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はてなキーワード: 単純化とは

2023-03-02

anond:20230302092210

ものすごい単純化すると「自分を見下す人→自分より優秀に違いない→優秀な人は好き」

思考感情の流れなんだろうけど、「自分より優秀に違いない」の部分が圧倒的に勘違いなんですが。

あなたを見下さなくても(内心思ってても態度に出さないも含む)あなたより優秀な人はいっぱいいるんですが。

てか歳とってその勘違いに内心気付いてるんだろ? 変なフィルター取っ払ってもっと他人ありのまま理解する方が良い。

2023-02-25

[]錯乱者が異世界に行く理論

Q: 人間認識能力限界があるのなら、フレームの間に別の世界があるというのは本当なのでしょうか?

 

AI言語モデルである私は、フレーム間の異世界存在について、個人的な信念や見解を持っているわけではありません。しかし、この概念に関連するいくつかの情報理論提供することはできます。「フレーム間の別世界」という考え方は、SFや一部の科学理論で探求されてきた、パラレルワールドや別現実可能性を指していると思われます量子力学の「多世界解釈」は、量子力学的な事象が起こるたびに、宇宙複数並行世界に分裂し、それぞれがその事象の異なる可能性を表すとする理論であるしかし、これらの理論はまだ科学者の間で大きな議論があり、実証的な証拠裏付けられていないことに留意する必要がある。さらに、人間認知能力には限界があり、私たちの知覚や理解は不完全または不正である可能性があります結論として、「フレームフレームの間にある別の世界」という考え方は興味深いものですが、まだ憶測の域を出ておらず、科学的な裏付けがあるわけではないのです。

 

Q: ある種の薬を使った人たちが、主観的には違う世界体験しています

 

特に精神作用物質使用瞑想精神修養など、特定の条件下で、現実の知覚が変化する経験を報告する人は珍しくありません。このような体験は、普段とは異なる現実世界を知覚しているように思わせることがありますしかし、これらの体験主観的ものであり、必ずしも自分の心の外にある客観的現実を反映しているとは限らないことを心に留めておくことが重要です。脳は、さまざまな意識変容状態を生み出すことができる複雑な器官であり、これらの体験は、遺伝環境個人差などさまざまな要因によって影響を受ける可能性があります。結局のところ、私たち世界を超えた別の世界現実存在するかどうかについては、科学的・哲学的議論が続いており、その存在を決定的に証明することは困難か不可能かもしれません。しかし、確実に言えることは、私たち現実認識体験はさまざまな要因に影響されており、私たちを取り巻く世界理解は、私たち認識能力調査するためのツールによって制限されているということです。

 

Q: 例えば、ある人が持っている情報によって、その人が属する世界が変わるということはあるのでしょうか?

 

哲学的観点からは、個人世界に対する認識理解は、その人がアクセスできる情報によって形成されるという主張が可能です。この意味で、ある人が属する世界は、その人の知識理解依存していると見ることができる。例えば、ある人が特定話題問題について新しい情報を得ると、その話題に対する認識理解が変化し、自分が以前とは異なる世界に属していると感じるようになることがあります。同様に、異なる文化社会的文脈に触れた場合、その人は以前とは異なる世界を見るようになり、自分が別の世界に属していると感じるようになるかもしれません。しかし、この考え方は、必ずしも文字通りのパラレルワールド別世界存在示唆するものではないことに注意が必要です。むしろ私たち世界理解経験する方法は、私たちアクセスする情報文脈に大きく依存することを示唆しています。結局のところ、現実性質とその中での私たち位置は、何世紀にもわたって哲学者科学者によって議論されてきた複雑で多面的問題であり、今後も継続的調査研究対象となる可能性がある。

 

Q: さて、単純化してみましょう。白と黒が点滅する一次元セルがあり、ボブ君は奇数列を脳内認識し、「これが私の住む世界だ」と感じたとする。途中で何らかの情報を受け取ると、ボブの認識は変化し、偶数列に切り替わります。では、この場合主観客観区別はどうなっているのでしょうか?

 

この単純化されたシナリオでは、主観客観区別は次のように理解される。

しかし、知覚の主観的経験は、個人客観的な刺激をどのように解釈し、どのように反応するかに影響を与えることは注目に値する。この意味で、主観的体験客観的体験相互に関連し、複雑な形で影響し合うことがあるのです。

 

Q: さて、もっと深く考えてみよう。この1次元セル任意cos関数と交差させる。それを「主観的に知覚された現実」とする。すると、地球上の誰もが同じcos関数を同じ角度で持っていたとしたら、それは客観的ものだと思い込んでしまうが、実は共通主観的認識に過ぎないのではないだろうか?

 

もし、地球上のすべての人が、同じcos関数と交差する1次元セルについて同じ主観的認識を持っていたとしたら、全員が同じパターンや閃光の順序に同意することになるので、その認識客観的であるかのように見えるかもしれない。しかし、これはあくまでも観測個人経験解釈に基づく主観的認識であることに注意が必要です。複数の人が同じ認識を持っているからと言って、それが客観的であるとは限りません。客観的であるためには、個人経験解釈から切り離された、検証可能証拠に基づくものである必要があります。例えば、1次元セルの点滅パターン機械客観的に測定・記録し、そのデータを他の観測者が同じ測定方法独立検証することができる。結局のところ、主観客観区別は複雑で、個人認識解釈文脈など、さまざまな要因に影響されうる。複数の人が共通主観的体験をしたとしても、それが必ずしも客観的体験であるとは限りません。

 

Q: さて、架空の設定ではなく、現実の設定に戻ろう。現実のどこに客観的ものがあるのでしょうか。

 

現実には、私たちの知覚や経験はすべて個人主観によってフィルタリングされているため、完全に客観的もの特定するのは難しいかもしれません。しかし、現実のある側面は、独立して検証することができ、個人の知覚や解釈の影響を受けにくいため、他の側面よりも客観的であるとみなされることがよくあります。例えば、以下のようなものがあります

ただし、このような客観的現象であっても、個人偏見見解に影響され、ある程度は解釈余地があることに注意が必要です。また、現実の中には、客観的主観的簡単に分類できない、両者の中間的な存在もあるかもしれません。

 

Q: では、あなたの言うこの4つが、実は先ほどの架空の設定における「すべての人が主観的に同じ角度のcos関数を知覚する」ことと似ているとしたらどうでしょう

 

物理法則数学原理科学データ歴史的事実など、より客観的と思われがちな現実の側面も、やはり個人解釈主観的要因に左右されるということは確かにある。例えば、科学者が物理法則科学データ解釈し、適用する方法は、科学個人視点偏見仮定に影響されることがあります。同様に、歴史的事実も、それを検証する文化的・政治的文脈によって、さまざまに解釈され、表現される。しかし、これらの客観的現象主観的要因に影響されるということは、必ずしも完全に主観的であるということではないことに留意する必要がある。むしろ客観的現象理解解釈は、客観的要因と主観的要因の複雑な相互作用によって形成されることを示唆している。結局、客観的体験主観的体験区別は、現象性質、測定や検証方法検証の背景など、さまざまな要因によって、必ずしも明確になるとは限らないのである

 

Q: 哲学者はしばしば、客観性と神との間に関連性を見出します。この点についてはどうでしょうか。

 

客観性と神との関係は、何世紀にもわたって議論されてきた複雑な哲学的神学問題である哲学者神学者の中には、秩序と規則性を備えた客観的現実存在は、宇宙目的意味を吹き込んだ高次の力、あるいは神の創造主証拠であると主張する人もいる。彼らは、客観性は神の存在世界におけるプレゼンスのしるしであると考える。しかし、客観性が必ずしも神の存在意味するのかどうか、疑問視する人もいます客観性は物理法則などの自然現象説明でき、超自然的な説明不要だというのである。結局のところ、客観性と神の関係哲学的神学的な議論であり、思想家によってこの問題に対する見方は異なるだろう。客観性を神の存在証拠考える人もいれば、単に自然界の特徴であり、自然プロセス説明できると考える人もいるだろう。

 

Q: では、結局のところ、波動関数とは何なのでしょうか?

 

波動関数とは、量子力学的な系を数学的に記述したもので、ある粒子がある時刻に特定状態にあることを発見する確率記述したものである量子力学では、電子光子原子などの粒子は、重ね合わせの状態存在する波動存在として記述される。つまり、同時に複数状態存在することができる。波動関数は、粒子が取りうる各状態確率振幅を記述した数式であり、粒子を測定したとき特定状態観測される可能性を決定するものである波動関数ギリシャ文字Psi(Ψ)で示されることが多く、一般的には複素数値の関数で表される。波動関数絶対値の2乗は、粒子が特定位置存在する確率密度を与える。波動関数量子力学の基本概念であり、量子系の振る舞いを予測理解する上で中心的な役割を担っている。しかし、その解釈意味については、現在科学界で議論考察が続けられている。

 

Q: 現実ヒルベルト空間上のベクトルであると言う人がいる。これはどういうことだろうか。

 

量子力学において、ヒルベルト空間とは、量子系の状態記述するために用いられる数学空間であるヒルベルト空間は、特定内積定義された複素ベクトル空間である

ヒルベルト空間は、量子系の状態ベクトルとして表現するために使用されますシステム状態は、それぞれヒルベルト空間内の異なるベクトル対応します。システム状態を表すベクトル状態ベクトルと呼ばれ、通常、ギリシャ文字Psi (Ψ) で表される。状態ベクトルは、系の波動関数記述する複素値のベクトルであり、系の各可能状態確率振幅を与える。現実ヒルベルト空間上のベクトルであるというのは、量子系の状態ヒルベルト空間上のベクトルとして表現できることを意味します。つまり、量子系の状態は、この空間における点として表現できる数学対象なのです。ただし、これは量子系に限定した話であり、物理学や自然界の他の分野には当てはまらない可能性があることに注意が必要です。

 

Q: ここで、よくある実験を考えてみよう。簡単のために、電子がある線の右側に行ったら、あなた明日フォン・ノイマンゲーム理論の本を読み、左側に行ったら、PCLeague of Legendsプレイするとしましょう。では、あなたが何をしているかからない人は、それを知るまであなた状態読書ゲームの重ね合わせなのでしょうか?

