はてなキーワード: 浄土教とは
https://anond.hatelabo.jp/20210414001604
この件、2つ思うところあり。
1:しずかちゃんはのび太の憧れの美少女、ジャイアンはいじめっ子、スネ夫はその子分…と一見わかりやすいキャラ設定に初期の『ドラえもん』はなっていたかといえば実はそうではない。あとから時代の要請でそのようにキャラクターがひん曲げられていったわけで、宗教も同じである。キリスト教も仏教もイスラム教も、原初の姿をとどめているものはほとんどなく、宗派によって解釈が大きく曲げられて原型をとどめていないことも少なくない。使っているツールが「神」だったり「仏」だったり「イエス」だったりするからその宗教の一派とみなされているだけなのだ。例えば浄土教系の「ひたすら阿弥陀如来に祈る」などというのは本来自分で悟りを開くというシャカの原始的な教えからすれば、めちゃくちゃなところへぶっ飛んでいる。ああいう絶対神の設定はもうキリスト教とかイスラム教に近い。だからどんな宗教を作っても、(科学のような客観的基準がないので)原初の姿はとどめておくことなんかできないし、時代やコミュニティの要請に応じてどんどん変化してしまうのが宗教というものである。
2:そういうときに現代に必要な宗教をさあ作ろうぜ、っていうときになんで「天地創造」から入っちゃうのかなあ。客観的な世界創造は科学に負けてしまう。そうじゃなくて、やっぱりここは「願えば叶う」という、世界=自分、つまり世界は自分が創造したというセカイ系こそ最強の宗教だと思うんだが。この世界は他でもない、私たち一人一人が創り出したもの。私たちが強く願えば、叶えられないことはない。「言霊」という考えが昔からあるように、言葉にして外に出ることで、それは疎外されて自分に対立し、客観的な力になって、自分を縛り、他人を縛る。例えば作家になってしまう奴はみんなそうだ。強く願ったんだ。「どうしたら作家になれますか」なんて他人にぼんやり聞いてるやつは作家になれるはずがない。私は作家になりたい、なりたくてたまらない、そんなやつだけが、めちゃくちゃなことをやって、どんなことがあってもとうとう作家になってしまうんだ。あきらめたらそこで試合終了だぜ? 限界は自分の中にあって、その限界を作り出す、つまり世界は自分が創造しているんだ。
鎌倉時代の僧侶・一向俊聖(暦仁2年(1239年)? - 弘安10年(1287年)?、以下「一向」と表記)を祖とする宗派。
一向は筑後国草野家の出身で、はじめは浄土宗鎮西派(西山派という異説もある)の僧侶であった。後に各地を遊行回国し、踊り念仏、天道念佛を修し、道場を設けた。近江国番場蓮華寺にて立ち往生して最期を迎えたという。
以後、同寺を本山として東北、関東、尾張、近江に一向の法流と伝える寺院が分布し、教団を形成するようになった。鎌倉時代末期に書かれた『野守鏡』にはこの教団を一向宗と呼んで、後世の浄土真宗とは全く無関係の宗派として存在している事が記録されている。
一向と一遍房智真は同時期の人物であり、ともに遊行や踊り念仏を行儀とする念仏勧進聖であることから、一向の「一向宗」は一遍の「時衆」と混同されるようになっていく。『天狗草子』に記された「一向宗」は、一遍の衆を指したものである(一向俊聖の項を参考)。たしかに一向も一遍と同様に浄土宗の影響を受けて自己の教義を確立させたものであるが、全く別箇に教団を開いたものである。また、一遍と違い一向の教えは踊り念仏を行うとはいえ、念仏そのものに特別な宗教的意義を見出す事は少なかったとされている。ところが時代が降るにつれ、一向の教えが同じ踊り念仏の一遍の教えと混同され、更に親鸞の興した浄土真宗とも混ざり合うという現象が見られるようになる。特に一向の教義が早い段階で流入していた北陸地方ではその傾向が顕著であった。
