はてなキーワード: 浅薄とは
※タイトルや以下における「エンジニア」とはソフトウェアエンジニア的なものを指すとする。
この時期に各種アドベントカレンダーで見かけるような、あるいは平時でもはてブの「テクノロジー」タブに上がってくるような記事は魂に訴えかけるものが皆無な浅い記事ばかりだ。マネジメントがどうのだとか、○○プログラミング言語で△△してみましただとか、無味乾燥なこと甚だしい。それはなぜかというと、そうした記述はいわば児戯を一生懸命やっているだけであって、社会や世界のことをなんら考慮しておらずなんの影響も与えることができないものだからだ。
求職側において、個人ブログ等で発信することでポートフォリオ代わりになり、転職活動に有利になるというインセンティブがある。求人側から見ると、自社ドメインの技術ブログ等で発信することで採用市場におけるプレゼンスを高めたいという動機がある。この双方向の動きにおいては、情報を多く出したもん勝ちであるため、浅い記事が量産されるというわけだ。
求職者は人材会社の陰謀に嵌められて義務的に情報発信させられていることも多く、被害者だとも言える。しかし、求人側がこの動きに加担するのは非道徳的である。たかが採用のために競合と人間の認知許容量を巡るゼロサムゲームを繰り広げて貴重な人類の知的エネルギーを浪費しているのは端的に反社・売国奴である。
IT業界は、火のない所に無理やり火をつけてからなるべく複雑な消火のソリューションをなるべく高値で提供するというブルシットジョブの宝庫である。何社もの企業がキラキラ業界ヅラして犇めいている分野においても、冷静に見るとその分野自体が社会に不要(それどころか有害)であるということはよくある。自分が携わっている分野においては正常性バイアスでそう感じないかもしれないが、他分野を見たときには同じように感じる方は多いだろう。
そもそもがブルシットジョブなのだから、それについて何をどう語ったところで本質的に伽藍堂なのである。
AIは身体性を持たないため、記号を記号としてしか処理できず、現実の実体が持つ意味と結びつけられないという記号接地問題が課題となっていた。特にサーバーレス環境において、エンジニアもAIと同様な状況に陥っている。コードを書いてCDでデプロイしてクラウドで動かすという開発のサイクルは現実の物体との関わりがなく、自分の行いが現実においてどういう意味をなすかという意識が希薄になるからだ。そのような状況では空論を弄ぶことしかできなくなるのは当然の帰結だ。
記号接地問題を解決する側にいるはずのエンジニア自身が同じ問題に囚われるとは、なんたる痛快事であろうか。
エンジニアというのは誰でもできる職業なのに高給取りだというイメージが付いており、思考停止しているくせに一発逆転を狙う馬鹿を呼び寄せている。
また、仕事それ自体によって、あるいは仕事で金を稼ぐことによって自己実現をしようと企むナイーブな価値観が蔓延している。もともと馬鹿ならそのままぬくぬくと馬鹿のまま育つし、大学で一般教養を学び大学院でコンピュータサイエンスを学んだような本来は"頭の良い"人までそうした朱の馬鹿共に交わってより赤き馬鹿に成り下がってしまう環境なのだ。
@KingRiku
過去 2 つのゲームを見れば、オープンワールドでは物語が非常に困難であることは明らかです。 不可解なダンジョンに重点を置いた、ストーリー性の高い直線的なゼルダ ゲームが懐かしいです。@nz605
オープンワールドは問題ではありません。 作家はそれに適応し、全体的なバランスを保つのに苦労しています。@PyroPuff777
人々はすぐにオープンワールドを非難しますが、おそらく開発者が関心を持っているのは物語ではないのではないかと考えたことはありますか? 青沼がゼルダのゲームにおいてストーリーは二の次であることをはっきりと述べたように。 また、この不可解なダンジョンのこと自体が愚かです。 誰もあなたに簡単な方法でダンジョンを完了することを強制していません。 自分にとってそれを難しくしたい場合は、先に進んでください。 常に不必要に複雑なダンジョンだけのゲームは良くありません。 人生のどんな状況でも、人は常に最も抵抗の少ない道を選びたいと思うでしょう。 それだけの挑戦が必要な場合は、パズルのみをベースにしたゲームをプレイしてください。少なくとも探しているものはすべてそこで手に入るからです。 人々はノスタルジーのためにこれらのゲームをひどく誤解しています。 完璧だとは言えませんが、多くの批判は単なるノスタルジーに基づいています。@マルチハードコア
@PyroPuffs777 ゲームをより楽しくするためにプレイヤーが自分自身に制限を課すことは決してあってはならない@heroinhero
@PyroPuffs777 あなたが言ったことの内容は無関係です、なぜなら私がそれから得たのは 1 つの大きなレイトン教授の広告だけだったからです。 私はそれを認めます。@hododod246
ゼルダのゲームには強力な物語がありませんでした。 あなたはこれらのゲームを優しい/ティーンエイジャーの頃にプレイしたので、物語が強力だったと思います。 いつも浅かったです。@PyroPuff777
@MultiHardcore 同様に、ゲーム全体が楽しみたいように楽しめるのであれば、ゲームは難しいものであってはならず、誰かの欲求を満たすためだけに特別な方法で作られたものであってはなりません。 過度に複雑な体験をしたい場合は、それができる方法でプレイするか、単に難しいパズルに焦点を当てたゲームをプレイしてください。 そんなに難しくないよ。 この種の不満などは非常に些細なもので簡単に解決できますが、人々はただ文句を言いたがります。 本当にゲームを批判したり批評したりしたい場合は、ストーリーテリングの手段という点で自由に使えるものはすべてあるにもかかわらず、ストーリーやプロットがいかに浅薄で未開発であるかについて話してください。 または、特定のバグや全体的な技術的問題が修正されなかったという事実を批判します。 簡単に解決または回避できる問題について文句を言わないでください。@alibabaschultz352
@hododod246 そうですね。 Botw はおそらくゼルダ ゲームの中で最高のストーリーを持っていると思いました。 それは多くを言うわけではありませんが、それはまともでした。 人々はペースが気に入らなかったのですが、それは公平なことです。@MrWanton16
