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2023-01-22

数学者無名具合に疑問

第一線の数学者は他のどの科学者よりも難しい問題を達成していると思うのだが、特に現代数学において誰でも知っているというような人が全然いない事実にひっかかるものがある。

マルクスみたいな経済学者とか、ファーブルみたいな生物学者など、他の学問には数学者よりは高度なことはしてないというのに一般の人でも知っているという人がいるのに、これはどういうことなのか。

数学者で有名といったら、せいぜいピラゴラスといったような古代人、現代数学でいえばリーマンとかラプラスとかだ。

これらの人物共通するのは小学校から大学までのカリキュラムで扱う理論公式発見者かどうかということに過ぎない。

特に古代人が考えたことは現代から見れば易しいものなので義務教育の内容に採用されやすい。だからあのへんの時代人物数学者でも知名度が高い人がいることになる。

ようするに言いたいのは数学者の有名無名はただ単に教育制度次第になっているということだ。

高度な現代数学でも岡潔望月新一と有名な人はいるじゃないかと言う人もいるかもしれないが、あれらが有名なのも、実績の価値が正しく一般の人にも伝わって認知度が高まってきたというものではない。

岡潔なら統合失調症だったなかで戦時下を生き抜いたこと、望月新一なら自分コネを使って論文掲載させたこと。

そういう生き様センセーショナルなところがもっぱら庶民の関心を呼び起こしているに過ぎないのだ。

ポアンカレみたいな「未解決問題を解いた人」というわかりやすラベリングを持った人間が有名なのも本質的には上述したのと同じところにあるのだろう。認知している人の多くが業績の概要価値だけでも正しく理解してるか疑わしい。実績の内容に関する関心ではなく、未解決問題を解いたという一点で共通認識化されているように思われる。

ちょっと単純化が過ぎるかもしれないが、数学以外の科学者土俵はもっぱら実験実証なかにあると思う。

実験により、何かをしたらこういう結果が出た、という目に見える因果関係を把握する力さえあれば誰でもその分野の大学者になれる素質はあるとさえ言える。

もちろん実際に誰もが知ってる大学者になれるかどうかはもちろん有用な結果をはじき出す実験にこぎつけられたらという話になるが、どちらにせよ彼らは比較的易しい具象の中で研究対象と戦っているということには違いない。

一方で数学ときたら現時点で新規性のある高度な数学論文をしたためるには何万ページという論文が語る知見に対する確かな理解の積み上げが無いと無理だろう。

理解する過程においても数千ページ目にあたるある論文理解できないとなったときどこに理解の欠落があるか今まで読んだ論文から探しなおさなければならないわけである

理論構造自体も目に見えるようなわかりやす因果関係から成っているのではなく、抽象的なわけだから知識の欠落がなかったとしてもその理解純粋に難しい。

しかし高度な論文作成はその先にあるのだからこの数学研究というものは果てのない作業なのである

望月もそのような作業を経てついにはIUTの創出という高みに至ったはずである

そして望月以外にも当然少なくとも月ごとには相当数、同程度の高みから発した高度な内容の論文が公開されているはずだが彼らの中から一般人にも有名という人は現れて来ない。

ようするに現代数学者天才である。あの手の分野の数学者受験勉強を全くせず東大に悠々と合格するような人間がざらであるらしい。もっと現代数学者絶対数が少ないのだから「ざら」というのは数ではなく割合問題なのであろうけど。

そんな数学よりは高度な理解力を要しない学問では誰からも知っている人が出てきているのに、現代数学ではせいぜい専門家の間で有名という程度にしかなれないというのは理不尽なことだと思う。

私にはそれほどの数学の才能はないので数学ができる人間に対して劣等感がある。

から劣等感元凶である彼らにはせめてとことん栄誉ある立場にあってほしいのだ。

彼らすら大して評価されないのでは彼らと違って能力のない私には何も救いがないではないか

あるいはこういうことなのかもしれない。既存知識理解するという力と新しい見識を発見する力というのは異なるものなのではないかと。

まり数学の功績は高度な理解力の上に成り立っているものだけども、高度な理解力をもった彼らがもし別分野を志していたとしたら果たして一般の人の記憶にも残る大学者になれていたのかどうか。

現代数学者チョムスキー生成文法もその理論を考え出した背景にある理論も含めてその気にさせれば簡単理解してしまうだろうが、かといってもし彼らがチョムスキーと同時代に生まれ言語学を志していたらチョムスキーを出し抜いてあのような文法理論創造できたのだろうか。漢字世界白川静みたいな業績を打ち立てることができただろうか。丸山真男のような戦後思想史巨人になれただろうか。

理解力は結局脳の処理能力という量的な要素に還元されるものに思われるが、理論創造というものはどのような分野にしても大胆なひらめきがものを言い、これなるもの量化などもちろんできない、一種特殊能力なのではなかろうか。

数学はむしろ知見が論理的に緻密な状態でに充実に蓄積されているのに比べ、他学問の知見は相対的には雑駁というかなんというか、とにかくそういったところから新しい理論を考え出すのには数学以上に何かアクロバティックな部分が必要にも思える。

コペルニクスだったか海上水平線帆船が見えなくなる事実から地球が丸いということを歴史最初に悟った人物らしいが、彼のような発見は彼より多くの知識を持った、つまり理解している天文学者には出来ないはずだと朝日新聞の轡田だかい論説委員の本に書いてあったと思う。

本当だろうか。現代数学者がその時代に生まれても無理だったのだろうか。でももしそういう発見という意味での知性が特殊な力なのなら、ここは素直に認めておくべきことなのかもしれない。数学者こそ昔の偉人発見した事実ベース論文をしたためることができているだけで、彼らがいなかったらならば今のような仕事はまるでおぼつかないものになっていたかもしれない。

ただしコペルニクスデカルトみたいなあの手の啓蒙思想の潮流で偉人扱いされている人がもしも今生まれたら、史実でその発見をしたときインパクトと同じぐらいのインパクトを持った発見ができるのだろうかという疑問はある。

しかしできないのだとしてもそれは役割問題なのだということになるんだろう。コペルニクスにはその特殊能力をもって彼にしかできない発見をしたのだし、現代数学者も彼らの理解力をもって高度な論文を発表している。それでよしとするべきことなのだろうか。19世紀から20世紀イギリスでは優秀な人間天文物理学に行くものだという常識・慣習があったのも引っかかる。

学者としての優秀さというのは最終的には理解力のような計り知れるものではない、ひらめく力・直感センスで決まると認識があった証左なのだろうか。

そうであるなら私についてもまだまだ人生これからで、数学以外の学問でひらめきを発揮する道はあるのかもしれない。

そうだとすれば劣等感を抱く前提条件も崩れ、数学者一般に知られていようといまいが気にする問題ではなくなってしまうはずであるけれど、ここまで掘り下げて考えてしまったので、まあそれはそれとしてこの疑問は解消されるまでことあるごとに私を悶々と悩ませるには違いない。

まあそれでも既存知識理解することにおいては絶大な才能があること、つまり学者がどんな難解な理論提唱しようがたちまち理解してしまうという意味で、あらゆる人に対してタイムラグはあるにしてもそれを無視した見かけ上はどちらの方が物事をよく理解してるかということについては遅れを取ることがないという点にはやっぱり羨やむものあるかなノー勉東大に受かる素質というのも素直に?率直に?畏敬の念に駆られてしまう。

dorawiiより

2018-10-08

すき家の豚皿

メニューの「豚」に「とん」とふりがなが振ってある

(こういうの間違えて訂正されると意外とダメージかいんだよな。客のことちゃんとわかってる)

すみません。とんさら3倍盛お願いします」

はい、とん「ざら」3倍盛ですね?』

(!)

2016-01-25

http://anond.hatelabo.jp/20160125061515

結局どれが正しいんだよ。

ざらは『粗』と書きます

良質ではなく、どこにでもあるという意味です。

白双糖(しろざらとう)

元々は粒の目が粗いことから「あらめ」と呼ばれ「粗目」と表記されていた

ZARAスペイン会社インディテックス発祥ホールディングス傘下のブランド

わら半紙はもともと、稲や麦わらの繊維にミツマタコウゾの繊維を混ぜてすいた紙で、粗末な半紙であり、表面がざらざらしているので、ざらがみ(更紙)ともいいます

「ざら」は「ざらり」とか「ずらり」が訛って略された言葉で、ずらりと並ぶくらいにたくさんあるという意味です。

江戸時代は、金、銀、銭(せん)の3種類の通貨がありました。

銭の中でも最も価値が安い一文銭を、ほとんどの庶民が多く持っていました。

実は、この一文銭のことを「ザラ」というのです。

さら(なり)」は、

(1)「(多く「言へばさらなり」「言ふもさらなり」の形で用いて)いまさらめいているさま。わざとらしいさま。

(2)(「言へばさら」「言ふもさら」の略)いうまでもないさま。もちろんだ」

と載っていました。

うん、これの強調形で濁ったんじゃないかな。

 
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