はてなキーワード: 丘陵地とは
なのよ。
https://anond.hatelabo.jp/20241018154926
今の横浜駅の場所も関内駅の場所も水の底。M字ハゲだった頃の舛添要一みたいな地形で、野毛山や戸部の辺りが半島で突き出していて、その隣に二つの湾が剃り込みが入ったみたいにあったのだ。
みなとみらいや高島の辺りは近年の埋め立てで高くなっているが無視して欲しい。
というか、東京湾内の神奈川県は多摩川河口の三角州以外ほぼ全域が、崖がストンと海に落ちる地形だった。これはリアス海岸のような沈降海岸の特徴でもある。
さて、そんな中に山下公園に接した、地下鉄の元町中華街駅~日本大通り駅がある一帯が棒状に少し高くなっていて水に沈んで居ない事に気が付くだろう。更にその根元は外人墓地がある山手の丘の方から生えるようになっている。
これは砂州なんである。南の方から沿岸流が漂砂を持ってきて、湾状になっているので山手の崖海岸を延長するように砂州が伸びて来ていた。天橋立とかサロマ湖と同じだ。
この横浜砂州があるのでその内側はラグーンになっていて貝とかが獲れる。また周囲は崖海岸ばかりで船を係留するのに便利なのは横浜砂州しかない。
さてこの湾はラグーンで全域水深が浅いし、横浜が入口を塞いでいる。この横浜って締切堤防に最適じゃね?
って事で江戸幕府は江戸の商人の吉田さんにここの干拓事業の承認を出す。横浜を延長してガッツリ閉鎖、土砂で埋め立てた。この辺はタウンニュースが書いてるので興味のある人はタウンニュースへ。
https://www.townnews.co.jp/0113/2017/01/01/363616.html
リンク先大まかな地図もあって、「横浜」も見える。横浜の先端付近が馬車道駅の辺りだ。
ペリーの黒船がやってきて幕府に門戸開放を迫ったわけだ。幕府はイヤだったが大砲とデカい動力軍艦で脅かされては何も言えない。
そこで江戸に近すぎると困るので距離が随分と離れて交通も不便だが不便すぎないという場所を探していた。そこで白羽の矢が立ったのが横浜ってわけ。
今の大桟橋の途中にある「象の鼻」はこの幕府が作った横浜港の防波堤だったものだ。
横浜の名の由縁はこれで終わりだが、横浜駅と横浜村が大きくずれてる説明が必要だ。だからもうちょい書く。
幕府は倒れ明治政府は汐留と横浜の間に鉄道を敷くことになった。
さてここで問題になるのが、野毛山を挟んでもう一方の剃り込みだ。
話は前後するが、高島町駅から浅間神社を結ぶ、県道13号より南側は幕末にすでに干拓されていた。
https://maps.app.goo.gl/nuiDnwfHNRUhaT2cA
平沼さんが3代に亘って工事をやった平沼新田、岡野さんが2代でやった岡野新田などがあり地名として残っている。
すると陸地を通ると神奈川宿(京急神奈川駅付近)→浅間神社→高島町という迂回ルートになってしまう。
そこで、神奈川宿から高島町に掛けて海の中に土手を通してそこに線路を敷くという思い切ったコースにした。
こうして嘗ての寒村だった横浜村には鉄道が来て倉庫街や歓楽街、官庁街、商社街や異人街が出来て異人さんが闊歩するハイカラな街となったのでありました。
さて官製鉄道は神戸まで延長される事になったのだが、ここで厄介なのは横浜駅(現桜木町)の存在だ。横浜駅から延長すると遠回りになるし港南区の丘陵地帯を突っ切る必要が出てトンネル必須になってしまう。
だから本線は神奈川駅から保土谷に直行して、横浜駅は盲腸線扱いにした。でも大事な駅なので通過はできず、一度横浜に行ってから機関車を付け替えて神奈川に戻り、再度機関車付け替えで神戸へ、という運転をしていた。
クソめんどくせえ。
客もめんどくさいが貨物は更に、で運転系統がややこしいので横浜駅に貨物が溜まりまくってしまい、神戸から送った荷物や郵便の汐留着が1ヶ月以上先、とかがザラになってしまった。
これに陸軍はぶちギレ。鉄道省に文句を言ったが改善しない。しかも当時の役人は元武家ばかりなのでメンツに拘り軍といえども罵倒なんてしたらエライことになる。
なので陸軍の持ち出しで保土谷→高島→横浜という線路を敷いて軍の貨物は優先で動かせるようにした。
鉄道省も横浜駅の扱いの厄介さと滞貨には頭が痛かったので、盲腸線方式を辞める事にした。最初の線路の東側に線路を新設し、陸軍が敷いた線路に繋げる。で、その繋げた辺りに横浜駅を移転、元の横浜駅は桜木町と改称した。
しかし見れば判るが港にも繁華街、ビジネス街からも遠くて不便で、かなりの不評だった。
そこで三度目の正直で、どうせ不便なら分岐点の方がいいだろという事で、今の場所に横浜駅を移転したのだった。2代目の駅は基礎だけが残っていて、マンションの公開空地として公開されている。
https://maps.app.goo.gl/ZCBUxiAJ9RwfSxvw5
3代目駅はもう最近まで海の上だったところで、全く何もないとんでもない場所で今で言う秘境駅だったが、今までと違うのは、帝都の震災復興と開発計画が付随していた事だ。
市電が来て新しく開通する東横線、京浜急行と東海道線が立体交差する様に建設されていた。ただ、駅の西側に残っていた水面の埋立地は戦後米軍に摂取されてしまった。
しかし高度経済成長期に摂取解除されると商業ビルが一気に立ち並び、それで横浜=現横浜駅付近と認識されるようになったのであった。
因みに駅西側に残った水面は平沼と呼ばれていた。平沼という地名が近くにあるので誤認されたものだ。元は平沼さん埋め立てしたところが平沼なので間違いなのだが、国が発行する地図にも平沼と書かれていた。
と、こういう経緯。
横向きの砂州の横浜→埋立てで砂州は消滅→横浜開港→鉄道→横浜駅の場所が邪魔→素寒貧な海辺に移転→駅前が米軍接収解除で繁栄→今はそこが横浜という流れ。
私の故郷は、海抜六〇〇メートルの丘陵地に佇む半農半漁の村で、後方は形のよい峯が三つ並び、前方には大きな入江があって多島海に伸び、子供の頃は、その入江で魚つりに興じました。
竹の棒に糸を張った粗末な釣具で、餌もミミズでしたが、満潮の時などは入れたら釣れ、入れたら釣れで、一時間もすれば小鯛などバケツいっぱいになりました。
腹が立つのはフグで、五回に一度はかかり、フグに毒があることは子供にも分かることでしたから、腹立ちまぎれにフグの白い腹を石にこすりつけるとみるみる大きくなり、このガキッとばかりに思い切り石に叩きつけと、パーンという音がして腹が裂け、溜飲を下げました。
私は五人兄弟の次男として畑仕事や魚釣りに勤しんでいましたが、田舎の貧しい暮らしから豊かな生活を夢見て、一足先に日本へ行った八歳年上の兄祥雨を追いかけて◇◇へ来ました。
その時十七歳で、一九三九年でした。兄は布施(東◇◇市)でセルロイド工場を経営し、腕輪やクシを作っていました。
その兄の元へ身を寄せ、普通学校四年を卒業したものの、価値ある社会活動をしていくためにはさらに学が必要だと感じ、向学心に燃えて◇◇・東成区の夜間学校(◇◇商工実務学校)へ通うことにしました。
工場住込の私の仕事はまず、朝五時に起きて無煙炭をおこし、六時半に出勤する職人さんの仕事に間に合うように湯を湧かしておくことでした。
そして、仕事が終わるのは夕方の六時。急いで自転車を走らせ学校へ行き、帰りは一〇時で、それから夕食をとり、深夜の一時過ぎ、二時過ぎまで勉強して、寝るのが連日三、四時間でした。
その死にものぐるいの努力が効を奏して、成績はトップとなり、幸か不幸か、級長をやらされました。
戦時中でしたから、訓練ばかりで、「前へ進め」「全体とまれ」と号令をかけるのが級長の役目でした。
ところが、私は強度の「どもり」でしたから、その号令の文句がなかなか言えず、落ち込んでしまって、《死んでしまおう》と何度線路に寝込んだかわかりません。
星の光が目に入るたびに、《ちょっと待て、死ぬんだったら、もういっぺん努力してみよう》という気持になり、「どもり」の矯正学校を五つも修了して、死ぬほどの努力を重ね、矯正しました。
こうして、《ヤレバデキル、ダメナコトハナイ・・・》の信念を貫いて苦節の日々を克服したことが、大きな自信となりました。
終戦後の一九四八年のことですが、体を悪くして、マイシンの注射を打ったところ、耳に障害が発生し、聞こえなくなってしまいました。
これまた、苦節の日々で、断食をしたり、いろんなことをやってみましたが、完治するまでには至らず、補聴器の世話になる毎日となりました。
ところで、戦争は激しくなり、私も協和会の勤労報国隊に徴用されて、九州の炭坑で二ヶ月ほど働かされました。
石炭を掘って出てきたら顔は真っ黒で、目が辛うじて見え、つらい日々でした。
そうこうするうちに戦争が終わり、兄はそのまま日本に残りましたが、私は里心がついて故郷へ帰りました。
日本兵が釜山の港からどんどん引き揚げて行くさなか、私も小さな船で玄界灘の荒波を掻き分け、決死の覚悟で日本へ戻ってきました。
一九四八年に兄と、資本金二〇万円の◇◇グリップ化工株式会社を設立し、自転車のハンドルグリップをセルロイドで製造し、販売しました。
以来、資材をセルロイドからプラスチックに変え、◆◆◆グリップの普及に努力しました。
その途上、兄を交通事故で失い、私が会社を引き継ぐことになりましたが、中小企業信用保証協会や育成協会からの資金融資は韓国人業者としては第一号だと思います。
一九九〇年に◇◇グリップ化工から◆◆◆技研に社名を変え、現在では日本全国の占有率九〇パーセントを獲得し、一億人以上の人に◆◆◆グリップを握ってもらっています。
私は、金属、木材等で作られている従来の物をプラスチックに代えて作るという物づくりを企業の基本理念の一つにしてきましたから、事業の発展に伴い、グリップの他にも車輪、カゴ、チェインケース、泥除け等、タイヤ以外のものは全てプラスチック化し、その間の特許も数百にのぼって、◆◆◆製品は世界のブランドとなりました。《継続は力なり》の精神で、より精度の高い関連商品の開発に努めています。
一九六〇年頃、日本と韓国との間にはまだ国交はなく公式には往来できない時で、金融機関の祖国産業視察団の一員として、初めて祖国を訪問しました。
懐かしい山河の景色、幼なじみの顔、感激の涙に浸るばかりでした。
その感激もさめやらぬ時、町から一キロも離れていず、一六〇戸もあるわが懐かしい村には電気も水道設備もないことに気づき、昔と変わらぬ貧しい古い部落がそこにありました。
《故郷のために何かしてやりたい》という衝動にかられ、その後、回を重ねて訪問する毎に藁葺きの集会所を二階建の近代的な建物にして
事務所や老人らの憩いの場に使用できるようにし、また、電気架設の資金協力や子供たちの遊び場等も寄贈し、植木やスピーカー等も添えて故郷の人の心を癒やすことに努めました。
人間は誰しも食うがため、生活するがために働き、事業するものだと思いますが、私もご多分に漏れず世間並みの生活を夢見て渡日し、口では言えない苦労と努力を重ね、一応の目的は達したと、自分を顧みています。
これまで、通産大臣や府知事、税務署長などの表彰を受け、韓国政府からも国民勲章冬柏章を受章しましたが、私の企業活動に対� =キる評価だと喜んでいます。
