2023-02-24

人生には論理立てて説明できるような意味がない。これは不安をもたらす。また、人生は有限だ。これは焦りをもたらす。

長らくこの絶望に対して、誰かが保証してくれたり論理的に肯定できるものなどなくても、自分で意義があると強く確信できる行いを続けていれば良い、といった思考停止肯定するスタンスを取る事で正気を保ってきた。

最近になって、ではそもそも意味」とは?「価値」とは?という意識的思考停止していた疑問が頭から離れなくなってきた。

意味のある人生を送りたい、それが価値のある生き方だ」という素朴で疑い得なかった感覚地盤としていたのに、そこまでもがニヒリズムに飲み込まれかけてしまっている。

道具は意味=目的を持って生まれる。その図式を無意識的に人間にも当てはめて考えていたが、では誰が意味を与えるのか。今までは自分意味見出していたが、結局それはあまりにも恣意的で、一度疑問が生まれたら簡単に揺らいでしまう。神様信仰する気持ちがよく分かる。

人はとかく納得を求め、それは不条理ものにも向けられる。だから世の中を単純化した陰謀論なんかが跋扈している。人生意味を求める事自体ナンセンスなのかもしれない。

凡庸ではあるが、神様などいなくとも他人自分意味保証してもらう、あるいは保証する、すなわち愛に囲まれていれば、この不安を覆い隠せるのかもしれない。

刹那的にその場その場の喜びを大切に拾い集め続けるのも悪くはないかもしれない。

そういった生き方をしている人間は、この手の悩みは凡人には手の余る、考えるだけ無駄ものだ。いつまでもナイーブさを引きずらず、あなたも早く折り合いをつけるべきだ、などと言うだろう。それは彼らにとって、また一般的に言っても間違いのない言葉なのだと思う。しかし、この不安もっと真摯に向き合う事が、理屈抜きでなぜだかとても大事な事に思えて仕方がない。

別にこんな事を四六時中考えている訳ではないし、目の前の生活もしなければならない。意識的に、ほどほどのところで抑えるようにしている。

それでも時々爆発しそうになる。なぜかこの答えが芸術自己表現にあるような気がしてならない。

ニーチェも大体こんなような事を考えていたらしいというのを最近知った。古今東西、陰気で自閉っぽい人間が考えることは似るらしい。

彼の考えが様々な思想フィクションに影響を与え、自分もまたその影響部分に強く惹きつけられ内面化した部分も大いにあるのだろうけれど。

ここまで書いて、もう一つ大切な事を思い出した。人間固有性に執着する。自分だけの自分らしさを追求する事は、理屈抜きで価値があると思える。

有り体に言えば特別人間になりたいという、思春期には誰だって思うことだ。大抵の人間はどこかで凡庸さを受け入れ、折り合いをつけて愛にでも生きるのだろう。

10代の頃、それがひどく陳腐生き方に思えた。その思いは今なお残っている。だからこそ、愛ではなく芸術に何かを感じているのだと思う。

自らの固有性を出力する事の意義と、表現活動でチヤホヤされたい、強い愛を得たいという気持ち混同しがちな所ではあるが、しかし前者は間違いなく存在するのではないかと思う。

  • 芸術を追及することは物理法則に愛してもらうことにすぎず 自己表現というのは他者に認知してもらい自己肯定感を得るためであり、これもまた愛してもらうことにすぎない 結局さまざ...

  • 人を好きになるってそれを覆すんだよな 期間限定の感情だけど あとは子供への愛だな 人によるけどこれは理由になる あとは研究とか創作活動とか ビジネスが生きがいの人の気持...

  • 意味あるものでありたいと思うその心に意味がある

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