のものとされています

 もし、真解脱ができたら――もっともっと修行しますね」

 修行を達成した人間は、次の生を好きなように形づくれるという。麻原氏の中には、地球自分宇宙、神々……超大な計画がもくろまれているのかもしれない。

2018-06-27

anond:20180626123908

しかしこれだけ、ほんの少しの時間差でボロクソに蹴られる死体も珍しいね

ネットヲチャはその「活動」が著名であればあるほど、更にステップアップを目指して調子こいて表に踊り出た途端に後ろからサクッと刺し殺されてしまうのだし、死んでからも一瞬持ち上げられはするものの、すぐネット振り子が大きく振れ戻るように、こいつが聖人だなんでとうでもない!なんて言われながら悪行を次々につまびらかにされて、ゲスクズだと死体を蹴り続けられる。

まるで死んでからネットリンチされているようだ。因果応報自業自得仏教用語が映えるね。「ろくな死に方はしない」とはよく言ったものだ。

思うんだけど、ネットリンチ常習者ならば、生前死後に関わらずネットリンチしてもいいってことにしよう。

まりさ、ほら、殺人絶対だめだけど、人殺しまくった凶悪犯に限っては、国家死刑にしてもいいとか、相手監禁してはいけないけど、監禁して逮捕されて有罪になったら刑務所監禁されても自業自得だ、とかそういう感じ。ネットリンチするやつはもうその時点で、ネットリンチしてはいけない、だからされるべきじゃない、というルールを破ってるんだから、その基本的人権消滅ちゃうの。

他人様の尊厳権利を踏みにじる奴に限っては、そいつ尊厳権利も損なわれる。

おっと「低能先生がー」とか言うんじゃねーぞ?彼がおまえらを蹴った時点では、彼はネットヲチしか蹴らなかったのだから、その時点ですでにおまら権利消滅してたんだから文句は言えない。

最悪殺されていても仕方なかった。まだ生きてるだけまだラッキーだよね。

他人様をネットリンチして愉しんでるネットヲチャなんてゲスは、人生最期まで逃げ切って、死後、生前を偲ばれて讃えられるなんて可能性なんてゼロだってよく理解されたんじゃないかな。

ネットリンチしてるクズ連中なんて、どうせこういう暴力をもってでしか対話できないんだし、そういう意味では殺害を決行するしかなかった犯人の主張は完全に正しかったよね。

ネットリンチなんて言論じゃない集団暴力なんだし、ペンは剣より強し、っていうのなら、それはまさに今のことだよ。

剣を振り回してたHagexは、剣でも刺し返されて、さらに今またペンでその死体を蹴られている。

ゲスで愚かなHagexフォロワーにとっても、親玉が命をもって反面教師になってくれたんだし、もう足洗ったら?その汚物にまみれきった小汚い足をさ?