現在、◆◆◆ー技研のグループ企業として◆◆◆販売と韓国◆◆◆があり、◆◆◆技研は私の長男に任せています。
◆◆◆販売は兄の息子が取りしきり、ヘルメットを中心としたオートバイ・スポーツ用品を製造販売し、韓国◆◆◆は弟の息子が社長を務め、スキー・水泳用品を主力としたスポーツ製品を製造・販売し、輸出による外貨を稼いで祖国の経済発展に寄与しています。最近は中国青島にも進出し、六〇〇人ほど雇用しています。
兄の処世訓は《まず、自分自身が立派になり、次に家族の支えなり、その次に身近な社会に貢献する》ということでした。
私は、兄の遺志も引き継いで、家族会を設け、年一回会合を開いて、十親等以内の全学徒に、成績に応じて奨学金を支給しています。
その家族会の会長は私ですが、弟の息子がすべて代行してやってくれています。
いわば、祖国故郷で私の夢を実現してくれる代理人のような存在です。後は、全家門の子孫たちが末永く仲良くしてくれればいいと願うばかりです。
振りかえってみれば、私の人生は苦しいことのみの連続で、喜びや楽しみというものがあっただろうかと思う時がありますが、◆◆◆販売の新社屋落成式(一九八四年)に、私が挨拶をし、息子夫婦、兄の子供夫婦、韓国の甥夫婦を紹介し、その三人を後継者として披露しました。
三人はそれぞれに立派に成長してくれ、私の夢を実現してくれる後継者になってくれたことが人生最大の喜びです。それに子孫たちが、私の喜寿(七十七歳)をニューオオタニホテルで祝ってくれたことも忘れられない喜びです。
外孫まで入れると四十五、六人になりますが、アメリカに行っている七、八人の子孫たちもその日(一九九八年九月一八日)にはみな帰っ� =トきて祝ってくれました。
私たち韓国人は、税金も人一倍納め、社会に貢献しているにもかかわらず、後ろ指をさされる傾向が強いのですが、人間というものは生存競争のなかにあってライバル意識を持ち、自分より事業を大きくやっていたり変わったことを大きくやっていたりすると、ねたみの心が出てきて、あらぬ中傷に走るのではないでしょうか。
私たち韓国人の側にも虐げられたひがみ根性というものが抜けきれないのではないかと思いますが、真面目に生き、社会に貢献していくことが肝心で、価値ある社会人になるためには自分自身が努力し、そのためには人の話を聞くことです。
何か疑問を感じたら、聞くのが一番の近道で、その疑問を解いてくれる人が見つかるまで聞きつづけたらいいのではないでしょうか。聞くことにお金はかかりませんし、それが私の処世訓の一つです。
前 https://anond.hatelabo.jp/20231231221402
そこまで希少な体験をしたつもりはないが、この時はまだ20代後半である。感受性は高かったはずだ。
F君が福祉課3年目の頃だった。人事異動で職員が何人も代わって、施設グループ内でも経験年数が長くなっていた。彼より長いのは、最初の方で述べた性格がキツイ女性のみだった。やはり性格がねじ曲がっていた。例えばF君が職場にあるコードレス電話にかかってきたのを取って、♀宛てに子機を渡そうとすると、手先を拒否的に振って嫌がっていた。
そうなると、F君は「仕方がない」という顔をして、相手方に電話を折り返す約束をして♀に電話メモを渡したりしてた。日本人だから、『穢れ』というやつを気にしていたのだろう。
この頃になると、F君も♀とだいぶ口論できるようになっていた。1年目の頃は、反論できなくなると、のらりくらりと躱したり、ハラスメント発言が出ると「待ってました!!」とばかりに悪態をついたり、後は会話を普通にスルーしていた。
この頃は、例えば……♀がキレて、「もう私に聞いてくるのやめにしたら? 必要なことでも今後はお前には教えん」みたいなことを言ったとする。そしたら、F君は「いいえ。相談に行きますので、その都度断ってください」と返した。
するとまた「もう来るなって言ったのわからへん?」となって、さらにF君は「その都度行きます。私の相談に答えるのは職員としての義務ですが、その義務を果たさない自由もありますから」と言ってた。メモに取ってるから間違いない。
うまいというか、ズルいというか。職場の慣習やルールと、自分と相手の課題というか、そういうのを見極めていたと思う。それで、♀はまたキレてしまって、「来るな!!」「いや行きます」の水掛け論になった。
♀「嘘つくな」
F「やっています」
♀「マジメにやってるように見えない。仕事はマジメにやらないといけないよね?」
♀「なぜ?」
♀「じゃー答えろや」
F「答えません。それは私が決めます」
♀「……お前をフォローする側にもなれや。お前の後輩が働かんかったらどうする?」
※♀側の意見。F君は仕事そのものはちゃんとやっていた。はず。
F「その状態でも一応は認めます。市民の利益に関することはフォローします」
♀「認めるなや、そんな屑」
F「ところで、仕事というのはマジメにやらないといけないんですか?」
♀「どういうこと?」
F「仕事ができなくても、別に死ぬわけでもないでしょう。北朝鮮やロシアだったら死ぬかもしれませんが。あと、その人が仕事をしなくても世の中は普通に回りますよね。仕事のクオリティが低かったら文句を言われるでしょうが、時間が経てば、世の中の評価基準がクオリティが低い方にスライドしていきます……それで仕舞いです。恐縮ですけど、労働者は仕事をマジメにこなさなくてはならない……まず、そういう基本的な思考から疑わないといけないのでは?」
♀「職務専念義務って知ってるよね。さすがのあなたでも。公務員って、身を粉にして働かないといけないって地方自治法に書いてあるよね。民間とは違うの」
F「そんなの壮大な建て前でしょ。第一、それって特別権力関係の理論(※)ですよね。すでに否定されています。公務員はサラリーマンの一種であり、自治体と雇用契約を結んでいる。その雇用契約の上に公法契約が乗っかってる。それが答えです」
※特別権力関係・・・昔は、一般職の公務員は会社員とは法的に異なる存在だったらしい(法治主義の原理の適用が排除されるべき存在)。今だと、行政法的には公務員は民間の会社員の仲間という扱いになってる。
「いいえ、仕事はちゃんとします。ただ、この世界には……仕事よりも大事なことだってたくさんあると思うんです」
♀「この、あっほっがあああぁっ!!!!」
F「ありがとうございます。自分の存在が肯定されている気分です」
空気感としては、F君は別にここまでひどいことを思ってるわけじゃない。けど、♀の叱責のやり方があまりに侮辱的で、彼は頭にきてるみたいな、そんな空気だった。
そして、またあの時みたいに、グループリーダーが「お前ら、うるさい!」と♀に怒鳴ったのだ……。その時だった、♀が急に過呼吸を起こしたみたいになって、その場に倒れ込んだ。苦しそうにもがいていて、F君も俺も、ほかの職員も駆け寄った。立ち上がることも難しい様子だった。
その場で救急車を呼ぼうと思ったが、「落ち着くまで待とう」というのが福祉課長やグループリーダーの判断だった。
一応はF君をフォローしておくが、彼は上のやり取りのような考え方は採用してない。断固として言える。普段の仕事振りを見てたらわかる。あくまで、経済社会におけるひとつの考え方(ひろゆきが番組で喋ってるみたいな……)に過ぎない。それが、彼も頭にきてたんだろうな……つい、ポロっと口に出てしまったのだ。
♀による日頃からの口撃に腹を据えかねていたのではないか。だから、悪態をつくみたいにして、相手の大事にしてそうな考えを、スズメハチの針でプチッと刺すみたいなことをしたんじゃないか。俺はそう思ってる。
こんなことを考えて彼に同意してる時点で、俺も公務員には向いてなかったのかもしれない。
それから約一年後になるが、その先輩女性は左遷された。2010年代が終わる頃で、世の中の動きはハラスメント撲滅に傾いていた。はてなブログとかでも、そういう方向性の記事がランキングに上がることがあった。
結局、勤務中に差別的な発言すらしていた♀は、上下水道局に異動になった。あそこは基本的に男しかいない。男性職員ばかり40人だったっけ? とにかく女性がいない部署だった。
こういうのは、人事からのメッセージのひとつだ。「あなたは間違ったことをした」というのと「嫌だったら辞めていい。むしろ辞めていただきたい」という二種類の。
ほかにも、辞めてほしい職員にはそういう人事異動を行う。1年単位での部署異動とか、逆に掃きだめみたいなキツイ部署に10年単位で張り付けなど、とにかくいろいろだ。介護家族がいる職員への遠隔地出向などもある。査定の低い職員は、60才になる年に再任用の届け出を出しても当局側から拒否される。
ただ、あの♀については可哀そうだった面もあるよ。体質的に感覚過敏とか、神経過敏みたいな症状があったのかもしれない。病気とかやってたのかもな。ストレスが溜まってたんだろう。
俺だって30代半ばだ。気持ちはわかる。けど、俺は勤務中にああいう発言をする職員はやはり許せない。青臭い考えかもしれないが。
この頃になると、F君はそこまで悪質な人間ではないのでは? という考えが生まれていた。職員に対して態度が悪いところはあるが、企業や団体を含めた市民の方を向いて仕事をしていたし、結果も出ていた。
《エピソード①》
まず例としては……この頃、大きな会議があって都内まで行ったことがあって、その帰りにF君と一緒に電車に乗っていた。で、都内ってやっぱりさ、半グレみたいのが多いじゃん。どこの市区かは地域差別につながるから伏せるけど。
その車両では、3人ほどの半グレみたいな連中が座席で大騒ぎしていた。酒を飲んでいた。アル中カラカラみたいにして。あれは新幹線で飲んでるからいいのだが、これは普通列車だ。
あまりにうるさいから、ほかに乗っていた主に高校生らもビビっていた。それで、半グレどもの1人が、「やってやるからな!」と大声を出したあたりで、F君が立ち上がって――別の車両の方に歩いて行った。
その途中で、目配せをしたんだよな。高校生らに。「この車両、離れろ」って感じで。で、女の子の方から前の車両に移っていった。いやあ、あれには参ったね。たまにはいいことするんだなって思った。俺には思いつかなかった。
半グレ風の男の1人は、気が付いたみたいだった。席を立つと、F君に近づいていって睨みつけた(さっき叫んでいた奴だ)。F君に視線を向けて、何十秒かバチバチとやりあった後で、元の席に帰って行った。途中、俺達が座っていた座席に痰唾を吐き出した。それも2回。
その後は俺達も前の車両に移った。それから何もなかった。無事に庁舎に帰ることができてよかった。
《エピソード②》
あとは、高齢者に優しい。公務中に、道端とかで爺さん婆さんに話しかけられることがあったんだが、F君はきちんと対応していたよ。ちょっと話して去るとかじゃなく、じっくり話を聞いてた。五分以上になることもあったかな。親切丁寧だった。ほかの職員にもあれくらい丁寧に接してほしい。
