「立脚」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 立脚とは

2022-07-09

もはや応援演説存在意義が問われている

どこの番組か忘れたが、

選挙勝敗はどれだけ多くの有権者握手たかで決まるといわれます

と当たり前のように言っていて、卒倒しそうになった。

自分知識がないというのもあるが、

「そ、そんな昭和時代みたいなことをしていたのか・・・

というのが率直な意見であった。

ふと思い出したのが田中角栄エピソードである

(注:私は現代政治は詳しくないけど政治史は興味あるおじさんです)

彼は今太閤と呼ばれ、平民から成りあがったということで、

とくに地元新潟から絶大な支持を得ていた。

彼の秘書だった早坂氏の記録が興味深い。

選挙前に農村選挙カーが入るときには、はだしで田んぼに入って、

作業をしている奥さんやおばあさんに、泥だらけになりながら駆け寄って

「おーっ!奥さんよろしく!」握手をしに行くのである

このような平民目線に近い行動は、票集めに絶大な効果があった。

当時はインターネットもなく、すべての情報口コミであった。

「現職総理田んぼに入って握手をしてくれた」

という口コミは、人を介して絶大な効果を生んだろう。

一方対照的なできごとがあった。

今回の安倍氏暗殺事件で、「女子高生2人の状況説明がうますぎる」

と、ツイッターで少しバズったのである。(現在動画は削除されたか

https://twitter.com/search?q=%E5%A5%B3%E5%AD%90%E9%AB%98%E7%94%9F%E3%80%80%E7%8A%B6%E6%B3%81%E8%AA%AC%E6%98%8E&src=typed_query

彼女たちはデジタルネイティブスマホネイティブであり、

学校の教材も多くがデジタル化されているだろう。

まりデータ処理が生まれつきできている世代である

迅速に的確な情報収集して判断する能力が鍛えられている。

先日も、若い世代議論が怖く、多数決を好む、

という興味深い記事があった。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220707/k10013706251000.html

これも、口頭による議論という不確かで一過性のものより、

データ処理に基づく冷静な判断を求めている証左ではないだろうか?

思えば、「朝まで生テレビ」のような議論番組は、

ショーとしては成り立っているものの、

そこでなんらかの「結論」が導かれることはない。

また、テレワークが普及し2年が経ち、

無駄会議が減った」

「事前に資料を共有したり、時間を決めて会議するようになった」

という企業の声を聴く

こうしたことデータ処理の一環であり、

若者最初からこのような「整然とした」プロセスを好む。

いっぽうで、昭和世代、今の50歳以上については、

「顔を交えて議論しないと進まない」と感じる人も多いようだ。

「胸襟を開いて」「心を通わせて」といった表現を好むのも、

比較高齢者に多いのではないだろうか。

ここにあるのは、老人は決定プロセス感情必須としていることである

もちろん、個々人の行動は感情をもとにしているのが当然で、

モノを買うときは皆、感情に基づいて買っているだろう。

しかし、今回は選挙である

服を買うときのような、ジュースを選ぶときのようなものとは違う。

議論ロジックで、冷静に判断すべきものである

そこに、これまでの日本人投票行動の未熟があったのではないだろうか。

国会議員にはアイドルタレント出身者も非常に多いが、

有名人認知度、という「親しみ」という感情をもとに判断やすく、

票を集めたいからという目的なのだろう。

これは個人意見なのだが、

はたしてこれが民主主義なのだろうか、という疑問である

アイドルタレント政策を持っていて、

それを実現するために提言した結果立候補する、というなら歓迎である

しかし、

権力基盤があって、それの広告塔としてタレント採用されるのであれば、

議員とはなにか?とすら思えてしまう。

理想・構想のない人間国会椅子に座る意味とは?という純粋な疑問である

そして彼らを選んできたのも、国民責任である

昭和テレビ時代であった。

ブラウン管を通じて、感情を動かされた人に、親しみを感じたのである

もちろん、長い戦後歴史のなかでは、

真面目に政策議論をした時代もあったろう。

しかし多くの日本人は、それを判断できなかった、ということもあるのではないか

一言でいうと、政策理解できないバカが多かったのである

から国民生活を守ります!」「所得を増やします!」

という、バカ向けの演説を行わざるをえない。

演説する人も、「バカバカしい公約だ」と思う時もあるだろう。

しかしそうしないと票が取れないのだから仕方ない。

このような蒙昧で前時代的なシステム立脚している選挙に、価値はあるのだろうか。

もはや、すべてオンライン投票でいいのではないか?とすら思う。

票を入れる前に、候補者思想政策を何千文字くらいで詳細に読めるようにする。

動画10分くらいの演説も見られるようにする。

経歴だとかは細かくはいらない。

「どんな業種で、長年従事してきた、〇〇のプロである」が分かればいい。

そこで判断すればいいと思う。

これはデジタル学習に長けた若者にとっても歓迎されるのではないか

断っておきたいが、私は田中角栄氏が嫌いではない。

「おーっ!奥さんよろしく!」握手をしに行ったエピソードが好きである

しかし、それは別に私が感情を揺さぶられたわけではない。

「その時代において」「もっとも適切に・合理的に票を獲得する」方法を、

実践していた、氏の能力評価するからゆえである

人たらしと言われた羽柴秀吉に通じるからである

まりその時代にあった方法を、常に探り続ける、というのが重要なのだ

今の選挙方法は、昭和と何が違うだろうか?

違うところを挙げるほうが難しいのではないだろうか。

そういうことである

ダルマに目を入れたり、赤いバラ当確者の名前に張り付けることが悪いわけではない。

「今、この方法が最適なの?」「街頭で無防備に叫んで、握手することが必要なの?」

問うこと重要なのではないだろうか。

外国によっては、その「問うこと」自体禁止されている国もある。

日本は恵まれた国であり、民主主義恩恵を得ている。

民主主義を最大化する、そのためには、

若者意見積極的に取り入れ、

企業や国の意思決定に関与させることだと思う。

歴史を見ても、老人が意思決定すると、独裁・強圧的な国家生まれる。

戦国時代を終わらせるきっかけとなった桶狭間の戦いとき信長20代であった。

天安門に集まり戦車の前に立ちはだかったのも、若者であった。

つの時代も新しいもの若者からまれるのである

企業生存戦略でも同じ。

新しい技術クラウドだとかセキュリティへの投資を怠ると、

もはや取引から選択対象から外れ、成長が困難な時代になっている。

「今までこうだったから」「現状こうだから

という企業は潰れていく。

逆に、若い社員にまかせて企画したり、SNSを通じて発信するような企業は、伸びている。

デジタル世代が急速に育っていて、ポテンシャルの高い人材が生まれている。

彼らを押しつぶすことのないよう、彼らの才能を最大限活かして、

日本繁栄を推進していくことを強く希望する。

それが安倍首相へのはなむけであるようにも思う。

2022-07-03

anond:20220703170911

赤松の主張はその無難表現規制されそうだからそれを防ぐというところに立脚してるのでこれ以上なく主張に合ったデザインだろ

2022-06-11

anond:20220611190852

そいつらが民族主義国家主義ちゃん立脚しているなら筋だけは通っているな

でもお前らは既にそういうのを否定し思い切りバカにしているのだから、今更そんな理屈には頼れないはずだ

anond:20220610161117

そういえば野球グラブって革製品なんだな

ほかのスポーツと違って必ず牛の殺戮立脚することになる

バスケボール茶色だけど人工皮革だしな

あとは弓道とか鳥の羽使ってるね、使わなくてもやれるのかもしれないけど

かに動物さないとやれないスポーツってある?

ヴィーガンの人ってどう頑張っても野球できなくないですか?

同じ草野球チーム方が減量のためにとヴィーガン食を始めようと言っているのですが、野球グローブはもう廃盤になってしまいましたがナイキのヴェイパーとかを除けば革製品なのでヴィーガニズムに反すると思うのですが…

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13257940293

2022-05-12

anond:20220512212958

あー、あんたド派手に勘違いしてるけど、AVは無くならないよ。なくならないんだよ。どんなに強い規制かけたって無駄だよ。そこに立脚せえよ。

2022-05-07

anond:20220507122210

最近フェミニズムってこの辺りがとても狡猾で、

フェミニズム妥当であるというのは「男女平等」という前提の上に立脚してるわけで

女性を優先せよ」というのであればフェミニズムナチズムと同じように排斥されるべき主張かもしれんぞ、というとこらから議論をやり直すべきだよ

男女平等」という定義を設定しないんだよ。

であれば、何が目指す状態なのかを明確に定義しないと議論にならないんだけど、個々人の中にあるものとして、そこの議論から逃げている。どうなればいいのか、と聞いてもフェミニストから真っ当な答えが返ってこないのはそのため。

目の前のものに、反射的、動物的に「イヤイヤ」してるだけなんだよ。

って、そういうこと。

anond:20220507115509

男女間で別の基準適用するのはフェミニズム的にはなんの問題もない行為ですがな

だとするとフェミニズムのもの妥当なのかどうかという問題になるよね

フェミニズム妥当であるというのは「男女平等」という前提の上に立脚してるわけで

女性を優先せよ」というのであればフェミニズムナチズムと同じように排斥されるべき主張かもしれんぞ、というとこらから議論をやり直すべきだよ

anond:20220502165325

そのキャラクター男性であるというだけで当たり前のように発生するレイプ奴隷脅迫同意が無くても触られれば快感を得るという前提の性交パワハラセクハラルッキズム社会的役割強制ステレオタイプ肯定、年少であることの価値…に立脚したロマンよりどりみどり世界からねえ。この流れが正しいかどうかは置いておいても令和にこれらを楽しむことを共有するのは諦めるしか無いだろうね

個人的には男女向けどちらに対してもポリコレ馬鹿馬鹿しいな〜と思うけど

2022-05-03

中絶禁止の流れへの反論の何がおかしいのか

アメリカテキサス州で、実質、人工中絶不可能になる州法が成立したらしい。

まず、これに関するリアクションのうち、それは間違っているよ、と言う諸々を指摘する。まず、この州法違憲、あるいは脱法的であると言う見解について。

そもそも合衆国憲法で、中絶権の規定は無い。今日妊娠中絶合法化連邦議会レヴェルでの立法措置も経ておらず、1972年のロー判決根拠としている。レンクイストホワイトは、ロー判決に関しては、「司法による立法措置であることを理由として、ロー判決に反対している。

