「夜間学校」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 夜間学校とは

2024-03-14

サルベージした日記

 私の故郷は、海抜六〇〇メートル丘陵地に佇む半農半漁の村で、後方は形のよい峯が三つ並び、前方には大きな入江があって多島海に伸び、子供の頃は、その入江で魚つりに興じました。

竹の棒に糸を張った粗末な釣具で、餌もミミズでしたが、満潮の時などは入れたら釣れ、入れたら釣れで、一時間もすれば小鯛などバケツいっぱいになりました。

腹が立つのフグで、五回に一度はかかり、フグに毒があることは子供にも分かることでしたから、腹立ちまぎれフグの白い腹を石にこすりつけるとみるみる大きくなり、このガキッとばかりに思い切り石に叩きつけと、パーンという音がして腹が裂け、溜飲を下げました。

 私は五人兄弟次男として畑仕事や魚釣りに勤しんでいましたが、田舎の貧しい暮らしから豊かな生活を夢見て、一足先に日本へ行った八歳年上の兄祥雨を追いかけて◇◇へ来ました。

その時十七歳で、一九三九年でした。兄は布施(東◇◇市)でセルロイド工場経営し、腕輪やクシを作っていました。

その兄の元へ身を寄せ、普通学校四年を卒業したものの、価値ある社会活動をしていくためにはさらに学が必要だと感じ、向学心に燃えて◇◇・東成区夜間学校(◇◇商工実務学校)へ通うことにしました。

工場住込の私の仕事はまず、朝五時に起きて無煙炭をおこし、六時半に出勤する職人さんの仕事に間に合うように湯を湧かしておくことでした。

そして、仕事が終わるのは夕方の六時。急いで自転車を走らせ学校へ行き、帰りは一〇時で、それから夕食をとり、深夜の一時過ぎ、二時過ぎまで勉強して、寝るのが連日三、四時間でした。

休日は一日と一五日でしたが、それも畑仕事に追われました。

 その死にものぐるいの努力が効を奏して、成績はトップとなり、幸か不幸か、級長をやらされました。

戦時中でしたから、訓練ばかりで、「前へ進め」「全体とまれ」と号令をかけるのが級長の役目でした。

ところが、私は強度の「どもり」でしたから、その号令の文句がなかなか言えず、落ち込んでしまって、《死んでしまおう》と何度線路に寝込んだかわかりません。

星の光が目に入るたびに、《ちょっと待て、死ぬんだったら、もういっぺん努力してみよう》という気持になり、「どもり」の矯正学校を五つも修了して、死ぬほどの努力を重ね、矯正しました。

こうして、《ヤレバデキル、ダメナコトハナイ・・・》の信念を貫いて苦節の日々を克服したことが、大きな自信となりました。

 終戦後の一九四八年のことですが、体を悪くして、マイシン注射を打ったところ、耳に障害が発生し、聞こえなくなってしまいました。

これまた、苦節の日々で、断食をしたり、いろんなことをやってみましたが、完治するまでには至らず、補聴器の世話になる毎日となりました。

ところで、戦争は激しくなり、私も協和会の勤労報国隊に徴用されて、九州炭坑で二ヶ月ほど働かされました。

石炭を掘って出てきたら顔は真っ黒で、目が辛うじて見え、つらい日々でした。

そうこうするうちに戦争が終わり、兄はそのまま日本に残りましたが、私は里心がついて故郷へ帰りました。

ところが、祖国はとても住める状態ではありませんでした。

日本兵が釜山の港からどんどん引き揚げて行くさなか、私も小さな船で玄界灘の荒波を掻き分け、決死覚悟日本へ戻ってきました。

一九四八年に兄と、資本金二〇万円の◇◇グリップ化工株式会社設立し、自転車ハンドルグリップセルロイド製造し、販売しました。

以来、資材をセルロイドからプラスチックに変え、◆◆◆グリップの普及に努力しました。

その途上、兄を交通事故で失い、私が会社を引き継ぐことになりましたが、中小企業信用保証協会や育成協会から資金融資韓国人業者としては第一号だと思います

 一九九〇年に◇◇グリップ化工から◆◆◆技研に社名を変え、現在では日本全国の占有率九〇パーセントを獲得し、一億人以上の人に◆◆◆グリップを握ってもらっています

私は、金属木材等で作られている従来の物をプラスチックに代えて作るという物づくりを企業の基本理念の一つにしてきましたから、事業の発展に伴い、グリップの他にも車輪、カゴ、チェインケース、泥除け等、タイヤ以外のものは全てプラスチック化し、その間の特許も数百にのぼって、◆◆◆製品世界ブランドとなりました。《継続は力なり》の精神で、より精度の高い関連商品の開発に努めています

 一九六〇年頃、日本韓国との間にはまだ国交はなく公式には往来できない時で、金融機関祖国産業視察団の一員として、初めて祖国訪問しました。

公式の日程を終えて、私の生まれ故郷に帰りました。

懐かしい山河景色幼なじみの顔、感激の涙に浸るばかりでした。

その感激もさめやらぬ時、町からキロも離れていず、一六〇戸もあるわが懐かしい村には電気水道設備もないことに気づき、昔と変わらぬ貧しい古い部落がそこにありました。

故郷のために何かしてやりたい》という衝動かられ、その後、回を重ねて訪問する毎に藁葺きの集会所を二階建の近代的な建物にして

事務所や老人らの憩いの場に使用できるようにし、また、電気架設の資金協力や子供たちの遊び場等も寄贈し、植木スピーカー等も添えて故郷の人の心を癒やすことに努めました。

 人間は誰しも食うがため、生活するがために働き、事業するものだと思いますが、私もご多分に漏れ世間並みの生活を夢見て渡日し、口では言えない苦労と努力を重ね、一応の目的は達したと、自分を顧みています

これまで、通産大臣府知事税務署長などの表彰を受け、韓国政府から国民勲章冬柏章を受章しましたが、私の企業活動に対� =キる評価だと喜んでいます

現在、◆◆◆ー技研のグループ企業として◆◆◆販売韓国◆◆◆があり、◆◆◆技研は私の長男に任せています

◆◆◆販売は兄の息子が取りしきり、ヘルメットを中心としたオートバイスポーツ用品製造販売し、韓国◆◆◆は弟の息子が社長を務め、スキー水泳用品を主力としたスポーツ製品製造販売し、輸出による外貨を稼いで祖国経済発展寄与しています最近中国青島にも進出し、六〇〇人ほど雇用しています

 兄の処世訓は《まず、自分自身が立派になり、次に家族の支えなり、その次に身近な社会に貢献する》ということでした。

私は、兄の遺志も引き継いで、家族会を設け、年一回会合を開いて、十親等以内の全学徒に、成績に応じて奨学金支給しています

その家族会の会長は私ですが、弟の息子がすべて代行してやってくれています

いわば、祖国故郷で私の夢を実現してくれる代理人のような存在です。後は、全家門の子孫たちが末永く仲良くしてくれればいいと願うばかりです。

振りかえってみれば、私の人生は苦しいことのみの連続で、喜びや楽しみというものがあっただろうかと思う時がありますが、◆◆◆販売の新社屋落成式(一九八四年)に、私が挨拶をし、息子夫婦、兄の子夫婦韓国の甥夫婦を紹介し、その三人を後継者として披露しました。

三人はそれぞれに立派に成長してくれ、私の夢を実現してくれる後継者になってくれたことが人生最大の喜びです。それに子孫たちが、私の喜寿(七十七歳)をニューオオタニホテルで祝ってくれたことも忘れられない喜びです。

 外孫まで入れると四十五、六人になりますが、アメリカに行っている七、八人の子孫たちもその日(一九九八年九月一八日)にはみな帰っ� =トきて祝ってくれました。

私たち韓国人は、税金人一倍納め、社会に貢献しているにもかかわらず、後ろ指をさされる傾向が強いのですが、人間というもの生存競争なかにあってライバル意識を持ち、自分より事業を大きくやっていたり変わったことを大きくやっていたりすると、ねたみの心が出てきて、あらぬ中傷に走るのではないでしょうか。

