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2018-07-19

anond:20180719120756

やわらかいのは好きだが、1mは度が超えてる。

先天的病気か、生活習慣が狂ってるか、あるいは年増でない限り、そんな腹囲にはならん。

anond:20180719092806

先天的性別は男

髪型は男っぽくしてる。

ここは女性専用車両ですよ?ってたしなめられるよ。

私って女性専用車両乗れる?

先天的性別は男だけど、性自認は女。

役割はタチ。髪型は男っぽくしてる。

女性専用車両に乗れるかな?

2018-07-16

ワールドカップWBCフィギュアオリンピック。 結局のとこ「パンとサーカス」では?

どの大会もさ

スポーツ外国人と仲良くなろう!」どころか

スポーツで内政から目を背け、外人を打ちのめそう!」って感じになってんじゃん

ワールドカップも今大会話題になったのって

日VSポのクソ試合ネイマールチャレンジとか負の側面持つネタばっかだし

プーチン安倍もこっそり重大な法案通そうとするしよ

 

から俺、体育会系嫌いなんだよな

非モテとかオタクとか以前に、コイツ先天的他人を害したいだけ

バカなくせにリベラル面して「スポーツで仲良く!」言って

その実、国民の目を政治から反らして、自分らはサルのように騒ぎまくって

いい大人ボールを転がした転がさないで人生論を語る愚の骨頂

上級国民ラジコンとして申し分ないクソ脳みそしてやがる

 

ギリシャローマ歴史見たってよ、みんな薄々分かり切ってるだろ?

スポーツで融和は無理」ってこと

いつまで上級国民のクソ茶番に付き合う必要あるんだよ

 

いい加減目を覚ませや

2018-07-14

anond:20180714194723

俺も先天的に性欲が強いので、射精休暇を許可してほしい

anond:20180714193752

差別にならない理屈があった気がする、どんな理屈かは忘れたけど

先天的特徴による弊害差別理由にならないとかなんとかだった気がする

2018-07-08

anond:20180708193323

殺人鬼後天的自分で選ぶ生き方からなあ。

先天的人種的少数派(黒人)を多数派白人)が演じること(ミンストレル・ショー)はNGなのに、

先天的性的少数派(ゲイ)を多数派ヘテロ)が演じることはOK理屈って思いつく?

2018-07-06

実はADHD,発達障害はそんなにいないんじゃ

自分は少し人が怖く社会を生きるのが苦手でずっとこのような先天的な症状を抱えていると感じていたが違うと気づいた。

愛着障害という症状があり、これは後天的病気だ。

生後から1年半くらいの期間の間親から愛情不足(具体的には子供欲求に対する即レス力の不足)になると発症率は高まり、症状が出るらしい。

具体的な症状は、情緒不安定さや人間関係の構築などで不得意さが表れる。

日本精神的な病を抱えている人が多い、多いと感じていたがそれは家庭教育学校教育社会全体による間違いは許さな空気が多くの人をその症状に近づけていったのじゃないか、そう感じた。

また、世間ではADHD,発達障害に関してはドキュメンタリーエッセイ漫画は多く出ているが、この愛着障害に関しては出ていることは少ない。

なぜなら前者と比べ後者は完全に後天的病気で、これの発症は家庭や周辺環境が原因であることが多いからだ。

愛着障害に関して例えばわが子は愛着障害なんて出せば第3者から見れば虐待ネグレクトを疑われるからこういったコンテンツは出ないんだとも感じた。

ただ、愛着障害=親の責任と短絡的には結び付けられない。結局は子供に構えれるだけのゆとりをなくした社会責任でもあると思う。

子供を持つ人や作る人は最初の1年半だけでも子供対応してほしい。この1年半が微妙だったらその後の人生子供はすべて苦しむことになる。

2018-07-03

anond:20180703092535

でたよ努力すればだれでも恋愛できる信者

みんなが努力しても平均点があがって落伍者は消えない。

あと、こみゅ力は学力と違って相対的ものだし、

また見た目など先天的問題も含むためなおのこと

努力で何とかなる」とは言い難い。

2018-06-29

anond:20180629152923

社会生活が送れない状態がずっと続いているのであれば本人に問題があることは明らかだと思います

not明らか。

先ほども言ったが、「本人の問題」が先天的障害等でもない限り、

それは周囲の人間コミュ力不足。


本人にまともなコミュニケーション能力があるのならば一度や二度そういう目に遭ってもネット暴走する前に立ち直れるでしょう

周囲にまともなコミュニケーション能力があるのならば一度もそんな目には合わないし、ネット暴走もしない。

anond:20180629151757

社会生活がまともに送れない」の中に、周囲のコミュ力不足によって

社会生活がまともに送らせてもらえない、あるいは妨害された」ケースもあるといっている。

先天的障害ならともかく。

2018-06-27

というかアレな人を無視しないで受け入れろって言われても

それこそ先天的精神力とかで出来るか出来ないかかなり個人差あるし

誰にでも要求できるような話じゃないだろ

最悪自分も壊れるし

集団スポーツの祭典が苦手なのはわかるけど。

文藝春秋オンラインで、「昔の体育のサッカーの授業で理不尽な思いをさせられて以来、サッカーには嫌い。W杯サッカー一色で、興味を持てないと居心地が悪い。サッカーが嫌いな人間もいることを忘れないで欲しい。早くW杯終わらないかな」(乱暴な要約)という記事があった。

よくわかる。自分球技全般得意じゃなかった。ただ周りがそんなにひどい人たちじゃなかったので、スポーツは好きなままで今回のW杯も楽しんでるけど、筆者と同じ状況だったら嫌いになっていただろう。

で、ふと思ったけど、逆の状況ってないよね。

例えばノーベル文学賞。ここ数年は村上春樹が受賞するかしないかマスコミは賑わう(今年はないらしいけどね)

で、そのとき「昔国語の授業でたらちねをたれちちと答えてしまい、そこから熟女好きということになり、いじられ続けた。しばらく経っても国語の授業であてられたらどこからクスクス笑いが聞こえてきた。だから国語、ひいては文学作品は嫌い。文学賞日本人になるかならないかなんてどうでもいいし、村上春樹作品がわれわれ日本人代表してるのかもわからないし」という記事が出たとして、はたして共感を呼ぶのだろうか。

間違いなく呼ばない。

それはお前がバカだったからだ、ということで終わる。

なぜだかスポーツ先天的ものがすべてで、できなくても仕方ないし、できたところで「所詮」「たかが」となる。

しか勉強は、努力カバーできるし、できないのはその人の努力が足りないということになる。どんな分野であれ、できたら「すごい」と言われる可能性はスポーツよりは高いだろう。

そしてさらに、年を重ねるごとにスポーツより勉強の方が重要視されていく。

しか勉強スポーツと同じかそれ以上に先天的ものが大きいと思う。

から、今W杯にかこつけてウェーイとなってる人々は昔勉強よりは、スポーツの方が得意だった人々が、その栄光を思い出して少しの間だけ気晴らしをしたいだけなんだと思う。

そしてさらにいえば勉強スポーツもできなかった人間はずっと息を潜めながら過ごすことになる。「多様性」とはいうけれど、すべての人々に全くの違和感を感じさせない社会、というのはどだい無理なんじゃないかと思う次第。

あと、ここまで書いて思い出したけど、この内容は奥田英朗の昔のスポーツエッセイの影響を受けている。どれだったのか思い出せないので誰か教えていただけたら幸いです。

2018-06-26

anond:20180625215452

これ読んでも、同情する必要は勿論のこと、理解を示す必要も無いとしか

というか加害者の心境については現時点で正しい解釈なんてものはないし、興味があるならマスコミ法廷供述が出てくるのを待てばいい。

予見は不可能だったと思うし、これからでてくるであろう無敵の人の行動も予見不可能じゃないかな。

かばれなかったら何度でも繰り返すと言ってるけど、

殺意犯行の準備も十分で、10年は固いし、もし再犯可能性が高いと判断されればもっと長くなる可能性もある。

先延ばしと言えば先延ばしだけど10年も経てば今とは状況は全然違うだろうし(増田はてブが残ってないかも)、

低能先生といっちょ噛みしたぐらいで心配するようなことは何も無い。

そもそも無敵の人ネットの諍いによって生まれるのではなく

先天的精神的な疾患や生育環境問題によって左右される方が大きいというのが俺の印象だ。

有名人はともかく、一般人はそれっぽい人を見かけたら近づかない、現実的な接点を持たないという戦略だけで十分でしょ。

通常のネットリテラシーの範疇内の対応

有名人さんは......

..たいへんですね。

anond:20180626110638

社会的合意したところで現実がそうなるわけじゃないからなあ。

このへんにフェミニズムポリコレの歪みがある。

先天的無能者であろうと自己責任で切り捨てられるネオリベ思想に直結する。

なんでも発達障害から才能がないからで努力否定する風潮も厭だけど。

anond:20180626110638

発達障害先天的である」に「発達障害は異常だから排除すべし」が加われば優生学的だけど、ポリコレ的にそれを加わらせないから「発達障害先天的である」という運用で十分だよ。

anond:20180626105437

因果関係があることに否定は無いにしても、先天的な部分と後天的な部分では後天的な部分の方が圧倒的であることに「社会的に」合意しないと、それこそ優生保護法メソッドになってしまう訳でなあ。

よく「この種類の猫の性格は!」みたいなのは言われているけれど、猫や犬も当然として、生ある個体全ての性格は形質や遺伝に依らないって思想の方がポリコレ的だろうよ。

anond:20180626104635

自分個性自分物心いたこから自身自我意志で築き上げてきたものである、という発想にとってみれば(ワイはこっちがわ)

先天的に脳の形質で個性が変わるってのは一部事実が含まれていたとしてもオカルトいかなあ。

anond:20180626103759

個性先天的もので直らない」だったら納得するだろ?

その個性日常生活上で支障が出るようなものだったら障害と呼ぶ、というだけで。

そーやって「障害とは普通から隔絶した特別状態」みたいに言うからしろショックを受ける。

anond:20180626104023

いやまあ成人についてはそうっちゃそうだが、

はいえ「先天的脳障害があります」の部分は消えん訳でな。

大人になれば努力で消せるものなのに子供には消せない傷として扱われるの、さすがになんか違うと思われ。

優生保護法の流れでここらへんもどうにかせんと差別の温床なるで。

anond:20180626103434

んでも、「先天的障害」「絶対に治らん」って国が認定するのはどーよ

流石に自尊心が二けた番台のサンドペーパーに掛けられる感ないか

2018-06-25

ポリコレ不寛容境界線

最近色んな所でポリコレやら何やらの話題を目にするのだけれど、ポリコレクレーマー不寛容って紙一重ではないかと思う。

ヘイトなどの排他性に対するカウンターポリコレなのだろうけれど、どちらも他者思想不寛容という点では同じであり、

極論を言えば、いずれも「不快からやめろ」という所が根源になるとは思うのだけれど、これってどこまでが正当化され許容されるのだろう?

例えば私はとある病気食事制限がかなり厳しい。

糖尿病みたいなメジャー病気ではなく、過去に暴飲暴食をしていた訳でもなく、遺伝性のものらしいのだけれど、

以前は好物だった多くの食品摂取禁止されてしまっている。

となると当然、そういった禁止食品広告類は物凄く不快なのである

今はもう口に出来ないのに、視覚を通して味がリフレインするのが物凄く苦痛なのである

もっとも、だからといって個人的にはそれは仕方のないことだと割り切っているのだけれども、それはそれとして、

論理構造的な意味合いにおいて、私にも「食品広告不快からやめろ」と主張する権利はあるのだろうか?そこに正当性はあるのだろうか?

私みたいな病状の人間マイナーから、多数の益が優先されるべき?

それなら性的少数者も同じくマイナーなのだから、その他多数の表現の自由が優先されても良いのではないだろうか?

出生や性別などの変えようのない、先天的もののみが正当性を持つ?

それなら私の病気遺伝性で、後天的な要素が原因ではないらしいから、この病気故の不自由も先天性として正当性を持つ?

企業にも広告を展開する自由があるから、それを制限すべきではない?

それなら他のポリコレだって、良いかいかは別として、他者表現の自由制限している訳だけれども、私を不快にする広告は何故制限されるべきではない?

この辺りの論理構造が、個人的にはよく分からない。

2018-06-24

anond:20180624101941

最初の文もそうだが追記も底が浅すぎる。

まれ持った身体的特徴や外見をとやかく言うのはおかしい、という主張ならわかるが

蛇足部分で他人マウント取ろうとしてる割に知識理解が足りなすぎる。

馬鹿のくせに賢いフリするな。

重要なのは美の基準の話だけど、生理的レベル好き嫌いに関しても俺は後天的ものだと思うんだよね。

まれた時から周りに自然にいる人に対して自発的生理的嫌悪は起こさないんだよ。

いわゆる顔面うんたらみたいな障害持ってる人とかも、出会たことがなければ衝撃を受けるのは自然な事だけど、仮に身近に当たり前にいれば生理的嫌悪も起きないわけよ。

この一文だけでも矛盾がある。

生理的レベル好き嫌い後天的」なのに「出会たことがなければ衝撃を受ける」のはどういう事だ?

初めて見た相手に衝撃を受けるとしたら、それは先天的な、生理レベル好き嫌いなんだよ。

anond:20180624101941

気持ちは分かるが、そのアプローチは筋悪だと思う。

大勢にとっての「美」というのは、建前をどう取り繕おうと厳然として存在していて、ミスコンが無くなろうが表現法律規制しようが、消し去ることは不可能だ。

「建前から始めずに何から始めるんだ」というが、臭いものに蓋をするやり方では本質的解決には決して至らない。

統計的に「大勢の人が美しいと感じる容姿」「大勢の人が不細工と感じる容姿」は確かに存在するのだから、それを単にオープンにしようという行為圧力規制するのは、それこそが「統計的な美の基準であっても公表すべきではない」という価値観押し付けであり固定化だとさえ言える。

大切なのは2つ。

統計的な美の基準」のもとで「評価が劣る者」が、不当に差別されることのないようにしていくこと。

そして、「統計的な美の基準」とは異なる「個人にとっての美の基準」を正当に評価していくことだ。

私たち社会先天的能力の優劣に応じて、得るもの失うものが異なる社会肯定している。

それこそ知能に応じて、その後の人生が人それぞれになるのは周知の通りだ。

しかし一方で、極度に知能の劣る者(知的障害を抱えたもの)に対する不当な差別肯定されていない。

能力が劣るものでも、ある一定水準以上の生活を行うことは基本的人権範疇として保障されているし、例えば「運動能力に難があるから頭脳労働であっても雇用拒否する」などといったような因果関係のない不当な扱いは一切認められないとされている。

統計的な美の基準」において劣ると評価されたものが、優れると評価されたものと異なる人生を歩むことは肯定する。その上で、特段に外見が醜いとされる者であっても極端な不利益を被らないよう適切な保護を行っていくこと、容姿の美醜とは因果関係のない事柄についてまで容姿の劣る人間に不当な扱いを行わないようにしていくことができる社会を目指す方が、よっぽど直截的でしか現実的だと私は思う。

また、元増田危惧している「統計的な美の基準」が「個人にとっての美の基準」を侵食して価値観画一的固定化していってしまリスクについては確かに存在すると考えられるが、これを防止するため「統計的な美の基準」の公表表現自体規制しようという発想は、如何にも筋悪だ。

問題本質は個々の人間自身が「自身価値観マジョリティのそれと異なっていても良い」という自信を持てず、安易マジョリティ意見に流されてしまうことの方にこそあるのだからマジョリティ意見を覆い隠してしまっては、自分価値観自身の持てない人間は、実態不明瞭となったマジョリティ価値観自分価値観の食い違いを今以上に恐れるようになって、今以上に「空気を読む」ことに神経を使い、自身価値観マジョリティのそれと一致させようという忖度誘引するキッカケを生むことにさえ繋がる可能性がある。

統計的な美の基準」と「個人にとっての美の基準」が異なっていても良いのだと啓蒙すること。そのために必要なのは統計的な美の基準」の実態隠蔽することではなく、それを明らかにした上で個々人の価値観尊重することの大切さを知らしめていくことにこそあるだろう。

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