はてなキーワード: 馬の骨とは
本記事を開いていただきありがとうございます。
前提となるイラストレーターかかげ先生の炎上を巡る騒動について、資料として簡単に共有させて頂きます。
概ね把握されている方は飛ばしてください。
本題に入る前にひどく長くなってしまいました、申し訳ありません。
彼個人については、私もあまり良い印象を抱けませんでしたので、やや乱暴な纏め方になってしまっているかと思います、ご容赦ください。
私が雑考したいのは、一連の騒動を追う内に頻繁に目に入ってきたフレーズである「かかげ先生の添削動画を見ているのは『本気』で絵が上手くなりたい人たち」は真か、という点です。
結論から言えば「そういう人もいるが、恐らくあなたはそうではない」というのが正直な考えです。
結論から言ったはずなのによく分かりませんね。順を追ってお話させていただければと思います。
では、そもそも「本気で絵が上手くなりたい人の行動」とは、どういった行動なのでしょうか?
「毎日毎日毎日毎日デッサンとクロッキーと模写を繰り返し、親に土下座でもなんでもして作業環境を一式整えて技術書で理論や技法をデジタルも含めて学び、毎日毎日毎日毎日デッサンとクロッキーと模写を繰り返し、親に土下座してでも専門的な学習ができる環境で添削してもらう」。
端的に、それが私の思う『本気』です。
更に覚悟が決まった人ならば専門の教育機関で勉強し、毎日毎日ノウミソを煮ながら作品制作に勤しむでしょう。
そこまでやってようやく画業の卵に成りうるのです。
もちろん環境的な要因もありますし、それが出来ないから本気ではないとは言いません。
しかし、絵にせよ、スポーツにせよ、勉強にせよ、仕事にせよ、『本気』とは大なり小なりそういうものです。
「やるべき事をやっているか」と言い換えても良いかもしれません。
それができているか否かは、きっと自分が一番良くわかるはずです。
真剣に向き合えば、「やったつもりになっている」というのは自分でもわかってしまうものですからね。
「自分はやるべき事をやったし、最低限の基礎に関しては習熟している」。
そう胸を張れる人ならば、かかげ先生の動画を見るのは非常に参考になると思います。
一家言あるだけに、かかげ先生の動画は「見栄えを良くする」「バズりやすくする」「いいねを貰いやすくする」という点に置いて非常に参考になります。
「今このキャラの二次創作を描いても伸びない」という余りにも明け透けすぎるアドバイスもありますが、なりふり構わず本気でやる上で必要なアドバイスである事に私も否やはありません。
かかげ先生に添削を依頼する方たちの水準は他の添削動画と比べてハイレベルに見えますし、モチベーションも高く、糧になるか、あるいは良い思い出になるでしょう。
繰り返しになってしまいますが、「かかげ先生の添削動画を見ているのは『本気』で絵が上手くなりたい人たち」とフレーズは、一連の騒動を追う内に頻繁に目に入ってきました。
そう言っている方々のアカウントのメディア欄を全て確認した訳ではありませんし、安易なレッテル貼りになってしまうのであまり言いたくはないのですが、あえてハッキリ言わせてもらうなら「やるべき事をやっている」とはとても思えない人達が非常に多い。
もし『本気』で絵が上手くなりたいのなら添削動画なんかを見ている場合ではない。
そういう方たちが、本当に多い。
これもぱっと見の主観になりますが、平均して年齢層も低く見えました(先だっての例に学生さんを想定した理由でもあります)。
なぜそういう方々が多いのか。
私も明け透けに言ってしまいますが、かかげ先生の動画は「本気でやってるつもりにしてくれるから」です。
かかげ先生の辛口、あるいは暴言と言い換えても良いですが、その口撃はファンサービスであり、むしろ糖衣なのです。
かかげ先生はデッサンが狂った絵を添削する時に「複雑骨折してる」「化物になっとるやん」「この絵は伸びへんよ」等々の言葉を使って、逐一「こうする」という訂正を行います。
私が思う辛口です。
「デッサンが出来てませんね、次」
終わりです。
適当なだけに思われるかもしれませんが、これは実際、合理的なのです。