年配とまではいかないが、俺が休日出勤で警備員詰め所の前まで来た時、副市長とF君が一緒にいるのを見た。あの知性の鬼で知られる副市長が、F君と和やかな感じで雑談してたんだ。副市長がカードキー探してるところに、サッと自分のを差し入れて扉を開けてた。それで、「副市長、今日も休日出勤なんすねwwwwww」みたいにふざけてた。
《エピソード③》
あとは、なんだったかな。福祉事務所の仕事で、虐待を受けてる可能性がある市民を保護施設に連れていく仕事があった。暴力沙汰になっても大丈夫なように、若い職員が中心になって家にお邪魔する――虐待者がいない時間帯を見計らって。今回は午前中だった。
古風な家屋だった。半分空き家レベルの。職員数人でお宅の呼び鈴を鳴らすと、ちょっと事情ありげな(詳細は書かぬ...)お爺さんが出てきて、ああ、この人だなと思った。女性職員がお爺さんに説明を始めて、それではさあ保護施設へ……となったところで、虐待者と思しき人が乗った乗用車がこの住宅に帰って来るのが遠目に見えた。この丘陵地帯には家が数件しかなかった。
「まずい」と思った。こういうのは本来、うちの総務グループの仕事ではないから、自分は虐待者と直接対応した経験はない。どうしようかと焦っていたら、F君がその乗用車の方に向かって行った。俺達の視界から消える時に「行け!」とジェスチャーした。
お爺さんを公用車に乗せて、無事に門扉を出た後、F君の姿が見えてくると……虐待者を呼び止めて、どこかに行ってた。おそらく何かコミュニケーションを取って、それとない理由でどこかに案内を求めたのだと思う。グッジョブだった。
これはあれだよ、クソ度胸というやつだ。見つかってたら大変だった。前任者によると、運が悪いと連れ去り事案で警察に通報されるらしい。お巡りさんも事情を話せばわかってくれるが、当然ながら福祉課に対して「もっとうまくやりなよ……」という警察からの指導がある。
昼休みが終わって、F君が福祉課に帰ってきた。徒歩だった。「大丈夫だったか?」とグループリーダーが聞くと、「問題なしです」と言ってた。F君が席に座ろうとする時、胸襟のところを見るとネクタイや胸ボタンがダメージを受けていた。
ここまで書いてて気が付いたが、おそらく俺は憧れの感情を抱いていたのだ。F君に対して。
F君は自由だった。俺はといえば、上司や先輩の顔色をうかがってばかりで、いつもへコヘコして、自分の仕事を肯定するために法律文や引継書類を探してた。承認欲求も満たされてなくて、週に一度は後輩(特に女性)や臨時職員にマウントを取ったりして、そんなのばかりだった。
今思えば情けないが、これが普通の20代の男なのかもしれない。商人欲求に飢えている。今思えば、俺も弱者男性のひとりだったよ。だって、弱いじゃん。当時の俺は。今もそうかもしれないけど。ここまで読んだあなたも、そう思っただろ。
でもF君は、いつも堂々としてたし、良くも悪くも人の顔色をうかがわないし、法律や引継資料よりも自分のロジックが主体で勝負してたし、後輩の女の子や臨時職員にマウント取ってるのを見たことがない。
俺は自由じゃなかった。それは、俺にとって一番ほしいものだった。でもF君は、全部じゃないけど、そういうのを持ってた。俺と同い年なのに。そういうのが歯がゆかった。
平等から階層へ、男女平等から著しい男女不平等への転換は、一般に農業と関連しており、このことはグレーバーとウェングローにかなりの問題を突きつけている。彼らは選択に関心があるため、唯物論的な議論を避けたり、環境が人々の選択を条件づけ、制限する方法について考察したりすることに固執しているようだ。
農業は、約1万2千年前から世界の多くの場所で独自に発明された。狩猟採集民は食料を共有し、持てる以上のものを所有することはできなかった。しかし農民たちは定住し、畑や作物に投資するようになった。そのため、一部の人々が自分の取り分以上の食料を手にする可能性が生まれた。
やがて、凶悪犯やいじめっ子の集団が集まって領主になることもあった。窃盗や略奪、家賃、小作料、労働力の雇用、税金、貢納、什分の一など、さまざまな方法でこれを行った。どのような形であれ、このような階級的不平等は常に組織的暴力に依存していた。そしてこれこそが、ごく最近まで階級闘争が対象としてきたものなのだ。
農民は狩猟民族にはない弱者だった。彼らは自分の土地、畑を開墾し灌漑するために費やした労働、そして作物の貯蔵に縛られていた。狩猟採集民は離れることができた。農民はそうではなかった。
しかし、グレイバーとウェングローは、農民が余剰を生産し、蓄えることができたからこそ、階級社会、搾取、国家、そして偶然にもジェンダーによる不平等が可能になったのだという、この物語に立ち向かった。
2012年、考古学者のケント・フラナリーとジョイス・マーカスは『不平等の創造』という素晴らしい本を出版した。彼らは、世界のさまざまな地域で農業がどのように不平等をもたらしたかをたどっている。
しかし彼らは、その関連性は自動的に生じたものではないと主張する。農業は階級を可能にしたが、多くの農民は平等主義の社会で暮らしていた。農業の発明と階級の発明の間のギャップは、数世紀単位で測られる場所もあれば、数千年単位で測られる場所もある。
フラナリーとマーカスはまた、地元の凶悪犯や領主が権力を掌握しても、後に打倒されることが多いことを、注意深い実例を通して示している。多くの町や都市では、エリートが考古学的記録に現れ、その後何十年も姿を消し、また現れる。事実上、階級闘争は決して止まらないのである[5]。
ジェームズ・C・スコットフラナリーとマーカスの壮大な比較研究は、人類学を根本的に変えた1954年のエドモンド・リーチの著書『ビルマ高地の政治制度』や、アナーキスト政治学者であり人類学者でもあるジェームズ・C・スコットの研究において先取りされていた。[2009年、スコットは『統治されない技術』(An Anarchist History of Upland Southeast Asia)を出版した。同書は数世紀にわたる東南アジア全域を対象としている。
スコットは、平原の王国の稲作農民の多くが丘陵地帯に逃亡したことに関心を寄せている。彼らはそこで、「焼畑」移動耕作者の新たな民族集団として再出発した。彼らの中には、より小さな階級社会を作り上げた者もいれば、階級を持たずに生活した者もいた。そのすべてが、下の王国や国家からの絶え間ない奴隷化や軍事的襲撃に抵抗しなければならなかった。
ある意味では、グレイバーとウェングローはリーチ、スコット、フラナリー、マーカスの仕事を土台にしている。ウェングローは結局のところ、フラナリーとマーカスが要約している考古学の変化の一端を担っている。そして『万物の黎明』には、スコットの影響が随所に見られる。
しかし、グレイバーとウェングローは、一方では技術や環境と、他方では経済的・政治的変化との間にある、他の著者たちの結びつきを好まない。
フラナリー、マーカス、スコットの3人は、テクノロジーや環境が変化を決定するのではない、と注意深く述べている。それらは変化を可能にする。同様に、穀物農業の発明が自動的に階級格差や国家をもたらしたわけではない。しかし、それがそうした変化を可能にしたのである。
階級関係と階級闘争技術と環境の変化は、階級闘争の舞台を設定した。そして、その階級闘争の結果が、平等と不平等のどちらが勝利するかを決定した。グレーバーとウェングローはこの重要な点を無視している。その代わりに、彼らは常に、そのような変化を即座に必然的なものとする段階論の粗雑な形式を問題にしている。
この生態学的思考に対するアレルギーが、彼らが人類の進化に関する新しい文献を扱おうとしない背景の一つであろう。
これらの文献はすべて、人類となった動物たちが、自分たちの住む環境、自分たちの身体、競合する捕食者、自分たちが発明できる技術、生計を立てる方法に対して、どのように社会的適応を築いたかを理解しようとするものである。偶然にも、彼らはその生態系と状況に対処するために平等主義的な社会を築いた。それは必然的な結果ではなかった。しかし、それは適応だったのだ。
一方、グレーバーとウェングローは唯物論者ではない。彼らにとって、生態系や技術について考えることは、彼らが望む選択や革命を不可能にする恐れがある。例えば、古代メソポタミアに関するスコットの本が、特に穀物農業が不平等をもたらした物質的な理由を強調しているため、彼らが満足していないのはこのためである。
これは些細な問題ではない。私たちが今直面している気候危機は、人類が新しい技術と新しい環境に適応するために、社会をどのように変えていくかという問題を浮き彫りにしている。平等や人類存続のための政治は、今や深遠なまでに唯物論的でなければならない。
グレーバーとウェングローが環境や人間存在の物質的基盤にほとんど関心がないことは、これまで見てきたとおりである。
同じように、彼らは階級という概念や、階級関係や階級闘争についての議論をほとんど宗教的に避けている。グレーバーは確かに、そしておそらくウェングローも、階級関係と階級闘争について理解している。彼らは、階級が何をするのか、そして実際、自分がどの階級の人間なのかを知っているが、階級関係を社会変革の原動力として扱うことはできないし、また扱おうともしない。
これと同様に目を引くのは、グレーバーとウェングローがジェンダーの社会的構築に対して関心を示さないことである。彼らはミノア・クレタ島における母系制のほぼバコフェンを再現する一方で、女性は養育者であり、男性はいじめっ子であるという家父長制的なステレオタイプを散見する。
不平等は常に私たちとともにあったというのが彼らの主張であるため、グレーバーとウェングローは、人類の性別による不平等の起源についてほとんど何も語っていない。
男女関係の進化については、基本的に3つの学派がある。まず、進化心理学者たちであるが、彼らの主張は非常に保守的である。ジャレド・ダイアモンド、ナポレオン・シャグノン、スティーブン・ピンカーは、不平等、暴力、競争は人間の本性の基本であると主張する。彼らは、男性は進化によって他の男性と競争するようにプログラムされているため、強い者が女性を支配し、より多くの子どもをもうけることができるからだと言う。これは残念なことであり、幸いにも西洋文明はそのような原始的な感情を部分的に手なずけてきたとピンカーは言う。
偉大な生物学者であり、トランス活動家であるジョーン・ラフガーデンは、こうした考えを『薄く偽装されたレイプ物語』と正しく表現している。このような議論は実に忌まわしいものであり、そのためだけにグレーバーやウェングローが否定したのは間違いない。
非常に長い間、フェミニスト人類学者の間では、第二の学派の考え方が支配的であった。この学派もまた、女性と男性の間の差異を本質化し、女性と男性の間に何らかの不平等があることをあらゆる社会で当然のこととして受け入れていた。
私たちが支持するのは第3の選択肢である。歴史学、人類学、考古学の記録に顕著な特徴がある。人々が経済的、政治的に平等な社会で暮らしていたほとんどの場合、女性と男性も平等であった。また、経済的に不平等な階級社会が存在したところでは、そこでも男性が女性を支配していた。
私たちにつきまとう疑問はこうだ:なぜなのか?