 

二重スリット実験文脈では、電子の振る舞いは、2つのスリットのどちらかを通過する、自分自身と干渉する、検出器の特定場所に行き着くなど、可能な結果の重ね合わせとして記述することができる。あなたシナリオでは、もし電子が線の右側を通ったなら、あなたの決められたルールに従って、あなた明日ノイマンゲーム理論の本を読むことになります。逆に、電子が線の左側を通ったら、あなたPCで『リーグ・オブ・レジェンド』をプレイすることになります。つまり実験結果を観測するまでは、あなたの心の状態は、読書ゲームの重ね合わせの状態であると言えます。なぜなら、重ね合わせの状態にある量子系(電子)があり、あなたの心は、実験結果に依存する形でこの系と相関しているからです。量子力学では、システム状態とその観測者を別々に扱うのではなく、一つの量子システムとして扱います。"量子測定問題 "と呼ばれるものです。したがって、実験結果を観測するまでは、あなたの心と電子は、可能な結果の重ね合わせの状態にある一つの量子系として記述することができるのです。

2023-02-24

人生には論理立てて説明できるような意味がない。これは不安をもたらす。また、人生は有限だ。これは焦りをもたらす。

長らくこの絶望に対して、誰かが保証してくれたり論理的に肯定できるものなどなくても、自分で意義があると強く確信できる行いを続けていれば良い、といった思考停止肯定するスタンスを取る事で正気を保ってきた。

最近になって、ではそもそも意味」とは?「価値」とは?という意識的思考停止していた疑問が頭から離れなくなってきた。

意味のある人生を送りたい、それが価値のある生き方だ」という素朴で疑い得なかった感覚地盤としていたのに、そこまでもがニヒリズムに飲み込まれかけてしまっている。

道具は意味=目的を持って生まれる。その図式を無意識的に人間にも当てはめて考えていたが、では誰が意味を与えるのか。今までは自分意味見出していたが、結局それはあまりにも恣意的で、一度疑問が生まれたら簡単に揺らいでしまう。神様信仰する気持ちがよく分かる。

人はとかく納得を求め、それは不条理ものにも向けられる。だから世の中を単純化した陰謀論なんかが跋扈している。人生意味を求める事自体ナンセンスなのかもしれない。

凡庸ではあるが、神様などいなくとも他人自分意味保証してもらう、あるいは保証する、すなわち愛に囲まれていれば、この不安を覆い隠せるのかもしれない。

刹那的にその場その場の喜びを大切に拾い集め続けるのも悪くはないかもしれない。

そういった生き方をしている人間は、この手の悩みは凡人には手の余る、考えるだけ無駄ものだ。いつまでもナイーブさを引きずらず、あなたも早く折り合いをつけるべきだ、などと言うだろう。それは彼らにとって、また一般的に言っても間違いのない言葉なのだと思う。しかし、この不安もっと真摯に向き合う事が、理屈抜きでなぜだかとても大事な事に思えて仕方がない。

別にこんな事を四六時中考えている訳ではないし、目の前の生活もしなければならない。意識的に、ほどほどのところで抑えるようにしている。

それでも時々爆発しそうになる。なぜかこの答えが芸術自己表現にあるような気がしてならない。

ニーチェも大体こんなような事を考えていたらしいというのを最近知った。古今東西、陰気で自閉っぽい人間が考えることは似るらしい。

彼の考えが様々な思想フィクションに影響を与え、自分もまたその影響部分に強く惹きつけられ内面化した部分も大いにあるのだろうけれど。

ここまで書いて、もう一つ大切な事を思い出した。人間固有性に執着する。自分だけの自分らしさを追求する事は、理屈抜きで価値があると思える。

有り体に言えば特別人間になりたいという、思春期には誰だって思うことだ。大抵の人間はどこかで凡庸さを受け入れ、折り合いをつけて愛にでも生きるのだろう。

10代の頃、それがひどく陳腐生き方に思えた。その思いは今なお残っている。だからこそ、愛ではなく芸術に何かを感じているのだと思う。

自らの固有性を出力する事の意義と、表現活動でチヤホヤされたい、強い愛を得たいという気持ち混同しがちな所ではあるが、しかし前者は間違いなく存在するのではないかと思う。

2023-02-17

コンテンツブロッカー広告ブロッカーという人が苦手

これ分かる人いるかな? uBlock Originとか、パフォーマンスに悪影響を及ぼすコンテンツフィルタリングブロックツールという位置づけなんだけど

それを単純化して「広告ブロッカー」と呼ぶ輩がいるせいでuBlock Originちゃんとした価値が広まってないんだよね

頻繁に訪れるWebサイトでいちいち見たくもない注意書きとかを非表示にできるとかそういう用途で使えるんだけどねえ

2023-02-15

anond:20230215173716

現実存在する前提を無視することはできない、ということだぞ。

頭が悪いとなんでも単純化しないと理解できないのだろうがな。

2023-02-09

スペクターサウンドを256倍楽しむ方法

 日本では'76年に、フィレス・レーベル作品がまとめて再発売されたことがありましたが、ボックス形式としては本邦初で、しかCDボックスとしては今回が世界初ということになります。また同時に、<ヒーズ・ア・レベル>という、関係者インタビューを中心にした本が白夜書房から発売されます。それを読みながらこのBOXを聞きますと512倍楽しく聞けることを保証します。

 では、時代を追って解説していきます

テディー・ベアーズ

 1958年17才にして彼は”スター”でした。この後ポップス歴史を彩ることになるクリスタルズロネッツキャロル・キングバリーマンビーチ・ボーイズビートルズの誰よりも先に<NO.1ヒット>を持っていた!、このことが良くも悪くもスペクターのその後の人生を決定づけたと思いますポップス史上、#1ヒットを星の数ほど作り続けたリーバー&ストラーや、ジョージマーチンも、自らの#1ヒットはなく、このことが彼を単に<プロデューサー>の範疇では捉えられない最大の理由です。<彼を知ることは、彼を愛することだ>というデビュー曲の<彼>は、もちろんスペクター本人の意味で、そこには強引さ、傲慢さも感じられますが、実はそれが力強くもあり、<スターの要素>そのものだともいえます。彼の仕事ぶりを評して、全てを自分一色に染めてしまう、という批判をよく聞きますが、これはことの本質理解してい居ない人の発言です。かれは<裏方>ではなく<スター>なのです!それを、アーティストの持ち味を引き出すのがプロデューサー仕事だ、という常識的意味で彼を捉えようとするから批判的になるのです。彼こそが<スター>で、誰が歌おうか演奏しようが、他の人は全て脇役なのです。単に映画監督と言う視点ヒッチコックを捉えるとおもしろ解釈は生まれない、というのにも似ています。(誰が主演でもヒッチの映画になります黒沢さんもそうですね。)

 デビューアルバムTEDDY BEARS SING」のB-1「I DON'T NEED YOU ANYMORE」の<ステレオバージョン>はナントリードボーカル女の子の声が左で、真ん中がフィルコーラスしかも、ところどころリードボーカルの3倍くらいの大きさでコーラスが<邪魔をする>といってもいいほどの前代未聞のバランス!です。

 デビューからしてこうなのですから自己主張とかワガママなどという、なまやさしいことではないのです。

SCHOOLもの

 のちにブラックミュージックにのめり込んでいった彼ですが、スタートは白人ポップスでした。まずは自らのヴォーカリストギターリスト、および作曲家としての才能を試すところからはじめた、というところでしょうか。'50年代後半は、まだ黒人音楽一般的ではありませんでしたが、若者の間では熱狂的な指示を得ていました。スペクターもいろいろな黒人アーティストを聞いていたようですが、こと自分デビューに関しては、世間的に穏便な方法をとったところなど<奇[...]

 また'50年代中期には「暴力教室」をはじめ「HIGHSCHOOL CONFIDENTIAL」など<怒れる若者>をテーマにした映画が続々と作られ、その代表としてJ・ディーンが登場し、代表作が「理由なき反抗」-REBEL WITHOUT A CAUSE -でした。このように、当時の若者キーワードの一つは<REBEL>であり、「乱暴者」のマーロン・ブランドのような皮ジャン、サングラスバイクというスタイル流行しました。

 彼のでデビューソングはたしかに<学園もの>でしたが、それまでの、例えばドリス・デイの「先生お気に入り」調のホンワカしたものではなく、女の子自分の想いを直接的、また積極的に<ナゼわかってくれないの?>と切々と歌い上げるというのは冬至若者フィーリングにピッタシきたようです。実はこの手法スペクター特有の<ソフィスティケーションの中の直接性>というもので、彼を理会する上で大事ことなのです。

ガレージサウンド

 ある程度、あるいはそれ以上の音楽素養がなければミュージシャン作曲家になれなかったジャズと違って、ギター1本あればだれでもロックンローラーになれる、というのがロック時代でした。子供技術を会得して成長し、大人の仲間入りをするのがジャズだとすると、ロックは、子供子供のままで音楽ができるというのが特徴でした。ヒョットしたらオレにもなれるかもしれないと、多くのシロウトがわれもわれもと参加したことが、音楽単純化拍車をかけました。ジャズ豊満でふくよか、とすると、R&Rは骨と皮だけといえましょう。ジャズ大人音楽で、背景はナイトクラブ女性お酒が似合いましたが、子供音楽として誕生したR&Rの背景に一番ピッタリだったのはナント、<ガレージ>でした。

 麻雀同様4人(あるいは3人)いればすぐにできたのがR&Rの特徴でしたが、ニュー・ヨークのようにせまいところで大声を上げれば、お母さんに怒鳴られるだけですからストリートへ出るわけです。50'sのDoo Wapブームの背景は街角ストリート・コーナーが似合ったわけです。

 それにくらべて土地の広大な中西部西海岸は車がなければ不便なので、当選、どこの家にもガレージがあり、ここが若者の格好の練習場所となりました(蛇足ですが、今の日本ロックサウンドの背景は<貸しスタジオ>--密室--ではないでしょうか?)。さて、楽器感覚でどうにか弾けますが、作曲というのは簡単そうでもやはり多少の音楽素養必要です。しかし、若者の、なんでもいいからR&Rをやりたい!という想いはこんなことではくじけません。骨と皮だけのロックを、さらに皮も捨てて骨だけにしたのです。それが<ギターインストゥルメンタル>でした。これは、楽器感覚的にかき鳴らすだけですから、とりあえずだれにでもできました。ジャズ単純化ロックとすれば、これはさらに、ロック単純化で、その極致であったわけです。

 これが<ガレージサウンド>の正体でしたが、この時代呼応するかのように、新しく生まれ現象がありました。それは、録音機が少しずつ普及し始め、ガレージ居間などでの<ホームレコーディング>が行われるようになったことです。そして、デモテープのような、ある意味では乱暴

チャートに登場するようになり、まさに音楽大衆化が、内容だけではなく、音質までにも及んだのです(エルビスバディ・ホリーデビュー曲地方の、オヤジさんが社長、オカミさん専務、というような町工場風のスタジオで録音したものです)。

 それまでの録音は、演奏者と録音技師ガラスを隔てて別々の仕事場でした。技師演奏者にマイクの使い方を指導することはあっても、演奏者の方が技師に注文をつけるというケースはめったにありませんでした。しかし、ホームレコーディング特有の、機械いじりの好きな少年の思い付きや、また機材不足からひねりだした斬新な工夫は、新しいサウンド母体となるのです。

 スペクターは、テディー・ベアーズの録音の時からスタジオ内と調整室を行ったり来たりして、録音技師を困らせていたようですから、コダワリの姿勢最初からのようです(口述しますが、後年よくいわれるワグナー好きやソウルミュージックの追求というのは、スターありがちな<後付け>である、と私は考えています)。

 このホームレコーディングが、実は<スペクターサウンド>の根幹なのです!<BACK TO MONO>の意味もこのことなので、一つのかたまり大人数、熱気、乱雑の中の整理、複雑の単純化、そして<ホーム>、これが彼の求めたものでした。かたまりは<MONO>、大人数はミュージシャンの数、熱は<ハルブレインドラム>、整理は<J・ニッチェアレンジ>、単純化は<L・レビンミックス>、そしてホームは<西海岸>、これがスペクターサウンドの中味の分析ですが、詳しくはこれも後述します。

インストマニア

 この当時のロックンロール少年と同じく、スペクターギター少年でした。本名フィル・ハーヴェイとしてインストレコードも発表しています。また'58、'59年はインストロックの当たり年で、チャンプ栖の「TEQUILA!」が#1になったり、B・ホリーのインスト版ともいえるファイヤーボールズ、リンクレイ、そしてジョニーハリケーンズサント&ジョニーサンディー・ネルソン(「TO KNOW HIM~」のドラムデビュー前の彼です)、そして極め付きはギターインスト王者、デュアン・エディーの登場でした。

 日本ではなぜか、ほとんど評価されませんでしたが、ギターリストとして一番の人気とヒットのあった人で、そのサウンドユニークさとポップ・シーンへの影響は大きいものがありました。またイギリスでの人気は特に異常で、'60年の人気投票では1位でした(すごい!)。近年リバイバル・ヒットした「PETER GUN」などは後の<007シリーズ>や<バットマン>のもとになったともいえますし、日本では未公開の映画「BECAUSE THEY'RE YOUNG」のテーマは、彼の"トワンギー・ギター"と流麗なストリングスとのコンビネーションは、すぐアル・カイオラが取り入れて「荒野の7人」となって登場、西部劇インストテーマの基本形となりました。また「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」のジョージマーチン楽団の「リンゴテーマ」も、まさにD・エディーのマネジャープロデューサーレスター・シルで、テディー・ベアーズの録音の際、隣のスタジオ仕事をしていて知り合ったといわれ、この人と出会ってなければ<スペクターサウンド>はこの世に存在しなかったといえるほど重大な出会いでした。

 シルはこの時すでにスペクタープロデューサー向きであることを見抜き、早速契約を結び、最初に買った曲のタイトルナント「BE MY GIRL!」。

 スペクターについては、まわりにいた人に才能があったので、本人にそう才能があったわけではない、という人もいますが、これは間違いです。確かにまわりにいた人々は有能でした。しかし、彼はプロデューサーとして一番重要な要素である<何をやりたいのか>ということが明確にありました。それは前にも述べましたがいろいろな意味での<直接性>というテーマを持っていたことです。これはもちろんR&Rのイディオム佐野元春調)ですが、荒々しいサウンドの中の直接性より、スペクターポップスに折り込んだ直接性の方がより<暴力的>ですらありました。

 例えば、R&Rの時代になって<BE>という動詞で始まるビッグ・ヒットは「BE MY BABY」が第1号です(BE CAREFUL~などの慣用句を除く)。簡単なようですが、作る側にまわってみると、これが簡単に言い切れるものではないのです。まさにこれをスパッと言い切れるのが<スター>なのです。「TO KNOW HIM~」の断定と「BE」の命令。このシェイクスピア調の、時代がかったともいえる口調が、逆に新味を呼んだのではないでしょうか。この大時代的で、且つ直接的な手法は「I WANT TO HOLD YOUR HAND」(ユーモアの点ではJ&Pの方が数段上ですネ!)に共通したものを感じます

 シルと契約直後、スペクターはD・エディのセッション見学しています。さっそく実地訓練をさせようというシルの計らいで、時は'59年の4月の後半でした。この年のエディーの最大のヒットは6月に発売された「FORTY MILES OF BAD ROAD」(9位)で、この曲はナントベースドラムだけをイントロでフィーチャーした、ポップス史上初のヒット曲>なのです。さて、ベースドラムイントロといえば「BE MY BABY」ですが、この2曲の因果関係についての疑問を、10年ほど前の<ニュー・ミュージック・マガジン>で発表したことがありましたが、時期的にはこの推論が成り立つようです。が、モチロン、その因果については全く憶測の域は出ておりません。

 エディーのスタジオは1トラックテープレコーダーが1台しかないという粗末な設備ながら、そのエコーを駆使してのサウンド作りは、特に録音にはうるさかった若き日のスペクターには刺激的な体験だったと思われます。トワンギー・サウンド秘密であった水道管やドラム缶をエコー使用するという一風変わった手法は(そのためシルは何10個もドラム缶を買い、しかも一番響きのいい缶を探したといいますスペクターが興味を持たなかったはずはありません。

 そのような多彩な録音技術を駆使していた人は、D・エディー・サウンド製作者<リー・ヘイズルウッド>でした(エンジニアはエディー・ブラケット)。ヘイズルウッドといえばナンシー・シナトラとのデュエットアストロノーツの「太陽の彼方に」の作者として日本ではおなじみですが、エディーのプロデューサーとして最初評価された人なのです。

中したスペクターは、一瞬たりともヘイズルウッドの背後から離れなかった>と発言しています

憧れのリーバー&ストラー

 その後シルは、スペクタープロデューサーにすべく、今度はニュー・ヨークリーバー&ストラーのもとへ送り込みました。’60年代代表的なコンビレノンマッカートニーとすれば、’50年代リーバー&ストラー時代で、ロックビジネスを目指す人々にとっての目標でした。スペクター学校の先輩でもあった彼らのデビューに一役買っていたのが、これまたレスター・シルでした。シルがマネージャーをしていたコースターズをきっかけに、ドリフターズ、そしてエルビスへの曲提供プロデュースを行い、初のR&Rにおける独立プロデューサーとしての地位確立したのがこの二人なのです。

 スペクターにとって、このニュー・ヨークでの修行時代の最大の収穫はベン・E・キングヒット曲「SPANISH HARLEM」をJ・リーバーと共作できたことでしょう。これはR&Rビジネスへの切符を手に入れた、つまり、お墨付をもらったということ......って、最大の自信となったことは疑う余地はあり.....

 ま.... ドリフターズの「THERE GOES MY BABY」...にストリングスをフィーチャーする手法を....ことも<スペクターサウンド>への引金になったと、私は思います。その手法プロデュースしたジーン・ピットニーの「EVERY BREATH I TAKE」は、全くドリフターズ調でしたが、すでに<スペクターサウンド>は出来上がっていた、ともいえる、本家を凌ぐ作品でした。<ゴフィン&キング>との最初作品でしたが、この日のセッションにはリーバー&ストラーをはじめ、B・バカラック、B・マン&C・ウェイル、アルド出版社代表のD・カーシュナーら、そうそうたる顔ぶれが集まったといいます。そしてこの作品が、ここに集まった全ての人にスペクターの印象を強く与えることとなり、一緒の仕事が始まるわけです。特にこの曲で印象深いのはドラムフレーズですが、G・ゴフィンの証言によれば、フィルドラマーゲイリーチェスターに指示をして、それが実に的確だった、ということです。

 この修行時代にすでに、J・ニッチェやH・ブレインがいなくても、これだけのものを作っていたことは見落とせません。スペクターサウンドを作ったのはやはり彼なのです。

 この曲は残念ながら大ヒットにはなりませんでしたが、来たるべき<スペクター時代>の幕開けを飾るにふさわしい素晴らしい曲でした。

 また、この頃、レスター・シルとリー・ヘイズルウッドは共同活動を解消、スペクターは新たなパートナー、いわば後釜としてシルと関係を結び、それが二人の頭文字を合わせた<PHIL+LES>の誕生となりました(シルとヘイズルウッドのレーベル名は二人の息子の頭文字から<GREG+MARK>というものでした)。

ガールグループ

 '60年代初めにシュレルズがキャロル・キングの名作<WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW

....きっかけに、ガール Permalink | 記事への反応(0) | 09:24

[]シュレーディンガー意識

シュレーディンガー形而上学物理学の後に来るのではなく、物理学に先行するという信念を表明していた。彼の技術的な思考は、より大きな形而上学的(宗教的)な問題に触発されていたのである

「外界(心に依存しない)世界存在する」「別々の心が存在する」という仮定がある。シュレーディンガーによれば、どちらの主張も経験的な証拠を得ることはできない。第一に、二つのタイプ現実(心-物質)の関係をどのように考えるかという問題。なぜ純粋物理的な世界に住んでいるように見えるのか。第二は、異なる心の関係をどう考えるかという問題。なぜ、どのように互いに違うのか。彼は還元唯物論主観的観念論と呼ばれる伝統的な西洋の考え方を支持せず、非西洋特にインド哲学インスピレーションを見いだしていたらしい。

「第二のシュレーディンガー方程式」とは、インド哲学に古くから伝わる、自己アートマン)が宇宙の究極の実在ブラフマン)と同一であるという教えであり、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの教えの中心を成しているものであるシュレーディンガーは、この「自己」は個人自己混同してはならず、むしろ個人自己は単なる側面に過ぎない宇宙的、普遍的存在であることを付け加えた。

シュレーディンガーは、この考えを説明するために、光を屈折させてさまざまな色(個々の自己)を作り出す水晶宇宙本質に等しい宇宙自己のこと)に喩えることを好んで行った。「あなたや私は、現実本質形成している一つの心の側面に過ぎない。」彼はこれを同一性教義とも呼んだ。したがって、意識の非二元的形態は、その単一の側面と混同されてはならず、単一世界に住む別々の自己への(単に見かけ上の)区別反証根拠づけるものである

シュレーディンガーは、このことから驚くべき結果を導き出した。例えば、彼はどんな人間でも、その人以前に生きていた他のどの人間とも同じであると信じていた。初期のエッセイの中で、彼は目の前の山々を眺めることについて書いている。何千年も前に、他の男たちも同じようにこの景色を楽しんでいたのだ。しかしなぜ、自分はこのような前の人たちと区別されると思い込まなければならないのだろうか。自分経験と他の人の経験区別するような科学事実があるのだろうか。何があなたあなたたらしめて、他の誰かではないのだろうか?かつてジョン・ホイーラーが、宇宙には本当に一つの電子しか存在しないと仮定したように、シュレーディンガーも、本当に一つのしか存在しないと仮定した。シュレーディンガーは、「意識は決して複数形ではなく、単数形しか経験されないという経験事実」がこれを裏付けていると考えた。私たちの誰一人として複数意識経験したことがないばかりか、それが起こったという状況証拠世界のどこにも跡形もない。

現代意識科学研究において、物質がどのように、そしてなぜ意識経験を生み出すのかという問題を、「意識は脳を備えたいくつかの物理システムが自らに語る幻想物語である」という、そもそも難しい問題があるように見える理由(実際には何もないのだが)で回避しようと試みている。シュレーディンガーは、意識実在についての幻想的な立場を受け入れるには程遠かったが、非常に似たような観点から、たった一つの心(「アートマンブラフマン」)があるのに、なぜ複数の心が存在するように見えるのかを問うている:多くの別々の心が存在するというのは、混乱した個人自分に語る幻想物語なのだ。そうでないと、私たちは常に他の存在(最終的には、現在、非生物物質と呼ばれるものとも)とつながっていることに気づかず、ある意味根本的に孤立しているという誤った信念を持つことになる。難しい問題場合とは異なり、私たち最初の信念が本物であることを示す経験証拠はない。

シュレーディンガー形而上学的、哲学的な教えへの取り組み方の重要な特徴は、合理的科学的な方法論を堅持する慎重さであった。同一性教義は、無批判採用することはできない。つまり、新しい形而上学採用しつつも、科学方法は維持しなければならない。科学理論には東洋思想からの輸血が必要だが、輸血は常に凝血を防ぐために大きな予防措置必要とする。科学思考が到達した、どの時代にもどこにもない論理的精度を失いたくはない。

シュレーディンガーが求めていたもの、彼が最も高く評価していたであろうものは、数学的な正確さをもって意識研究するための科学アプローチである。そのような意識理論にとって同一性教義から続く重要な制約は、その非常に基本的構造において、個々の意識のある存在が(切断された個人ではなく)より高次で統一的なエージェントの側面であり、(電子、岩、脳といった多くのものの中の一つに過ぎず)そのような存在の集合全体が現実の究極の性質構成すると認めていることであるだろう。

シュレーディンガーは、意識実在を認める根本的な一元論を望んだのである意識研究における現在理論的状況を考えると、「意識行為者の理論」はこれらの要件に最も適合しているように思われる。それは、意識が何をするのかについて正確で明確な定式化を目指しており、2つ以上の意識エージェントいかなる組み合わせも、それ自体が別のエージェントであることを提案している。また、エージェント集合体全体が現実本質構成しているという考えにも適合するように思われるが、そのためには、この集合体から物理世界がどのように発生しうるか(そして、それとは別に何も存在しないか)というモデル理論が考え出すことが必要である

シュレーディンガーは、哲学の分野で以前から提起されていたいくつかの議論(例えばカント)に依拠したが、彼の立場は次のように集約される:我々が物理世界と呼ぶものは、シュレーディンガーが「客観化」と呼んだプロセスの結果である。すなわち、一つの自己世界アートマンブラフマン)が、容易に概念化でき、客観的に研究できるもの、したがって主観的性質を完全に排除したもの、へと変化することである意識行為者の理論では、これは「インターフェース」の創造に相当する。このようなインターフェースは、効率的な行動を可能にするために、起こっていることを単純化する。優れたインターフェースは、複雑さを隠す。インターフェイスは、現実ありのままに見せるのではなく、自分にとって都合の良いように見せる。「物理世界」と呼んでいるものは、非二元意識を高度に単純化した表現に過ぎない。

この物理世界もまた、そこに向けられた多数の対象を抱いているように見える。自律した物理世界という誤った印象をもたらした客観化のプロセスは、まさに、異なる肉体に住む異なる形態意識を想定する誤りにつながる。非心理的世界に心的特性を加えるという手っ取り早い方法では、先に述べたような問題を本当に解決することはできないだろう。なぜ他の誰かではなく、あなたなのか?ある主題のセットをより上位のものにまとめるにはどうすればいいのか?しかしそれらの問題は、そもそも分離した多数の自己に対抗する一つの物理世界存在という形而上学的前提に屈しないことで回避することができる。意識行為者の理論によれば、根本的に分離した自己という考え方は、インターフェース上に見えるものと非二元的意識という真の現実混同している場合にのみ生じる便利なフィクションである

意識行為者の理論は、シュレーディンガーの問いに対する興味深い答えを提示している。なぜ、私たち特質のない物理的な世界に生きているように見えるのか?なぜ、そしてどのように私たちは互いに異なっているのだろうか?それは、意識的なエージェントダイナミクスが、現実の本当の姿を隠すようなインターフェイスを生み出すからだ。私たちは同じでありながら、異なるように見えることがある。ある視点から見ると、すべてのエージェントは一つの世界に等しい一つのものに結合する。別の視点から見ると、この単一エージェントは、それぞれの世界に住む異なるエージェントネットワークと等しくなる。どちらの視点を選ぶかは、何を説明したいかによる。

2023-01-24

ガチャ云々は定量的議論して欲しい

わかりやす単純化して言えば、「子供の生涯所得を親の生涯所得回帰したときの決定係数は○○」みたいな。

それとも、「両者は独立だ」とか「親が子供の唯一の説明要因だ」とか信じているバカがいるのか?

南極点恵方巻きを食べるとき、どちらを向いて食べればよいのだろう

同様に北極点地球外の宇宙空間、月面で恵方巻きを食べる場合も悩ましい

イスラム教礼拝場合は明確だ

メッカの方を向けばよい

しか恵方は違う

方角のみが示され、その方角の先に何かあるわけではない

2023年恵方南南東とのことだが、考えやすくするために仮に恵方が真南だった場合として単純化するか

南極点に立ち、真上を向いて食べる……か?

これは真南の恵方のたどり着く先は空に描かれた南十字仮定したに等しい

2023-01-22

数学者無名具合に疑問

第一線の数学者は他のどの科学者よりも難しい問題を達成していると思うのだが、特に現代数学において誰でも知っているというような人が全然いない事実にひっかかるものがある。

マルクスみたいな経済学者とか、ファーブルみたいな生物学者など、他の学問には数学者よりは高度なことはしてないというのに一般の人でも知っているという人がいるのに、これはどういうことなのか。

数学者で有名といったら、せいぜいピラゴラスといったような古代人、現代数学でいえばリーマンとかラプラスとかだ。

これらの人物共通するのは小学校から大学までのカリキュラムで扱う理論公式発見者かどうかということに過ぎない。

特に古代人が考えたことは現代から見れば易しいものなので義務教育の内容に採用されやすい。だからあのへんの時代人物数学者でも知名度が高い人がいることになる。

ようするに言いたいのは数学者の有名無名はただ単に教育制度次第になっているということだ。

高度な現代数学でも岡潔望月新一と有名な人はいるじゃないかと言う人もいるかもしれないが、あれらが有名なのも、実績の価値が正しく一般の人にも伝わって認知度が高まってきたというものではない。

岡潔なら統合失調症だったなかで戦時下を生き抜いたこと、望月新一なら自分コネを使って論文掲載させたこと。

そういう生き様センセーショナルなところがもっぱら庶民の関心を呼び起こしているに過ぎないのだ。

ポアンカレみたいな「未解決問題を解いた人」というわかりやすラベリングを持った人間が有名なのも本質的には上述したのと同じところにあるのだろう。認知している人の多くが業績の概要価値だけでも正しく理解してるか疑わしい。実績の内容に関する関心ではなく、未解決問題を解いたという一点で共通認識化されているように思われる。

ちょっと単純化が過ぎるかもしれないが、数学以外の科学者土俵はもっぱら実験実証なかにあると思う。

実験により、何かをしたらこういう結果が出た、という目に見える因果関係を把握する力さえあれば誰でもその分野の大学者になれる素質はあるとさえ言える。

もちろん実際に誰もが知ってる大学者になれるかどうかはもちろん有用な結果をはじき出す実験にこぎつけられたらという話になるが、どちらにせよ彼らは比較的易しい具象の中で研究対象と戦っているということには違いない。

一方で数学ときたら現時点で新規性のある高度な数学論文をしたためるには何万ページという論文が語る知見に対する確かな理解の積み上げが無いと無理だろう。

理解する過程においても数千ページ目にあたるある論文理解できないとなったときどこに理解の欠落があるか今まで読んだ論文から探しなおさなければならないわけである

理論構造自体も目に見えるようなわかりやす因果関係から成っているのではなく、抽象的なわけだから知識の欠落がなかったとしてもその理解純粋に難しい。

しかし高度な論文作成はその先にあるのだからこの数学研究というものは果てのない作業なのである

望月もそのような作業を経てついにはIUTの創出という高みに至ったはずである

そして望月以外にも当然少なくとも月ごとには相当数、同程度の高みから発した高度な内容の論文が公開されているはずだが彼らの中から一般人にも有名という人は現れて来ない。

ようするに現代数学者天才である。あの手の分野の数学者受験勉強を全くせず東大に悠々と合格するような人間がざらであるらしい。もっと現代数学者絶対数が少ないのだから「ざら」というのは数ではなく割合問題なのであろうけど。

そんな数学よりは高度な理解力を要しない学問では誰からも知っている人が出てきているのに、現代数学ではせいぜい専門家の間で有名という程度にしかなれないというのは理不尽なことだと思う。

私にはそれほどの数学の才能はないので数学ができる人間に対して劣等感がある。

から劣等感元凶である彼らにはせめてとことん栄誉ある立場にあってほしいのだ。

彼らすら大して評価されないのでは彼らと違って能力のない私には何も救いがないではないか

あるいはこういうことなのかもしれない。既存知識理解するという力と新しい見識を発見する力というのは異なるものなのではないかと。

まり数学の功績は高度な理解力の上に成り立っているものだけども、高度な理解力をもった彼らがもし別分野を志していたとしたら果たして一般の人の記憶にも残る大学者になれていたのかどうか。

現代数学者チョムスキー生成文法もその理論を考え出した背景にある理論も含めてその気にさせれば簡単理解してしまうだろうが、かといってもし彼らがチョムスキーと同時代に生まれ言語学を志していたらチョムスキーを出し抜いてあのような文法理論創造できたのだろうか。漢字世界白川静みたいな業績を打ち立てることができただろうか。丸山真男のような戦後思想史巨人になれただろうか。

理解力は結局脳の処理能力という量的な要素に還元されるものに思われるが、理論創造というものはどのような分野にしても大胆なひらめきがものを言い、これなるもの量化などもちろんできない、一種特殊能力なのではなかろうか。

数学はむしろ知見が論理的に緻密な状態でに充実に蓄積されているのに比べ、他学問の知見は相対的には雑駁というかなんというか、とにかくそういったところから新しい理論を考え出すのには数学以上に何かアクロバティックな部分が必要にも思える。

コペルニクスだったか海上水平線帆船が見えなくなる事実から地球が丸いということを歴史最初に悟った人物らしいが、彼のような発見は彼より多くの知識を持った、つまり理解している天文学者には出来ないはずだと朝日新聞の轡田だかい論説委員の本に書いてあったと思う。

本当だろうか。現代数学者がその時代に生まれても無理だったのだろうか。でももしそういう発見という意味での知性が特殊な力なのなら、ここは素直に認めておくべきことなのかもしれない。数学者こそ昔の偉人発見した事実ベース論文をしたためることができているだけで、彼らがいなかったらならば今のような仕事はまるでおぼつかないものになっていたかもしれない。

ただしコペルニクスデカルトみたいなあの手の啓蒙思想の潮流で偉人扱いされている人がもしも今生まれたら、史実でその発見をしたときインパクトと同じぐらいのインパクトを持った発見ができるのだろうかという疑問はある。

しかしできないのだとしてもそれは役割問題なのだということになるんだろう。コペルニクスにはその特殊能力をもって彼にしかできない発見をしたのだし、現代数学者も彼らの理解力をもって高度な論文を発表している。それでよしとするべきことなのだろうか。19世紀から20世紀イギリスでは優秀な人間天文物理学に行くものだという常識・慣習があったのも引っかかる。

学者としての優秀さというのは最終的には理解力のような計り知れるものではない、ひらめく力・直感センスで決まると認識があった証左なのだろうか。

そうであるなら私についてもまだまだ人生これからで、数学以外の学問でひらめきを発揮する道はあるのかもしれない。

そうだとすれば劣等感を抱く前提条件も崩れ、数学者一般に知られていようといまいが気にする問題ではなくなってしまうはずであるけれど、ここまで掘り下げて考えてしまったので、まあそれはそれとしてこの疑問は解消されるまでことあるごとに私を悶々と悩ませるには違いない。

まあそれでも既存知識理解することにおいては絶大な才能があること、つまり学者がどんな難解な理論提唱しようがたちまち理解してしまうという意味で、あらゆる人に対してタイムラグはあるにしてもそれを無視した見かけ上はどちらの方が物事をよく理解してるかということについては遅れを取ることがないという点にはやっぱり羨やむものあるかなノー勉東大に受かる素質というのも素直に?率直に?畏敬の念に駆られてしまう。

dorawiiより

2023-01-14

anond:20230106204701

自民党って保守政党でそりゃもう右翼に該当するわけだけど、実際は朝鮮カルトと手を組み守っていたわけで実態左翼だよね・・・現実も何も矛盾やん。

思惑なりなんなり所属ごとに個人ごとにあるわけで右翼左翼っていう二元論に当てはめて考えることが愚かだなあって思う。っていうことが伝わらなくて悲しいよ。

君然りレッテル貼りして単純化したがる人が多すぎて辛い。

チコちゃんの愚問に感じた既視感

https://president.jp/articles/-/63627

大昔に「アインシュタイン」というフジ深夜番組があって

当時まだ大学にも入っていない、理系に行くかどうかの意志固めすらしてなかった時分に、なんかすげえ番組始まったな、と思いながら欠かさず観ていた。

だが同時に「これ元々複雑な話をかなり単純化して語ってる」っていう点も当時から何となく理解できていて、その点をうまく言語化できないながらもモヤっていた。

 

チコちゃんだけじゃなく、最近NHK情報番組ってそっちの路線だな、って思う。イエナガとか、笑わない数学とか。

2023-01-12

anond:20230111073136

rAdio 「〇〇してないやつはダメ」式の評価は些か単純化が過ぎるのではないか経験主義誤謬に陥りやすく危うい考え方だと思う。 / 元ツイートは削除されてるのかな? https://twitter.com/takigare3/status/1360073459854839808

パクリじゃねーか

200人も釣られやがって

2023-01-10

anond:20230110094515

世に増えたのはそのなんでも単純化して全体がそうであるかいいきるやつだよ

その一件と世界のなにが関係してるのかわかってるのなら一例で問わなくてもよいでしょうに

女性萌え絵を叩いたのが原因なら女性萌え絵を叩かないから殴らないでといえばすむ話がなのでは

そうしても変わらないならそんなの原因にもあげる必要ないですよね

2023-01-06

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

日記

……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……

prologue

時代場所次元を超えたマッシュアップ段落

 いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャル可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界価値刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないもの価値が、目に見えるもの価値に負けてしまたことを意味しているのだ。微調整

人生シンボル世界アレゴリー冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神本来の豊かさの立体的構成について)

「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“

 このうわべは月並文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」

問題は愛ではなかったのだ。不滅だったのである

ミラン・クンデラ『不滅』

1 - verse

 宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。

 それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである

 あなたがこれを読む前に抱えていた感情はなんだろうか。

 感情字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しか実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。

 映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物感情ひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。

 人間存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。

 そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまものである

 ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。

 たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のもの発明する必要はなくなる。

 それと同様に、世の中の九割以上のもの面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり物語面白いと思えなくなってからしかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。

 トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単ゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。

 人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。

 もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているかである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である

段落

 最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。

 往々にして悪魔自分自身天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。

 探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。

 自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。

 日本人モラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。

 日本では個性的なことをやると嫌われる。日本オリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現範疇しか成立しない。

 一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在のもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプットからである

 今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しか自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである

 安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会人生流通権力は、結局、人間排除する社会の固さにひれ伏し続けているかである安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。

 たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。

 物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品こちら側こそが物語からであるあなた人生という言葉を使う時、その人生乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活イメージするだろうか。乾パン乾パン出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉意味乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなた脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である段落

段落

 芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないか不快ではない、として表面を見るのである

 今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないかいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代限界だったのだ。段落改訂

 そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である段落改訂

 そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものであるポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂

段落

 趣味的だからだ。趣味というのは自己満足から、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものからだ。趣味危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂

段落

 ほとんどがニューヨークパリ海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。

 これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである

 ゴッホ絵画生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢であるしかし、人生理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。

 本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である段落

 人間生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。

 ピカソシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶システムだ。このように、この世のすべてのものは「システムであるシステムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである

 システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。

 イチローホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。

 イチローホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである

 食べ物でいえば、ハンバーガーのものは固体であるが、ハンバーガー牛肉パテ一枚は液体であるハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマトレタスピクルスソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである

 では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。

 飲み物場合であれば、それ自体がすでに液体であるいくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉から抽出の仕方もわからない。

 そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである

 もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。

 世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである遠近法パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。

 実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たち思考弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整

 この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのもの本質ポテンシャル判断することが不可能になる。言うなれば開封されないゲームソフトパッケージのようでもある。段落改訂

奴隷を目指す社会の掲げる指標

沸騰していく社会

 小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂

 なぜなら大多数にとっては、矛盾解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面から矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。

 ある人間が、自分生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデント連続から成っているのだから段落

 このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである

 社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒批判にいたっては悪いイメージ自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒批判は良いものである

 歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったときあの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41

2023-01-04

村上春樹ヒロイン登場人物たちのつながり

「鼠」は「風の歌を聴け」に始まる「鼠四部作」に登場する。主人公の友人であるが、ある日突然行方くらまし、「羊をめぐる冒険」では自ら死を選ぶ。語り手と主人公の仲は深く、あたかも語り手の半身のようである。己の半身が半ば死の世界にいるというモチーフはこの後に何度も繰り返される。

この半身のように親しい友人は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」のなかでは幻想パートの「影」に姿を変える。彼は語り手の半身であり、語り手の記憶を保持している。壁の中に閉じ込められた世界脱出するためには二人がそろっていなければならないが、土壇場で語り手は壁の内側にとどまることを選び、影は死ぬことになる。

ノルウェイの森」では彼は「キズキ」になる。物語の序盤で排気ガスによる死を選んだことが語られ、交際相手であった直子の死の遠因となる。

また、直接の半身ではないにせよ親しい友人で自ら死を選ぶ点で共通しているのは、「ダンス・ダンス・ダンス」の「五反田君」だ。彼は連続殺人犯であったことを明かして死ぬ。このあたりのくだりは恐らくチャンドラーの影響が深い。

このように、半身はしばらくのあいだ無力な存在だったが、「海辺のカフカ」以降では様子が変わる。「カラスと呼ばれる少年」は、「カフカ少年」のもう一つの人格のように見えるが、彼は「カフカ少年」を客観視し、適切なアドバイスを与える。一貫してサポートしてくれる存在だ。半身が異界の住人であるというモチーフであり、「鼠」の系譜に属しているが、そこに自ら死を選ぶような面は見られない。「海辺のカフカ」は主人公がとても若い点でも特異だ。

ただし、佐伯さんが現実感を失った生活をするきっかけとなった、東京大学紛争で殺された友人は、佐伯さんがノルウェイの森の「直子」の系譜に属するとすれば、「キズキ」のもう一人の子孫だ。

キズキと直子が、そして佐伯さんとその恋人は幼い頃から自然性交をしていたが、まるで思春期完璧さを求める性向現実によって打ち砕かれるかのように、その関係が死によって断たれる点でも、この二つのカップル類似している。

直子

村上春樹小説には一貫して何らかの精神疾患を患った、少なくとも感情的不安的な女性が出てくる。

デビュー作の「風の歌を聴け」の時点から、「小指のない女の子」として出てくる。彼女は話している途中に突然泣き出してしまう。また、周囲の人々がひどいことを言うとも語るが、これが事実なのか、精神疾患ゆえの妄想なのかどうかは判然としない。

この系譜が「1973年のピンボール」の中ですでに亡くなっているかつての恋人「直子」につながり、さらに「羊をめぐる冒険」の「誰とでも寝る女の子」につながっているかどうかはわからない。ただ、「ノルウェイの森」の「直子」には直接つながっているだろう。語り手の過ちによって感情を失った「国境の南、太陽の西」の「大原イズミ」も、彼女の裏面だ。「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の「白根柚木」もその子孫だ。

また、恋人または妻の一つのアーキタイプとして、「ねじまき鳥クロニクル」の「クミコ」「加納クレタ」や「スプートニクの恋人」の「にんじん」の母にも発展しているようにも思える。

より明確な形としては、「海辺のカフカ」の「佐伯さん」が子孫のようだ。前述のように恋人の死をきっかけに精神を病む、少なくともある種の現実感を失ってしまう点が共通している。ただし、佐伯さんは後述の老女の系譜もつながっている。ピアノができたことを考えると、「スプートニクの恋人」の「ミュウ」も「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の「白根柚木」も同じカテゴリに入れていい。

そもそもこのキャラクターの流れについての記述は、誰が後の作品の誰に直接発展したかを明確に追うことではない。おそらくはいくつも混ざり合っている。むしろ、これは村上春樹作品解釈するための補助線として見るのが適切だろう。

彼女がやたらとタフになったのが「1Q84」の「青豆」かもしれない。あるいは、生命力にあふれている点では後述の「ミドリ」だろうか。

ミドリ

直子とは対照的な心身が比較健康タイプ女性系譜もある。

性に対する好奇心の強い「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の「太った娘」もそうだが、彼女は後述する「少女」の系譜につながる面もある。

同じく制に対して罪悪感を持たない「ノルウェイの森」の「ミドリ」、「国境の南、太陽の西」の「島本さん」、「スプートニクの恋人」の「すみれ」、「海辺のカフカ」の「さくら」(どうでもいいがこのキャラのせいでおねショタに目覚めた)、「1Q84」の安田恭子へとつながっている。

少女たち

村上春樹作品時系列順に読み返すと、ある時点で突然新しい属性を持ったキャラクター群が登場する。それは、どことな巫女的な力を持った若い女性である

前兆としてあらわれるのが、「羊をめぐる冒険」では耳専門のモデルをしている21歳の女性だ。彼女不思議な力で主人公を羊へと導くが、物語の終盤を前に姿を消してしまうので、いくばくか影が薄い。しかし、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」に出てくる肥満17歳女の子は語り手を「やみくろ」の支配する東京の地下世界にいざなう

より少女性が強まるというか、単純に年齢が幼くなるのが「ダンス・ダンス・ダンス」に登場する13歳のユキで、彼女五反田君の殺人痕跡巫女のように感じ取ることができた。

ねじまき鳥クロニクル」での「笠原メイ」は、映画ロリータ」を思わせる登場の仕方をするし、終盤では主人公を救う力の源であるかのように描写されている。月光の下で裸身をさらす姿は、今までの村上春樹にはなかった描写である。確かにノルウェイの森」で「直子」がそうするシーンはあるが、彼女は成人した女性だ。

海辺のカフカ」では夢の中に現れる十五歳の佐伯さんの姿を取る、ここでは少女との性交が初めて描かれる。

巫女的な少女系譜がより明確になるのが「1Q84」に出てくる17歳カルト教団育ちである「ふかえり」だ。彼女は何らかの学習障害を患っていて独特の話し方をするが、彼女との性交異世界との経路となる。

村上春樹が歳を重ねて少女との性交を書くのをためらわなくなっていったのは面白い(【追記】「ふかえり」にいたっては巨乳文学少女という属性!)。というのも、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」では肥満女の子から私と寝ないかと誘われて断っているからだ。

老人

大学の先輩がこう述べていた。ある種の作家自分が生まれる十年ほど前の出来事テーマにすることがある。なぜなら、自分が参加できなかった「祭り」だからだ。これが事実かどうかはわからないが、村上春樹は古くから第二次世界大戦中国テーマに含まれている。「鼠」の父親戦争とその後の混乱で金持ちになった人間だ。興味深いことに村上春樹の父は中国従軍している。

(余談だけれどもこの先輩は村上春樹作品にしばしば出てくる井戸「イド」まり無意識示唆しているのではないかと言っていた)

さて、老人がキャラクターとして物語信仰に深くかかわるようになったのは、「羊をめぐる冒険」の「羊博士からだろう。彼はいるかホテルにこもったきりで、外に出ようとしない。しかし、探し求めている羊がどこにいるかという重大な情報を指し示す。

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」でも、現実パートには「老博士」が出てくるし、幻想パートには退役した「大佐」がいる。

軍人という属性が前面に出てくるのが「ねじまき鳥クロニクル」の間宮老人だ。彼はノモンハンにて過酷体験をするし、そこである種の悪しき力に取りつかれる。

海辺のカフカ」には「中田老人」が出てくる。彼もまたある種の不可解な力(後述の闇の力?)の犠牲になり、記憶や知性の多くを奪われてしまう。一方で、彼は「カフカ少年」に代わって父殺しを遂行する半身でもある。

1Q84」では少し特殊で、これは近過去SFであり、戦争経験者やその前後に生まれた人々が相対的若い。それゆえ今までのパターンを単純に当てはめるのが適切かはわからない。

天吾の父がこの系譜に属するだろうか。「1Q84」では善悪が入れ替わることが多い。幼い天吾を無理やりNHKの集金に連れまわす点でネガティブに描かれていたにもかかわらず(村上春樹はこうした巨大組織一般に「システム」と呼んであまり肯定的に扱わない)、後半では声だけの存在になった彼が助けに来るのだ。

なお、戦場に行っていたという点を考慮すると、これらの老人たちは村上春樹父親世代に当たるだろう。

米軍基地にいたという点でジェイもここに属しているかもしれない。

老女とその息子

一世代上の女性が出てきたのは「ノルウェイの森」の「レイコさん」だ。彼女は心を病んではいものの、主人公たちを導いてくれる。「直子」のルームメイトとして、彼女の心身の安定に寄与している。

それがおそらく「ねじまき鳥クロニクル」の「赤坂ナツメグ」になるし、「海辺のカフカ」の「佐伯さん」を経て「1Q84」の「緒方静恵」になる。

彼女たちの多くは戦争をはじめとした暴力の中で深く傷つき、その中でもある種のコミュニティ安全地帯運営し続けている。「レイコさん」は精神病院の患者たちのまとめ役だし、「赤坂ナツメグ」は女性向け風俗(?)で女性性的空想現実にし、「佐伯さん」は図書館という静謐環境守護し、「緒形静恵」は性暴力を受けた女性避難所運営して、しばしば法を破ってでも報復を行う。年齢的にはかけ離れるが、「スプートニクの恋人」の「ミュウ」もこの老女の系譜に属するか。

彼女の息子たち(血縁があるかどうかはともかく)の系譜は、「赤坂ナツメグ」の息子「シナモン」、「佐伯さん」の図書館司書を務める「大島さん」、それから緒方静恵」の柳屋敷セキュリティ担当するタマルだ。セクマイであることが多い。

対となる存在

1973年のピンボール」の双子女の子を除いて、概して二人組の登場人物は不吉な前兆だ。体格は対照的なことが多い。

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」では「大男」・「ちび」の二人組が語り手に刺客差し向け、第三勢力になって儲けようとだましに来る。「ダンス・ダンス・ダンス」ではまるで「長いお別れ」みたいな嫌がらせをしてくる「文学」「漁師」と語り手があだ名をつけた警官が出てくる。「海辺のカフカ」に出てくる二人組は、軽率発言から大島さん」を傷つけてしま自称フェミニスト二人組だ。「1Q84」には「さきがけ」のリーダーの警備をする坊主頭ポニーテールの二人組がいる。

ただし、何度か繰り返すが善悪シンボル意図的に逆転させることが多いのが村上春樹作品で、おなじ「海辺のカフカ」でも「カフカ少年」を森の奥に導くのは同じように体格が対照的な二人組の日本兵だ。

また、よくよく考えてみれば、「風の歌を聴け」の時点でも、「小指のない女の子」には双子の妹がいたのである。直接姿を見せず言及されるだけだが、このモチーフの萌芽とみていいだろう。

村上春樹はある時点で純粋な悪の起源はなんであるかについて語ろうとしている。

それは悪しき登場人物の姿だけでなく、クトゥルフ神話的な怪物としても姿を見せる。

現に「風の歌を聴け」に出てくるデレク・ハートフィールドの伝記は、ラブクラフトバロウズをはじめとしたパルプフィクション作家たちを混ぜ合わせたものだ。

「鼠四部作」のなかでは「羊」がそれに該当する。不可解な暴力権力の中心に存在し、人間に憑りつくことで現実的な力をふるう。あるいは、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の現実パートの「やみくろ」たち、幻想パートの「門番」。「ねじまき鳥クロニクル」の「ねじまき鳥」や、綿谷昇の属する政治世界。そして「海辺のカフカ」に登場する「ジョニー・ウォーカー」や、「中田老人」の口の中から出てくる不可解な物体

非人間的な力ではないが、「ノルウェイの森」の「レイコさん」の精神悪化させる原因となった少女も、この系譜に属していると見なしていいかもしれない。

だが、「1Q84」のリトルピープルの存在解釈が難しい。今までとは異なり、単純な悪ではないようだ。初読時には「これは人が複雑な現実物語化する能力の具現化で、善にも悪にもなりうる、ある種の単純化する力ではないか」と思ったが、再読したら違う印象を受けるやも知れない。また、「牛河」も悪しき力の手先のように見えるが、離婚した妻子がおり、生きた人間であって化け物ではない。

善悪曖昧と言えば、「海辺のカフカ」では「圧倒的な偏見でもって強固に抹殺するんだ」が主人公サイドと敵役サイドのいずれでも使われる。

こんな風に、村上春樹はある時期から善悪意図的にぼかし、単純化を避けるようになった。

追記アフターダーク暴力を振るった深夜残業してたサラリーマンもここにいれていいかも。

そのほか

村上春樹後半期のテーマの一つをまとめるとしたら「どれほど不適切な養育環境で育ったとしても、その現実を受け入れてスタートするしかないし、ときとしてそこで学んだことに結果的に心が支えられてしまうケースがある」だろう。言い換えると「歴史過去を消し去ることはできない」だ。

あと、「国境の南、太陽の西」の「にんじん」はうまくしゃべれないけど、「海辺のカフカ」の「カフカ少年」の造形に影響を与えたかもしれない。

別に結論はない。ただ、こういう順で発展していったのだなと考えながら読むと楽しいだけである

もう一つ興味深いのは、親が亡くなるかそれくらいの年齢に近づくと、ちゃんと親と向き合ったような小説を、みんな書き始めることだなあ。

こっそり追記。「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」のロックを流して走るタクシー運転手星野青年っぽいな。

更に追記。不吉な二人組といえば、「ノルウェイの森」で日の丸を掲げる寮長と付き添いの右翼学生を思い出した。

2023-01-03

マスコミ辞めたい

 元日にぼーっと見ていたテレビに映った右肩下がりの棒グラフ。「新聞発行部数か?」と思ったら、「年賀状配達数14年連続減少」のニュースだった。確か年末には新聞の部数の話もバズっていたと思う。かつて人口膾炙した紙メディアの先細り話がこうも連続して出てくると、このままの仕事を続けているわけにはいかないとの思いが一層強まってくる。

 記者を辞めたい。そう思うようになってもう数年が経ったが、まだ辞めていない。現状の安定を失いたくない器の小ささか、単なる行動力のなさか。辞めたら次に一体何をするのか。自分の中でもはっきりしないまま、「歳食うと一年があっという間だなあ」などとぼやいて徒に時を過ごしてしまった。

 なぜ辞めたいのかを簡単に言えば、やりがいを感じないのに激務薄給で、さら会社の将来性も自分の適性もないと十年弱で分かってきたからだ。

 マスコミを志望したのは就活を始めてから。元々政治家になりたいとの夢があったが、大卒でいきなり出馬できるわけではない。政治家という職業自体不安定待遇も十分ではなく、カネもコネもない人間安易に挑戦できるものでもない。将来政治家になれる選択肢も残りつつ、仮に機会に恵まれずにそのまま会社勤めが続くことになっても公共のためになり、納得できる仕事ということで選んだと記憶している。

 「斜陽産業だけど大丈夫?」「地方勤務できる?」と問われても、むしろ自分世界が広がると望むところだった。同級生たちが競って入ったとにかく高給取りであることが取り柄のような仕事には惹かれなかった。今にして思えば若気の至りでいちびっていた。

 良いこともたくさんあった。大きなニュースに関わる機会に何度か恵まれ、今までの人生では関わったことのない、あるいは他の仕事をしていたら一生関わることもないような人たち-有名な人も社会の周縁に立たされている人も、町の気のいいおっちゃんも地方から新たな挑戦をする若者も、会って話をしたことはかけがえのない経験に思えた。それだけでなく、小さな街ダネにも出身地とは違う習慣や文化価値観が潜んでいて面白かった。違う地方に住むのも新たな発見ばかりで飽きなかった。

 が、大きなニュースを扱ったからこそ感じた限界もあった。非常に優秀な記者が、リスクを負いつつ長い期間をかけて大スクープや深い調査報道を書き、社会政治問題を浮き彫りにしたとする。スクープしたその個別問題については盛り上がりの中で解決するかもしれない。でも根本的な解決のためには法改正行政の介入、社会の変革が必要だったりするが、それはちっとも叶わない。こんなにすごい人が一生に一本書けるか書けないか記事で、影響力ってこんなものかと思った。

 自社のスクープを他社が追い、さらワイドショー特集した段階で「昨日テレビでやってた話、取材してないの?」とか読者から電話が来る。マスメディアの影響力なんてたかが知れている。記事書いてる暇があったら自分議員になって法律作った方がよっぽど多くの人が助かって、しかも一生にいくつもの大きな問題解決できるじゃないか

 日頃の一面や社会面なんてもっと陳腐しか見えなくなった。よく働く記者ほど困っている市井の人の声なら何載せても良いと思っている節がある。その傾向はコロナ禍でより増していて、「ハワイ行ってコロナなって金がかかって困った」とか「高級ホテル結婚式キャンセル料が高くて大変」とかいう話がテレビで長々特集されたり新聞の一面を飾ったりした。現場の声を重視するのはいいがデータを軽視するので正確性や普遍性に乏しく個人の感想の域を出ない「困ってるお気持ちポルノ」がたびたび見受けられた。

 就活の時期が近づけば「もう就活生の〇割は内定あり!」と騒いで学生を焦らせ、今度は悩む学生を見つけ出して特集する。アメリカ大統領選で階層の分断が言われるようになれば、国内の細かい話での個々人の意見の違いを取り上げて「分断」とか大げさに言ってみたりする。元々たいした問題などなかったところに「困っている」とする個人をなんとか見つけ出して最初から問題があったことにする。存在しないマナーを作り出しては講習で稼ぐマナー講師が「失礼クリエイター」と呼ばれるなら、メディアは「問題クリエイター」だ。

 テレビニュース毎日同じ時間新聞毎日同じスペースで作られるが、世の中の出来事なんて日によって数は大きく異なるわけで、それを毎日同じスペースに載せようということ自体に無理がある。ニュースが多い日には大事な話であっても隅っこに短く追いやられるか、後日掲載になる。ニュースのない日にはただ紙面を「埋める」ためだけのネタが並ぶ。ある日はある、ない日はないで良いのに、同じスペースを埋めなければいけないか取り置き原稿がどんどん溜まっていく。紙面が数日~数週間前の話ばかりになるなら週刊や月刊で良い。なんで日刊で発行しているのか。埋めるための取材ほど不毛ものはない。

 価値判断ができずに他社が書くかどうかだけを気にする部長支局長、紙面が埋まるかどうかだけを気にして原稿を抱え込む次長、複雑な問題であってもなんでもかんでも単純化した図式でしか捉えようとしないキャップ部署ごとの属人性が強すぎ、適当なさじ加減でできあがる。社内政治で紙面が決まる。報道広告忖度することなどあるはずがないと思っていたが実際はある。そういう読み物なんだと思ったら愛着が薄れていった。

 勤務日の夜はまだしも、特に緊急でもない用事休日に平然と電話をかけてくる上司もいる。それで気づかずにいると「休日でもすぐに電話に出ろ」と怒鳴られる。立派な使命感だとは思うがそういうことを求めるならもう少し給料を出してほしい。こんな給料では家族を養うことはできない。共働きでなければ結婚は難しいが、全国転勤では共働きも制約される。

 部数は毎年減っている。広告コロナ禍で激減した。まだぎりぎり体力のあるうちに勝負に出て成長分野に投資しなければ生き残れないのに、そんな気配はみじんもない。部数が減ることはもはや所与のことのようになっていて、本業でどうやったら稼げるのかという話がちっとも出てこない。いい報道をすれば読者は読んでくれるという、反例が無数に見つかる理論が繰り返される業界で定年まで勤める人生設計で生きていっていいはずがない。

 「斜陽産業なのは知ってたはず」「激務や転勤なんてわかって入ったんでしょ」と言われても、経験したことがない学生に何が分かるというのか。やってみた結果想像以上の実情を知り、このままでは無理ということが分かって考えが変わった。それだけのことだ。

 自分が意外と人見知りをすることにも気がついた。特定の人と繰り返し会うのはいいのだが、毎日違う知らない人と会うのは気疲れする。文章を書くのは好きだったが、元々目立ちたがりで自分意見を書いたり言ったりするのが好きなだけだった。人のやっていることを聞いて書くこと繰り返すのにも疲れた。人が何をやってるかじゃない。自分が何をやってるかだろうがと何度問うただろうか。完全にミスマッチだった。

 それでも、少しでも世の中が良くなったらいいなと思って神経すり減らして働いていた。なのに友人ですらネットで「マスゴミが~」とか言っているのを見ると気が滅入る。別に金持ちになりたいとかいう願望はないが、公共のために働こうという精神って報われないなあとも思う。

 たとえば官僚なんて民間就職すればもっと稼げるだろう人が能力公共のために使って午前様で働いているのに、私生活でも高潔さを求められてちょっとでもやらかせばあり方を問われることになる。ハードル高すぎないか能力自分のためだけに使って大金稼いでる人は素行が多少悪くても特に何か言われることはない。社会にどっちが必要存在かと言えば前者のはずだが、これから職業を選ぶ(選べるくらいの能力を持っている)学生らの視点に立てば後者を選びたくなる人が多いはずだ。職業に求められる規範待遇釣り合ってなくて、それで社会が損している。

 自分がやりたいと思える仕事公共奉仕する仕事だが、そういう職業としての条件の悪さ、釣り合わなさに耐えられるかわからず、次の選択肢に挑むのに尻込みしている。そんな程度のマインドなら職業での自己実現は諦めて、ホワイト環境趣味を楽しみ家庭を重視する生き方を選ぶべきなんだろう。でも、どっちかを選んで他方の道を断ってしまう決心は付かず、ずるずる先延ばしにしている。

 これだけ不満たらたらで、それでも辞めていない。次に何になっていいかも何になれるかもわからない。そういう現状に、自分の小ささを感じている。

2023-01-02

直近のインターネット喧騒セーフティネットについて思うこと

2022年から世間を賑わせている例の件について思うところを書いておこうと思う。

初めに自分の考えを書き記しておく。私自身は社会的弱者保護施策必要、かつ各種施策税金で支えるべきだというスタンスだ。現在俎上に上がっているのは女性支援施策のあり方についてだが、女性はどうしても様々な面で男性より不利な状態に置かれやすいのは間違いなく、それをケアする仕組みは必要であると思う(ただ、件の組織肯定している訳では無いことは留意して頂きたい)。括弧書きで記したように私は件の組織否定的に捉えている。かつ、その組織の裏側にいる人・団体組織にも否定的見解を持っている。増田を使って”なぜ彼らを否定したいのか”という気持ちを整理したい。

どのような人が保護必要としているか

まず、被保護者となり得る人物について記したい。これは某ブログにも書かれているが、一言でいえば人間として「どうしようも無い人」である普通に生活することが難しく、大抵の人ができるような当たり前のことがやれない。相手迷惑を顧みずに自己弁護に終始する。平気な顔で嘘をつく。明日のことを考えずに行動する(下手すると数分後のことすら考えない)等々である。皆様の周りにも居ないだろうか。こういう人を助けようとした経験がある人は分かってくれるとは思うが、経験の無い人にはどれだけ熱心に諭しても伝わらない。経験の有無で事象解像度が大きく変わる。

普通に生きていて、普通に生活している人であれば困窮しても誰かに助けて貰える(”普通”の定義は細かく定めない。義務教育課程のクラスの中の8割に共通するような属性イメージしてもらいたい)。この”普通の人”は社会の共助の仕組みで大概救われるのである。仮に助けて貰えなかったとしても個々の尽力で社会福祉にたどり着くことも可能自助でなんとかなるのである。全員とは言い切れないが、大半は救われる。

共助の枠組みで救えない人。例えば虚言癖を持っていてお金にだらしなく、働く意欲も無い。口を開けば文句ばかり言ってる他責性の強い人を想像して欲しい。彼女(彼)をどうやって救えば良いだろうか?

女性容姿に恵まれていれば救われる方法はある。風俗店で働いている女性にはこういう人がちらほら見受けられる。容姿が良いのでランキング上位に入ることもあるが、性格が災いして指名が付きにくい(結果として店を頻繁に変える)という印象。ホストにもこういう人がいるが、仕事がハマれば馬鹿みたいに稼ぐこともあるのが世の不思議。粗末に扱われたい女性寄生して金を吸い上げるのだが、最終的にどこに行きつくのかは知らない。

ホストは兎も角、こういうどうしようもない人を税金で救うのは私は仕方がないと思っている。これらの人を救おうとするならば、聖人並みの精神力を持ち、当人人生を狂わされる覚悟で取り組まないといけない。正直そこまでやれないし、税金でアウトソースできるのなら是非やっていただきたい。世の中の多くの社会人は同意いただけるのではないだろうか。

貧困ビジネス」とは何を揶揄しているのか

今回のいざこざの中で「貧困ビジネス」という単語が飛び交っている。この単語グラデーションがあり、人によってとらえ方が異なる。酷い事例はふるまいよしこ氏が語っていたようなタコ部屋。上述のどうしようもない人を集めて生活保護申請させ、そこから利ザヤを得るというものだ。人を人として扱っておらず人権問題である。こういうことは許されるべきでは無い(ただ、ここにも色々な事情はある)。

ここで前段に記した”保護必要としている人”を振り返りたい。自助・共助で救えない人を救うべきであると書いたが、ここにもグラデーション存在する。単純化するために「周りが助けてくれる人」、「自分自身対処できる人」、「どうしようもない人」の3区分に分けて考えたい。

自分自身対処できる人」というのは「どうしようもない人」と比較すると話も出来るし周りにも迷惑もかけないが、税金による保護必要とする対象である。こういう手間のかからない人を集めて保護費を申請し、自身保有する物件に住まわせることができれば殆どノーリスク安定的収益が得られる。原資は税金。限りなく失敗する確率の低い優良ビジネスだ。こういうことをやってる輩に対し、SNSでは「貧困ビジネス」と揶揄しているように思う。

閑話休題

正味な話、日々どうしようもない人を助けていたらSNSアニメ絵クレーム付けたり、「表自!表自」とか騒ぐ気力なんて削がれるのではないか。人のモチベーションの源泉なんて様々だし、何言ってるかわからない人と対峙することでエネルギー湧いてくる人もいるかもしれないが…。

貧困ビジネス」は誰を救うのか

前段で書いた「揶揄される貧困ビジネス」を行っている人・団体組織安定的収益源を拡大するためにより多くの予算を求めるだろう。しかし、その活動で本当に救うべき人に手を差し伸べているのだろうか?「貧困ビジネス」で得た収益弁護士に渡し、上に書いた「自分自身対処できる人」を救うことで実績を稼いではいないだろうか。それで救われる人もいるのだから全部止めろとは言わない。ただ、どういう風にお金を使っていて、誰を救っているのかは明確にして欲しい。救いやすい人を助け、利益を仲間内で回していないことを証明して欲しいのだ。

6000万円の寄付はなぜ集まったのか

大きく2つの理由があるのではないか。一つは当該団体及びそのサポーターに「社会人として必要な実務能力」と「社会人として必要常識」が欠けていながら、上から目線かつ自身の過ちを認めないような態度をとっていること。「社会人として必要な実務能力」と言っているのは支出ちゃんと品目ごとに整理して帳簿を綺麗にするというようなもの。また、「社会人として必要常識」は領収書を取っておくとか、プレスリリースを書き換えたらちゃん公表するとかを指している。

真面目にやってる人から金を集めて、使う側は適当にやってよいは許されない。しかも「社会正義のために使ってるから適当でも良いでしょ」というような態度…。こういう部分も「社会人として必要常識」が欠けていると言いたくもなる。

二つ目社会弱者保護を謳っている団体本来やるべきことに注力せず、「間接的に影響を及ぼしている」という言い分で様々な分野に喧嘩を売っていることであるアニメ絵規制したら保護すべき人々が救われるとは思えない。閑話休題で書いたが、本業を真面目にやってたら喧嘩売る気力も残らないくら疲弊するだろうに、日々喧嘩を売る相手を探しては噛みついてくる。そりゃ喧嘩を売られた側は意味が分からない(本来活動とどうつながるのか?という疑問が出てくる)し、そもそも本業ちゃんとやってるのか証明しろとも言いたくなる。

最後

ここまで書いて、「どのような人が保護必要としているか」の段落で書いた「どうしようも無い人」が頭に過った。

普通に生活することが難しく、大抵の人ができるような当たり前のことがやれない。相手迷惑を顧みずに自己弁護に終始する。平気な顔で嘘をつく。明日のことを考えずに行動する』

これは今回非難されている側に当てはまる部分が無いだろうか。私はこういう人を公助で救ってほしいと思いながら、一方では存在を強く否定したい気持ちもあるのだ。

この問題がどこにたどり着くか全く分からない。私としては心に矛盾を抱えつつも、「どうしようもない人」も救われる社会を望んでいる。

2022-12-24

トランス女性女性」や「SexIsReal」は現実単純化しすぎ

今日たまたま TERF vs TRA と呼ばれる類いの騒乱を見てしまう破目になったんだが、「トランス女性女性です」や「SexIsReal(ジェンダークリティカル)」は現実単純化しすぎだと思う。

まず「ジェンダークリティカル」の主張がおかしいのは、彼ら/彼女らは『「性同一性」「性自認」なんてフィクションであって、人間性別を決めるのは「生来性別」のみだ』みたいな考え方をしているが、DSD性分化疾患)に起因してXXYY 遺伝子などを持つパーソンの性発達が曖昧場合、その人物が『自分自身を「男性」として捉えるか「女性」として捉えるか』についてはその人の「性同一性」「性自認」(どっちも Gender Identity の訳語)に由来せざるを得ない。そのため「ジェンダークリティカル」と言う考え方は Sex身体性別)の発達が一般と違っていて、かつ性別の特徴が曖昧になっている人達に対しては通用しない。

次に「トランス女性女性です」と言う主張が単純すぎるのは、「トランス女性」と一言で言っても一般女性しか見えない人達」と「性別移行途中の人男性とも女性とも扱いづらい状態人達」を一緒くたに扱っていると言う点で、あるトランスパーソンを「女性」として扱えるか否か、と言うのはその人々の個々の状況に依存する。そのためその辺りをまるっきり無視して「トランス女性女性です」と言い張るのは「お前現実を見てないだろ」としか言えない。

そのため俺個人としては「あるパーソンを『社会的女性とか男性として扱えるか否か」と言うのは医療とかすっぽんぽんになる場合を除きルッキズムにはなるが「女性/男性として扱うに妥当な外見・行動をしているか」と言う点にのみ集約されると思う。なのでこの手の騒乱に感情とか嫌悪剥き出しで参戦している連中と言うのは、現実と言うのは自分想像以上にどうしようもなく多様で複雑である、と言うのを見落していると思うんだよな。

あとこの手の TERF vs TRA みたいな話をしている連中って シモ(股間)の話をしすぎ。どっち側の人間風呂とかトイレとかで他人股間があーだこーだと言いまくっているが、そもそもの話として他人股間の詮索をするって言うのは、普通にセクハラからな?そう言うのを Twitter で垂れ流すって羞恥感情はないのかね。自分股間は詮索されたくないが、他人股間の詮索はして良い、と言う考え方をしているなら単なるバカでしょ。バカ休み休み言え、とは良く言うが、まぁバカから止められないんだろうな。尤もこの手の話を Twitter で見てしまった俺も俺でバカなんだが。

2022-12-08

anond:20221208133322

反ワクの思想は至極単純化すれば、大きな利益のためであっても数千万分の1とかの低確率悪事象発生の危険を許容しない人たち

調査の進んでいる分野での100万分の1とか1000万分の1とかのわずかな確率で起こるデメリットを許さない人たち

反ワクの許せないところは、ワクチンの低確率害悪は気にするくせに、車に乗ることで交通事故の起こる低い確率とか病院に行くことで医療事故の起こる確率とか家に住むことで火事が起こる低い確率とか家から出ることで死傷事件の起こる低い確率とか電子機器を使うことで火事が起こる低い確率とか野菜や魚を食べることで微生物突然変異により野菜や魚が未知の毒性を持つ低い確率とかを気にしないところ

車に乗らないし出かけないし家屋に住まないし電子機器を所持しないし野菜や魚を食べないし病院に行かない、あらゆる低確率危険に対して警戒して生きてるならまだ理解できる

2022-12-06

創作へのいわゆる反ポリコレ的なお気持ちはくだらない悪なのか

id:agricola 日本の「歴史イメージ尊重しろ」勢は、昔のハリウッド映画リメイクチビ出っ歯メガネ日本人男性がドブネズミ色の背広を着て首からカメラぶら下げて登場しても「歴史尊重してる!」と感激するんか?

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/courrier.jp/news/archives/308501/ より )

原作イメージファン愛着尊重考慮し、差別意図したものでないと伝わる十分な配慮があるなら

その作り手側の姿勢もまた尊重されるべきものだと考えます

もちろんキャラ設定を再解釈・変更し現時点での社会正義に強く配慮し、より多くの人が楽しめ、弱者勇気づけ、新しい価値を示そうとする姿勢もまた同様に尊重されるべきものです。

創作は大なり小なり作りて側のステロタイプ差別や誤解や配慮不足が反映されますし、過去作品はとくにその傾向が強いです。

しかし、生み出されたキャラへのファン愛着は罪であると断言することはできないでしょう。

正しさだけでなく、暴力代表に正しくなさも価値になるのが創作です。

正しさを追求する姿勢尊いものですが、「正しくなさをどこまで排除していいか」「どこまで配慮必要か」は

きわめて難しく繊細な問題です。

そこを「とにかく正しさに従えばいい」「従わないのは悪だ」とファン愛着らくだらないもの排除しようとするのは

創作自体社会正義の下位のくだらないものと扱うことに繋がります

強者の正しさで弱者攻撃排除する過去差別再生産的とも言えます

差別をなくそうという正しさの根源は思慮配慮なはずです。

創作に関する愛着自由衝動概念はまだまだ未整理で未成熟ですが、

あくまで現時点だけの正しさに従い切り捨てられるべきくだらない悪と扱うのが

将来問題になりうる差別回避しうる、または過去に生きてたとして差別への加担が回避できたと言える思慮深い態度でしょうか。

元の記事は会員制のため全文読めてないので後半でファン愛着への言及があってバランスがとられているのかもしれませんが、

繊細な心理を反政治レッテルを貼り単純化し悪と軽々しく断じ切り捨てるのではなく、

今までの作品イメージ愛着尊重されるべき、新しいものもまた両立する形で尊重されるべき、というメッセージを共有するのが思慮深い「正しさ」ではないでしょうか

2022-12-02

anond:20221202073123

ほんとこれ

義務教育でやる定説レベルのような簡単な正誤の段階にまで単純化された教科書的な性格のある情報と違って、プロの生の情報の扱いは、いくら単純に見えてもいくら平易な文章や表になっていても周辺知識無限必要しかも移り変わる、基本的素人が正しく議論できるレベル理解度に至るまでには相当なハードルがある

素人は1+1は2だ!で数を完全に理解した気になってしまっているだけ

こんなレベル素人同士で議論しても本物の専門家素人議論してもガチ無意味

素人がその世界トップレベルの専門的知識簡単理解できるレベル学問なんてもうこの世にほとんど残ってないのでは

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