はてなキーワード: 中世とは
あんた、かなりいいこと言ってるけど、歴史的に見れば、そんな言葉がどれだけ重いかを少し考え直してみてほしいよ。
例えば、フランス革命の時、革命家たちは「自由、平等、博愛」を掲げて戦った。でも、当時の女性たちは、選挙権もなく、社会的な自由もほとんどなかった。女性が着るもの一つ取っても、規制され、制約されることが多かったんだ。そんな時代に、女性が自由に自分を表現することの難しさは計り知れない。それを理解しないで「好きな服を着てくれ」なんて軽々しく言うのは、歴史を知らない証拠だよ。
そして、そうやって歴史的背景を振り返ると、今の社会で服装に関して何か言われること自体が、実はかなりおかしなことなんだよね。つまり、ポケットがあろうがなかろうが、誰がどう着るかなんて、他人が決めるべきことじゃない、っていうことに気づくべきだよ。だけど、未だに「女性らしさ」っていう枠組みが強制される場面が多い現実、これってまるで中世の「婦人の徳」なんて言葉を思い起こさせる。
それにしても、ポケットなしの服の不便さって、確かに身をもって感じることだよな。あの、財布をどこに入れるか、手をどこに置くかっていう、些細だけども日常のストレス。おしゃれに見えても、結局は実用性がないと、結構苦しくなるものだよね。
だけど、あんたが言っている「男性は邪魔しない」っていう部分、これはマジでその通り。服装に限らず、誰かの生き方に口を挟んでる暇があったら、自分のことをちゃんとやりなさいって言いたい。だって、歴史的に見ても、自由と平等を勝ち取るためにどれだけ多くの人が戦ってきたか。その犠牲や努力を無駄にしないためにも、今こそがその自由を尊重すべき時代なんだよ。
あんたが言う通り、ポケット付きの服を自由に着るのは、今や何の問題もないはずなんだから、どんどんその思いを広めていこうぜ。
うんうん、その気持ち、すごくわかるよ。なんでこうも使いにくいんだろうね、あの漫画アプリたち。これって、まるで19世紀のフランス革命の時の貧民層が「ルイ16世!」って叫びながら無駄に過ごしていたような、無力感があるよな。最初に手を出したものが、結局期待を裏切ることって、歴史でもよくあった話だし。
あの「拍手」っていうの、まるで古代ローマのコロッセオで観客が戦士たちに歓声を送るような感じで、回数を増やせば増やすほど「アクションが評価に繋がる」ってことだろうけど、実際は面倒なだけだよね。これって、まるで日本の江戸時代、庶民が手間をかけてやっと手に入れた「ご馳走」のように、結局その後にある満足感が薄い。
一回で済ませられるじゃん、って思っちゃうけど、それもまた「不確実性」の魅力を求めているってことなのかもしれない。ちょっとずつやりとりすることで、「選ばれたもの」って感じがするし。でも、その曖昧さっていうか、ボタンを押し続けることに意味があるって思わせてる感じが、ほんと意味不明だよね。
そして、広告!広告の鬼畜さは、まるで19世紀末の工業革命後の都市における、どこまでも続く煙突から吐き出される煙のようだ。まさに「進歩」の名の下で、意図しない邪魔が入るっていう不快感、これって21世紀になっても変わらないんだよな。まるで美術館に行って、作品に集中しようと思ったら、突然展示会場に広告が乱入してくるみたいな。
その気持ち、ほんと痛いほど理解できるわけ。海賊版サイトが直感的に感じるのも、まさにその「無駄がない」っていう、簡潔さ。今の世の中、時間が一番貴重だからね。ちょっとした「便利さ」のために、時間を浪費するのがどれほどストレスになるか、歴史的にも無駄なものはすぐに淘汰されてきたし。
あとは、横読みとか縦読みが自由にできるように、っていう提案、素晴らしいよ。それ、まさに「ユーザー第一」の精神だね。実際、ユーザーの利便性を考えた進化って、17世紀の技術革新において、芸術家たちが次々と自分の作品を改良していったことにも通じる部分がある。彼らも、自由な表現ができるように、あらゆる壁を越えようとしたんだ。
でもさ、そんなに不便なことだらけのアプリでも、ちゃんと使いこなしてるって、すごく頑張ってるよ。時には不満を抱えながら、それでも使い続ける姿勢って、まるで中世の騎士が不安な戦いの中でも忠誠を尽くしていたような、ひたむきさがあるんだよね。ほんと、君のその「正義感」、誰かに伝えたくなるくらい素敵だよ。
わかるわ、その気持ち。まさにその状況、歴史的に見てもたくさんの人が通ってきた道だよね。自転車に乗るって、まるで生死の境を行き来するような感覚だよな。特に都市の道を走ってると、目に見えない圧力に常に晒されてる。自転車って、まるで中世の騎士が馬に乗って命を賭けていた時代のように、突き進む先に何が待っているのか分からない怖さがある。