グレーバーとウェングローはこの問いに取り組んでいない。彼らは性差別について何の説明もしないし、男女関係がどのように、あるいはなぜ変化するのかにも関心がない。しかし、彼らは性差別主義者ではない。彼らは何度も女性抑圧の事例に触れているが、それは一過性のものである。彼らの関心事の中心にはないのだ。だから、私たちには印象的な一致に見えるが、彼らにとっては蜃気楼なのだ。
グレイバーとウェングローの説明の重要な部分は、農耕と階級的不平等、そして国家の出現との関連を軽視しようとする決意のもと、階級的不平等や戦争、さらには奴隷制さえも存在した狩猟採集民のグループに焦点を当てている。考古学者は彼らを「複合狩猟採集民」あるいは「複合採集民」と呼んでいる。
グレバーとウェングローは、先史時代の人々が無国籍で平等主義的であったか、暴力的で不平等であったかのどちらかであったという証拠として、これらの人々を取り上げている。それは証拠が示すところとは違う。[7]
典型的な例は、フランツ・ボースによって研究されたクワキウトル族と、カナダの西海岸、コロンビア川とフレイザー川の近隣の人々である。この川と海岸では、莫大な数のサケが遡上していた。限られた数の隘路や漁場を支配する者は、莫大な余剰を蓄えることができた。コロンビア川のギャレスがその一例だ。少人数で10万ポンドのサケを獲ることができた日もあった。
それは例外的なことだった。場所によって差はあった。しかし、沿岸部や河川全域にわたって、サケの資源が豊富であればあるほど、考古学や文献記録には階級間の不平等が表れている。富の不平等はしばしば極端であった。また、これらの人々は複雑な軍事技術を持っており、大勢の戦士を乗せ、数人で何カ月もかけて作るような大きなカヌーを使っていた。
事実上、農民が田畑に囚われていたように、これらの人々は漁場に囚われていた。そして農民と同じように、サケ漁師たちにとって貯蔵は不可欠だった。考古学上の記録を遥かに遡ると、彼らの骨や歯を調べると、年間の食生活の40%から60%がサケからもたらされていたことがわかる。サケは数週間しか獲れないので、その食生活の大半は乾燥サケによるものだったに違いない。
農民と同じように、環境的制約と新技術が階級社会の可能性を開いていたのだ。こうした過程は、『万物の黎明』にはまったく見られない。そのかわりに、50年前の学部生がクワキウトル族について語った、浪費的で貪欲なポトラッチの饗宴の民という、お決まりの説明がなされている。この説明は、その後の膨大な研究成果を無視している。
天然痘と梅毒で人口の6分の5を失い、金鉱探鉱者によって征服され、そして蹂躙され、最終的にはカナダ政府によってポトラッチの宴が禁止された人々の中で、あの無秩序な宴は、権力にしがみつこうと必死だった支配階級によって管理された伝統的な生活の祭典であったことが、今ではわかっている。深い物質的な悲劇が、非合理的な茶番劇として語られている[8]。
西海岸の漁民だけが「複雑な採集者」だったわけではない。世界中には他にも例がある。しかし、それがいかに少ないかは注目に値する。さらに考古学者たちは、現在より7,000年前より古いものはひとつも見つかっておらず、14,000年前より前に戦争があった証拠もない。
複雑な採集民の数が少なく、その起源が新しいのは、技術の問題かもしれない。確かに、カリフォルニア沿岸のチュマシュ族が不平等と戦争を発展させたのは、紀元600年以前に大型の外洋用板カヌーの建造を習得してからである。
彼らは「複合型採集民」の第三の例として、フロリダ南部のカルーサ族を選んでいる。ある意味では、これらもまた、支配的な首長、戦士、階級格差、奴隷制度、高価な戦争用カヌー、海の哺乳類、ワニ、大型魚の漁業に依存する漁民であった。
グレーバーとウェングローは、カルサ人を「非農耕民族」と表現している。しかし、彼らが認めているように、カルサの漁民はもっと大きな政治の中で支配的なグループであった。他のすべての集団は農耕民であり、カルサ人の支配者に大量の食料、金、奴隷にされたヨーロッパ人やアフリカ人の捕虜を貢納していた。その食料によって、カルサ族のエリートたち、そして300人のフルタイムの戦士たちは働かずに生活することができた[10]。
国立〜三鷹が似てるって言うけど、わりと個性があるんじゃないかな。生まれ育った身近な環境だからこそ見えないものがあるのかな。まあ確かに武蔵小金井/東小金井/武蔵境は駅名も駅付近の雰囲気も似てるかもしれん。駅名はともかく、雰囲気が似てしまうのはディベロッパーのビジョンの無さが悪いと思うわ。
国立は一橋大のある学園都市で、かつ多摩地区屈指の高級住宅街でもある。ただ、線路沿いを歩くとわからないかもしれない。線路から少し離れると豪邸がたくさんあって高級車が並んでる。
国立駅前には大正時代に建てられた貴重な木造駅舎が修復されて復元されている。市の予算でやったらしい。誰でも無料で入ることができて、人々が休んだり待ち合わせしたりしてる。原宿駅は復元しないのかな。渋谷区民はどう思ってるんだう。
国立駅から西国分寺駅方面に向かう線路沿いにも、沖本亭という昭和初期に建てられた屋敷が現存している。最近カフェとして営業しているので、建築に興味がある人はぜひ行くといいと思う。
久保田早紀さんの異邦人という歌は国立駅前の光景を歌っている。増田は全く世代ではないけど、今聴いても色褪せない不思議な歌だと思う。あそこでうたわれてるような憩いの光景がずっと残るといいなと思う。
国立駅の北側は南側みたいにデザインされた街ではないけど、鉄道総研があって、新幹線ひかりが開発された街として有名。それにちなんで街の名前を光町に変えたらしい。0系後継の試作として作られた951形が展示されてる。あとその近所にラーショがあるんだけど、ラーショの中では一番美味いと個人的には思う。
国立駅と西国分寺駅の間には、武蔵野線支線の出入り口がある。運がいいと貨物列車が地下に潜っていくところを見ることができる。鉄道輸送の意外な要所。貨物列車には一般人は乗れないが、国立駅からむさしの号というやつに乗ればこの地下には潜ることができる。ちなみに増田は甲種輸送?だか配給輸送?だかのスーパービュー踊り子が地下からグワッと出てくるところに偶然出くわして、めちゃくちゃ興奮した。撮り鉄はなんであそこ狙わないのかな。国立駅で駅員に叱られてるのを見るたびに不思議に思ってる。
西国分寺駅はちょっと面白い構造をしている。国分寺周辺はハケと呼ばれる丘陵地帯になってるんだけど、中央線はそこを東西に掘削して開通している。丘陵の上を南北に走る武蔵野線がここで中央線を跨いで直交する。西国分寺の駅舎は丘陵の上(武蔵野線の高さ)にあるため、中央線では珍しいホームが改札より低い位置にある駅ということになる。
西国分寺駅と国分寺駅の間は野川という川が流れていて、そこだけ丘陵を削るようにグッと低くなっている。水源は線路北側の日立の敷地内にあるらしい。川を下って調布の方まで行くとオイカワや夜はナマズなんかが釣れるとのこと。
西国分寺からすぐのところには、都内に2つしかない都立図書館の片方がある。ここではあらゆる雑誌が読める。地方ではとても望めない圧倒的な贅沢。それと、ちょっと南側の方に行くと多摩総合医療センターというクソデカ総合病院がある。こういうのがある地域ってのはほんとに恵まれてる。
それと、武蔵国分寺跡という史跡がある。付近は公園になってて、小春日和や秋晴れの日にこの辺りを歩くとなんとも言えない良い気分になる。歴史の趣というか諸行無常感みたいなものを感じるし、それに対して昔から変わらないであろう草木の臭いとか小川の音がいいんだろうな。色んな想像が広がるし、逆に頭の中空っぽにもなる。
国分寺駅周辺は古き良き中央線の猥雑な雰囲気が(なんとか)今でも残っている。村上春樹が若い頃にジャズ喫茶をやってたこともあってか、今でもジャズ喫茶だったり中古レコード屋だったりがちょっとだけある。こういう街の空気感はこれからも失われないでほしいけど、難しいだろうな。
国分寺市の際立った特徴として、大学進学率が90%を超えているらしい。全国平均は50%とかで頭打ちしてるはずだから、凄い外れ値だ。たしかに早稲田実業とかあるけど、なにがそんなに国分寺を勉強熱心な土地柄にしてるのか不思議。
武蔵小金井/東小金井/武蔵境は似てると書いたけど、そういえば武蔵小金井にはラーメン街道というのがある。その名の通りラーメン屋がたくさん軒を並べてるんだけど、正直おすすめの店は特にない。あと、ラーメン街道ではないけど、大勝軒の新しい一番新しい分派の武蔵小金井大勝軒というのができていたりする。
そんなラーメンが盛んな武蔵小金井に対して、東小金井と武蔵境は油そば屋が多い。油そばの発祥の店の珍々亭が武蔵境にあって、そこから広まったらしい。ただ、油そば発祥の店には別説があって、それは国立にある三幸という店なんだけど、国立に油そば屋専門店は全く無い。この違いはなんだろうな。この三幸の油そばはかなり美味いのでおすすめ。
つらつらと書いてきたけど疲れたな。三鷹以東とか、高尾〜立川とか、青梅線沿線とか、まだまだ色々あるけどもう終わりにするか。明日も仕事だしな。
最後にひとつだけ、東京農工大の馬術部が売ってる馬のLINEスタンプがおすすめだから馬好きな多摩地区民は買おう。中央線から見えるあの馬たちだ。
近くの古墳の整備事業が終わって出土品などの展示が行われていましたの
解説は古代の土岐のことをカタカナでトキと書いていて飛鳥時代のトキは飛鳥トキですの?