そもそもデッサンが狂っている絵を逐一直した所で、その人のデッサン力が向上するわけではないからです。
言い換えるなら「根本的な基礎となるデッサンが狂っている以上どれだけ作品を直しても無駄です。評価する基準に達していません。出直してください」と暗に言われている訳ですね。
端的な事実の指摘というのは、下手な罵倒よりもよっぽど心を抉ります。
それと比べれば、なるほど、確かに「かかげ先生の辛口は愛のある辛口」「関西人なら分かる」という評価があったのも頷けます。
個人的には「関西人は毎度毎度テメーらの文化が全国に通じるモンと思い込んで当然のように全国ネットに脳死で流し込んでくるけど何で高々47都道府県のうち2府4県周辺しかないクソローカル文化にそんな影響力があると思ってんだクソ土人共が関東関西じゃねえよ全国ネットあんだから関西以外:関西で分かれるの理解して弁えろカス」とも思いますが、そこは一度置いておきましょう。
かかげ先生は本当に巧みな点は、まさにそこなのです。
意識的にやっているのかはともかく、「この動画を見ているあなたは本気でやっていますよ、正しいですよ」と思わせる雰囲気作りが非常に上手い。軽快な関西弁も一助を担っているのでしょう。
それが時に「オンラインサロンっぽい」とも揶揄される独特の空気感の正体です。
本当は薄っすら自分が「やるべき事」をやっていないのに気づいているし、
しかし、面白くもないデッサン模写クロッキーを毎日あらゆる娯楽を犠牲にして数時間繰り返すだけのモチベーションもない。
もっと単純にイキりたい、背伸びをしたいと見てもいいかもしれません。
そういった方々にとって、暴言じみた辛口で叱る動画は福音に見えるでしょう。
「こんな辛辣な動画をあえて見ている自分は『やるべき事』をやっている」と自分を誤魔化せるからです。
断言しますが、何にもなりません。
そういう方がやるべきは鉛筆を握ることで、動画を見ることではありません。
辛口の添削動画を見て何か成し遂げた気になるのは、例えるならサウナのようなものでしょうか。
私はサウナが好きでよく行くのですが、不思議なもので全身から汗を吹き出しながらサウナ室を出るとひどく何かを成し遂げたような心持ちになるのです。
その後に水風呂に浸かる時などは自分が苦行僧になった気さえしますし、外気浴の心地よさは今までの苦行の報酬のようにさえ思えます。
そうして整った帰りは心身がリフレッシュされて、健康になった気がします。
全て勘違いです。
健康になりたいのならば毎日運動して食事制限を行い酒を減らして煙草を絶ち規則正しい生活をすれば良いだけの話です。できやしません。
それなのに「サウナとは自分が気持ちよくなりたいから入るのだ」という自覚を忘れてしまう。
下手な例えで申し訳ありませんが、辛口の添削動画を見る時の怖さはそこにあります。
もしこれを読んでくださっている方の中に感ずる所があった方がいらっしゃるならば、その方に言いたいのは見ただけで自分が上等になれた気がする何かがあったならばそれは単なる勘違いであり、あなた自身の成長にとって害であるということです。
絵が本気で上手くなりたいなら、やるべき事は先程も申し上げた通りですし、 「人を描くのって楽しいね!」など、優良なサイトは世の中に沢山あります。
修了するのは中々高いハードルですが、もし本当に『本気』で絵が上手くなりたいのなら是非ご一考ください。
そして、ここまで長々と説教じみた話を繰り返しておきながら最後にちゃぶ台を返すようですが、絵を描くという事を趣味として楽しむことは何も悪いことではありません。
今は描けなくとも、20年後30年後に描けるようになればそれで良いというのが絵の良いところです。
何かを表現したいという意欲があるならば、たとえそれが趣味であったとしても『本気』に繋がると思います。
楽しんでください。
最後に、2009年の書き込みな上にやや畑違いではありますが、古のコピペを貼って締めさせていただきたいと思います。
どこの馬の骨とも知れぬオジサンの何の根拠もない雑考(というより半ばお説教になってしまいましたが)に長々とお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
よう、ニートども!
元気か。
今日はオレ様がお前ら腐れ豚でもアニメーターになれる方法を教えてやる。
鉛筆が無いやつは画材屋か文具店かホームセンターかスーパーで買ってこい。
ネット通販は駄目だ。
今すぐ買え。
Bを買え。
消しゴムは買うな。
必要ない。
紙はA4のコピー用紙だ。
これも手元に無い奴は今すぐ買いに行け。
用意ができたら描け。
すると手が慣れてくる。
緊張もほぐれる。
ウォーミングアップは終わりだ。
次に模写をやってもらう。
他の本では駄目だ。全く駄目だ。
消しゴムは使うな。
失敗した線を残したまま描き進めろ。
決して小さな絵を描いては駄目だ。
肩を動かして描け。
全身で描くんだ。
この模写が一冊分終わったらアニメーターになれる。
間違いない。
この模写が一冊分終わったらアニメーターになれる、というのは嘘だ。
理屈はその後でいい。
注文して買ってもらう。
その他の本は一切読まなくていい。
『ディズニーアニメーション生命を吹き込む魔法―TheIllusionofLife―』
も良書だが、
『アニメーターズ・サバイバルキット』は2~3日あれば読める。
もう一度読み直せ。
ただし今度は模写をしながら読め。
全ページ分の模写だ。
この再読&模写の作業が終了する頃にはありえないほどの自身が付く。
騙されたと思ってやってみろ。
ポイントは、教科書は『アニメーターズ・サバイバルキット』のみに
絞るということだ。
多少の違和感もあるだろうが、
勉強はまだまだ続くが、順番は守れ。
そうすればお前もアニメーターになれる。
上に挙げた2冊の模写が終わったら、『アニメーションの本』を注文しろ。
この本には、近藤善文が作った練習課題が載っているから、それをやれ。
2冊分の模写を終えた奴なら必ずできる課題だ。
だが、何の勉強もしていなくても、
そういう天才もいるが気にするな。
必ずだ。
巻末にある動きの実例集が役に立つ。
値段も安い。
動きの基礎が分かってきたら、今度は絵の練習をしてもらう。
絵は上手ければ上手いほどいい。
練習をしすぎるということはない。
たぶん、これはもう持っているだろう。
だが、持っていても、
全ページ分の模写をやった奴はそんなにいないだろう。
やれ。
ここで色々な本に手を出して、
この本を模写すると、
“あ、人間と~、動物って~、同じ~じゃん~”ということが分かるはずだ。
今のところは『やさしい人物画』で学べる内容で十分だ。
あせってマグの本に手を出すな。
男系男子維持の為に旧皇族復帰云々麻生さんなどが話し合ってる様子がニュースで流れていた。
ふっざけんなと。
今でも膨大な予算が皇室に消えてるのに、迎えるとなったら何百億だか何千億で家建てて、毎年何億もの予算で生活してもらうことになるだろうが、男系男子とかわけわからんことのために、どこの馬の骨か知らんような人達を皇族に迎えてこれ以上増税されて市民の生活しめ上げてるような余裕が日本にあるのかと。
天皇・上皇・内廷にある皇族の日常の費用その他内廷諸費に充てるもので、法律により定額が定められ、令和6年度は、3億2,400万円です。
皇族費
皇族としての品位保持の資に充てるためのもので、各宮家の皇族に対し年額により支出されます。
皇族費の定額は法律により定められ、令和6年度は、3,050万円です。これは、各皇族ごとに皇族費を算出する基礎となる額で、令和6年度の皇族費の総額は、2億6,372万円です
(秋篠宮家1億2250万9000円常陸宮家4575万円三笠宮家5856万円高円宮家3690万5000円)
儀式、国賓・公賓等の接遇、行幸啓、外国ご訪問など皇室の公的ご活動等に必要な経費、皇室用財産の管理に必要な経費、皇居等の施設の整備に必要な経費などで、令和6年度は、95億5,381万円です
「もうやめない?」マイナ保険証、利用率6.56%の惨状に批判殺到 …あの手この手で普及目指すも “笛吹けど踊らず” | Smart FLASH/スマフラ[光文社週刊誌]
マイナ保険証への一体化に向け、躍起となっている政府の姿勢に、「X」では、批判的な声が高まっている。
《これ進めるメリット全くないよ もうやめない?》
マイナ保険証の何やってんだか分かんない低迷感は否定しないが、それに対する"批判的な声"がショボすぎる。
なんだこれは?クラスの学級会か何かか?