@alibabaschultz352 それはMMかWWだと私はまだ主張しますが、Botwは面白かったです。 TOTKがbotwと同じようにストーリーを語ろうとしているように感じるが、物事の構造が最初に間違ったフラッシュバックを取得するため、彼らが試みているすべての蓄積が本当に台無しになるため、本当に傷つけられたと思う@Braxmegaman
@hododod246 「強い」と「深い」は同じではありません。 古いタイトルが十分に示しているように、アートを楽しむために複雑である必要はありません。 必要なのは、誠実であり、程度は低いものの、適切に実行されていることだけです。@Little1Cave
@PyroPuffs777 初めてクリアしたゼルダ ゲームが時のオカリナ 3DS だった人としては(数年前にブレス オブ ザ ワイルドをプレイし始めてから)、いいえ、プレイヤーの好みは単にノスタルジーに根ざしているわけではありません。 そして、それをそのプレイスタイルを望む唯一の理由として押し出す人は、さまざまなプレイヤーの好みに無知であるか、意図的にそれについて不誠実であるかのどちらかです。
@pebphiz
@hododod246 ただし、シンプルであることが必ずしも悪いわけではありません。 ゲームキューブのゼルダには、それらのゲームにぴったりのちょうどいい深さを持つ素晴らしいストーリーがありました。 Tears of the Kingdom は、より複雑にしようと試みていますが (そして失敗しています)、ゲームのオープンな性質があらゆる点でその種のプロットに反して機能します。
「魔王?秘石??」はともかく。 誰もが道化師になって地獄に行ったり来たりしたシーン、5人目の賢者がいるに違いないと誰もが「気づく」シーンはこれまでで最も愚かだった、なぜなら彼女はすでにゲームの半分で私と一緒にいたからです。 他の登場人物はリンクが乗り回している巨大ロボットに気付かなかったのだろうか? このゲームは単にそれ自体のオープンエンドの性質を考慮していないため、適応するか、古いスタイルに戻る必要があります。@AlterBridgeJericho
物語はゼルダの長所ではありませんでした。 良いのは『ムジュラの仮面』と『トワイライトプリンセス』の2本だけだと思います。@マルチハードコア
@PyroPuffs777 私には、ゲームの効果がないと思われる部分について文句を言う権利があると思います。 これらのパズルはプレイスルーごとに 1 回しか解決できないため、満足のいく解決策が得られない場合は、そのパズルとの関わりが永久に損なわれてしまいます。@ドルゲシュ
これはまさに真実です。 実は私は『BOTW』のストーリーが大嫌いで、ゼルダのゲームはどれもストーリーテリングが下手だとばかり思っていましたが、『スカイウォード ソード』を最後までプレイしてみたら、そのゲームのストーリーとキャラクターがとても心に残りました。@vivid8979
@MultiHardcore Fun は主観的なものです。OoT の水の神殿を愛する人もいれば、それを嫌う人も、それについてミームする人もいます。重要なのは、チーズ化は開発者によって与えられたオプションです...何かをチーズ化することを選択した場合は、そうすべきではありません 簡単だと文句を言う...
それは、ダークソウルには魔法や召喚獣が必要ない、OP が多すぎるからやめるべきだと文句を言っているようなもので、ゲームを簡単にするものであり、さまざまなゲームプレイの機会を提供するオプションとして存在します。
@grantroodbeen1316
@hododod246 彼らは決して強くも深みもありませんが、誠実であり、少なくともある程度の多様性を持たせようとしています(OOTのアダルトストーリーは耐えられません)一方、新しいタイトルでは、ほぼ完全にプレイヤーがいないときにプロットが発生し、 たとえ浅い話であっても投資が大幅に削減されます。@a_o_o_o_o_
物語? ゼルダ ゲームに物語が登場したのはいつですか? ストーリーが進んでいくと、それらはかなり標準的です。
@tanzolo4487
物語性の高いゼルダ ゲーム? 🥲強い物語性のあるゼルダをプレイしましたか
@dericandkhristy
@vivid8979 2 つのチーズの前にマウスを置くと、1 つは迷路の後ろに、もう 1 つはそこにただ座っているだけですが、マウスは常に簡単なチーズを取ろうとします。
正直に言いましょう。 😂
それは、簡単なチーズが長期的には充実しているという意味ではありません。@dirmuidtherat
@PyroPuffs777 「ダンジョンを簡単にクリアすることを誰も強制していません。」 これは意味のない発言です。 ダンジョンは何をやっても簡単です。 簡単にできるように設計されています。 自ら課した難易度 (ハートの数が少ない、武器が弱いなど) は、実際にはダンジョンを難しくするものではありません。@zenvultra4457
@PyroPuffs777 すべてのゲームをイージー モードでプレイしていると思いますか?@hododod246
@Pebphiz私はそれらが単純だと言っているわけではありません。 私は彼らがただ悪かったと言っているだけです。 先ほども言いましたが、あなたは子供の頃、または十代の頃にこのゲームをプレイし、良い物語だと思いました。 他のスタジオと比べて、ゼルダのストーリーやナレーションは単なる素人でした。 ゲームキューブ時代には、MGS2、MGS3、GTA San Andreas などのゲームが登場しました。 ゼルダの物語はこれらのゲームに比べればほんの小さなものです。 そしてそれはまさにその逆です。 古いゲームは複雑にしようとして失敗していました。 両方から始めて、彼らは努力をやめ、最も重要なことに集中しました。 探検し、プレイヤーに自由を与えて冒険をすることができます。
@nechocat1234
@hododod246 あなたは本当に、最も評価の高いゲームのストーリーの 1 つをゼルダと比較して、比較してゼルダのストーリーが悪いと言っているだけです@pebphiz
@hododod246 ゼルダのストーリーがどれほど悪いのかわかりません。 単純さだけではないとしたら、具体的に何が問題なのでしょうか?@The_Admiral_Angel
誓って言いますが、オープンワールド ゲームでは良い物語が語れないと言い続ける人は、ゼノブレイドのタイトルをプレイしたことがありません。
@TitForce
@MultiHardcore まあ、それはまったく真実ではありません。
