はてなキーワード: 溜池とは
ふいーいてきたー
えっといくついったんだ
おもてむきにアリバイで少し一般のうってるけど本体はえろうってるむかしながらの本屋3個
マンガ倉庫とブックオフゲオをあわせて2,3こくらいと思ってたのにいざ出向いてマップアプリでみたらいっぱいあるんだもんなー
まあこれでせいせいしたわ
とちゅうでマックスバリュで割引になってた弁当をかってたべたらくそまずかった
けっこういくとちゅうに住宅街とか山方面をとおったら史跡とかよーわからん個人美術館とかあって、そっちメインでのんびりまわりたかったなと思ったりした
ただ自転車はやっぱきついなー
かったのはゲーム2つくらいだけど、知らない店、場所にいくのがメインだったしいいんだ
溜池にはからだくろくてくちばしがオレンジの親子の水鳥がいて正体不明
ねこはみなかったな
工場っぽいのの横に犬がつながれてた
昔ながらの団地っぽいとこの裏に、めっちゃさびてくちはてたシーソーがあって、うおおおおおおお!めっちゃえもい!!!と興奮して写真とりまくった
去年も一昨年もなんやかんや言って帰れんかったし俺その前の年も仕事あったから集まりさぼるわ言うて帰らんかったんな。せやから都合三年ぶりくらいになんのかな?三年前の盆以来かな。いやちゃうわ、じいちゃんが死んだで九月に一回帰ったんやった。いやでもじいちゃんの葬式もほとんど斎場にいったみたいなもんやったし、何言うて俺じいちゃんの霊柩車乗ったくらいしか覚えてへんわ。ばあちゃんのときは家で死んだから寝ずの番とかしたけど、じいちゃん骨折してからずっと入院しとったし。
地元さえげつない田舎やねんけどさ、いやもうほんま今お前が想定したのの三倍くらい田舎なんやんか。ぼく人に地元のはなし言う時絶対言うねんけどトトロ。トトロおもいだして?あれ。あれの村の感じよ。マジで。信号機とかもなんもないの。舗装はされとるけど、農道やでされてないと困るってだけよあれは。トラクタとかがぬかるんで足取られたら動けやんから。
そんで帰ってさ。うちの実家割と適当やから別にようあるほら、実家帰ると無限に食べもんでてくるとかそういうのもなくてさ、母ちゃんも父ちゃんもあー帰ったんみたいな感じで、ゆきちゃんの散歩してきて言うてきて。三年ぶりに帰った息子に犬の散歩てと思ったけどまぁ犬は可愛いから散歩いくやんか。ゆきちゃん。しばいぬ。かわいいで。年とって目ぇ悪いねんけど、家のまわりは散歩するから、まぁ久々やし戯れましょかねいうて。
そんでねぇ、トトロいうたけどウチん家はさつきとメイの家みたいぽつんと一軒家ではないからさ、集落の中にあんねやんか。で犬連れて歩いとると火の見櫓のとこの市川さんちの息子が帰ってきたわ言うてその辺のじーちゃんやのばーちゃんやのがえろう気楽に声をかけてくるんやんか。俺も慣れてるからまぁなんやはいはい言うて、あんたえらい髪の色なったなとかさんまいの坂の上のサキちゃんも帰ってきてんでとかまぁどうでもええこと教えてもろてさ。そう在宅ばっかになったからええやろおもて年末に髪ピンクにしててんさ俺。もう色ほぼ抜けてもてキンパやけどな。あとで染めたての写真見せたろ。
ああでそうさっきも言うたけどうち去年じいちゃん死んでんさ。ばあちゃんが死んだのも最近の話やったからまぁえらいことやったねみたいなことを言うてもらったんね。ほんまにねぇこの大変な時期に色々お世話になりましたぁいうて。ええなんもなんもみたいなさ。いやあれ田舎スイッチな。俺も田舎帰った瞬間そういう会話できるようになんねん。ふしぎやにあれマジ。田舎に育ったもののみ培われんねんてそういうやつ絶対。
そんな感じでまぁじじばばとしばらく立ち話してんけどむっちゃ寒いし、いや風がまじでやばくて、今年うちのほう正月雪ちらついてていやもうあかんあかんこんなとこで立ち話しとったら死んでまうわ!なって、もう犬もほとんど帰りましょか?みたいな顔してたからさ、んじゃよいお年をー言うて帰ろとしたらさ、ばばの一人にあんた散歩行くなら堤防のほうはいかんときなにって言い含められて、そんなん怖い話の導入みたいやん?なんでですか?言うて聞いたんけど、どうも狐が出るからっつってもうえげつないしかめっつらしてんさ。堤防。さんまい向こうのかいとからちょっといったとこにダムっていうかでかい溜池があんのよ。トトロでメイちゃんがおらんなった言うて竹でさらっとったみたいな。なんでもトトロかっちゅうかんじやけど、まぁほんまにああいうね。柵とか何もないの。子供落ちたら全部死にそうなんやけど、いまだになんもされんのよねあそこ。俺のときは登校班五人くらいやったからまぁわかるけど、今結構子供おるらしいしあぶなないんかな。しらんけど。舗装もされてないし、私有地やったりするんかな。わからへん。
で、そのへんの近くのはたが荒らされる言うて、罠かけたら狐がかかったんてさ。狐やで群れではないやろけど、それでも一匹だけかはわからんで近寄るなって。そういや姉ちゃんがLINEで狐見物に行ったとか言うてたしああそれかぁっつって。いや娯楽がないのでね、なんや知らん動物がかかったぞ言うて人が集まるのよ田舎は。
そんでまぁ、きつねがおるから近寄るなて、日本昔ばなしか!言うて。完全に世界観がむかーしむかしー言うてるのよ。でもエキノコックスとかあるやん?なんの病気持っとるかもしらんし、その辺に糞だのなんだのあってゆきちゃんが変なんもろたら困るのはほんまに困るから、そのままばばの言うとおり堤防のほうは行かずに、さんまいの辻のとこで回って隣の集落とのさかいまで行って帰ろうとしてんさ。
うちの村と向こうの村の境ってすごい坂になってんのよ。昔は崖やったらしいに。こう、うちの集落がちょっと小高い丘みたいなってるのね。で、こう、もう無理やりコンクリで坂にしました!みたいな無茶な坂があんねんけど、そこの麓に一個畑があって。ちょうど…またこれもトトロやねんけど、あれの感じのぽつんと一軒屋みたいな家に住んどるじいさんだかがちっちゃいみかんの木とか、なんや野菜とか、じぶんちで食べるぶんだけ作っとるみたいなちっちゃい畑なんな。なんか最近お孫さんができたんかしらん、木の下に芝生みたいなん敷いてあってちょっとした遊び場になってるし、別にへんな畑とかではないよ。