いくらなんでも質が低すぎるだろ。
ロクな論拠もない「もうやめない?」というただの感想を"批判的な声"としてカウントするなよ。
つーかそれ以前に、今や当たり前になってるけど、どこの馬の骨とも知らないXの投稿をニュース記事に載せるなよ。
載せるにしてもちったあまともな声を取り上げろよと思う。いいねの数がただしさじゃねえんだぞ、マジ。
まとま
・フリーレンは老人が若者とイチャイチャする話って言われてるけど、そもそもフリーレンって「老人」ではないよね。
・ということについて1人であーだこーだ考えたけど全然考えがまとまらない。
・こういうのについて書かれている本やブログあったら教えてくれ。
「葬送のフリーレンは「老人が若者にドヤ顔したり介護してもらう漫画である」という意味不明の言説が最近ネットで流行っており、人間性に問題のある人達が「この釣り餌は使えるぞい」と日夜この話題で己の醜い承認欲求を満たすために構ってちゃんを繰り返しています。それ自体の是非は今はどうでもいいので放置します。
私が疑問に思ったのは、「そもそもフリーレンは老人なのか?」ということです。
『老人』の定義は様々でしょうが、私は今回老人を『その種族としての寿命を使い切りつつある(いつ老衰が来てもおかしくない)状態』を意味する言葉として用いたいと思います。
たとえば「10歳の犬」は「種族としての寿命が使い切りつつあると言えるので『老犬』である」と定義されますよね?それと同じ考えです。「老エルフ」のような表現を使うとあとあと面倒になるので、老いた人型種族はまとめて「老人」として扱わせていただきます。
これは作中に登場するゼーリエ というエルフとフリーレンの会話からの推察です。
ゼーリエ はフリーレンと同じエルフ種であり、フリーレンの師匠であるフランメの師匠に当たります。このことから雑に考察すると恐らくゼーリエはフリーレンよりも年上だと思うのですが、人間と関わり始めた時期の違いだけであり実際にはフリーレンが年上である可能性は否めません。ただし、作中の言動を見るにゼーリエがフリーレンと比較して極端に若いということはないと思われます。
そしてこのゼーリエ がフリーレンとの会話中に口にした死生観を見るに、まだまだ彼女達の寿命も尽きそうにありません。
「私達はそれを百年後にやっても二百年後にやってもいい、千年ほったらかしにしたところで何の支障もない。私達の時間は永遠に近いのだから。」
もしもこの二人のエルフが千年、二千年後に死ぬ可能性があるのだとすれば、このような会話をすることは難しいでしょう。
また、彼女たちが100万年の寿命を持ち、これまでに90万年生きてきたとしても、このような会話をすることはないと思われます。
自分たちの永遠に近い時間もいつか尽きるこをまだまだ先だと感じていることが言葉の節々から読み取れます。
そのことから「エルフの基準においてまだ老人ではない」と考えることが出来ます。
フリーレンは「老人」ではないわけです。
でも読者はついつい自分たちの基準を当てはめてフリーレンを「おばあちゃん」のように扱ってしまう。
これはまさしくフリーレンが人間に対して行ってしまった錯誤の真逆なのです。
物語の冒頭、「たった50年先の再開の約束」を果たした「まだ100歳にも満たない若者」と思っていた相手はすっかり老いてしまい、その生命を使い切ってこの世界から旅立ったとき、フリーレンは自分の過ちに気づきます。そして、その後何度となくぶつかる時間感覚の違いが、この作品のテーマの一つとなっているわけです。
