はてなキーワード: 島本とは
二次創作の話になると、原則違法!金目当てのイナゴ!パクリでクリエイターぶるな!エロは愛がない!みたいな威勢のいいのが出てくるけど、島本和彦ほどの大物が堂々と二次創作同人誌を売ってる実状みるとそんな批判もむなしいと感じる。
今回のルックバック本は藤本タツキ(ながやまこはる)が承認してるけどさ、あれも事後承諾にすぎないわけ。無断で本出したことには変わりないからね(集英社は二次創作のガイドラインを設けてないからほぼ確実に無断)。そもそも他の作品の同人誌も無断で出しまくってるし島本先生。ベテランのプロがあれをやって好意的に受け取られるのが風潮なんだから、業界的には勝手に二次創作つくって金取るのはOKってことでしょ。嫌だと思った権利者は差し止めればいいってだけ。
島本先生のはオリジナリティがあるとか、受け狙いエロ二次創作と一緒にするなとか言われそうだけどさ、個別の良し悪しも外野が判断することじゃないよ。だからみんなOK。ガイドラインがあれば従う、なくてもやっていいけど差し止められたら引き下がる、それだけ守ればOK。権利者がちと不利に感じるけど、それである種のバランスがとれてるんだろう。
テレビに出過ぎでうざいとかは本人自体ではないものへの叩きはよく見かけるが
大谷個人への嫌悪や憎悪への表明っていうとアンフェ界隈が盛んにやってた印象しかない
https://x.com/iikagenni_siro_/status/1633693442487517186
小山(凍) @iikagenni_siro_
大谷翔平、28歳なのに高校生みたいな顔してて正直キモいと思ってしまう自分がいる。ネオテニーっぽさと言うか。
https://x.com/pannacottaso_v2/status/1633783099481026561
島本 @pannacottaso_v2
大谷は確かに凄いけれど、人間的魅力(薬をやったり、恫喝したり、後輩に威張ったり、虚勢を張ったり、成績が良いと怠けたりする人間的弱さ)が全くと言って良いほど無いですよね。非常に無機質。そしてプロ野球選手自体がそうなってきていて、男性のメス化、中性化を象徴していると。
https://note.com/terrakei07/n/na4181dacf5c5
白饅頭
昔の処女厨の時代から、童貞オタクだけじゃなくヤリチンも処女が好きだとか、ヤリチンが処女好きで女が喜ぶと誤解してるようなアピール必死だったし、今でもメスガキだのなんだのチンピラみたいな言葉を好んで使う。
Twitterでもアンフェオタク界隈が謎の炭治郎や大谷バッシングしてるのを何度も見た。
この記事を見てそういうことを思い出した。
島本とか言う人がアンフェオタク界隈の人かは知らんが、フォロワー見たら白饅頭、小山等々その手でよく見る顔ぶれだから多分そうなんだろうし、25000近いフォロワー獲得してるからこの界隈ではインフルエンサーなんだろう。
男の人間的魅力が薬、恫喝、虚勢、後輩への威張り、怠け等々、この人のチンピラへの憧れを強く感じる。
https://sn-jp.com/archives/130178
大谷は確かに凄いけれど、人間的魅力(薬をやったり、恫喝したり、後輩に威張ったり、虚勢を張ったり、成績が良いと怠けたりする人間的弱さ)が全くと言って良いほど無いですよね。
非常に無機質。
「鼠」は「風の歌を聴け」に始まる「鼠四部作」に登場する。主人公の友人であるが、ある日突然行方をくらまし、「羊をめぐる冒険」では自ら死を選ぶ。語り手と主人公の仲は深く、あたかも語り手の半身のようである。己の半身が半ば死の世界にいるというモチーフはこの後に何度も繰り返される。
この半身のように親しい友人は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」のなかでは幻想パートの「影」に姿を変える。彼は語り手の半身であり、語り手の記憶を保持している。壁の中に閉じ込められた世界を脱出するためには二人がそろっていなければならないが、土壇場で語り手は壁の内側にとどまることを選び、影は死ぬことになる。
「ノルウェイの森」では彼は「キズキ」になる。物語の序盤で排気ガスによる死を選んだことが語られ、交際相手であった直子の死の遠因となる。
また、直接の半身ではないにせよ親しい友人で自ら死を選ぶ点で共通しているのは、「ダンス・ダンス・ダンス」の「五反田君」だ。彼は連続殺人犯であったことを明かして死ぬ。このあたりのくだりは恐らくチャンドラーの影響が深い。
このように、半身はしばらくのあいだ無力な存在だったが、「海辺のカフカ」以降では様子が変わる。「カラスと呼ばれる少年」は、「カフカ少年」のもう一つの人格のように見えるが、彼は「カフカ少年」を客観視し、適切なアドバイスを与える。一貫してサポートしてくれる存在だ。半身が異界の住人であるというモチーフであり、「鼠」の系譜に属しているが、そこに自ら死を選ぶような面は見られない。「海辺のカフカ」は主人公がとても若い点でも特異だ。
ただし、佐伯さんが現実感を失った生活をするきっかけとなった、東京の大学紛争で殺された友人は、佐伯さんがノルウェイの森の「直子」の系譜に属するとすれば、「キズキ」のもう一人の子孫だ。
キズキと直子が、そして佐伯さんとその恋人は幼い頃から自然に性交をしていたが、まるで思春期の完璧さを求める性向が現実によって打ち砕かれるかのように、その関係が死によって断たれる点でも、この二つのカップルは類似している。
村上春樹の小説には一貫して何らかの精神疾患を患った、少なくとも感情的に不安的な女性が出てくる。
デビュー作の「風の歌を聴け」の時点から、「小指のない女の子」として出てくる。彼女は話している途中に突然泣き出してしまう。また、周囲の人々がひどいことを言うとも語るが、これが事実なのか、精神疾患ゆえの妄想なのかどうかは判然としない。
この系譜が「1973年のピンボール」の中ですでに亡くなっているかつての恋人「直子」につながり、さらに「羊をめぐる冒険」の「誰とでも寝る女の子」につながっているかどうかはわからない。ただ、「ノルウェイの森」の「直子」には直接つながっているだろう。語り手の過ちによって感情を失った「国境の南、太陽の西」の「大原イズミ」も、彼女の裏面だ。「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の「白根柚木」もその子孫だ。
また、恋人または妻の一つのアーキタイプとして、「ねじまき鳥クロニクル」の「クミコ」「加納クレタ」や「スプートニクの恋人」の「にんじん」の母にも発展しているようにも思える。
より明確な形としては、「海辺のカフカ」の「佐伯さん」が子孫のようだ。前述のように恋人の死をきっかけに精神を病む、少なくともある種の現実感を失ってしまう点が共通している。ただし、佐伯さんは後述の老女の系譜にもつながっている。ピアノができたことを考えると、「スプートニクの恋人」の「ミュウ」も「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の「白根柚木」も同じカテゴリに入れていい。
そもそもこのキャラクターの流れについての記述は、誰が後の作品の誰に直接発展したかを明確に追うことではない。おそらくはいくつも混ざり合っている。むしろ、これは村上春樹の作品を解釈するための補助線として見るのが適切だろう。
彼女がやたらとタフになったのが「1Q84」の「青豆」かもしれない。あるいは、生命力にあふれている点では後述の「ミドリ」だろうか。
直子とは対照的な心身が比較的健康なタイプの女性の系譜もある。
性に対する好奇心の強い「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の「太った娘」もそうだが、彼女は後述する「少女」の系譜につながる面もある。
同じく制に対して罪悪感を持たない「ノルウェイの森」の「ミドリ」、「国境の南、太陽の西」の「島本さん」、「スプートニクの恋人」の「すみれ」、「海辺のカフカ」の「さくら」(どうでもいいがこのキャラのせいでおねショタに目覚めた)、「1Q84」の安田恭子へとつながっている。
村上春樹の作品を時系列順に読み返すと、ある時点で突然新しい属性を持ったキャラクター群が登場する。それは、どことなく巫女的な力を持った若い女性である。
前兆としてあらわれるのが、「羊をめぐる冒険」では耳専門のモデルをしている21歳の女性だ。彼女は不思議な力で主人公を羊へと導くが、物語の終盤を前に姿を消してしまうので、いくばくか影が薄い。しかし、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」に出てくる肥満の17歳の女の子は語り手を「やみくろ」の支配する東京の地下世界にいざなう。
より少女性が強まるというか、単純に年齢が幼くなるのが「ダンス・ダンス・ダンス」に登場する13歳のユキで、彼女は五反田君の殺人の痕跡を巫女のように感じ取ることができた。
「ねじまき鳥クロニクル」での「笠原メイ」は、映画「ロリータ」を思わせる登場の仕方をするし、終盤では主人公を救う力の源であるかのように描写されている。月光の下で裸身をさらす姿は、今までの村上春樹にはなかった描写である。確かに「ノルウェイの森」で「直子」がそうするシーンはあるが、彼女は成人した女性だ。
「海辺のカフカ」では夢の中に現れる十五歳の佐伯さんの姿を取る、ここでは少女との性交が初めて描かれる。
巫女的な少女の系譜がより明確になるのが「1Q84」に出てくる17歳のカルト教団育ちである「ふかえり」だ。彼女は何らかの学習障害を患っていて独特の話し方をするが、彼女との性交は異世界との経路となる。
村上春樹が歳を重ねて少女との性交を書くのをためらわなくなっていったのは面白い(【追記】「ふかえり」にいたっては巨乳の文学少女という属性!)。というのも、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」では肥満の女の子から私と寝ないかと誘われて断っているからだ。
大学の先輩がこう述べていた。ある種の作家は自分が生まれる十年ほど前の出来事をテーマにすることがある。なぜなら、自分が参加できなかった「祭り」だからだ。これが事実かどうかはわからないが、村上春樹は古くから第二次世界大戦と中国がテーマに含まれている。「鼠」の父親も戦争とその後の混乱で金持ちになった人間だ。興味深いことに村上春樹の父は中国に従軍している。
(余談だけれどもこの先輩は村上春樹作品にしばしば出てくる井戸は「イド」つまり無意識を示唆しているのではないかと言っていた)
さて、老人がキャラクターとして物語の信仰に深くかかわるようになったのは、「羊をめぐる冒険」の「羊博士」からだろう。彼はいるかホテルにこもったきりで、外に出ようとしない。しかし、探し求めている羊がどこにいるかという重大な情報を指し示す。
「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」でも、現実パートには「老博士」が出てくるし、幻想パートには退役した「大佐」がいる。
軍人という属性が前面に出てくるのが「ねじまき鳥クロニクル」の間宮老人だ。彼はノモンハンにて過酷な体験をするし、そこである種の悪しき力に取りつかれる。
「海辺のカフカ」には「中田老人」が出てくる。彼もまたある種の不可解な力(後述の闇の力?)の犠牲になり、記憶や知性の多くを奪われてしまう。一方で、彼は「カフカ少年」に代わって父殺しを遂行する半身でもある。
「1Q84」では少し特殊で、これは近過去SFであり、戦争の経験者やその前後に生まれた人々が相対的に若い。それゆえ今までのパターンを単純に当てはめるのが適切かはわからない。
天吾の父がこの系譜に属するだろうか。「1Q84」では善悪が入れ替わることが多い。幼い天吾を無理やりNHKの集金に連れまわす点でネガティブに描かれていたにもかかわらず(村上春樹はこうした巨大組織を一般に「システム」と呼んであまり肯定的に扱わない)、後半では声だけの存在になった彼が助けに来るのだ。
なお、戦場に行っていたという点を考慮すると、これらの老人たちは村上春樹の父親の世代に当たるだろう。
米軍基地にいたという点でジェイもここに属しているかもしれない。
一世代上の女性が出てきたのは「ノルウェイの森」の「レイコさん」だ。彼女は心を病んではいるものの、主人公たちを導いてくれる。「直子」のルームメイトとして、彼女の心身の安定に寄与している。
それがおそらく「ねじまき鳥クロニクル」の「赤坂ナツメグ」になるし、「海辺のカフカ」の「佐伯さん」を経て「1Q84」の「緒方静恵」になる。
彼女たちの多くは戦争をはじめとした暴力の中で深く傷つき、その中でもある種のコミュニティ・安全地帯を運営し続けている。「レイコさん」は精神病院の患者たちのまとめ役だし、「赤坂ナツメグ」は女性向け風俗(?)で女性の性的空想を現実にし、「佐伯さん」は図書館という静謐な環境を守護し、「緒形静恵」は性暴力を受けた女性の避難所を運営して、しばしば法を破ってでも報復を行う。年齢的にはかけ離れるが、「スプートニクの恋人」の「ミュウ」もこの老女の系譜に属するか。
彼女の息子たち(血縁があるかどうかはともかく)の系譜は、「赤坂ナツメグ」の息子「シナモン」、「佐伯さん」の図書館で司書を務める「大島さん」、それから「緒方静恵」の柳屋敷でセキュリティを担当するタマルだ。セクマイであることが多い。
「1973年のピンボール」の双子の女の子を除いて、概して二人組の登場人物は不吉な前兆だ。体格は対照的なことが多い。
「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」では「大男」・「ちび」の二人組が語り手に刺客を差し向け、第三勢力になって儲けようとだましに来る。「ダンス・ダンス・ダンス」ではまるで「長いお別れ」みたいな嫌がらせをしてくる「文学」「漁師」と語り手があだ名をつけた警官が出てくる。「海辺のカフカ」に出てくる二人組は、軽率な発言から「大島さん」を傷つけてしまう自称フェミニスト二人組だ。「1Q84」には「さきがけ」のリーダーの警備をする坊主頭とポニーテールの二人組がいる。
ただし、何度か繰り返すが善悪のシンボルを意図的に逆転させることが多いのが村上春樹の作品で、おなじ「海辺のカフカ」でも「カフカ少年」を森の奥に導くのは同じように体格が対照的な二人組の日本兵だ。
また、よくよく考えてみれば、「風の歌を聴け」の時点でも、「小指のない女の子」には双子の妹がいたのである。直接姿を見せず言及されるだけだが、このモチーフの萌芽とみていいだろう。
村上春樹はある時点で純粋な悪の起源はなんであるかについて語ろうとしている。
それは悪しき登場人物の姿だけでなく、クトゥルフ神話的な怪物としても姿を見せる。
現に「風の歌を聴け」に出てくるデレク・ハートフィールドの伝記は、ラブクラフトやバロウズをはじめとしたパルプフィクションの作家たちを混ぜ合わせたものだ。
「鼠四部作」のなかでは「羊」がそれに該当する。不可解な暴力や権力の中心に存在し、人間に憑りつくことで現実的な力をふるう。あるいは、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の現実パートの「やみくろ」たち、幻想パートの「門番」。「ねじまき鳥クロニクル」の「ねじまき鳥」や、綿谷昇の属する政治の世界。そして「海辺のカフカ」に登場する「ジョニー・ウォーカー」や、「中田老人」の口の中から出てくる不可解な物体。
非人間的な力ではないが、「ノルウェイの森」の「レイコさん」の精神を悪化させる原因となった少女も、この系譜に属していると見なしていいかもしれない。
だが、「1Q84」のリトルピープルの存在は解釈が難しい。今までとは異なり、単純な悪ではないようだ。初読時には「これは人が複雑な現実を物語化する能力の具現化で、善にも悪にもなりうる、ある種の単純化する力ではないか」と思ったが、再読したら違う印象を受けるやも知れない。また、「牛河」も悪しき力の手先のように見えるが、離婚した妻子がおり、生きた人間であって化け物ではない。
善悪が曖昧と言えば、「海辺のカフカ」では「圧倒的な偏見でもって強固に抹殺するんだ」が主人公サイドと敵役サイドのいずれでも使われる。
こんな風に、村上春樹はある時期から善悪を意図的にぼかし、単純化を避けるようになった。
【追記】アフターダークの暴力を振るった深夜残業してたサラリーマンもここにいれていいかも。
村上春樹後半期のテーマの一つをまとめるとしたら「どれほど不適切な養育環境で育ったとしても、その現実を受け入れてスタートするしかないし、ときとしてそこで学んだことに結果的に心が支えられてしまうケースがある」だろう。言い換えると「歴史・過去を消し去ることはできない」だ。
あと、「国境の南、太陽の西」の「にんじん」はうまくしゃべれないけど、「海辺のカフカ」の「カフカ少年」の造形に影響を与えたかもしれない。
別に結論はない。ただ、こういう順で発展していったのだなと考えながら読むと楽しいだけである。
もう一つ興味深いのは、親が亡くなるかそれくらいの年齢に近づくと、ちゃんと親と向き合ったような小説を、みんな書き始めることだなあ。
漫画家たちの中には「才能の違いを見せつけられた」「やってられない」など言って、
これついて、そんなこと言わなければいいのに、と思う。
昔、『シン・ゴジラ』が流行ったときに、庵野秀明監督と同大学同期で因縁を持つ島本和彦先生が
「やめろ庵野、俺より面白いものを作らないでくれー!」と感想を表明し、バズっていた。
うぬぼれ屋の主人公ホノオ君がすごいものを作っていく庵野君にボコボコにされ続けては悶えるというお馴染みの展開があり、
それを現実でリアルタイムでやるというネタであり、好敵手?への最大級の賛辞だ。
島本先生の漫画を読んでいないSNSの観客にもこのリアクションは面白がられ、
すごい庵野監督=小者っぽい島本先生 という構図が笑いの種となった。
島本先生のリアクション自体についてはハハハやってるやってると思いつつも「そういう認知」が「事実」として広まっていくと、
私はなんだか笑えなくなっていった。
というのも、私については単純に『シン・ゴジラ』よりも『アオイホノオ』の方が好きで、
作品レベル的なものも上に見えていて、才能的なものも上に見えていたからだ。
シン・ゴジラの観賞料が1万円だったらきついな
でもアオイホノオは全巻そろえて1万円払っても満足感しかないな
あとシンゴジラを二周目三周目する気は私はないけど
ということで、自分の中では「アオイホノオの方がすごい」という結論があった。
「庵野は天才」「俺より面白いものを作るな」的な発言をされていて、
「島本和彦は、庵野秀明より面白いものが作れない」という認定がSNSにおりていくのは…
やめてほしかったなー。
作者自ら『アオイホノオはシンゴジラより面白くないんです』と取れる発言をされると
一読者は何も言えない。
読者は全然そうじゃないと思っていても、あ、作者はそう思ってるんだ、なんか悲しいな、と思う。
もし作者が、創作家ならではの観点で本当にそのように見えていたとしても
ここに新刊を発売日に買い続けていた人がいる以上
審美眼が劣っているのかもしれないけど、
まあそんなわけで、追い続けているファンがいる以上
もし本当に思ってても、プロは言わない方がいいと思う。
ファンやファンでない人には全然劣ってるように見えてないかもしれないし、
あなたこそ真の才人、創作者として生活に潤いを与えてくれるヒーローと本当に思っているファンは、
同人絵描きさんに「本当に素敵です!」って言ったら「自分なんかゴミ絵しか描けなくて生きてる意味がない」って返されたあの時に近い。
アマチュア界ですら「そういうのは誰も得しないからやめよう」って常識化されてきたように思うのに、
今この時代にプロたちがしているのを見てなんだかなぁと思った。
もう一つ。
自分もある分野における専門職で、そこそこ重宝してもらっている。
一つプロジェクトが終わったときのお疲れさん会で別会社の作品の話になり、
私はそっちにいる同業の人の腕前を尊敬していたので
「あの人は天才ですよ」と褒め称えた。
べつに、自分を下げて褒めたわけではなく、単純に「あの人は本当にすごい。天才。尊敬する」と言っただけ。
すると何が起きたかというと
「え?そうなの?」「増田さんって、超すごいと思ってたけど中堅ぐらいだったの?」みたいな空気になった。
そのプロジェクトでは私の分野は私一人で回していたので、
内容レベルに対して詳しい人がいなかった。
みんな私の納品物を「すごい」「これなら勝負できる」と思ってついてきてくれていた。
だから「もしかして自分たちが作ったものは、あまりすごくないものだったのかな」みたいな疑念を抱かせてしまった。
実際は「向こうもすごいが自分も絶対に負けていない」と思っていただけに、誰も得しない発言をしてしまった。
さらに、そこに同席していた特に親しいわけではないマネージャーがその後、私が「天才」と褒めた方を雇ったと聞いた。
「すごい仕事をしてくれた増田さんが天才と褒めるのだからすごいに違いない。増田さんと同額程度だし」だったそうだ。
つまり、本来私のものとなる確率が十分にあった仕事を1つ奪われてしまったわけだけど、
まあ私の言葉を素直に受け取ったらそうなるよな…と納得してしまった。
(単純に、私の仕事の評価が低かった節も当然ある。その場合は私の発言が乗り換えの決め手になったのだろう)
1つ空いた雑誌の新連載枠に対して
「Aさんは天才です」と言った待機中の漫画家Bではなく、Aさんが引っ張ってこられた。
払うお金が同じぐらいなら、お試しや人脈拡大の気持ちも手伝ってそうなるのは自然なこと。
島本「女が良い学校行って金稼いで一体何をしたいの?せいぜいブランドバッグ買って高級化粧品塗りたくって海外旅行に行って、自分より劣るオスを見下して生きるだけの人生でしょ?しょーもな」 https://togetter.com/li/1725395
「緊急避妊薬が托卵に悪用される!!」という人達 https://togetter.com/li/1636448
わかり手、島本秋、わいずのようなミソジニー論者は「女に教育は必要ない」「レイプは泣き寝入りしろ」「レイプされた女は死刑になればいい」だの直球の女性差別をかましながら、フォロワーが何万人もいるし多数の信者を抱えている。
「ポリコレ社会に抑圧された真実()を突いてくれる素晴らしい人!!」と絶賛し、反論すると「クソフェミが図星つかれて発狂してる!」と言うところまでがセットだ。
行くところまで行ってしまったな、と思う。
どうしてこんな奴らが凍結もされず野放しで、支持されるんだろう。
反フェミがみんなこうではない。
だがその人達も彼らを非難することはない。フォロー、RTしていながら!そしてフェミばかりを執拗に叩き続ける。
一人のフェミがバカなことを言うと、「フェミはこう言ったぞ!!」と全てのフェミの発言であるかのように何年も取り上げられる。
だが、フォロワーが何万人もいるアンチフェミがバカなことを言っても「これだからアンチフェミは」とは言われない。どころか、そいつは支持される。
それなのに「アンチフェミはレイプは泣き寝入りしろと言っている」と言うと嘘つき呼ばわりされる。