@TitForce
@dericandkhristy それは良いたとえではありません。 ゼルダのゲームをプレイすることは、生存について考える必要がなくなる時点でのものになります。 ネズミにとって、チーズを手に入れることは生存本能にすぎません。
@jonasking9587
@reklem2
@PyroPuffs777 申し訳ありませんが、人々は最も抵抗の少ない道を進むでしょう。 それは自然の法則です。 報酬が同じであれば、人は余計な努力をしません。@capgangchannel6309
Totk は間違いなくすべてのゼルダ ゲームの中で最高のストーリーを持っています。 どちらのストーリーも非常に単純だったことに同意します。 しかし、totkは本当に素晴らしかったです。
@tylercoon1791
@The_Admiral_Angel X を除けば、ゼノブレイドは実際にはオープンワールドではありません。 確かに広いエリアが与えられていますが、それでも定期的にゲートが設けられています。 何度ゲームをプレイしても、ゼノブレイドを通過するたびに、ガウルからエーテル鉱山、サルトル湿地、マクナまで移動し、その間のコンテンツを体験する必要があります。
@The_Admiral_Angel
@tylercoon1791 これは基本的に従来のゼルダ ゲームと同じ直線的なストーリー構造ですが、理由は異なります。 特定のアイテムが必要な場合もあれば、特定のキャラクターと会話する必要がある場合もあります。
@a_o_o_o_o_
@Braxmegaman 100%これです。
私は、「良い」と「複雑」を同等に扱う人々にとてもうんざりしています。 古いゼルダのゲームには「深い」プロットはありませんでしたが、それが彼らを惹きつける理由ではありませんでした。 人々は、強力なストーリービート、ゲームの過程にまたがる楽しいキャラクターアーク、そして「次に何が起こるのか?」という質問を楽しみました。
作家たちは物語をオープンワールドの公式に「適応」させましたが、それによって私たちが得られたのは、「実際には関与していないこれらの断片的な記憶を見つける」ことであり、(再び)探しに行くときにこれらの小さなミニストーリーアークがあることを確認することです 神獣や TotK の主要な「ダンジョン」の 1 つですが、それが以前に何かをした理由と結びついているように感じることはほとんどありません (「これを X 個完了する」以外)。
私は BotW と TotK の両方を楽しんでいますが、私のお気に入りまたは理想のゼルダ ゲームとは程遠いです。
グルースが卑怯ないじめっ子から勇敢なヒーローになるまでの旅から得た感情...
これらのことはオープンワールド方式で可能ですが、あまりにも「制限」したくないため、プレイヤーが忘れる可能性が高いものに大幅に薄められています。@tylercoon1791
@The_Admiral_Angel そうですね、でもゼノブレイドでオープンワールドの物語を盛り上げようとしていたように見えましたが、ゼノブレイドはオープンワールドではありません
@RPmp4ow
54分前
@capgangchannel6309 TotK は最高のストーリーを持っていました 瞬間* ストーリー自体は BotW との関連だけでなく、独自のゲーム設定内でも機能しませんでした
それは母親が圧倒的に正しい
あれは端的に言って「痛い」以外の何物でもない
変にヒットして視聴者層が広がってからチョコチョコ挿入される感動ポルノばっか注目されるようになったけど、あれ、そもそもポリコレ・キャリア志向で快楽・自己中心主義の現代女性とそれが好んで属する浅薄なコミュニティのカリカチュアだからね。正しいはずなのに幸せじゃない、賢いはずなのに何が幸せなのか分かってない女達の自嘲コント
一応言っとくと、ポリコレ自体が間違いなんじゃなくて、根底にあるのは自分の我儘だけでそれを正当化するためにポリコレを振り回すんだけど、それ自分が小賢しく見える以外に意味あんのっていうね
ちゃんとチクリ、チクリと刺さるように作られてるんで、あれ見て自分を振り返って自分も自嘲するならまだしも、ああいう世界に「憧れる」っていうのが二重に痛い
あれが増田の母親のどこにどう刺さったのかはわかんないけど、特に奔放に生きてきたわけでもない、社会や家族に気を使って生きてきて、時間も体力も使って子供3人も育てて、その上で快楽のためでなく自立した個人としてあるために自分のキャリアを苦労して確立した人があれを見たらイラッとするだろうなというのは想像できる
(前回のご報告)https://anond.hatelabo.jp/20230915214213
とてもすてきなねこと長い間ずっといっしょに暮らしてきたのですがしばらく前に亡くしてしまい、いろいろあって今は代が替わったやっぱりすてきなねこと暮らしています。最近ひんぱんに掃除をしても部屋の隅が毛だらけになるなあと思っていたところ、なんだかねこが前よりふっくらしていることに気がつきました。ねこの衣替えに季節のうつろいが追いついたことをことほぎ、ここに駄文を記します。
昨年のこのくらいの時期に話題になった、ねこの毛皮を模した毛布のシリーズがすごく欲しいと思ったもののいつも品切れで買えずくやしい思いをしていたのですが、そろそろこたつを出そうかと思案していた際にふとそのことを思い出したところ、よいタイミングでちょうどいい大きさのキルトラグを手に入れることができました。早速こたつの下に敷いてみたところ、あれ?なんかちょっとこれはねこではないのではないかと思ってしまったのが先月のこと。ですが先日ふっくらちゃんを撫でながらこたつに潜り込むと、あれ?まさにこれこそねこFeelではないですか。と今さらのように気がついてしまいました。浅薄にも短絡的に見当違いなこと思ってしまい大変申し訳ありませんでした。YESふゆげねこFeel
あんなに暑かった日々が嘘のように冬へと変わっていくと、ひともねこも暖を求めてお互いの距離が近くなります。在宅勤務中に膝にお乗せすることはこちらとしても大歓迎ではあるのですが、ひとはねこをひざに乗せることだけに集中すべきであり、キーボード操作等余計な振る舞いをすることは許さない。と増田の腕をぎゅっと抱きかかえたりされるのはちょっと困ったりしますが、まあそれもいいかとも思ったりしています。実は最近増田にとってちょっとめんどくさい仕事が増えてきたこともあって、衝動的にハンモック(スタンド付き)を購入してしまいました。部屋が猛烈に狭くなることと引き換えにコロンビアで手作りされたハンモックに包まれてゆらゆらすることでとんでもない快楽が得られるわけです。ただ、増田がハンモックにすっぽり隠れてしまって視界からいなくなることはふっくらちゃんにとってとうてい許せることではなく、増田が増田の使命を果たすことを助けるべく外側からコロンビアで織られた綿布をバリバリとなさるのでひええと飛び出るわけですが、そのうち一緒に包まれてゆらゆらできるといいなあと増田は思っています。
夜になれば前回の冬と同じようにふとんの中に潜り込んできて、前回の冬と同じように増田のわきの下で一周ぐるんとまわったあと耳のうしろを撫でてもらう体勢に入ります。でも今は増田がぐっと腕を伸ばさないと耳のうしろが撫でられなくなってしまいました。増田にはなんだかそれがとてもとてもいいことであると感じています。こちらからは以上です。
(追記)
これまでの分をこちらにまとめました
人生を変えるほどに大きな影響与えてくれた本は少なからずある。この本がなければ読んでいなかったならば、現在の私はないと言い切れる本も数冊ある。ところが映画にはそれがない。もちろんテレビにもない。
確かに面白かったと言える映画もある。テレビ番組もある。ただしそれだけである。あー面白かった。それだけなのだ。
映画に熱狂する人々を見るに、どうやら私の理解が及んでいないところがあるようだと思い。意識的に多くの映画作品に触れるようにしてきたのだが、結局のところ結論はそういうことである。人生を変える映画などと言うものはない。
それどころか、気持ち悪い、人を洗脳する意図を持ったとしか言いようのない作品が少なくない。トップガンマーヴェリックとか、そもそも前作品の無印トップガンからしてそうである。臨場感を持って劇場で上映される映画作品、何が善で何が悪なのか、浅薄な善悪二元論を唱えるような映画が多くなっているようにも思われる。アメリカ映画に多いような気がする。気持ち悪い。
これが売れている理由は分かる。
世の中には、YouTube広告のダイエットサプリとか、金運が上がる方法とか、そういうのに金を落とす連中がいる。
この本の内容は、古今の自己啓発書に書いてあることの、ほんの表面だけをさらったようなもので、何の新規性も無い。
で、そういう誰でも書けそうな薄っぺらい内容を、全く無関係な学説や史実で権威付けしている、ソーカル論文みたいな本である。
適切なデータを示さずに学説の奇抜さを競ってる社会学系の学者・評論家とか
疑似科学でも何でもいいから児童に自分たちの思う道徳を押し付けたい教育業界の人など
離島とか山陰あたりの漁村とか行くと風景が根本から違うよな。誰かが賢しらにデザインしたのではない、生活上の要請から出来上がった建築様式。カッコつけた言い方だと「ヴァナキュラーな意匠」とか言ったりする。
基本的に第一次産業しかなく、つまりみんな同じ暮し方で、同じ材料と技術で作られることによる統一感。美しい。
そういう辺境に残るヴァナキュラは、ほんの少し前までは日本中にあった。
それがメーカーハウスやロードサイドの吉牛やブッコフの看板の「ファスト風土」に塗りつぶされてしまった。けしからん。残念だ。……みたいなことをいう「専門家」がいて、その浅薄な論をさらに単純化した俗論に行政や一部一般ピープルが踊る昨今だ。
土地ごとの伝統や個性を大事にしようとかいって京都ではローソンのカラーをシブくしたり倉敷では公共建築をやたらなまこ壁柄にしたりする。そんなの単なるハリボテだよね。
「生活上の要請による様式」を、生活が変わったのに形だけ保存することには意味がない。
ベッドタウンやロードサイドの光景だってリアルな人々の暮らしの反映であって、見方によれば美しいとすら言える。
さらに言えばベッドタウンや団地自体がいまや高度成長時代の歴史遺産になりつつある。
消えつつあるものだ。
風景は人の都合でどんどん移ろうものだし、どのように変わってもそれは基本的に「いいもの」だ。人間の暮らしがそこにある限りは。鳥の巣やアリの巣がどっかおもしろいように人の巣はおもしろいし、正しい風景とか間違った風景なんかないんだよ。
トランスセクシュアルとかトランスジェンダーとか性同一性障害とかの
生まれ持った性別と「自認」が異なる状態(性分化疾患は別)って
自分が自分を何者だと思うかの問題として語られがちなんだけどもそれはウソで
常に「対社会」の問題、つまり自分が他人から何者だと見られたいかということなんだと思う。
自分は自分でしかないのでもともと自分の心そのものに性別はない。自分の精神の働きについて「男(女)特有の考えだな」というバイアスを知覚することはない。
別の言い方をすれば性別は文字通り属性であって自分自身ではない。「日本人である」とか「昭和生まれである」とかと同列のものだ。
性別は対社会の局面でしか現象しない。「私の心は本当は男なのだろうか、女なのだろうか」みたいな問いには意味がない。「私は男(女)として見られたい」があるだけ。
ぱっと浮かんだのは教養の有無だと思う。
うちの妹は都内有名私中高一貫校、大学に通っていたがホストにはまっている様子は無さそうだしそういう雰囲気もない。(気が付かないだけかもだが)
知人女性でホストクラブに行った人もいたので話を聞いてみたらイケメンは多かったけど話が薄っぺらくてつまらなかったのでずっとケータイをいじっていたと言っていた。
また、自分自身キャバクラやガールズバー、スナックに付き合いで行くことはあるが水商売の女性と話していても上辺だけのさしすせそ言うだけで正直つまらないと思っている。
標本数が少ないのでなんとなくレベルの話だが若くしてホストクラブにはまる女性と言うのは
・自分の話を聞いてほしい(周囲からの孤立化による?)→精神的に不健康
・イケメンに肯定してほしい、認めてほしい(ルッキズムへの陥り、異性交遊の免疫の有無)
・知的好奇心、探求心がない
あたりに該当する人なのではないだろうか。
そして教養が無ければホストの浅薄さに気がつけないので沼にハマっていくのではないかなと思った。(教養があっても精神的な疲労等の要因があれば気がつけない可能性は大いにある。)
https://twitter.com/chosakukenho/status/1635779685593546752
@chosakukenho
家事育児負担が女性に偏っているという内容に対し、家計を維持するための労働が男性に偏っているという批判を認めない場合、家計を維持するための労働が男性に偏ったまま家事育児負担を男女均等にすることとなり、男性が過労死することになります。