まりそこにあるのは、司法解釈であって、法律や明確な憲法規定ではないわけだ。だからそもそも違憲」になりようがないし、脱法的にもなりようがない。そして司法解釈に過ぎないから、司法解釈で変更され得る。現在最高裁に今回のテキサス州法の案件が回れば、ほぼ確実にロー判決司法解釈棄却される。

違憲だ」「違法だ」と言うけど、保守派法廷闘争を待ち望んでいるのだ。法廷闘争になれば、負けるのはリベラル派であり、そうなれば「違憲だ」「違法だ」と指をさされるようになるのはリベラル派の人たちであり、人工中絶した女性はめでたく犯罪者だ。

ここ40年、おおむね最高裁保守派優位で推移してきたけども、ロー判決を廃棄できる機会が何度かありながら、それが出来なかったのは、レーガン指名されたオコナーケネディ、スーターの3判事が、最高裁陪席判事になってからスタンス保守派からリベラル派に変えてしまったせいだ。そもそも合衆国憲法自体リベラルなので、ごりごりの保守派とみなされていたスカリアでさえ、憲法原理主義的な解釈をする人なので、判決としてはリベラルになることもあった。

それの前例も踏まえて、今の保守派判事たちは、かなり強固な保守派が選ばれているので、最高裁長官職務にあるロバーツが職責上、敢えて中立的スタンスをとることもあるのを除けば、リベラル寄りの判決を出すことはまずあり得ない。今は最高裁は6対3で保守派が優勢なのだ

保守派にしてみれば、法廷闘争ばっちこい、と言う感じであるとはいえ、その6対3の保守派優勢の最高裁が、トランプ要求したオバマケア違法化にはNOを突き付けたように、100%党派的な思考をとるわけではないが、中絶は、命の問題から、そうそ簡単妥協する余地も無いのだ。

 中絶に関する議論で、男女平等と言う観点からもっと言えば「男も逮捕しろよ!」的な意見から立論する人もいるが、根本的にその人たちの論理が間違っているのは、これが公共の福祉の調整案件だと言うことを認識していない点にある。胎児人権女性の間での公共福祉の調整案件が発生しているのであって、そこには男性権利と調整しなければならない必然性は全く無いのである

 これは言うなれば過去徴兵制における男女不平等が、「機能的な軍隊必要とする政府必要」と「徴兵されることによって著しい負荷がかかる男性の諸権利」との間に発生したものであって、それは男女不平等ではなく、「女性関係がない」案件であったのと同じことであるロジカルにはそうでもあるし、歴史的に言えば、徴兵制のように女性には他人の命を犠牲にして、法益享受してきたと言う「実績」もある。

 言ってみれば中絶禁止は、「女にとっての徴兵制」であって、徴兵制の名のもとに、徴兵された男性たちの「戦死」を見守って来た女性たちには、「女にとっての徴兵制自体批判するロジカル資格は無いのである

 そして、中絶に関して言えば、どこからがヒトとみなすかと言う難しい問題はあるにしても、1月1日13:00に新生児誕生するとして、13:01に新生児を殺せば殺人で、12:59に”胎児”を殺せば器物破損に過ぎないと言うのは、機能的にも倫理的にもかなり無理がある。自然着床した受精卵にヒトと同等の、あるいはそれに準じる人権を想定するのは、最も無理が無い解釈だろう。放っておけばいずれヒトに至るのだから

 そして胎児受精卵はDNAが違うので、女性の一部ではないし、女性付属物でもない。他人の命を女性に無条件に与えていいのかと言う問題でもある。

 胎児人権生存権)と女性身体自由権比較した場合、どちらが重篤な損害を被るのかと言えばそれはもう生存権であるのは間違いないので、人権を重視すれば重視するほど、中絶違法化する以外には考えられない。この袋小路女性が逃れ得るとすれば、「胎児はヒトではない」とするか、より根源的な人権思想ではなく、単なる女権思想を至上としてその上に立脚して「女性に損害をもたらすから中絶禁止こそが違法である」とするしかないのである

 どちらもナチス的なファシズムに陥っている。つまり機能的には既に自立しているような胎児に対しても、ヒトではないと規定し得ると言うことは、障碍者、LGBTQ、ユダヤ人などをヒトではない、少なくとも生存が許され得るヒトではないと規定出来る権能を、政府社会に与えると言うことである人権思想の上に女権思想を置くことは、ナチズムのものである

 宗教保守から中絶禁止の動きが一方的に起きているわけではなく、リベラルの内部においても、人権思想観点から中絶には批判がなされていることには留意すべきである

 とはいえ強姦の結果としての妊娠出産まで強制するのはプロライフ派の大多数にとっても本意ではない。それは、性的被害記憶と結果が多大な負担と共に長期化し、心身ともに女性生存レベル危険に追い込むことに他ならないかである。この場合は「緊急避難」が想定されるだろう。誰も他人の命を救うために、死や死に等しい損失を甘受する義務はないのだ(徴兵制はこの意味でも、最も過酷で最も非人間的な強制であった。そして女性はそれを放置していた)。しか現実中絶案件ほとんど、かなり緩く見積もっても95%以上は、強姦案件ではない。性行為をしなければ防げるものであるし、避妊器具を用いれば防げるものであるし、ピルを飲んでいれば防げるものであるし、アフターピルを用いれば防げるものである。数多くのルート回避方法があるにも関わらず、それらの回避をしなかった結果の妊娠中絶である。当然、胎児生存権を上回る法益性がそこにあるとは考えにくい。

 私は、強姦案件での中絶合法、それ以外は違法、とするのが妥当だと思うが、その妥当な落としどころが「女性身体権の絶対性」主張派とは築くことが出来なかったがために、より人権原理的な立法措置が、アメリカヨーロッパでも徐々に取られつつあるのが現状である、と言う認識である

2022-03-31

修了しました

どうしてこんなことになったんだろう。ここ数年で何度も思ったことだ。

これは奇妙な巡り合わせで出会った私にそっくりの友人が大学卒業時に書いた文章の書き出しである。この鏡合わせの彼が書いた文章を何度も自分事のように反芻してきた私は今年大学院を出る。修了という立場に際して、私も少し自分語りをしてみようと思う。他人自分語りなど興味の無いという方もたくさんいるだろうから、そういう方はこの時点で引き返してほしい。思うままに書き殴っているので読みづらいし長いと思うが、それに我慢できる人だけ読んでもらえればと思う。

・生い立ち

私はごく普通環境で育ったと思っている。地方在住で金持ちでも貧乏でもない家で、両親は優しくて、友達もいた。小中学生のころの自分一言でいうと優等生気質だった。学校勉強はそこまで苦にしなかったし、危ないこともしなかった。先生の言うことには従っていたし、学級委員を務めたりするタイプ人間だった。強いて言えば両親が少し頑固だったくらいだ。

小学校では初めに陸上クラブに入った。運動は苦手かつ嫌いだったし、何よりブラスバンドのようなクラブがありそちらに入りたかった。父が無理にでも私を陸上クラブに入れたのは運動の楽しさを知ってほしかったのだと思っている。運動神経のいい父にしてみれば運動は娯楽だったのかもしれないが、運動神経が壊滅的な私にとっては純粋身体能力を問われる陸上は苦しかった。そのため5年生からブラスバンドやらせてくれと懇願した。タダで許してくれるはずもないので中学では運動部に入ると交換条件を付けた。5年生から始めたトランペットは本当に楽しくて練習した。6年生の途中からは1stトランペットを担うこともできた。

中学では周りの部員吹奏楽部に行くのを横目に約束通り運動部に入った。誤解のないように言っておくと別に部活動自体は楽しかった。ただ音楽から聞こえてくる音を聞くたびに自分もこの中にいたらどうだったろうと思うことは度々あった。中学では同学年内でいじめもあって、被害者ではなかったものの学年中を巻き込みつつも教師黙殺しているそれに優等生気取りの私は心を痛めたものだった。その頃の私はもっぱら公正世界仮説(当時この言葉は知らなかったが)の敬虔信者であり、親や先生にほめられている優等生自分はいつか報われるし、逆にいじめなんぞ加担している人間はその人間からどこかで破綻すると思っていた。

 高校は少し離れた進学校に入った。近隣の学校に行く人が多かったが、いじめの件もあり彼らと距離を置きたい気持ちも大きかった。流石にレベルの高い授業でもあったが、モラル教養を持った人が多く非常に楽しい生活を送った。高校部活軽音部と兼任しようかなと考えていたが、他方の顧問専任希望するような言い方をしたので諦めた。別に悪い人ではないと思うが、他人に機嫌を取らせるタイプ人間だった。高校では成績をぐんぐん落とした。周囲のレベルの高さもそうだが、私には2点の欠陥が見え始めていた。1つは努力中学生まであまり勉学に苦労しなかった私は勉強に労力をかける癖がなかったし。加えて苦手な運動は一向にできなかったし、好きな人アプローチしても付き合えなかったし、理論武装して親に頼み込んだことも結局許されなかったり、努力してできた経験と言えば自転車の補助輪を外すときくらいのものであったように思う。努力の数と成功体験の数なんて鶏と卵かもしれないが、努力をした経験もおそらく人よりは少なく、努力が実った経験もっと少ない人間だったように思う。もう1つは先天的能力限界である。これまでの自分は「丁寧に教えてもらえば理解ができる」という能力を有していたと思っている。中学生までの自分が苦労しなかったのもこれが原因だと思っている。しか高校3年生になると少しそれに陰りが見えているのを人知れず自覚していた。周囲の人間には見えていないようで、親や先生は褒めてくれるし、同級生から勉強ができるという認識をされていた。