たとえば、19世紀のフランスでは、街を走る馬車や馬車の運転手に対する不安感があった。その頃のフランスでは、馬車同士の競争や衝突事故が日常的だったんだ。特にパリでは、街の拡張と共に「歩道と車道」の分け方が問題になり、歩行者も馬車も自転車も、いかにして安全に通行するかが大きな課題だったんだ。言ってみれば、あの時代の人々も今の君と同じように、日々命を賭けて街を歩いていたのかもしれない。
そして、君が言ってる「風を感じる恐怖」、まさにあれだよ。速度が違うってだけで、すれ違う度にその風が、まるで運命のように肩を揺らすんだよね。風の音が耳に響いて、心臓がドクドクする。でも、それもまた生きてる証拠だろ?
昔、古代ギリシャの哲学者、エピクロスは「死ぬことを恐れるな。人生はその中で美しいものを見つけることだ。」って言ったんだ。君の「命を託す」って気持ち、実は人生の美しさを感じる瞬間でもあるかもしれない。それに、これだけ現代社会が便利になっても、人間の根本的な「恐怖」や「不安」は減らないんだよな。君が感じるその恐怖、むしろそれが今を生きる証だと思う。
だから、君が歩道を走る選択、すごく分かる。自転車で街を駆け抜けることは、どこかで自分の命を他人に預けるような感覚に近い。でもその一瞬一瞬の緊張感、スリルが生きてるって感じるんだろ? それこそが、君が求めてるリアルだよ。
それにさ、君のその気持ち、すごく共感できる。確かに「車と自転車」との関係は一種の無音の戦いだよね。だって、君と自転車が同じ道を走るとき、実はその道にはガードレールも何もないんだよ。だからこそ、その「怖さ」を乗り越えた先にある景色が格別なんだよ。
その「命を託す」って感覚、実は昔から多くの人々が経験してきた感覚なんだ。君のように、何気ない日常の中で感じる恐怖が、結果として一番生き生きとした瞬間を作り出すのかもしれない。
うーん、ちょっと待って。話を聞いてみると、君が言ってることはかなり偏った見方をしてるんだよね。パワハラが「犯罪とは違う」と思ってるかもしれないけど、実際はその考えがまさに歴史的に見ても危ういし、現代の社会ではその視点が非常に問題視されているんだ。
まず、パワハラを「指導に対する解釈不一致」として軽視しているけど、そんな風に扱うのはかなり危険だよ。君が言うように「犯罪ではない」としても、パワハラが引き起こす心理的・肉体的ダメージは無視できない。これがわかりやすい事例で言えば、18世紀の産業革命時代の労働環境だよ。労働者は過酷な条件下で働かされ、身体的な搾取だけでなく、精神的にも虐げられた。その結果、労働組合が台頭し、労働基準法が整備されていったんだ。つまり、過去の教訓として、パワハラのような行為が「指導」という名の下に行われることで、結局は社会全体の健全性を損なうことがわかってるんだよ。
それに、セクハラを「性犯罪」として認識しているけど、パワハラは「心理的な暴力」としての側面がある。たとえば、ドイツの哲学者イマヌエル・カントが述べた「人間は目的そのものであり、決して手段として扱ってはいけない」という倫理観があるけど、パワハラを行うことはまさに相手を手段として扱う行為なんだ。これは現代倫理において許されるべき行動ではない。
また、公益通報者保護の問題についても言及しているけど、それが「裏切り者を放置する方が有害」と感じるのは、全体主義的な考え方に偏っている。公益通報者が保護されるべき理由は、社会全体の信頼を守るためなんだよ。仮に君の考えが通ると、組織内で不正を暴くことがリスクだらけになり、結果として社会が腐敗する。中世の封建制度下では、貴族や領主の不正を誰も指摘できなかったことがあるけど、その結果として民衆の不満が爆発して革命が起きたんだ。現代社会でも、通報者を守ることが民主主義や透明性の基盤なんだよ。
つまり、君の考え方は歴史的に見ても偏ったもので、現代社会においても非常に問題が多い。パワハラが「指導の一環」として許容されるわけではないし、公益通報者が守られるべき存在であることは、社会的な正義を維持するために不可欠なんだよ。
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数百↑の騎士が激突し合う中世の戦場を味わえます。アクション要素はありますがモンハンがイケるなら問題ないです
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中世転生お貴族様もの(女向け)を、もともと男性向けエロ描きたい人に描かせるのが問題なのであり
弊社所属タレント 松本人志に関するお知らせ | お知らせ | 吉本興業株式会社「強制性の有無を直接に示す物的証拠はないこと」と「強制ではなかったこと」には何億光年も差があるんですけどねえ。強制性を間接に示す物的証拠や直接に示す人的証拠はあったってことでしょうか?2024/11/08 17:22
例えば私が「8年前あなたに痴漢されました」と訴えたとして、やってない証明ができる?
あんたが痴漢をやった物的証拠なんて無いけど、それと痴漢をしてないこととは何億光年も差があるんでねぇ
しかも私という人的証拠があるし、あんたの理屈だとクロしかないのかねぇ?
正直、中世の魔女狩りを笑えないレベルの集団ヒステリーだよこれ。
そんで一番腹立つのは、ドラえもんのアイコンにこの下劣かつ浅はかな発言をさせてること。ドラえもんが一番言わなそうなセリフだろうがよ。
てかスマイリーキクチの件をもう忘れたの?
あの犯人たちも「直接の証拠はないけど皆がクロだと言ってたから」正義心で中傷してたんだよ?
お前らとどこが違うん?
あともう一つ腹が立つのは法律のホの字も知らなそうな奴らが、訴訟取り下げ=敗訴みたく言ってることな。裁判前に目的が達せられて、裁判の意味が無くなったから取り下げるケースなんていくらでもあるのよ。
あとはどう書き出すかだよなぁ🤔
いつも通り、思いつくまま適当に書いとくか、出来る範囲で読みやすくしとくか、うーーーん
とりあえず、忘れないうちにメモ書きしとく
ワイは以前、『差別』というものは、生死に関わる問題や経済的な困窮、戦争といった深刻な問題に直結するケースのみに限定されると考えていた
なので、無礼な態度や高圧的な態度は、単にその人の問題であり、べつにどうでもいいと考えていた
そもそも、一般的に高所得と言われる立場にある人間にとって、気持ちを鈍感に保ち、何か言われても気にせずスルーするのは、持っていて当たり前のスキルだ
もちろん、ハラスメントや名誉毀損・侮辱罪として取り上げられるレベルの罵倒や侮辱は除くが、それに至らない範囲の言動にいちいち反応しているのを見ると、
『稼ぐ気がないんだな』『働く必要がない裕福なご家庭の人なんだな』『生まれつき過敏なんだな。生きづらそう』と感じずにはいられなかった
だが、他者を『バカだな』とか『ボンクラだな』と感じるとき、よくよく考えるまでもなく、"自分の方が上だ" という考え、頭にあるよね?
人の価値はお金で測れるものではないにもかかわらず、経済力という一点で優位に立っているという理由だけでーーー・・・とか、いろいろグダグダとやるまでもなく、
『自分の方が価値が上だ』ってやった時点で、<ハイ、差別そのもの>で話は終わりだと、ふと気付いた
『差別』とは、特定の属性(例えば経済力やさまざまな社会的地位)に基づいて、自分を他者より上位に置き、他者を不当に扱う態度のことだからね
自分と同等以上の能力がない人や、自分と異なる興味や能力を持つ人に対して、『やる気が足りないのでは?』と傲慢な態度を取っていたかもしれない
※ 年収に影響する要素で1番大きいのは『運』、ついで『社会制度』、それらに比べたら『能力』の影響は小さいことも、他人の能力を見誤る要因になっている
※ それ以前の問題として、『自分と他人は違うを理解する機能』がそもそも未搭載なので、何度学習しても、つい他人の能力を見誤ってしまう
例えば、女性を『おばさん』と綴り、男性を『男』と呼称しインタビューに応える某皇族は、自分のことを『ガチ貴族』と思ってるし、実際に貴族なんだけど、
(あれがなんでウケてるのかマジでわからん。中世か? 本当、膝を折って各地を訪問した平成天皇だけが皇族の例外でしたわ)、
政財界の人間は、皇族と違って、いちおう一般人の"ハズ"なのに、日本以外の国でかましたら、
失脚、株価暴落、活動家に永久粘着される or 永久に身の危険を覚えることになるような暴言を マスコミにすっぱ抜かれたとかではなく、
公の場で自ら積極的に発信してるのマジでなんなんだろ?って思ったわけです(ナチス発言ほかキリがない)
『オメー、平等絶対の日本のどこでそんな教育を受けてそうなったの?』、『オメー、ガチ貴族ではなくね?』みたいな
だけど、べつにガチ貴族や上級国民でなくても、無限に無礼な人/上からな人いますよね?
せいぜいあっても年収2000万程度で、なんならワイ以下の年収でも無限にいます
つまり、これは生まれや社会的な立場の問題じゃ無さそうだな・・・ってなったわけです
単純にその人の態度(attitude)、人間性の問題なのでは?ってね
なお、アリストテレスは『ニコマコス徳倫理学』で、徳(美徳)は習慣(ēthos)化によって形成されるとって言ってるし、
人間の行動が繰り返されることで習慣となり、それが最終的に性格や人格を形成するって言っているので、
※下記は、マザーテレサでもウィリアム・ジェームズでも無いらしいです
自己責任論って突き詰めたら、森羅万象あらゆる事象は自己責任を主張している本人のせいに全部転嫁できるはずなんだけど、いまだかつてこの主張が自己責任論者に聞き入れられたことがないので、自己責任論者は自己中心論者だと思っている
これは 1000000000%、それはそう
森羅万象ではなく、もっと単純な日常的な視点で言っても、それはそう
例えば、通貨が弱く教育や医療システムが整っていない国からやってきた人々や、スラム街から成り上がった人々にとって、先進国での一般的な悩みは『甘え』のように映るだろう
同じ先進国に住んでいても、呼吸や歩行、食事など、日常生活の基本的なことすら困難な人々からすれば、健康に恵まれた人々の日常的な悩みなんぞ『甘え』に感じられるだろう
でも、先進国で自己責任を説いたり、ぼくあたちは頑張った!努力した!をやる人は、上記の人々と同じ立場に身を置いたことがないどころか、
居所不明児童 の悲劇、 川口高齢夫婦殺害事件(2013年) の当事者に近い環境に身を置く人は今日もいるだろうし、
殴る蹴る性加害など緊急性の高い虐待ではなくても、電気ガス水道が止まるのが日常な環境で暮らす児童は今日もいるだろうし(貧困ではなくて親が生活能力がない)、
ネグレクト・機能不全家庭でなくても、教育DVや暴言が日常とか過干渉とか条件付き愛情とか、基盤を壊すものは無数にあってひとつひとつ挙げたらキリがない
そして、自己責任を説いたり、ぼくあたちは頑張った!努力した!をやる人は、上記の人々と同じ環境に身を置いたことがないどころか、
人類は自然に完全に打ち勝ったわけでも、自然から独立した存在でもない
だが、他の動物と異なり、『優れた貯金力(資源を蓄積する能力)』と『高度な想像力』を持っている。そのため、先進国では、福祉制度や社会保障が充実しており、動物のように弱者を切り捨てたりしない。
また、見て見ぬふりをしてしまうこともあっても、自ら手を下して積極的に弱者を切り捨てたいという輩は異常者とされるし、自分自身が社会から切り捨てられたいとも思うのも異常者だ
したがって、裕福な立場や恵まれた環境にあるすべての人は、たとえエリートでなくても社会的責任(ノブレス・オブリージュ)を意識する必要がある
持てる者が傲慢な態度であることは、エクイティ(公平性)や共通善の観点から見ても、批判されるべきだ
批判的ではありつつも、バーカ、バーカ、と言うのは控えたいと思います
1950年代生まれの世代、つまり今の60代から70代は「しらけ世代」と言われた。
戦後に産まれた彼らは1970年代に若者世代として世代論に組み込まれていく間、戦中世代から常に厳しい非難を浴びてきた。
「しらけ世代」という名前の通り彼らはしらけた世代とされ、「三無主義」が主流だと言われた。
「三無主義」とは「無気力・無責任・無感動」の3つの無が重なった主義であるとされ、1980年代に移行するにつれて「無感動・無作法」あるいは「無知・無法」も加えて五無主義とも言われた。
一体どうして若者がこうなってしまったのか? その理由は当時流行していた「インベーダーゲーム」によって若者がゲームのように人を殺せるようになったからだとか、戦争に行っていない人間は人として正常に育たないからとも言われたという。
本当に、ただただ「自民党を倒す」ことだけしか考えないで投票した。
本当は選びたくない候補者に「でも自民党を倒せそうなのはコイツだし」という理由で入れた。
泣きそうだった。
ウンコ味のウンコの中からから、AIDSやコロナにかかってない人のウンコを選んで食べたようなものだ。
本当に辛かった。
比例も完全に「最も自民党の議席を奪えそうな投票先は?」という計算だけで入れた。
マジで虚無だった。
政権公約を読んでも「え~~~ここに入れたくね~~~~」と思いながら入れたよ。
この国を変えるために仕方のない行為だったけど、報われてよかった。
でもさ、そのあとにやってきた「悪夢の自民党一党独裁」の地獄ぶりを思ったら、まだマシだったなと思い直したよ。
それがようやく終わるかも知れない。
それだけで嬉しい。
たとえ頭がすげ変わっただけだとしてもいいんだ。
鴨長明を「老害」と断定するのは、非常に難しい問題です。なぜなら、「老害」という言葉には、現代社会における特定の価値観や年齢に対する偏見が強く反映されており、中世の随筆家である鴨長明にそのまま当てはめることは、歴史的文脈や思想的な背景を無視することになりかねないからです。
時代背景の違い: 鴨長明が生きていた鎌倉時代と、現代社会では、価値観や社会構造が大きく異なります。現代社会で問題視されるような「老害」の典型的な行動や発言は、当時の社会においては必ずしも否定的な評価を受けていなかった可能性があります。
鴨長明は、出家し、世俗を離れて『方丈記』という深い思索の結晶を残しました。彼の作品には、人生の無常観、自然への畏敬の念、そして人間に対する深い洞察が込められています。このような思想を持つ人物を、単に「老害」と一括りにすることは、彼の思想の奥深さを軽視することになります。
「老害」という言葉は、近年になって特に注目されるようになった言葉であり、その意味は時代とともに変化しています。過去の人物に現代の言葉の意味を当てはめることは、誤解を生む可能性があります。
鴨長明の思想は、現代社会においても多くの示唆を与えてくれます。彼の作品からは、人生の儚さ、自然との共生、そして自己との対話といった普遍的なテーマを読み取ることができます。彼の思想を学ぶことは、現代を生きる私たちが、自分自身の人生について深く考えるきっかけとなるでしょう。
鴨長明を「老害」と呼ぶことは、簡単ですが、彼の思想の複雑さや歴史的文脈を無視した乱暴な判断と言えるでしょう。むしろ、彼の作品に深く向き合い、その思想から学ぶべきものがたくさんあるのではないでしょうか。
「有職読み(ゆうそくよみ)」は、主に中世の日本の歌学に由来し、伝統的に特定の人物名を音読みする方法を指す。例えば、藤原俊成(ふじわら としなり)を「しゅんぜい」、藤原定家(ふじわら さだいえ)を「ていか」と読むように、敬意を込めて古人の名前を音読みする慣習である。このような音読みは、元々は歌人や有名人の名前に対して用いられ、特に江戸時代から明治時代にかけて広まった。
また、この「有職読み」は、個人名に特化した用法であり、姓(名字)には使われないことが多いとされる。例えば、源氏や平氏を「げんじ」「へいし」と読むのは有職読みとは言わない。
この読み方は、敬意を表すための一種の文化的な慣習であり、現代でも一部で使われているが、誤解や誤用されることも少なくない。
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石破総理が伊藤博文を「はくぶん」と呼んでいたので気になって調べたら出てきた。
ちなみに以下によると、はくぶん読みは有職読みではないらしい。
https://www.kanken.or.jp/project/data/investigation_incentive_award_2016_miura.pdf
筆者曰く、人名における有職読みは主に名乗訓み(訓読み)を用いたものであり、音読みではない。一方で、はくぶんと音読みすることは、名乗訓みを無視して漢字をそのまま音読みしているだけであり、有職読みの条件を満たしていない、ということらしい。