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2019-07-26

「終わりなき日常の終わり」とかいう終わってるコラム

アニメなんてなくても生きていける。

そう論じるのは簡単なことだ。

だが

人間そもそも不完全なものであり、合理性のみで人生を全うすることは難しい。

それが出来る人間もいようがその数は決して多くない。

アニメに限らず、ゲーム、酒、タバコ、異性、ギャンブル、車、ゴルフ音楽アイドルスポーツ観戦、特撮映画小説

多くの人間一見生産ものにひと時その身を浸して癒やしを得、日々の暮らしにおける心の糧にしているものだ。

まずこういったもの批判をすること自体禁酒法時代アメリカ天保の改革風俗取締令のようなナンセンスさがある。

すでに多くの批判が寄せられているが、大阪芸術大学純丘曜彰教授の例のコラムの改稿前のものを長くなるが引用し、思うところを述べていきたい。

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終わりなき日常の終わり:京アニ放火事件の土壌

純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

/夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。/

まりに痛ましい事件だ。だが、いつか起こると思っていた。予兆はあった。たとえば、16年の小金井事件。熱烈なファン豹変し、本人を襲撃。アイドルアニメは、そのマーケットクリティカルな連中であるという自覚に欠けている。

もとはと言えば、1973年手塚プロダクションの瓦解に始まる。同じころ、もう一方のアニメの雄、東映労働争議で多くの人材放出。かれらは、それぞれにスタジオを起こした。だが、これらのスタジオは、アニメ製作ノウハウはあっても、資金的制作能力に欠けており、広告代理店テレビ局の傘下に寄せ集められ、下請的な過労働常態化していく。

そんな中で74年日曜夜に放送された『宇宙戦艦ヤマト』は、視聴率の低迷以前に予算管理製作進行が破綻して打ち切り。にもかかわらず、時間帯を変えた再放送で人気を得て、77年に映画版として大成功。当初はSFブームと思われ、78年の『銀河鉄道999』や79年の『機動戦士ガンダム』が続いた。しかし、サンリオ資本キティフィルムは、80年に薬師丸ひろ子主演で柳沢きみおマンガ翔んだカップル』を実写化し、SFではなく、その背景に共通しているジュブナイル、つまり中高生モノの手応えを感じており、81年、アニメに転じて『うる星やつら』を大成功させる。

このアニメの実際の製作を請け負っていたのが、手塚系のスタジオぴえろで、その応援として、同じ手塚系の京都アニメーション前身が稼働し始める。そして、その後のアニメ業界大勢の方向を決定づけたのが、84年、この監督だった押井守映画オリジナルストーリーうる星やつらビューティフル・ドリーマー』。SF色を取り入れた学園コメディで、学園祭の準備が楽しくて仕方ない宇宙人女の子ラムの夢に世界が取り込まれ、その学園祭前日を延々と毎日、繰り返しているという話。

アニメには、砂絵からストップモーションまで、いろいろな手法があり、セル画式だけでも、『サザエさん』や『ドラえもん』のようなファミリーテレビ番組はもちろん、『ドラゴンボール』や『ワンピース』のような人気マンガを動かしたもの、『ベルサイユのばら』『セーラームーン』のような少女マンガ系、『風の谷のナウシカ』や『AKIRA』のようなディストピアSFさらにはもっとタイト大人向けのものもある。

にもかかわらず、京アニは、一貫して主力作品は学園物なのだ。それも、『ビューティフル・ドリーマー』の終わりなき日常というモティーフは、さまざまな作品に反復して登場する。たとえば、07年の『らき☆すた』の最終回24話は、『BD』と同じ学園祭の前日。エンディングでは、あえて『BD』のテーマ曲を下手くそに歌っている。つまり、この作品では、この回に限らず、終わりなき日常に浸り続けるオタクファンをあえて挑発するようなトゲがあちこちに隠されていた。しかし、「エンドレスエイト」として知られる09年の『涼宮ハルヒの憂鬱』2期第12から19話までとなると、延々とほとんど同じ夏休みエピソードが繰り返され、『BD』に悪酔いしたリメイクのような様相を呈する。

もっと言ってしまえば、京アニという製作会社が、終わりなき学園祭の前日を繰り返しているようなところだった。学園物、高校生サークル物語、友だち話を作り、終わり無く次回作の公開に追われ続けてきた。内容が似たり寄ったりの繰り返しというだけでなく、そもそも創立から40年、経営者がずっと同じというのも、ある意味、呪われた夢のようだ。天性の善人とはいえ社長の姿は、『BD』の「夢邪鬼」と重なる。そして、そうであれば、いつか「獏」がやってきて、夢を喰い潰すのは必然だった。

なぜ学園物が当たったのか。なぜそれがアニメの主流となったのか。中学高校は、日本人にとって、最大公約数共通体験からだ。入学式修学旅行学園祭卒業式教室体育館、登下校。だが、実際のファンの中心は、中高生ではない。もっと上だ。学園物は、この中高の共通体験以上の自分個人人生空っぽな者、いや、イジメ引きこもりで中高の一般的共通体験さえも持つことができなかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすがとなってしまっていた。それは、いい年をしたアイドルが、中高生ガイ制服を着て、初恋さえ手が届かなかったようなキモオタアラサーアラフォーファンを誑かすのと似ている。

夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。グッズを買い集め、「聖地」を巡礼し、そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。それが拒否されれば、連中がどう出るか、わかりそうなものだ。

『恋はデジャブ』(93)という映画がある。これもまた、同じ一日をループで繰り返しながら、主人公精神的に成長するという物語。この話では、主人公だけでなく、周囲の人々も同じ一日を繰り返す。つまり主人公の成長を待ってくれる。だが、映画と違って、現実は、そうはいかない。終わりの無い学園物のアニメうつつを抜かしている間に、同級生は進学し、就職し、結婚し、子供を作り、人生を前に進めていく。記号化されたアニメ主人公は、のび太カツオも、同じ失敗を繰り返しても、明日には明日がある。しかし、現実人間は、老いてふけ、体力も気力も失われ、友人も知人も彼を見捨てて去り、支えてくれる親も死んでいく。こういう連中に残された最後希望は、自分永遠の夢の学園祭の準備の中に飛び込んで、その仲間になることだけ。

起業する、選挙立候補する、アイドルタレント芸人になる、小説マンガの賞に応募する、もしくは、大金持ちと結婚する。時代のせいか、本人のせいか、いずれにせよ、人生がうまくいかなかった連中は、その一発逆転を狙う。だが、彼らはあまりに長く、ありもしないふわふわした夢を見させられ過ぎた。だから、一発逆転も、また別の夢。かならず失敗する。そして、最後には逆恨み逆切れ、周囲を道連れにした自殺テロ

いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身もまたその夢の中毒に染まるなどというのは、麻薬の売人以下だ。まずは業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別し、しっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。

まずはこの業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別する必要がある。もう学園祭は終わったのだ。休もう。番組も、映画も、穴を開けて休もう。あれだけの京アニ惨事を目の前にしながら、よりタイトな状況で黙々と規定製作スケジュールをこなそうとしていることこそ、異常だ。こんなときくらい、京アニにかぎらず、業界の関連全社、いったん立ち止まって、仕事待遇業界のあり方、物語方向性ファンとの関係見直しあらためてしっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。

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京アニは学園ものだけ」という言説に対し、傷痍軍人女性戦後を生きる「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の存在意義が改めて燦然と光り輝いているという事実劇場版企画されており以降もシリーズ化されればそれはもう「学園ものだけ」という批判にはあたらない、はずだったのだが…。

また京アニオリジナルの源流をたどればMUNTOという異世界ファンタジーもあり、今後何が飛び出すか、その可能性は無限に満ちていた。

日本オタク作品の大半が確かに学園ものなのは事実であるが、それは世界観の説明が容易であること、多くの視聴者経験していて没入しやすいこと、といったアドバンテージがある、いわば「手堅い」ジャンルゆえ。

京アニは決して裕福な会社であったとは言い切れないし、またアニメ業界自体流行り廃りが激しく、そんな中で一定収益を手堅くあげる選択をとっても批判されるいわれはあるまい。

エンドレスエイトがいまだに物議を醸す存在であるのは事実だが、話題性が1期よりは希薄になりがちな2期ハルヒを「語る」上で大きな要素になっているという点では意義のある存在ともいえるのかもしれない。

終わりなき学園祭としてひとつ象徴となった「ビューティフル・ドリーマー」、

うる星やつら漫画版で約9年、アニメ版で約5年もの長きに渡り「途切れることなく」続いた学園ものであった記憶もあって、ことにアニメに対して古い感性人間ほど「終わりなき青春」を延々続ける印象もあるが、

近年の製作ペースは1クール12話、月にならせば3ヶ月ほどのスパン基準で、シリーズが続いても2クールか長くても4クールあたりが殆どで、1年を通して続くことはもはや一部の例のみで、1クールないし2クールベースの途切れ途切れの発表ペースになっている。しかうる星が3年を超えて学生生活を描き続けたのに対し、妥当時間経過とともに終わり即ち「卒業」があるのも近年の特徴。

しかアニメファンは常にコンテンツ新陳代謝さらされる中で、コンテンツの完結を一区切りとして、同じ制作会社からといって次に提示される新コンテンツを必ず追い続けてくれるとは限らない。

1期で好評だったシリーズ物の2期ですら、1期以上に人気を得るのは実際難しい。

そしてこの御仁が憂うまでもなくアニメ自体卒業していく人間も確かに存在する。

そういった熾烈なレッドオーシャンで波間の泡のように浮いては消えていくのがアニメ制作会社非情なる現実

そんな熾烈な世界にあって健気に誠実に作品を作り続け、また大きな落ち込みもなく良質な作品供給できる会社を存続させてきた、業界良心の要石のような会社京アニであって、それはこういう批判俎上に上げるべき存在ではそもそもない。

事件からかねがね用意されていたであろう「ぼくのかんがえた日本アニメ概論」をここぞとばかりに持ってきたのだろうが、世界的に見ても比類なきほど理不尽な、そして悲惨事件に対して論じるにはあまりにも適さない代物であったと言わざるを得ない。

このケースは犯人特性も含めて極めて異常であり、安易因果応報的論説にははめ込めないほどの歪さ不条理さがあるのだ。いやしくも大学教授を名乗る立場にふさわしくない浅薄さであったと言わざるを得ない。

この御仁が禄を食んでいる大阪芸大は早くからサブカルチャーに特化した今やオタク御用達大学であり、辺境にありながら高い人気を持ち続けているのはそれ故もあるのに、そこからオタク批判をすること自体、あたかも親の庇護を受けながらヤンキーやってるイキリ中学生のようであり甚だ滑稽でしかない。

オタクにイキって食う飯は旨いか

まぁ一方で確かにアニメ作りすぎなのは事実であるが、それは業界全体レベルの話であり京アニを論って言う話ではない。それは数を作らないと食えないという業界構造にこそ問題があり、是正されるべきものであるのは論を俟たない。だが、かつて勇名を馳せた会社ですら粗製乱造ものも見受けられる中、ひとつひとつ作品を売れる売れないに関わらず本当に誠実に作ってきた会社を取り上げて言うことではない。まして「麻薬の売人以下」とまで蔑まれるいわれはない。

あとアニメうる星はその後綺羅星の如く多くの俊英を生み育てる土壌になり、アニメ産業及びアニメ文化嚆矢ともなったという意味で意義深い作品であり、とりわけビューティフル・ドリーマーアニメ制作班の若き野心とオリジナリティに溢れた傑作であったことも付け加えておく。だがそれに内包されている批判精神は今や一周回って定番になってしまい、それをもってアニメ批判オタク批判をするには「今更感」で一杯で陳腐化していることも。


最後

人的物的、そして心理的にも大きなダメージを負い再起すらも危ぶまれる中、これからの再起を表明した八田社長京アニには、深い敬意を表しつつ、事件前に比肩する制作体制を整えるのはおそらくまだ時間がかかるであろうとも、その行く末を見守っていきたいし、微力であれ力添えもしていきたいものである

そして、亡くなられた方のご冥福と、負傷された方のご快癒をお祈りしつつ、件のコラムのような浅はかな批判論を払拭する新たな可能性に満ちた作品群を期待したい。それがいつになろうとも。

2019-07-20

急に宮迫擁護に回るブクマカが心底気持ち悪い

宮迫反社と繋がりがあったのは事実だし、金を受け取っていたのも事実

それを記者会見の有無という一点だけを捉えて吉本批判に回り、まるで宮迫田村が善人だったかのような立ち位置ブコメをつける連中が心底気持ち悪いし、浅薄まりないと思う。

例えば安倍首相が恵まれない人に10募金をしたら、それだけで従来の事実関係全てをうっちゃって、安倍政権擁護に回っていそうな、そういう人間としての浅ましさを感じる。あー気持ち悪い。

2019-07-12

anond:20190711202416

女はつまらない男と付き合うよりモテ男に遊ばれる方が幸せなので、これはwin-win関係だ。

こういう意味不明思い込みが捨てられないミソジニー男って何が原因なの?

A 自分が女を選ぶ基準浅薄で、それ以外の幸せを知らず女もそんなもんだと思いこんでる

B 自分の女の趣味が悪いのを棚に上げて非モテをこじらせている

C 女は遊ばれるような選択しかできない馬鹿しかいない

他にある?想像つかないんだよなこの謎思い込み理由

anond:20190712111632

(続き)

これ、『サマーウォーズ』--これは脚本自体は奥寺さんですけどね--の頃からの一貫して細田さんの弱点だと思うんだけど、いわゆるカギカッコつきの“リベラル”的な女性観・家族観理解がひっじょーに浅薄で浅いんですよ。女性家長、新しい!女性子育てをしていて偉い!男はイクメン気取りだけど全然わかってない!主夫育児なんてドタバタダメダメ!→ね?俺わかってるっしょ?みたいな意識無意識ですね。

まず、イマドキ4歳児に「男の子でしょ!」って言って説得するのは“絶対になし”とまでは言えないまでもちょっと古くさい感覚だと思うし、そんなあさーい理解からサイコ父ちゃん無慈悲既読スルーをする一方で、クソガキ様の自転車練習とき--この父子モチーフもイマドキ手垢つきまくってませんかねえ--急に古くさい父親イメージとなるんですよ。要するに無理してかっこつけて大衆に目配せしているおかげで世界観キャラクターの知能レベルがガタガタなんです。

さらに痛いのがね、ミライちゃんが初めて現われたその動機ネタバレになるから一応伏せますけどね。何か裏事情があるのかなーと思って見てたらそのまんまで、は?なんじゃそりゃ!っていう。何故そこだけ急に価値観昭和中期以前になるのかな・・・?キミ、設定上は一応令和時代を育ったんでしょ・・・?ってかそれ、おもしろい、のですか・・・??

ところが、このミライちゃんについては、はあ、それで・・・?未来のミライちゃんにとっての“今”ならまだしも新生児ときのソレってそんな気にするもんなの?というか、我々はリアリティラインをどこに設定すればよいのかな・・・?となっちゃっていて、行動原理が全くロジカルじゃない!ギャグとしても全くおもしろくないし。そもそもね、あれだけドタバタしてたらいい加減お父さん気付くでしょ?何か不思議な力が働いているのかな?ってか結局“現実”ではどう処理されたの?ってのが全く意味不明、というね。

良かった点も一応言っておきましょう!特にクソガキちゃんクネクネクネクネした動きね!ここに関してはいわゆるアニメーションに疎い私でも「あっこれは気合い入れてるな、金かけてんなー、他の諸作品とは次元が違うなー」と思わせるものがありました!

でもね、それに関しても、「動きリアルっしょ?」「幼児の動きわかってるっしょ?」という自意識が先に見えてしまって素直に楽しめない自分がおりました。ここもなー、動きを見せようというのが先にあって全くロジカルじゃないんだよな。

擁護派の中には、「アニメーションリテラシーちょっと高くないと」「『話がどうこう』って言い出すとやっぱり『つまんない』って感想が出てきやすい」っておっしゃってる方もいるみたいですけどねー。専門学校生卒業制作で作る映画の話をしているならまだしも、あれだけ大メジャー作家アニメーション映画でそれ言い出しちゃったらダメですよ。動きを追求するにしても「話がどうこう」の最低限のレベルクリアしてくださいよ。そこは逃げないでくださいよ。比較するのはちょっと残酷すぎるかもしれませんが、宮崎監督作品高畑監督作品批評アニメーションリテラシーの高低の話出てきますか?そりゃリテラシーが高い方の方がより作品世界を楽しめる。そういうことは往々にしてございます。両巨匠作品もそういった性質のものですし、ポスト世代では、庵野監督作品片渕須直監督作品だってそのように評価できると僕は思います

しかしね、それにしても、あれだけの資本がついていて、ちゃん作品に力があればリテラシーの高低にかかわらず、大衆みながそれぞれの立場で楽しめるものになるはずなんですよ、本来は。

極端なこと言えばリアルアニメーションが欲しいだけならモーションキャプチャーウニウニ動かせばいいだけの話で。僕は、それ以前の、物語としての最低限の誠意やマナーの話をしているんです。

その象徴として最たるものがあの“意識高い系”住宅。あれ、わざわざ建築家の方にオリジナル建築設計発注したとのことですが、あのねえ・・・これ、建築家の方は発注に答えたまでで全く悪くないと思いますが、新生児と4歳児をかかえたサイコ父ちゃん仕事をしながらワンオペ育児をする家があの作りって・・・。あのう・・・控えめに言って狂ってるんでしょうか?これも「ためにする」デザインしか思えないというか、あの家の作りでこの家族--暴れ回る幼児たちやこれから年を取るご夫婦--が一人も頭をかちわらずに天寿を全うできたらそれこそ奇跡なんじゃねえかという(笑)。やっぱりねーそこらへんの視点への気配りも含め、とことん不誠実なんですよ。

あとねー、クソガキちゃんについてもですね、「アナルプラグ(笑)」って書いてきたリスナーもいましたけれども(笑)未来のミライちゃんに対して顔を赤らめて言うセリフとか、“王子様”に対する態度とか、サイコちゃんアルバム唐突に出てくる、結婚式スライドのようなリアリティのないアルバム。あれだけ小綺麗な写真見せといてなーにが“黒歴史ww”じゃい!)への反応とか、カギカッコつきの“東京駅”での振る舞いとか、ラストシーンミライちゃん説明ゼリフとか、もうとにかくその場その場で場当たりでてっきとーにキャラクターを動かしているから、まとめて一本の映画として見させられると賢さの設定がぶれぶれなんです。

特にアナルプラグクダリなんて完全に大人側の欲望目線やんけ、これのどこがリアルな4歳児なんすか!というですね。

ぶれぶれといえば、こちらも指摘しておかなければなりません。

物語の根幹かつクライマックスにもかかわる、世界観の設定ですね。

ミライちゃんがこれまた脈絡のない説明ゼリフでとあるタブー説明するんですが、その数十分後にはたやすタブーが破られる。そして特にペナルティーもない。じゃああの説明ゼリフはなんだったの?観客ポカーンみたいな。

そもそも未来のミライちゃんが全て知ってるように振る舞っているのは何故?とかね。言い出したら切りがありません!

BTTFシリーズのようにパキッと全ての伏線を回収しろとまでは言いませんよ!けどね、作品独自タブーを出したらペナルティもあわせて説明してくれないと意味ないでしょ!ってかそれって創作における最低限の誠意、マナーなんじゃないんですか?

どういうことか。要するに、タブーが実際に破られる?大丈夫か?大丈夫か?あーとうとう破られてしまったー!そのあと一体どうなるー?、という状況があって初めて我々観客は一緒にハラハラできるわけですよ。たとえるならアレですよ。映画グレムリン』ありますよね。1984年。ジョー・ダンテ監督出世作。その中で、例の3つのルール、ありますね。

この作品でたとえるなら、映画内で3つのタブー説明したにもかかわらず、結局ペナルティはよくわからない。映画の後半でギズモが太陽が燦々と照る真っ昼間にグラサンかけてジャブジャブ海水浴をしている。そんで最後最後にそれまでの展開と無関係な第4の設定が唐突にギズモの口から語られる。なんじゃそりゃ、みたいな(笑)。もう一体何がしたいの?というレベルですよ。

世界観の設定自体もね、これ、実は初見とき、クソガキちゃんインナートリップやらセルフセラピーやらの話かとも思ったんですが、どうもそうじゃない。福山ひいじいちゃん東京駅クダリを踏まえると、クソガキちゃんが明らかに経験しえないこと・知りえないことを経験していて、なんでインナートリップルールからも明らかにはみ出している。

あのねえ、4歳児を主人公にすること、オムニバス形式であること、現実と夢、空想あいまいなことって世界観がグチャグチャであることの免罪符には決してなりませんからね。童話寓話不条理ってそういうことじゃあないんですよ。ことほどさように、幼児を、というか人間のあり方そのものなめている所作しか思えません!

細田さん、クレヨンしんちゃん映画版だけでもいいからもう一度じっくり全部見てくださいよ。全てが100%の傑作というつもりはもちろんありません!ありませんけど、幼児主人公であること、ギャグマンガであることを世界観言い訳にしているのはほとんどありませんよ。その上で、幼児幼児性、第一子と第二子関係性、ペットとの関係性、親子が親子であること、夫婦夫婦であること、家族家族であること、などなど、比べるのもホントおこがましくてしんちゃん側に大変失礼な話ですが、大人子供も笑えるギャグも交えつつ逃げずに遙かに高度のレベルで達成してますよ。

クレしんとの対比でいえばクライマックスのアレね。あー出た出た細田演出はいはい。なんて意地悪な僕は呟いてしまったわけですけれども、これもちょっとしたネタバレなっちゃますが、クレしんの某・大名映画監督脚本原恵一ナンチャラ帝国(笑)オトナナンチャラ(笑)の、“あの例のシーン”。これ、見た方はおわかりかと思います。と同じようなシーンをクドクドクドクド・・・。犬まで登場させてクドクドクドクド・・・。そもそも犬ってああやって母犬と別れるのか・・・?違うんじゃねえの(笑)?ってかそれもセリフ説明すんのかーい!見てりゃそれくらい黙っててもわかるわ!それ以前の問題としてに父犬はどこに?ということも含めて、とにかくひっじょーにテンポが悪い!!

あと一つ、これだけは言わせてください。

僕、前から言ってますよね。我々の用語でいうところの、いわゆる一つの“ベロベロバー問題でございます

クソガキたちがおどけた何か面白“げ”なことをやれば面白くなると思ってますよね。テレビではそれでいいかもしれないけど映画はそれじゃあ笑えないんですよ。

なおかつ、それ以外のギャグアナルプラグでしょ!?単に下ネタダメってんじゃないですが、時と場所と見せ方を選んでください。ただただ不快です。R指定なくていいのか?これ、子供に見せてもいいの?という。

特に前半パートギャグが全部が全部ダダ滑りっていうね。

さらに、その滑ったギャグを、全然成長しないクソガキのワガママサイコ両親の立ち振る舞いで上書きして不快感を増させていくという(笑)。もはや“げ”ですらないじゃないか(笑)

うるせー!こちらがお前らを「好きくない」んじゃー!とホント上映中心の中で何度叫んだことか。

そんで全然成長しないサイコ両親が終盤あまーい自己満足セリフを言い合いますよね。はあ・・・。それはまあいいんですが、まずご自分たちのサイコ性に手を当てて顧みていただいて、素晴らしいご両親のご美意識にはお反しあらせられるかもしれませんがご自宅に子供用の転落防止柵をつけるなり、恵まれ収入ハウスキーパー雇うなりしないと死人が出ますよ、なーんてひねくれた僕なんかは思っちゃいますけどね!ええ、ええ、どうもすいませんねえ!ひねくれ者なもので!

え、もうこんな時間時間がない!あと最後にこれだけ。

いわゆる細田演出ね。

これもねえ、今回は残念ながらあざとい部分だけ、“やだみ”ばかり印象に残ってしまいました!

はいカメラパンしました。時間が経過しましたよ。これ省略だよ。映画的でしょ?というのもさー、それはそれでいいと思うし、正直さすがうまい演出だなあと感じたカットも中にはありました!冒頭の息でガラスを曇らすシーンとか、雪のシーンとかですね。でも、これは演出じゃなくて脚本の方の問題かもしれないけど、とにかく登場人物がクドクドと設定を喋る喋る。別に未来の人だからってイコール全知の人じゃないですからねえ?

これもそれなりの理由があれば設定を喋ること自体全然いいんですよ。

さっきたとえにあげたBTTFシリーズのドクとか、顕著な例ですよね。要は、彼は物語構造上、観客が知らないことを「知っている」からタイムマシーンの設定を「知らない」マーティン(=我々)に対して多少くどく説明しても全く嫌みにならないじゃないですかちゃん時間が変わって彼が設定上「知らない」世界のことは観客が知っていても一切説明してないでしょ。

このあたりもなー。知識レベルの設定が全然統一されてない。観客は最初から最後まで悪い意味で置いてけぼり。

たとえばこれ僕からの一つの稚拙提案ですけどね。ひな人形を巡るくっだらねードタバタをどうしてもやりたいんなら、おじいさんのエピソードも、一見するとくだらない代々の言い伝えである迷信的なナニカを律儀に守りました→そうしたらおばあさんとめでたく結婚できました→ミライまでの血脈が繋がりました→だからミライもそれをなぞったのです、ってすればですね、まあ設定のレベルとしてはひとまず統一できるじゃないですか。そのあたりも含めてとにかく“雑”の一言に尽きるんですよ。

あと、これ、感想メールで指摘していたリスナーもいましたけど、父ちゃん側の血筋はガン無視問題ですね。誰しもそうですが、父と母が「両方いて」初めて今の我々に繋がるんじゃねえの?おいしいところ、ドラマチックなところのつまみ食い的な、「ファミリーヒストリー」をそのままやりたいならわかりますよ?でもこの映画テーマって、平凡な一家族の、非・ファミリーヒストリー的な部分にあるんじゃないんですか?

ファミリーヒストリー」的にいってもですね、もうこれ作品の根幹の価値観の話なんですが、サイコな両親とは距離を置き、血縁自分からは繋がず、一人で自己完結してアナルプラグで遊んで暮らす一生は果たして「不幸」なのか?「何かしらの罰を受けなければいけないこと」なのか?という問いにはこの映画、実は全然答えられていませんよね。そのように考える人は、排除され、存在しえない世界となってしまっている。ここ、最初にも述べた“この光景果たしてユートピアなのかそれともディストピアなのか(笑)!”という問いにも繋がるところですが、このあたりも、昨今生産性だなんだとニュースになったりしていますが、イマドキの価値観でいえば、全体としてはどんどん多様な個人価値観尊重する方向に向かっていっていますよね。少なくとも、僕個人はかくあるべきだと考えています。「家族派は家族派」、その立場はもちろんそれで否定しないけれども、一方で「アナル派はアナル派」だし(笑)、「乳首派はもちろん乳首派」(スタッフ爆笑)、本当はね、みんな違ってみんないいと思うんですよ。

このあたりも細田さんの“臆面のない傲慢さ”の意識無意識、いわゆる“やだみ”がどうしても透けて見えてしまっているというか。というよりも、悪いこと言わないからもう細田さんはこれ以上家族のテーマは触らないか、触るとしても設定から脚本からから全部外注して演出だけに専念する方が良いと思いますけどねえ。僕は。

というか、そもそも幸せって他人と比べてしまった時点で大概幸せにはなれないですからね。“あの”東京駅の“あの”新幹線の設定を踏まえるとどうもここはそういう世界ではないようですが。僕はこの世界は断固拒否したいです。絶対に嫌です。別にひとりぼっちでも本人が幸せならそのままで全然いいじゃねえか、というね。僕なんかはそう思ってしまますけれども。

あー時間がない!声優お話とかもしたかったんですけどね。福山雅治さんの意外なはまりっぷりとかね。

結論としては、申し訳ないですが、僕個人は「好きくない」類の映画と言わざるを得ませんが、山下達郎さんの主題歌劇場音響で聴きたい方、幼児アナルプラグを刺して絶頂する場面を超絶作画で見たいという方に対しては・・・・・・オススメです!

(終)

2019-07-11

三体の論評

話題につられて珍しく三体というSFを読んでみたが作品を名乗るのもおこがましい愚書悪書だったので騙されて買わされた鬱憤を晴らすべくいかに愚劣にして悪辣か書き並べる。購入を検討している人に端的に警告するとハリウッド映画によくある知的弱者を喜ばせるための頭の悪い定型表現が嫌いな人は拒絶反応が出るだろう。また実際の人類理論及び種族的進歩を顧みず作者の浅薄無知蒙昧な妄想から逆に進歩をを後退させており極めて愚劣にして悪辣である買ってはいけない。以下解説

2019-05-12

anond:20190511125920

俺も似たような境遇

高校通信に転校、文系私大入学も即中退

ニート後に地元企業入社、そのまま暮らしてる。

給与高くないが休みがとても多く、不幸感なし。

ここまでの人生振り返ってみて思うのは

学校適応できない人種」ってのは

ある一定数は居るのではないか、ということ。

俺は学校行かなくなったとき

いじめられてるのか?」

「何が不満なんだ?」

中退した友人に感化されたか?」

と周囲の色んな人間から設問されたが

別にそんな主だった原因があったわけでもない。

俺には「学校」という水が合わなかった、

ということだけなんだよ。

それ以上でもなければ以下でもない。

現に職場では大きな問題も起こさず、

欠勤するような局面は一度も起きてない。

ただ「学校」というシステムが合わなかっただけ。

因数分解はおろか、掛け算すら怪しい奴が

灘高数学研究会に放り込まれたら精神

異常をきたして逃げ出すのではないか

学校というシチュエーション

馴染めなかったからといって人生終了、

というのは浅薄すぎる考えだ、と伝えたいね

適材適所という言葉があるように人間には

合う水・合わない水があるのだと思う。

行くに越した事ない、ってのは元増田同意だけど。

学校適応できなくても生きていける人間は多い。

無論、生存者バイアスが掛かってるし、

生きていけなかった奴はそもそも

観測範囲に入らないのかもしれんけど。

2019-05-07

anond:20190507021350

それはお前がその程度の浅薄な利用しかしてないからだろw

2019-05-06

anond:20190506190955

キモくて金のないおっさん存在無視する浅薄偽善的な書き込みに対して警鐘を鳴らす目的書き込みをしているだけなので

どちらでも構いませんしもっと言えば積極的に会話を望んでいるわけでもありません

何を発言するかは私も含めて皆さんの個人自由だと思います

2019-04-25

AAAってオタクネット民からは一番遠くて嫌われるタイプの人たちだと思うんだけど

自分はなんか嫌いになれない

あと浜崎あゆみとかも

この感覚はうまく言語化できなくて難しい

平成浅薄DQNへの無意識憧憬なのか

2019-03-27

anond:20190320002956

イヤイヤ、これ凄い気持ち分かるよ。

増田が「教養」とか「高学歴」ってワードを選んだから

角が立ってしまうけど他に形容できる言葉あんま浮かばんのよね。

穏当に言い換えるなら「地頭」や「聡明さ」になるのかもしれん。

この手のタイプの人は、なんというか日頃の一挙手一投足が浅薄浅慮・直情径行なんだよ。

「聞いたことを何でも鵜呑みにしたり、その場の感情に任せて後先考えずに判断しないでさ、

頭使ってじっくり考えるなり、その肌身離さず持ってるスマホ使って調べる努力くらいしましょうぜ。

ほんのちょっと、で良いからさ。」と肩をポンポン叩きながら子供に聞かせるように優しく諭したくなる。

実際にそんなこと言えば火が着いたようにヒステリックにキレ散らかされるので、

その言葉をグッと飲み込むのがまたバカにならないストレスになるんだ。

妻は容姿端麗で性格も良く一緒にいて楽しい

で、俺も男なのでこれも分かるのよねー。ここが凄く辛いところ。

大嫌い、今すぐ離婚したい、金輪際顔も見たくない、とかでは全然ないのよね。

もうちょっと理性的に動いてくれんかな。という極めて単純な話。

常にこちから折れて「ごめん、◯◯ちゃんはそう考えるんだね、それが正しいね、これからは気をつける」と言うしかなく

俺は相手を「年端も行かない子供なんだ」と思い込むことでやり過ごしてるが、詰まる所これは↑と変わらんのだよな。

いずれにせよ、矯正不可能かと思うので、こちらが折れるしかいね。御愁傷様。

2019-02-17

昼飯のスパゲティナポリタンを眺めながら、積年の疑問を考えていた。

それは「なぜナポリタンは赤いのだろうか」という問いである。

簡単に見えて、奥の深い問題だ。

「赤いから赤いのだ」などとトートロジーを並べて悦に入る浅薄人間もいるが、

それは思考停止に他ならず、知性の敗北以外なにものでもない。

赤方偏移」という現象がある。

宇宙空間において、地球から高速に遠ざかる天体ほどドップラー効果により、

そのスペクトル線が赤色の方に遷移するという現象である

まり本来ナポリタンが何色であろうとも、ナポリタンが我々から

高速で遠ざかっているとすれば、毒々しく赤く見えるはずなのだ

目の前のナポリタンは高速で動いているか否か?

それはナポリタンの反対側に回ってみることでわかる。

運動の逆方向から観察することで、スペクトルは青方遷移し、

青く見えるはずなのだ

逆に回ってみたところ、ナポリタンは赤かった。

よってこのナポリタンは高速移動をしていないと言える。

2019-01-02

anond:20190102193903

浅薄道徳観の中では、自己と戦って克服することも困難と言うし、他人を変えようとする不可能も困難というんだよね。

前者の困難は多くの物を産むし、逃げるべきでないと私は思う。後者に取り組むのは行き届かない教育からくる妄執

2018-12-10

ちあきなおみ喝采』の歌詞が嫌いだ

表題の通りだ。俺は昭和60年まれだが、この歌詞を尊んだ昭和人の感性がわからない(あえて術語をでかくするぞ)。

嫌いな理由を端的に述べると2つある。

まず、情景が飛び過ぎなのだ

そして、飛び飛びのシーンそれぞれが象徴的でゴテゴテと飾り立てられている点だ。

一番の歌詞

3つの空間がある。順に見て行くと、

A ステージで歌っている語り手に訃報が届く。

B 訃報の主が語り手を故郷? の駅で引きとめようとした3年前

C 故郷? での教会での葬儀の場面

ついでに二番の歌詞

D 教会白壁

E 故郷? 駅の待合室で、自分のヒットソング聴く

F 舞台でいつものヒットソングを歌う語り手

こう見ると、舞台立ては「都会のステージ――駅――教会――教会――駅――ステージ」と整っているように見えるが、実のところバラバラである

時の操作がめちゃくちゃなのだ

まずAが地味におかしい。

恋の歌歌う私に黒い縁取りの訃報が届くのだ。

冷静に考えるとステージ去ってから訃報を目にするのだろうけど、見かけ上ステージで歌っている語り手に郵便屋が届けたように書かれている。

それだけAの時点で時系列の運びが性急なのだ

そしてB。

Aがおかしいのにいきなり「あれは3年前」とか言い出す。

そしてC

いきなり時が戻り、そして故郷に帰って葬式に出ている。

空間バキバキになっていることが解るだろう。

そして良いシーンをこれでもかこれでもかと持ってくる。「ほれほれ良いシーンどんどん行くよー」的な過剰包装的な過度の装飾。


C-Dへの情景の経過はやや丁寧だ。昼下がりから夕方葬儀が行なわれたのだろう。

そしてE。

駅に戻ってきたのは解るのだが、対称となるべきBの位置と異なる。

B動き始めた汽車に一人飛び乗った:ホームでの出来事だろ

E暗い待合室

Eはラストへの布石になるし、一人になったことを示していて叮嚀な箇所もあるが、しかしどうも空間がずれている。


こんな感じで、情景が性急に飛びすぎな印象を強く受ける。

そして、それがさもありがたそうに語られ唄われる。今でも「昭和名曲」としてありがたがられる。でもそれは虚仮だと思う。

なんつーか、下品表現なんだけど、昭和にわか成金にわか教養人、にわか中流家庭に向けられた、安っぽい感動への舞台立てだなと思うのだ。

いかにも「名曲」のような装いをしているのだがその歌詞は人の死と愛を浅薄かつ性急にそろえただけのものだ。

こうした「インスタントな大作」感が気に食わないということだ。

このあともう少しすると、例えば米米CLUB浪漫飛行』みたいな具体性がほとんど何もない抽象的な歌詞流行る。

こうした傾向は、『喝采』に限らない具体的な情景描写稚拙さ、あるいは陳腐化の反動ではないかと思っている。

2018-11-26

正直なところを云うと吾輩は人間がイヤになったのだ。こんな研究でもしていなければ、ほかに頭の使い道のない人間世界浅薄、低級さに、たまらない程うんざりさせられてしまったのだ。

(略)心理遺伝なんていう三つ児にでもわかる位、簡単明瞭な原則をタッタ一つ証明するために、足が棒になって、脳味噌が石になる程の苦労を重ねなければならぬ。あらゆるタチの悪い因果因縁に、執念深く附纏われて、それこそ地獄の苦しみに堕おちながら、やっと真理の証明が出来たにしても、その報酬として何が残るか。妻子眷族けんぞくに取捲かれてシンミリした余生を送るどころか、その研究が世に出る時は、自分の一生涯の破滅の時だ。飛んでもない野郎だというので、踏んで蹴られて、唾液つばを吐きかけられる時だ。……ザマア見やがれとはこの事だ

2018-11-10

anond:20181110090024

漫画作ってる人はみんな大人だと思うが

大人にもなって真剣文学にのめりこむ人(私のことだけど)も大差ないと思います

小林秀雄も「学問をしてるやつがこの世の中で最も馬鹿だ」と言い切っていました

漫画子供世界の軽薄なもので、その世界も作る人も浅薄ものだという刷り込み存在するのは事実ですが、見つめ直すことも悪くないんではと思います

2018-10-21

ウミウ「生きるのに疲れたう」

ウミウウミウだう」

ウミウ「まず初めに、おことわりしておくう

ウミウ「この日記は、その辺にいる適当大学生が『けものフレンズ』に出てくるウミウの口調を借りて愚痴日記だう」

ウミウ「一応、ウミウデザイナーかい職業副業でやってるう」

ウミウ「てことで、まあその辺のことを踏まえながら読んで欲しいう」

ウミウ「で、ウミウは何を言いたかったんだう」

ウミウ「……」

ウミウ「…………」

ウミウ「……そうだう、生きるのがつらいってことう」

ウミウウミウ最近、生きるのがつらいう」

ウミウ大事なことだから二回言ったう」

ウミウウミウがこうなったのは、たぶん高校卒業間際の冬のことだったと思うう」

ウミウ「その頃、ウミウの家庭事情ボロボロだったう」

ウミウ「母はアルコールニコチンに溺れ、父は神経過敏で物音一つにも激怒し、モノに八つ当たりしてたう」

ウミウ「それを力で押さえつけてしまってはご飯も食べさせてもらえなくなるう。住む場所もなくなるう」

ウミウウミウは無力だったう」

ウミウ「そんな中、ウミウの唯一の救いだった高校というモノが卒業を間近にしたのだう」

ウミウウミウ高校は良かったう。絵を描ける人がいたう。文章を書ける人がいたう。音楽を作れる人がいたう。いろんな学問で全国トップレベルの人がいたう。いろんな趣味を極めてる人がいたう」

ウミウ「彼らはみんな、ウミウにいろんな刺激を与えてくれたう」

ウミウウミウは、そんな日常が大好きだったう。そんな日常があったから、人生に生きる意味があると思っていたう」

ウミウ「でも、高校3年生も終わりに差し掛かりつつあった頃、だんだんと授業も減り、周囲はみんな受験モードへと切り替わっていって」

ウミウウミウは、行き場をなくしたう」

ウミウ「つらかったう。ハッキリ言って、地獄だったう」

ウミウ「一番落ち着けるはずの我が家が一番落ち着けない、というのは案外つらいものう」

ウミウ「その頃、ウミウ毎日首を吊ることだけを考えてたう」

ウミウ「毎晩、家のベランダから空を見上げて、コーヒーを飲みながら死後の世界について考えていたう」

ウミウ宗教科学ウミウを救ってくれるのか、考えたこともあったう」

ウミウウミウ浅薄知識片手に、ウミウはいろんな文献を漁って、いろんな人に話を聞いたう」

ウミウ「でも、ウミウは救われなかったう」

ウミウ「どうしてこの世界は生まれたのか? どうしてウミウは生まれたのか? どうしてウミウはこんな境遇にあるのか?」

ウミウ「その答えを出してくれるものは何一つなかったう」

ウミウ「当然受験には失敗したう。だって勉強なんて全くしてなかったう」

ウミウ「そうやって悶々としてるときウミウは『けものフレンズ』というアニメ出会ったう」

ウミウウミウは感動したう」

ウミウ「こんなクソッタレ世界のどこかにも、ジャパリパークみたいな世界がある」

ウミウウミウはそう思えたんだう」

ウミウ「それが、ウミウの唯一の希望だったんだう」

ウミウそれからウミウはいろいろと頑張ったう。この世界には何か答えがあるはずだ、そう思って」

ウミウ「生の意味を知るために生物系の大学を目指したう。将来どうやって生きるか考えて、一番自分に合ってると思ったデザイナーのまねごとを始めたう」

ウミウ「あと、少しだけけものフレンズ二次創作をやったりもしたうね」

ウミウ勉強仕事の両立は、案外大変だったう。けど、つらくはなかったう」

ウミウ「何かに打ち込める、何かを目標にできる、人から必要とされる」

ウミウ「それがとっても嬉しかったんだう」

ウミウ「そうこうして、ウミウ大学浪人生活は終わったう」

ウミウ「どうにか第一志望の大学には受かって、ウミウは期待に胸を膨らませたう」

ウミウ大学ではどんなすごい人がいるんだろう? どんな風に自分は成長できるんだろう? どんなことが学べるんだろう?」

ウミウ「そう思っていたう」

ウミウ「だけど、大学に入って、1ヶ月が経ち、2ヶ月が経ち」

ウミウウミウは、ある種の絶望感を味わったう」

ウミウ「誰一人、『ついていきたい』と思える人がいなかったんだう」

ウミウ「もちろん、人間として素晴らしい人はたくさんいるう。とっても精力的に活動している同級生研究サークル活動に没頭して成果を出している先輩たち、世界的に有名な教授陣」

ウミウ「彼らは、ウミウとは大違いですごい人種だう」

ウミウ「だけど、ウミウが求めていたのはそういう人たちじゃなかったんだう」

ウミウウミウは、圧倒的な実力で凡人を殴るような天才世界生命意識や……そういうふわっとしたものたちを大真面目に考えて頭を狂わせるような奇才」

ウミウ「そういう人を、求めていたんだう」

ウミウ「でも、そういう人種はいなかったう」

ウミウ大学というのは日本における最高学府だう。そんな素晴らしい機関の中にだったら、きっとそういう人もいるんだ、答えを貰えるんだ、いや貰えなくても論じ合えるんだ……と思っていたのに」

ウミウウミウは悲しかったう」

ウミウ「せっかく浪人間中頑張って勉強して入った大学がこんなんだったんだと」

ウミウ「だからウミウは思ったう」

ウミウ自分が全力で頑張っていれば、きっといつか答えは見つかるって」

ウミウ「そう思ったんだう」

ウミウ「頑張っていれば、いつか何かが起こるだろうって」

ウミウ「そう思って、ウミウはがんばったう」

ウミウウミウは今までの仕事のほかに、いくつかバイトをかけもちしたう。サークルは4つ入って、ほぼ毎日大学に寝泊まりするような状態になったう。同人活動ももっと本格的に始めていって、夏コミにも出たう。講義も真面目に受けて、まあまあいい感じの成績を取ることも出来たう」

ウミウ「そしたらある日、ウミウは手のしびれを感じたう」

ウミウ最初は血の流れが悪いだけかな?と思ったう。だけど痺れはなかなか取れなくて、ウミウ病院に行ったう」

ウミウウミウは、神経系病気頸椎ヘルニアを患っていたんだう」

ウミウ「このまま頑張ってたら、いつか半身不随になるぞって、お医者さんに言われたう」

ウミウウミウは怖くなったう」

ウミウ「結局、バイトほとんど全部やめたし、サークルは1つを残して全部やめたう。しかも、ちょうどその頃は大学夏休み間中で、講義もなかったう」

ウミウ「てことで、ウミウはヒマになったう。そしたら、そこに生まれたのはただの虚無だったう」

ウミウ「また、何も拠り所がなくなった……そう思ったう」

ウミウ「だけど、ウミウにはまだ希望があったんだう」

ウミウウミウは、けものフレンズ同人活動をやっていて、その中で1つ出来た、少し大きめのグループがあって」

ウミウ「そこはすごいんだう。たくさんのクリエイターがいて、たくさんの賢い人がいて」

ウミウウミウ心機一転、そこで頑張ろうって思ったう。もちろんもうムチャは出来ないから、出来る範囲で、だう」

ウミウウミウは……まあがんばった、んだと思うう。一応、なんとなーくリーダーっぽい感じのポジションに収まったりもしたう」

ウミウ「そしてある日、ウミウはそこのみんなに聞いたんだう」

ウミウ「『フレンズにはどんな死生観があると思う?』って。『何か、そういうものを訴えかけた創作物が作れないかな?』って」

ウミウ「さあ、どんな答えが返ってくるんだろう、どんな議論が出来るんだろう……ウミウは楽しみに思ったう」

ウミウ「だけど、返ってきた答えはみんな、『けものフレンズはそういうのじゃない』『求められているものは違う』『グロとか暗い展開とか無理』みたいな答えばっかりだったう」

ウミウウミウがっかりしたう」

ウミウウミウは……ウミウは、いったいどうすればいいんだう」

ウミウウミウは、どうすれば答えを得られるんだう?」

ウミウ「『けものフレンズはそうじゃない』? けものフレンズはそんな浅薄コンテンツじゃないと思うう。少なくとも、そこを議論しなきゃ深みのあるモノなんて出来ないと思うう」

ウミウ「『求められているものは違う』? ユーザーニーズ分析なんて仕事で腐るほどやってるう。二次創作って、そういうニッチなところを攻められるものなんじゃないんだう?」

ウミウ「『グロとか暗い展開とか無理』……。まあ、死生観を語らせる上で、フレンズの1人や2人死ぬのは仕方ないだろうし、暗い展開になるのは致し方ないう」

ウミウ「だけど、そこから目を逸らして何が生まれるんだう?」

ウミウ普段お前たちが食べている食べ物動物死体だう。お前たちが着ている服も動物死体だう。お前たちが生きている環境には、動物の死がごまんとあるう」

ウミウ「けど、動物は何も語らないう。ただ静かにまれ、静かに死んでいくのみだう」

ウミウ「それが、言葉を発し、意識を持って動き回るようになった。それがあの世界の意味であり、意義であって」

ウミウ「当然、フレンズたちもそこは疑問に思ってしかるべきだと思うんだう」

ウミウ「なのに、そこからみんな目を逸らす。なんでだう?」

ウミウ「……ウミウは、どこに行けばいいんだう。ウミウは、どこを拠り所にすればいいんだう?」

ウミウウミウは、今月か来月くらいでそのグループを抜けることにしたう。ウミウがそこにいることへ、意義を見出せなくなったんだう」

ウミウウミウはお道化を演じることに疲れたんだう」

ウミウウミウは本格的にひとりぼっちだう。何もすがるものはなく、何も生きる意味はなく」

ウミウ「ただ、そこにウミウがいるだけだう」

ウミウウミウはもう、疲れたう」

ウミウ「たぶん、少し前だったら『ジャパリパークに行きたい』って切に願いながら、きっとどこかにある桃源郷を夢見て首を吊っていたんだと思うう」

ウミウ「だけど、それすら出来ないほどウミウ世界絶望したんだう」

ウミウ最近ウミウは、ジャパリパーク動物から人間に対する壮大な仕返しにしか思えなくなってきたんだう」

ウミウ「ヒトの汚さ、狡さ、私利私欲

ウミウ動物は、きっとジャパリパークを通して、そういったものを際立たせて。人を絶望させているんだう」

ウミウ「もちろん、それは正当なことだう。人は今まで、どれだけの動物を苦しめてきたんだう?」

ウミウウミウは、希望を失ったんだう」

ウミウウミウには、もう何もない……いや、少なくとも心はからっぽだう」

ウミウ「きっと、ウミウは恵まれてるんだう。こうやって、生きる意味について考えられるほどには」

ウミウ「だけど、心はからっぽになってしまったう」

ウミウウミウはどうやって生きればいいんだう?」

ウミウウミウは……もう、疲れたう」

ウミウ「ふと空を見上げたら、お月様がこっちを見て嗤ってるう」

ウミウ「悔しいほどに、綺麗だう」

2018-10-19

横山由季子「ブロックバスター展は善か、悪か」を批判する

 美術手帖で連載中の「シリーズ:これから美術館を考える」の第6回、横山由季子(金沢21世紀美術館学芸員)による「シリーズ:これからの美術館を考える(6) ブロックバスター展は善か、悪か|MAGAZINE | 美術手帖」。一読して何が言いたいのか理解し難かったが、それもそのはず、書いている本人が考えがまとまらないと言っているのだった。

まとまらない考え、逡巡をそのまま書いてしまいましたが、現状を共有することで、今後の共催展、ブロックバスター展について考えるきっかけになれば幸いです。

https://twitter.com/blanche1002/status/1051094298815430659

 「考えまとめてから話せ、バカ」で済む話ではあるけど、一部好意的に受け止められている様子もあり、少しこだわってみたい。

 まず、かなり気に食わないことの一つに、ブロックバスター展について「善か、悪か」と問うている点がある。「善悪」というのは倫理道徳的価値判断であり、展覧会評価をするにあたってはなじまない言葉である。「是非」でよかったはずだ。にもかかわらず、横山は敢えて「善悪」という強い言葉を用いた。その理由は推測することも可能だが、不要から止めておく。ただ、私自身は「善か、悪か」という問いに答える気にはならないし、また応じて「ブロックバスター展は悪だ」と言っている人がいたら異様だと思う。些末な問題ではある。しかし、筆者の立ち位置や考え方が無意識に出ているように見受けられる所、注意を要する点である

 次。筆者はタイトルで「ブロックバスター展は」と議論対象提示する。そして文中で「ブロックバスター展」の定義を明確に行う。ここまではまったく素晴らしい。だが、なぜか横山は文中でブロックバスター展以外についても語り出してしまう。こんなわずか短い文章にもかかわらず、その対象を固定することすらできない。大丈夫なのか、この人?

 実際に対象になっているのはブロックバスター展と共催展である。前者も後者の一部だが、このうち60~70万人ほどを動員したものを指すと定義している。もちろんそれ以上動員した場合も含まれるのだろう。また、共催展以外でこの規模の動員は不可能と考えられる。すなわち、60万人以上の動員を記録した展覧会ブロックバスター展だと言っていい。明確だ。

共催展のなかでも、とりわけ規模が大きく大量動員が見込まれものは「ブロックバスター展」と呼ばれる。ブロックバスター展の基準について100万人以上の動員としている記述もあるが、近年ではさすがにそこまでの来場者を集めた例はないので、ここでは60〜70万人規模の展覧会ととらえることにしたい。広報会議メディア担当者と話していても、60万人あたりがひとつ分水嶺になっているような感覚がある。

 共催展一般共通するものであるならば、わざわざ分ける必要はない。だが、60万を越える規模になると、単に量の違いではなく、質の差が出るようだ。「60万人あたりがひとつ分水嶺になっているような感覚」というのはそういうことだろう。ならば、「ブロックバスター展」と呼び分けることに意味が出るわけだ。

 しかし、結局筆者が俎上に乗せるのは共催展一般であって、ブロックバスター特有問題についての指摘はわずしかない。筆者は読者にブロックバスター展のみに絞って考えて欲しいのか、それを含めた共催展一般について考えて欲しいのか不明である。というよりも、筆者自身の中で、その程度のことすら整理できていないのではないかと思われる。

 そんな筆者横山が共催展やブロックバスター展の「現状」についてどのように認識しているか批判的に捉えているか文章引用しつつ細かく見ていこう。

ブロックバスター展はその華やかな話題性によって、普段美術館に足を運ばないような人が展覧会を訪れるきっかけをつくり、美術裾野を広げているという側面もある。そのいっぽうで、やはり集客のために打ち出される広報の数々は「イベント」としての側面を強調するものであり、一過性の消費で終わってしまうのではないかという危惧がつきまとう。

 一過性の消費の何が悪いのかさっぱり分からん人生は短い割に、世界はあまりにも豊かだ。誰しもが、美術とがっぷり四つに組んでいる暇があるわけではない。すべてのことに入れ込むことはできないわけだ。学芸員成るほど美術真剣に取り組んでる横山も、例えば音楽とか、芝居とか、映画とか、ほかのジャンルに関しては一過性の消費で済ませていたりするわけでしょ? 美術に対してそういう態度をとる人たちを批判する権利なんかないわな。

そして現場学芸員は、採算性と学術性を両立させるという大きな矛盾に直面することになる。

 ブロックバスター展やそれに準ずる共催展に足を運ぶ人の多くは、作品を見に来ているのね。有名作に心踊り、傑作に胸を打たれに来てる。学術性とか、正直無くても構わないとすら思っている。

最近ではメディア側も展覧会事業にこれまでになく採算性を求める傾向にあり、10万人を動員する小規模の企画を年に何本も実施するよりも、大量動員が見込めるブロックバスター展を1本開いたほうが、労力的にも資金的にも報われるという事情もあるだろう。

 共催展の数を減らして、ブロックバスター展に集約していると読めるけど、事実なのか?

あくまでも組織としては採算性が優先されることになる

 当たり前なのでは。

ここで、そこまでの費用をかけてまで、海外作品を借りてくる必要があるのかという問いが生じるだろう。国内美術館にも豊かなコレクションがあり、それだけでも十分に展覧会は成り立つ。実際に、近年では国内の所蔵品を中心に見ごたえのある展覧会が多く企画されている。

 ブロックバスター展や美術館展など、学術性の低い展覧会批判する人って、だいたい欧米によく行っていて、そこで十分に作品を見ている人なんだよね。だから、そういった展覧会が名作や有名作を持ってきているということ自体意味を見いだせないわけだ。でも例えば、今後10年間、海外所蔵の作品を見ることを一切禁じるって言われたら、我慢できるの? できないでしょ。できないなら「国内美術館にも豊かなコレクションがあり」とか言って欲しくないよね。子供仕事で忙しい人、貧乏人、障害者、老人。誰しもが気軽に海外に行けるわけではない。そういうところにブロックバスター展の意味の一つがあると思うんだよな。弱者に優しいという点を鑑みれば、筆者の問いかけに「ブロックバスター展は善である」と答えることも可能かもしれない。

共催展の広報において差し迫った課題は、いかにして若者展覧会に足を運んでもらうかということである。とりわけブロックバスター展を支えているのは、バブル期以降の大型展に足を運んできた50代以上の世代であり、メディア側も確実な集客を見込んで、この年齢層に的を絞った広報戦略を立てることが多い。しかしながら、このような目先の集客ばかりを求める広報が続くようであれば、美術館展覧会未来はそう長くはないであろう。

 若者じゃないから分からないけど、どっちかというとやはりブロックバスター展の方が若者リーチしていて、それより規模の小さい共催展に問題がある気がするけどなあ。今なら例えばフェルメール展とルーベンス展。

近代美術の延長線上に現代美術位置づけ、両者を結びつける作業は、やはり美術館が担うべきものである。そして、村上隆草間彌生などの知名度と人気を誇るごく一部の作家を除いて、メディア現代美術展に出資することは考えにくい。美術館が主導して近代美術現代美術をつなぐ展覧会企画したり、現代美術一般へと浸透させる持続的なプログラムを行うための体制づくりや予算が求められる。

 これはブロックバスター展や共催展の問題じゃないよね。美術館学芸員が怠けていたからこういう状況になったんじゃないの? 「国内美術館にも豊かなコレクションがあり、それだけでも十分に展覧会は成り立つ」んでしょ。美術館主催粛々とやってればいいのでは。

数十万人の来場者を想定したブロックバスター展の場合、あまり大胆な切り口を提示することは難しく、個展であれば年代主題ごとに画業をたどるようなオーソドックス構成となりがちだ。先行研究調査をふまえた新たな視点を、カタログ論文作品解説のなかで示すことはできても、展覧会構成全体に反映するにはいくつものハードルがある。とりわけオルセー美術館ルーヴル美術館からまとめて作品を借りる場合は、これらの美術館学芸員が監修を務めることが多く、そのことによって企画自由度が低くなるという側面もあるだろう。

 そういう学術性は不要なんだって。単にいい作品を持ってくればいいの。学術性を発揮したいのであれば美術館主催の展示でやればいい。それでは自分能力が十分に生かされないと感じるなら本場の美術館就職してください。あと、日本学芸員よりオルセーやルーヴルの学芸員の方が信用できるから、その場合は口出さなくていいよ。

オルセー美術館には各所蔵作家の膨大な資料が集められており(ルノワールだけでざっと50箱以上はあり、フランス語だけでなく、英語イタリア語ドイツ語スペイン語、そして日本語や中国語韓国語資料網羅されている)、それを日々リアルタイム更新していくドキュメンタリストたちがいる。学芸員は彼らの協力を得て調査研究に勤しみ、その成果が展覧会に反映される。この蓄積こそが、オルセー美術館の、さらには今日における世界的なフランス近代美術の人気の礎なのである。これは一朝一夕に実現されるものではなく、長期的な視点に基づいた、たゆまぬ歴史化の作業の賜物といえよう。

 日本フランス絵画についてオルセーと張り合う必要なんかないよ。自国美術研究環境が貧弱なこと(いろいろ話を聞くに相応の事実だろう)については悲しむべきことだけど、西洋美術基本的に横のものを縦にしてればいい。もちろん立派な研究をなしとげれば敬意を表するが、俺達のブロックバスター展を研究発表の場として利用してくれるな。

 私はブロックバスター展やそれに準ずる規模の共催展を楽しんでいるのだ。それを学芸員風情の浅薄な考えや安っぽい使命感によってぶち壊さないで欲しい。日本に居ながらにして傑作や有名作を鑑賞することができる。これだけでブロックバスター展は素晴らしいものなんだ。ということを学芸員玄人気取りに理解してもらいたいのだが、なかなか難しいのかもしれない。

2018-10-18

「これって変じゃない?」にツッコミを!“女らしさ・男らしさ”の呪縛から子ども解放するために親ができること

https://woman-type.jp/wt/feature/13170

以前、息子が見つけてきて「これ、変だよね」と言った消防少年団ポスターには、男の子ホースを持って前面に立ち、女の子が後ろで救急箱を持って控えていました。男性はメインの業務や力仕事を担い、女性は補助的な仕事ケアワークを担うという思い込みは、いまだに根強く残っています

ものには適材適所っつーものがある。

消防という人の命がかかった場面で「単に外形的な数的平等のために」大きな水圧で暴れる重いホース女性にも持たせてさしあげる配慮をすべきかというと、私には疑問に思える。そういうときってホースは男が持ったほうがいいんじゃあるまいか体重や筋力が平均的に男女同等ならいくらでもホースを持ってもらえばよいが、そうではないだろう。

というか、消火作業ホース)も被災者の救護(救急箱)も、業務重要度はイーブンだろうと思う。ホースがメインで救急箱がサブというのは序列恣意的で、息子さんをよく調教されているようだけれど、男女平等にこだわりすぎて職業平等を教えることをどこかに置き忘れてしまっているのではないか

大学学園祭を訪れたとき男子学生がおそろいのピンクTシャツを着ている様子を見て、しみじみと時代は変わっているなと感じました。娘が一時期、ピンクなどのパステルカラーばかりを欲しがるので、親として複雑な気持ちになったものですが、今の大学生は「ピンク女の子の色」という意識さえ持っていない。偏見固定観念に縛られることなく、男性ピンクを着ることが当たり前と感じる世代が生まれているのです。

とにかくピンク女性の結びつきを断ち切りたくてしょうがないようす。

男子学生が揃いのピンクTシャツを着ていたからといって「男性ピンクを着ることが当たり前と感じる世代が生まれている」と判断するのはそそっかしすぎるだろう。学祭ということはサークルユニフォームだろうから、その色を個人個人が好きで着ているとは限らず、女子もいるサークル女子が決めたものをいやいや着させられているかもしれないのでは。

娘さんがパステルカラーを着たがることに「複雑な気持ちにな」るのは本当に親としてどうかと思う。娘さんが自由意志パステルカラーを好んでいるのかもしれないのに、それを「社会蔓延するステレオタイプに毒された結果」としか見られないのは、ひどい視野狭窄に思える。

子供選択の自由を奪い、感性自分の都合のいいように方向づけしようとしているという意味では「女の子からピンクを着なさい」と押し付ける親も「パステルカラーなんか好んじゃいけません」と教える親も大差ないだろう。

例えばドラマを観ていると、なぜか悪役は男性さらわれたり、狙われたりするのは女性ばかりです。我が家では、そんなステレオタイプドラマを見ると、息子が「また女の人が逃げてる!」と突っ込みます

現実犯罪者数は男性女性10であるのだから、人をさらったり狙ったりする役は男性のほうが自然だし、粗暴犯が力の弱い女性を狙うのも自然選択だし、そして、ここだいじだと思うんですけど、強者弱者を狙うからこそ「卑劣卑怯な手口」というプロットが成立するのであって、女が力づくで男をさらドラマなんかがあったらそれこそ「何かおかしい」どころではなく、噴飯ものでしょう!

そしてですね、いわゆる2時間ドラマでは犯人が女であることもとても多くて(断崖で泣きながら犯行動機を語る中山忍が好きだ)、現実との比較としてはむしろこっちほうこそ不自然で不平等に思えるのだけれど、それはOKということなのかしら。

例えばアメリカドラマでは、大統領CIAエージェントのような仕事女性が就いていることもめずらしくありません。最近ハリウッド映画では、コンピュータが得意な女の子が大活躍したり、男性の後ろに隠れずに、真っ向から敵と戦う女性ヒロインが登場したりしています

もー、そもそもドラマの配役をもってジェンダーステレオタイプうんぬんを語ることじたいがスカタンしか言いようがない。

エンタメに登場する女性は、その役柄がどれだけ威勢のいいものであろうと「画面の彩りやバランス」のために配置されていて、フェミニストであるならば本来そこにこそ疑問を感じるべきだと思うんだがそこは無視っていうね。フェミニスト旗手のように崇められているエマ・ワトソンにしたって、今の地位を築いたのはハーマイオニーグレンジャーという「冷静な優等生というジェンダーステレオタイプな役」がウケたからなのですよ。

男性の後ろに隠れずに、真っ向から敵と戦う女性ヒロインが登場したりしてい」ることをまるで近年のフェミニズムの手柄のように語っているけれど、ワンダーウーマンの例を引くまでもなく戦う女性を描いたエンタメはむかぁぁぁぁぁぁぁしからあるし、それは必ずしも実社会での女性地位の向上や男女平等意識の浸透を意味しているわけではない。女性でも「暴力」で敵と戦うのはスカッとするよねというだけの話で、現実ワンダーウーマンプリキュアのような立場を担わされたら大半の女性は「迷惑」と感じるのではあるまいか

これ以上くどくど書いてもしょうがいからまとめるけど、この治部れんげとかいう浅い浅いフェミニストは、言ってることのすべてが「表面的な数合わせだけの悪平等」の域を一歩も出ておらず、耳を傾けるに足る主張はない。それだけならまだいいのだけれど、この人、明らかに浅薄でズレた平等意識のもとでお子様の洗脳をなさっておいでで、まあこの人の子供がどんな人間に育とうと知ったこっちゃないのですが、ちょっと気の毒に思いましたまる

2018-10-11

限界を超えろ」っていうマッチョイズム全開の浅薄格言あるじゃん

あれけっこう大事なことだよな

2018-10-01

anond:20181001161109

ミロのヴィーナスとかヴィーナス誕生とかもけしからんよな。

芸術ジャンルでパッと出て来たのがこれだったので、自らの浅薄さを恥じる)

2018-09-26

anond:20180920192140

独身者防衛機制と既婚者の悲哀が巨大な渦を巻き「新しいライフスタイル」などという浅薄な幻影が形成されているのダ。

2018-09-22

ベルク炎上の件をざっくりと

フェミサイド

https://togetter.com/li/1268632

店長サイド

https://togetter.com/li/1267836

フェミサイド(以下ミニオン)がご飯は美味しかったけど副流煙を吸わされるのは残念だったという感想ツイート

ベルク店長エゴサしてその人のツイート過去嫌煙者に向けて書いた挑発的なエントリークソリプする

ミニオン、そんなんやったらもう行かんわとツイートする

店長、慌てて謝罪するもその後ひたすら言い訳に終始する

ミニオン自分と同じような感想をつぶやいている男性アカウントを見つけ、ベルク店長女性に対してクソリプ飛ばしてるのではと疑い出す

ミニオンの仲間が女性攻撃だと焚き付けて攻撃する。女性差別する中年男性、セクシストなどと罵詈雑言をぶつける

ベルク店長、これに対してひたすら言い訳ブロックを繰り返す。その中で攻撃してくるものをアホフェミだと言ってしま

フェミサイドは当然激怒ベルクサイドは「アホフェミというのはフェミの中にもアホはいるという表現差別ではない」「フェミニストこそアホフェミちゃん批判すべき反原発運動も反レイシスト運動もそうしてきた」などという言葉で反撃

店長ベルク女性スタッフに「女性差別はやめろ!」と電凸された事を明かす

ミニオン並びにフェミサイド沈黙←今ここ

はっきり言ってしまえばベルク店長の方にほぼ100パーセントの落ち度があるように見えますが、電凸脅迫という武器を使われてしまうのはあまりにも浅薄だったのではとも思います。(政治家とかが炎上するとよく出てくるやつなので信ぴょう性が疑われそうではありますが、まだまだ有効だったみたいです)

それにしても新潮不買運動したり、ベルク行かんわと言ってみたりと反差別の人ってまじでこの世の中生きづらそう(こなみ)

2018-09-16

浅薄な愛を見事に描いた最高傑作「高嶺の花」

うっす、うっすの愛情オンパレード

石原さとみの唇と、峯田和伸の鼻の穴だけは、認めざるを得ないがな。

2018-08-20

anond:20180820101034

個別ブコメは措くけれども、

別に女性俳優目当てで映画見に行ったって良いのに、それを腐すようなコメントがあるのに驚いた。

あまつさえそういう傾向がある、ってデータで出ているのに、その傾向をすら否定しようとしている人がいる。

あたらめて問うけど俳優目当てで映画見に行って、何が悪いんですか?

女性の方が映画を(集団で)みに行く傾向がある、というのは悪いことなんですか?

それでいいじゃん。

この辺り、はてなの女は堂々としていればいいのに、何かこそこそと「俳優目当ての女性なんて見たことない」「女でも監督で選ぶ人いますが?」みたいなかんじで女の中に線引きをしようとしている。

それ一番やっちゃいけないことなんじゃないの?

俳優目当てで映画見に行く人も多いけれども、そうじゃない人もいます、色んな人が色んな目的映画見ていますが現況はこういう状態でこういうスタイル映画が多いです(が何か問題が?)」で、良いじゃん。

あるいは「女の方が映画見に行って金払うとるんだから少し男は黙っとれ、笑」くらいでもいいだろう。

俳優目当てで見に行っている女性等閑視するはてな女性姿勢ダメでしょ、と言う話。

この辺り、実際に会って話す女性学や社会学の人々と比して、はてなフェミ界隈の浅薄さを感じるわ。

クソサブカル選民思想に囚われてんじゃねーよ。

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