浄土真宗本願寺八世の蓮如が北陸地方に活動の場を求めた時に、布教の対象としたのはこうした一向や一遍の影響を受けて同じ浄土教の土壌を有した僧侶や信者であり、蓮如はこれを「一向衆」(「一向宗」ではない)と呼んだ。蓮如布教時に、一向宗や時宗が支配層との結びつきを強め、民衆から離れ、一向宗の民衆が蓮如教団になびいた結果、一向宗と呼ばれるにふさわしかったともいわれる[1]。本願寺及び蓮如の北陸における成功の背景にはこうした近似した宗教的価値観を持った「一向衆」の存在が大きいわけであるが、同時に蓮如はこれによって親鸞の教えが歪められてしまう事を恐れた。さらに別の事由から他宗派より「一向宗」と呼称されていたこと(後述)も彼の憂慮を深めた。文明5年(1473年)に蓮如によって書かれた『帖外御文』において「夫一向宗と云、時衆方之名なり、一遍・一向是也。其源とは江州ばんばの道場是則一向宗なり」とし、一向宗が一向の教団でもあることを明記して本願寺の門徒で一向宗の名前を使ったものは破門するとまで書かれているものの、ここでも一遍と一向の宗派が混同されている。
江戸時代に入ると、江戸幕府は本末制度の徹底を図り、系譜を異にするさまざまな念仏勧進聖が、清浄光寺を総本山とする単一宗派「時宗」の管轄下に編成された。この際、一向の流派は独立した宗派とは認められず、「一向宗」の呼称を用いる事も禁じられた。『時宗要略譜』によると、時宗十二派のうち、一向派と天童派が一向の法脈を受け継ぐものとされている。一向派(かつての一向の一向宗)は再三にわたり時宗からの独立を求めたが実らなかった。
明治時代になって、中期に一向派から独立転宗を唱える者が出現し、一向派は浄土宗宗務院に「所轄帰入願」を、時宗教務院に「時宗一向派独立認可願」を提出した。しかし一向派の独立・転宗を認めてしまうと、明治以降衰退著しく、時宗寺院が少ない上に、さらに減少することになるので、時宗当局は、これを認めようとしなかった[2]
大半の寺院が時宗を離れ、一向の母体であった浄土宗に帰属するようになったのは、昭和時代に入った1943年の事であった。
浄土真宗、ことに本願寺教団を指す呼称。教団自身はこの名を自称しなかったので注意が必要である。
「一向」とは「ひたすら」「一筋」という意味であり、「一つに専念すること」を意味している。『仏説無量寿経』に「一向専念無量寿仏」と記されていることから、とくに阿弥陀仏の名号を称えることと解釈され、親鸞を宗祖とする教団(本項では「真宗教団」とする)を他の宗派から指す呼称となった。とくに浄土宗は、親鸞の教団が「浄土真宗」と自称することを嫌い、「一向宗」の称を用いた。
したがって「一向宗」は真宗教団の門徒から見て正しい呼称ではなく、また一向俊聖の「一向宗」と混同される事から望ましい呼び方でもなかった。だが、中世において同じ念仏を唱える浄土教系宗派であった両派が混同され、更に時衆などとも漠然と同一のものとして捉えられるようになっていった。蓮如は前述のように「他宗派の者が(勘違いして)一向宗と呼ぶのは仕方ないが、我々浄土真宗の門徒が一向宗を自称してはいけない」という主旨の発言をして違反者を破門するとまで述べているが、逆に言えばこれは、真宗教団の門徒ですら「一向宗」を自称する者がいた事を意味する。
こうした指導により教団内部では「一向宗」の語は正式に使われることはなくなり、「浄土真宗」または「真宗」と称するようになった。しかし、門徒たちを中心とする一揆が「一向一揆」と呼ばれるなど、真宗教団のことを教団外から「一向宗」と呼ぶ風潮は収まる事はなかった。