 3年生になると嫌でも受験を考えなければならなくなる。私はどこに行って何をするのだろう。勉強は好きではない。高校では文芸部の本に部外から投稿してすごく評判が良かったし、文化祭の劇の脚本演出担当して最優秀賞を取れた。そのあたりの活動は楽しかったしクリエイティブなことがしたいかな、あと音楽。それとなく親に専門学校の打診してみたけど、4年制大学に行けといわれた。「いい大学に行けばいい企業に行けるからね」と言われてきていたし、親心としてはそんなもんだよねと理解した。自分としてもレールを外れることに恐怖はあったし、レールに従うことで周りと同じように大学に行って、就職して、結婚して子供を作って、今の家族のような生活が送れるならそれでいいと思っていたのでじゃあ普通大学に行くねとなった。

 問題になるのは何がやりたいかである。私がやりたいことって何だったんだろう。結局見つからなかった。そこで親がアドバイスをくれた。

「まだやりたいことが見つかっていないなら、ここに行けばいいんじゃない?」

親が指し示した大学は、入学時に専攻を決めなくてよいという特殊制度もつ大学だった。みなさん名前ぐらいはご存じの都内大学である。幸か不幸か、私にはそこを目指せるだけの能力はあった。

長くなったが、これが地獄の幕開けである

大学という場所

1浪しなんとか2年目で合格して大学1年目。はじめに学んだ格言がある。

大学では勉強サークル恋愛バイトのうち2つしかできない」

勉強は好きではないので、サークルバイトをやるんだろう、恋愛もあるのかななどと入学後の私は胸を躍らせていた。憧れのバンドサークルにも入った。周りは経験者なので食らいつこうと頑張った。大学から帰って仮眠を取り深夜の安いパック料金で明け方までスタジオ個人練、シャワーを浴びて大学へ。その生活をしていたら資金ショートした。親にバイト禁止されていたため練習交流のためのお金が足りず、実力もつかず人脈もできずにフェードアウトした。

 大学の授業はひどく不親切であった。大学レベルも相まって何をやっているのか理解できなかった。高校の時に疑問を持っていた内容が解決されるかと期待していたが、それらは大体1,2回目の講義解決してしまものか、もしくは深くがっつり専攻しないと理解できないようなもののどちらかで、学ぶモチベーションにはつながらなかった。教える側も教科書も「説明してはいる」「書いてはある」という感じで、高校までのようにわかやすくとはいかなかったから、「丁寧に教えてもらえば理解できる」タイプの私では太刀打ちできなかった。つまらないし時間無駄に思えて次第に講義休みがちになった。

 それでも、とりあえず大学を出れば何とかなると思っていた。ここで耐えている自分はきっと報われると思っていた。好きなもの大学で見つかればいいし、そうでなかったら高校までの勉強ができるから教師になればいい。これが1年目の私であった。

崩壊

 初めてショックを受けたのは成人式のことだった。新成人代表として何人かの陽キャ集団が壇上にあがった。式の前後に彼らと会ったがある人はバツが悪そうに私から目をそらし、ある人は肩を組んで話しかけてきた。どちらもいい気はしなかった。彼らはいじめの関係者である。なんで彼らの方が人生謳歌しているんだろうか。その時にふと思った。「結局彼らは世渡りがうまかったんだ」と。くだらない正義なんて捨ててその場で空気を読んで得なほうに回るっていうのが正解で、黙殺していた奴らもそうだったんだ、なんて自分は愚かだったのかと。そう考えてみると社会に明確な悪役はいなくて、したがって明確な正義存在しない。正義道徳立脚した自尊心のなんと脆いことかと思い知らされた。

 そして、もう一つ。親や教師というのもまた所詮人間だとこの年になって気づいた。この中の何人かが数年のうちに教師になって、親になる。はっきり言って話の通じない人だっているが、そんな人も年さえ取ればいつかは親や教師になりうる。だから黙殺した教師も、話の出来ない親もおかしくはない。じゃあ私が優等生してきた、私が正しさの根拠としてきたものは何だったんだろう。優等生であることを数字で示してくれるものは成績くらいしかない。世渡りが下手で運動などの技能も持たず、それでも私が公正世界仮説を信じてこれたのは、案外「勉強ができること」に依存していたのかもしれない。勉強しかできないやつだけど勉強ができるから何とかなる、そんな風に自分無能さを騙して生きていたのかもしれない。

 さらに拠り所の勉学さえ崩れ落ちた。留年が確定したのだ。受験でも足を引っ張った物理がとことん苦手で何も理解できなかった。2年目は学費負担を減らすべくバイトをさせてもらった。サークル活動事実上全部やめ、バイト勉強の日々が始まった。バイト先は学生が割と多かったため、みんなと仲良くなれた半面、繁忙期が重なった。私は試験前はむしろシフトが増加し、結果的に致命的な必修単位だけ落としてしまった。2留である。親に電話して事情説明した。単位くらい取れとストレートに怒られるかと思った。代わってあげる優しさを評価しつつもやりすぎだと注意されるかもとも思った。

あんた人にいいように使われてるだけでしょうが

人にやさしく優等生してきた自分生き方への批判自分が仲良くしている人たちへの非難ダブルパンチで頭に血が上った。怒りで何も言葉が出ずに何秒か無言の後電話を切って、壁を殴った。

数日すると気分が落ち込んできた。親はそれを「単位を落としたから」と解釈したようであるが、全く違う。私は他の人が当たり前のようにサークルバイト恋愛を掛け持ちして進級している中で、バイトしながら進級できなかった。私は当たり前のことすら満足にできない無能であると、薄々感じていた自分無能が隠せなくなってしまったのである

 3年目は再びバイト禁止した。クラスでの試験対策仕事もやり、その科目の勉強をしなければいけない状況を作った。サークルとしては冒頭の彼の紹介で新しいサークルに入った。サークルでできた友人とは本当に仲が良く、勉強を助けてもらったり、サークル関係なしに遊んだ大学での生活の基盤になった。助けてもらえる人も増え、自分学習するようになり、この年の上半期では単位の取得ができた。しかし、私が感じていたことは決してポジティブなことではなかった。私がこの年の経験でわかったことは「お前はやればできるが、環境サポートがあって自分勉強してもちゃんとできるのは2単位」ということである。私は2年で70単位以上取得する想定のカリキュラムを、半年で2単位しか取れない脳みそでやっている。無能すぎてもはや卒業が無理なのではないかと思った。

公正世界仮説評価軸としてきた大人たちへの信頼、自身の実力への評価の3つが音を立てて崩れて、この時私は確かに一度死んでしまった。このことに気づく前の自分に戻れなくなってしまった。中学いじめがらみで「死にたいけど死ぬ勇気もない」って言ったときに「死ぬのなんて勇気って言わねえ」って怒鳴りつけてくれた友人がいた。

・専攻決定

4年目にして2年生。この年は諸々の事情クラスから孤立した。喧嘩別れのようなものである。私としても仲良くする気はなかったので1人でどこまでできるかやってみようと思った。結果は惨敗だった。単位取得こそぎりぎりできたものの私はこの大学では人に寄生しないとやっていけないと気づかされた。

そして、4年前に選択先延ばしにしたツケの返済期限が来ていた。専攻の決定である。結局4年間でやりたいことは見つからなかった。勉強面白くないし、勉強以外の何かを思い切って始める余裕もなかった。教員になろうかとも思ったが、それもかなわないと思った。教職卒業単位には含まれないため、追加でいくつも講義を取る必要がある。通常のカリキュラムすらまともにできない私にそれは無理だろう。ちなみに私と同じく成績の芳しくなかった冒頭の彼は教職を志して単位を取得しに行ったが、弊学では満足に教職まで取り切れなかった。教職を目指した世界線の私もきっとこんなものだろうと思ってしまった。

理系科目はわからなかったので、唯一興味がわいた心理学を専攻しようと思った。しかし、成績が足りなくて進むことが絶望的だった。ここで初めて間違いに気が付いた。この大学システムは何をやりたいか不明瞭な人間を救済するシステムではなく、やりたいことや才能が複数ある人間選択肢を与えるシステムなのだと。私などがこの大学には来てはいけなかったんだと激しく後悔した。

このシステムでは通常、成績が足りなければ次の年に再挑戦することができる。しかし、私は4年目であったがために在学年限が迫っており、この年で専攻を決定しなければならなかった。そのため、当時人気の低かった化学を選んだ。化学は苦手で高校化学すらわからないが「とりあえず大学を出れば何とかなる」のであれば、と苦渋の選択をした。

実験異変

5年目、3年生。1限からの授業と週3回の実験があり、9時-18時のような生活になる。実験には予習とレポートがあるため、実際の拘束時間はこれより長い。何とか4月を乗り切ったところで、レポートを1つ残してしまった。GWに入ってレポートをやらなければと思って毎日机に向かおうとした。いや、向かったこともあった。だが、ペンを持っても何も書けない。そのまま時間が過ぎてごはん時になり席を外してご飯を食べる。そんな日が続いてGWの最終日、床にへたり込んで泣いた。書かなきゃいけないと思いつつも1文字も書けなかった。

 3年生の必修は実験だけだったので、他の単位犠牲にしてでも取ろうと考えた。1時間だけ講義を休んで...その1時間を何も書けずに終えた。これを繰り返してほぼ全ての講義を欠席した。次第にいろいろおかしくなっていった。頭痛もちでもないのに頭が痛みだした。文字が読めなくなり、教科書はおろかネットニュースくらいの簡単文章でも字が滑るようになった。1日にできることがゴミ出しと洗濯くらいになり、起きて寝る以外に食事、入浴、ソシャゲの周回くらいしかしてない生活になった。

 溜まりに溜まったレポート夏休み前に呼び出しを食らったことで、無理やり夏休みを使って消化した。歯を食いしばりながら全部消化したことは覚えているが、歯を食いしばればできたことがなぜここまでできなかったのかこの時は疑問だった。

 4年生になり、大学院へ進学することになったが、大学院の手続き入試勉強、足りなかった単位試験勉強などでタスクが溜まった瞬間、この症状は再発した。友人の勧めを受けて学生相談所に通うことになった。

能力環境

学生相談所のカウンセラーはいい人だった。いろいろお話をして気持ちは和らいだ。専門的なこととしてはWAISの検査を受けた。結果は処理速度だけが異様にへこんでいる格好になった。別に数値は低くないので大丈夫と言われたが、「問題の有無は環境によって決まりませんか?能力の高い人が集まる環境ではそれなりの能力要求されますよね?」という質問には満足のいく回答は得られなかった。