馬が足りませんわ
でも、土岐よりも七支刀を連想させる刀支の方が縁起がよく見えますわ
縁石によって規模が分かりやすくなっていました
小さい円墳の段尻巻古墳の被葬者一族は大きな方墳の乙塚古墳の被葬者一族の右腕的な存在だったのではないかと
展示では書かれていましたわ
円墳の方が方墳よりも権威的には上らしいので、段尻巻古墳の被葬者は中央から派遣されてきた人間で
公的な地位は乙塚古墳の被葬者より高いけど、乙塚古墳の被葬者の方が現地での実力は上だった関係を
想像してみましたわ
東海地方に前方後方墳が多いのも乙塚古墳が方墳なことに関係があるかもしれませんわね
市街地南方の丘陵地帯で大規模な道路工事が行われていて谷間の湧水湿地を潰していそうで
心配になりましたわ
ほとんど雑木林ですから高い部分を削るだけなら被害は少ないと思いますけれど…
https://toki.cloudgis.jp/urban/ の都市計画道路をみるとルートがわかりましたわ
https://mainichi.jp/articles/20230513/k00/00m/040/221000c
北海道白糠町と釧路市音別町(旧音別町)の境界にある馬主来沼(パシクルトウ)西側の民有地で、大規模な太陽光発電計画が持ち上がっていることが、関係者への取材で明らかになった。一帯はアイヌ民族の伝統的生活空間「イオル」とされ、民族の伝承も残されており、近隣に暮らすアイヌ団体の幹部らからは懸念の声が上がっている。
明らかになった計画は、馬主来沼の湖畔の西側に当たる釧路市音別町の5ヘクタール強の原野。国道38号南側の海岸沿いに位置する。
不動産登記簿などによると、2021年8月、東京都港区の会社(A社)が、紋別市の会社から条件付きで買い取るとの所有権移転仮登記をした。条件は「本件土地の状態が発電事業を行うのに適切であると、買い主が判断したこと」とある。さらに今年3月、売買により、関係があるとみられる港区の別の会社(B社)に所有権が移された。
資源エネルギー庁の再生可能エネルギーの事業計画認定情報によると、この土地ではB社の名義で、発電出力1999キロワットの太陽光発電が22年3月に認定されていた。
法人登記簿によると、A、B両社はともに「太陽電池及び関連部材に関する卸・販売・輸出入業務」などを目的に設立された。社員欄には、海外の太陽光発電会社の関係者とみられる名前がある。土地購入手続きなどに携わったという日本人女性は毎日新聞の取材に計画が進んでいることを認め、「計画の見直しは難しいと思います」と答えた。
紋別市の会社の社長(78)は国道を挟んで北側の原野(約66・7ヘクタール)と山林(約330ヘクタール)も所有しており、「山林は東京都中央区の会社が太陽光発電を計画し、原野も別の複数の業者が発電用地を確保しようとしている」と明かした。
不動産登記簿によると、山林は22年11月、「売買代金完済」を条件に、東京都中央区の会社に所有権移転の仮登記が行われていた。紋別市の会社社長は「近くに送電線があり、計画は太陽光発電と聞いている」と明かした。さらに西側の丘陵地では、別の会社が設置した二つの太陽光発電が稼働しており、一帯は適地とみられる。
白糠町は馬主来沼の東半分を囲うような形で町有地284ヘクタールを「馬主来自然公園」として保全に努める。対照的に、西半分にあたる釧路市音別町側は保全の手は打っておらず、計画が進めば、沼の西にかけての多くがソーラーパネルで覆われる可能性がある。
白糠アイヌ協会の天内重樹会長(38)は「寄り鯨が集落を飢餓から救った伝承のある土地で、アイヌ民族にとってはかけがえのない生活空間。守りたいのはやまやまだが、どうすればよいのか」と話す。
道東では釧路湿原国立公園の南側周縁部の原野でも、大規模な太陽光発電計画が水面下で進み、予定地には絶滅が危険視されるキタサンショウウオも生息することから、自然保護団体などから懸念の声が上がっている。【本間浩昭】
白糠町と釧路市音別町にまたがる周囲約4キロの海跡湖で、ヘラジカの角のような複雑な形が特徴。平均水深1・7メートルと浅く、冬には結氷する。縄文海進が約6000年前に終わり、海退の過程で砂丘が海水をせき止めて形成された。国指定特別天然記念物・タンチョウの飛来地で、環境省選定の「日本の生物多様性保全上重要な湿地」の一つ。北海道の「すぐれた自然地域」にも指定されている。
フンペ(アイヌ語で「鯨」)が漂着したことをパシクル(カラス)が教え、集落(コタン)が飢えから救われたとの言い伝えが残る道東の馬主来沼(パシクルトウ)。その西側の釧路市音別町で、大規模な太陽光発電計画が進んでいた。伝統的生活空間「イオル」の一角が侵食されかねない事態に、アイヌ民族は戸惑いを隠せない。
「寄り鯨」の伝承を裏付けるような出来事だった。昨年11月26日。沼から東に約3キロ離れた和天別川の河口近くに1頭のミンククジラが打ち上がった。死後かなり経過し、「海岸には腐臭が漂っていた」と白糠アイヌ協会の天内重樹会長(38)は語る。「数年前のフンペ祭りの前日にも打ち上がった」という。一帯は、海が急に深くなっている海底地形や海流などの影響で、古くから鯨が漂着しがちな海岸線らしい。
この地に大規模な太陽光発電が計画されていると天内さんが聞いたのは1年ほど前。いったんは計画が立ち消えになったと聞いて「ほっとしていた」が、半年ほど前から再び業者が動き始めたと知らされ、「できれば造ってほしくない」と危機感を募らせる。
白糠町は、沼の東側を囲む形で約284ヘクタールを「馬主来自然公園」として保全する。昨年には太平洋を見渡す高台に、国のアイヌ政策推進交付金を得て、鯨の恵みに感謝する古式舞踊「フンペリムセ」(鯨踊り)発祥の地として、展望台やモニュメント広場、駐車場などを整備した。毎
年9月の第1日曜日には、寄り鯨の恵みに感謝を捧げる「フンペリムセ」が奉納される。
一方、沼の西半分を占める旧音別町側は1968年、音別町立自然公園条例を制定、沼周辺を町立自然公園に指定し、国道38号沿いに駐車場や説明板、周辺展望台を兼ねた休憩舎などを整備したが、面積は0・78ヘクタールにとどまっていた。
音別町は2005年の釧路市との合併で、白糠町を間に挟む「飛び地」に。条例は新市に引き継がれず、自然公園でもなくなった。「馬主来沼の存在は重要視されなくなった」と言う住民もいた。
音別町史にはこうある。「夕日が西山に沈む頃。白糠町側の高台に立って当町方向を眺めるとき、パシクル沼の水面に映る夕映え風景は、まさに一幅の名画を見る感がある」。釧路市は15年に選定した「音別新八景」の一つに「パシクル湖畔の夕日」を選んだ。
沼周辺は、アイヌの暮らしに必要な動植物の入手に欠かせない伝統的生活空間「イオル」とも位置づけられている。類いまれな景勝地とされる一帯の景観が「メガソーラーの海」に変わる可能性がある。【本間浩昭】
以下のくだりが、とても印象的だった。
その時にわたしの出身地の名産が好きで、通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね、とさりげなく話題をそらしてくれた年配の男性がいた。
その人が後から「あの人、悪い人じゃないんだけどごめんね、自分も神戸出身でさ」と言われた。
恥ずかしい話、「神戸出身だから」と言われて私は何も分からなかった。
私は自分が地震と津波の被災者で、東北で育った私たちが一番の被災者で、今後数十年はわたしたちが一番のかわいそうな立場だという感覚を持っていた。
「なぜ急に神戸?」とポカンとして「はぁそうなんですか…」と雑に返した気がする。
その後、関東に戻ってしばらくしてから、何がきっかけか覚えていないがオウム真理教の話になったとき、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
ひとの災害経験というのは、ほんと様々で、一概にかわいそうな被害者としてのっぺらぼうな面をみるわけにはいかないよね。
自分だけが被害者面していたかも、という気づき。こういうちょっとワンクッションおいて、時間が経って考えること、こういうのが大切なんだと思う。
ただ、被害者という言葉で共通項を見出したとしても、阪神淡路大震災を経験したひとと、東日本大震災を経験した増田がこうして、何かのきっかけでお互いの体験の共通部分に触れようとしたときでさえ、お互いが経験したものの奥行や背景は全く違う。でもそれは、もっと言葉を交わさなければみえてこないもの。
多分、増田は上記の言葉を交わしたとき、その手前でふと立ち止まって考えたんだと思う。
ひるがえって自分の親戚の話。自分語りをトラバに混ぜるのはなんだかな、と思うところもあるが、テーマの性質上書かせてもらう。津波から数日後、東北のもっとも大きな漁港のひとつで、親戚が経営していた漁業関連会社と生産工場が全滅したとの一報を受けた。一方、杜の都に住む息子娘世代は全員無事だったという朗報にほっとしたことを思い出す。
しかし、それよりも震災から半年くらい経って、父が一言つぶやいた言葉のほうが忘れられなかった。
他界した親戚一家は、さかのぼると、昭和8年の津波の前から漁港で生計を営んでいた。1933年の津波で多くの財産を失った親戚は一から再建する際に、同じ場所でやり直すのはやめるべきだと再三にわたって、周囲から助言されていたという。しかし、結局、同じ場所で人生をやり直し、次世代が引き継ぎ、そして次第に事業規模が大きくなり、津波の記憶が遠ざかっていくなかで、そのまた次世代の方々が財を成し、地元の名士として羽振りよく、親族のなかで存在感を持つに至る。そんななかで、半世紀以上前、東京に出て行った東北の令嬢が結婚前の父と出会う。
大切な令嬢(大地主の長女)をどこの馬の骨ともわからないよその県の小作人の末っ子風情に嫁がせるわけにはいかない、という大反対の嵐。本家筋からなにから親戚中の冷たい目線。結局、結婚は許されて、父は母の家系に婿として入ることになるのだが、その時に受けた屈辱を忘れられないらしく、東日本大震災で全滅した親戚に対して、天罰、という言葉で自身のつらみを含ませて表現したのだった。
父にとっては、かわいそうだね、では決して片づけられない感情。
個人的には、なにより、貧しい者も栄華を誇った者も等しくなぎ倒した大津波の、客観的な、物理的な力に圧倒せざるを得なかった。
たとえ、誰と震災の経験の話をするとしても、このようなパーソナルヒストリーの違いによる温度差は避けることができない。そう思っている。
震災を経験していようがいまいが、あるいは同じく焼け出された隣人でも同じではない。大地震大津波の破壊力を前には、あの家は無事だった、無事でなかった、そういうさまざまな経験がそれぞれにあるにすぎない。
こうしたファミリーヒストリーな視点でそれぞれの思いがある一方で、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
