はてなキーワード: 公共福祉とは
急増する待機高齢者に対応するため、全国各地でつぎつぎと設置が続く終末園だが、周辺住民からの騒音クレームにより設置を断念するケースが出ている。「老人たちの咳払いがうるさい」「耳が遠いのかしらないが、大声での会話がここまで聞こえてくる」「断末魔が耳について寝られない」といった苦情だ。咳払いや大声での会話をするのは老人にとってはあたりまえなのだが、周辺住民にとっては納得できないようだ。実際、終末園が近くにできると地価が下がる場合もある。終末園関係者(63才)は「せめて老人の通う昼間だけでもがまんしてもらえないだろうか」と語るが、夜勤のため昼間に就寝するひともいるため、一概にはいえないようだ。同関係者は「何度も苦情をいってくるひとは老人が多い。クレームをつけたこと自体を忘れて何度もいってきていることもあるのだろう。いずれにせよ自分もそのうち終末園に入ることになるのだから、あまりうるさくいわないでほしい。というかこの国はもう老人ばかりだ。どこにいっても老人しかいない。どうなってるんだ」と絶叫した。公共福祉と騒音問題、両立はなかなか難しい。老人福祉が専門の猪名伊代教授(東都大学)は「クレームつけるひともそのうち耳が遠くなって騒音が聞こえなくなるのでほうっておけばよい」とコメントした。
AI臭いな。プロンプトとして「あなたは社会学者です。この説に対して意見を述べてください」と入れた上で作ったらこうなったよ
反論が指摘するように、高額納税者が自分たちの税金が公共福祉に使われていないと感じるのは理解できます。しかし、税金の使途に関しては、政府がより透明性を持って情報開示し、税金が適切に使われるようにする責任があります。また、高額納税者が報酬を得ること自体が悪いと主張するわけではありません。ただし、高額納税者が長年の努力や才能によって得た報酬には異論がないものの、経済的権力や格差が存在することも無視できません。
確かに報酬の偏りは、その人の努力や才能によって得られたものである場合もありますが、それだけでは説明しきれません。社会全体の持続可能性や公平性を考慮すると、高額納税者にも適切な税負担が求められます。富の再分配は、底辺の人々の機会を増やし、社会全体の生産性や経済成長を促す役割があります。
したがって、高額納税者が報酬を得ることやその報酬を公共福祉に還元すること自体は問題ではありません。問題は、公平な税制度が適切に実施されているかどうかです。税金が高いという不満に対しては、税金の使途や目的を明確にし、税制度の公平性を確保することで、高額納税者にも納得感を持たせることができるでしょう。
あなたがおっしゃる通り、社会は底辺の人々の労働や貢献があって初めて成り立っています。しかし、高額納税者が税金が高いと不平不満を言うのは、自分が払った税金が公共福祉に使われていないと感じるからです。また、高額納税者が報酬が偏っているのは、単に権力勾配があるからというのは一面的な見方です。多くの場合、高額納税者は長年にわたって努力して才能を培い、それに見合った成果を出しているために高い報酬を得ています。報酬の偏りがあるとすれば、それは社会がそのように評価しているからです。つまり、高額納税者が報酬を得ること自体が悪いわけではなく、その報酬を公共福祉に還元することが求められているということです。
https://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E8%87%AA%E7%94%B1%E4%B8%BB%E7%BE%A9-298677
新自由主義はケインズ主義的福祉国家の所得再分配政策などがもたらす「過剰統治」と国家の肥大化こそがシステムの機能不全の原因として、規制緩和、福祉削減、緊縮財政、自己責任などを旗印に台頭した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%87%AA%E7%94%B1%E4%B8%BB%E7%BE%A9
自己責任を基本に小さな政府を推進し、均衡財政、福祉・公共サービスなどの縮小、公営事業の民営化、グローバル化を前提とした経済政策、規制緩和による競争促進、労働者保護廃止などの経済政策の体系。
https://www.tnews.jp/entries/17582
もともとフリードマンは「リバタリアン」と呼ばれる、「人間にとって『自由』がもっとも大切だから、他人に迷惑をかけなければ何をしても『自由』にすべき」という考え方の持ち主でした。
それを経済政策に適用しようというのが彼の考え方で、ケインズのような考え方の政策を、自由を阻害するものとして批判しました。
彼はその思想に基づき、規制緩和、減税、関税の撤廃など14の提言を行いました。
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しかし、フラット税制志向は、累進課税を弱める考えだ。さらに近視眼的な費用対効果で福祉・公共福祉サービス削減をすると弱いものは救われない。さらに教育や基礎応用研究も破壊する。
さらに一度金融危機が起きると企業が金を貯め込み設備研究投資をしなくなる上に、法人税減税をするから、致命的に貨幣の流通速度が落ちて不景気になる。そして労働者や起きたばかりの起業家なんかは食い物にされる。
アメリカテキサス州で、実質、人工中絶が不可能になる州法が成立したらしい。
まず、これに関するリアクションのうち、それは間違っているよ、と言う諸々を指摘する。まず、この州法が違憲、あるいは脱法的であると言う見解について。
そもそも合衆国憲法で、中絶権の規定は無い。今日の妊娠中絶合法化は連邦議会レヴェルでの立法措置も経ておらず、1972年のロー判決を根拠としている。レンクイストとホワイトは、ロー判決に関しては、「司法による立法措置」であることを理由として、ロー判決に反対している。
つまりそこにあるのは、司法解釈であって、法律や明確な憲法規定ではないわけだ。だからそもそも「違憲」になりようがないし、脱法的にもなりようがない。そして司法解釈に過ぎないから、司法解釈で変更され得る。現在の最高裁に今回のテキサス州法の案件が回れば、ほぼ確実にロー判決の司法解釈は棄却される。
「違憲だ」「違法だ」と言うけど、保守派は法廷闘争を待ち望んでいるのだ。法廷闘争になれば、負けるのはリベラル派であり、そうなれば「違憲だ」「違法だ」と指をさされるようになるのはリベラル派の人たちであり、人工中絶した女性はめでたく犯罪者だ。
ここ40年、おおむね最高裁は保守派優位で推移してきたけども、ロー判決を廃棄できる機会が何度かありながら、それが出来なかったのは、レーガンに指名されたオコナー、ケネディ、スーターの3判事が、最高裁陪席判事になってから、スタンスを保守派からリベラル派に変えてしまったせいだ。そもそも合衆国憲法自体がリベラルなので、ごりごりの保守派とみなされていたスカリアでさえ、憲法原理主義的な解釈をする人なので、判決としてはリベラルになることもあった。
それの前例も踏まえて、今の保守派判事たちは、かなり強固な保守派が選ばれているので、最高裁長官の職務にあるロバーツが職責上、敢えて中立的なスタンスをとることもあるのを除けば、リベラル寄りの判決を出すことはまずあり得ない。今は最高裁は6対3で保守派が優勢なのだ。
保守派にしてみれば、法廷闘争ばっちこい、と言う感じである。とはいえ、その6対3の保守派優勢の最高裁が、トランプが要求したオバマケア違法化にはNOを突き付けたように、100%党派的な思考をとるわけではないが、中絶は、命の問題だから、そうそう簡単に妥協する余地も無いのだ。
中絶に関する議論で、男女平等と言う観点から、もっと言えば「男も逮捕しろよ!」的な意見から立論する人もいるが、根本的にその人たちの論理が間違っているのは、これが公共の福祉の調整案件だと言うことを認識していない点にある。胎児の人権と女性の間での公共福祉の調整案件が発生しているのであって、そこには男性の権利と調整しなければならない必然性は全く無いのである。
これは言うなれば、過去の徴兵制における男女不平等が、「機能的な軍隊を必要とする政府の必要」と「徴兵されることによって著しい負荷がかかる男性の諸権利」との間に発生したものであって、それは男女不平等ではなく、「女性は関係がない」案件であったのと同じことである。ロジカルにはそうでもあるし、歴史的に言えば、徴兵制のように女性には他人の命を犠牲にして、法益を享受してきたと言う「実績」もある。
言ってみれば中絶禁止は、「女にとっての徴兵制」であって、徴兵制の名のもとに、徴兵された男性たちの「戦死」を見守って来た女性たちには、「女にとっての徴兵制」自体を批判するロジカルな資格は無いのである。
そして、中絶に関して言えば、どこからがヒトとみなすかと言う難しい問題はあるにしても、1月1日13:00に新生児が誕生するとして、13:01に新生児を殺せば殺人で、12:59に”胎児”を殺せば器物破損に過ぎないと言うのは、機能的にも倫理的にもかなり無理がある。自然着床した受精卵にヒトと同等の、あるいはそれに準じる人権を想定するのは、最も無理が無い解釈だろう。放っておけばいずれヒトに至るのだから。
そして胎児や受精卵はDNAが違うので、女性の一部ではないし、女性の付属物でもない。他人の命を女性に無条件に与えていいのかと言う問題でもある。
胎児の人権(生存権)と女性の身体自由権を比較した場合、どちらが重篤な損害を被るのかと言えばそれはもう生存権であるのは間違いないので、人権を重視すれば重視するほど、中絶は違法化する以外には考えられない。この袋小路を女性が逃れ得るとすれば、「胎児はヒトではない」とするか、より根源的な人権思想ではなく、単なる女権思想を至上としてその上に立脚して「女性に損害をもたらすから中絶禁止こそが違法である」とするしかないのである。
どちらもナチス的なファシズムに陥っている。つまり機能的には既に自立しているような胎児に対しても、ヒトではないと規定し得ると言うことは、障碍者、LGBTQ、ユダヤ人などをヒトではない、少なくとも生存が許され得るヒトではないと規定出来る権能を、政府社会に与えると言うことである。人権思想の上に女権思想を置くことは、ナチズムそのものである。
宗教保守から中絶禁止の動きが一方的に起きているわけではなく、リベラルの内部においても、人権思想の観点から中絶には批判がなされていることには留意すべきである。
とはいえ、強姦の結果としての妊娠出産まで強制するのはプロライフ派の大多数にとっても本意ではない。それは、性的被害の記憶と結果が多大な負担と共に長期化し、心身ともに女性を生存レベルで危険に追い込むことに他ならないからである。この場合は「緊急避難」が想定されるだろう。誰も他人の命を救うために、死や死に等しい損失を甘受する義務はないのだ(徴兵制はこの意味でも、最も過酷で最も非人間的な強制であった。そして女性はそれを放置していた)。しかし現実の中絶案件のほとんど、かなり緩く見積もっても95%以上は、強姦案件ではない。性行為をしなければ防げるものであるし、避妊器具を用いれば防げるものであるし、ピルを飲んでいれば防げるものであるし、アフターピルを用いれば防げるものである。数多くのルート回避の方法があるにも関わらず、それらの回避をしなかった結果の妊娠中絶である。当然、胎児の生存権を上回る法益性がそこにあるとは考えにくい。
私は、強姦案件での中絶は合法、それ以外は違法、とするのが妥当だと思うが、その妥当な落としどころが「女性の身体権の絶対性」主張派とは築くことが出来なかったがために、より人権原理的な立法措置が、アメリカやヨーロッパでも徐々に取られつつあるのが現状である、と言う認識である。
国が俺みたいに助ける奴選んでたら、駄目だろ。俺の気まぐれと同じノリで公共福祉語ったら、まずいだろ
私個人としてはさ、反対でも賛成でもないんだけどさ。
困った時の対応とか壊れた時の修理とかみんなでしてるのを恩恵ないものを現金で戻す仕組みだと、必要時に全額実費になるよ。
公共事業やら公共サービスやらを減らして、必要ならば支給されたお金ためて使うときに使うか、使わずに済んだ人は現金として使ってOKって話なんだよ。
人が多い所だとゴミ処理やトイレ、道路の整備や治安や電灯、ベンチ、公園なんかの整備にお金がかかるだろうね。それか無法地帯。
ゴミ箱がないから商売やめるかみんなで支給されたお金から共益費捻出するかになるよね。
田舎で人がぜんぜんいないところとか使わずに済むとか私有地がやたらひろいとかだと公共事業や税金で投資する分が全部返ってきて自由につかえるかも。
問題があるとすれば、全部貯金にしないと公的なサービスでまかなってたものが無くなる不便になる、だろうけど失ってみないとわからんよね。やってもいいのでは。
公共事業が小さくなるから入札とか公共事業で仕事とってたところがなくなるね。小さい所とか起業したてのところとか。
大手で老舗にだけ仕事がいって、お金もちだけ公共投資して、都市部の周辺はスラムになって、田舎に金持ちが済む構図になるかも。
それだけだとそんな今とかわんないかな。今お金が少ない人は我慢さえすればお金がもらえる、我慢の分が現金化できる体系になるね。
税金で仕事するのが減るから、今現在ではなにが減るかわからないけど減った分の仕事や消耗品は民間企業から各個人が現金で買うことになるね。
いまでもNPO活動と称してホームレスなどの支援の活動をしてる団体の闇ってあるけど、知らないよね。あんまり話題にのぼってないしマジで闇なので。
ホームレスしてた人がなぜかアパートに住んでるのとか見かけたら話きいてみたらいいよ。支援のお金かすめとるサービスとか人間を家畜以下に扱ってるの今でも実際あるからね。
それ系も一番手っ取り早くまとまったお金が入る商売として成長するよね。それを取り締まったりするための組織とか費用とかは、そうすべきと思った人からの現金になるから本当に必要なものは淘汰されそう。
そのうえで悪とか闇があったとしたら、必要なものなんだとおもうし気になるね。見てみたい。
かつての日本は公共事業を大きな規模でやって全国に仕事ができて全国で平均的な都市整備ができてたけど、これ各自が必要だとおもったら各自の現金でやってねってことになる。
そんな集団行動とか都市単位での計画とか、周辺地域とか国全体としての計画とか行動とか、出来るものなのかなっていまの日本の緊急事態対応とかみてると疑問だよね。
資本主義にのっとってほんものの資本主義ってものが現実になったところもみてみたいからどっちでもいいと思うよ。実現してもしなくても。
ただ、これからの社会を担っていく人にはどっちにしても高負荷でもうしわけない。こちらはもうどっちになっても延長戦みたいなものだから政治とか制度とかも物見遊山なのでもうしわけない。
実現すると全体的には空きスペースも整備していた余力を、稼働スペースに移すことで稼働率あげることになるかとおもうから、稼働中で率のいいものはさらによくなると思う。
低いものは淘汰されるし新規に行動するのには莫大な資金が必要になるとおもう、つまり発展は大規模資本のある人にかぎられる、大規模資本がないとなにも始まらないので平民と富豪は血族的に交わらなくなるかも。
お金持ちだけがお金をあつめて、お金持ちの下につく人だけがその恩恵をうける構図にはなると思うけど、もちろん逆転もできるし永劫に貧民だという絶望も絶対ではないので。
たとえばの話みんながどれだけ努力をしてもロスチャイルド家に名を連ねることはないよね。
でもロスチャイルド家に入るのは絶対に可能性がゼロなのか無理なのかと言われたら、以外とそうでもない可能性があるよね。
超絶美人になって嫁として入るか、希代の天才として事業を成したら婿として入れるとか。
これ経済の基本である人間の数で簡単に出るよね数字的には。100万人のファンがいる美人だと100万分の1の確率でもあるし100万の倍率がある価値ともいえる。
ビジネスで100万人の顧客があれば一人の個人からみて100万倍の収益があげれる。ユーチューバーとかいるよね。
素質があるなら伸ばせるところまで伸ばしたら、その性能の限界まではトップに近づけると思うよ。
ただ貧困にあってはそんな偶然ほんとに奇跡だよね。じゃあ望みはないかといわれたらあるから大丈夫。
一人ずつの持ち分がすくないから、じゃあどうするかって、上のそれ、100倍にするなら100人あつまればいいんだよね。
組織化したり大家族化したり、独占禁止法に抵触しない程度に談合したり、そう、人数あつまればできないことはないんだよ。
お金って人間の時間を数値化したものだと単純に考えたら、人数が増えたらそれだけ増える、闇のところでも書いたけど人間飼ってたらそれだけでもその分お金もらえちゃうんだよね。
反社会的な組織とか、どうみてもまともに仕事とかできない人を集めて、まともに仕事してる人より利益をえているか不思議だよね。
ただ人間の数があるだけでも強みになるってとこかも。
具体的にいうと一人の時間も二人になれば倍になるよね。二人で仕事をすれば一人の倍できる。その上で仕事って何って話だけど、サラリーマンだって一日ずっと仕事してるわけじゃない。
一日9時間なり10時間なり仕事してるとしたら、それ以外時間や仕事中でも仕事と関係ない時間を割いてしまってる。
書類を渡すのに待ってる時間とか、移動のちょっとした空き時間とか、先方の連絡待ちの時間とか、食事やごみ捨てや清掃なんかも。
その仕事にもならないから無料の時間で自分でやってる事を、それだけをするので一人につき10分や20分といった時間を仕事に割り当てる人がいたらどうなるか。
そんなもので生活はしていけないかもしれないけど、それを統合してひとまとまりにするとまとまったお金になる。そういうことだね。
でも他人とのコミュニケーションとか面倒だし、パーソナルスペースで自由になれる時間も欲しいし、なにより集団って悪いイメージって文化がしっかり醸成されてるから難しいとは思うけどね。
地域や仕事でよりしっかり集まっていかないと、個々に分散すると一人になったところからやられていく、そんな感じ。
大企業が大儲けしてさらに豊かになって、土壌も整えてさらに豊かになる、って憎いひどいって思うかもしれないけど、同じことだよね。集まってるだけ。
最初にだれかに声をかけて、二人になり、四人になり、八人になり、と大きくなってシェアを競り勝ち大きくなっただけ。みんなも最初からこれをやれば同じく大きくなるって話。
いまどきの風潮をすてて昭和初期から中期のむかしながらの生活みたいなコミュニティやコミュニケーションがその効率はよかった代表格の成功例みたいなものだから、できないことはないと思うよ。今なら。
でも一人がいい、指図されたくない、自分のアタマで考えたい、自由に好きなものを選びたい、そんな事が人としての幸福って感じにすっかり染まってるよね。
その幸福を得るために垂れ流してるコストは、二人になれば2倍になるのだから一人でいることはすでに等倍のコスト、10人で組織されたチームで生きる10分の一しか得られていない、30なら、ってとこ。
自分の公共福祉で使わなかった分が現金として支給されたとして、それを使ったら万が一の時の備蓄がないままだよね。使わないなら得してたけど使うとなったら大損。
そのリスクも使わないパートナーと使う自分で組み合わせればコストは半分に、組織化していけばもっと小さくできるし、使わないときの得はもっと大きくできる。
一人で100万人の従業員の100万倍の資本の会社に勝つには、いまの100万倍の成果をあげる努力をしないといけないけど、だから無理だって思っちゃうかもしれないけど。
そこであきらめるから貧困から脱せないのかもしれないけど、100万倍の能力を身に着ける方法をどうやったらいいかなんて考えなくても、できれば100万人の、そこまでいかなくても自分の一人から数えて何倍かの人数を集め、集まり集団で団体で行動をしたり計画をしたり、持ち寄ったりするといいんだよ。
ユーチューバーのフォロワーの数も、人数としていえば1フォロワーが人間でいうところの0.3人くらいかもしれないけど、やっぱり万とかいくとそれなりに大きいでしょ。
資本主義で民主主義な長所はそういうところだから、活かしていきたい人はがんばってほしい。
まあそういうのをするために自治体って集まりができて、政府ってのができて、国だったんだけどね。ここにきてあらためて解体っていうかたちの現金支給で還元ってのも、ありといえばありなのかも。
お金がないなら、減らしていくんじゃなくて、あつまってこ。そういうとこ気が付いていきたいよね。
言い訳は通じない――。コロナ禍のなかでのテレワーク(在宅勤務)の推進をめぐり、西村康稔経済再生相は17日の記者会見で、企業に厳しい口調で対応を迫った。政府は緊急事態宣言が出ている10都府県で、テレワークによる「出勤者7割削減」を呼びかけているが、思うように浸透していないからだ。
西村氏は同日夕、テレワーク実施状況の日米比較などを取り上げた政府の成長戦略会議(議長=加藤勝信官房長官)に出席していた。その後の会見で、「日米のデジタルの差がどんどん開いてしまう」と語り出した。
西村氏はテレワークが進まない理由として、「社内ルール」や「機材が整わない」などが挙げられていると指摘したうえで、「そんな言い訳は通じない世界だ」と主張。「これができないようでは成長が見込めない」と断じた。
良い仕事してるなあ。結局経営層が60代以上だと、PCを使ったリモート会議とかピンとこないってことが一因としてあると思う。
「えいや」でやれることなんだけどね実は。
リモートワークになった人の意見をツイッターで聞くと、ほぼ9割の人はリモート継続希望している。
1割の人も、出社はしたいけどどうにか着地点を見出している。
できないのか?できるけどやらないのか?
教えて頭いい人
〔基本的人権〕
第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
大丈夫ですよ。
そんなあなたでも、障害者になったら障害者向けの社会保障を使える、それが公共なんです。
あなたは、社会福祉を障害者優遇のためにあると考えているようですが、実は、障害者優遇と言うより、健常者が金を節約するためにあるのですよ。マジョリティ、健常者がコストを節約するためにあります。でなければ選挙で支持されて政策として実行できません。
障害者になったときの備えを一人一人がやるとコストが膨大に必要です。たとえば、あなたが明日脊椎損傷して車椅子生活になっても暮らしていけるだけの金を用意する、といったら、どれだけ必要でしょか?