 親にも何度か愚痴を言ったことがある。そのたびに「あなた世間一般には優秀だから大丈夫」と返されるのである。何が大丈夫なんだろうか。”今の環境”が辛いと言っているのに”世間一般”という別の集団を持ち出して何の救いになるんだろうか。これ自体も言ってみたことがあるが「なんでそんなこと言うの」と言わんばかりの困惑した顔をするだけだったのでやめた。別に親以外でも同様のことを言う人はいる。世間一般評価邪魔をして、まともに助けを求めることすらままならない。内部の人間から見て無能で、外部の人間から見て有能な私は、共感を得られる対象がとても限られていて苦しかった。大学ブランドという呪いにかけられて苦しかった。

 やりたいことをやれていればよかったのだろうか。サークル作曲体験させてもらう機会があった。でも続かなかった。結局忙しいとかいろいろ言ってインプットから逃げている自分がいる。クリエイターにはなれなかっただろうなと思った。好きなことも頑張れない自分に「自分が勉学を頑張れなかったのは勉強が嫌いだからじゃない、努力が嫌いなんだ」という事実を突きつけられてまた悲しくなった。あれほどに信じてきた公正世界仮説は「お前が苦しいのはお前が間違ってきたからだ」と自分に牙をむき始めていた。

・進学と私

大学院へ進学することにした私だが、実は私は望んでいなかった。学部時代夜遅くまで研究に勤しむ先輩たちを見ていて「私にこれは無理だ」と実感していたかである研究への熱意はおろか、化学への意欲も知識もないのである。ただでさえ病む人が多く出る大学院という環境にこんな人間が行くのは自殺行為に他ならない。そのため、私は就職を強く希望した。しかし、親にそれを伝えると「今のお前に就職はできない」と言われた。就活を終えた今だから言えるが、これは正しかったように思う。議論は「就職はできないから進学しろ」「院でやっていけないか就職させろ」の平行線で、就職も進学もろくにできない無能をぼこぼこにリンチするだけで生産性はなく、結局「とりあえず進学はするがいつでも辞めてよい」という落としどころになった。

 私は院試に落ちるのが最適解だと思った。学力もないので真面目に受けても受からないだろう。院試を受けたけど落ちましたというのが親にも研究室にも一番角が立たない。しかし、筆記試験が思ったより点数が低かったのか通ってしまった。面接をすっぽかすことも考えたが、会場に研究室の先生方がいるかもしれないことを考えると気が引けた。面接では辞退の意思を伝えるつもりだった。面接官と私だけの秘密である。私は院試を受けて落ちたのだと周りに言えばよい。

 Permalink | 記事への反応(0) | 23:43

2022-03-29

anond:20220329122655

マジレスすると、科学というのは反証可能性だとかに立脚していて「常に間違っていると反証される可能性があるもの」なんだよね。だから科学に携わる人間は(まともな奴なら)科学を全く「信じて」はいない。「これまでの経験検証から十分正しいと考えられる」くらいまでしか言わない。理論実験仮定の積み重ねで正しさの蓋然性を上げているだけなんだよね。

それに対して、科学に携わらない(あるいは毛嫌いしている)一般大衆思考基本的に「信じるか信じないかしかない。そして常に「信じられる対象」を探し求めている。それが安心の源だからな。そんな一般大衆に対して、科学者は絶対に決して「科学を信じてよい」とは言わない。「科学的にはおそらくこうだろうと考えられる」としか言わない。そう言われた一般大衆は、科学を「信じて」いいのかどうか分からなくて安心できず不安になりストレスが溜まることになる。

一方で、デマニセ科学スピリチュアルは「これが正しいのです。信じなさい」という結論ダイレクト提供してくれる。その内容の真偽ではなく、「信じてよい」というお墨付きこそが大衆安心を与える魅力なわけだ。それがデマニセ科学スピリチュアルいつまでも人々を惹きつける理由だと思う。よくある科学関係者一般人の喧々諤々の議論もそこのところの基本認識がズレていて、一般人からすれば科学者は科学を「信じて」いると思っているし、科学者は一般人反証可能性を受け入れていると思っているから話が噛み合わない。

2022-03-21

SESがなぜポンコツ生成器なのかがわかった

マルクス資本論にそれに近いことが書いてある。

SES共産主義立脚している可能性がある。

2022-03-18

anond:20220318200018

賃金を上げろと主張している人は弱者男性ではない」

みたいな誰も信じないオレオレ定義立脚した攻撃

その定義をつつかれると一瞬で破綻するぞ

2022-01-06

anond:20220104153858

1.「表現規制派」という括りが適切に思える程度には連帯してるよね?

まず大元増田の「嘘吐くな」は一人一派云々みたいな話じゃないので、その時点で「まずそれぐらい認識合わせてくれよ?」って感じだけど、そこは横に置いとくね。

で、一人一派はわかる。

子供に悪影響」という人もいるし「性犯罪を誘発」という人もいるし「不快」という人もいるというだけ

わかるよ。で、その、例えば「子どもへの悪影響を危惧する人」にとっては、特に根拠も無く性犯罪を誘発するとかいレッテル貼りに行く人や、不快だという感情論で暴れる人は、敵だと思うんよね。そっちはそっちで子どもに悪影響ありそうでしょ。例えば90年代クレヨンしんちゃん程度には。そんな大人子供に見せたくなくない?

まあそこまで行かなくても、味方の顔してトンチキな暴れ方する奴って、普通に自説を通すのに邪魔になるでしょ。批判したり決別するのが妥当でしょって程度には、ベクトルがズレてると思うんよね。

でも、そういう人らが、何故か連帯してるの。いいね付けてRTして★付けてる。(もちろん、言ってる事がコロコロ変わる個人というのも普通にいるけど、そういうカスは除いておきますね)

それを外野視点から「あの人ら主張は全然噛みあってないけど、オタクのお色気を社会から排除するために連帯してるんだな」って認識してしまう事って、そんなにおかしい?

2.「エビデンスはない」のグラデーション

お笑いバラエティの真似してイジメが起きる」と、例えば「宇崎ポスター売血に繋がる」「戸定梨香が性犯罪の増加に繋がる」を、同じ「エビデンスは無いっちゃあ無いよね」で、それ本当に自分で適切な比較だと思って並べてる? 程度問題ってあるやん?

まあ程度問題ってのは、つまり個人の匙加減の話だから増田が「同じでしょ」っつうならもうそこで終わる話だけど。

議員肩書使ってV個人無茶苦茶レッテル貼って異議申し立てにはだんまり決め込んで逃げに徹するとかい政治家ムーブ決めるフェミ議連積極的に支持する連中が、平気な顔して「ポルノが大好きなだけだろwww」ってセクハラ垂れて、それでオタク美少女ポスターには悪影響悪影響言うの、バランス感覚バグってるとしか思わんけど。仮に「社会への悪影響」なるもの存在するとしたら、どう考えてもそっちの方が悪影響は大きいでしょ。

あと個人的にはももネタは気にしてない。ルッキズムへの皮肉解釈できる余地があるので、そこを信頼する。ま~でもやっぱダメなんでしょうね~という諦観もあるが。

チー牛の件とかもそうだけど、普段ルッキズム批判でキャッキャしてた連中が、ことオタク?男?が声を上げた時に限ってフルスイングの当て擦りをおっぱじめる所はマジで気持ちいねとは思うけど。

3.タバコ、ノーシートベルト自転車二人乗りの表現規制って、受け入れられてるの?

どっちかっつうとイジられてない? 「タイムリミットが迫ってるのに律儀にシートベルトwww」とかって。タバコもそう。うろ覚えだけど、銀魂で本誌でイジられてなかった? 自転車二人乗りは知らん。

で、その規制体現した化身みたいなもんがネットで殴れる射程範囲に降りて来ないから殴り合いが発生しないというのも思いつつ。

それで特に表現を大幅に歪まされて原作レイプ食らったとかが無い(僕が知らん所で起きてたのかも知れない。銀魂の土方ファンとか)から黙認されてるだけではというのも思いつつ。

レーティング後者かな。実質的な支障は無いか容認されてるだけ。小学生20歳のテイでアカウント作ってフォーナイトやってる。それでも例えばバイオハザードゴア表現とかで時々俎上に載ってる。

最近だとクレカFANZAの話とかもあり、そっちは危機感が高まって来た感じがありますね。

相手が強すぎるから戦ってないだけ、勝てる相手を選んでイキってる」という指摘は、半分はその通りだと思う。残り半分は、お色気批判はずーっと続いてる話だから、反対側もずーっとそこが最前線になってるだけというのもある。

で、その増田の言う「エビデンスなくても規制してよい。お前らも受け入れてる」という主張は分かるよ。それが即ち「だから俺らのエビデンス無き主張も受け入れられるべきだ」となる理路は、何かしらおキメあそばしてるのかな?って程度には分からんけど。

エビデンス無いなら無いなりに、納得感が要るよね? 日本共産党も「社会合意形成する」って言ってたよね。要るのよ。合意が。反対論者と膝突き合わせて対話努力して理解を得るっていう超々々泥臭い手続きが待ってるわけよ。

https://www.tyoshiki.com/entry/2021/11/11/121604

>長くなったのでまとめると「人に話を聞いてもらいたかったら地道なコミュニケーション必要サイゲームスは頑張った。フェミはサボった」

それ、誰がやるん? 誰もやってへんよね? ネットで暴れて反対論者を侮辱してたら自動的形成されるとでも思ってるのか? それとも自分らはなーんもやらなくても、志位和夫という強くて優しい日本一のパパがお膳立て全部やってくれるみたいなつもりでいたのか?