ただ、あのーこれ田舎あるあるやねんけど、各畑に農機具とかをしまっとくちっちゃい小屋があったりすんのね。あと雨水ためとく古い風呂桶とか。まぁ風呂桶はええねんけど。で、農機具って言ってもクワとかシャベルとか、ふつうに盗まれたら困るし、あとほら、刈払機とかはチェーンソーとかおいてるとこもあるからあぶないんね。鍵掛けとかんとあかんやん。でその畑は廃車なったハイエースおいてたん。まぁ鍵もかかるし、休憩したいときには座席もあるしみたいなかんじなんかな。しらんけど。
さっき狐の話聞いたばっかやし、それでなくとも野犬とか怖いやん?ゆきちゃんはよぼよぼやし。俺が守らな!なって。あわててリード引っ張ってゆきちゃんだっこして、ただゆきちゃん、ボンレスハムみてぇなぱつんぱつんのしばいぬやから、めちゃ重いねん。しかも抱っこがきらいなんやん。もう、なに?全然だっこに協力的じゃないのね?手足がジャキーンなってでけぇ飛行機だいとんか?みたいな感じで、ひっくり返って転んでもてん。くそだせぇんやけどほんま。ずてーんいうて。重たー!いうて。
で慌てて起きたら、ハイエースの下から出てきたやつのほうもなんや急におるやつがバタバタしてずてーん転んでびびったんかしらんけど、ブシュッみたいな鳴き声して道の向こうの方逃げてくところやって、あーよかったーってなったんやけど、ビョインビョインて跳ねるみたいに逃げてくそれがさ、でも、どうみても狐じゃないんよ。
しっぽはひょろっとしてて、毛ぇもまばらで、目のところが真っ赤になってて。なんかぼつぼつがびっしり体中についとって、さぶいぼみたいなってて。なんか病気みたいな格好やったん。いやもーあれいややったー!ぼく無理やねんてああいうブワッてこまかいのなってるの。今思い出してもおぞけする。
でもそれよりウワッておもたんが、そのさ、訳わからんなんかのちょうどこの、みぞおちのあたり?ふとももの上へんやったかな?そのへんにさ、ふたつ、まるい輪っかがふたっつついとったん。そこだけ生き物の造形じゃないのよ。なんか急に人工物で、ナマモノぽくなくて、あれなんやったんやろって思いながらもうほんま怖かったしびびったしでもう速攻で家帰った。ゆきちゃん?いやもう俺がどたばたしてるあいだずっとなんですか?みたいな顔しとったわ。あほ犬やから。そこがええねんゆきちゃんは。チャームポイントやねん。あほとへちゃむくれとデブがチャームポイントやねんゆきちゃんの。あと自分のしたうんこをたべるところ。
そんで帰ってさ。まぁ当然話するやん家族に。さかいとこの坂の下の畑にへんなんおってさめっちゃ怖かったわー!いうて。父ちゃんが皮膚病かかった狐かたぬきかちゃうか言うて、寄り合いだのに連絡しとくわってなって。ゆきちゃんが退治してくれたんか?そんなわけないやんゆきちゃんはぼけっとしとったわ、わしが慌ててゆきちゃん抱えたらくっそ重いでひっくりかえってんぞ言うて。
その時はそんで終わって。まぁあれはえらい話やったねって感じやったんやけど。
年明けてから、俺がそろそろ帰ろかなくらいの時期におかんに裁縫用のハサミのカバー作ってくれって言われて。あのー俺レザークラフトやるやん。フェイスブックみたらしくて、ずっと使ってたんがほころんでしもたからあんたこんなんつくれんかって言われて。道具も何も向こうやでじゃあそのハサミの採寸だけやっとこかって母ちゃんにハサミもってきてもらって色々触っとるうちにふと気づいたんやけどさ、あのへんなんについとった丸いやつ、こういうでかいハサミのハンドルそっくりやったなって。ブスって横っ腹にこういうハサミをぶっさしたらあんなんになるんちゃうかな、ておもて。
いややなぁ、なんかあれ、ほんまいややったぁ。
日本の包丁というのは切れ味が格段に良くて海外からわざわざ取り寄せる人が居るほどカルト的な人気がある。
コロナ前はかっぱ橋道具街にも外国人が沢山いて数万円もする包丁がよく売れていた。
だが実はこの高級和包丁の原料を作っている会社というのはほんの僅かなのだ。寡占市場なんである。
その一番の鋼材供給元である日立金属安来工場の先行きが不透明である。
和包丁には作りが二つあって
1.刃物鋼を軟鉄でサンドイッチして鍛造する「霞」(割り込み包丁)
2.全身が刃物鋼の「本焼き」(全鋼とも)
一般的に霞より本焼きの方が高くて玄人好みなのだが、どっちの包丁でも肝心の切れ味を左右する刃先は刃物鋼という特殊鋼で作られる。
この刃物鋼には炭素鋼の白紙、炭素鋼にタングステン等を混ぜて切れ味を長持ちさせた青紙などがある。
だがこの白紙も青紙も作っているのは島根県の日立金属安来工場一か所なんである。
他に例えばステンレスの高級包丁などではV金10号なんていうステンレス刃物鋼を使い、これは武生特殊鋼という会社が作っている。こっちも独占市場だ。
でも和包丁と言ったらやはり鋼であって、この安来鋼と言われる刃物鋼はほぼ必ず日立金属安来工場製だ。
なんで製鉄部門を手放したかといえば日立グループの決済が悪化したからだ。
この原発輸出の失敗は非常に不思議な事で、例えば判りやすい方の東芝のウエスチングハウス買収では構造的に原発の新設が不可能と知られる所に巨額の投資をして失敗している。
アメリカの原発新設が不可能になったのは電力自由化とスリーマイル島事故の為というのは有名である。
電力自由化はペイできないリスクを抱え込む事を不可能にする。日本でも国策企業の電源開発がなければ原発新設なんて出来なかった。
そこへスリーマイル事故で安全基準が上がったら国策ではなくて商売としての原発新設なんて不可能だ。更に福一である。
こういう構造的な問題が知られているのに何故か東芝はWHの決済書を読んでいけると考えた。WHはどういう魔法でクリアしたのか?
蓋を開けると粉飾決済という魔法で、単に巨額資金で負債を買った結果となった。でもこの結果はそりゃそうでしょというもんで不思議でも何でもない。
日立の方はそこまで酷くないが、それでも福一で格段に上がった安全基準の為に償却の目途が付かずにご破算となった。
だがなぜ甘い見通しのままで巨額資金を投じているのか?
要するに重用された経産省の傍流革新官僚が持ちかけた投資話なのであろう。官邸の数人で児戯のような「国策」を設計してみた結果だ。
人に金出させて失敗した仕手筋なんて刑務所にブチ込まれるのが経済事件の常識だが、この革新官僚は未だ霞が関と溜池にいる。
それにしてもバブルの最中でもないのにこんな雑な投資話なんてそうそうない。どんな美味しい話をされたのか脅されたのか気になるところだ。
何れにしても日立金属は売却されてしまったが問題は事業規模だ。
日本は製鉄大国だ。それ故製鉄の取引額は莫大で韓国の世界一の造船を支え、アメリカ北部の製鉄業を壊滅させてラストベルトを作った。
刃物鋼は冶金や特殊鋼の一部門であってその特殊鋼の事業規模も製鉄全体から見たら非常に小さい。
つまり製鉄大国であるが故に、刃物鋼の生産というのは町久場レベルの極小事業なんである。
その為に地元では工場が整理されて閉鎖されるのではないかとの懸念が出ていて去年から商工会議所が知事に陳情したり県知事、市長を交えた会議があったり、知事が日立に要望出したりしている。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCC203NZ0Q1A520C2000000/
だが経済界では和包丁文化の取り替えきかない要だという事を理解する人は少ないようなのだ。
一方、料理人は?といえばどうも経済紙を読む人は少ないようで騒いでいる人は見ない。
今日も「和包丁は日本刀の流れをくむ文化で~」とかの言説に悦に入っているような人ばかりなんである。困ったもんだ。
因みに幕末まで刀鍛冶は大名に雇われた存在で、包丁などは野鍛冶、村鍛冶の仕事だった。職分が違う。
また冶金技術は戦後に鉄の流通が急拡大してから急激に伸びている。
戦前の製鉄は官需や軍需に過分に依存した歪な業界構造で、包丁など調理具はその官需軍需から離れた所にいた。
戦後は軍港の転換で造船所が出来、製鉄需要に火をつけて造船、建築、自動車などの大需要が発生してきたが、刃物鋼はやはりこの大市場の外部にいた。
経済人が唯一無比の高級和包丁原料製造者である事に気づかない原因でもある。
「和包丁は日本刀の流れをくむ世界に誇る文化」なんて程度の低い客向けの口上の筈なのに自分たちがその口上に酔ってしまい、業界構造を頭に入れずにその「世界に誇る文化」が危機に瀕しているのに気が付かない。
白紙の包丁が店頭から全て消えてからあたふたしても遅いのである。
因みに海外の調理具メーカーでも数万円ラインの高級品ではやはり安来工場の刃物鋼を使っている。
それから「紙」っていうのは、ロール状に巻いた鉄板とか数十メートルもあるH鋼なんかと違って刃物鋼はコピー用紙とか新聞紙レベルの板として取引されるのでそう言われる。
和包丁が無くならない事を願うばかりだ。
今年、家を買う。
20年前、こんなど田舎に住むなんて考えられないと思った、この土地に。
実家から車で一時間の、おじの家で遠くに聞こえる電車の音と少しの民家と、田んぼ、田んぼ、田んぼ、それと、いくつかの溜池。
何もすることないじゃんと思っていたこの土地に、根を下ろすと決めたのだ。
思えば去年までは奨学金を払い終えたらもう一つの故郷の海外へ帰るつもりだった。
私は日本と日本の真裏の国のハーフで、育ちは日本だが、故郷の言葉も話せるし、親の定年が目前となっており故郷へ帰ることを知っていたから自分もそちらへ行くか、という決断だった。しかし、故郷の政府はとても頭がわるく、今回のコロナでの対応も目に余るものだった。ギャングたちによるコロナ伝播阻止や、脱獄囚たち。命の危機が日本よりも何倍もあるその国で子供を生み、育てたいと思えなくなっていた。
幸いにも私は早々に生涯の伴侶にあい、いま苦楽をともにしている。私の気の変わりように快く「うん、いいよ」と頷いてくれた。
そこで、この決断が揺らがないうちに、決めたからには家を建てようとなり、一ヶ月ほどでホームメーカーと契約をした。
幼い頃、おじの家に遊びに来るたびに何もないところだなと思っていたこの土地に、田んぼしかないと思っていたこの土地が、今はどうしようもなく好きだった。
この街大きく発展し、子供のいる世帯には手厚い待遇をしてくれるし、車さえあればとても住みよいし、学校もいっぱい増えていて、映画館もあって、外食や買い物に困らないすごいいい街になっていた。
前職がこの街にあったことから賃貸で3年住んだからこそここに落ち着きたいという強い気持ちができていた。パートナーは電車通勤に1時間半もかかる。それでも構わないと言っている。
ここに、住もう。
故郷へ帰る親は大賛成だった。間違いなく、あなたの国はこっちだと、海外旅行が好きで、新しい家電が好きで、アニメ漫画が大好きで、災害ときちんと向き合うこの国があなたにはあってる。故郷は世紀末みたいだけど、親は日本で老後を生きるすべ、金がないからと言った。
私は少し悲しくなって、お礼を言った。
幸運にもこの街にはすでに友人が何人かいるし、叔父もいる。怖いものはなかった。後悔もなく、早く家が建たないかなという楽しみだけある。
実家は貧乏だった。外国人労働者の待遇は非常に悪い。年も食ってきた。学生時代、大学に行きたいといったら反対された。お金がないとのことで。
あのときからすでに奨学金という借金を抱えていて、日本では家を建てられないと、諦めていた。子供の頃の貧困からずっとずっと諦めていた。
でも、買ったよ。買えたんだ。
パートナーと4回くらい転職したけど、やっといい会社に出会ったんだ。
今回の水害で俺の故郷も被災してるんだけど、車がダメになった・二階まで浸水したみたいな被害を受けてるのは軒並み新住民の団地なのね。
あの辺りの土地は10年毎とは言わないけど30-50年置きぐらいにこれぐらいの洪水が起こる。
戦後に貧乏な引揚者が住み着いたけど洪水で全部流されたという話は、地の人間ならみんな知ってる。
だから地の人間は家を建てたりしないんだけど、同じ県内でも他の郡出身だと普通に知らなかったりする。
「最近あの辺に家が建つようになった。何も知らないでバカだなあ」と毎年帰省するたびに地元の家族や友人から聞かされた。
開発業者は小中学校に至近で子供の通学の負担が軽いのも売り文句にしてたそうな。知っててやってたなら悪辣だと思う。
俺も通ったその小中学校の土地は田舎でよくある地元の土地持ちが寄付した物なんだけど、道徳の教科書に載るような立派な人でもなかったので、家や畑に向かない水捌けの悪い土地を寄付したのね。
前日に雨が降ったら翌日いっぱいはグラウンドぐちゃぐちゃで球技とかやってられないみたいな。
そんなわけで新住民の団地はこれ書いてる今も水に浸かりっぱなし。溜池を潰した土地なんかも混じってるし、いつ水が引いて家が片付けられるかは神のみぞ知るって状況。
タイトルで「地の人間に災害のリスクを聞くべし」みたいなこと書いたけど、よく考えると普通に聞いても教えてくれんわ。
よその人間に知られたら宅地用に売れなくなるし、自分の土地だけじゃなく、他人の土地の価値が下がる情報を広めるのもタブーね。
あまり知らない土地に家を建てる予定の人は、今回の被災者みたいな目に遭いたくなければ頑張って俺みたいな人間をみつけて情報収集して欲しい。
東京首都圏や近畿地方の大都市に住んでいる人間にとって、長野県という地域は大変人気である。
山や川の大自然に囲まれた観光資源の宝庫として、また軽井沢や原村の別荘地のある場所として注目されやすい場所だ。
また近年は、大都市に住んでいる人達の移住希望地の上位が長野県になっているらしい。
この20年ほど、長野県は県を上げて「信州ブランド」の発信を行っていて、県外の人間の長野県への好感度は非常に高い。
それ自体は良いのかもしれないが、実際に長野県に住んでみるというのは、結構過酷な場所だと思う。
本屋で売っている長野県の観光ガイドや、ターミナル駅に置いてある長野県の案内本を読んでみると、大自然に囲まれた長野県と言うPRがなされていて、それ自体は間違ってはいない。
実際の長野県は、山岳や丘陵地帯ばかりで、人間の住めるような平野や盆地は限りなく少ない。長野盆地や松本盆地、飯田盆地の3か所を除けば、ほとんどが山ばかりである。
おまけに、あまり知られていないが、長野県は慢性的に水不足がひどい地域である。長野県の西側には北アルプス、中央アルプス、南アルプスの3000メートル級の稜線が覆っているので、長野県内陸部に流れてくる雨雲はみんなこの山岳地帯に遮られて、雨がほとんど降らない。
逆に、長野県の周辺県は全て一年を通して大量の雨が降り、水に恵まれた場所だ。アルプス山脈の西側の岐阜県の高山地方や富山県の立山地方は、雨が降り過ぎて逆に洪水対策ばかりやっていることで有名だし、静岡県全域も非常に雨が降る場所。長野県内が痩せ川ばかりなのに対し、大井川や安倍川は暴れ川として有名だよね。
中信や南信はまだマシかもしれないが、上田市や坂城町のある東信地方は、日本一雨の降らないエリアとなっていることはあまり知られていないのではないか。
平野が少ないうえに、残った土地も痩せているので、作物は育たない。
長野県は「そば」の名産地として有名になっているらしいけど、なぜそばを作らざるを得ない環境なのかを考えてみるのも面白いだろう。
別荘地やリゾート地として有名な白樺湖は、元々は雨が少ない諏訪地方の農業用溜池として造られたのだ。
軽井沢も雨が降らず、浅間山から吹き下ろしてくる強い風で全く農業が出来ない痩せた土地であり、リゾート地として開発するしか使い道が無かった場所である。
大量の雨が降ってコシヒカリなどの米を作ることが出来る新潟や、雨が多く御母衣ダムなどの電源開発地帯として有名な岐阜、滝のような流れの成願寺川や黒部川を有する富山県などの周辺県と比べると、ムリゲーみたいな場所が長野県である。
浅草橋、池袋、上野、五反田、新宿、渋谷、品川、巣鴨、日本橋、八王子
赤羽、青戸、荻窪、赤羽橋、蒲田、板橋、飯田橋、大森、大原、王子、羽田、日比谷、東中野、本郷、馬込、丸子橋、三宅坂、目白、四谷、目黒、谷原、六本木、信濃町、砂町、千住、瀬田、高井戸、辰巳、高田馬場、戸田橋、等々力、成増、半蔵門、初台、晴海、亀戸、上馬、葛西、亀有、銀座、言問橋、高円寺、桜田門、大崎、三軒茶屋、新橋、四ツ木、西新井、三ノ輪、南砂、芝公園、市川橋、祝田橋、永代橋、恵比寿、大久保、大手町、御徒町、駒形橋、駒沢、笹目橋、水道橋、溜池、豊洲、秋川、五日市、あきる野、青梅、奥多摩、数馬、清瀬、狛江、小平、立川、高尾、西東京、多摩ニュータウン、調布、拝島橋、東村山、檜原、府中、町田、瑞穂、三鷹、福生
増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位は従五位下・右衛門少尉。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 仕官以前
2 子孫
3 主な家臣
3.1 一門衆
3.2 重臣
3.3 その他
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 関連項目
生涯[編集]
生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在の愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在の滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国に存在した増田氏との関係は不明である。
秀吉に仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。
天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。
秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見の日記に名前が登場している。
天正12年(1584年)3月、小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月の紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍、根来衆の津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。
天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行と知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さらに下野・常陸・安房の大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏が駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。
太閤検地では石田三成、長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国、美濃国、越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請に積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋・五条大橋の改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。
文禄元年(1592年)からの文禄の役では、石田三成、大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城に駐留し、奉行として占領地統治や兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。
文禄4年(1595年、豊臣秀次が秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このときの対応が秀吉によるキリスト教(フランシスコ会)の弾圧(日本二十六聖人の殉教)の端緒を開いた。
文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月、大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和中から夫役が徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国・和泉国の蔵入地の管理を委ねられている。秀吉の晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。
慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則・石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。
慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康の立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家や前田玄以など五奉行連判で家康の悪事を糾弾する弾劾書を示し、五大老の毛利輝元や宇喜多秀家を擁立して挙兵、西国大名に西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。
伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原清左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田作左衛門を陣代として軍勢を派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方の勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯。戦後の9月25日、出家して謝罪し、9月27日に大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。
後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月、家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣で尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。
三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地の100万石がもたらす資金・人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。
墓所は埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。
全国菓子大博覧会(ぜんこくかしだいはくらんかい)は日本の地方博覧会のひとつで、和菓子を中心に、洋菓子・スナック菓子等も
含めた日本最大の菓子業界の展示会である。全国菓子工業組合連合会(全菓連)などが主催している。
1911年(明治44年)、東京府東京市赤坂区溜池町(現・東京都港区赤坂)で、第1回「帝国菓子飴大品評会」が行われたのが始まりと
されている。第3回から第9回までは「全国菓子飴大品評会」、第10回から「全国菓子大博覧会」の名称を使用している。
開催間隔は不定期であり、第二次世界大戦から戦後占領期にかけて13年余りの中断期もあった。
傘の端から滴り落ちる雨粒を見やりながら、ぼんやりとAのことを思い出していた。ぼってりとした雨雲が犇めき合う季節になると、彼は眉間に深い渓谷を刻んでしきりに舌を打ち鳴らしていた。
至る所で蛙が鳴き声を上げている。あの日も同じだった。夥しいほどの蛙が、姿も見せずあちこちで喉を震わせていた。
あの日、Aはいつにもまして苛立っていた。いつになく舌打ちの回数が多かったし、形相までもが歪み始めていたのだ。
家路を共にしていたわたしは気が気ではなかった。狂おしいほどの不快感というものを、生まれて初めて目の当たりにしていたのだ。両目が釣り上がり、眉間はもちろんのこと鼻筋にまでしわを寄せたAの容貌は、この世のものではない黒々とした悪意に乗っ取られてしまったかのようだった。
なんとかしなければならない。少し後ろを歩きながらわたしはそう考えていた。早急にAの不快感を発散させなければならない。いつその矛先がわたしに向くかわからなかったのだ。
梅雨空の下、わたしは沈黙したまま歩き続けた。つかず離れずAとの間に一定の距離を保ったまま進み続けて、不意に先生の話を思い出したのだった。
それは先生が子供の頃に行っていたという遊びのことだった。パン、と弾けるのだという。ひどいことをしていたものだと、先生は苦笑交じりに語っていた。
わたしは先をゆくAにおずおずと話しかけてみた。ねえ、蛙に爆竹を仕込んでみない。
声を聞きピタリと立ち止まったAは、しばらくの間前を向いたまま立ち尽くしていた。やがてゆっくりと振り返ると、わたしが口にした言葉の意味が掴めないといったような表情で虚ろな視線を寄越し始めた。わたしはそのとき、意味もなく愛想笑いを返した。だけに留まらず、沈黙に耐えられなくなった末、その背中を押し出してしまった。
よくわからないけどさ、イライラしているんでしょう。だったらやってみようよ。嫌いな蛙を懲らしめてやろうよ。
本当に、その程度の思いつきだったのに。
わたしはAの眼の色が変わっていく様をまじまじと見つめてしまった。
それも、そうだな。
ぞっとするほど酷薄な表情を浮かべたAがそう言った。彼のものとは思えないほどに冷え切った声色だった。わたしは思わず鳥肌の立った二の腕を抱いていた。ねっとりとした暗黒色の感情が、形をなしてAの背後に立ち込めているかのようだった。
わたしは今すぐにでもその場から立ち去りたくて堪らなかった。とてつもなく嫌な予感がした。「絶対を破ってしまった後ろめたさ」のような感情が、怒涛のごとく押し寄せてきていて呼吸をするのが苦しかった。
今なら当時わたしが呑み込まれた感情が何であるかがはっきりとわかる。あれは呆れるほどに純度の高い恐怖だったのだ。生理的本能的な原始の恐怖。それが驚くべきほどの奔流となってわたしに流れこんだのだ。お陰でわたしはその場からぴくりとも動き出すことができなかった。Aと向き合ったまま、両足が地面に縫い付けられてしまっていた。
にっ、とAが笑った。
何も言わずに再び前を向いたAは、歩き出しながらわたしに指示を出した。ありったけの蛙を捕まえて公園まで待ってきてくれ。口調は穏やかそのもので頼みを聞いてもらうときのそれに近かったものの、内実その根底には逆らいようのない高圧的な意図が宿っていた。反故にすることなど、できるわけがない。恐怖に支配されたわたしの首はほとんど自動的に頷いていて、わかったと端的な服従の誓いまで口にしてしまっていた。
絶対だぞ。
念を押されたわたしは、帰宅するや否やプラスティック製の小さな水槽を抱えて再び雨の町へと飛び出した。
蛙を捕まえなければならなかった。一匹や二匹では足りない。胸に抱えた水槽から溢れんばかりに捕まえなければならなかった。そうでなければ、どうなるかわからない。どこかたがが外れてしまったような様子のAが、何をしでかすともわからない。
かえるかえるかえる。わたしは死に物狂いで蛙を探し続けていた。大きいものから小さなものまで、見つけたら片っぱしから水槽に突っ込んでいった。かえるかえるかえるかえる。まだ足りない。まだ足りない。全然足りない。
ただ、恐慌状態にあったわたしは少しだけ運が良かった。Aが指定した公園には小さな溜池とそこに向かって流れる側溝があって、そのため草むらや生垣の中から途切れることなく蛙を見つけることができたのだった。加えて、その年は例年になく蛙が以上発生していた。わたしの右手は次から次へと蛙を捕まえていった。
十五分くらいで水槽の半分ぐらいが蛙で埋まった。随分な量だった。抱える左手が重たくて辛かったことを覚えている。しかしながら、それでもまだ蛙が足りなかった。こんな量じゃ満足してもらえないと思い込んでいた。
狂おしいほどの強迫観念だった。ストレスからくる吐き気まで催していたと思う。Aという圧倒的な恐怖に苛まれていたわたしは、グロテスクな体を所狭しと寄せ合った蛙たちの上に、捕まえていたのと同等かそれ以上の蛙を詰め込んでいった。
それからもう二十分ほど探し続けて、わたしはようやく水槽の蓋を閉じた。見れば、限界まで詰め込まれた蛙が壁面に抑えつけられながらもぞもぞと動いている。腹を向けていたり、背を向けていたり。ある蛙は押し付けた眼球が潰れかかっていたし、最初の方に捉えた蛙にいたっては、底のほうで身動きも取れないまま胃袋を吐き出しているようだった。
わたしは右手に傘を左手に水槽を抱えたままAが来るのを待っていた。早く公園に来て全てを終わらせてほしいと願う一方で、どうかこのまま絶対に来ないでくださいと望まないわけにはいかなかった。
雨は途切れることなく傘を叩き続けていた。根こそぎ集めたつもりだったのに、依然として蛙の鳴き声は四方八方から鳴り響き、傘に反射して頭上からも降り注いでいた。
どれほどの時間立ち尽くしていたのだろう。じっと足元に落としていた視線を持ち上げたわたしは、雨にくすんだ公園の入り口に現れたAの姿を目にすることになった。ドクンと心臓が脈打つ。血流が速くなって、外気が急に寒くなったように感じられた。
Aはゆっくりとわたしの方へ歩み寄ってきた。手には買い物袋。大きな大人用の傘を差して、これから行う行為にふさわしい服装であるかのような暗い色の服に着替えていた。ただ一点、スカイブルーの長靴だけが場違いに目立っていた。そこだけが異質なまでに邪気がなく、わたしは急にぞっとしなくなった。