津野 香奈美 | Kanami Tsuno, PhD, MPH
@KanamiTsuno
Whataboutism: 自分の問題点を指摘されたと感じた時に「あなたはどうなの?」と相手の欠点を指摘することで本来の自分の問題点に関する議論を避け、相手を攻撃すること。
例)家事育児負担が女性に偏ってるという内容に対し、家事育児していない男性が「女は力仕事できないじゃないか!」と言う
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全く浅薄です。
フェミニストは有識者どころか思考能力がない。だから失敗するのです。
だがまだもっとすごい。
ジグザグ
@dennokoziguzagu
返信先:
@chosakukenho
さん
有馬とかもそうなのだが、「著作権法コンメンタールの執筆者」、「ペギっ子」とかの身内で論争して完全「論破」してからネットに這い出てきてくれないかなあって。
ジグザグ
@dennokoziguzagu
·
返信先:
@chosakukenho
さん
他の「著作権法コンメンタールの執筆者」や「ペギっ子」は見て見ぬ振りだろうから、「オグリン」の方からしつこく絡んで「討論」を仕掛けないと乗ってくれないからじゃね?ハーバードでは学生、教授陣が率先してラムザイヤーボコるが、早稲田では望むべくもないから有馬から突撃せんかいという理屈。
@chosakukenho
·
返信先:
@dennokoziguzagu
さん
著作権法コンメンタールと全く別の話題を表現する際に、著作権法コンメンタールの執筆者と前もって討論する必然性が全くみえてこないのですが。あなた、自分が属する集団と前もって議論した上でその投稿をしているんですか?
ジグザグ
@dennokoziguzagu
·
返信先:
@chosakukenho
さん
おや、プロフで「著作権法コンメンタール」の看板掲げながらまったく別の「政治活動」に熱心な「オグリン」さんじゃないですかあ。
@chosakukenho
·
返信先:
@dennokoziguzagu
さん
ジグザグ
@dennokoziguzagu
·
返信先:
@chosakukenho
さん
ならこっちの提案も「別に何の問題もないですよね。」ということですね。
@chosakukenho
·
返信先:
@dennokoziguzagu
さん
ジグザグ
@dennokoziguzagu
·
返信先:
@chosakukenho
さん
そうそう、そういう感じでリアルで法曹関係に突撃してて欲しい。看板で掲げてるくせに「著作権法コンメンタールの執筆者」に限定されたくないというなら裁量を認めるのは吝かではないので
https://anond.hatelabo.jp/20230316083855
強姦等が性暴力系の撮影罪だとすれば、パンチラは純粋盗撮系の撮影罪とでも言えようか。まず撮影罪の全般の定義は以下となる。括弧の位置は読みやすいように文の後に移動させた。
(一)正当な理由がないのに、ひそかに、次の(1)又は(2)に掲げる姿態等のうち、人が通常衣服を着けている場所において不特定又は多数の者の目に触れることを認識しながら自ら露出しているものを除いたものを撮影する行為
(1)人の性的な部位等又は人が身に着けている下着※のうち現に性的な部位※を直接若しくは間接に覆っている部分をいう。
※下着は通常衣服で覆われており、かつ、性的な部位を覆うのに用いられるものに限る。
正当な理由なく、本人が隠すつもりでいる下着を、撮影したら犯罪(盗撮)とみなすという内容である。もっともである。個別に読んでいこう。
「正当な理由」というのは、例えば記念撮影をしたらたまたま後ろが階段でパンティが撮れてしまったとか、そういった偶発的な撮影までは含まれないように考えたものだろう。この線引きは、例えばうっかりカメラの電源を切り忘れていた等は違法か?反対に、うっかりが何でも通ってしまうとザル法なのでは?といった議論がされるものと思う。すでに過去の議論においても、例えばデジカメの性能が大幅に向上して100億画素やそれ以上が普及機となってきた場合、一見して花鳥風月などをメインの被写体としたように見える映像だが、背景にわずかに映り込んだ露天風呂の女性客を切り出したら1000万画素くらいあるかもしれず、それは「正当な風景写真」だと抗弁され得るか?といった点まで考慮されたようだ。(増田でわかりやすく例え直ししている)
「目に触れることを認識しながら自ら露出しているものを除いたもの」も集合写真でのしゃがみパンチラなどは本人が露出している感覚があるのか?肩からブラ紐が出ている、ズボンの腰の部分からパンティのウェストゴムが出ている、等はきちんと除外できるか?といった議論がされるものと思う。
下着の「通常衣服で覆われており、かつ、性的な部位を覆うのに用いられるもの」は、AND条件であるため、見せブラや、極端なミニスカに合わせるための見せパンなどを除外するための規定だろう。すでに「自ら露出しているものを除いたもの」とあるが、パンティ全体を自ら露出しているのか、あるいはチラッと見えているのか、など条件を整えたものと思われる。考えにくいがパンティが膝までずり下がり、辛うじてスカートで隠れている状態は「自ら露出」しておらず、「通常衣服で覆われ」ているが「性的な部位を覆う」状態になっていない。そのためその膝パンティ状態があまりにおもしろいので、出来心で少し低めのアングルから膝パンティ部分だけをこっそり撮影した人がいたとしても、この場合は合法になるという条文である。(もちろんお尻などを撮影したら違法)
こうした議論について、部会では車の運転が著しく速そうな名前をした先生など盗撮罪に関する第一人者が議論しており、かなり具体的に煮詰まっている。そのため私のような浅薄な突っ込みは議事録ベースの議論に入る手前の予備会などですべて排除されていると思われるが、法律にするかどうかは国会議員の裁量である。国会議員の仕事の上で大きな比重を占めるものは法律と予算である。しかも政府側の役職に就いた場合には旧帝大クラスの知力を持つ各省庁のキャリア官僚が家庭教師的にレクに入ってくれるわけであり、10年単位で議員歴のある人はかなり法律に詳しくなっていることがある。(どこまで行っても立法サイドであるため、法曹サイドとはまた違った視点だが)
ただ、撮影という行為はスマホの普及によって多くの人とって身近な行為となっており、昔の銀塩カメラのように一家のお父さんだけがシャッターを切るという時代ではない。また、マスコミなど知る権利との関係も強い。そのため政治家に対する批判報道への抑止として撮影罪を持ち出すとか、左翼団体への立ち入り捜査の際に彼らが公権力の監視のためにビデオ撮影(オウム真理教でもよく見られたもの)に対して転び公妨的に別件逮捕できてしまうような可能性を残せば、リベラル系議員も反対に回る可能性もある。そして前述したように撮影に加えて配信・記録に関わる技術の進展も早い。こうした点から立法の難易度はかなり高いと言えるだろう。不同意性交罪も確かに日常生活のリスクを増大させるが、撮影と比べればうっかり違法行為に手を染める可能性は低いと思われる。すくなくとも普通の女性の大半は加害側になることはまずないだろう。一方で撮影は老若男女の誰もが、幼稚園児から80歳過ぎまでその撮影の対象が大丈夫か?という点を求められる犯罪であることから、しっかりと考えていく必要がある。
だからこそ主張したいのは撮影罪を罪とする議論のフレームの不十分さである。議論に至る流れは大きく2つあった。本稿でもそのように述べてきたつもりであるが、ひとつは厳然たる性暴力の一環として行われる撮影を明確に罪とすること。そしてもう一つが撮影だけを行うパンチラなどの純粋盗撮も撮影罪に含めようとする流れである。性犯罪部会のフレームとしてまず性暴力が中心にあり、その周辺犯罪として撮影罪が含まれる形となったのだろう。その際に性暴力系の撮影罪に加えて、パンチラも一緒にして検討してしまおうという感じに議論がスタートしたように感じられる。(※盗撮も広い意味では性暴力だと言う人もいるかもしれないが、ここでは記述を単純化するためレイプなどを性暴力とする)
しかしながら、オーバルコースを車でぐるぐる回るのがうまそうな先生など国際的な盗撮規制の動向をよく知る専門家もいらっしゃるのに、盗撮とは何か?という点の議論が不十分であったように感じる。それはもちろん性犯罪に関する部会という枠組みからすれば仕方のないことだが、専門家の方々であればこそ、性犯罪ではない撮影罪とのすみわけが十分か、部会ではどこまで語れるが、語れない論点としては誰がどのように総会で議論するのか、といった申し送りが必要ではなかったか。(ただし最終の第14回の議事録は作成中のため閲覧できてない)
例えば増田の削除稿に対しても「女性に男性が電車内で盗撮されたら」というトラバがあった。このように誰かを嘲笑するような盗撮は道徳的な批判は受けるだろうが、今の日本で罪とすべきとまで考える人は少ないだろう。また、人前に出るということはそれは肉眼では見られるということであり、仮に隠したい身体的な特徴などがあっても隠そうと思えば隠せるものである。ハゲが恥ずかしければ帽子をかぶることもできるだろうし、もしそのハゲが撮影の気配を感じることができれば「やめてくれ」ということもできる。そもそもそのハゲがハゲを撮影されることを刑法で罰すべきと感じるほど強く恥じているかどうかは個人差が大きい。ハゲにプライドを持ったハゲである可能性もある。折しも2023/3/14には路上生活者の女性をコンビニに連れ込み、何でも買ってあげると噓をついて代金を払わず、その嫌がらせに困る様子をtiktokに流した行為で10代少女2名が書類送検された。この一連の行為を撮影罪に問わずして、何が撮影罪なのだろうか?本件の罪状はコンビニに不当な目的で立ち入ったとする「建造物侵入」であった。建造物侵入は前述したリベポル、迷惑条例に加えて盗撮の立件に援用されがちな罪状である。特にアスリート盗撮はレーシングブルマなどが撮影ターゲットとなるが形の上では完全な形で衣服を着用しており、観客も目視できる状態であり、撮影して何が悪いのかという線引きの定めにくさが課題となっている。(死刑賛成弁護士で知られる上谷さくら弁護士は、性的自己決定権だけではなく性的尊厳にまで保護法益を拡大することでアスリートも保護できるのでは?と主張しておられて説得力があるが、スポーツに打ち込む姿を「性的」と結び付けにくい点はまだ十分に解決できないように感じる。ただしアスリート盗撮は本稿の趣旨ではないためこの程度にしておくこととする。)そういう訳でアスリート盗撮は迷惑条例が強い京都府などを除いて「建造物侵入」での立件に頼らざるを得ない。
話を元に戻し、読者が意識不明になったとして(特に裸になったり下着が見えているわけではないとするが)、地面に倒れているところを撮影・拡散されたらどうか?これは本人にとって「やめてくれ」ともどうすることもできない状態であり、かつ不名誉な状態を意図せず撮影されており、考えようによっては人権侵害である。
これを保護法益の対象と考えているのがドイツである。ドイツ刑法201a条(撮影などによる高度に個人的な生活空間の侵害)では、もともと風呂やトイレなどのプライバシー空間での撮影を禁じていたが、その空間的な制約を拡張し、撮影されることに無防備な人はそもそも撮影すべきでないとする考え方を採用した。この際に、例えば交通事故の被害者など人事不省な状態も救済されるべきとなっている。すなわち、性暴力の議論の延長線として盗撮もくっつけておきました、という議論ではなく、意に添わぬ撮影という行為の全般に根底からしっかりと向かい合ったと言える。2015年に成立したこの条項は、2020年には死去した人の撮影まで保護を広げており、ドイツ国内での支持を得ながら問題なく運用されていることが窺われる。そうでなければ死者の追加といった発展的な議論よりも、もっと異なる姿に修正する議論がされていただろうからである。ただし201a条は不完全だとする意見もあり、後日184k条としてパンチラ撮影を罪とする条項が別に追加されている。しかし議論の順番としてはそもそも個人の基本的な権利として撮影される・されないの議論がしっかりとされ、それを5年運用した上で不十分だった点を追加的に立法しており、ついで等ではなく順を追って大きなものから小さなものへのしっかりと立法したドイツのプロセスこそあるべき姿であると感じる。
それでもマスコミの事件報道などで意識不明の人物を撮影するのが認められるか?といった議論がドイツで続くようであるが、日本もそのあたりのルールをマスコミの自主規制に任せるのでなく、いつか自分が事件報道の対象として被写体となるかもしれない、あるいはリテラシーが未発達な小中学生がそうした被写体を撮影しようとしたときに、撮影されない権利というのはどういうことかを説く社会を目指すべきだろう。このような視点に立ち、パンチラ盗撮とは縁遠い立場の人々も含め、社会で幅広く撮影罪の在り方、加えて撮影するという行為で得られる利益は何なのか?などまで議論すべきではないだろうか?
そうした議論は法制審議会の議事録からは窺われない。ご機嫌なラップタイムを刻みポールトゥウィンを決めそうな専門家の先生も執筆陣に名を連ねておられる厚い本ではG7のいくつかの国での動向が紹介されているし、その条文の日本語訳は法制審議会刑事法(性犯罪関係)部会の第1回会議(令和3年10月27日開催)の配布資料6、諸外国の性犯罪関連規定(仮訳)にも含まれている。例えばイギリス性犯罪法67a条ではVoyeurismすなわちパンチラを撮影したり鏡で盗み見たりすることが犯罪と規定されている一方で、フランスには盗撮規定がないことや、カナダでは獣姦は禁止されている一方で盗撮は規定がない各国の考え方の違いが垣間見える。
∩_∩ (・(ェ)・ )クマー
また、アメリカではミシガン、ニューヨーク、カリフォルニアの各州が代表して紹介されているが、盗撮に関して定めたテキサスの州法に関して違憲訴訟の提起があり、一審となる連邦地方裁判所では合衆国憲法修正第14条「如何なる州も法の適正手続き無しに個人の生命、自由あるいは財産を奪ってはならない。」に照らして違憲であるとの判断があった。ただし控訴審では合憲とされている。そうした動向については配布資料の直訳だけではなく、CLJなどの専門誌に寄稿もあった。法制審議会のメンバーであれば、そうした文献にアクセス可能な立場におられる方(というか著者じゃん……。)もいらっしゃる気がするが、議事録を斜め読みした範囲では性犯罪部会の枠組みを超えての撮影罪とは?の議論がなく、迷惑防止条例やリベポル法、不法侵入など先行する法律と重複しないための配慮の議論の配分が多かった点は残念に感じた。
そもそも部会での議論に関して、強姦などの直球の性犯罪の議論が重視されたためか、議事録を拝見した限りでは撮影罪については時間不足であるように感じた。もちろん被害の甚大さでいえばその通りであるが、
(続き)
親はあの手この手で食べさせようとするが、今思い返せば悪手ばかりだった。
ビンタの痛みと恐怖の方が口腔内に広がる腐敗物に等しい味覚臭覚に勝る。
お蔭で今もセロリは食べられない。
臭いと味が嫌いなのもあるがビンタされた時の不快感をあの青臭さを嗅ぐたびに思い出すからだ。
更に父親と食事すると叩かれるかもしれないという恐怖や不安から他人に笑われるぐらいの早飯の悪癖までついてしまった。
母親が試みた古典的な手法は細かく刻んで好物のカレーやハンバーグに入れるというものだ。
子供の味覚を甘く見過ぎだ。
余談だが、太平洋戦争時に殺処分命令を下されたかわいそうな象のジョン、トンキー、ワンリーは毒入りジャガイモに手をつけず飼育員達はその賢さに驚かれた。
果たして巨獣達は毒殺を人間が企図したと認識しての抵抗ではない。
単純に臭いが変わるのだ。
なぜ相殺できると思うのか。
賤しい人間共が実に短絡的で愚かだったのだ。
話を戻すが、ハンバーグに明らかに嫌いなピーマンのエグみが充満して食えたものではない。
よくも好物を美味く食べるという喜びを奪い、穢したな!
湧き上がる憤りと悲しみは至極当然の感情であり、抗議は正当なものである。
母親は自らの浅薄な企みを恥じ、謝罪とともに不純物のないハンバーグを作り直して赦しを請うべきだ。
結果は
「文句があるなら食べるな!」
大学進学時に親元を離れたが、仕送りもなく困窮した学生生活を送っていた。
いい加減飽きてきた。というより明らかに体が拒絶反応を起こしている。ウンザリだ!と。
一応カロリーは保っていたが飢えていた。
そう、飢餓であったのだ。
生卵も大嫌いだった自分だが、その学生が食べる卵かけご飯がとても美味そうに見えたのだ。
値段もカップ麺と変わらなかった事もあって、翌日勇気をだして頼んでみた。
ご飯の真ん中に玉子を乗せる穴を箸でほじくり、玉子の殻を割ってのせる。
昨日まではただ気持ち悪いネットリとした生卵が今や米の一粒一粒に纏う金色の衣だ。
若干の逡巡の後に貪り食う。
なんて美味いんだ!