2018-02-28

anond:20180228230924

最後仏教用語差別がどうしたこうしたとか

3日も4日もやってそれかよと

ソ連末期の議会みたいだったw

2018-02-27

anond:20180227230756

差別ってのは仏教用語であって差別=悪じゃ無いし

差別区別に違いはないよ

anond:20180227225331

社会的平等ってそれ近代西洋思想からなぁ

平等院鳳凰堂ってのが有るように本来仏教用語

差別もそうだけど

インドは昔からめちゃくちゃ差別社会から

そこで生まれたのが仏教平等も元は仏教思想

まぁ詳しくはググってくれ

2017-12-27

anond:20171226205319

>>私自身どうもわがままで、<<

>>家族がいたらいたで自分の思い通りにならない苛立ちを感じる。<<

>>自分人生コントロールできれば、<<

と書いてる通り、コントロールしたい、こうあってほしいと言う気持ちが強いんでしょ。

それこそが仏教用語で慢といって苦しむ要因。

逆に、どうなってもいい、あるがままを受け止めるようにすればよい。

どうにもならないのはかかわらないようにする。ということが答えですかね。

僕も完全にはできてないけど。

プラス、まずこううまくいかないとイライラする。イライラすると、いろいろ外的環境に反応しやすくなって余計にいらいらしやすくなる。

なので、一度考えないようにして休む時間をとる必要があるかと思います。それが瞑想

慢については小池龍之介という人が多く取り扱っています。平常心のレッスンとかおすすめですかね。

また、瞑想は、最近マインドフルネスという枠組みで問いあげられています。久賀谷亮『世界エリートがやっている最高の休息法』あたりがおすすめですかね。

それから新興宗教、質の悪い自己啓発セミナーはは、むしろイライラさせる不安を増やして依存させ、金を巻き上げるだけだからいってはなりません。

このあたりの本をもとにいろいろ読んでみたほうがいいです。てか、本で十分です。

2017-09-05

https://anond.hatelabo.jp/20170905135805

障碍というのは今の分類でしかいから。

そもそも、元々の障碍って、仏教用語よ。真理を妨げる心のこと。

から、よっぽどの知的障害でない限り関係ないと思う。

2017-08-03

https://anond.hatelabo.jp/20170803180725

常識」ってなんだか知ってるか?

関係ないけど、仏教用語無常って知ってるか?)


常識って家の外、プライベート空間から出た所で、たくさんの人が心地よくすごすためにある。

常識同士がぶつかると消えるっていうのはない。

2つ存在する以上、常識ではなく2つの別の価値観だと思う。だから残る。

2つの価値観の違いを認めて住み分けしましょうってことだと思う。

常識に変化が訪れようとしている。

公共交通機関の親子の扱い。


追記

価値観から常識は生まれ

公共交通機関の親子に対する価値観が変わって来ていて、常識が変わりつつあるかと。

価値観に基づく何かが2つ存立していたらそれはそれぞれ常識とは言わない。

2017-06-23

数年前に女友達数人で集まったときによくある美容の話になったんだけど

そのときに1人が「そんなことより内面磨いたほうがいいよ。」って言ったのね。

彼女は軽口で言ったんだろうけど、それからずーっと内面磨くってどうしたらいいのかわからなくて心に引っかかってる。

読書しても、勉強しても、仕事を頑張っても、人間関係機微に気をつけても内面を磨いたことにはならないような気がする。

仏教用語でいうような徳を積めばいいのだろうか。

寄付をするのだろうか。

困っている人に対して施しをすればよいのだろうか。

何日か寺にこもって読経をすればよいのであろうか。

徳の高そうな人で思い浮かぶのは杉良太郎だろうか。

でもわたし杉良太郎のように私財をなげうって炊き出しをしても内面は磨かれないどころか

ボランティアしてる暇があったら周りの人を大切にしたら?」と言われそう。

そもそも磨くって物理的には元々あるものを研磨することじゃないだろうか。

わたしの持って生まれた大したことのない内面を磨いたところでどうってこと無いんじゃないのかな。

ってことは内面を磨くって己を知るってことかな。

2017-04-24

仏教っぽいなにか

マツコ・デラックス仏像に似ている

断捨離→語感が仏教用語っぽい

……みたいに仏教っぽいなにかは広まりやすいと思うのだけど、ほかの類例が思い浮かばない。

2016-12-01

君の名は。」に潜む仕掛け―「無常」と「自我」の「対決」の物語

すでにこの映画を見て2週間は経つ。鑑賞直後の雑感は箇条書きで記してはいたのだが、一応もう少しまとめようと思い立ったのでここに記す。

おそらくほとんど人の目には留まるまいが、ネタバレを含むので、ここから以下はぜひ本作をご視聴の上でお読みいただきたい。

また、私自身はこの作品を1度しか視聴しておらず、またこの映画に関する情報パンフレット以外ほとんど(ネット上の評論も含めて)目にしていない状態であるので、思い違いや抜け、または同様の結論に至った他の方の評論がある可能性があることを了承されたい。

また、本文の後半でいくつかの仏教用語使用している。が、恥ずかしながら私の仏教知識は全くの独学であり、また理解もかなり浅いものである。もし仏教用語または知識に間違いがあれば、ぜひとも私のツイッターアカウント(https://twitter.com/gachikibou)またはメールアドレス(gachikibou@gmail.com)あてにご叱正をいただきたくお願いする次第である