私たち韓国人の側にも虐げられたひがみ根性というものが抜けきれないのではないかと思いますが、真面目に生き、社会に貢献していくことが肝心で、価値ある社会人になるためには自分自身が努力し、そのためには人の話を聞くことです。

何か疑問を感じたら、聞くのが一番の近道で、その疑問を解いてくれる人が見つかるまで聞きつづけたらいいのではないでしょうか。聞くことにお金はかかりませんし、それが私の処世訓の一つです。

2024-01-27

anond:20240127174411

障害基礎年金に関する記述がないってことは手帳3級で障害年金は対象外って感じか。

夜間学校卒業したのはすごいと思うよ。

2022-12-02

うつ症状のない生活を知らない

初めて「消えたい」と願ったのは5歳

明確に「死にたい」と望んだのは7歳

死んで憐れまれたいと思ったのは8歳

本格的に自死を考え始めたのが9歳で

転じて殺人願望に変わったのは12歳の頃だった気がする

それより前のことはあまり覚えていない

3歳ぐらいの時に幼稚園クラスメイトが涎まみれで汚ねえなと思ったことぐらい

これは家族にも言ったことがない

あの人たちは私が13歳ぐらいから狂い始めたと思っているだろうけれど、私はそれより更に10年近く前から何かおかし人生歩んできたんだよ

20そこそこに今なったけど、自分でブッ裂いた腿の自傷痕はまだ消えないし、何なら手首に新しい傷も増えました

気持ちわりぃ〜〜〜自傷なんかする奴に真っ当な神経の人間いねえよ全員畜生だよ俺もお前も全員

まあ何で新しく手首切ってるんですかね〜?というのは実は私自身もよく分かってないんだよな

何か、もうすぐ嫁いで実家を出る姉からアドバイスなのか捨て台詞なのかよく分からないけど非常にありがたくて非常に不愉快言葉を賜ったような気がするが正直もう覚えてない

それで多分切ったんだと思うけど、もう昔みたいに切りながら「悲しい!傷ついた!可哀想な私!」みたいな自己憐憫すらもあまり湧いてこなくて、つまるところ全然覚えてないし実感もないし、何これ?????

最近こんなことばかり増えている気がする

世間的にはかなり良い(と思われる)大学を尻切れ蜻蛉にして夜間学校、昼間は肥溜めみたいな製造業従事

けど、大学夜学仕事も、本当にしたかたことなのかと言われるともうよく分からない

昔はそうだったかもしれないけど記憶がない、本当に

政治家の「記憶にございません」も強ち間違いじゃないかもしれねえ〜〜そういう話ではない

姉に言われた

「お前はやることなすこと中途半端で声ばっかりデケエから信用に値しない、何か1個狂ってみやがれ」

死んじまえよ

お前は流行りもしないカビ臭い歌声を夜でも構わず撒き散らして、外で拾ってきた恨みつらみを散々私たち家族に投げつけて、そうして自分の周りのあらゆる存在踏み台にしてまでちゃちぃ生活してんのに、股下舐められて善がる雌犬みたいな顔で何言ってんだか

知ってると思うけど私はあなたと何もかも違う

あなたみたいにひとつ価値観のために他人犠牲にするようなナチズムめいた人間性してない

ただ私には愛したいものが多すぎるだけ

愛するに値すると感じるものがこの世界に溢れまくっていて、だけど愛情は何が相手でも脆弱だというだけ

多分そうだと思う

本当は私にも、気を狂わせて骨も肉も投げ捨てるぐらいの何かがあったはず

でもそれを捨てさせられてしまった気がする

ひとつのものにこだわり続けるのはよくないよ」

そう言った人間の中にあなたもいたじゃない

もう忘れた

先に何書いてたかもよく思い出せない

そのぐらい最近記憶が本当に薄い

いよいよ大庭葉蔵みたいなことになってきた

人間失格よ、人間卒業ちゃうわよ早く卒業したい!

あいいか

姉には姉の「みんなが望む努力家の王道人生!これが人間の道!これ以外は怠惰!」的な味噌蔵みたいな生き方しかビジョンないと思うし、逆に私にはそれがなくて「虚無拗らせても俺のこと無視して世界回ってるよね的な人生しかからないし、姉のありがたいお言葉は心の中に大切にしまいながら自分のできる範囲で生きていこうと思いました

後悔は「自分に出来たはずのことをしなかった」時に湧いてくるからそもそも最初からノーチャンなことには何も感情が湧かないというもの

「諦めたものが多い人生」とか言ってる人はまだマシ

本当に荒んでる我々みたいな人間は、自分選択が諦めのうちに入るか否かも分からない

精神が知らない間にボロボロになり尽くしていたらしく、もうそういうところまで気が回らない考えられない何の実感も湧かない

寝よ

以上、増田なんか覗いちゃってる有象無象が書いたり見たりしてそうな文章書いてみました!

冬は焼きマシュマロが美味い

うつ症状のない生活を知らない

初めて「消えたい」と願ったのは5歳

明確に「死にたい」と望んだのは7歳

死んで憐れまれたいと思ったのは8歳

本格的に自死を考え始めたのが9歳で

転じて殺人願望に変わったのは12歳の頃だった気がする

それより前のことはあまり覚えていない

3歳ぐらいの時に幼稚園クラスメイトが涎まみれで汚ねえなと思ったことぐらい

これは家族にも言ったことがない

あの人たちは私が13歳ぐらいから狂い始めたと思っているだろうけれど、私はそれより更に10年近く前から何かおかし人生歩んできたんだよ

20そこそこに今なったけど、自分でブッ裂いた腿の自傷痕はまだ消えないし、何なら手首に新しい傷も増えました

気持ちわりぃ〜〜〜自傷なんかする奴に真っ当な神経の人間いねえよ全員畜生だよ俺もお前も全員

まあ何で新しく手首切ってるんですかね〜?というのは実は私自身もよく分かってないんだよな

何か、もうすぐ嫁いで実家を出る姉からアドバイスなのか捨て台詞なのかよく分からないけど非常にありがたくて非常に不愉快言葉を賜ったような気がするが正直もう覚えてない

それで多分切ったんだと思うけど、もう昔みたいに切りながら「悲しい!傷ついた!可哀想な私!」みたいな自己憐憫すらもあまり湧いてこなくて、つまるところ全然覚えてないし実感もないし、何これ?????

最近こんなことばかり増えている気がする

世間的にはかなり良い(と思われる)大学を尻切れ蜻蛉にして夜間学校、昼間は肥溜めみたいな製造業従事

けど、大学夜学仕事も、本当にしたかたことなのかと言われるともうよく分からない

昔はそうだったかもしれないけど記憶がない、本当に

政治家の「記憶にございません」も強ち間違いじゃないかもしれねえ〜〜そういう話ではない

姉に言われた

「お前はやることなすこと中途半端で声ばっかりデケエから信用に値しない、何か1個狂ってみやがれ」

死んじまえよ

お前は流行りもしないカビ臭い歌声を夜でも構わず撒き散らして、外で拾ってきた恨みつらみを散々私たち家族に投げつけて、そうして自分の周りのあらゆる存在踏み台にしてまでちゃちぃ生活してんのに、股下舐められて善がる雌犬みたいな顔で何言ってんだか

知ってると思うけど私はあなたと何もかも違う

あなたみたいにひとつ価値観のために他人犠牲にするようなナチズムめいた人間性してない

ただ私には愛したいものが多すぎるだけ

愛するに値すると感じるものがこの世界に溢れまくっていて、だけど愛情は何が相手でも脆弱だというだけ

多分そうだと思う

本当は私にも、気を狂わせて骨も肉も投げ捨てるぐらいの何かがあったはず

でもそれを捨てさせられてしまった気がする

ひとつのものにこだわり続けるのはよくないよ」

そう言った人間の中にあなたもいたじゃない

もう忘れた

先に何書いてたかもよく思い出せない

そのぐらい最近記憶が本当に薄い

いよいよ大庭葉蔵みたいなことになってきた

人間失格よ、人間卒業ちゃうわよ早く卒業したい!

あいいか

姉には姉の「みんなが望む努力家の王道人生!これが人間の道!これ以外は怠惰!」的な味噌蔵みたいな生き方しかビジョンないと思うし、逆に私にはそれがなくて「虚無拗らせても俺のこと無視して世界回ってるよね的な人生しかからないし、姉のありがたいお言葉は心の中に大切にしまいながら自分のできる範囲で生きていこうと思いました

後悔は「自分に出来たはずのことをしなかった」時に湧いてくるからそもそも最初からノーチャンなことには何も感情が湧かないというもの

「諦めたものが多い人生」とか言ってる人はまだマシ

本当に荒んでる我々みたいな人間は、自分選択が諦めのうちに入るか否かも分からない

精神が知らない間にボロボロになり尽くしていたらしく、もうそういうところまで気が回らない考えられない何の実感も湧かない

寝よ

以上、増田なんか覗いちゃってる有象無象が書いたり見たりしてそうな文章書いてみました!

冬は焼きマシュマロが美味い

2022-11-03

集英社がWEBTOONに参入しない理由ってなんなの?

アラサー20代後半)なのに高校編入し、つい先日その高校卒業した者です。

最近疑問に思うことがあったので、ここに書き込むことにしました。

疑問というのは、週刊少年ジャンプ刊行している集英社さんがWEBTOONに参入しないワケです。

僕が高校に通っている間、ジャンプ作品の話をしている学生は一人もいませんでした。

高校生だからじゃない?」

サンデーとかマガジンはどうなの?」

と思われるかたもいるかもしれませんが、それもなかったです。というか、紙の出版物だったら話題にのぼることがない感じ。

部室にジャンプは積まれていないし、小説新聞週刊誌話題も滅多にでてきません。

時事的なネタ話題にのぼるときは、大抵の場合LINE NEWS経由でした(ヤフーニュースアプリをつかってる人がいない!)。

時事的なこと以外で話題にのぼるのは、ゲームパズドラ、原神)、アイドル(ほぼK-POP)、VTuber企業勢)です。

ちなみに、彼らはマンガを読んでいないのかというとそうでもなく、ピッコマLINEマンガを使っている学生は多かったです。

彼らの親(おそらく30代から40代)とあう機会があったのですが、マンガを読むために利用しているアプリは似たような感じでした。

アプリ内で読んでいる作品は親世代だとまちまちで、学生のほうはというとWEBTOONが多め。

僕はジャンプが好きなんで「少年ジャンプ+」を勧めてみたこと(2021年ごろ)があったのですが、かなりしょっぱい反応が多かったです。

曰く、「絵が汚い」とか、「セリフ文字が小さすぎる」とか。

文字サイズに関してはスマホで読みにくいならパソコンで読めばよくね?と思ったこともありました。だけど、最近若者パソコンをもっていないそうですし、彼らもそうなのかもしれません。

ちなみに、ゲーム機やタブレットも持っていません。だけど、iPhoneは持っていますw

で、その後も彼らといろいろ話したので、彼らのイメージするWEBTOONとマンガの特徴についてまとめてみました。

WEBTOONの特徴

スマホでも読みやすい。

縦にスクロールしてページを進める。

ふきだしは上から順番に読む。

セリフ文字サイズは大きい。

フルカラーであることが多い。

マンガの特徴

スマホで読みにくい。

から右にスクロールしてページを進める。

ふきだしは右端から順番に読む。

横書きセリフは左から読む。

セリフ文字サイズは小さいことが多い。

基本的にはモノクロ

ピッコマの「待てば無料」がフィーチャーされすぎた結果、韓国勢のマンガアプリ成功した本質を見誤っているような気がしました。

しかに「待てば無料」というビジネスモデル出版巻数の多い日本マンガと相性がよかったのかもしれません。

だけど、若者(ここでは十代を指します)にWEBTOONがウケているのは、「タダで読めるから」だけではないと思います

「読みやすいから」だと思います

ちなみに、僕の母(60代半ば)にも少年ジャンプ+を勧めたことがあったのですが、LINE マンガへと帰っていきました。

文字が小さすぎて読めなかったから、だそうです。

そして、今の若者の声、母の感想を聞いて、ふと思ったんですよ。

なぜ集英社はWEBTOONに参入しないのだろう?と。

紙中心のビジネスモデルを構築しているのは知ってます。だけど、せめてWEBTOON用のアプリリリースして、旧来のマンガとWEBTOONの両輪で商売したほうがいいのでは?

旧来のマンガデジタル&紙)、WEBTOON(デジタルのみ)みたいな感じで。

少年ジャンプ+」以外にも「ゼブラック」「ヤンジャン」「マンガMee」「マワシヨミジャンプ」をリリースしているんだし、WEBTOON用のアプリリリースする企業体力ってありそうな気がするんだけど。

集英社がWEBTOONに参入しない理由を知っている人がいましたら、ぜひ教えてください。

11月7日追記

>>jou2

集英社オタクやってるが「フルカラー漫画」は販売してるのなら大量にあって俺が最近買ったのだとドラゴンボール超シャドーハウスゴールデンカムイ封神演義HUNTER×HUNTERとかがある。タダで読ませろはありえんよ


僕の書き方が悪かったのかもしれません。すみません

フルカラーマンガをタダで読ませろ、と言いたかったわけではないです。

僕がこの日記で伝えたかったのは

思春期なのに、週刊少年ジャンプサンデーマガジンを読んでいない集団個人ではない)や世代が出現している。

・その集団世代は様々な事情お金美的センス老眼、回し読み文化消失から、旧来の形式マンガを読む機会がない、あるいは読めない。

・だけど、WEBTOONは読んでいる。

ということです。

そして、経済的な読みづらさ(有料、回し読み文化消失)は解決できないにしても、機能的な読みづらさ(文字が小さい、絵が汚い)は作品形式を変更するだけで解決できるのだから、やればいいのにね、と思ったわけです。

※再度追記

学生たちとの会話で出た言葉をそのまま書いたので、重要なことが抜け落ちていました。

僕が話した学生たちのいう「絵が汚い」って、「画力が低い」という意味ではなく、「読みづらい」「視認性が低い」「識別性が低い」という意味です。具体的には、キャラクターの線を整理して視認性をあげておかないと、「絵が汚い(落書きみたいだ)」と感じるようです。

「絵が汚いよね」

そうかな?キャラクターの書き分けはできてると思うけど……。

「線がごちゃごちゃしてるし、影みたいなものがついていて読みにくい」

書き込み量スゲー!、とは思わないの?

だって絵画もっとシンプルじゃん」

逆に、彼らのいう絵が綺麗、上手いってどういうものを指すかというと、シンプルな線で書かれた視認性の高い絵(つまりカラーイラストや、エロゲの絵のようにパターン化されたもの)になります。つまりTwitterでバズっているようなイラストですね。

どうして集英社はWEBTOONに参入しないの?と僕が疑問に思った理由、これで伝わるといいなぁ。

追記2

>>msukasuka

私は高校卒業直後の専門学校の子達の話を毎年聞く機会あるけど逆だなあ…誰もウェブトゥーンを読んでない。思ったよりもコンサバ。なんの違いだろう?


たぶんですが、これはコロナ禍以降の傾向だと思います

マスク着用の義務化で会話が減ったり、友達と遊びに行くことが減ったり、部活動の休止や修学旅行の中止によって一つ、二つ上の世代(先輩)と文化的な隔絶が生じたんじゃないかな。

先生も、コロナ流行ってから学生の周りのもの(見るもの、読むもの聴くもの)は全部変わったといっていました。

僕の周りの話ですが、コロナ前はアニメMADや『フリースタイルダンジョン』、YouTuberの話ばかりしていた人たちが、NziuやBTS、Jo1、インスタのインフルエンサー、TikTokerの話をするようになったので、コロナ禍の影響ってすごいなと思いました。

追記3

https://news.denfaminicogamer.jp/interview/221107g

この日記への返信で教えてもらった電ファミの記事なんですが、公開日がなんと今日タイムリーすぎる。

集英社がWEBTOONに消極的理由がなんとなく伺える記事でした。

追記4

めちゃくちゃ重要なことを書き忘れていた。

僕が通っていた学校夜間学校なのでバイトしている学生さんの率がめちゃくちゃ高いんですよ。

コロナの陽性になった人の濃厚接触者が生徒の中から見つかったとき、全校生徒は即時下校するようにと学校から指示があったんですが、授業後に帰宅せずにバイトに行く生徒が多かったので、その日はそのままバイト先にいっていいのかわからない生徒で校門前があふれかえるほどでした。

夜間学校バイト、とくれば、貧困イメージがあるかもしれません。

だけど実際は程度に差はあれ、経済的に自立している子が多かったです(使えるお金があるだけで、金銭的に恵まれているというわけではない)。

世間一般でいう”高校生”よりも少しだけ自由お金を使える。

そういう特徴がある界隈での話でした。

2022-05-27

生き方が分からない。

学校に行けなかった人の夜間学校みたいに、まともに生きられ無かった人の保育園が欲しい。

生きていていいと思えたことがほんの一時の生活しかなかった。それは終わった。

どこにいても何をしていても間違っているようで、ビクビクしているせいで本当に居てはいけなくなる。

普通に仕事がしたい。

2021-04-04

俳優田中邦衛さん死去 88歳「北の国から」などで存在感


2021年4月2日 22時10

テレビドラマ北の国から」や「新選組!」、映画学校」など、数々の作品存在感のある役柄を演じて親しまれた俳優田中邦衛さんが、先月24日、老衰のため亡くなりました。88歳でした。

田中邦衛さんは昭和7年岐阜県で生まれ昭和30年劇団俳優座」の養成所に入りました。

昭和32年に「純愛物語」で映画デビューし、昭和36年から始まった映画若大将シリーズでは加山雄三さん演じる主人公若大将」のライバル青大将」の役を演じて、存在感あふれるコミカルな演技で人気を集めました。

その後も、映画化もされた民放の人気ドラマ若者たち」で両親を亡くした5人きょうだい長男の役を演じたほか、ヤクザ映画の「網走番外地シリーズや「仁義なき戦いシリーズでは、悪役としても存在感を見せるなど、幅広い役柄を演じました。

中でも、昭和56年に始まった民放ドラマ北の国から」のシリーズでは、北海道富良野市大自然の中で息子と娘の成長を見守る寡黙な父親の役を20年以上にわたって演じ、温かみのある演技で幅広い年代視聴者をひきつけました。

また、平成5年に公開された山田洋次監督映画学校」では夜間学校に通う中年男性を熱演し、日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞しました。

このほか、平成16年NHK大河ドラマ新選組!」では近藤勇養父、周斎の役を演じ、平成17年NHKスペシャルで放送された終戦60年企画ドラマ「象列車がやってきた」では戦時中動物園で象を守り続けた飼育員を演じました。

平成11年紫綬褒章平成18年には旭日小綬章を受章しています

田中さんは、平成22年に公開された映画最後の忠臣蔵」に出演し、平成24年に亡くなった俳優地井武男さんのお別れの会に姿を見せていましたが、その後、俳優活動から遠ざかっていました。

家族によりますと、田中さんは先月24日、老衰のため、家族に見守られながら息を引き取ったということです。

葬儀家族葬の形ですでに執り行われ、お別れの会などの予定はないということです。

札幌市民

田中邦衛さんの死去について、30代の会社員男性は「大往生ではないでしょうか。北海道といえば『北の国から』。『北の国から』といえば田中邦衛さんだというイメージです」と話していました。

また、50代の女性は「とても有名な方なので残念です。それほど年をとられていたなんて、知らなかったので驚いています」と話していました。

倉本聰さん「気持ちの中に大きな穴」

田中邦衛さんが出演した民放ドラマ北の国から」を手がけた脚本家倉本聰さんは「気持ちの中に大きな穴があきましたね。とにかく人間的にも友人的にも無二の人です」と心境を語りました。

また、このドラマでの配役について「さまざまな候補者がいてその中で誰がいちばん情けないんだろうという議論になって、邦さんになった」と明かしたうえで、「ドラマを通じてとても演技が成長していったと思う。彼の芝居は、本人はとても悲劇的なのに端から見ているとなんともおかしくなる。これが彼の神髄だと思う。情けなさの中に詩がある」と評しました。

そして「邦さんは亡くなったけれど、僕の中で、彼が演じた五郎は厳然と富良野で生きています。またあしたスーパーに行くと、『先生』なんて言われて肩をたたかれるような気がします」と田中さんをしのんでいました。

加山雄三さん「今は何もことばにならない」

映画若大将シリーズ田中邦衛さんと共演した加山雄三さんは自身ホームページコメントを発表し「ショックです。邦さんに連絡をとりたくてとりたくて、ずっと気になってて、不思議なことに、2日前若大将DVDで邦さんの姿を見たばかりだったんだよ。信じられない。今は何もことばにならない。寂しいよ本当に寂しい。邦さん本当にありがとう」とつづりました。

山田洋次監督「一緒にいるだけで楽しい気持ちに」

田中邦衛さんが亡くなったことを受けて、田中さんが出演した映画学校」の山田洋次監督は「田中邦衛さんへ 善良が服を着て歩いているような人だった。一緒にいるだけで楽しい気持ちになるようなすてきな人だった。あん俳優が、あん日本人いたことを誇りに思う」とコメントしています

役所広司さん「本当にすばらしい俳優さん」

田中邦衛さんが亡くなったことを受けて、映画最後の忠臣蔵」で共演するなど長年親交のあった俳優役所広司さんは「邦衛さんには大変お世話になりました。ここ数年ずっとお元気なのか気がかりでした。スタッフにもキャストにも愛された、本当にすばらしい俳優さんでした。覚悟はしていましたが、悲しいです。邦さん、お疲れ様でした」というコメントを寄せました。

吉岡秀隆さんと中嶋朋子さんがコメント

田中邦衛さんが亡くなったことについて、民放ドラマ北の国から」の共演者コメントを発表しました。

息子の役を演じた俳優吉岡秀隆さんは「いつか、この日が来ることを心のどこかで覚悟しておりました。今は邦衛さんの笑顔しか思い浮かびません。自分覚悟の小ささとあなたの大きな優しさに涙しかありません」とコメントを寄せました。

また、娘の役を演じた俳優中嶋朋子さんは「幼い頃から、今まで、何も変わることなく、人として、深く接してくださいました。田中邦衛さんという存在出会い、見守っていただけたことは、かけがえのない宝ものです。役者として、人として、大切なものをたくさん教えていただきました。本当に本当に感謝でいっぱいです。大好きです。出会う人をみんな幸せにしてしま少年のように無邪気な笑顔ばかりが胸に浮かびます天国でも、たくさんの人を幸せにしてくださいねありがとうありがとうありがとう」とコメントしています

2019-03-18

早稲田大学芸術学校について入学検討する際に知っておくべきこと

この記事について

 インターネット上に早稲田大学芸術学校についての情報が少なすぎるため、数年間当校に在籍した経験を基に入学検討している人に向けて情報提供をしたいと思い記事を書くことにしました。いくつかの夜建築学校などを検討している方などに向けた記事ですが、当校の入学決定者にも役に立つところがあるかもしれません。

また、当校は体制改革最中ですので、もしかするとこの記事は古い情報である可能性もあることをご了承願います

目次

入試について

入学者の半分が2年以内に自主退学するということ

入学するなら絶対に2年コースで出願すること

教育の質について

最後

入試について

 インターネットを見ていると入試の内容、難易度に関して疑問や不安を感じている方が多いように感じますが、まったくもって心配する必要はありません。

 入試の内容は、詳細には覚えていませんが、私が受けたときには「好きな建築(あるいは建築を学ぶきっかけとなった建築)を挙げ、その建築について述べなさい。」といったような内容だったと思います。これに加え講師との面接があり、その後入学が決定します。合格率は年によって異なるかもしれませんが、基本的には全入であると思われます(定員割れしていることが多いので)。ですので、入試に関しては特に心配はいりません。

入学者の半分が2年以内に自主退学するということ

 これはもしかすると私の学年だけかもしれませんが、かなり多くの生徒が自主退学をします。退学者理由を聞いて回ったわけではないので詳細な理由は知りませんが、おそらく日中職業との両立の難しさ、そして建築を学ぶことへのモチベーションの低下などが主たる理由であると思われます

日中職業との両立

 カリキュラムについてはホームページシラバスで十分な情報があるのでそちらを読んでいただければ問題ありませんが、率直な感想を言うと週5回の夜間学校は予想以上にしんどいです。これを読んでいるあなた学生社会人である場合、両立にはかなりの忍耐力が必要です。おそらく入学前向きに検討している方はそのような覚悟もできている上で(私もそうでした)この記事を読んでいるかと思われますが、実際のところ本当にきついです。

 まず平日18時過ぎに毎日必ず西早稲田に移動することができない方はまず入学を再検討したほうがいいかもしれません。授業開始時間に間に合わない社会人学生も多いため、遅刻自体には寛容(成績的な評価で言えばほとんど影響はない)ですが、そもそも授業に途中参加することは確実にあなたの意欲を下げます大学高校でもそのような経験があるのではないでしょうか。授業の導入部分を聞けないということは、その授業全体の理解度に大きな影響を及ぼしますし、その授業についていけなければ当然次回以降も理解が難しくなります。また、欠席に関しても、シラバス上では全出席が基本とされていますが、実際のところはそこそこ寛容です。ですが、欠席を重ねていくうちに授業についていけなくなったり、本来は出席できるがサボってしまう「だらけ」が発生します。おそらく誰しもが平日に残業飲み会、友人との食事などの機会があると思われますが、本校に通うとこれらへの参加と授業への参加を天秤にかけるようになります。強い意志で毎回授業に参加できる方は全く問題いかもしれませんが、やむを得ないこともあるでしょう。しかし、いかなる理由でも欠席は建築を学ぶ意欲を削ぎ、モチベーションを失って惰性で学校に通う、または退学する原因となります。(実際にこのような人はたくさんいました)

 生活リズムについても結構厳しいところがあります。18時15分に授業が始まり、21時25分の授業終了まで、休憩はわずか15分程度しかありません。その間に食べれるものといえばせいぜいコンビニ軽食ぐらいであり、これが週5回続きます普段からコンビニ飯がメインな人にとっては大した問題ではないかも知れませんが、料理が好きな方や食事管理をしている方にとっては大きなストレスになります。もちろん食費も余計にかかります

 以上のように、想像以上に当校のカリキュラムは厳しく、ストレスを伴うものです。これらに耐える自信がない方は今一度入学検討し直してみてください。

入学するなら絶対に2年コースで出願すること

 本校では「建築設計科」と「建築都市設計科」があり、それぞれ2年コースと3年コースがあります。3年コース入学しても、2年間の授業は2年コースと全く同じで、2年コース+1年という授業形態です。2年コースと3年コースでは卒業後の建築士の受験資格や得られる学位に差がありますが、なぜ私が2年コースを勧めるのかと言うと、2年コースから3年コースには編入制度があるためです。仮に2年間建築を学び、やはり違うと思って建築の道を辞める場合でも、単位を取得していれば2年コースでは当然卒業になりますが、3年コース選択場合は退学になります。3年コースから2年コースへの編入はできません。つまり建築に進まないと言う選択をするリスクと考えると、わざわざはじめから3年コース選択する理由は全くありません。2年間学び、やはりもっと建築を学ぼうという気になれば3年コースへの編入をすれば良い話です。編入審査形式的ものでほぼ確実にできます

 このように、入学するなら絶対に「建築設計科」を選択することをおすすめします。

教育の質について

 本校の教育は、基本的にはハイレベルで質の高いものだと思います。著名建築である校長を始め、大手ゼネコンの上流社員早稲田大学理工学術院の教授など、錚々たる講師陣が揃っています。また、副業として講師をしている熱心な若手建築家の方も複数人ますしかし、経歴の立派さが教育の質の高さにつながるとは限りません。実際のところ、実績はあってもあまり教育には熱心ではない(ように伺える)方もいらっしゃいましたし、生徒が必死に製図する中大声で談笑する講師陣の姿も見えました。また、自立した社会人過半数を占める学校ということもあり、面倒見の良い学校であるとは言えません。そういう点を求めるならば別の学校検討するのも一つだと思います

 少々棘のある内容となってしまいましたが、基本的にはやはり教育の質は高いと思います。仮にも歴史のある早稲田大学の関連組織ですし、実際に活躍されてるOBOGも多くいらっしゃいます。ただ一つ重要なことを補足しますと、当校は実用的なCADスキル建築士の資格試験対策に重きをおいた学校ではなく、むしろ建築を中心とした芸術的センス教養を育むことを重視しています。そのため意匠に興味がない方には非常に退屈に感じるかもしれませんし、最速で建築資格の取得を目指しているような人には向いていないかもしれません。

最後

 以上が早稲田大学芸術学校について私が持っている情報です。ご参考になれば幸いです。

 また、建築を学ぶということについては以下の記事が参考になります。ぜひ読んでみてください。

http://www.3bouz.com/entry/2016/04/18/205759

2019-02-15

CS学士号通信制で取りたいんだけど、どの大学に行けばいいんだろ

自分高卒で、今はWEB系のエンジニアとして自社開発の会社で働いている。年齢は20代前半。

将来的に海外で働きたいなと漠然と思っていて、ビザ関係CS学士必要なんだなということを最近知った。

https://medium.com/@sakamoto.kazuki/2017-12-demystifying-us-visa-f596529701a3

もし自分が今後海外で働きたくなっても、学歴ビザで道が閉ざされるのは少しさみしい。そのため、若いうちに学士号だけでも取っておこうと思っている。また最近ホットエントリでも「文系でもエンジニアになれる」とか「エンジニア学歴関係ない」とか聞くけれど、やはり自分としては、これから何十年もソフトウェアエンジニアとして働くために基礎的な知識を一度付けておきたいと感じている(数学英語も含め)。

ということで、通信制で働きながら卒業できる大学を探している。夜間学校視野に入れたけれど、これから4~5年間同じ場所に住んでいるかは分からないし、もしかしたら遠方へ転職するかも知れないという理由選択肢から外した。

今のところ、通信制CS関連の学士号を取れる大学は3つほどあるらしい。

帝京大学 理工学部情報科学通信教育課程

 └学費は4年でおよそ80万円

 └スクーリングが少し負担だが、科目修得試験は隣の県で受験できるらしい

 └卒業率が一割程度と低いのが少し気になる

サイバー大学

 └学費は4年でおよそ280万円

 └スクーリング無しは魅力的

 └卒業率が76%らしいが、これは何を意味するのだろう

北海道情報大学通信教育

 └学費は4年でおよそ100万円

 └経営情報学らしいので「経営にも軸を置いている→自分CSをメインに学びたいから合わない」と判断している

懸念点①:学費

サイバー大学に関してはスクーリング無しで通えるという点が魅力だけれど、いかんせん学費が頭一つ抜けて高い。そもそも大学学費はこんなものなのか?(帝京大学などが安い理由が知りたい)。幸い貯金はあるので出せないことはないものの、将来的にアメリカ修士号を取る時に数百万円はかかると思われるので、なるべく出費は抑えておきたい。

懸念点②:学士号の種類

正直、学士号の微妙な違いが全く分からない。帝京大学工学学士サイバー大学IT総合学士なんて書いてあるけど、自分には何がどう違うのかがいまいち想像できない。とあるブログでは「サイバー大学で取得できるのはIT総合学の学士だが、自分工学学士が欲しい。」と書かれているが、工学でないと海外ではCS扱いされないとか、そういったものがあるのだろうか?。学士号の種類については、何で調べればいいのかも分からない、というレベルで路頭に迷っている。

一応、それぞれのカリキュラムが書かれたページリンクを載せておく。

[帝京大学](https://www.teikyo-u.ac.jp/faculties/correspondence/science_tech/subject/curriculum.html)

[サイバー大学](https://www.cyber-u.ac.jp/faculty/it_carriculum.html)

今のところ帝京大学に行こうか迷っているが、そもそも学士を取らないという選択肢もあるんじゃないかと頭によぎったりする。というのも、日本支社から海外にある本社へ転勤するパターンも珍しいがあるみたいで、そういった抜け道が今後数年で芽生えてくる可能性もある、という淡い期待も抱いたりする。ただおそらく正攻法としてアメリカCS修士を取ることになると思うし、そのためにはやはり学士必要になる。また日本大学だと、数学などは別として技術に関しては少し時代遅れ知識を詰め込まれるだけなのでは?という不安もあったりする。

とにかく一人ではこのまま一生結論を出せずにいそうなので、どなたかアドバイスを頂けると嬉しい。

2019-01-28

anond:20190128013046

わならないです。でも頑張ってお金ためます

タクシーだったら高校でてなくてもお金になるって思うから

そしたら時間つくって夜間学校いけると思うんです

2018-05-29

生きているのはつらい。

でも死ぬ勇気がない。

そんな消去法で生きてるだけ。

とにかく状況を書き出すことが必要らしいので、書くことにする。

物心つく頃から貧乏で働かない親を持っていた私。

母親は私が小学校になるかならないかあたりで消えた。

普段から親は家にいなかったか、いれば殴られていたような記憶しかなかったので特になんとも思わなかったような気がする。

母親と別れた最後の日にアイスクリームを食べさせてくれたのだけ覚えてる。

父親実家に引き取られてから祖母の躾が厳しかった。

いわく、私は可愛い息子を誑かした性根の悪い女によく似ているのだそうだ。

掃除の仕方や、祖母に教えられることの何かが出来ないと木製の定規で叩かれた。

それでも祖母のおかげで家事だけは得意になったのだから感謝はする。

父親しょっちゅう蒸発していて、年に一度くらい顔を見せれば殴られるか裏山の木にくくりつけられるかだったと思う。

理由簡単で私の頭が悪いからだった。

タダで出来ることと言えば祖母読書好きだったため集めていた書物を読むくらいだったから、自然文系勉強は出来たけれど、理数系が破滅的だった。

16になるころには「可愛い息子」を「誑かした性悪女の娘」と言う祖母の言い分には「そんな女と結婚するように育てたあんたもたいがいじゃないの」と思うようになっていたし、高校中退し働いて家を飛び出したけれど生活は苦しかった。

働いて夜間学校卒業したけれど高卒ではろくな仕事につけないし貧乏なままだ。

祖母ならともかく父親には少しの感謝の念もないので縁を切った。

とは言っても法律上の縁は切れないのだ。

底辺の家庭で生まれ人間は一生底辺のままなんだそうだ。

どうして産まれてきてしまったんだろう。

母親がいた時はろくにごはんも食べてなかったのに、どうして死ななかったんだろう。

鉄筋の汚らしいマンション屋上に上がると、鳥になれたような錯覚がしてよく、柵を乗り越えて遊んでいた。

どうしてあの時落ちてしまわなかったんだろう。

生き汚い。

まだ心の綺麗なうちに死んでおけば天国にいけたのかもしれないのに。

どうして私を生んだんだろう。

こんなに大人になってしまってからでは、余分な知識がある分、怖くて死ねない。

なんてことをしてくれたんだという恨みしかない。

から必要とされないのに。

どうして産み落としてくれたんだよ。

2018-03-24

anond:20180323211538

わからんでもないよ。

私も低スペック。生まれつき不細工でロンパで手術しても治らないし働かない親からは殴られて育ち、中学高校と虐められ、自分で働いて進学した夜間学校を出てから会社で虐められ、その後一家離散。会ったこともない母方の祖父の死後、母親は死んでるから孫にあたるお前が借金を払えという書類が届いたり、父親生活保護を受けるための書類が届いたりする。

当然私は自己肯定感が低く、感情が欠落しているのか父親も早く死ねば良いのにと思ってたりする。

自殺するほどの度胸もないから生きてるけど、こんな血筋は私の代で終わらせようって思ってたし。

けど職場で知り合った顔の良い男が意外にモテなくて結婚して、義理の両親からの孫ハラスメントに耐えきれず、私が子ども虐待するようなことがあったら迷わず子どもを守って欲しいと約束させた上で子どもを生んだよ。

申し訳ないと思ってたけど、幸い子どもは顔立ちは旦那に似て美形だし、肌だけは私に似て綺麗。

あとは頭の悪さが心配だったけど、頑張って働いて家庭教師をつけたら徐々に成績は上がってきてる。

この低スペック顔面下げて働きに出るのはつらい。さらに老化がプラスされて身体的にもつらい。

けど、働いていれば、子どもはなんとかなりそうだよ。

2016-08-26

隣人とのトラブルの結末

毎晩お風呂鼻歌を歌っている。いや、鼻歌どこではない、声を張り上げて歌っている。

カラオケ好きの私なので、お風呂だと声が反響してとても気分がいいからだ。

そんなことを続けていたらある日ポストに紙切れが入っていた。

マンション管理会社からで要約すると「声が夜間に響いてうるさいから周りを気遣え」ということだった。

いくら熱唱とは言えそこまで遠くの部屋には響かないだろう。ということでクレームを入れたのは両隣の住人に違いない。

右隣には70歳くらいの老婆が一人で住んでいる。腰が限界まで曲がりきって、まるで自分の陰部を凝視するようにゆっくりと歩く痴呆症だ。

だいたい夜寝るのも早いだろうし耳も遠いだろう。ボケ老人とはそういうものだ。

から犯人は左側の住人だ。そうに違いない。若いカップルか兄妹かしらないが四六時中ベタベタ気持ち悪いやつらだ。

一目見ただけで商業高校出身夜間学校中退なのが分かる人相をしている。まだ若いくせに歯も生えていない赤ん坊がいる。

とりあえず私も投書で復讐することにした。

お菓子バリバリ食べないで下さい。耳に障ります

もちろんお菓子の音など聞こえなかったがそういう文面でクレームを入れた。

その後もことあるごとにあることないことポストに入れた。

「歯を磨くときもっと静かに」

「声を立てないでくしゃみしろ

そんなことを毎日やっていたある日、ポストに紙を入れているところを馬鹿ップルに見つかってしま口論になった。

終いには警察を呼ばれてしまった。対応した警官は終始向こうの味方で私を責め立てた。

その日は悔しくて悲しくてずっとお風呂で泣いていた。

そして泣きながら童謡を歌った。涙と鼻水と涎が入り混じった私の歌声マンション全体を包み込んだ。

住人は耳をふさいだが、歯抜けの赤ん坊だけはきゃっきゃっきゃっと笑って眠りについた。

2015-11-12

http://anond.hatelabo.jp/20151112131025

そうな、それも身軽でいいだろう。

思い出を持ってるからさ、僕の場合新海誠作品によくある『何でも無いけど今となっては愛おしいもの』の羅列にいつもやられてしまうんだ。

家を出た瞬間の冬の朝の匂いとか、よく晴れた夏の日のアスファルトの眩しさとか、遠くから聞こえる夜間学校チャイムとか、明け方に聞いた鳩の鳴き声とか。

転んだ痛みや、殴られた痛み、母を亡くした痛みも、鮮明さの程度はあれ覚えている。

いいか悪いかは関係なく、これは性分だね。

2014-11-21

http://anond.hatelabo.jp/20141121190106

何かを学ぶのに年齢なんて関係ねーよ。そいつ馬鹿なだけだ。そんな戯言、気にすんな。

俺は中卒で馬鹿から、いわゆる底辺仕事してる。そこにいるおっさん最近夜間学校行き始めたんだ。素直にすごいと思うし、尊敬するよ。確かに年齢で判断して馬鹿にする奴いるけど、そいつらが何も分かってねーだけだよ。お前も負けんでくれ。少なくとも俺はお前を尊敬するし、応援してる。

2014-07-05

http://anond.hatelabo.jp/20140705035940

単位制じゃなく各教科独立専門学校制にすりゃいいんだよ。

毎日違う場所学校に通う。

嫌な奴のいる学校なら行かなければいいし、例えば週5で別々の学校に行ってるから、週1だけ行かなくなっても影響は少ないし。その教科だけ別の地域学校を探せばいいし。

そして、今みたいに不合格点(30点?)を取らなければ進級できる制度はやめて、合格点(80点)を取らなければ進級できない制度にする。

そうすればもし不合格だったとしても、ダメなのはその教科だけだから、他ができてればその教科は先に進めるので、全体に与える影響は少ない。

進級テスト自体は、センター試験的な全国共通の試験とする。この試験で何級まで取得してるかがその人の現段階での実力なわけだ。だから独学でできちゃえば学校に行く必要がない。

今の受験制度だと、例えば苦手な1教科が足を引っ張って総合合格点に達しなかった場合、そこで1年浪人しなければならなくなる。これは時間的な影響が大きすぎる。

できる科目は進めちゃっていいんだよ。なんなら入学新年度の始まり4月だけにする必要なんてなくて、例えば4月9月1月それぞれがスタートのコースがあればいい。

そうすればもし78点で不合格だった人は、もうちょっとがんばれば合格点に達するわけだから。4ヶ月がんばって合格点を取り4ヵ月後のコースから次に進めばロスが4ヶ月で済む。

この制度の最大メリットは、「教室に色んな人がいるようになる」ことなんだ。

この制度は主要5教科だけでなく技術美術音楽、体育、道徳倫理も同様に行なう。すると10教科になるが、1週間は五日なので、どれかの教科は後回しにすることになる。人によっては集中的にある教科だけ毎年やって、あとで他の教科をやろうと考えるかもしれない、人によっては2年かかけてどの教科も満遍なく勧めていくかもしれない。

そうすると、教室に色んな年齢の人が入ってくる。

進みの速い人、遅い人、ここでも年齢も別れる。

働きながら休みの日にある教科の学校に通う人もいる。この制度だと家があまり豊かでなく、早めに働かなければならない人も、働きながら通える。現代の夜間や定時制や2部や通信制と違い、ちゃんとしたレベルの、普通の人と同じ授業が受けられる。現代夜間学校は、実際には「できない人の受け皿」という側面が強くあり、レベルの高い人たちが集まってレベルの高い授業をしてるかというとそうではないことが多い。

教室に色々な人がいるとどういうメリットがあるか。

まず、教室に教師以外の大人がいるというのは大きい。どうしても教師は外の世界を知らないと言われるし、小さな世界で横暴になってしまうケースもあるし、また子供に影響されて幼稚化してしまうケースもある。が、ここに大人が入るだけで教師に多少なりとも影響を与えることができる。あまり理不尽子供に当り散らしていたら、「先生、それはおかしいんじゃないですか?」と。

子供にもいい影響がある。子供がどうして悪い意味子供なのかといえば、それは「モデルとする大人が周囲にいない」というのが大きな原因だ。人間は周囲のまねをして生きるものなんだ。10代前半くらいになれば、本当ならもっとしっかりした考え方や倫理観をもてるんだ。人間は。ただ現行の学校制度によって、周囲に子供ばかり配置されるためにその機会が訪れない。

もちろん、くだらないダメな大人も山ほどいる。が、大人というのはサンプル数を多く取れば平均値的にはまともなのだ。というかそれが日本人限界ということになる。この制度だと、一人のダメな大人と同じ教室になったからといって、他の教科でもその大人と一緒というわけではない。各学校独立して、各教科の実力はみんなバラバラだから。合うとしても週1とかだし、他の曜日に通っているほかの教室では他の大人がいる。サンプル数を多く取れば平均値には近づくから

そしてこの制度を使った場合現代で言う「学歴」は無意味になる。あれ「学歴」というのは実は学校暦なんだ。何々学校に行っていた、と書く場になっている。学校名前学力能力の偏りと相関関係があるために、学校名を利用していただけに過ぎない。だからスポーツ推薦やエスカレーター式などという名前と実際の剥離が訪れる。

専門学校化、各教科別レベル認定センター試験化すれば、通ってる学校は多すぎて書ききれないので、履歴書には各教科の現在レベルをあらわすレーダーチャートを使用することになる。もちろん技術音楽や体育なども全て入れてだ。そしてこのレーダーチャートの形こそがその人の個性をあらわすことになる。この人は主要教科はできてるけど体育は全然ダメなじゃないか、とか。この人はまんべなくやってるが面積がちっちゃいなー、30歳なのに、とか。

2014-04-15

教育について勉強することは、苛められた自分治癒する行為でもある

そして過去を整理するために記事にすることも、自分への治癒に繋がると信じて書くことにする。

とても長いです、すみません

小学校から中学校あいだだいたい9年間ほど苛められていた。

最初ちょっとしたハブりとかくらいだったんだけど、陰湿になっていったのは小学校3年制くらいからで、学校に行けばなにもしていないのに笑われる、嫌がられるという扱いを受けた。

私に非があったんだろうという輩が湧いて出てくるような気がするから先に述べるけど、私はガリガリで色黒で身なりがダサくて大人しいという典型的な地味な子どもだっただけだ。

苛められていることを学校の作文に小学校4年生くらいで書いたときは、担任に呼び出されて、詳細を聞かれたけど、いじめられているという事実が恥ずかしくてうまく答えられなかったせいなのか、まったく対処してくれてなかったように思う。

小学校高学年になったとき、苛められはしていたものの、とある女子グループにしがみ付いていた。苛められるとは分かっていても、それ以外に一緒にいる人がいなかったし、そのグループの数人は幼稚園も一緒で、近所だったこともある。帰宅グループだった。

けどある日、学校の近くで働いている父親が、私が友だちの軽い感覚でぶたれたところを偶然見つけ、私を怒った。その友だちと一緒にいるんじゃないって、だいぶ怒鳴られた。

私は、まぁ苛められてはいものの、その女の子幼稚園からの付き合いで、別に本気でぶたれたわけではなかったし、からかいはするけど一緒には帰ってくれるから、その子のことは好きだったから、まったく理解できなかった。

まぁ一方的に怒鳴られる状況下でそんなことが説明できるわけもなく、それ以降、恐縮した私は怯えながらその道を通ることになった。このあたりから父親への苦手視が始まったように思う。その通りを歩くとき、いつも父親がいるんじゃないかと怯えていた。いつも逃げるように歩いていた。

の子グループから距離を取らざるを得なくなったあと、私は苛められっこのグループに混ざることになった。なんというか、嫌な視線は前よりも多かったし、高学年になるにつれて、わりと堂々となにか嫌なことを言われるようになっていった。

中学生になっても、その環境はもちろん変わらなかった。メンバーほとんど一緒で、そこに他地区から3校分ほど加わったんだけど、苛められていた寝クラになりつつあった私が新しく中学校で再スタートできるわけなく、鬱気味になっていった。

中学校1年生のときはまだマシだったけれど、それでも徐々にやっぱり苛められキャラというのは定着するもので、ジャニーズが好きだったことなんかを理由に気持ち悪がられていた。

この頃から自律神経失調症になった。朝起きると気持ち悪い、ご飯が食べれない、頭痛がする、だから学校行きたくない

3年生にあがったころは、学校に行っても終始寝ていた。朝遅れて授業に行き、英語時間以外は昼まで休み時間もぶっ通しで寝ていた。英語だけは好きだったし、英語の科目の先生がとても英語のできる人で尊敬していたので、起きていた。成績は普通だったけど。

文化部所属していたので、上下関係に揉まれることはなかった。

高校受験とき希望していた高校は当然だけど全部落ちた。美術高校を目指して画塾に通っていたとはいえ、基礎の勉強していなかったから当たり前である。今でも当時、試験のために描いた白菜はよくできていたと自負してるけど、実際はどうなんだろう。分かんないや。

興味のない勉強を真面目にし続ける自信も体力もないと感じ、さらに同じ中学校の人がいない学校へ進学したいと考えた私は、定時制入学することにした。

定時制で、ある意味高校デビューを果たしたけれど、間違った方向にすすんだ。

夜間学校なだけあって、ヤンチャしている生徒が多く、そんな子たちに混ざって遊びを覚えたため、高校1年生から夜遊びを繰り返していた。朝帰ることも多かった。

でもいじめから無縁の生活になり幸せだった。

ただ美術受験を失敗した私は、自分美術に対する自信を完全に失っていて、挫折を強く感じていたため明るくなれたわけではなかったし、中二病も混ざって鬱はより悪化していった。

勉強もできない、絵の才能もない、コミュニケーション能力もない自分自身に対して、ただひたすら絶望していた。

中学校先生に勧められたメンタルクリニックに行き、薬を服用し始めると、薬が効かないことへのいら立ちが増えた。飲む量だけは増えていくのに、精神的な落ち着きはまったく得られなかった。

1回だけオーバードーズを試みたこともあった。当時の私は死にたいとずっと考えていた。

家族関係悪化していったのも高校時代である

鬱で泣いてばかりの私を、父親と祖母はよく思っていなかった。泣いていると怒られて、怒られたことに泣くと、さらに怒られるという悪循環けがあった。

家族の恥のような扱いをされているふうにしか思えなくて、私は家族にいるべき人間じゃないと思っていた。

人生もなにもかもうまくいっている妹と比べるととても惨めで、その妹は私のことなんか気にせずのびのび生きていたし、母親だけは唯一鬱への理解を示してくれようとはしていたけど、基本的には小学生のころと同じように放置主義だったように思う。

問題を抱え続けていたわけだけど、こういうわけで、家族の中に頼る人間がいなかったし、頼れる友人関係高校で築き上げたわけでもなかったので、中学からこの頃まではずっと孤独だった。

高校3年生の夏、ようやく打ち解けあえる友だちができ始めた。ようやく仲間と呼べる友だちに出会えて、今でもこのグループの人たちとは交流が続いていて、のちのち精神的に助けてくれる人となる。

高校4年生のとき、頼りにしていた母方の祖母が亡くなった。父親や家族と揉めるといつも、この祖母の家へプチ家出を繰り返していた私にとって、これは大きなダメージだった。ちなみにそんな家出を繰り返しては家族に嫌いとかそんな暴言を吐いていたため、父方の祖母は「あっちの家のほうがいいんだろうねぇ」なんてよく言ってきた。

母方の祖母が亡くなった日、私は唯一の身内で頼れる存在だった人を失ったこともあり、葬式中は泣きとおしていた。親戚一同が集まる食事会では、母方の祖母側の兄弟たちと、祖母の話をして気を紛らわせた。田舎の人たちなので、宴会になっていて、楽しかたから。

けど父親からは「葬式にきていた父親側の人間のそばにいなかった」ということでキレられて、それがショックだった私は2週間ほど、亡くなった祖母の家で、祖父と一緒に暮らした。どうしても父親の理論理解することができず、頭ごなしに一方的に怒鳴られることにも嫌気がさし、この頃から本格的に父親嫌いとなった。

父親嫌い、父親側の祖母嫌いは、このあと数年続くんだけれど、このとき高校の友だちが私に理解を示してくれたおかげでどうにかたちなおれた。だから高校の友だちには本当に感謝してる。ちなみに父親を嫌うエピソードとしては「お前なんかが大学に行けるわけがない」と言われたこともある。

父親の言葉を見返すつもりで、必死勉強をし、第二志望だったけれど希望大学入学することができた。美術は諦めていたから、その次に好きな英語科へ入学した。

私の人生大学入学と同時に、ようやく明るくなってきたように思う。

今まで女子の仲良しグループに属したことがなかったけど(高校ときは男友達に囲まれていた)、それが実現したり、定時制から入学したにも関わらず成績は中の上ということで、自信にもつながった。

家族とは距離を取りつつ、揉めつつ、という微妙関係が続くも、大学2年生のとき、反対を押し切って1年間の留学をした。

嫌いな父親から出資ではあるけれど、家族から距離を置けたのはよかった。今まで家にいても落着けないというか、父親と同じ空間にいると緊張して耳鳴りがするくらいだったので、ストレスから開放されたように感じた。

父親とのコミュニケーションがまったく取れない私とは違い、妹と父親は仲が良く2人で旅行もするくらいだったので、その差に絶望したり、自分の不適合っぷりに悲しくなったりもしたけれど、距離を置くことでどうにか凌いだ。

帰国日が近づき、電話先で父親が口頭一番に発した「帰ってくるなよ」みたいな冗談?をきっかけに、乱れ始めてたので、カウンセリングのお世話になった。話を聞いてもらうことでどうにか落ち着き、まぁ金銭的な援助だけはあるのでその辺の感謝はしつつ帰国した。

留学後の関係は以前よりもずっとマシだったけれど、どうしても距離は縮まりにくかったので、やっぱり何度か揉めた。

でも大学4年生のとある大規模な英語スピーチ大会スピーチを行い、英語理解できないのでいいやと思い両親を招待することで、なんとか今までの成果を見せることができた。まぁ特に褒められはしなかったけど。

今は教育を学ぶために自分奨学金を借りて、二度目の留学をしている。

父親に対して批判的になる大きな理由の一つ、それを助長する理由の一つとして、大学に入ってから教職を取り、先生や親、大人の在り方について考えるようになったからというのがある。

子どもにどう接するのが理想なのか、自分過去と照らし合わせて、教育論について考えている。そんなわけでより一層、父親は間違っていると認識してしまうため、寄り添うことはできなかった。多分、今もそんなにできてない。耳鳴りなんかはなくなったけど、あまり喋れないし。家では基本的に口数が少ないと思う。

感情豊かではない。

それに気づいたのは、つい最近教育実習先の学校からコメントについて大学先生に触れられたのがきっかけだった。私は自分の気持ちを表すことや、人に頼ることが苦手なんだろうと先生に言われた。

過去を振り返ってみると、そうなんだろうと納得できるし、きっとこれまでのことが原因なんだろうと、教育について勉強してきた分、自分をそう判断することができる。

これから努力して少しずつ練習して変えていくつもりなんだけどね。

これを書いている最中、辛かった日々を思い出して泣いた。

けど、泣いても書き続けることで、辛かったあとにやってきた楽しい人生を振り返ることで、自分の成長を確かめることで、自己治癒に繋がったと思う。

ここまで長々と読んでくれた人はどうもありがとう

2012-03-03

一年間、家事手伝いニートをしてわかったこと。

一年間だけ、家の家事をやりながらニートをしていた。

共働きの両親と社会人の兄姉の五人家族だ。

朝は一番始めに家を出る兄の時間に合わせて5時30分に朝食を取れるようにする。

全員の朝食が済んだら平行して洗濯、部屋の掃除をする。

終わったら夕飯の買い出しに行き夕飯を作る。

全員外に出てるため、慣れれば楽である

しかし辛いものは辛い。

専業主婦が辛いのは、肉体的な辛さではなく、精神的なものであると知った。

浪人生のような成果を認められない、行き場のない虚無感。

浪人大学合格とともに終止符を打つが、専業主婦はこれが一生続くのである

ニートは楽だと思っていたし、社会生活から逃れて休息期間が欲しかった私には死ぬほどうらやましい職業だったが、

あの一年間では働くことの喜びや、社会と関われることの嬉しさを知れた。

今は社会人になり、夜間学校にも通い、忙しい日々を送っている。

逆にカレンダーにくうはくがあるのが怖くなってしまった。

もうだめかもわからん

 
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん