はてなキーワード: 奇数とは
松ちゃんが自主的にメディアの仕事を休んでから10カ月、文春への訴訟取り下げというターニングポイントでTV復帰?という記事もちらほら、デスクの方やら、こたつの中からやら出てきて、色々好き勝手言われている。芸能人って大変☆
自主休業以前に出演していた主な番組から「復帰するとしたらどれからか」を予想してみた。しかし本当に売れっ子だったんだな。忘れてる番組もあるかもしれないがご容赦。
本増田はかつてダウンタウンが好きだった、そしてどんどん好きじゃなくなっていった増田である。
今回予想をつけてみた感想は「復帰できそうな番組もあるけど、それは番組自体が終わっても平気そう」 「中堅・若手で代替できそう」である。
年が明けたら休業2周り目になる。そして改変キャストはまぁ半年前には大枠は決まってるだろうと思うと。この年末年始~春まででTV番組からは姿を消すことも有り得るかもね。まぁお金は山ほど持ってるし、配信とか舞台復帰とか色々やれることはあるだろうし、まぁTV復帰するにしても「どんな顔で何を話すつもりなんだろう(呆)」という顔で見ることは許してほしい。
世界の「クレイジー」を見に行く旅人にフォーカスした旅番組。番組サイトでは松本の写真が使用されているしクレジットも残っている。制作サイドは復帰させたいんだろうなという感じ。個人的には、この番組はやらせで1×付いてることと、そもそもあまりMCとしての松ちゃんの適性がないと思ってたので制作サイドが松ちゃんにこだわってるのが意外。
貧困と犯罪、商業化と自然破壊といった社会的に複雑な背景があるテーマの時のコメントがとにかく95%は的外れ、かつ面白くないと思っていたのでちょっと不思議なのだが、まぁそういう主旨(番組の尺稼ぐためにはヤラセもするし、複雑な背景も雑に無神経に松ちゃんにまとめてもらえばキャッチーに加工できるっしょ!的な?)なら、早く復帰してほしいでしょうね制作サイドは。
非人道的な企画で炎上したり、考えさせられるドキュメンタリーとして面白い企画になったりと毀誉褒貶な番組。Webサイトはそもそもほとんど情報がないのだがメインビジュアルもタイトルもダウンタウンだし、今のところ損切り気配はサイトからは伝わってこないしプロデューサーが松本信者かつ割とアレなタイプの人なので復帰させたいと思ってそうではある。
番組自体はダウンタウン、特に松ちゃん不在でも普通に進行できている(むしろハマタ不在の方がこの番組は成立しにくそう)。もともと炎上番組なのでスポンサーダメージも少なそう。ただし番組における松ちゃんの役割は「頭おかしいスタッフの企画に常識人風のチャチャ入れする係」なので、色々グレーなものを背負ってしまった彼がその役割を厚顔に全うできる気はあんまりしない笑
増田はこの番組は見ていないので分からないのだが、番組自体はMCハマタがいれば特に問題なく進行してそう。タレントをずらっと並べてエピソードトーク&ハマタさんがたまに突っ込み入れるだけなので元々松ちゃんは「欠くべからざるパーツ」ではない。関西の局は「色々あった吉本芸人」に優しい気がするしシレっと復帰できるんちゃう?知らんけど。
と思って番組サイトを見たらクレジットが「ダウンタウン 浜田雅功」になってたのでちょっと笑った。
観測気球的なネット記事が一番最初にあがったのがナイトスクープだったのはすごく意外。そもそも新局長は増田の周囲にいるナイトスクープをこよなく愛する関西人たちからとても不評だった。増田は都民なのでいまいち分からないのだが、関西地方で生れ育ち東京で暮らしている人にとってMXTVで見るナイトスクープは一番故郷の風が感じられる番組で、松ちゃんは何かちゃうねんということらしい。増田も「ないわー」と思っていたが、松ちゃんが局長やりたがってたのを知ってたのと、まぁM-1の件があるから「局長やりたいねん」って言われたらABCは断れないよな~王様キャスティング~と思っていた。
ネットの反応をこたつからお届けするFLASHの記事が出てしまったことで、逆にABCは、ナイトスクープだけじゃなく年末のドル箱M-1についても『今後の松本の出演の可能性について「現時点では未定です」と回答(日刊スポーツ)』せざるを得なくなり、タイミング的にはもうとっくにM-1の審査員のオファーは終わってるだろうな…などと併せて想像すると、ちょっと物悲しい。
かれこれも20年ぐらい見なくなって久しいので分からないし、「まだ終わってなかったんだ」という驚きもあるが、日曜の深夜枠で続いていた。番組サイトを見たところ先週の企画が「東京23区まっちゃんの店完全制覇!現在空前のまっちゃん不足に陥っているガキの使いが「まっちゃん」と名の付く店を巡ってまっちゃんを補給する!」だったので笑った。ここでも観測気球企画を当ててきてたんだろうと思うとうすら寒いけどなぁ…。
ガキの使いは1980年代後半から続く老舗番組だし一時は日テレの年越しも任されていた番組なので、ここから復帰が一番順当だと思う。日曜の深夜枠なので目立たないし。逆にここ以外に出て来ないでくれると八方丸く収まる感じもある。
この番組は「タモリにおけるタモリ倶楽部のような番組を作りたい」という趣旨で企画された番組らしい。本家の方(タモリ倶楽部)が終わった中で、どこまで引っ張れるかというのはあるかもね。
「ワイドナショー、でまーす」とXでポストし、結局出なかったことでおなじみのワイドナショー。局にも迷惑かけただろうし、扱うテーマが芸能スキャンダルだったりなので、一番ない選択肢だろうなーと思いつつ番組サイトを見たらもう東野が一人で邪悪な表情を浮かべていた。番組説明も『東野幸治と豪華芸能人が送るワイドショー』となっている。
ちなみにフジテレビは、自主休業前のレギュラー番組「まつもtoなかい」 「人志松本の酒のツマミになる話」2つをいち早く看板を掛け変えて存続させている模様。ワイドナショー→東野、まつもtoなかい→中居、酒のツマミ→千鳥・かまいたち?って感じみたい。3番組ともハナから見てなかったから趨勢が全然分からん。
時期的には今、代わりの審査員を抑えられてなかったら難しいだろう。1席を空白にしておいて世評を見ながら、とかも有り得るかと思ったが、審査員は奇数と決めているようなので、まぁ難しいよね。ナイトスクープのこたつ記事の余波でなおさら難しい局面。
個人的には「芸人の後輩を女衒として使役していた人」は、若手芸人の芸をうんぬん判断できる立場なのか」という批判はしておきたい、パワハラになりやすい構図だから。
2024は松本不在で終わった。03飯塚が審査コメントのことで小さいボヤを起こしていたが(お前の好みで審査するな的な)その後特に延焼している様子がないので、このまま行けそう。上沼恵美子もお前の好み知らんわと炎上してたが、まぁM-1と比べると影響の小さい賞レースでもあるのが幸いしたか。
ただ、審査員に松本不在でも割と何とかなったという前例にもなってしまったか。個人的には、むしろキングオブコントの松ちゃんの選評はアウトオブデイト感あるなと思っていたのでこのまま無しで言ってほしいと願っている。
そもそも松ちゃん実はそんなにコント上手くないかもしれない(映画がコケたのも同じ脳というか…)。発想はあっても構築ができないというか。なのでキングオブコントの選評は的外れになる時がある。
自主休業のあおりを一番受けたのがこの番組なのではないか。24年2月の特番には博多大吉が急にブッキングされたという話もあった。後輩も大変だ。松本不在のチェアマンはバカリズム。
次回予定は不明。可能性があるとしたら来年1、2月あたりか?Wikipediaによると年2ペースだったものが2022年から年1ペースになっているので、制作コストなども大変なんだろうな感もちらほら感じられる。
個人的には、そもそもチェアマン自体が不要だなと思っているのだが、大喜利得意勢は3~40代の芸人に山ほどいるのでキャストを若返させるチャンスだと思う。ギャラがすごそうなチェアマン(おまけに回答も微滑りしてる)は損切りして、何かよー分からん秘密酒場みたいな金のかかるセットも辞めて、頻度を上げてほしい大喜利大好き増田です。
見たことないので分からん。新作は自主休業前から作られてないようなので、このまま新作無しでいくのかもしれないし、TV復帰が思うようにならないならこっちで復帰はあるかもね。
私だけ特に背が高かった。
いつも二学年以上上に見られて、幼少期には知恵遅れと勘違いされた。
体育の時間で奇数の時は必ず私が一人余ったし、身体が弱くても力仕事を任された。少しでも小さく見られたくて、背を丸めて歩いたこともあったし、記念撮影の時に膝を少し曲げて背を低く見せてた。
標準体型だから悪いのかと思ってモデル体型まで痩せて、フェミニンな格好をして歩いても、たまに駅で「女装かな」って言われた。
化粧の問題かと思って2万円するメイクレッスンにも行って化粧を勉強しても、毎月美容室に通っても、歩いてたら知らないおじさんによくわからない言葉で罵倒された。(もしかしたら身長は本当は関係なくて、あのおじさんたちは、罵倒できたら誰でもよかったのかもしれない。それでも私は「デカい」からターゲットにされるんだと傷ついた。)
拗らせてしまった自意識もあると思うし、私の性格の悪さもあるんだと思う。でも「好きでこの身長になったわけじゃない」って泣き叫びたかった。
大人になって、やっと背が高いことを含めた自分を受け入れることができて、好きなハイヒールを履いたり(電車で頭ぶつけるけど)、胸を張って歩くことができるようになった。
でもデカいって表現で何度も泣いたから、たまにインターネットで見る「デカ女」という字面だけで辛くなる。小さな頃から背が高くて、たくさん泣いた自分を思い出して涙が溢れそうになる。
ずっと蔑称として使ってきてたじゃん、それ。
現行のクライマックスシリーズに批判が集まるのは、優勝争いすらしてない3位のチームが、独走した1位のチームを差し置いて日本シリーズへ行っちゃえるから。
商業的なメリットがあることとか頭では分かってても、やっぱり感情では納得できないわけだ。
そこで4リーグ制ですよ。
1リーグあたり3チーム、つまり12球団という総数は変わらず。
それぞれの優勝チームがクライマックスシリーズで対決する形にする。
交流戦とか増やして、実質的に現行の日程とあんまり変わらなくしていいよ。
(というかチーム数が奇数だと必然的に1チーム余るので余った同士を組ませることになる)
朝三暮四的だけど、それで精神的にはだいぶ落ち着くと思うんだよね。
どうよ?
超弦理論を数学的に抽象化するために、場の理論を高次圏(∞-圏)の関手として定式化する。
𝒵: 𝐵𝑜𝑟𝑑ₙᵒʳ → 𝒞ᵒᵗⁿ
ここで、𝒞ᵒᵗⁿ は対称モノイダル (∞, n)-圏(例:鎖複体の圏、導来圏など)。
超弦理論におけるフィールドのモジュライ空間を、導来代数幾何の枠組みで記述する。
BV形式はゲージ対称性と量子化を扱うためにホモトピー代数を使用する。
Δ exp(𝑖/ℏ 𝑆) = 0
ミラー対称性はシンプレクティック幾何学と複素幾何学を関連付ける。
𝓕(𝑋) ≃ 𝐷ᵇ(𝒞𝑜ʰ(𝑌))
以上の数学的構造を用いて、超弦理論における重要な定理である「ホモロジカル・ミラー対称性の定理」を証明する。
ミラー対称なカラビ・ヤウ多様体 𝑋 と 𝑌 があるとき、𝑋 のフクヤ圏 𝓕(𝑋) は 𝑌 の連接層の有界導来圏 𝐷ᵇ(𝒞𝑜ʰ(𝑌)) と三角圏として同値である。
𝓕(𝑋) ≅ 𝐷ᵇ(𝒞𝑜ʰ(𝑌))
1. フクヤ圏の構築:
- 対象:𝑋 上のラグランジアン部分多様体 𝐿 で、適切な条件(例えば、スピン構造やマスロフ指数の消失)を満たすもの。
- 射:ラグランジアン間のフロアーコホモロジー群 𝐻𝐹*(𝐿₀, 𝐿₁)。
2. 導来圏の構築:
- 射:Ext群 𝐻𝐨𝐦*(𝒜, 𝐵) = Ext*(𝒜, 𝐵)。
- 合成:連接層の射の合成。
- ファンクターの構成:ラグランジアン部分多様体から連接層への対応を定義する関手 𝐹: 𝓕(𝑋) → 𝐷ᵇ(𝒞𝑜ʰ(𝑌)) を構築する。
- 構造の保存:この関手が 𝐴∞ 構造や三角圏の構造を保存することを示す。
- 物理的対応:𝑋 上の 𝐴-モデルと 𝑌 上の 𝐵-モデルの物理的計算が一致することを利用。
- Gromov–Witten 不変量と周期:𝑋 の種数ゼロのグロモフ–ウィッテン不変量が、𝑌 上のホロモルフィック 3-形式の周期の計算と対応する。
5. 数学的厳密性:
- シンプレクティック幾何学の結果:ラグランジアン部分多様体のフロアーコホモロジーの性質を利用。
- 代数幾何学の結果:連接層の導来圏の性質、特にセール双対性やベクトル束の完全性を利用。
結論:
以上により、フクヤ圏と導来圏の間の同値性が確立され、ホモロジカル・ミラー対称性の定理が証明される。
ラグランジアン部分多様体 𝐿₀, 𝐿₁ に対し、フロアー境界演算子 ∂ を用いてコホモロジーを定義:
∂² = 0
𝐻𝐹*(𝐿₀, 𝐿₁) = ker ∂ / im ∂
∑ₖ₌₁ⁿ ∑ᵢ₌₁ⁿ₋ₖ₊₁ (-1)ᵉ 𝑚ₙ₋ₖ₊₁(𝑎₁, …, 𝑎ᵢ₋₁, 𝑚ₖ(𝑎ᵢ, …, 𝑎ᵢ₊ₖ₋₁), 𝑎ᵢ₊ₖ, …, 𝑎ₙ) = 0
Extⁱ(𝒜, 𝐵) ⊗ Extʲ(𝐵, 𝒞) → Extⁱ⁺ʲ(𝒜, 𝒞)
手に火をつけたらつくのかどうかわかんないからやる
それ以外の事実ってあるの
すごいパワー そうしとこう
人が悪口をいっている そうしとこう
それよりも自分のことを考える
かわいそうなオレかっこいい
近いと思うよ
MAはみない 車を車庫に入れるとき見なくていいとこを見ながら入れてる 例えば
例えばってなんだよ
ゴキブリさんはわかってるんすよ
6号さんは勝ちに遠いと
まだまだ基本的なことが最低限なことができてない
勝ってる人はね
100枚で遊ぶゲームなんです
決済に遅れがある
4号さんはまだマインドができてないんですよ
勝ち続けれないですよ そのマインドでは
惑わされる人 詐欺に引っかかる人
上行くとか下行くとか まだまだ遠いんですよ
避けたいことはある
なにかしたいことはわからない
一番したいことをすればいいのか
いいじゃん適当で
なんも責任をとりたくない
したいことはあるのか
ないにすれば楽
イライラする
避ける逃げる
責任をとりたくない
これにしたんだっていう
っていうか何でもいいんだと思う
さかい てんのうじ
30なんか 坂を思い出す
充実というか
なぜ循環を作り出したのか
そこで対象のファンが褒めたりしてるとビビッと反応してしまい嫉妬心からマウントを取ろうとする。
お金を出したい人が出せばいい
どういうことをしたか素晴らしいか そうでもないか とかはない
わかんないまじで 全部自己満
彼らはそのリスクがあっても打ち込みたい
ノーリスクをとるならかかわらない
10年も続けれないよこんな生活
位相的K理論は、超弦理論におけるD-ブレーンの分類に本質的な役割を果たす。具体的には、時空多様体XのスピンC構造に関連付けられたK理論群K(X)およびK^1(X)が重要である。
ここで、X+はXの一点コンパクト化を表し、K(X+)はX+上のベクトル束の同型類のGrothedieck群である。
Type IIB理論では、D-ブレーン電荷はK(X)の要素として分類され、Type IIA理論ではK^1(X)の要素として分類される。これは以下の完全系列に反映される:
... → K^-1(X) → K^0(X) → K^1(X) → K^0(X) → ...
背景にNS-NS H-フラックスが存在する場合、通常のK理論は捻れK理論K_H(X)に一般化される。ここでH ∈ H^3(X, Z)はH-フラックスのコホモロジー類である。
捻れK理論は、PU(H)主束のモジュライ空間として定義される:
K_H(X) ≅ [X, Fred(H)]
ここで、Fred(H)はヒルベルト空間H上のフレドホルム作用素の空間を表す。
D-ブレーンのアノマリー相殺機構は、微分K理論を用いてより精密に記述される。微分K理論群K^0(X)は、以下の完全系列で特徴付けられる:
0 → Ω^{odd}(X)/im(d) → K^0(X) → K^0(X) → 0
ここで、Ω^{odd}(X)はXの奇数次微分形式の空間である。
アノマリー多項式は、微分K理論の言葉で以下のように表現される:
I_8 = ch(ξ) √Â(TX) - ch(f!ξ) √Â(TY)
ここで、ξはD-ブレーン上のゲージ束、fはD-ブレーンの埋め込み写像、ch(ξ)はチャーン指標、Â(TX)はA-hat種を表す。
Kasparovの KK理論は、弦理論の様々な双対性を統一的に記述するフレームワークを提供する。KK(A,B)は、C*-環AとBの間のKasparov双モジュールの同型類のなす群である。
KK(C(X × S^1), C) ≅ KK(C(X), C(S^1))
導来圏D^b(X)は、複体の導来圏として定義され、K理論と密接に関連している:
K(X) ≅ K_0(D^b(X))
最強のラノベって何だよ?まずそう思うだろう。俺も正直深夜のテンションで筆が滑ってこう書いている。
だが、これから紹介したいラノベは唯一無二のラノベだ。少なくとも、俺の心を救ってくれた。
簡単にあらすじを紹介しよう。
主人公は2人いて、奇数巻は最強の女暗殺者ミズー、偶数巻は最強の精霊を瞳に宿す少女フリウが主人公だ。この2人がそれぞれに「心の実在を証明せよ」と語りかけてくる謎の精霊に立ち向かうという話だ。
いや、待って逃げないで。確かに俺もすごい厨二病っぽいと思う。でも違うんだ。フレーバーテキストっぽい「心の実在を証明せよ」というのをガチでやっちゃうからこのラノベは凄いんだ。
その証明は要約できない。このラノベは全部で10巻あって、それだけの文字数をちゃんとテーマを語ることに使っている。それだけの文字数を読むと要約しても伝わらないことが分かる。
それでも敢えて要約するとこんな感じになる。まず信じることは心の働きである。それならば、信じられるものがあれば心が実在すると言える。では、絶対に信じられるものとは何か?となるが、そんなものは存在しない。しかし、絶対はなくとも信じられるものはあり、それを信じることが心の実在の証明となる。だが、答えだけを求めるものにはこの証明は理解できない。
だから、このラノベがどういうところで俺の心を救ってくれたのかを説明することにする。
かつての俺は絶対に信じられるものを探していた。なぜなら心が不安定だったからだ。
もし絶対に信じられるものがあったとしたら、それに沿って生きていれば自分は悪くない。悪いのはいつも「アイツら」の方になる。
そんな気持ちで俺は絶対に信じられることを探して数学や物理の勉強に取り組んでいた。
そんな中でラノベ新刊として出てたのがエンジェル・ハウリングの第1巻だった。
最初はこの本が俺を救ってくれるなんてことは夢にも思っていなかった。ただ、当時好きだったラノベと同じ作者だったから手に取っただけだ。だが、「かつて地図には空白があり、空白には怪物が潜んでいた」という文章で始まる巻頭詩を読んで、この話はすごい話かも知れないという予感がした。
しかし本編を読み始めると何故かなかなかに読みづらく、1巻2巻くらいの間は途中で挫折しそうになったことは書いておく。
けれどもこの本は俺の疑問に答えてくれるかも知れないと思ったのが、物語の中盤でベスポルトという登場人物が語る思考実験のエピソードを読んだときだ。
真っ暗闇の世界に誰かいる。だがそこは光だけでなく音も熱も風もない。そんな世界で暗闇の向こうの誰かに自分の存在を気づかせることができるだろうか?
俺はこの思考実験の意味が理解出来たと思った。真っ暗闇の世界は人と人は分かり合えないという現実の比喩である、そう思った。もし暗闇の向こうの誰かに自分の存在を気づかせることが出来たなら、それは人間は分かり合えるということである。
そしてもし分かり合えたのならば、それを絶対に信じられることにできる。この本にはその方法が書かれているのか?そう思いながら読み進めると…
さすがにそろそろ寝ないとマズいしネタバレしすぎるのもアレなんでここら辺にしておく。
だが、この本は間違いなく信じられるものとは何かという俺の疑問に答えてくれた。
それは答えだけ読んでも理解できない類のもので、実際4巻の時点で答えだけなら書いてあるのに俺は何も気がつかなかった。
最終巻の10巻まで読んで、おぼろげにその形を掴み、より理解するために読み返しているところでこんなところにもう答えがあったとびっくりしたのだ。
最初の要約にも書いたが、絶対に信じられるものなどないとこの本は喝破する。だが、それでも俺の心が救われたのは、信じることとはどういうことなのか、言ってしまうと愛は何処にあるのかということにちゃんと答えを出してくれたからなのだ。そして信じる勇気を2人の主人公の行動をもって教えてくれた。
正しさで殴りつけてくる麗奈にめっちゃムカついてたので、(滝にフラれるとかして)コイツ1回ボコボコに心折られねーかなと思ってたら、自らの手で久美子をソリ落ちさせて死ぬほど凹むという、まさにそんな展開が飛んできたので麗奈を赦す気になれたの良かった(結論)。
色んな意味で話題になったシリーズ第3期12話で久美子と滝は以下の会話をかわす。
滝「そうですね。正しい人でしょうか。本当の意味での正しさは、皆に平等ですから」
滝「黄前さんは、どんな大人になりたいですか」
久「私は…。私も、そんな人になりたいです」
以下、アニメ『響け! ユーフォニアム』シリーズの感想を、物語が提示した“正しさ”に沿って述べる。
正しさを他人に押し付けるとき、そこには暴力性が宿る。久美子と麗奈はむしろそれを行使してきた側で、実力が上だからという理由で3年生の中世古香織をソリから追い落としたことや、家庭の事情で全国大会前に引退しようとしていた田中あすかを強引に引っ張り出したことは、まさにその典型だ。その時、久美子たちはまだ1年生で、責任を負わない立場だから好き勝手やって良かったし、正しさで相手をねじ伏せることは快感を伴うので、作劇上それらはむしろ肯定的に扱われていた。ゆえに正しさの中に潜む暴力性はこれまで適切に隠蔽されていたのだが、3期になってブーメランとして返ってきたことで、その問題点が一気に噴出した。そして久美子と麗奈では反応が違った。
久美子は下級生を指導する過程で黄前相談所という二つ名を得るほど面倒見が良く、そして部長になったこともあって精神的に成熟し、融和的なスタンスを取るようになった。一方の麗奈はなんら変わることなく正しさの信奉者であった。ふたりとも「北宇治は実力至上主義」というイズムを共有していたし、強豪校からの転校生である黒江真由が「(ソリを奪うことになるから)オーディション辞退しようか?」と何度も何度も何度も本当にしつこく何度言ってきても久美子は「上手い人が吹くべき」というスタンスを一度も崩さなかった。
ただ、全国大会金賞を目指すべくオーディションを大会ごとにしたことで緊張がずっと続いたことや、大幅に変わった編成への疑問、そして精神的支柱である久美子が本当にソリから陥落するに至って部の混乱はピークに達する。これに関しては仲の良い者の間でも意見が別れており、たとえば強豪校出身の川島緑輝が「実力は同じなのだし、それだったら部が落ち着く方が」と久美子を支持する一方で、高校から吹奏楽を始めた加藤葉月は「それだとオーディションが成り立たない」という意見だった。葉月は本当に素人からスタートしており、3年生になってようやく大会メンバーに選ばれた。しかしだからオーディションを肯定しているわけではなく、落ちていたとしてもおそらく同じことを言っただろう。彼女の言葉は真っ直ぐで、積み重ねてきた努力に支えられていることは明白だった。一方の緑輝も、強豪校でやってきた経験から、おそらくは部の空気が合奏に与える影響を理解しており、だから部がまとまることを重視していたのだと思われる。つまりどちらも「正しい」。しかしそうやって意見が分かれ、「正しさ」が衝突しあう只中で、久美子と麗奈は袂を分かつ。
久美子は、部の混乱を収めるには顧問の滝が編成の変更やオーディション結果に対する意図を説明することでみんなが納得することだとしてその道を模索するが、しかし麗奈は「そこに疑問を抱くと全てが崩れる。指導者の方針に従うのは大前提」と否定、さらにはソリ落ちした直後の久美子に「自分の努力不足を棚に上げて思い通りにならないってそんな言い訳か文句が大半」という正論を浴びせ、「部長失格」の烙印を押す。
このシーンに対する感想を言わせてもらえれば、「安全地帯から正論ぶってんじゃねえよ麗奈ァアッッッ!」である。心底ムカついたね。
高坂麗奈はサラブレッドなトランペッターである。父がプロの奏者で、家に防音スタジオを作れる程度には裕福で、幼い頃から音楽指導も受けてきた。彼女は学生離れした実力者で、当然のように大会メンバーはおろかソリストに選ばれる。環境だけが彼女をそうしたとはもちろん言わない。それに見合うだけの努力をしてきたのだろう。だから彼女が「自分の努力不足を棚に上げて指導者に楯突くなんて!」と言うのは“正しい”。目標を全国大会金賞に設定したのは部員たちだし、それに向けて合奏を作り上げるという意味で滝の指導力に疑う余地はないのだから、従うのは当然。麗奈が言うことは常に“正しい”。そして久美子も視聴者も、その麗奈の“正しさ”に一度は与したはずである。“正しさ”でもって中世古香織を追い落とし、田中あすかを大会に引きずり出し、劇的に描かれたそれらのシーンに感動してきたのだから。そこに潜む暴力性に気づこうともせず。だからいざその暴力性が自らに向けられたとき慌てふためくのは滑稽な話である。しかし感情は偽れない。“正しさ”で殴りつけてくる麗奈はやっぱりムカつくのだ。そのムカつくという感情がベースにあることは認めつつ、その上で言いたい。正しさは万能薬じゃない、と。
麗奈の正しさは(構造的に)滝の影響を強く受けている。北宇治吹奏楽部顧問の滝昇は若手ながら実力のある音楽指導者で、部員たちに「全国を目指す」か「楽しく過ごす部にする」かを選ばせた人物である。生徒の自主性を重んじると言えば聞こえはいいが、自分たちで選んだからには妥協を許さないという暴力性がそこにはある。確かに滝の指導力は本物で、北宇治はメキメキと実力をつけ、就任1年目にして全国大会に進出するほどの成長を見せた。しかし実力が上がれば目標が上がる。目標が上がれば部員たちにより負荷が掛かる。そうして発生したのが関西大会直前に発生した部の混乱であり、滝にはそれを鎮める力もその気もなかった。それは合宿中のやり取りに現れている。
滝「楽しむ、と書いて音楽、ですね」
橋「本当に分かってる?」
滝「(虚を突かれたような顔をした後)分かっていますよ」
場面としては関西大会直前の合宿で、部のピリピリした空気を感じ取った橋本(滝の音大時代からの友人で、北宇治の外部指導者)がジョークで和ませた後、軽く訓示しようとした時のことである。橋本に言わせれば、音を楽しむことが音楽だと本当に分かっていれば、こんな空気を放置しておくはずがない、といったところだろう。滝の、合奏を作り上げるという意味での実力は確かなのだろうが、その指導力が及ぶのは正しさが通用するところまでであり、それで解決できない問題にぶち当たったときは無力である。そして滝自身に解決する気がない。ただの外部指導者に過ぎない橋本が一瞬にして感じ取った「ピリピリした空気」を滝はただの一度も解消しようとしなかったのだから。滝には解決する能力がなく、その気もない。滝に無理なのだから、ミニ滝にすぎない麗奈にはもっと無理である。
そんな部のピリピリした空気を解消したのは久美子だった。思っていることを素直に打ち明け、解決したのだった。
「1年生も3年生も同じ土俵で競ってひとつの目標に向かえる北宇治が好き」 「その北宇治で全国金を取りたい。でも届かなかった」 「何かを変える必要があって、だから大会ごとのオーディション形式にした」 「間違っていたとは思わないけど、でも戸惑わせたことも事実。すみませんでした」と部長として謝ったあと、「納得できない人もいると思う。でも私は北宇治で全国金を取りたい」そう訴えた。「1年間みんなを見ていて思いました。こんなに練習してるのに上手くならないはずない。こんなに真剣に向き合ってるのに響かないはずない。北宇治なら出来る。私たちなら出来るはず」と。
この久美子の真剣な訴えが部員たちの心に響き、部は急速にひとつにまとまった。
さて、久美子は部長失格だっただろうか。その答えは言うまでもなく明らかで、失格なのは正しさを押し付けることしかできない顧問とドラムメジャーであろう。
このあと、久美子と麗奈は仲直りをするのだが、ハッキリ言って納得できるものでは到底なかった。久美子はあっさりと赦していたが、一視聴者としては、「ああ、麗奈を赦すことは絶対にできないな」と思った。物語としては、このあと黒江からソリを奪還し、全国大会金賞を取って大団円を迎えるだろうが、それはそれとして高坂麗奈というキャラクタを心底嫌いになったことだけは動かせないだろう、という結論に至り、そしてそうなるはずであった。
のだが、物語は急展開を迎える。
ここからは原作改変としてすでに話題になっている、ユーフォニアムのソリ奏者を決める公開オーディションについて、私が受けた衝撃を述べる。ちなみに原作未読である。
久美子にとって憧れである田中あすかを思わせる銀のユーフォニアムを携えた強豪校からの転校生で、実力は高い。つまり久美子を脅かすポジションを与えられたキャラなのだろう、ということはすぐに分かった。実際その通りの役回りで、「(私のせいで大会に出られなくなる人がでるから)オーディション辞退しようか?」 「(ソリを奪うことになるから)オーディション辞退しようか?」と本当にしつこいぐらい繰り返し久美子に訊ねるうっとうしいキャラでもあった。それはさておき実力は本物で、いち早く警戒感を露わにした麗奈は、当初「久美子の方が上手い」と言っていたのに、途中から「久美子の方が好き」とトーンダウン。さらにソリの練習に久美子を付き合わせて「私は全国も久美子と吹くつもりでいるから」と激励している。しかし関西大会でソリの座から久美子は陥落する。その際、麗奈は「やっぱり…」という表情を見せるため、滝の求める音を出せるという点で、黒江は明らかに上だったと思われる。
ただこの段階でのソリ落ちは明らかにそういう流れであったし、物語的には全国大会でソリ奪還して金賞の方が盛り上がるため衝撃は全くなかった。物語がそのラインに乗ったことで、そうなることはもはや確定的に明らかだとさえ思った。
関西大会は滝の一存で決まったが、全国大会は甲乙つけがたいとの判断で、部員投票による公開オーディションをすることが決まった。2年前、当時1年生だった麗奈と3年の中世古が競い合ったアレのリフレインである。しかし当時と違ったのは、奏者を幔幕で隠し、音だけで判断してもらうということ。奏者は視聴者にも隠されており、これには第四の壁みを感じた。つまり視聴者であるあなたたちも、音だけで判断してくださいね、という制作者たちの声が聞こえたのである。
音楽的素養は0で、細かいことなんて何も分からないが、確かに2つの音は違った。
1番目の奏者は音が小さく、2番目の奏者は大きく聞こえた。自分が部員なら2番目に投票しようと思った。
投票シーンに移り、2番目の奏者には緑輝、塚本、奏の手が上がる。やはり2番目が久美子だったんだと確信した。同時に勝利も確信した。しかし同票であるという。
滝「奇数のはずですが…」
麗「私が、まだです」
ここで2年前のトランペットのソリオーディションの回想が入る。「裏切らない?」 「もしも裏切ったら、殺していい」のやつである。そして――
麗「……1番です」
え、ちょ、待って。2番が久美子やろ、1番????????????
滝「分かりました。では1番の方は、前へ」
黒江の脚が前に出て、麗奈の顔がくしゃりと歪む。久美子が目を伏せる。
マジかよなんだこれふざけんなよ。
客席からざわめきが広がり、部員たちの困惑した表情が映される。
また正しさの暴力かよ! 誰が得するんだよ、この展開!
困惑と怒りの感情でないまぜになったが、まっさきに動いた久美子の言葉に背筋が伸びた。
久「これが! 今の北宇治のベストメンバーです! ここにいる全員で決めた、言い逃れのできない最強メンバーです! これで全国へ行きましょう。そして、一致団結して! 必ず金を! 全国大会金賞を、取りましょう!」
3年間やってきたことがある意味で潰えた直後にこれを言える久美子は本当に立派だと思ったが、脱力した。訳が分からないと思った。
呆然としたまま画面を見続ける。
場面は進んで行き、久美子が麗奈を探している。しかし先に帰ったという。大吉山で待ってるというラインの画面が映され、登りきった先にいた麗奈は背中で泣いていた。
それを見た瞬間、(上からで申し訳ないが)「赦せる」と思った。麗奈は分かってて久美子に引導を渡したんだと理解し、麗奈に対する怒りが氷解した。
正しさは暴力性を孕む。しかしその正しさが自らに向かうときのみフェアネスになる。日本語に直すなら公正さだが、ここは敢えて“正々堂々”という言葉を使いたい。
麗奈は黒江を選んだんじゃない。久美子より音楽を取ったんでもない。久美子との約束を果たしたのだ。
2年前。中世古香織をソリから追い落としたとき、そうけしかけたのは久美子だった。麗奈は「裏切らない?」と聞き、「もしも裏切ったら、殺していい」と久美子は答えた。ここで彼女が言いたかったのは、「自分の音楽に正直であれ」ということだったろう。そういうセリフがあるわけじゃない。しかし含意は明らかなように思われる。迷いを振り切った麗奈は実力を発揮し、ソリの座につく。
麗奈はその時の同じように、正々堂々と、胸を張った。
たとえそれが自らの心臓に刃を突き立てるほど辛いことであっても。
久美子は音大に行かない。公式大会でソリを吹くチャンスは最後だろう。海外の音大に留学する麗奈からすれば、肩を並べて吹ける最後のチャンスでもある。
でもそれを分かった上で、どちらが久美子でどちらが黒江か分かった上で、久美子を切って捨て、そのかわりに約束を、果たしたのだ。
久美子は言った。「私は、それが何よりうれしい。それを誇らしいと思う自分に胸を張りたい」
もし仮に、麗奈が久美子との約束ではなく、久美子を選んでいたら。麗奈はもちろんのこと、久美子も胸を張れなかったはずだ。最後の全国大会で一緒にソリを吹けたかもしれない。高校時代のいい思い出として残せたかもしれない。しかしあのときかわした約束を裏切り、その時の自分たちを殺すことになる。だから“正しさ”に傷つくことが分かっていても、麗奈は己を曲げなかったし、久美子はそんな麗奈を誇りに思うと胸を張ったのだ。
原作改変で賛否両論の展開であるが、私にとってはアニメ『響け! ユーフォニアム』が描いてきた物語の結末として、これ以上のものはないし、これ以外のものもないように思われる。私は私の感想が正しいとは思っていない。久美子と麗奈がソリを務める全国大会が見たかったし、今もまだ見たい。久美子がソリを吹けないなんて嘘だろう、とまだ思っている。だから原作改変に怒っている人たちを否定する気には一切なれない。それもまたひとつのあり方だと思う。でもだからこそ、正々堂々と胸を張る道を選んだ久美子と麗奈を、いち視聴者として誇りに思う。
余談。滝は「どちらも充分ソリが務まると考えています」と言って部員投票に委ねたが、ある意味で嘘だろうと思う。というのは久美子と黒江の音に明確な違いがあったからだ。どちらが上か下は分からない。でも違いがあった。久美子の音は大きく、黒江は小さかった。麗奈が選んだ今なら分かる。久美子のユーフォニアムは主張が強かった、ということなのだろう。あくまでユーフォニアムは影だ。スポットライトがあたるべきはトランペットであって、黒江のユーフォニアムは影に徹することでペットを際立たせる演奏だった(黒江の楽譜には「支える!」という書き込みが何度も現れる)。合奏で求められるのは、つまり滝が求める音を出せたのは黒江だった。
ではなぜ滝はソリオーディションを開いたのか。責任を投げたとは思わない。頑張ってきた久美子にチャンスを上げたとも思わない。本人が述べているように、久美子が部員からの信頼篤き部長であるがゆえに、部がまとまるにはそれが最善と考えたのだろう。
「私は、今の北宇治を高められるところまで高めたと、自負しています」。つまり本当に、久美子と黒江で大きな差はないのだ。どちらで臨んでも、金に届きうる。そのために必要なのはむしろ部のまとまり。そういうことなんだろうと思う。
余談その2。12話の放送直後、シナリオライターが原作改変を主導したのは自分だと告白していた。
https://x.com/oitan125/status/1804807383018795391
賛否両論になるのは間違いなかったから、その責任を一手に引き受ける、とそういうことだろう。アニメの中で、麗奈がやったのと同じ立ち回りである。これが正しい結末だと、原作を改変してまでそれを押し付けた。しかし同時にそれに納得のいかない視聴者からボコボコにされることを引き受けた。正々堂々と、胸を張ったのだ。いち視聴者として、制作スタッフの決断とそれを支持した原作者を誇りに思いたい。
つかれたつかれれた
一回消えたい
好き放題やってるはずなのに病むのは
知らなかった?動物園をやっている
腹が減った以上は食べる 食べたら生きる
生きようとするだろ あえて死に向かう必要はない
生きてる限り生きようとするだろ かゆくなった風呂入る
暇じゃなければ考えない
猫や虫は必至に生きててあっというまに死ぬ
何で生きてんだろって幸せ病だよ。あ、今日も生き延びた。普通はそうだ。
いつまで森林伐採に貢献するんだろうか
なにをして過ごすのが好きなの
チェリーボーイだもん 隣に女きたら
それだけでいっちゃうだろうね
ぼくしあわせ~ぼくうんち~
性欲がやばい
猫
異性関係もそう
どうでもいいことだからクヨクヨしない だってどうでもいいことって決めたんだもん
あとふんわりやる
これまで生きて生きた経験でそっちやったほうがいいと
もぐもぐ
そろそろおにいちゃんねる
傘忘れた これはどうでもいい選択
楽しそうでしょ お持ち帰りしていい?
遅かれ早かれなるならべつにいいじゃないですか
想像してみろ しいな
ほれてんだよ 刺さってんだよ 魂に
腹筋20回してみて 体育の時やらされたでしょ
脳の仕組みが変わる
そしたら行動も変わる
奇数ならやるか
なんかうまく整理されてない
なにが失敗か
ずっとそれ考えてたら疲れるでしょ
ゲームだったらやーめたすればいいけど
現実は違う
ビットコインがそうだ すぐ飛びつけなんでも
はーどうしよ どっちでもいいか
結婚式か はよ逃げないと
なんでニートが癒されたいっていうんだろう 逆だろ
働いてるやつを癒せよ
例えばAとBの説があったとして、「反ワク」というのは「反A」と言ってるに過ぎない。
何の意味も成してない。それなのに論破できると思っているのは、Bを信仰しているからである。
そもそも「反ワク」という言葉は、複数の解釈ができて厳密に意味を限定できない。
例えば、ある特定の工場で製造された特定の時期のmRNAコロナワクチンに問題があると主張するのも反ワクだし、
この世に存在する全てのワクチンに問題があると主張するのも反ワクだ。当然いくらでもグラデーションがある。
あなたがテレビゲームをプレイしてバグを見つけそれを報告したら、「反ゲーム」と言われることを想像して見て欲しい。
「反ワク」という言葉を使う人はそれと同じ事をやっているのだ。
科学的な議論をするなら、言葉の定義は奇数と偶数のように厳密にするように努めるべきである。
「反ワク」なんて論外中の論外だ。