たくさん集めたな。Aはわたしが抱えた水槽を見下ろして満足そうに言った。十分過ぎるくらいだ。思う存分楽しめる。にやりと歪んだ笑みが目の前に広がった。喜んでもらえたから、取り敢えずはほっとすることができたから、わたしも笑顔を返そうと思った。けれど、こちこちに強張った表情筋はぎこちなく伸縮することしかできなくて、声さえ口に出せなかった。
やるか。Aは素っ気なく口にした。わたしは命令を受け取ったロボットのように水槽の蓋を開ける。蛙を一匹取り出すと、彼の右手に手渡した。洗練された無駄のない無機質な動作だったと思う。蛙を受け取った彼は、買い物袋の中から小さなダイナマイトを取り出し、無理やりこじ開けた蛙の口に詰め込んだ。
がそごそと左手に持った薄いビニール袋を騒がせて、取り出したライターをわたしに差し出す。
点けてくれ。両手が塞がってて、何も出来やしない。
わたしはこくんと頷いて彼に従う。ライターを受け取り、石火をジャリジャリならして、揺らめく小さな炎を作り出した。
やろうか。そう、彼が言った。わたしはまたこくんと頷いて、そっと導火線に火を近づけた。
シュッと小気味いい音が聞こえて、細かな火花が飛び散った。Aはすぐさま蛙を放り投げた。
口の中に爆弾を放りこまれた蛙は、降り注ぐ雨の中、カタパルトみたいに宙空へ飛び出して、緩やかに下降していきながら、途中で、唐突に、弾けた。
乾いた音だった。蛙は空中で四散した。緑色の体から、予想もしていないほどの赤をまき散らして、四肢と臓腑をズタズタに引き裂かれた生命は、何の理由もなしに爆散したのだった。
べちゃり、と砕け散った血肉が地面を穿つ音が聞こえた。前にも増して雨は強く振り続いているのに、その音だけはしっかりと耳まで届いた。
べちゃり。
わたしは隣に佇むAに眼を向けた。
彼は声を上げず、身動ぎもせずに、じっと散り散りになった蛙の残骸を見つめていた。異様なまでに見開かれた瞳孔は、直前まで意思を持っていたはずの残骸を網膜にさんさんと焼き付けているようだった。
ぽっかりと半開きになった口に微かな笑みを浮かばせていたような気がする。その口元にだけ笑みを浮かべて、Aは食い入るように死体を眺めていた。自らの行為に心から耽溺した怪物のようだった。
ゆらりとこちらに向き直ったAは、もう一回やろうぜ、と言ってきた。わたしはこくんと頷くと、再び蛙をAに手渡した。それ以外に選択肢がなかったのだ。ライターに火をつけて導火線に近づけた。
蛙が弾けた。何匹も何匹も爆ぜて死んでいった。殺されたのだ。Aとわたしは殺戮を繰り返していた。雨降る公園が血肉に染まり、地表を覆う水たまりまでもが真っ赤になり始めても、わたしたちは蛙を殺し続けていた。
途中から爆竹を使うのが面倒になったらしいAは、おもむろに残りが半分前後になった水槽に手を突っ込んだ。そのまま躊躇いもなく手を握る。ぐーぱーぐーぱーと、ハンバーグをこねるかのように蛙たちを握りつぶしていった。
惨劇にわたしは小さな悲鳴を上げた。抱え込んだ水槽の中で生々しく蠢く蛙たちがいとも簡単に圧死していくのである。Aが右手を開閉するたびに、ぐちゃぐちゃと凄惨な音が鳴り響いた。ぷちぷちと気泡が潰れるような、密に詰まった組織が圧迫されて破裂していく音が断続的に聞こえてきていた。
わたしは水槽の中の地獄をじっと見下ろしていた。眼を閉じることができなかった。背けることも。かと言って、Aと視線を合わせることも怖かった。Aが目の前にいたから、ただじっと耐え忍ぶことしかできなかったのだ。目撃者として、共犯者として、わたしは蛙が死にゆく様子をありありと見せつけられなければなからかった。
水槽からは生温かい臭気がねっとりと立ち上ってきていた。時折血肉が勢いよく噴き上げて、わたしの服に付着していった。胃が痙攣を繰り返す。喉の奥から逆流してきた酸っぱいにおいが生臭さと入り交じって、如何ともしがたい臭気を醸しだす。滲んだ涙でわたしの視界は霞み始めていた。鼓膜には、依然としてミンチをこねる水っぽい怪音がこびりついている。
とうとう堪らなくなって、わたしは水槽を手放してしまった。地面にぶつかって、どろどろに潰された真っ赤な流動物が地面に広がっていく。中にはなんとか生き残っていた蛙が数匹残っていた。彼らは変わり果てた同胞の海から這い出すと、懸命に逃げ延びようと地面を跳ね始めた。
その一匹一匹を、Aは踏みつぶして回った。何度も何度も足を振りあげて、全体重を掛けて踏み躙った。ぐりぐりと擦りつけられた蛙は、すり鉢にかけられたかのごとく原型を留めない。それが蛙であったという事実さえ蔑ろにしながら、Aはわたしが捕まえた全ての蛙を、一匹残らず殺し尽くしてしまった。
わたしは公園から逃げ出した。Aのいないところへ行きたかった。走って、走って、全力で走って、全身水浸しになりながら家に帰った。しばらくしていから傘を忘れてきてしまったことを思い出したが、取りに戻ろうなんてことは考えられなかった。
その日わたしはほとんど一睡もできなかった。雨はなおも振り続いていて、蛙の鳴き声はそこかしこから聞こえてきていた。
翌日。Aはどこにもいなくなっていた。
あの日の出来事は、いまでもわたしを縛り付けている。蛙が苦手で仕方が無くなってしまったし、雨が振るたびにあの水槽から沸き立っていたにおいを思い出すようになってしまった。
けれど、それも当然の報いなのかもしれない。結果としてAに加担し、わたしの蛙を殺しまくったのだから。恨まれて当然なのかもしれない。
梅雨になるたびに、意味なく奪われる命のことを考える。供養し、謝り続けようと、心に決めている。
被災時に必要なものは何か?時間が立つに連れ必要なものは変わってくる。筆者は岩手県で今回の地震に被災したが、時間や場所によって変わってくるが、自身の経験を元にここにしるす。防災用品の準備や、被災地に救援物資を検討している方は、参考にしていただければありがたい。
この文章は、被災二日目にiPadにて作成した。電気と回線が復旧しだい、どこかに上げるつもり。
インフラがとまるので、食料や衣料はもちろん、燃料や情報を得る手段も確保しておきたい。今回は電気がなくても暖をとれる反射式ストーブ、これはお湯もわかせる、ガスが止まっても使えるカセットコンロが非常に重宝している。
固定電話は回線が生きていても停電していれば、最近の多機能なヤツはつかえないので、結局ケータイに頼ることになる。公衆電話が最近中々ないので。予備の簡易充電器や電池、車載充電器、iPhone用FMトランスミッターが役に立った。
いざという時の移動手段やカーラジオやカーナビのTVでいざという時の情報取得手段になるので、車がある場合はガソリンも出来る限り入れておく。携行缶などで保存する場合は、安全な場所に保存する事。
災害時に一番役に立つメディアはラジオ、次にインターネットとなり、最後にTV、新聞となる。ラジオは用意しておいた方が良い。ネットで情報を得る場合はデマや不確定な情報に注意する事。TwitterやFacebookなどで自分から発信する場合も、不確定な情報は流さない事。ヤフー知恵袋や2chなどは極力使わない。
当たり前だが、一番の被災地から離れていてもインフラが止まれば、店はまともな営業が出来なくなるし、道路も寸断されたり、信号機が止まったり、緊急車両優先などで渋滞する。
水は断水していなければ、早いうちに水を貯めておくこと。飲料用はペットボトルやヤカンに。トイレなどの水は風呂に貯めておくこと。
注意したいのは、ロウソクやコンロ、反射式ストーブを使う場合は余震に十分注意すること。当たり前だが、常にラジオはつけておいて揺れたり緊急地震速報がきたらすぐに消すこと。
余談だが大都市圏に住む人以外は、メインバンクは地元の地銀か農協、郵便局、信用金庫にしておくといいかもしれない。窓口対応がスムーズになる。
地震に限らず、台風でも水辺に近づく人がいるが、こういう人が一番最初の被害者になる。絶対に危険な場所に近づいてはいけない。
当たり前だが、沿岸部では揺れたらすぐに逃げる。ビルの出来るかぎり高い階層か、高台に。
また、心配なのはわかるが特に災害のひどいところに行ってはならない。阪神大震災の時の様な野次馬は論外。自分が被災するだけでなく、救助活動の邪魔になるから。
不要不急の外出は極力避ける。道路の寸断や信号機の停止で思わぬ事故にあうリスクが高くなる。
電話は極力しない、出来れば連絡はメールやtwitter、Facebookや災害伝言板、ラジオの伝言メッセージなどを使う。やむおえない電話の場合も、極力通話は短くすること。
デマを流すのは論外だが、意図せずにデマを信じてしまってもいけない。チェーンメールは無視し、拡散RTは慎重に行うとこ。デマは最悪の場合は人命に関わる。
ロウソクや反射式ストーブを使う場合は、そばから離れる場合は火を消すこと。一瞬でもそばから離れる場合は絶対に火を消すこと。ロウソクは使わないに越した事はないが、使う場合は周りに燃えやすいものをおかない。
よく何かあれば、千羽鶴を折って送ったり、古着等を送る、自分の小説本を送る俳優などがいるが、これらは役に立たないばかりか、ゴミにしかならない上に、輸送力の無駄遣いとなり、迷惑となる。地獄への道を善意で舗装しないように。
命の危険がなくなり、食事もある程度とれる様になると、非常に退屈になる。死傷者が多数でた沿岸部の方々や、原発関連で不安な福島県の方々には大変申し訳ないが、1次的な被害が少かった内陸部にいる自分は、二日目にはもう暇である。TVラジオは災害関係しか流れておらず、ブロードバンドは不通、携帯電話も不安定な為、webも長い時間見る事が出来ない。気を紛らわす為にも、何か簡単な娯楽はあった方が良い。昼間は文庫本を読んで過ごしたが、いよいよ退屈になってきたので、この文章を書いている。
余談だが、そういう意味ではある意味テレビ東京のスタンスは正しいとも言える。今回は岩手にいるので、テレビ東京が何を放送をしているのかは知らないけど。
お菓子、ジュースは非常用の食料という意味もあるが、気を紛らわすという意味で娯楽に共通する。自分はタバコは吸わないが、喫煙する方はタバコも用意しておくと良い。ただし、不測の事態に対応する為、飲酒は避けた方が良い。
モバイル関係やカメラは記録撮影や録音に使える。ただ、間違っても現在進行で危険なもの、炎上中の建物は津波などを撮影してはいけない。そんなものを撮っている暇があったら逃げる事。
人工透析や酸素吸入、糖尿病などの慢性疾患、妊婦の方はかかりつけの医院がどうなっているのか確認しておく。かかりつけの医師が診察不能な場合は、保健所や近くの総合病院、自治体の窓口などに相談すること。
スーパーやガソリンスタンドはかなり混雑し行列となる。そういうところで並んでいるのを無視し割り込んだりすると無用なトラブルを引き起こす。実際、筆者が給油のためガソリンスタンドの行列にならんだところ、何台かが無理やり割り込んでいたが、割り込んだ車両は全部店員によってつまみ出されていた。
水の節約やトイレを我慢するために水を飲まないのは、血栓などのリスクをよぶので、水分はとること。
ある程度インフラが復旧してきても、交通や物流の回復は更に時間がかかる。食料や燃料などは無駄遣いしないこと。また、電気や通信などのインフラも安定的提供には時間がかかるので、無駄遣いしないこと。
「何かしたい」と思って、古着や千羽鶴や自作の小説を贈ったり、慌てて炊きだしボランティアに向かってはならない。邪魔になるだけだ。善意を形に変えたければ募金をするか献血をすれば良い。今回は災害の内容から献血はそれほど必要無さそうだが、募金は最も有効な支援である。ただし、募金をする場合は信用できる組織・団体を介して行うこと。間違っても駅前の街頭募金などに小銭を入れてはならない。善意を装った詐欺や悪質な新興宗教などが関わっている可能性があるからだ。せっかくの善意が被災者に届かない可能性がある。
特に注意しなければならないのは、国連やユニセフなどを騙った振り込め詐欺だ。国連やユニセフはあなたの個人の電話やメールアドレスに、募金を依頼することはない。絶対に相手にしないこと。