実際は、若者はどんどんリベラルになって行ってるし、男女同権意識もどんどん広がってるわけやん? 今日日、「職場にスケベポスターを貼るのは普通」みたいなのおらんわけよ。誰かがやってるの。

ネットで暴れて雑語りして、たまに一線踏み越えて男性障害者トランスセクシャル蔑視排除する発言やらかしても「自分がやったのは差別じゃなく区別だ」って醜く正当化する様なネトフェミ連中などでは決してない、立派な人らが頑張ってるお陰で、50年100年掛けて社会はそういう風に変わって来たし、これからも変わって行くの。

で、50年掛かる様では意味が無いぞ、今すぐ変わらないと自分にウマ味が無いぞって癇癪起こす個人主義全振り野郎ネトフェミなの。そいつらがフェミニズムを騙ってるのもそう。過去偉人の業績を笠に着てイキってるだけ。代紋チラつかせるチンピラ親分の顔に泥塗ってるの。

勝ち馬に乗ってる」と言ってもいい。世の中はそっちに変わって行ってるんだから町山智浩らの界隈もそうじゃないですか。内面90年代の露悪のまま、表面的に先進さを装ってイキってる。「簒奪」と言ってもいいよ。

何の事は無い、ネトフェミ連中が例えば男性、例えばネトウヨ、例えば差別主義者に投げつけた言葉は、全部自分らもやってる事だったの。自分が蛇だから相手も蛇に見えたの。

追記

ってやり方もまあ模倣なっちゃうんだけど、当増田メモスト氏とは別人です。元増田が箇条書きで返してたので、そこに乗っかった。それで誤解を招いたみたいで、申し訳ない。元々増田メモスト氏かも知れんね。違うかも知れんけど。

個人的には箇条書き以外で寄せたつもり無いので、箇条書きオンリーメモスト氏扱いされても困るなあというのはある。

あと、トラバブコメで「連帯なんかしてねーよw被害妄想www」みたいなリアクションが多々ついてるんだけど、じゃあ「一人一派」って何なんだよ。「連帯してるが、一枚岩の群れとして一貫しているわけでは無く、個人個人意見がある」って言葉じゃなかったの? 単なる個人ではなく一人一派標榜するなら、連帯は前提だろ。それに対して「そんな身内の理屈外野に通じないから、理解を得る努力を(アンチフェミ見下し遊びなんかよりも大きく優先して)するべきでは」って話をしてるんだけども。

はてサとかネトフェミ(に限らず、無論ウヨ側の底辺イナゴもだけど)ってそういう、目の前の気に入らねーモンの揚げ足取るためなら自分らの立脚する大前提をぶっ壊すのさえ厭わない猪突猛進って感じ、本当にかっこよくて尊敬してるんですよ。でも、

まずそれぐらい認識合わせてくれよ?

って言うとる元増田の顔立てるくらいはせえへん?

2022-01-05

ネット女性蔑視批判した日々の全てが黒歴史に思える

小学校先生がなかなか嫌な(婉曲表現)先生で、何かにつけて「男のくせに~~するな」「男なら~~しろ」というのが口癖だった。私はその先生が本当に嫌で、誇張や比喩ではなく学校が怖くて夜にはよく泣いていたし、割と慢性的自殺を考えたりしていた。そんな経験があったので、私がジェンダー論や性差別に興味を持つのはごく自然な流れだった。「女性になりたい」と思ったことや、「私はもしかしたら"男性"ではないのかもしれない」と思ったこともある。今となってはそれはトラウマ思春期による揺らぎの一種であったと認識していて、性自認に関しては私はシス男性だと自認しているけれども。

私の初恋は、とある絵本キャラクターだった。絵本児童文学を読みながら、キャラクター同士の親密な関係(カップリング)や、窮地に陥ったキャラクター(ヒロピン)などに触れて、何かいけないものを見ている気分で、こっそり楽しんだ。同級生達の、「どの女の子かわいい」とか、「誰とそれが付き合ってる」とか、そういう話は嫌いだった。その頃から私はフィクトセクシュアルだったと思う。

ふたりはともだち』はBLですよね?異論は認めません。

当時放送していたアニメと言えば、『幻想魔伝 最遊記』とか、『しあわせ荘のオコジョさん』とか。テレビゲームだと『テイルズシリーズ』とか。そういうのを見て育ったオタクなので、「オタクたるもの、男でもBLくらい嗜んでしかるべし!」くらいに思っていたし、今でも思ってる。ちょうどニコニコ動画流行った世代でもあって、(今の倫理観では褒められたことではないにせよ、)「ホモネタ」でケラケラ笑うのも楽しかった。

先にオタクになったのは私よりも兄の方だった。当時の私は兄を「ホモソーシャル(という言葉は当時知らなかったが)に親和的な人」と見下していたが、兄は兄で色々と思うところがあったと今では思う。兄はあまり頭が良くないので、私のように細かく言語化したりはしないが、おそらく私たち世代の平均的な「オタク」だと思う。美少女美少年が好きで、百合BLが好きで、口では「恋人欲しい」なんて言うけど、内心エロゲで満足してる。そういう人。『ガンダムSEED』が「腐女子向け」と叩かれていたのを兄も知らないはずはないが、兄はそんなSEEDに心からハマっていた。『テイルズシリーズ』については私よりも兄の方がハマっていたから、いのまたむつみ美少年絵は兄の琴線に強く触れたのだろうと思う。

兄が好んだ「ちょっとえっち」な漫画ゲームを、私は内心見下しながらも、それは常に身近にあった。エロ漫画について伊藤剛先生が『MANGAの自由 平成から令和へ』の中で、「あんまいいもんじゃないだろうという感じで、手に取ろうとはしなかった。」と語っているけど、私もそういう感じ。読まず嫌いだった。でも実際にはむしろその中にこそ多様なジェンダーセクシュアリティが描かれていることに気付いた。セックスパロディし、時に嘲笑うことが、セックスを相対化するのだと。

少なくとも私にとって、ジェンダーセクシュアリティ呪いから逃げられる空間が、オタク文化だった。


2ちゃんねる(今は5ちゃんねる)というのは、今も昔も治安悪い場所だった。大学院生から無敵の人」まで、全く知識・知能・倫理観レベルの違う人々が同じ空間で同じ顔をして過ごしている。まともな精神じゃできない書き込みなんていくらでもあったが、それはほんのひと握りの底辺書き込みしかなかったのだろう。そしてそんな底辺書き込みの一つは「女性蔑視」だった。当時の私はまだ子供で、ジェンダーセクシュアリティ話題に興味のある子供だったから、それがどうしても許せなくて、「論破しなければいけない」ものだと思い込んでいた。今思えばそれは逆効果だったのかもしれない。私が来る日も来る日も女性蔑視的な書き込みを「論破」しても、その勢力が衰えることは無かった。昨日論破したばかりの同じような書き込みを、今日明日も繰り返すような、そんな連中ばかりだった。

しかし、ネット空間というものが、誰もが使う表の空間に成り下がると同時に、そうしたネットの闇はあっさりと自然消滅していった。厳密に言うと消滅はしていないが、その権威はもはや見る影もなくなった。犯罪誹謗中傷は取り締まられ、多くの暴言も各種サービス規約によって削除されやすくなった。何よりも、そのような暴言を吐くのは、少数の異常者であることが露呈した。

私は安堵した。しかし、そんな時代になっても、「表現の自由」を掲げて「フェミ叩き」を頑張っている人達がいるらしい。私は呆れた。非実在児童ポルノ騒動の時、表に立って漫画擁護してくれたフェミニストの人々のことを忘れたのかと。

私はほんの少し、Twitterフェミニストの人々と繋がってみた。とても勉強になる話をたくさん聞いた。その話は納得できるものが多かった。しかし、次第に違和感を覚えてくるようになった。その違和感がなんなのか、すぐに言語化することは出来なかったが、どうも彼らは「フィクション性的対象とする」というセクシュアリティについて、全くと言っていいほど無知で、配慮がないどころか、むしろ憎んでさえいるのだ。恥ずかしながら私自身、「エロ漫画」や「えっち表現」というものを読まず嫌いしていた時期もあるから他人のことは言えないのかもしれない。しかし、ジェンダー論や文学研究している大学教授などが、そうしたセクシュアリティについて全くの無知で、研究など出来るのだろうかと心配になった。そして怖くなった。現代の「ジェンダー論」というものは、そのような前提の元に立脚しているのかと。そして「エロ漫画女性蔑視」のような前時代封印したはずのトンデモ言説が、再び亡霊のように復活しつつあることを。あの「非実在児童ポルノ騒動の時、表に立って漫画擁護してくれたフェミニストの人々」ですら、彼らが味方する対象ではなかった。

結局私は苦しくなってTwitterもやめてしまった。トランプ大統領当選した時、オバマは「国の歩みはジグザグだ」と言った。もしもわたし第三者立場であれば、昨今のフェミニズムの暴走も、「ミソジニーに対する反動」として呑み込む事が出来たと思う。「今はまだ無知でも、時間解決してくれる」と、民衆の成長を待つことができたと思う。でも残念なことに私は当事者だった。私は、性差別を憎む二次元性愛者の一人だった。

とにかく怖くて仕方がない。苦しくて仕方がない。そして、憎い。ああ、これは、かつて2ちゃんねる女性蔑視の書き込みを見た時と同じ感情だと思った。

今では私は子供ではないから、もう少しだけ冷静に論じたいと思う。でも、行動を多少抑えることは出来ても、感情それ自体を抑えることは難しい。悔しいとか情けないとか。無力感とか徒労感とか。

2ちゃんねる女性蔑視を批判した日々は無駄だったのだろうか。実際、無駄だったのかもしれない。でも、せめて、それをした私自身のことは誇りたい。誇りに思えるだろうか。彼らをのさばらせた責任の一端は、私にもある。

2021-12-05

膝立ち20分、椅子20分、立脚20分という配分

俺の場合はこれでだいぶん疲れづらい

2021-11-26

水族館の魚見ると『美味しそう!』って思っちゃう!」「わかる~!」←これは「有機生命体の欲望」ではない

anond:20211120230606

  

短期間でも実際に動物を観察すれば気が付くことだが、動物潜在的に食べられるもの、食べられそうなものでも、それまでに食べたことがなかったりましてや見たこともなければそれをすぐに食べ物認識したり食べたそうな素振りを見せることはない。それが生きて動いていて、自分と同じくらいの大きさであればなおのこと、自分よりかなり小さいものでも一番最初に考えるのはそれが自分危害を加えるかどうか、だ。食べたい、とか、食べられる、ではない。  

  

一例として、犬や猫を飼ってる人なら誰でも自分経験から知ってると思うが、彼らも食べられるものなら何でも食べるわけではない。市販のフードを与えてもまず見て、匂いを嗅いで、ちょっと触ってみて、結果自分がそれを食べ物だと認めなければ以後見向きもしないということはよくある。これは別にフードが既製品からというわけではない。既製品のフードの中でも個犬個猫が食べ物と認めるものとそうでないものがあって、そうでないものは食べたくならないのだ。目前の有機物食べ物認識するというのは「飯食って生きてる生物である以上その欲望には絶対に抗えねえ」という類のものではないのである。  

  

これは市販のフードだけでなく自然の中にいる動物でも同じことだ。飼い犬飼い猫の中には親犬猫から教えられたわけでもなく自分で遊んでいるうちに鳥や小動物の狩りを自習するものがいるが、彼らが自分の狩ったもの食べ物認識する、食べたいと思うかはまた別の話である。狩りと同時にそれを食べることを自習する者もいるが、中には自分で狩ったものをいつまでたっても決して食べないものもいる。それが「自分食糧である」と学習しなかったわけだ。「有機生命体だったら有機物構成された生物はとりあえず1匹は試しに食ってみたい、と考えてしまもの」であればこうはならない。  

  

いろいろたくさんいる動物の中にはもちろん動くものを見れば反射的に跳びかかり同時にそれを口の中に入れてしまうような採餌方法のものも(たくさん)いるが、それらの動物が「食ってみたいという欲望からそのように行動しているかははなはだ疑問であるし、どちらにしろ人間はあまりそのような動物には近くないだろう。さらに「何でも口に入れる系」の動物が跳びかかるのは凡そ自分の口に入るサイズ相手だ。それより大きいと自分がケガをする可能性が高くなるし、最悪自分の方が食べられる。長生きできそうにない。  

  

まりである

初めて宇宙人(異星の有機物)と出会ったその日、人間の取る行動は、恐れ、身を隠し、恐怖から攻撃に移るというのが有機生命体としても自然であり、それは即ち今まで多くのSF作品にまさにそのように描かれているのである。その日初めて見た異星の有機物をとにかく一度食ってみたいという欲望など自然に湧いてくるものではなく、そのような欲望を前提として描かれる作品ファンタシーといえども著しく現実感を欠いた物になるであろう。少なくともそれは私たちの知る生命実態矛盾し、文化的なフェティシュとしか描かれ得ないのである

  

とかく人はこと食い物とセックスのことになるとそれは生命本来欲望であるという先入観自分文化的価値観正当化したり他人のそれを貶したりしがちであるが、多くの場合そこに正当性はない。食とセックス本来的なものであるが「あなたの食」と「あなたセックス」はそうではない。だから私は現実生命から乖離した「イメージ」で語られる生命とその偏見立脚した世界観人間論には懐疑的な目を向けることにしている。フェティシュがフェティシュとして描かれているうちは良いが、そのフェティシュの立脚点が「有機生命である以上その欲望には抗えねえ」ということになるとそこに少しザラリとしたものを感じる。  

  

などというよしなしごとに思い至す感謝祭の夜である。一部ここに私が記したことに反感を覚える向きもあるであろうが、私が常に増田に書いている消化管末端より排出される未知の有機物の如きものひとつである。水に流すなり抗いがたい食欲を覚えるなり、お好きなようにされるがよろしかろう。

2021-11-03

anond:20211103174313

横です。

厳格なポリティカル・コレクトネスでは、個人が持つ多種多様弱者性を加算し、最終的に一人一人の弱者性を比較します。

また、女性である時点で、黒人である時点で、克服が困難なレベルの大きな弱者性があると考えます

幼少期の被虐経験トゥレット障害弱者性として計上できますが、ジョーカー場合白人男性という圧倒的な強者性が邪魔をしてしまます

被虐経験を加算してもなお、女性黒人弱者性を持つ人物比較するなら、ジョーカー社会的に有利な立場と見なされてしまうのです。

冒頭のaquatofanaさんのコメントは、このようなポリティカル・コレクトネスの考え方に立脚すれば自然と導き出されるものなのです。

被虐経験も深刻な問題ですが、厳格なポリティカル・コレクトネスでは、他の弱者性との比較を行わざるをえません。

弱者性を計算して厳格に比較するポリティカル・コレクトネスには、「血も涙もない」「人の心が通っていない」との批判が向けられることも少なくありません。

しかし、このような手続きを踏まない限り、社会的公正を具体的な政策に落とし込むことは不可能です。

理解いただけるでしょうか。

2021-10-31

anond:20211031002352

第二十四条

婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

② 配偶者選択財産権相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人尊厳と両性の本質的平等立脚して、制定されなければならない。又、法律は、増田婚姻を認めてはならない。

2021-10-28

多様性統一」について一言言っておく

共産党擁護する義理はないのだが、共産党が「多様性統一」の標語を掲げた事にあたって、独裁だと揶揄するブコメが目立つんだがこれらの人達どうも意味判ってなくない?

これって頻出スローガンだよ。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/jcp_cc/status/1452192530871697413

 

多文化主義文化多元主義

最近だと多文化主義(multiculturalism)と文化多元主義(Cultural pluralism)の橋渡しというか良いトコ取りの標語として使われる事がある。

 

多文化主義っていうのは人々の属する文化並置されて存在している状態。〇〇人っていう属性、特色を捨てる必要ないよって考え方。でもこれだと国家内がモザイク状になって対立が発生したり、特定宗教原理主義とかはどうする?「自由の敵」に自由を与えて多文化主義の基盤を破壊するのはどうする?って問題が発生する。

 

文化多元主義は色んなオリジンを持つ人々が集まるが、個々人は一つの公共モデルに集約され、主体の改変を求められるって考えだ。

一番有名なのが合衆国の「人種のるつぼ」。

人種のるつぼって色んな人種が居る事を指していると思ってる人が多いが「るつぼ」は坩堝と書いて金属を溶かす溶鉱炉の容れ物だ。だから人種」は溶けて元の色や性質を失っている。

そして坩堝の湯(溶解金属)は型に入れられる。冷えて出来上がるのが「アメリカ人」という合金インゴットだ、という考えに立脚している。かなりイデオロギッシュな言葉なのな、実は。

から結構抑圧的な面があるのな。

 

ハワイ空港名前にもなっているダニエル・イノウエはその尤もなモデルケースだろう。

日本軍真珠湾で奇襲攻撃を掛けてアメリカ戦争に巻き込んだので、ハワイ日系人は立つ瀬がない。そこでイノウエは自分アメリカ人である事の証に陸軍に志願してかの有名な442連隊に配属された。死傷率300%以上という有名な部隊だ。海兵隊では新兵訓練の際に442連隊の事は必ず触れると聞く。「アメリカとは何か」を象徴するからだ。

イノウエはそこで日系人じゃなくてアメリカ人インゴットになった訳だ。戦後政治家となって上院議長まで登りつめた。

からこれ書いてる増田はイノウエに日系人としての親近感なんて抱かない。彼は立派なアメリカ人だった。

この生き方を強いたのが文化多元主義であり人種のるつぼなのだ

 

イノウエの例は戦争という情況が強いた極端だが、この抑圧的な文化多元主義と、バラバラ政治主体としても弱くて実効性にも疑問符が付く多文化主義の良いトコ取りしようぜって言い方で使われることがある。

 

インドネシアの国是「パンチャシラ」

あと有名なのがインドネシアの国是、「パンチャシラ」。意味は「多様性の中の統一」。

インドネシアっていうのはこれはもう完全に人口国家であって「インドネシア人」なんて人種民族も無かった。言語も違う。旧ユーゴと似ている。

そこにまだ統一国家も無いのに「インドネシア人」という国民意識が立ち上がっていった。「国民」はトップダウンだけで出来たのでは無い。

この意識の成立の鍵になったのが植民地下での出版業で、同一言語での大量出版がやがてその頒布される広範囲公共心や共同性を立ち上げる事になった。

これを観察して書かれたのがかの有名なベネディクト・アンダーソン想像の共同体』なのな。アンダーソンはインドネシア歴史研究していて、そこから国民国家の成立を発見したのだな。

 

パンチャシラを提唱したのは国父であるスカルノで、重要理念として憲法前文に入れられた。

共産党を叩いている人の中には旧日本軍人がインドネシア独立に協力した事を重視する人が多いはずだが、インドネシアの有名な国是を思い出さないとはどういう事だろうか?

 

TPP参加決定時の炎上で見たぞこの流れ

この流れはTTP参加決定時に似ている。

民主政権TTP参加を決定した折、ネット大炎上した。すると炎上の仕方が厨房っぽいので一歩ずらして「そもそも米国利権に”環太平洋”と名付けるのがおかしい」とかかしこぶる人が出てくる。

ところが「環太平洋」という概念ソ連との冷戦終結した90年前後からある。そして実際日本の周囲では環太平洋での経済的結びつきが強化されてきた。製鉄大国で「鉄のハブ」になっている日本の最大原輸入国鉄鉱石石炭)は豪州になった。

そういうの知らんのな。知らんというか20年以上知らないを継続してきたって事だ。

 

因みに環太平洋の当初のアニキ役は米国日本が想定されていたが、日本に代わって中国アニキ役になりそうな塩梅になってる。これはGDPの伸びだけじゃなくて、日本震災港湾が壊滅したり鉄道民営化の上に貨物分社化して海コン扱いが出来ないなんてクソ失政を重ねたせいで物流コンテナ、航空)の拠点中国なっちゃったせいだ。

多様性統一」に噛みついた人らは、物流的に日本中国から出てるローカル盲腸線の扱いになってるのとか知ってる?

 

共産党より高いアンテナを持てっての

共産党揶揄したいって気持ちは判るよ。なんせ彼らは「民主集中制」について破棄したのかちゃん説明も総括もしていない。

プロレタリアート独裁だってソ連韓国東南アジア開発独裁の評判が悪くなってから言わなくなっただけであれってどうなの?ちゃんと破棄したのって事は有耶無耶になっている。

欧州なんかは左翼ポピュリズムが押してきているが、そういう訳なのでその流れに乗るの?って事もよー判らん状態

から多様性統一って字面民主集中制そっくりでんなぁ」とかイヤミいうのは判るが、わざわざこんな有名な語彙を出しているのに悪意の解釈しているっていうのは、単に「国民国家の成立とか、多文化主義が起こす軋轢とか、人種のるつぼ本来意味とか、ハワイ空港が何で日系人のイノウエの名前付けてるのかとか、インドネシア建国理念とか知らねぇし、興味も無い生活送ってるんだろうなぁ」という情報しか外部に与えんよ。

2021-10-08

「私は〇〇が嫌いだ」は好きにしたらいいんだけど

「私は〇〇が嫌いだ」に正当性やら強制力をつけようとして

社会的に〇〇は間違ってる」って言う人結構いるよね

そんでその理屈根本的に好き嫌いだけに立脚してるから穴だらけですぐ崩壊する

2021-09-11

鴻巣友季子の時評は何が問題だったのか

 『文學界2021年9月号に掲載された桜庭一樹少女を埋める」を取り上げた、鴻巣友季子による朝日新聞文芸時評に対して、桜庭が抗議の声をあげ、記事の訂正などを求めた(文中敬称略)。

 この問題に関して筆者は「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」に始まる3本の文章投稿した。その後、桜庭の求めに沿う形で、9月1日に朝日新聞デジタル版の時評で文面が修正され、9月7日付朝日新聞本紙および朝日新聞デジタルに、両者と時評担当者見解掲載された。

 この記事では総括として、両者の見解検討するとともに、時評担当者が「期待」しているという「文学についての前向きな議論」のために、この一件にまつわる諸論点を、桜庭鴻巣が直接言及していない点も含めて挙げる。なお、はてな匿名ダイアリー仕様URL掲載可能数に制限があるようなので、最小限に留めている。

見解検討

 両者の主張は、以下のように整理できるだろう。

桜庭文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるか否かによらず、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いてはならない。

鴻巣文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるならば、あらすじとして書いてもよい。

 桜庭は主張の根拠として、そのようなあらすじの書き方が「これから小説を読む方の多様な読みを阻害」し、「〝読者の解釈自由〟を奪」うことを挙げている。

 一方で鴻巣自身の主張を、「あらすじも批評の一部なので、作者が直接描写したものしか書かない等の不文律を作ってしまう事の影響は甚大」であり、「読み方の自由ひいては小説可能性を制限しないか」という懸念により根拠づけている。

 では鴻巣は「あらすじも批評の一部」であるという主張をどのように根拠づけているか。これが不明瞭なのである

 鴻巣は「あらすじと評者の解釈は分けて書いてほしいと要請があったが、これらを分けるのは簡単そうで難しい」と書くが、その後に続くのは、作品創造的な余白を読者が埋めるという、読解についての文章である文学解釈にそのような性質があったとして、それがあらすじと解釈の分離の困難とどう関わるのか、説明されていない(まさかテクストに書いてあることと、書いていない部分から自分想像したこととが融合してしまって分離できないというのだろうか。テクストは目の前にあるのに)。つまり鴻巣は、「書く」ことについて言及していないである解釈批評の一部でしかない。当然ながら、読んだ=解釈しただけでは批評は成立せず、「書く」ことが必要不可欠である。だからこそ桜庭の主張は鴻巣の読みの否定ではなく、「分けて書いてほしい」というものだったのだ。分けて「書く」ことが「読み方の自由」を否定することにはなるまい。そして実際にデジタル版の時評の文面を「修正」できたのだから、分けて書くことはさほど難しくはないはずである

 鴻巣は「合理性」や「妥当性」にこだわりを見せるが、この見解文章がそれらを備えているとは言い難い。また、鴻巣見解を発表する段になっても、そもそも桜庭に何を問われているのか理解していないふりをしている、あるいは単に理解できていない。

 繰り返しになるが、問題は「書く」ことなのだ私小説フィクションからどのように読んでもいいとか、誤読される覚悟もなしに私小説など書くなとか、私は鴻巣評のように読んだとか、信用できない過去語りだとか、あるいは鴻巣誤読しなければこんな事態にはならなかったとか、そんなことは関係ない。どう読んだっていい。批評家が誤読することもあるだろう。批評家が作者の意図しない優れた読解をすることもあるだろう。ただし、自分の読解が生み出しただけの出来事を、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして断定で書くべきではない。

 ただそれだけのことを、桜庭は何度も何度も直接本人に訴えかけた。にもかかわらず、鴻巣がその声が受け止め、真摯に答えたとは思えない。

 この文章を書いている最中に、『現代ビジネス』上に、飯田一史による記事「「少女を埋める」論争が文学史上「奇妙」と言える“3つのワケ”」が掲載された。そこで名古屋大学大学院教授日比嘉高モデル小説研究フロントランナーと言ってよいだろう)は、「作家である桜庭さんの方がTwitter上で『私小説』『実在人物モデルに』と事実立脚している点を強調している」と述べているが、桜庭は慎重に「テクストという事実」と「現実事実」の問題を切り分けている。

(強調は引用者。これは桜庭が声をあげた最初ツイートだ)

(強調は引用者)

 桜庭実存にとって「現実事実」がいかに重大なものであったとしても、桜庭あくまでそれを「テクスト(に書いてあるか否か)という事実」と「あらすじの書き方」との問題の下位に位置付けている。主張の動機と主張の根拠を分けるべきである飯田は、「作家が「トラブルを予防する」ために「事実の側に立つ」点でまず「少女を埋める」はきわめて珍しい事例なのだ」と書いているが、「トラブルを予防する」のは主張の根拠ではなく動機である。この一件を「論争」と表現するのであれば、作家動機ではなく、作家根拠フォーカスするべきであるこの記事のまとめ方に〝私は〟断固抗議する。

 とはいえ桜庭見解にも問題点が指摘できる。それも踏まえて、以下、「文学についての前向きな議論」のための論点を、差し当たり三つ挙げる。 

文芸時評というジャンル

 今回の一件に際して、文芸時評不要説や批評の死が取り沙汰されもした。桜庭ツイートで「批評ではない未熟な文章」などの表現を使い、鴻巣見解において「批評」という言葉を用いている。

 だが、文芸時評批評しかないのだろうか? 文芸時評英語ならliterary review(あるいはbook review)やliterary commentary、フランス語でならchronique littéraireなどと言うだろう。批評critiqueと時評は同一視してよいのか? 批評の要素を備えているとしても、時評には時評に固有のジャンル特性があるのではないか

新聞というメディア

 文芸時評新聞という巨大メディア掲載されている点をどう捉えるか? 桜庭見解において朝日新聞の「影響力は甚大」としている。また桜庭は「これから小説を読む方の多様な読み」について言及するが、「これから小説を読まない方」が時評だけを読む可能性も大いにありうるだろう。あるいは前項と関連づければ、文芸誌などの批評は全く読まないが時評は読むという新聞読者はいるだろう。つまり文学の読者と時評の読者は必ずしも重ならない。

 文学の読者であれば私小説で描かれたことが現実でもその通りに起きたと断定できないと承知しているが(あるいは、そのような認識の者を文学の読者と呼ぼう)、時評の読者がそのような前提を共有しているとは限らない。桜庭新聞の影響力への言及の直後に「私は故郷鳥取で一人暮らす実在老いた母にいわれなき誤解、中/傷が及ぶことをも心配し」たと述べている(繰り返すが「をも」という表記に注意。その一点だけで抗議しているのではない)。今回の問題(ここでは主張の論理ではない、現実現象レベルである)はそもそも、「文学についての」「議論」だけに収まらないものをも含んでいるのではなかったか

 以上の論点を踏まえて、時評担当者見解検討することもできるだろう。

書いてあればよいのか

 桜庭見解は冒頭、「私の自伝的な小説少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています」と書く。鴻巣評の印象を覆すためにあえて母の献身夫婦の愛を強調したのだろうが、このまとめ方については異議もあった。文芸評論家藤田直哉が端的に指摘しているのでツイート引用しよう。

 つまりあらすじに書いてよいのは、「作中の事実であるべきではないか 今回であれば、あくまで一人の人物視点に立って、「私の自伝的な小説少女を埋める』では、病に伏せる父と、献身的に看病した母とが深く愛し合っていたことを、主人公が見て取ります」くらいが妥当なのではないか言うなれば、「夫婦が深く愛し合っていた」というのも、「愛しあっていたのだな」という文字列テクストに書いてあるとはいえ中人物の「主観的解釈なのだから、〈そのような解釈が書いてある〉という形であらすじを書くべきではないか

 あるいは、そもそも事実」と相容れない表現というものもある。極端な例を挙げれば、自分幸せだと信じ込みながらオンラインサロン主宰者に投資し続ける人物のことを「幸せ生活を送り」などと書くのは、たとえ作中に「幸せである」と書かれていたとしても、おかしいだろう。幸せ事実ではなく評価からだ。書かれていないことを想像するとともに、読者は書かれていることについても想像し、評価する以上、書いてあれば何でもあらすじに含めてよいとは限らないのではないか

参考になりそうな文献

 最後に、「文学についての前向きな議論」に役立ちそうな文献を、備忘録も兼ねてリストアップしておく。

2021-08-24

コンプラ白雪姫

 むかしむかし、とっても美しい(※注1)けれど、心の美しさについては評価が分かれることもある、王のパートナーの方(※注2)がいました。王のパートナーの方は魔法(※注3)のカガミを持っていて、いつも魔法カガミにたずねます

カガミカガミよ、この世で一番美しい(※注1)のは誰?」

 王のパートナーの方は、カガミがいつもの様に、

ルッキズムのような形で受けとられるのは本意ではなく、あくま主観的な一意見として申し上げるということを前提といたしますが、あなたが一番美しい(※注1)です」

と、答えるのを待ちました。しかカガミは、

あなたの(※注4)娘、レインボーパーソン(※注5)です」

と、答えたのです。

 王のパートナーの方は、レインボーパーソンの2度目の保護者(※注6)です。王のパートナーの方は強い遺憾の意を表して、レインボーパーソンをある特定職業の方(※注7)に処理を委託しようと(※注8)しました。でも心の優しいある特定職業の方はレインボーパーソンをそっと森の中に隠し(※注9)て、王のパートナーの方にはレインボーパーソンを適切に処理したとうそ(※注10)をついたのです。

  

  

  

 レインボーパーソン(※注5)は、山間部に在住の七名の方(※注11)たちと暮らす事になりました。そして山間部に在住の七名の方たちとシナジーを生み出して、サステナブルグローバル社会アジェンダとするオポチュニティコミットしたり、ごはんを作ったりして(※注12)毎日を楽しく過ごしました。

レインボーパーソン、わたしたち仕事に行っている間、誰も家に入れちゃいけない(※注13)よ。あの見方によっては威圧感があると評価する声もある王のパートナーの方(※注2)に、ここが知られてしまうからね」

と、いつも山間部に在住の七名の方たちは言うのでした。

  

  

  

 ところがある日、「カガミカガミよ、この世で一番美しい(※注1)のはだれ?」

と、王のパートナーの方(※注2)がカガミに聞くと、

「山を越えたその向こう、山間部に在住の七名の方(※注11)たちの家にいるレインボーパーソン(※注5)です」

と、答えたのです。

「なんですって!! あのある特定職業の方(※注7)、裏切った(※注10)ね! よし、こうなれば」

 自分レインボーパーソンを処理しよう(※注8)と考えた王のパートナーの方は、小売業の方(※注14)のご高齢の方(※注15)に化ける(※注3)と、毒のある赤色果実のようなもの(※注16)を手に七つの山を越えて山間部に在住の七名の方の家に行きました。そして、窓を叩いて言いました。

「美しい(※注1)娘さんに、おくり物だよ」(※注17)

「まあ、何てきれいな赤色果実のようなもの。ご高齢の方、ありがとう

  

  

  

 けれど、その赤色果実のようなもの一口(※注18)かじるなりレインボーパーソン(※注5)はバタリと倒れ(※注9)て、二度と目を開きませんでした。

 レインボーパーソンが目を開かない(※注8)事を知った山間部に在住の七名の方(※注11)たちは悲しみ、せめて美しい(※注1)レインボーパーソンがいつでも(※注19)見られる様にと、ガラスのひつぎの中にレインボーパーソンを寝かせて森の中に置き(※注9)ました。

 そしてある日、1人の王位継承権のある若年の方(※注20)が森で、レインボーパーソンのひつぎを見つけたのです。

「何てきれい(※注1)なパーソン(※注5)なんだ。まるで眠っているようだ(※注21)」

 王位継承権のある若年の方は思わず、ひつぎの中のレインボーパーソンに挨拶しました。(※注22)

 すると挨拶(※注22)したはずみで、毒のある赤色果実のようなもの(※注16)のかけらがレインボーパーソンののどから飛び出したのです。(※注3)

 目を開けたレインボーパーソンは、

わたしは、どこにいるのでしょうか?」(※注23)

と、王位継承権のある若年の方に尋ねました。

「ずっと、わたしと一緒にいることも選択肢にありますが、すべてを自由あなた選択すること、そしてそれを実現する社会こそが我々全員の目標です。パーソン」(※注24)王位継承権のある若年の方と結婚(※注25)したレインボーパーソンは、ずっと幸せ暮らしました。(※注19)

  

  

おしまい

  

  

底本:「白雪姫 グリム童話 <福娘童話集 きょうの世界昔話>」 令和3年8月24日閲覧

http://hukumusume.com/douwa/pc/world/04/23.htm

  

  

  

(※注1:これはあくま主観的な語り手個人としての感想で、画一化された「美」の基準強制するものではありません)

(※注2:「おきさき」は王の属人的表現であり、またジェンダーロールを固定する不適切表現であるため、一部表現修正しています

(※注3:当時の価値観科学技術立脚した記述であることをご了承ください)

(※注4:あくま戸籍上の関係示唆するもので、個人人格その他が親族の所有物であるという意図はありません)

(※注5:「白雪姫」との呼称については「雪のような白=美しい」という比喩人種差別であること、また多様性SDGsへの賛同を表す我々のステートメントのために、一部表現修正しています。また、「姫」という表現ジェンダーロールを固定する不適切表現であるため、性別限定しない表現修正しています

(※注6:本作においては※注4同様、あくま戸籍上の関係示唆するもので、個人人格その他が親族の所有物であるという意図はありません。また、「お母さん」という表現についても、ジェンダーロールの固定化および女性職場進出に対して差別的役割を抱かせないため、一部表現を変更しています

(※注7:文脈上、「猟師」への職業差別に繋がる恐れのある表現のため、具体的な職業名を伏せる形に一部表現修正しています

(※注8:「殺人」「死」などの猟奇的残酷表現を一部修正しました)

(※注9:専門家指導のもと、スタッフ監督下において安全方法実施しました)

(※注10:王のパートナーの方との契約違反する行為ですが、契約内容自体嘱託殺人罪に繋がる恐れのある行為が含まれるため法律行為の要素に錯誤があるもの判断され、契約行為のもの無効であると考えられます

(※注11:「森に住む七人の小人」は門地および容姿に対する明確な差別表現であり、あまり不適切であるため、一部表現修正しています

(※注12:「小人たちが山に働きに行っている間、掃除洗濯や針仕事をしたり、ごはんを作ったりして」はジェンダーロールを固定化する非常に前時代的な価値観押し付けものであり、また小人に対する職業イメージ差別表現でもあるため、現代的な表現に一部修正を行っています

(※注13:特定人物人種および主義主張信条および団体等を排外する意図はありません)

(※注14:「物売り」は行商の方、小売業の方にたいする差別的表現のため、一部表現修正しています

(※注15:「おばあさん」は高齢者への差別的表現、およびジェンダーロールを固定する不適切表現であるため、一部表現修正しています

(※注16:「毒リンゴ」はリンゴ農家の方などへの風評被害防止の為、具体的な果物名を伏せる形に一部表現修正しています

(※注17:この場合、姿を変えているものの継母から娘に食品を与えたにすぎないため、果物の価額は不明ですが令和3年4月1日現在法令等においては贈与税課税対象にはあたらない財産(下記出典より「例外2:夫婦や親子、兄弟姉妹などの扶養義務から生活費教育費に充てるために取得した財産で、通常必要と認められるもの」)と考えられます

出典:国税庁HP「No.4405 贈与税がかからない場合https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/zoyo/4405.htm 令和3年8月24日閲覧)

(※注18:およそ5〜10gと推定されます。内容には個人差があり、若干変動しますことをご了承ください)

(※注19:令和3年8月24日現在記載となります。今後サービス内容は予告なく変更される場合があります

(※注20:「王子」は王の属人的表現であり、またジェンダーロールを固定する不適切表現であるため、この場合意図されて表現されているか不明ですが王位継承権を持ちながらも立太子礼を受けていない方と想定し、一部表現修正しています

(※注21:個人感想です。内容には個人差があります

(※注22:「ひつぎの中の白雪姫キスしました」との表現については、見ず知らずの女性に対して昏睡状態にあることを理由性的行為を迫る大変卑劣犯行であり、準強姦罪に問われる可能性があります。あまり不適切であるため、一部表現修正しています

(※注23:「わたしは、どこにいるのかしら?」は語尾等の特徴から性別識別させる性差別表現であるため、中立的表現修正しています

(※注24:「ずっと、わたしと一緒にいるのですよ。姫」は個人権利を著しく侵害する絶対にあってはならない行為であり、ジェンダーロールの固定化および女性職場進出に対して差別的役割を抱かせないため、一部表現を変更しています

(※注25:この場合各自治体等におけるパートナーシップ条例等に基づくものも含めて「すべての他人を除外した2人の人物合法的連合」を意味し、法的な届出による効力を伴う契約の有無を問わないものします)

2021-08-15

自衛隊にたまにいるだっせえ奴とメンタリスト似てんな

数は多くないが必ずいる。幹准曹士わずレンジャー出てようが、大臣直轄だろうが部隊雰囲気関係なくたまに出くわすマジだせえ奴がいる。それは雑談なんかしてる時、戦争が起きたら自分は逃げるとか言い出す奴である

この手合いは申し訳なさそうに言うでもなく、自らの説の合理性を滔々と述べる。曰く、別に自分でなくともよいとか、誰か知らん人間より家族を守った方がいいとか言う。聞いてもねえのに。

合理的で首尾一貫した、しかしそれでいて場のタブーである主張をするのに酔ってる。おれはなんも言わんけど、熱くなって言い返す奴はいるよ。話噛み合ってねえけど。

噛み合ってねえついでに話飛ぶけど、例えば、この社会自体が、選挙とか言う一人が一票を投じるめちゃめちゃシンプルかつ極めて重要制度でありながら、個人視点での参加意義めちゃめちゃうっすい制度で成り立ってる。投票行く奴は休みが潰れて、交通事故リスク感染リスクを負い吹けば飛ぶような一票を投じる。投票って全然合理的行動じゃねえから絶対行かないって言う奴絶対いるし、理解できる。こういう奴に投票行動させるにはどうしたらいいんかな。

よく投票率の低さを憂いて選挙に行かないと世代間格差は広がるよとか社会立場を同じくするなら投票してとか言うけど、個人的な合理性が常に勝っちゃうからね。話噛み合ってねえんだよ。交通事故に遭い、コロナ感染して休み潰れるけどそれでも投票に行くことを勧めるのは何故か。という問いなんだよな行かない奴の言ってることは。それにはマジで合理性ゼロだけど、そうすべきって信じてるし、そうしてるからお前もよろしくしか言い様ない。そういう考え方あんのか。わからんけど腑に落ちた気もする。行くわ。って形しかないと思ってる。

そしてこの説得は超だっせえ。ただ選挙制度みてえなもんをみた時、合理性を超えた信条美学格率みたいなあやふやなもんに社会立脚してんのかなと思うと少なくとも合理性だけを考察すべき地域範囲に乗せてる奴より誠実だと思う。

合理性ステージだけで一貫してるだけでマウント取ってくる奴はマジそこで論理を一貫させんのなんか簡単なんだからいばんねえでくれよ。露悪的なのもかっこよくねえからな。よろしく

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん