はてなキーワード: 経験主義とは
結論から言えば「とにかく不可食部の多い食品を選ぶ」これに尽きる。
この一行ですべてを悟った人はそのまま実践してもらえば確実に健康になっていくので、ここから先はもう読まなくても大丈夫。
で、まぁ、「痩せる」とか「ダイエット」とか言うと、カロリーがとか、PFCがとか、糖質がとか有酸素運動がなどとただでさえ薄い頭をさらにモヒカン刈りにして躍りかかってくる輩が雲霞のごとく湧いてくるんだけど、今回はそういう話ではないので自覚のある人は黙っていてほしい。特に黙ってほしいのはカロリー信者だ。「消費カロリーが摂取カロリーを超えれば痩せる」という説を今だに唱える人は、自分がホメオパシスト並の「古科学信奉者」だと認識を改めてほしい。カロリーってのは食物に含まれる脂質を単純に計算しただけのものだ。脂質を取って糖質を抜く減量方が理論を伴って存在する(その是非は置いておく)以上、カロリー信者はもはや100年単位での時代遅れと言わざるを得ない。もはやカロリー教は単なる経験主義者でしかないのだ。100年くらい前にはそれで何となくうまくいってたっぽいからそれを支持する、それだけの存在で、ぶっちゃけもはや有害でしかない。カロリー天動説から早めに脱却できることを望む。
話を戻そう。
不可食部の多い食品を選ぶというのは、つまりは食物繊維をとるための具体的な方法だということになる。
ダイエットをする、痩せる、健康になるための理論がこれほどまでに世間にあふれているということは、それら方法がいかに実践し続けるのが難しいかということでもある。
油は最高に美味いし、肉最高、米無双、ハンバーガーやばい、フライドポテトはまさに麻薬。それが現生人類の大いなる現実であって、そこから楽々解脱できるメンタル強者の話は偉人伝みたいなもので、「ほえー」とはなるけど実際に自分がやれるかという話にはならない。
理論はわかってるし、モチベーションが上がって数か月続くこともあるけど、やっぱり元に戻ってしまう…。
そういう世界だ。
まぁこの辺はダイエットをちゃんと考えたことのある人ならもはや言うまでもないだろう。
具体的な方法を伝えよう。
もちろん、これが唯一の解ではない。上手く生活に取り入れるためのヒントとして活用してもらいたい。
なぜ世の中にこんなに肥満が増えたのかというと、近現代の食生活と健康が矛盾するようになってしまったからだ。
ダイエットの特効薬は食物繊維であることは様々な統計、科学的調査によって判明している(サプリで食物繊維採っても意味ないことも判明している)。
しかし、人類は「食物繊維をなるべく減らそう」として来てしまった。それはもちろん「食べやすく、美味しいから」なのだが、それが行きつくところまで行きついてしまった。
研究により「食物繊維超大事」ってわかったんだけど、世にあふれる食品は食物繊維抜きの物ばかりになってしまっている。
かといって中世の食事に戻れるはずもなく、人類単位でジレンマを抱えてしまっている。
そういう時代だ。
そこで、冒頭の「なるべく不可食部の多い食品を選ぶ」のが大事になってくる。
肉を食べるなら、スペアリブや手羽先のような骨付きの物。野菜はできるだけ皮つき、骨の多い魚など。
いわゆるホールフーズダイエットだ。丸ごと全部食べるダイエット。
極端に言えば、リンゴを丸ごと全部食べるだとか。見た目的に「ちょっと汚そうだな…」って思うリンゴの上下の部分も、芯の硬いところも、全部食べる。種はさすがに残していいけど。見た目的に抵抗がある部分でも、口に入れてしまえば別に何でもないのだ。人間はプラムの種を飲み込んでも別に問題なく排出される。自分の体を信じよう。もちろん、アレルギーには気を付けて。
クリスマスにはケーキの上にフルーツがこんもり盛られたケーキを。見た目的にも嬉しいし、食物繊維が少しでもとれる。
お酒のつまみにはゆでた枝豆を(豆の周りに薄皮が付いているから)。
ジュースは粒入りの物を。
魚介類を食べるなら、殻付きのエビを。エビは最高に美味い。頭まで食べれる。
圧力なべを使って魚の骨まで食べたり(サンマ缶や鯖缶もいい)。
焼き芋も皮と根本も全部食べる(飲み込んでしまえばいいのだ)。
特にお勧めなのはあら汁。あら汁は最高。美味しいし、食事中に何度も手が止まる(骨や鱗をよけるから)し、何より安い。あら汁に合わせてご飯を食べれば、食事時間は10分以上にはなる。食べ終えるころには自然と満腹になってくる。
デザートは果物を。桃やキウイは皮ごと食べていい。みかんもバナナもスジまで食べていい。
昔はこれらの食物繊維を取り除いて食べるのがオシャレだったが、ようやく「むしろ全部食べるのがオシャレ」になってきている。この波には乗っていい。ぜひ乗ってくれ。
皮を食べるのがどうしても抵抗がある人は、食品用の洗剤というのが売ってるから、それで洗ってもいい。
というか、普通に売ってる洗剤でもちゃんと食品や果物、野菜に使えるようになってるものもある。
少なくとも、花王のキュキュットのラベルには「用途:野菜、果物、食器」と書いてある(ただし、薄めて使うこと)。
https://www.kao.com/jp/products/kyukyutto/4901301288417/
これは、昔の野菜は回虫の卵やら泥やら砂やら小石やら肥料のウンコやらが混ざっていたので、それらを除去するためのものだったからだという。実にまっとうな用途として台所洗剤は存在している。
野菜は洗いまくって皮ごと食べよう。(ジョイには用途に食品が書いてないので、ちゃんと確認してほしい)
とにかく、「食物繊維が抜かれた環境で『食物繊維を食え』と言われる」というダブルバインド甚だしい世の中に生まれてしまったので、自衛のために日ごろの生活から意識してみてはどうだろうか、と提案してみる。
筆者自身の話をすると、ひたすら食物繊維を追い求めた結果として3年でBMIが10下がるということになった。米も肉もフライドポテトも食べている(ただし骨つき皮つき)。
これをITの非専門家が読んでわかりやすいだろう、って思ってるとしたら相当やばいよ
そもそもプログラミングという行為がわかっていない非専門家に対して
「現実に物がありますよね。これをモデルにしてプログラミングする、それがオブジェクト指向です」
って言われて理解できると思ってるの?
モノという考え方は、18世紀の哲学者カントに遡ります。カントは純粋理性批判において、理性と経験によって認識できる以前の「物自体」という概念を提唱し、大陸の合理主義とイギリスの経験主義を統一しました。オブジェクト指向におけるモノとは、カントのいう物自体です。
しかもそのモノについていきなりカントを持ち出してくるとか正気の沙汰とは思えない。本当にカントの物自体の議論、経験論を踏まえた上で言ってる?それを相手が理解していることを前提としてるの?
女って正しさや常識には敏感なのに高次の理念に考えが至らない人が多いから政治に向いてないと思うわ。
経済的、資本主義的、美人投票的承認構造、低次元の現実観、階級差別、形式主義、非加害者的加害者、無敵の受動性、正しさには敏感でも寛容の意味を知らない
たとえばホームレスや貧困者などの社会的弱者には正しさとして接することはあってもえてしてまじわることはない。非マジョリティーという認識をもってマイノリティーに接する態度。差別はしないが区別はする区別主義者。
自分で空気をつくることはせず男性が醸成した空気には気に入るか気に入らないかで判断して批判してもかまわないという無敵の受動性
イケメンと人が判断する人を自分もイケメンだと無自覚に考える無思考の承認構造
常識や法律、マナーなどには敏感であるが法を超えた仲間意識を持つことはない。
社会全体を考える社会主義、ではなく現存の社会性に準拠した正しさに敏感な社会性主義者。
公正性について考えない。
哲学的態度のなさ。
経験主義。
こんにちは。エルサレムのアイヒマン警察です。上司がインフルエンザで休んで暇なので、大好評炎上中のはあちゅうセクハラ告発について調べてたら id:plagmaticjam 氏の「はあちゅうとヨッピーとナチスドイツと経験主義~ハンナ・アーレントは何を語ったのか~ - メロンダウト」という記事を発見。
タイトルからして地雷臭がヤバイと思ってたら案の定トンデモだったので、おうちにあった『エルサレムのアイヒマン 新板』を読み返しつつ反論したいと思います。
炎上の経緯はハゲ子大先生 id:hagex のまとめが鬼詳しいのでこっちを読んでください。→はあちゅうのセクハラ告発大炎上まとめ(追記あり) - Hagex-day info
件の記事でブログ筆者は、アイヒマンとはあちゅうの類似性を下記のように定義しています。
はあちゅう氏=「自分が被害者になったら告発する。いっぽうネットで実際に被害者が見えないなら加害者になれる凡人」
「アイヒマンが命令によって思考と行為を切り離し悪人になれたように、はあちゅうはネットをかませ被害者を特定しないことによって思考を切り離しているように見える。」
「ヨッピーも童貞いじりが誰を傷つけているのか、と擁護していたが「誰がわからない」から傷つけてもいい、なんてアイヒマンが「名前を知らない」から業務的に虐殺したのと構造的に同じだ。」
ブログ筆者は「思考と行為を切り離すがゆえに、無自覚な悪人になる」構造があるとし、類似性を下記のように指摘しています。
ですが、前提にしているアーレントの読みがそもそも間違っています。
アーレントが指摘したのは「アイヒマンが何も考えていない=無思想性」ということでした。
「俗な表現をするなら、彼は自分のしていることがどういうことなのか全然わかっていなかった。」
「彼は愚かではなかった。完全な無思想性−−これは愚かさとは決して同じではない−−、それが彼があの時代の最大の犯罪者の1人になる素因だったのだ」(p.221)
アイヒマンは相手が匿名だから虐殺したわけではありません。知っているユダヤ人も知らないユダヤ人も等しく虐殺しました。
彼は「善悪を弁別する能力をまったく欠いている」(p.20)のであり、「彼は自分の義務を行った。命令に従っただけではなく、法律にも従った」(p.107)のです。
アイヒマンの特徴は「自分の思想がなく、善悪の区別がつかず、ただ義務と命令と法律に忠実な男」であり「自分よりも権威のある立場の人が『正しい』と言ったなら盲目的に従う男」であるということです。
アイヒマンには、反ユダヤ主義の思想も教育もなかった、とアーレントは指摘しています。
好き嫌いがあるゆえに行動するのではなく、一切の好き嫌いがないからこそ、自分より高い立場の権威から命令されたことをマシーンのごとく忠実に実行しました。
実際、アイヒマンは「良心の問題については、命ぜられたこと(筆者注:虐殺)をしなかった場合にのみ疚しさを感じた」(p.20)と述べています。
アイヒマンのような「無思想で、法律や義務、命令に忠実である」人は、平和な時代であれば、上司の言うことを忠実にこなす「優秀なサラリーマン」、法律など絶対に破らない「良き市民」として一生涯をまっとうしたでしょう。
アイヒマンはあまりにも「普通のおっさん」であるという事実について、アーレントは<悪の凡庸さ>と指摘しました。
「アイヒマンはきわめて凡庸な一般人」であるというアーレントの見解は、「ナチスは、ユダヤ人を絶滅したくてたまらない極悪人・狂人」という世間の見解とはまったく違うものだったので、多くの反発を招きました。
一言でまとめると、アーレントが語る「悪の凡庸さ」とは、「平和な時代ならあまりにも普通のおっさん、ただし無思想で善悪の判断がつかないから、彼が従う権威や法が狂えばなにも考えずに極悪人になれる」ということです。
以上の経緯から見ると、ブログが「悪の凡庸さ」を誤用していることがわかると思います。もう一度、ブログで言及されていた構造をおさらいしてみましょう。
「思考」と「行為」が個別にあり、それらの連結を切り離す「X」があるという前提です。
しかし、アイヒマンはそもそも「思想」がありません。だから自分に注入される命令や義務を己のものとして実行します。
そもそも、はあちゅう氏はアイヒマンのような「無思想」ではありません。むしろ自己主張が強く、自分を良く見せたいタイプだと思います。
善悪の判断力はわかりかねますが、盲目的に命令や権威に従うタイプではありません。
「はあちゅうは凡人」と言うとなんとなく納得感ありそうなんですが、アーレントが言った「凡庸な悪」とは意味が違います。
「ネット」とか「不特定多数の他人」とかも、アイヒマンにはまったく関係ありません。
「凡庸な悪」というパワーフレーズはすさまじいものがありますし、引用したくなる気持ちもよくわかります。
しかし、なんとなくキャッチーな単語やフレーズだけを使って独自理論を展開するのは、引用源にも読者にもどちらに対しても失礼ですし、誤解を与えます。
名著や歴史的パワーワードを換骨奪胎して持論を展開するのはやめてほしいです
ぜんぜん引用源を正しく参照してない記事内で、ナチスドイツという激烈ヤバイものと名前を同列に並べられたはあちゅう氏とヨッピー氏、さすがに流れ弾すぎるだろ…と思います。あとブログで言及されてる「経験主義」も「違うだろ…」て感じなんですが、続きは経験主義警察の方々にお譲りします。
参考文献:ハンナ・アーレント、大久保和郎・山田正行訳『エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告 新版』(みすず書房、2017年)
エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告【新版】:Amazon.co.jp:本
(所要時間:45分)
※もちろん「書籍を読む」行為に、明確な正解はありません。私の読解もまたひとつの意見にすぎませんから、別のハンナ・アーレント警察の方から「違う!」とおしかりの言葉を受けるかもしれません。とはいえ、いくらなんでも適当すぎる読みだと思うんで反論を書きました。
こういう輩って結局規制推進派よりエロ漫画に愛着がないんじゃない?
基本的にエロ漫画なりエロ同人でもマチズモ思考のやつって悪役だよ?
なんでくっ殺せなんて言葉が流行ったの?なんで、オークがエルフにレイプされるときはオークがまじめになるの?なんで、NTRする奴はチャラくて女慣れしてたり、セクハラ野郎なの?
お前姫騎士がオークに犯されて心おれる漫画読んで「いやー最高のハッピーエンドだ」とか思う?
殺人鬼が登場人物を全員殺すスラッシャームービーがあるとするだろ
その感想が「いやーやっぱり殺されるより殺す側だな、チェーンソー買ってこよう」ってなるか?
普通想像できるのは「バッドエンドだったね」とか「あのシーン、グロかった」とかじゃない?
あのな、エロ漫画だってみんな考えて描いてるし、編集者だってちゃんとした作品出そうとしてんだからそこら辺のバランス感覚をもってんの
そりゃバランス感覚のおかしいやつも居るぜそいつらは確かに考えを改めるべきだろうな師走の奴とかさ
カンパニーとかいう童貞のレイプに荷担した監督はマジで糞だし、経験主義的なAV男優もアウトだよ
キャノンボールとか本当に酷い
でもその中でもちゃんといろいろ考えていままでにない映像見せようとしてるやつも居るんだよ
そういうエロの探求にヤリチンだから偉いとか童貞じゃないから偉くないとかがあるのか、ねえよ!
あ、因みにアダルトチルドレン抜け出せばモテるとかいってるアイツも実はアウトだよ
つーか、真人間になればモテるとか結局セックスや恋愛を評価と勘違いしてるし、勘違いさせるだけだから。
でも恋愛で満たされないのは自己肯定できてないからだってのは同意。実はそこじゃないって部分は正解だと思う。でもそれだったら愛されてるかどうかもどうでもいいわけで、そういうドライな感じがこの人の求めてることなのか?っていうのが常に疑問だけどそれはどうでもいい。
つまりはだな
陽動してる暇があるなら真摯に言葉を理解する努力をし、真に来るヤバイ奴等に対抗する言葉を磨くべきなんだよ
あとよぉマスダマスターよぉ
おまえ、こいつどうせ適当に面白かってあおってるだけだから雑に潰しておこうとか思って全面的に同意とかいってんじゃねえよ!
ハイエナ社会が良いとか言ってるくせに、規制派に荷担するようなこといってんじゃねえ!
言質とれました~♥世界からポルノを排除して、一部の男性が優位なこの社会を維持し続けましょう♥ってなったら
なに疲れてんだよ。シャキッとしてくれよ
お前のムーランルージュ好きは嘘だったのかよ
奮い立たせるためにあえていうけどさ
保守、リベラル、右翼、左翼って概念、さらに、科学主義経験主義はどちらの陣営のものか?ってのは無意味じゃないかな?
あまりに雑な概念すぎるから、外国との感情的対立を、経済や法律に演繹するのに利用するために使われてるようにしか見えない。
そのような大雑把な概念でくくることをもとめられる。
そして、まさに科学主義的ではない、感情的に反応する要素で国民を二分して、感情で無意味な怒りを招く方が勝つ、というバカな展開になる。
二大政党のトップがグルになって、そのどうでもいいような対立だけさせて新自由主義や日本会議的改憲では一致団結してそのまま通そうとする。
やっぱり中選挙区制に戻すべきだと思うよ。
バークも言ってるけど経験主義はリベラリズムの専売特許じゃなくてむしろ保守主義のバックボーンだろ
この話の科学的とか経験的みたいななんかよさげな属性をとにかくリベラリズムに帰する様はよさげな商品を手当たり次第に買い物かごに放りこむのに似てる
なんだか読みにくい書きまわしで煙に巻くね。
そのつもりがないなら、書いた後にもっと平易に書けないか推敲しなよ。学者じゃないんだから読みやすい雰囲気は大事だよ。
書いた者です。
自由の質がリベラリズムの議論では常に議論されますが、そもそも自由の生みの親である経験主義と科学的思考方法論をまず確認しなければ、それに続く自由を語る意味はないのではないでしょうか。というのが趣旨です。
選択の自由は、科学的に可能な選択でなければ、人間の生存にとって無意味ですよね。
格差からの自由も、「科学的に構想された社会という全体の中で、個人が人間らしく生存していくためには、どのような条件が必要なのかということを問う思考」ですが、当然そこで重要なのは科学的に可能で理論的な答えなのです。
自分にとって読み込みやすいように整えたけど、まだよくわからんね。
『そもそも自由の生みの親である経験主義と科学的思考方法論をまず確認しなければ』ってのがどのように確認するのか?とかよくわからない。「科学的思考方法論を」じゃなくて「科学的思考方法論で」なのかな?
むう・・・。『自由の質がリベラリズムの議論では常に議論されますが、はっきり言って雰囲気で議論しすぎです。そもそも~』と最期の文を最初に持って行けばスッキリするね。
書いた者です。
自由の質がリベラリズムの議論では常に議論されますね。でも、ちょっと待った方がいいのでは、と思うのです。
そもそも、自由の生みの親である、経験主義と、科学的思考方法論をまず確認しなければ、それに続く自由の質を語る意味はないのではないでしょうか。というのが趣旨です。
しかし前者は、科学的に可能な選択でなければ、それは人間の生存にとってですが、無意味ですよね。後者も科学的に構想された社会という全体の中で、
個人が人間らしく生存していくためには、どのような条件が必要なのかということを問う思考ですが、当然そこで重要なのは科学的に可能で理論的な答えなのです。
書いた者です
私も現代の諸問題が複雑になっていて、且つ右左のような立場では割り切れなくなっていると思い、このようなことを書きました。
思いっきり整理して、経験主義に基づくか基づかないか、それのみを分類に採用しようと思います。
なせならば、教会の権威知を否定し、知識を疑いながら信じ、その手法を自ら所有するという科学的思考と営みは、経験主義に基づくものであり
敵味方ではなく、個物と普遍に眼差しを向けるのは、このような思考だからです。理屈っぽく言うと。なお、私は聖書所有主義のようなプロテスタント宗教もこちらに含めます。
庶民への啓蒙は机上の空論、などと言わず、科学的思考、というか敵味方で善悪判断してしまう傾向論と、個物つまり個人をちゃんと区別すること、などといった根本的なことを疎かにしてはいけないのではないか、と思います。
昨今、議論するほど取っ散らかって、結局ちっともまとまらないリベラルとは何か、ということについて
皆さん自由はもちろん、権利や、公正や、分配のことだと言うんですよ。でもね、それって本当にそうですか?そもそもなんでそんな考えが出てきたんですか?
遡るとリベラリズムはジョン・ロックという人に行き着きます。ここまでは普通です。彼はイギリス経験論の人でした。そう、この時代までに経験論哲学が生まれ、同時にそこから近代科学が誕生したのです。
ロック氏は経験論を根拠に、国王の統治権、王権は“神”に与えられたものではなく、各人の持つ自然権を守るために委任されたものだ、という思想を発明します。これがリベラリズムの誕生です。本当です。
これってさ、科学じゃん。観測に基づいた帰納と仮説じゃん。リベラリズム、自由の生みの親は、経験主義と科学的思考や方法論なのです。
※ブコメなどから、社会契約説の元ネタは聖書である、だから信仰の一種である(科学ではない)とのご指摘がありました。
私はこの時代の科学と宗教を、そんなに区別していませんでした。ガリレイはキリスト教の“異説”を唱えたキリスト教徒であり科学者です。経験主義の祖のベーコンもキリスト教徒です。
なので、ロックもプロテスタント(だから王権神授説の異説を唱えた)であり社会科学者のプロトタイプなのではないでしょうか。
(続き)ロック氏から始まるリベラリズムは、この仮説をもとにして以後、市場経済や功利主義、ロールズの正義や公正などを発明していきます。また、自由と科学知識をもった者は産業革命を担い、社会そして個人の生活を科学技術的に豊な方へと変えいきました。
でも私は思うんです。いつの間にが、現代のリベラリズムからは「科学主義」が失われているんじゃないか?自由のための公正や分配もいいけど、まずそれらを科学的に考えることがリベラルなんじゃないか?
リベラリズムの遠戚である共産主義には、最初は科学がありました。そしてその頃までは栄えていました(笑) これはリベラリズムにも言えて、現在低調と言われたりするのは、科学的手法や科学技術を援用し政治することが足りてないからなのではないのか!?
翻って日本のリベラルを見てみると、どう思いますか。あれ、自民党の方が「現代経済学に根差した金融政策」してませんか?なんで理系やギーク系が自民党支持なんてすか?自民党がリベラルと言うのは、なしです(笑)
日本、または世界のリベラルが低調なのは、きっと保守に科学的手法を上手く使われているからなのだと、私は思います。リベラルの革新的な利点そのものが無くなりますからね。必ずしもナショナリズムや感情の時代だから、ではないのです。マイナンバー制度の根幹はIT技術です。IT技術であるツイッターは世界でも保守言論がよく使っています。
だからリベラルは、ごちゃごちゃとリベラルとは何だなどと議論する前に、現代の科学的議論に基づいた政策と、科学技術振興策を取ってください。
そして物理科学社会科学者と科学技術者の信頼を取り戻し、本来の科学的進歩的なリベラルに戻っていただきたい。 枝野さん、お願いしますよ。
なんか「直接に経験したものでないと、本物の知識としては身につかない、したがって直接経験が至上である」的思想を感じる意見を最近良く見る。
確かに実際に経験しないとわからないものというのも有るだろうけど、こういう思想を激化させて、なんでもかんでも「直接経験」に以上に拘ってる人をみるとそれは違うんじゃないかって思う。
人が社会人として行きていく上で、必要な知識の多さ広さを考えると、全部を「経験」で身につける訳にはいかない。
経験できなさそうなことだって、純粋な知識として知っておく必要性が出てくる場合もある。それが現実というものなのではないか。
そりゃまあ理想としては全て経験すべきみたいな考えも理解できんとはいえんけど、実際問題そう出来ない人が多数だろう。
例えば、
今やグローバル化の影響で様々な国や地域の人々の文化を教養として知っておくのが望ましいとされるが、
ありとあらゆる文化圏にいって実際に生活して「理解」するなんて、実際問題多くの人には不可能だ。
まあ学生のうちに何処か1カ国に留学するぐらいできれば上出来というのが現実だ。
現代の貧乏学生では、それどころか海外旅行自体困難な人も多い。
本の知識だろうと、それが本の知識であって実際体験とは違う体験なのだとわかった上なら、十分「知識がある」とみなされるべきではないだろうか?