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君の名は。」は、大変すばらしい映画だった。

これまで、私は新海誠監督映像作品をいくつか観た(すべてテレビDVD)が、どれも見ていていたたまれない気分にさせられるのがいやだった。今回も「新海監作品」というだけで拒否感が強かったのだが、それを良い形で裏切ってくれる作品であった。

この映画の良い点については、映像作品素人の私でもいくつか挙げることができるが、この文章では、私が「この映画が多くの人の心に深く響いた理由である確信した、ある「仕掛け」について取り上げたい。

私がこの映画で見事な「仕掛け」であると考えるのは、「入れ替わっていた時の記憶は夢のように消えていく」という設定である

ご視聴いただいた方にはわかる通り、この設定は脚本構成必要不可欠であり、それ自体が新海氏の作品テーマの一つである「すれ違い」を生むポイントでもある。

しかし私は、この設定そのものが、多くの観客に非常に深い共感を覚えさせるための、きわめて重要な「仕掛け」であったと確信している。

さて、その「仕掛け」について考える前に、まずは一般的な、夢の「記憶」について少し考えたい。

 

夢の記憶は、実体験のそれよりはるかにもろい。

そもそも、人間が見るほとんどの夢は、目覚めた時には忘れられてしまっているし、たとえたまたま夢を覚えていたとしても、目覚めた後しばらくすると、その記憶が朝のルーチンな行事などによって急速に塗り重ねられていく経験を、多くの人はしているはずだ。

そしてそれは、非常にインパクトのある強烈な夢であっても、実は例外ではない。

 

例えば、前日見た怖い夢について友人に話す時、どうしてもその「怖さ」を伝えることができないというもどかしさを感じたことがある人は多いはずだ。

それにはいろいろな理由が考えられるだろうが、そもそもそうした場合に思い出している夢の「記憶」というのは、実際にはその時の夢に対するおぼろげな「あらすじ」と「『感動』を体験したという『記憶』」を元に、目覚めてしばらく経ってから再構築された、いわば「レプリカである

それは本来の「記憶」ではなく、自分自身によって作られた本来の「記憶」の「代替品」である。そのゆえに、自分自身でもその「記憶」を、生の体験として感じられないのだ。

 

では、なぜ人は、わざわざそのようにもろい夢の「記憶」を、再構築してまで取っておこうとするのだろうか。

それは、その人が、その夢の中で何らかの「感動」(それは「喜び」であっても、人によっては「恐れ」であってもよい)を体験たかである

 

ある夢について、人が「いつまでも覚えている(実際には再構築したレプリカを取っておいている)」のは、その人がその夢の中で、時には現実以上に「感動」させられたからだ。

(つまりは、面白かったテレビドラマアニメDVDなどで保管しておこうという行為と同じである

しかし、そのとっておきたい夢の「記憶」そのものは、前述のように実に「もろい」のだ。

「感動」は個人の心にとって極めて重要体験であり、その存在保証する「記憶」は、ある意味自分のもの」でもあるのに、夢の「記憶」は、いくら手放すまいと抱え込もうとしても、どうしようもなく風化し、変質し、最後には消えてしまう。

すると最後には「『感動』を経験したという『記憶』」という、ある意味抜け殻のようなものけが手元に残るのだ。

この感覚を、自覚している人は多いはずである

 

しかし、人間はそれでも夢の本来の「記憶」をあきらめきれない。

なぜなら、強く「感動」したという事実は、人にとって極めて重要からだ。

からこそ人は、無意識にでも夢の「記憶」を、抜け殻である「『感動』を経験したという『記憶』」を元に再構築して「レプリカ」を作り、それを代替品として残すのだ。

たとえ残しても、その「レプリカ」が、本来の生の「記憶」には及ばないにもかかわらず。

 

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さて、ここまで、夢の「記憶」が本来記憶からレプリカ」に置き換わっていく過程を見てきた。

ここまで考えれば、人はもう一つの事実に思い至る。

 

多くの人は無意識のうちに気が付いているのだ。

実は、夢の「記憶」に限らず、人間実体から得られたものを含むすべての「記憶」も、年月が経つと消えてしまう「もろい」ものである、ということに。

「よかったことの記憶は美化される」というが、実際には美化という「脚色」ではなく、後に再構築された「レプリカ」かもしれず、場合によっては「レプリカ」の「レプリカである可能性すらあるのだ。