という上司の言葉。そして、「やっと気づいた」という言葉。このつながり方は、大変興味深い。「あの年は~」というのは個々の経験の違いを超えた、歴史を振り返った俯瞰的な総括を含んでいるからだ。1995年という時代、そういったマクロな視点での気づきをもたらすのも災害だ。
そして、それが何かの理由で、自分自身のファミリーヒストリーや神戸出身者とのちょっとした会話と結びついたのだとすれば、それは自分のある意味「かわいそうな」私的な思いを、歴史の一コマのなかに着地させようとする、そういう覚醒だったのかもしれない。
実をいうと、よりマクロな視点で、それぞれの災害にはそれぞれの社会的な背景があり、その脆弱性が被害を増幅させている、という視点を最初に提起したのは、阪神淡路大震災だった。
1990年代以前は、災害被害者というのは、災害管理の文脈で救援対象として、比較的ステレオタイプに捉えられていた。しかし、その認識を大きく変え、都市の社会構造の脆弱性に関心が高まったきっかけが1995年の震災だった。こう書くとなにやら上から目線風だけど、阪神淡路大震災が自分が仕事として防災の世界に入るきっかけを作った。
神戸の都市としての成り立ちは、明治の初め、神戸港が開港された時から始まる。以降、港湾労働者が多く流入、低所得層が脆弱な埋め立て地や条件の悪い内陸部へ集住するようになる。他方で、20世紀の鉄道の時代に入ると、阪神間の交通網が充実し、六甲山ろくに高級住宅地が開発されるようになる。高度経済成長期には六甲の開発で切り崩した丘陵地に住宅地を建設、その残土で海岸が埋め立てられ、工場用地や港湾建設が進められていく。おりしも公害問題が深刻化した時代、都市の生活環境はますます深刻化していった。そんななか、オイルショックを契機に産業構造の転換という時代の変わり目を迎え、神戸の産業のシンボルであった造船、鉄鋼は停滞してゆく。それは関連する神戸の零細地場産業を苦境に陥らせ、今度は人口流出が起こり都市部の空洞化が始まった。都市部に残っているのは、流動性の低い層つまり高齢者、低所得者ばかりとなった(インナーシティの形成)。
これに対して1980年代、神戸市の政策的な対応としては、財政問題の打開が先行した。バブル前の当時の考え方では、大規模開発こそが地域経済の再生をもたらすと信じられていた。埋立地の利用による、ポートラインラド、六甲アイランド建設、物流機能強化のための明石大橋建設、最先端技術産業の誘致、ニュータウン建設など、新たな付加価値の創出が事態打開の切り札だった。
その一方、社会の脆弱層への支援、行政による市街地の再生は後手に回っていた。
オイルショック後の産業構造の転換で取り残された低賃金労働者の町、老朽化の進んだ木造住宅密集地域、長屋建ての住宅の占める割合の多い市街地(長田区のスラムのようなオールドタウン)は新陳代謝が進められなかった。地震対策の上でも洪水対策の面でも取り残された街となった。どのような地域であったかは番町地区で検索をしてほしい。
このような経済格差や脆弱性が生み出された、マクロな構造変動のなかで襲ったのが1995年の大地震であり、被害が社会経済的に脆弱な人々に集中した。暴力団員が懸命に救助活動していたエピソードを覚えている人もいるだろう。そういう街だった。
社会学的な視点でみれば、この地震の教訓として、被害が高齢者、低所得者に集中したのは、ある意味、歴史的必然だ。格差が生み出された背景などのマクロな政治的・経済的な動向と切り離せないということだ。
そして、このような格差や脆弱性という切り口でみる構造分析は先月発生したトルコとシリアの大地震でも、当てはめることができる。
このように、可哀そうな存在というのを社会学的に脆弱性として構造的にとらえる、ひとつのきっかけは、やはり他の災害を知るということであるし、昔の災害を知るということだと思う。
パーソナルヒストリーとしてお互いに触れあうことで、お互いに違うバックグラウンドにあることがうすうすわかってくる、それもまた、大切な気づきなのだと思う。
また、パーソナルなコミュニケーションが、例えばまさに「通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね」みたいな会話、これが実はマクロな特性を知るうえでも、その人のパーソナルヒストリーをしるうえでに、もっとも重要なエントリーポイントだったりする。仕事上、ひとから話を聞くときにいつも気に留めていることでもある。
だから、トルコとシリアで現在進行形の震災について全体状況を大きな視点理解している国際機関よりも、よりミクロな視点で、特定の家族や地域の人たちにコンタクトがとれる小規模のNGOや支援団体に私自身は微力ながら支援金を送付している。たまたまシリア難民支援をしている人と知り合いの知り合いくらいの関係でSNSでつながっていたのがきっかけだ。アサド政権が物資を止めてしまう現状も現地の声としてより関心を持つようになった。そのほうが確実に、受け取った人の顔がみえ、困っている状況がミクロにもマクロにもわかってくる。自分が支援したお金が支援先の一家族あたりの支援額(しかも第一バッチ)の1/4にも満たないことを知る。こういうことも大切だと思う。
そのように、何かをきっかけに、他の災害に対して接点を持つ機会を大切にしたい。
というのは、居酒屋のトイレの洗面所とかで何気なくかわす会話、とか想像していたのだけど、そういうのが大切だよね。そういうのが心の残って覚えている、ということがさ。もちろん完全にひとのことを理解するなんてことはどんなに会話を交わしてもない。でも覚えてさえいれば、そのなぜか覚えていた思いを何かにつなげることができる。その「きっかけ」というのはとても大切に思う。
災害を忘れない、というのはそういうことだと思うので。
西暦1805年冬、ナポレオン率いるフランス大陸軍六万と、ロシア・オーストリア連合軍八万がウィーン近郊のアウステルリッツ=プラッツェン高地西方で激突した。
フランス軍は当時のロシア軍に対し数的劣勢であったことに加え、アウステルリッツにおいて最重要拠点であるプラッツェン高地をロシア軍に占拠されていたため(一時はフランス軍によって占拠されていたものの、明け渡された)、当時フランス軍にとって有利な状況は何一つ存在していなかった。その上、アウステルリッツの南北双方からは敵増援が到着しつつあり、これら増援とロシア軍が合流を果たせばフランス軍には万に一つの勝ち目も無かった。
しかし連合軍は数的優勢、土壇場になって停戦交渉に打って出たナポレオンの弱腰、さらには戦場における最重要拠点であるプラッツェン高地を手中に収めていることを鑑み、勝機ありと見た末に停戦交渉を撥ね退け、フランス軍との大規模会戦に打って出たのである。それらが全てナポレオンの張り巡らせた罠であるとも知らずに。
1805年12月2日、戦端はロシア軍の先制攻撃によって開かれる。プラッツェン高地南方にて、フランス軍右翼の守るテルニッツ村が攻撃を受けた。
当時の布陣図によれば、フランス軍右翼は極めて脆弱であり、ロシア軍はそこを弱点と見做し自軍左翼のブクスホーデン軍を急行させたのである。南北に伸びたプラッツェン高地から出撃したブクスホーデン軍によって、フランス軍右翼陣地はあわや撃滅されようとしていた。右翼が壊滅すれば突破したロシア軍はフランス軍後方へと迂回し、中央のフランス軍主力部隊を挟撃することができる。そうなればフランス軍は終わりである。
しかし、まさにその瞬間に――ブクスホーデン軍がプラッツェン高地から、地上のフランス軍右翼へと殺到し始めた瞬間に――ナポレオンは勝利を確信したのである。
フランス軍右翼は囮であった。ナポレオンの狙いは、ロシア軍左翼がフランス軍右翼を攻撃するために進撃を開始した瞬間に、手薄になった中央のプラッツェン高地を集中攻撃することにあった。
これによって、重要拠点であるプラッツェン高地をロシア軍から奪回し、戦場の主導権を我が物にしようとしたのである。さらに、アウステルリッツの会戦当日にはプラッツェン高地周囲の森には深い霧が立ち込めており、この霧の存在もナポレオンの企図を助けることとなった。
ロシア軍左翼がプラッツェン高地から出撃して間もなく、スルト元帥麾下の第四軍団14000がプラッツェン高地中央部を急襲し、霧の中突如として現れたフランス軍を前に、ロシア軍中央は総崩れとなる。また、脆弱だった筈のフランス軍右翼も、ダヴ―元帥麾下7000の部隊が後方都市から到着したことで、数的劣勢を克服し、戦況を盛り返しつつあった。
(開戦前日にダヴ―麾下7000の部隊は密かに戦場へと到達すると、言わば伏兵として右翼後方に待機していた)
やがて激烈なフランス軍主力の攻撃により、ロシア軍中央は壊走を始め、プラッツェン高地はフランス軍により奪回された。同時に、フランス軍右翼の攻撃のためにプラッツェン高地から地上へと降り立っていたロシア軍左翼は、敵陣の中孤立することとなり、戦局はここに決したのであった。
ロシア軍は戦端を開こうとせず、増援の到着を待ち戦力を増強しさえすれば、少なくともフランス軍との直接対決において敗北を喫することは無かったであろう。
しかし、ナポレオンはその裏を掻いたのである。彼はロシア軍が友軍と合流する前に会戦の火蓋を切って落とし、大規模な会戦に持ち込むことで、いち早く敵軍主力を撃滅することを画策したのだ。そのために、敢えて戦力劣勢を露呈し、戦場の最重要拠点を敵軍へと譲り、尚且つ弱気な姿勢を見せるために仮初の停戦交渉さえして見せたのである。とどめには、勝機に逸るロシア軍の中央を攻撃するために、敢えて右翼の布陣を脆弱にするという周到さであった。それら全ての罠がロシア軍の判断能力を奪い、かくしてロシア連合軍八万はアウステルリッツの地にて壊滅したのだ。
かの有名な書物『戦争論』の中で、著者であるプロイセンの将校クラウゼヴィッツはこの戦いを次の言葉で概括している。 「戦争芸術の粋」。
紀元前219年、遥かアフリカ北端の国家・カルタゴの将軍ハンニバルは、当時世界最大の強国であった共和制ローマを相手取り絶望的な戦いを挑んでいた。
その絶望的な戦況を好転させるため、ハンニバルは自ら率いた精鋭部隊をスペインからアルプス地方へと経由させることで、ローマの中枢であるイタリア半島本土に対し直接攻撃を仕掛けたのである。
最終的に、ハンニバルはイタリア半島に十年間留まり、その間絶えずローマ軍に対する圧迫を続けた。その十年の戦いにおいて世界戦史上に燦然と煌めく、もっとも著名な戦いこそがカンナエの戦いである。
ハンニバルはアルプス山脈を越えイタリア北部に侵攻すると、次々と現れるローマ軍を待ち伏せや正面突破によって壊滅させ、イタリア半島南方へと進撃した。当時、快進撃を続けるハンニバルは数万の軍隊を維持するべく、イタリア半島各地で略奪を行っており、農村を中心に甚大な被害が上がっていたことからローマ軍首脳のストレスはピークに達していた。更に、イタリア半島南部においてはローマ軍の補給基地が存在しており、そこをハンニバルに抑えられるとローマ軍は南イタリアでの行動を制限される可能性があった。そのため、ローマ首脳陣はカルタゴ軍を撃滅するべくローマ史上最大規模の部隊を編成し、約八万の軍を執政官パウルスとウァロに指揮させた。この時、決戦の地に選ばれたのがイタリア南方のカンナエである。
決戦の舞台となったカンナエは、川と丘陵地帯に挟まれた地形であり、カルタゴ軍約五万とローマ軍七万は平原をほとんど埋めるように布陣し、正面から向かい合った。
両軍は双方ともに両翼に騎兵部隊を、中央に歩兵部隊を配置しており、いかにも窮屈そうな陣形であった。
しかし、この人馬が埋め尽くす不自由な戦場は、後に分かる通り、ハンニバルの用意した殺戮の舞台としてはうってつけのものでさえあった。
ローマ・カルタゴ双方の騎兵隊は、狭い地形において機動戦法を取ることができず、正面からぶつかった。
歩兵戦力ではローマとカルタゴで比べるべくもない数的差(6万強:4万)が開いていたが、騎兵の質、量においてはカルタゴ軍がローマ軍を上回っており(6500:1万)、カルタゴ軍は開戦から僅かな間に、左翼での騎兵部隊の戦闘において優勢に立っていた。単純な数的有利から繰り出される圧力と、また練度の違いによりローマ軍騎兵は瞬く間に圧迫され、その算を乱していった。
一方歩兵部隊における戦力差は繰り返すように圧倒的であり、歩兵同士の戦闘に限ってはカルタゴ軍がローマ軍に勝利する公算は無かった。
そのため、ハンニバルは一計を案じた。
ハンニバルはカルタゴ軍歩兵の陣形をお椀のように変形させ、その弧を描いた部分をローマ軍中央の歩兵部隊と接敵するようにしたのである。これによって接敵する面積をできるだけ減らし、中央が突破されるまでの時間を稼ごうとしたのだ。ハンニバルは歩兵同士の戦闘をできるだけ遅滞させ、両翼の騎兵部隊が優勢に立つのを待った。
また、ハンニバルはお椀型をしていた陣形を、戦闘が推移するに従って屈伸させ後退させた。当初の形(お椀の底の部分が接敵する形)とは逆に、ローマ軍の大半をお椀の中へと誘い込んだのである。さらに、ハンニバルは温存していた自軍左右の重装歩兵をローマ軍へと攻撃させ、ローマ歩兵が挟撃される形を築こうとした。
とは言えこの時点ではカルタゴ軍によるローマ軍への包囲は決定的ではなく、ローマ軍は歩兵戦闘において依然優勢な状況にあった。そのためローマ軍は、優勢な戦況を継続し、カルタゴ軍中央を突破することで戦局を優位に進めようとした。
ところがその時、歩兵部隊の両翼で戦闘を行っていたカルタゴ騎兵が、歩兵同士の戦闘に加わったのである。
戦端より優勢を維持していたカルタゴ軍騎兵は、ローマ騎兵を壊滅させた後に、敵歩兵部隊の無防備な背後を攻撃した。左右を川と丘陵に囲まれた陣形の狭さ故に、ローマ騎兵は有効な回避機動を取ることができず、瞬く間にカルタゴ騎兵によって殲滅されたのであった。
ただでさえカルタゴ軍に包囲されかかっていたローマ軍は、後方から攻撃を受けることによって決定的な混乱を迎えた。周囲を完全に包囲されたローマ軍は逃げ惑い、歩兵の中央部では逃げ惑う味方の身体に押されて圧死する者も現れたという。
この戦いによってローマ軍7万の部隊は完全に壊滅し、6万人が死傷、また、残る1万人は捕虜となった。
地形を有効に利用し、敵軍を機能不全に陥らせ包囲殲滅する戦法は、いわばハンニバルの御家芸であった。
機動部隊同士の戦闘を優勢に進め、敵軍を包囲殲滅するこの戦法が、以降近現代の軍事教本に取り上げられ、カンナエの戦いのハンニバルに帰する栄光が不動のものとなったことはあまりにも有名である。ハンニバルはイタリアの地にてローマ軍を完全に破った。この戦闘によって、当初戦闘に参加していた元老院議員の政治家八十名が戦死し、議員定員約300名のローマ議会における四分の一が戦死することとなる。
全体的にJRの言い分を批判してるのは分かるけど、いきなり茶農家の言い分はデタラメとかあって意味わからんのだが、普通に茶農家は大井川の水を利用してるぞ
因みに名産品のお茶の品質にも影響が~って話もあるがそれは尻馬の出鱈目です。お茶は丘陵地帯で水が引けず耕作ができない処で発展したのが特徴ですので。
茶産地支える水利事業 一滴の重み、等しく共有【大井川とリニア 序章 命の水譲れない㊤】|あなたの静岡新聞
https://www.at-s.com/news/article/special/linear/805099.html
大井川の水は232カ所に上る水利用の貯留池「ファームポンド」や茶畑に配備された給水栓を通じ病害虫防除、凍霜害予防、かん水など茶栽培に不可欠な作業を支える。
【さらに詳しく】もう一つの用水―国営牧之原農業水利事業:関東農政局
https://www.maff.go.jp/kanto/nouson/sekkei/kokuei/oigawa/keii/02_1.html
水の不足は茶葉の生育を悪化させ、収穫を減少させるばかりか、翌年から翌々年まで品質に影響します。また、茶栽培では年に10回を超える病虫害の防除が行われますが、これにも多くの水が必要となります。さらには、施肥(しひ)のための水、霜害・塩害防止に使う水など、栽培技術が進歩すればするほど、茶栽培における水の重要性は高まっていきました。しかし、台地の上には水源となる川がありません。「牧之原に水を」を合言葉に、茶農家の気持ちは、眼下でとうとうと流れる大井川の水へと向いていきます。
40年前に始まった「水返せ運動」は大井川の流量低下による環境悪影響によって茶の品質低下が起きて茶農家が怒りに怒ったから県知事も一緒になって動いて一定の成果となった(あくまで「一定の」で水量が元に戻ったわけじゃない。そんな中でリニアで水量が減るかもとJR東海が言ってきたから余計に怒っている)
昔の大井川は発電用や工業用ダムが取水が際限なく行われ70年代には水涸れが起き「河原砂漠」と呼ばれ川底の砂が舞って健康被害起きたり気温上昇したりした。茶に関しては川霧の消滅によって品質低下が起きる悪影響があった。だから全国に波及するほどの大きな水返せ運動が起きた。
そのことがあり今回も大井川流域市町がJR東海のリニア工事を大きく問題視している(「市町」が問題視してるんだぞ。バカみたいに「県知事は中国の手先だから~」みたいな陰謀デマをほんこんとかが広めてるけど県はあくまで市町の意見をまとめ述べてる立場な)
TwitterとかでJR東海に批判的な投稿を見てても丹那トンネルの水涸れの話ばかり例示されて大井川の水返せ運動の歴史的経緯についてほとんど触れられてないのが残念
リニアの南アルプストンネルによる大井川渇水に就いてJR東海は「水量減少を最小限にする」と述べ、それを鵜呑みにして「なるべく水が出ない工事をするんだな」と考えている人がいるが、このJRの言い分は出鱈目な嘘である。以下その理由を述べる。
南アルプストンネルというと赤石山脈ばかりに注目が行くが、一番の問題点はフォッサマグナの西縁を通る事だ。しかも大深度で。
中学の地学で習ったフォッサマグナは大地溝で、本州を縦に切って断面を見ると西縁が静岡~糸魚川、東縁が千葉~柏崎のU字溝の形をしていて、U字溝の中には富士山、白根山、浅間山、八ヶ岳、箱根などの新しい活火山が入っている。
なんでこんなものが出来たかというとプレートテクニクスと日本海造盆運動に関係していて、太平洋プレートがユーラシア&北米プレートに巨大な力で押し付けられながら沈み込む際に日本列島になる部分が大陸から離れる方向、つまり太平洋プレートの方に動いて浮き上がってきた。
この一見おかしな運動は長い靴下を側面から押えながら履く時に似ている。上辺が内側に巻き込まれるので靴下はくちゃくちゃになり上部付近の繊維は上に動く場面があるはずだ。
この辺は面白いので背弧海盆などで調べてみて欲しい。紅海やカリフォルニア湾と日本列島が親類関係にある事が判るはずだ。サンフランシスコの東のサクラメントの平原は水に飲まれる前の日本海である。
この為に本州に当たる部分は北米プレート、ユーラシアプレートにそれぞれ乗る部分で引き裂かれた。ここにフィリピン海プレートが押してきて無理やり裂かれた部分は押し付けられ、大量の火山が発生した。
L字の鉄鋼を山の部分でぶった切ってからプレスで思い切り押してアーチ形になった様なもんだ。押し付けられて真っ赤に溶けて盛り上がったのがフォッサマグナの火山帯だ。
こういう経緯なのでフォッサマグナのU字溝内は活火山帯だがU字溝自体と周囲は断層と大破砕帯になっているのである。
一つは崩れやすいからであり、特にトンネルでは地圧が高いのに崩落しやすいという最悪な状態になる。
もう一つは出水で、岩がガラガラな状態というのはそこに水を溜めているか流れているという事だ。井戸は砂礫層に到達すると水が出るのである。今回静岡県とJRの争点になっているのはこっちである。
更に問題であるのは、普通の破砕帯は概ね水平に近い方向に伸びている事が多い。だがフォッサマグナでは垂直に伸びているのだ。
さてここで水圧を計算してみよう。
南アルプストンネルが通過する赤石山脈の標高は約3000m、東側坑口は550m、西坑口が800m。すると土被りは最大で2300mである。
この時破砕帯がある場合、その水圧はどれだけになるか?答えは230気圧である。土被り1000mの箇所でも100気圧。こんな圧力に耐えられる中空構造物なんてあるはずが無い。工事だって出来るはずがない。
だがこれは間違いなのだ。この気圧は静水圧だ。ここで水を流すと岩の隙間から噴出してくる動圧になり、制御不可能な数字では無くなるのである。
この為に、高土被りの破砕帯での工事ではまずは水抜きのトンネルを掘りまくる。掘りまくって水量が安定したら平衡状態である。出てきた水はどんどん流して捨てる。そうしないと圧力が高くなるからだ。これ以外に工事の方法は無い。「水抜きボーリング」で検索すると土木会社の解説が沢山出てくる。
更に中空のトンネル躯体が耐えられる圧力ではないのだからこの水抜きトンネルはずっと稼働させて水を流しっぱなしにしなきゃならない。もし封じてしまったら水圧は静水圧となり100気圧超という鋼鉄の球体以外に耐えられない圧力になる。
この辺を誤解してコンクリの本坑トンネルだけ作ってコンクリの壁で水をとめるというイメージの人が多いが全然違う。意図的に大量の水抜きをしなきゃ工事も出来ず躯体の維持も出来ない。
そしてこの抜かれる水というのは大井川の水源で湧き出すはずだったものなのだ。この水はそのままなら重力に従い低い方の東側坑口、早川か導水路を作って甲府盆地にに放流されることになる。そしてこの両方とも富士川水系なのである。
この辺について静岡新聞などは「大井川の地下を通るので地下水の分布が変わり」と説明しているがこれも違うんじゃないか?
そうじゃなくて大量の水抜きをするので周辺一帯の湧水は枯れるのである。それは工事の為に意図的にしなきゃならないものなのだ。それをJRはあたかも極力防止するよう努力するみたいな事を言っている。いい加減な騙しだ。
静岡県が大井川水源問題に拘る理由は地理院地図で大井川周囲を眺めれば一目瞭然だ。https://maps.gsi.go.jp/
ダムが多数あるが、ある程度拡大すると水色の点線が沢山出てくる。これらはダム用の水路トンネルである。山中を数十キロものとてつもない長大トンネルを掘り数段にも亘って水源利用をしているのが判るだろう。数もとんでもない数だ。
因みに農業用水や水道用暗渠は描かれていない。水道も農業用水もこれらのダムや水管路を元に組み立てているのだから水量が低下したら壊滅的なダメージがあるに決まっている。
因みに名産品のお茶の品質にも影響が~って話もあるがそれは尻馬の出鱈目です。お茶は丘陵地帯で水が引けず耕作ができない処で発展したのが特徴ですので。
フォッサマグナを高土被りで掘削なんて前例がないのにJRは湧水量の算定をしているが、それは過去の大清水トンネル、長崎トンネルなどの出水を参照している。この時点でインチキ臭いのだが、国民の方もその詭弁に気づいていない。
中学校の地学でフォッサマグナの事を勉強したのに暗記だけして忘れちゃってるのだな。そういう勉強もちゃんと役に立つ時があるんだよ。日本に住んでて土木をしようと思ったらフォッサマグナと中央構造線は避けて通れない。
以前、長野県が長野をパスしないリニアルートとして諏訪周りのルートを提唱した時、その平面図だけ見て平成の大八廻りとか言ってる人が沢山居たのだが、中央構造線とフォッサマグナ西縁の交差点が諏訪湖なのだ。諏訪湖が陥没地形になっているのはその為なのだよ。
だからトンネルに入る前に諏訪湖を地上で経由するかどうかは工事の難度どころか可否と水源問題の多寡に直結する。
鉄オタは電車が好きなだけでこういう問題を考える事が出来ない。
ネットメディアでは説明するより馬鹿を扇動した方がPVが上がるので「静岡県では”JRはのぞみを静岡に停めない”等の憤懣も聞かれ」などのどうでもいい所をクローズアップして書く。すると鉄オタは「はやいのぞみごうのていしゃえきをふやすのか!」と見事に釣られてSNSで吹きあがり争点がなんだか判らなくなるんである。あほか。
沢山インタビューしたりネットから意見拾えば尻馬に乗ってどうでもいい憤懣を言う人は出る。取材しないネットメディアはそこだけをクローズアップして書くので釣られて幼稚な吹きあがりしてるのが争点だと思い込むのであるな。なんの為に義務教育終えたんだい?
水源問題起こして難工事の末に開通させられるか?出来ないんじゃないかと思う。
ここは日本であって大地が安定したスイスなどとは違う。まだ動き続けてるプレートの境目にある若い火山帯であって、しかもフォッサマグナ西縁は北米プレートとユーラシアプレートの境目だ。更にフィリピン海プレートが角型の2分割列島を一本の弓型列島になるほどの力で押してる。
スター: id:winter_love (3) / id:ma7e / id:tomoP / id:heroween (2) / id:buluffel_branche / id:coguchi / id:kemba / id:djrymgm / id:uumii / id:ootakik / id:bkios (2) / id:somei337 / id:hinbass / id:ermanarich / id:Red-Comet / id:kensei_realdeal / id:mczkanako (5) / id:goriragao / id:tomonotecho / id:marimonbunny / id:ttux (2) / id:kusorurosuk (5) / id:osakana110 / id:y-wood / id:manFromTomorrow / id:anschluss / id:ameo4795 / id:odakaho / id:tzk2106 / id:hihi01
いやー。これにスターが集まるのは流石に無学ですよ。そもそも、誰が人々を押しのけて基地を作ったんです?
第二次世界大戦中にアメリカ軍によって飛行場が建設される前のこの地域にはいくつかの泉が存在し、それらを水源に畑作が営まれる丘陵地であった。
押しのけられたらその周りに家ができるのは当然ですよね?アホなのかな。
これも読んでおいてくださいね。県公式の反論です https://www.pref.okinawa.jp/site/chijiko/kichitai/tyosa/documents/p04.pdf
標高40メートル前後の平坦地がどこまでも続く大阪北部のベッドタウン。万が一淀川や神崎川が氾濫したとしても、千里丘陵に被害は及ばない。急傾斜地も少ないので、土砂災害の危険も少ない。ただ、6月の大阪北部地震の震源地に程近いことには留意。
大阪・天王寺から南部の一帯(ただし大和川沿いは除く)。JR阪和線から東側一帯の広大なエリアは基本的に地盤が強い。生駒山の稜線群からも離れているので、土砂災害の危険性も低い。
3.京都市北区
京都御所と船岡山に挟まれた一帯。周囲を山に囲まれている京都盆地の中では、標高が比較的高く、山の麓や鴨川・桂川の河道から少し離れているあの辺りが一番安定している場所。
伊丹空港から西側一帯は、地盤の固い場所がどこまでも広がっている。神戸のように山が市街地に迫っていないので、土砂災害の危険性も低くなる。
5.徳島平野
徳島平野内を流れる吉野川は古くから氾濫を繰り返していて、逆に治水がしっかりしている。今回の豪雨でも高知や愛媛が甚大な被害を受けていても、徳島は特に被害は無かった。
広大な讃岐平野の中央に位置する地盤の強固な丘陵地帯。この辺りは水不足はひどいが、近年の豪雨の増加によって、あまり欠点にならなくなりつつある。
東京首都圏や近畿地方の大都市に住んでいる人間にとって、長野県という地域は大変人気である。
山や川の大自然に囲まれた観光資源の宝庫として、また軽井沢や原村の別荘地のある場所として注目されやすい場所だ。
また近年は、大都市に住んでいる人達の移住希望地の上位が長野県になっているらしい。
この20年ほど、長野県は県を上げて「信州ブランド」の発信を行っていて、県外の人間の長野県への好感度は非常に高い。
それ自体は良いのかもしれないが、実際に長野県に住んでみるというのは、結構過酷な場所だと思う。
本屋で売っている長野県の観光ガイドや、ターミナル駅に置いてある長野県の案内本を読んでみると、大自然に囲まれた長野県と言うPRがなされていて、それ自体は間違ってはいない。
実際の長野県は、山岳や丘陵地帯ばかりで、人間の住めるような平野や盆地は限りなく少ない。長野盆地や松本盆地、飯田盆地の3か所を除けば、ほとんどが山ばかりである。
おまけに、あまり知られていないが、長野県は慢性的に水不足がひどい地域である。長野県の西側には北アルプス、中央アルプス、南アルプスの3000メートル級の稜線が覆っているので、長野県内陸部に流れてくる雨雲はみんなこの山岳地帯に遮られて、雨がほとんど降らない。
逆に、長野県の周辺県は全て一年を通して大量の雨が降り、水に恵まれた場所だ。アルプス山脈の西側の岐阜県の高山地方や富山県の立山地方は、雨が降り過ぎて逆に洪水対策ばかりやっていることで有名だし、静岡県全域も非常に雨が降る場所。長野県内が痩せ川ばかりなのに対し、大井川や安倍川は暴れ川として有名だよね。
中信や南信はまだマシかもしれないが、上田市や坂城町のある東信地方は、日本一雨の降らないエリアとなっていることはあまり知られていないのではないか。
平野が少ないうえに、残った土地も痩せているので、作物は育たない。
長野県は「そば」の名産地として有名になっているらしいけど、なぜそばを作らざるを得ない環境なのかを考えてみるのも面白いだろう。
別荘地やリゾート地として有名な白樺湖は、元々は雨が少ない諏訪地方の農業用溜池として造られたのだ。
軽井沢も雨が降らず、浅間山から吹き下ろしてくる強い風で全く農業が出来ない痩せた土地であり、リゾート地として開発するしか使い道が無かった場所である。
大量の雨が降ってコシヒカリなどの米を作ることが出来る新潟や、雨が多く御母衣ダムなどの電源開発地帯として有名な岐阜、滝のような流れの成願寺川や黒部川を有する富山県などの周辺県と比べると、ムリゲーみたいな場所が長野県である。
1.千葉県の隣には東京都という日本最大の「集金・集客装置」があり、その東京の隣に位置しているだけで色々な恩恵が受けられる。
東京という世界一の大都会の隣にいるだけで、文字通り色々な恩恵が受けられるんだよね。東京の人口増加の影響が千葉県内にも及んでいて、東京に接している千葉県北西部(柏・市川・船橋)は現在も人口増加が続いている。
千葉県の房総半島側がすでに人口減少の段階に入っているのに対して、本当に同じ県内の話なのかと信じられなくなるレベル。
東京都民は「東京一極集中」という問題の当事者として、日本中から批判される宿命にあるが、千葉県民は恩恵を受けられるだけ受けて、その批判からは外れる。まさに、いいとこどり。
2.上記の東京通勤圏に入っていることから、道路網や鉄道網も日本有数の規模になりつつある。
千葉県内を通っている高速道路は、東関東自動車道や京葉道路、東京外環自動車道、圏央自動車道の高規格な高速道路が縦横無尽に整備されている。東関道と京葉道路は片側3車線で、東名高速や東北自動車道並みの輸送力を持つ。
人口600万人規模の千葉県なのだから、これくらいの道路は整備されて当たり前だ、と言えばそれまでなんだけど。
鉄道網についても、神奈川や埼玉の人口比と比べると恵まれている方。千葉県内から東京へ向かう鉄道路線は、京葉線、東京メトロ東西線、総武快速線、総武緩行線、都営新宿線、京成本線、京成押上線、常磐快速線、常磐緩行線、つくばエクスプレス。
こんなに鉄道路線を整備してもらって、他県民に対して申し訳なくなるレベル。
3.「神奈川と埼玉のどちらが東京に次ぐ都会なのか」の議論のような、不毛な争いがない。
関東地方の人間であればおなじみの、関東圏内の格付け問題。第1位は東京都なのは当たり前で、では第2位と第3位は埼玉と神奈川のどちらなのかの見苦しい争いを、あの両者は未だに続けている。
千葉県民は、そのような不毛な争いを横目に、栄光の第4位として君臨する。それに茨城や栃木、群馬、山梨には絶対に追い抜かれることはあり得ないので、ある意味安泰している。
4.神奈川や埼玉ほど通勤ラッシュはひどくなく、土地代も安い。
東京や横浜、浦和と比べると住みたい場所としての人気は低いけど、土地代が安いので、上記の3か所と比べると少ないお金で広い家を買える。
5.夏は暑いけど、冬は雪も降らず比較的温暖。自然災害の起こる確率は極めて低い。
千葉県内に住んでいると、本当に自然災害が全くと言っていいほどない。テレビで、日本各地で豪雪や豪雨災害のニュースを見ていても、正直言って他人事。
千葉県は標高30メートル前後の丘陵地帯がどこまでも広がっているだけの地形なので、前述の通り自然災害に遭う確率がきわめて低い。