私も全く同じだったのです。
フリーレンの寿命はまだまだ先であることを知りながら、彼女をどこかで「おばあちゃん」として扱っていた。
どこの馬の骨とも知らない斜め読みのレス乞食が投じた的はずれな一石が、意外な所で私のフリーレン観の過ちを暴いてしまったのです。
そこから派生して考えていくうちに完全に分からなくなりました。
年齢的には3桁4桁だけど外見年齢相応の精神性の長命種キャラクターもいれば、外見年齢と全く中身が一致していない長命種のキャラクターもいます。
そもそも種族として若者か老人かということは人生経験の有無から独立しているとも考えられます。
およその寿命が10日である生き物が10日生きたら、その精神性は老境に相応しいものとなるのでしょうか?
精神年齢は役割によって決定するという考え方も出来ますし、死が迫ることで価値観が変化していくという見方も出来ます。
私達が一般に使う精神年齢はおおよそ「人生において失敗や成功を繰り返した結果、少々のことに動じなくなる程度」のように扱われている側面が強く見受けられます。
そうなると長命種の種族的な寿命から考えたライフステージとは無関係に、実年齢の高さがそのまま精神年齢となるのでしょうか?
これは大いに疑問です。
そもそもキャラクターに与えられた役割によって決まるという身も蓋もない答はあるにはあります。
江戸前エルフのヨルデが600歳超えの年齢に関わらず全体として言動が幼いのは、そういう設定のキャラクターであるからだと結論づけて考察を止めることは可能でしょう。
でも本当にそれでいいのでしょうか?
分からない。
もう分からない。
10歳の老犬を擬人化した時、その精神年齢は人間の60歳に相当するものであるべきなのか、人間の10歳にそうとうするものであるべきなのか、その答を延々と探し求めるようなものです。
「答えなんてない」で終わりにすべきだという方向に直感は動いています。
でも試しに人に聞いてたり、本を開いてみれば別の答えが返ってくるかも知れない。
聞くべき相手も開くべき本も分かりません。
誰か助けてくれ~~~~。°(´ฅωฅ`)°。
昨年度公務員試験を受けるために会社を退職し、合格して来年度からの任用を待っているため現在ニートの身である。
小さい頃から過度な受験戦争にさらされてきた私は、従兄弟や祖父母の住む田舎町に憧れていた。
週末は畑や田んぼをし、きれいな景色を見ながらのんびりと暮らす、受験戦争とは無縁の世界。いつかはこんなところで一生を送りたい。そう思いつつも、なんとなく周りの価値観に流されてしまい、都会の大学、都会での就職ルートを辿り、慌ただしい日々を過ごしていた。
公務員試験を受ける際、私はチャンスだと思った。ここで田舎の市役所を受ければ一生田舎で暮らせる。ついに憧れの田舎ライフだ。私は意気揚々と出願をし、受かったら一緒に住もうと祖母に連絡を取り、夜行バスで説明会や試験に通った。
そして迎えた面接。私は通り一辺倒の質問をされてあっさり落ちた。都心の官庁や自治体は合格できたのに、ここだけあっさり落ちた。
「年齢が行きすぎてる女なんて採用するわけない」
との言葉が口々に投げかけられた。
そこで初めて気がついた。
私は田舎の嫌な面に目を瞑っていたということを。
よそ者に対する風当たりの強さを。
田舎民からしたら、私は何処の馬の骨ともわからないただの行き遅れの無職なのだ。
そりゃ返り討ちになるに決まってる。