今も進んでは食べようとは思わないもの、やはりどうしても苦手なものは残れど、あれよあれよと偏食を克服できた。
体が大人になって味覚が変化したという要素も多分にあるとは思う。
ところで、かなり後の事であるが、久しぶりに母の料理を食べて衝撃の事実を知った。
1月末日をもって、北海道帯広市にあった百貨店「藤丸」が閉店した。
創業は明治33年で、122年間経営したことになる。このあたりではよくあるパターンで、開拓地で呉服商で立身し昭和初期にデパートへと展開してきた地元の百貨店だった。
例えば釧路市の丸三鶴屋や野付牛(北見)の丸い伊藤と系列は異なれど同じような環境で、開拓地の百貨店として成長してきた。
諸賢ご存知の通り、百貨店などという業態は今日び全く下火となっている。
北海道の田舎においては高度経済成長期以降、郊外に新興市街地が伸長し、多くの人が自動車で移動する時代になった。
そして平成10年の大規模小売店舗法の廃止、大規模小売店舗立地法の制定が運命を定めた。
この20年、みんな車で郊外の大規模店舗に行く。「中心市街地」の意義は消えた。
1月に入ってから藤丸は連日客でごった返し、最終日には閉店後まで人々が店に集っていた。
藤丸に入っている店の常連だったり日常的に地下食品街で買い物をする人ならわかる。
あるいは藤丸に実際に働き、藤丸と共に生涯を送った人も惜別の念を抱くだろう。
藤丸は文化催事も多かったから、藤丸で展示や展覧会をした人々も特別な思いがあるだろう。
藤丸を外部から支える市民団体もある。そうした主体的に取り組んできた人たちはさぞや残念だろう。
けれども、そうじゃない人が大半なのではないだろうか。
なぜなら、如上のような日常的に中心市街地に赴き消費や活動をしている人が本当に十分に多ければ、
そして当然閉店などとならなかったはずだ。
閉店間際に賑わいを演出した人々は、普段は自動車で郊外の広い駐車場のあるヨーカドーやイオンに行っている。
そんな人たちがマスコミの取材に答えて「残念です」とか「寂しいです」とかは、決して言ってはならないセリフなのではないかと思う。
言葉と態度が噛み合っていない。私はここに大変な違和感を覚える。
出てくる思い出は子供の頃の昭和や平成初期のキラキラした思い出ばかりで、例えば110周年120周年の話題はほぼない。
これは、この人たちが長じてから藤丸で思い出を残してこなかったからに他ならない。
よく子供の頃の思い出だけをいけしゃあしゃあと言えたもんだ、と思う。そしてそれをありがたがるマスコミの脆弱な報道イメージもおかしい。
近頃の思い出がないというのが問題の本質であると思うし、そもそも昔のことしか話さない人は藤丸の傷口に塩を塗っているように思える。
なぜ、この20年くらい、平成の後半まるまんま藤丸はそこに間違いなくあったのに、そこで思い出を残さなかったことに無自覚なのか。
そしてその無自覚さでなぜ「藤丸がなくなって残念です」と言えるのか。
地元出身のフリーアナウンサー安住紳一郎が以下のように述べている。
https://news.yahoo.co.jp/articles/433f558335f529f99b35f767731703687434e508
「ネットショッピングや郊外のお店が便利でお客さんがそちらに流れていることはよくわかります。私たちも便利とか安い以上に自分の残したいお店は、ちゃんと不便でも高くても買いに行く消費行動がこれからきっと自分たちの理想とする社会の実現に関わってくるんじゃないかなと思います」
なぜ他の百貨店と比べて十分な時間的猶予があったのに、地元の人間は藤丸を存続させるような消費行動をしてこなかったのか。
そして、なぞそうであるのに(直接携わってきた人は別にして)、「残念です」「ありがとう」などと安直に言えるのか。
この点を、本当に「残念」と感ずるならば20年くらい考え続けてこなければならなかったはずで、「残念」と言語で言える人は、少しでもそのような事柄に携わってきた人だけなのではないだろうか。
普段イオンで買い物してるくせに「残念」はおかしいのではないか。
だから私は、この期に及んで藤丸がなくなってしまって残念とは思えないし寂しいとも思う資格がない。
なぜなら私はイオンで買い物しているからだ。身体が残念がっていないのだ。
中心市街地をどうするかは各地域で本当に難しい課題で、実際のところ商工会や経済界の人々が何年も策を講じながらも充分な成果を挙げられていない。
こんな難しい課題を、藤丸がなくなっただけのこのタイミングでどうにも論評などできないのだ。
だから浅薄な「昭和の思い出」や「従業員の裏話」的なものばかりが踊る。
実はマスコミも20年間、中心市街地の活性化の話題を見ているようで見てこなかったのではないか。
結局は自分には関係がないから、人々がどこでどう買い物しようがそれを報道すればいいだけの話だから、充分なコミットをしてこなかったのではないか。
藤丸がなくなったのは1月31日だが、問題は20年間継続しており、以降も続いていく。
藤丸がなくなっただけのタイミングで急に問題を一夜漬け的に取り上げても、いずれも浮ついた論にしかならないのだろう、と諸報道をみて思う。
1.アルバムの購入特典グッズのデザインが赤十字を想起させ法令違反の可能性が指摘される
レコード会社「グッズは椎名林檎に許可取らずに勝手に作ってましたわ。デザインミスっててメンゴメンゴ」
これさ、多少椎名林檎の株が落ちてでも「自身の認識不足だった」って椎名林檎が謝ってた方がダメージ少なかったんじゃねぇの?
俺もデザイン見てたけど赤十字を想起させるところ以外はけっこうカッコいいデザインだったわけよ。
まぁ俺だって椎名林檎が直接デザインしてたとまでは思わんでも、椎名林檎が仕切ってやってると思ってたわけ。
赤十字を模したデザインのグッズやコスプレが法令違反だって知らなかったのはちょっとダサいけど
(最近はハロウィーンのコスプレで毎年警告されてる内容でもあるし)
それでも「椎名林檎の世界観を表現したグッズみたいな顔してたけど実はレコード会社が勝手にやってたんですわ」みたいな結論はあまりに浅薄だと言うか、本当にそれでよかったの?って思ってしまう。
実際に「グッズは椎名林檎を通さずにレコード会社が勝手にやってました」ってことなら結局、椎名林檎はレコード会社の言いなりのグッズ売り操り人形だったってことになるし、そうじゃなかったってことなら「独自の世界観を売りにしてるくせに問題が起きたらレコード会社にケツ拭いてもらって自分はダンマリ決め込むやつ」っていう卑怯者ってことになっちゃうし。
仮に「レコード会社が勝手にやってました」にするにしても「責任者」としての椎名林檎が出てきて幕引きを図ってほしかったというか、なんでこんな幕引きにしちゃったんだろうって素直に疑問に思う。