江戸幕府は、真宗教団を指す名称として「一向宗」を公式に用い続けた。この経緯としては、徳川家康が三河一向一揆により家中統制で苦しめられたこと、徳川将軍家が(真宗教団が「浄土真宗」を称することを望まない)浄土宗を信仰していることが挙げられる。これに対して、真宗教団側は本願寺の分裂などの影響があり、長らく具体的な対応が取られることがなかった。
今日も、「荒れる新成人」という毎年恒例の話が出てくる。しかし、新成人に文句を言って嘆く既成人たちは、「なにがなぜ悪いのか」を説明して叱れるのだろうか? 叱責が説得力をもつためには、なにがなぜ悪いのかを説明し、しかも叱る当人が己を律していなければならない。
「人を殺してはなぜいけないのか」という疑問が話題になったことがあったが、「そうした疑問をもってはならない」という社会気質が、この国にはある。何も考えずにただ「殺人=悪」だと言う。しかし、そんな思考停止では、真の倫理観は育つまい。究極的には、刺すか刺されるかの状況になれば他人を刺すものが必ず出るし、「死にたい」と思っている者には「他人を殺すまい」という抑止力はきわめて働きづらい。ただ単に「殺人=悪」だと言って洗脳するのでは、ものごとは解決しない。
この社会にあるのは、道徳倫理ではない。潔癖症なのだ。言い換えれば、怖いのだ。多くの者が、死を怖れると同時に、快適に暮らしたいと思っている。その、自分たちにとって心地の良いような潔癖な社会にしようとする理屈でできているのであって、真に「なにが悪いのか」は考えていない。
「なにが悪いのか」を考えずに杓子定規に順守して、「俺も守っているのだからお前も守れ」と言うのだろうが、そんな理屈ではよくわからない。ところが、いまの多くの人たちは、「俺はこんなに頑張っているのに」「私はこんなに苦しいのに」と言って他人に八つ当たりする。大流行中だ。
古くは、自分でも「悪い」とは思いもよらなかった行為を、偉い人に怒られたり、天変地異の原因になったと思ったりしたから、「しきたり」ができるようになり、いささか不合理な「しきたり」でも杓子定規に遵守するという社会気質ができた。それがそのまま江戸時代ころにはもう全国家的に流布されて、皆「お上」の言うことをきく「踏み絵社会」ができあがっていた。
さて、そもそも、社会的善悪というのは、真の善悪とは異なると思う。社会的善悪というのは、人間にとっての都合の良し悪しだ。自分たちの自我にとって「得だ」と思うことが善になり、「損だ」と思うことが悪になる。だから、死にたくなければ他の生物も殺すし、インフルエンザウイルスであれなんであれ、徹底的に殺すようにしているだろう。昔も今も、多くの生物を殺戮して、しばしば絶滅させてきた。
昔はもっと、「殺生は悪だ」ということが一般的に言われていた。いまは、平気で生物を殺すし、動物がたくさん殺されて食べられている。動物を殺すのを見たくないから食べない、というのではなく、見ずに食べる方法をつくりだして逃げている。ついには、魚肉や鶏肉に骨がないようにまでしている。もはや、生物っぽくなく、便利に食べられる。もちろん、骨抜き魚肉や骨抜きフライドチキンが出てくる以前に、チキンマックナゲットだろうがハンバーグだろうが、骨を意識することはないのだが。いまの欧米人はこの国の活造りを見ると「残虐だ」と言い出すが、我々はもともとは、生き物を殺して喰らっているという自覚をあえてもって、また、ピチピチしているのを見て「新鮮だ」と言って、喜びと有難みをもってきたのだ。反対に、たとえブロイラーにしようがハンバーグにしようが、動物を殺している残虐からは不可避なのだ。例えばマクドナルドなどにしても、全世界的に食肉を大量生産して流通させているが、膨大な殺生をしている。大量の飼料や水を消費して牛を飼い、また、深海魚まで獲っている。それはムダな消費なのではないか?
まあどうせ昔も、「殺生=悪」という「しきたり」でしかなかったのかもしれないが。だが、きっと、釈尊にしてもそうだし、「無益な殺生をしてはいけない」と言った多くの偉人たちのなかにも、「殺生ばかりをしていたら自分たち人間も生きていけないだろう」と直感していた者が少なくなかったのだろう。ただそれが、日本社会では、形式的にばかり順守される「法令さえ守っていればいい」的な実態になったのだ。それは結局のところが、日本社会のほとんどの人が無教養で思考停止をしているからなのだろう。つまりは洗脳されてきただけだ。
我々が生きていくためには、生物を少なからず殺す必要がある。そうしないと食べていくこともできないだろう。直接にも間接にも、殺生をしている。だが、際限なく殺しまくっていたら、無益な殺生になり、そして殺された生物種がしばしば絶滅する。
自我の屁理屈を超えれば、他の生物を殺しすぎるのは、生態系のつりあいを破ることになるから、我々自身も生きていくことが難しくなる。したがって、無益な殺生は、生きていくという観点でも明らかな悪だ。無益な殺生が悪だということは、合理的に説明可能だ。
いまのこの国では、「本当のこと」が言えない。例えば、政治的な発言が忌避されるのも異常だ。「それはおかしいと思う」と言える社会ではなくなっている。例えば原発にしたって殺生にしたって自殺率にしたって、さらには、インフルエンザだろうがHIVだろうがなにもかもを殺戮して存在を消し去ろうとすることの異様さにしても。
他人を叱れないし、叱る能力(冒頭に書いた通り)がそもそもない人が多いのだろう。なにがおかしいのかを言える雰囲気でもなければ、なぜおかしいのかも言えないからなのだろう。ひとりひとりが叱れない社会だから、マスコミが代弁することで憤懣の捌け口になっているのだろう。
我々は、完全には清廉潔白でいることはできない。殺生をしなければ生きていけないし、他人に迷惑をかけずには生きていけない。
だが、己の穢さを自覚しなければ、不潔であることに対する抑止力は働かないのではないか。
皆がまたぞろ、自分にとって都合のいいと思うことをやりたいから、例えばガソリンなどの資源エネルギーも多用するし、そうして地球温暖化も進んでいるのだろうし、有毒物質もまきちらしているし、将来の資源枯渇へと「ツケまわし」もしている。だが、「それは悪いことだ」とは、ほぼ誰一人として言わない。例えば、「自動車を抜本的に減らせ」とは、ほぼ誰も言わない。乗りたいからなのだろうし、自動車があることで産業があり雇用があるからなのだろう。同じように、「タバコは有害だから禁止すべきだ」どころか「増税すべきだ」と言うことすら、すぐさま自民党などから「葉タバコ農家が〜」という屁理屈が返ってくる。それではきっと、葉タバコ農家は死の商人だね。JTも、その大株主のこの国も、同じ国民から「血を吸って」「肉を喰らい」生きているのだ。
例えば米国人がやっていたら、この国でもやっていいことになる。迷惑駐車でもポイ捨てでもなんでも「他人たちがやっているから自分もやっていい」という言い訳は必ず出てくるだろう。互いに都合のいいことなのだから、みんなして「赤信号も渡る」のだろうし、「崖っぷちへと突撃する」チキンレースをやりもする。
ところで、自分たちにとって都合の悪いと思われる生物を徹底的に殺戮してきたから、HIVが出てきたり、新型インフルエンザが出てきたりしたのだと思う。少なくとも、薬物耐性病原体は、過度の殺菌をしてこなければ出てこなかっただろう。そうして、潔癖に潰しまくってきたから、いわば「テロ攻撃」が他の生物から、地球から、加えられているのだ。
それどころかさらに、いまの我々は、自己の心身にすら欺いて、自我が都合の良いと思うことばかりをしているから、心身の反乱をくらっているのだろう。癌にしても、アレルギーにしても、「精神疾患」にしても。人工的に潔癖な生活空間をつくってきたから、心身にとってかえって不健康なことになっている。
地球の生態系のつりあいも、自己の心身のつりあいも、壊しているからだ。だからかえって危機に陥る。不健康になる。
この国では少子化だと騒がれているが、世界人類はいまも増え続けている。はたして、「人口増=善」なのか? 人類が増えすぎたら、地球の生態系のつりあいは崩れる。すでに崩れている。しかし、自分が生きたいと思っている人たちは、「出産=悪」だとは決して言わないだろう。真実を言わないし、真実に気づきすらしないのかもしれない。