 

記憶」は、同じ時代の別の「記憶」や、新しい「記憶」、またはその人自身の心境の変化などによって絶えず影響を受け、さらに年月とともに風化する。

そうして形の崩れた「記憶」を、人は心の棚から引き出して眺めるたびに、足りないところや影響を受けたところを成型しなおし、「ああ、あのころはそうだった」と納得して、引き出しに仕舞う。

仕舞った途端に、その「記憶」はまた変質を続け、風化していく。

そのようなものに、果たしてその「記憶」が生み出されたころの、生の部分が残っているだろうか。

 

そしてその「記憶」がもろく変質し、最初のものと変わってしまっているという事実は、最終的には自分のものの「はかなさ」にたどり着く。

自分があの時得た喜怒哀楽の「感動」を保証する大切な「記憶」が、年月を追うごとに変質し、「レプリカ」に置き換わっていく。

さらにその「レプリカ」すら、風化に耐えられずに「レプリカ」の「レプリカ」に置き換わってしまう。

それは人間記憶システム限界であり、そのような「はかない」もの立脚している人間存在限界であり、どうにも抗えない無情な運命である

この残酷な「はかなさ」を前に、人は多かれ少なかれ、悲しみと恐れを抱くのだ。

 

しかし、いくら「はかない」ものであっても、人はやはり「『感動した』という事実」を保証する「記憶」を手放せない。

それを手放すことは、過去の「感動」を手放すことであり、つまりは「自分自身」の一部を手放すことに等しいからだ。

自分自身」を手放したくないという強い思い。これは、人間という存在の持つ、根源的な欲求の一つといってよい。

 

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さて、ひるがえって「君の名は。である

この作品で、主人公たちは人格の入れ替わりという「夢の体験」に近いもの体験する。

入れ替わっている時の「記憶」は、(夢の「記憶」と同じく)極めてもろく、曖昧ものであることが劇中の様々な演出や、女性主人公祖母経験から示唆される。

また、主人公二人が入れ替わっている最中のことを把握しようと相互に残した記録すら、「世界修正力」とも呼ぶべき現象によって、問答無用に消されていくのだ。

この演出は、夢の中で強烈な「感動」をしながら、夢の「記憶」が消えていくのを経験した人々(たぶん非常に多いはずだ)に、夢の「記憶」の「はかなさ」、どうあがいても失われてしま焦燥感と苦しさを思い出させる。

 

しかさらにその後、この設定の巧妙さが控えている。

この映画において、入れ替わりの「記憶」は、夢の「記憶」と同列にできるものではない。

なぜなら、その「記憶」は(時間軸のずれはあるにせよ)現実世界での体験によるものからだ。

ここで視聴者は(特に視聴者層として想定される若い世代にとっては無意識のうちに)、自分の持つすべての「記憶」そのものも「はかない」ということに気づかされる。

そしてその「はかなさ」は、前述のようにこれまで確かだと思っていた「自分自身」、つまり自我」の「はかなさ」へと続いているのだ。

 

 

この作品が、単なる「恋愛のすれ違い」を描いた作品でない点は、ここにある。

この作品の入れ替わりの記憶に関する「設定」そのものが、人が「自我存在のはかなさ」に知らずのうちに触れる、という高度な「仕掛け」となっているのだ。

 

そしてさらさらに、この仕掛けにかかった視聴者は、「自我のはかなさ」を抱えながら、大災害から人を救いたいという強い想いの結実と、主人公二人の恋の結末を追っていくのである

自我のはかなさ」という「無常」を自覚しながら、それでも捨てきれない「感動」を最終的には得るのであり、これをあえてたとえるなら、大乗仏教における「色即是空」の一端を突き付けられながら、それと相反する「自我」を、恋の思いを主軸にした「感動」として体感させられているようなものである普通人間にとって、これが強烈な体験とならないはずがない。

 

この作品を、「何か『高尚な深み』がない」とか、「ヒットする要素が盛りだくさんで鼻につく」といって評価しない人がいるようだが、前述の「仕掛け」が意識されるならば、その評価は間違っている、と言えるだろう。

確かに、ストーリー上はこの作品恋愛物であり、その結末そのものに何らかの「高尚な思想」は存在しない。

最終的に二人は再会し、そして新しい「記憶」が生まれるだけである

しかし、上記の「仕掛け」による、実は仏教的ともいえる「無常」と、それと対立する「自我」を強烈に意識した構成は実に見事であるし、十分に評価に値すると、私は考える。

 

何より、「無常」と「自我」の対立、というよりは映画エピローグの流れてとしてはむしろ「対決」を、恋愛ドラマをもとにしながらも、とりわけ若い世代視聴者体感(おそらく初経験だ)させるなど、尋常映画ではない。

この点で、私はこの映画日本アニメ映画の中でも特筆すべき存在であると考える次第である

 

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この映画に関して、もちろん上記以外優れた点は数多くある。

今回記した部分はあくまでも私が特に注目した点であり、冒頭に述べた鑑賞直後の箇条書きの全体量で言えばせいぜい1-2割といったところである

海監督の特徴である映像意図的な美しさや、おそらく何度も検討を重ねて練り上げられた脚本など、評価するところはまだまだあると思う。

しかし、私自身まだ一度しか視聴していないこともあり、また映像脚本に関してはより以上に素人であるので、それ以外の評価は他の方にゆだねたいと思う。

 

そして、私はやはりこの映画は、10から20代の「無常」に関して初心(うぶ)な若い世代に鑑賞していただきたい。

この映画で抉り出されるものは、少なくとも2500年ほど前から人類が立ち向かっている、非常に大きく根源的な問題の欠片である

それに触れた経験というのは、おそらくそ若者にとってかけがえのないものになるだろう。

2016-11-25

http://anond.hatelabo.jp/20161124064919

僕はクリスチャン信仰は良いものだと思います

なので信仰者としての立場を極力排してなぜ胡散臭いのか、本当はどうなのかを考えてみます

なぜ胡散臭いのか

最初からいいますが、僕は新興宗教自体胡散臭いとは考えていません。

身も蓋もない言い方ですが、キリスト教ユダヤ教新興宗教ですし、仏教日蓮宗浄土宗臨済宗密教系とは重要教義が異なっています

私はカソリックですが、米大統領選でも注目されるモルモン教福音派などのプロテスタントは明らかに新興だと言えます

基本的なことですが、この点をまず明らかにしておきたいと思います

ではなにが胡散臭いのかというと、相当分がみなさんと宗教の接点ですれ違いが起こっていることになります

そして悲しいことですが、本気で胡散臭い活動も当然ながらあります

布教のやりかた

宗教からみなさんへの第一の接点は布教活動になると思います

僕が通っていた大学でも注意書きが掲示されていましたが、家に押し掛けてくるのは胡散臭さレベルが高いので敬遠するのに越したことはないでしょう。

商売と一緒で「売ってくれ」とお客さんが来るのが最高の営業ですが、現代日本ではこれはほとんど期待できないでしょう。

ではどのように新しい信者を獲得するかというと、団体としての活動宗教活動を通じてということになります

お金の使い方

代表的新興宗教には宗教活動以外にも莫大なお金をつぎ込んでいるものがあります

PL教団花火大会や、米ソルトレークシティモルモン教大寺院などはその代表的ものです。

このような活動には伝統的な宗教も古くから関与してきました。宗教伝統的に文化芸能活動庇護者であったのです。

長い歴史の中ではそれに対する反発もありましたが、現代日本でもその恩恵に多く与ることができます

例えば東京観光京都観光には寺社仏閣がつきものですが、その観光価値一般の方には庭園天井画や襖絵、建造物にあるのが現実だと思います

そのような文化活動信者と、一般の方の両方に働きかけるもので、難解な教義を介さない身近な存在として宗教を感じてもらうことができるのだと思います

新興宗教には巨大、特徴的な寺院を建造するところが多くあると思いますがこの理由ちょっとわかりません。

ただこのような建造物を建てたからと言って、教主や教団幹部の懐に直接お金が入るわけではないということは留意しなければならないでしょう。

教義の難しさ

教義信仰者にとっても難しいものです。カソリックでは洗礼を受けるにはちゃんと勉強をして認められなければなりません。

本来ならばどの宗教でも教父にあたる方に接するのが第一歩になるでしょう。

ただ、いきなり相手ホームグラウンドに行くのは恐いですから興味のあるお寺(教会)に電話してみるのはいかがでしょうか?

自分の考えていることを吐露してそれで答えが受け入れられないものであれば、それは相手方の落ち度でしょう。

元増田アプローチは、まず文字に当たるということですが、どの宗教でもその本質活動です。

wikipediaは参考文献に含まれない」とはよく言ったもので少なくとも宗教で学ぶというのは不適当ではあると思います

完全に新興の宗教は別として、多くの新興宗教既存宗教派生です。なのでそれぞれの教義には数百年単位の積み重ねがあり、

一人でそれを理解しようというのはだれにとっても不可能でしょう。ただしその本質というものシンプルで良いものであると私は信じています

宗教政治

長い人類歴史の中では宗教歴史が分離されていたことの方が少ないでしょう。

それはさておき、宗教政治無視できないのは宗教が人の本質アプローチするものからです。

人の生活に直結する政治とはどうしても重なる部分があるということが宗教政治に関わっていく要因でしょう。

宗教非科学的か

波動」や「飛行」というのを聞いたときの胡散臭さは相当リアルに感じます

それはそれとして一歩引いてみれば仏教用語因果因縁、「宇」や「宙」というのは非科学的な概念ではないでしょうか。

これらを科学的に検証することはできませんが、明らかに科学矛盾するものとしてキリスト教進化論地動説否定があります

私自身は技術者として生計をたてていて、人は猿から進化して、地球太陽の周りを回っていると思います

しかしその部分がどの程度まで宗教本質を損なうでしょうか。

非科学的ということが宗教を損なうのはその真実性を損なうからだと思います

これはどこの宗教もつものだと思います検証不可能なことは証明できませんし聖典多面的な読み方ができるため科学的な検証には向いていません。

聖典が正しければ寺院教会)・教義は正しい」そして「寺院教会)・教義は正しければ聖典は正しい」というような循環論法に陥りがちです。

これに対しては僕が言えるのは「あなた自身の考えて」という月並みものです。あなたが一歩を踏み出してよい教えに導いてもらえることをお祈りしています

2016-11-24

http://anond.hatelabo.jp/20161124171730

真偽と命題のことを仏教用語で有無と空と呼ぶってことですか。

それとも命題のうち存在を問う物が空という名前なんですか。

後者っぽい気がするけど、それを科学というのは微妙違和感あるな。

述語の真偽を問うのがギリシャ名詞の有無を問うのがインドって感じなのかな。

論理学はもはや何年も前に入門書も捨ててしまったんですけど、論理学上で仏教の空論を扱うというのは私も過去やった事があります

残念ながら、今はもうほとんど忘れてしまいました。当時も付け焼き刃だったし。

どう言えばいいのかよくわかりませんけど、「ある」「ない」ってすっごく単純じゃないですか。

そういうものすごく単純なところで考えるとわかりやすいかもしれないって思うんですよ。

元増田になる記事の人は難しいと仰ってたし、確かに世に溢れる空とか縁起について書かれた本とかクソ難解に書いてあるので、単純なところで考えてもいいんじゃないかなぁと思った次第です。

釈迦さんとか昔の仏教の人だってただの人間ですよ。ただの人間が知恵絞って考えただけの話でしかないと思うんですけど、何であんなにクソ難しくするんでしょうね?

 

ともあれ、固定観念をできるだけ捨ててしまって、アホみたいに簡単に考えると吉だと思います

http://anond.hatelabo.jp/20161124133323

真偽と命題のことを仏教用語で有無と空と呼ぶってことですか。

それとも命題のうち存在を問う物が空という名前なんですか。

後者っぽい気がするけど、それを科学というのは微妙違和感あるな。

述語の真偽を問うのがギリシャ名詞の有無を問うのがインドって感じなのかな。

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