昔から、例えばクリスチャンは「人は原罪を負っている」と言う。また、この国では浄土真宗の檀信徒が最大多数だと言われているが、そもそもの浄土宗や浄土教は、悪の自覚から始まっている。つまり、「自分は悪人だ」と自覚しているからこそ、「地獄に堕ちる」と思い、「どうやったら救われるか」と考えるのである。それに比べると、いまの人間には、悪の自覚が足りない。
自分たちを律することができず、ゆがんでいく。ゆがんだことでトラブルが起こるごとに、対症療法をする。砂糖を入れすぎたから塩を足すかのように、余計なものをどんどんと付け足していき、だからますます錯乱していく。ぐにゃぐにゃにゆがんでいく。
究極的には、己の死に対して覚悟がないとはじまらないのだと思う。人類は、過剰な生存意欲があるからこそ絶滅せずに生きていられたのだろう。だが、だからこそ、生存意欲の過剰さに対する自覚をもたないと、欲望も執着も、いくらでも膨張して肥大化していく。そうして、人類も増えすぎるし、生物も殺戮するし、資源も食い尽くすし、自己の心身さえも傷つける。
異質な他者の存在に対して、多様性に対して、寛容に、しなやかに、ふわっと、受け入れないといけないと思う。究極には己の死に対して覚悟がないと、それはできない。だが、受け入れなければ、「テロ攻撃」が、他人からも、他の生物からも、さらには自分自身の細胞や潜在意識からも、加えられていくのだ。
いまのこの日本社会にしても、やっていることは正反対で、威圧して同調化させようとする傾向があり、それは近年ますます増している。それではきっと、ますます危険で不健康で暮らしづらい国になっていくのだろうと、私は思っている。
http://anond.hatelabo.jp/20100629192614
現在、悪魔として密教系の邪教団を支配して…(http://d.hatena.ne.jp/keywordlog?klid=1179930)に対して。
-高野山金剛峯寺の座主であったが、やがて高野山を追われ、根来(ねごろ)にて新義真言宗を開いた。現在、悪魔として密教系の邪教団を支配している。 +高野山金剛峯寺の座主であったが、やがて高野山を追われ、根来(ねごろ)にて新義真言宗を開いた。# vironviron 2010/06/30 00:13 「はてなキーワード作成・編集ガイドライン」違反となる「悪意や嫌がらせを目的とした内容/ 中立的でない偏った内容/客観的事実ではない内容」を修正しました。
と当然ながら削除。これに対して
-興教大師(1095~1143)平安時代後期の密教僧。 +(1095~1143)平安時代後期の密教僧。高野山金剛峯寺の座主であったが、やがて高野山を追われ、根来(ねごろ)にて新義真言宗を開いた。現在、悪魔として密教系の邪教団を支配している。 -無常観と浄土教が広がる世に、大日如来を中心とするマンダラ思想を説き真言宗の中興の祖とされる。 -高野山金剛峯寺の座主であったが、やがて高野山を追われ、根来(ねごろ)にて新義真言宗を開いた。 +『エクソシスト入門』――実録・悪魔との対話 大川隆法著(幸福の科学出版刊)より抜粋させていただきました。# hikarinobosatuhikarinobosatu 2010/06/30 13:40 覚鑁は悪魔として密教系の邪教団を支配している。『エクソシスト入門』――実録・悪魔との対話 大川隆法著(幸福の科学出版刊)にも書かれているように、霊的な事実です。
と差し戻し。
-(1095~1143)平安時代後期の密教僧。高野山金剛峯寺の座主であったが、やがて高野山を追われ、根来(ねごろ)にて新義真言宗を開いた。現在、悪魔として密教系の邪教団を支配している。 + (1095~1143)平安時代後期の密教僧。高野山金剛峯寺の座主であったが、やがて高野山を追われ、根来(ねごろ)にて新義真言宗を開いた。 -『エクソシスト入門』――実録・悪魔との対話 大川隆法著(幸福の科学出版刊)より抜粋させていただきました。
「霊的な事実」というのは言い換えれば自身で拵えただけの「事実」なわけですよ。
これが歴史修正主義ってやつなのかしら。
こうやってまとめてみると、キリスト教=罪と贖罪の思想、仏教=苦(一切皆苦)と涅槃の思想、というように分けられるかもしれない。
付記:
悪いことをする→「それはあなたの罪になるよ」というのがキリスト教。
悪いことをする→「だからあなたは苦しい(苦しむ)んだよ」というのが仏教。
良いことをする→「神の意志に沿った行いをしているよ」というのがキリスト教。