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2020-12-06

日本競馬史上の重要事件並びに記憶されるべき事件(画期となる出来事) 1854-1980

https://anond.hatelabo.jp/20201219095651

出来事

1854 日米和親条約締結、下田函館開港

1856 日米修好通商条約締結

1859 函館横浜長崎開港

1860 横浜外国人居留地において、競馬が行われる(居留地競馬

1867 大政奉還王政復古

1868 明治改元戊辰戦争開始

1869 戊辰戦争終了

1870 東京招魂社(現・靖国神社)において、初めて洋式競馬が行われる(招魂社競馬1898年まで)

1874 台湾出兵

1877 西南戦争開始~終了

1894 日清戦争開始

1895 日清戦争終了/馬匹調査会設置

1904 日露戦争開始/臨時馬制調査委員会設置

1905 日露戦争終了

 桂太郎内閣による馬券発売の公認(黙許)(公認競馬中央競馬ルーツ

 馬政第一計画の制定(第一期:1906年1923年、第二期:1924年1935年

 帝室御賞典(横浜)創設(当初の名称皇帝陛下御賞盃)

1906 内閣総理大臣直轄の機関として馬政局が設置される

 帝室御賞典(東京)創設

1907 小岩井農場種牡馬インタグリオーと20頭の繁殖牝馬小岩井農場の基礎輸入牝馬)をイギリスより輸入する

1908 馬券発売の禁止馬券禁止時代の始まり

1909 ウラジオストックにおいて日露競馬会が行われる

1910 韓国併合

 馬政局陸軍省外局となる

 改正競馬規程(閣令)を根拠として、産牛馬組合による競馬が開催されるようになる(地方競馬ルーツ

 主要競走に騸馬(せん馬)が出走不可に。芦毛、月毛、河原毛が出走不可に(毛色の制限1928年まで)

 帝室御賞典(阪神)創設

1911 優勝内国産馬連合競走(連合二哩)創設(ラングトンが第1回の勝馬となる)

1912 大正改元

 宮崎競馬場において、商品券付き勝馬投票実施される(事実上馬券)。1914年までに全ての競馬倶楽部実施するようになる

1914 第一次世界大戦開始

1918 第一次世界大戦終了/シベリア出兵1922年まで)

1922 帝室御賞典(札幌)創設(1937年秋まで。1922年1924年は春のみ。1925年1937年は秋のみ)

 帝室御賞典(福島)創設(春のみ。1922年春~1937年春)。帝室御賞典(函館)創設(秋のみ。1922年秋~1936年秋)

1923 関東大震災/旧競馬法制定(馬券発売再開)/馬政局廃止

 帝室御賞典(函館)創設(春のみ。1923年春~1937年春)。特殊ハンデキャップ競走創設

1925 濠抽混合創設(当初の名称は各内国抽籤濠州産馬混合競走。1932年より目黒記念

1926 昭和改元

 下総御料牧場が2頭の繁殖牝馬(種正・稙道)をアメリカより輸入する

1928 横浜特別創設(1943年秋まで)/連合二哩(牝馬)創設(1928春~1941秋)

1931 満州事変

 下総御料牧場が3頭の繁殖牝馬(星旗・星若・星友)をアメリカより輸入する

1932 東京優駿創設(1950年より「日本ダービー」の副称が付く。ワカタカが第1回の勝馬となる)

 下総御料牧場が3頭の繁殖牝馬(星濱・星谷・星富)をアメリカより輸入する

1934 中山大障害創設

1936 二・二六事件

 旧競馬改正

 馬政局再設置/馬政第二次計画実施1945年まで)

 各地の競馬倶楽部統合し、日本競馬会発足

1937 日中戦争開始

 天皇賞(帝室御賞典)創設(連合二哩並びに各競馬倶楽部で行われていた帝室御賞典を統合。当初秋2600m、春2700mで施行され、第3回から春秋共に3200mで施行ハツピーマイト(ハッピーマイト)が第1回(1937年秋・東京)、ハセパークが第2回(1938年春・阪神)の勝馬となる)

 連合二哩はこの年限りで廃止。各地の帝室御賞典はこの年春限りで廃止

 ヒサトモ牝馬として初の東京優駿制覇

1938 軍馬資源保護法制

 菊花賞京都農林省賞典四歳呼馬)、優駿牝馬オークス)(阪神優駿牝馬)創設

 ヒサトモ牝馬として初の天皇賞(帝室御賞典)制覇

1939 皐月賞横浜農林省賞典四歳呼馬)、桜花賞中山四歳牝馬特別)創設(五大クラシック競走が成立)

1941 太平洋戦争開始/セントライトが初のクラシック三冠を達成

1943 クリフジクラシック三冠(変則)を達成

1944 競馬開催の一時停止。この年の競馬能力検定競走として施行される(戦前競馬はこの年限りで終了)

1945 太平洋戦争日中戦争終了/日本占領/馬政局廃止

1946 競馬再開/地方競馬法制

1947 天皇賞再開(この年春は「平和賞」の名称施行

1948 新競馬法制定。日本競馬解散国営競馬時代の開始

 2歳(旧3歳)競走が競走体系に加わる

1949 朝日杯3歳ステークス1991年から牡馬及び騸馬(せん馬限定レースとなる。現・朝日杯フューチュリティステークス)創設

 阪神3歳ステークス(1991年から阪神3歳牝馬ステークスとして牝馬限定レースとなる。現・阪神ジュベナイルフィリーズ)創設

1951 中央競馬における重勝馬券の発売(1961年廃止

 トキノミノルが無敗で二冠を達成

1952 日本独立占領時代の終了)

1954 高度経済成長の開始(1973年まで)

 日本中央競馬会(略称1986年までNCK。1987年からJRA)発足(国営競馬時代の終了)

 啓衆社(競馬予想紙を発行)が啓衆賞を設け、各年に活躍した競走馬表彰することを始める(1972年から優駿』(日本中央競馬会の機関紙)の主催による優駿賞、1987年から日本中央競馬会の主催によるJRA賞となる。最初年度代表馬ハクリヨウ(ハクリョウ))

1955 日本中央競馬会が英国ジョッキークラブとの間に騎手に対する制裁相互実施協定を締結する(国際交流の始まり

 東京大賞典(秋の鞍)創設

1958 ハクチカラ戦後日本調教馬として、初めて海外遠征する

1956 有馬記念中山グランプリ)創設(メイヂヒカリが第1回の勝馬となる。八大競走成立)

1962 日本中央競馬会が優駿誌上でフリーハンデ公表

1963 中央競馬において8枠制が導入される

 メイズイとリユウフオーレル(リュウフォーレル)の2頭が年度代表馬に選出される

1964 東京オリンピック。東海道新幹線開業

 シンザン戦後初のクラシック三冠を達成

1965 シンザン天皇賞秋・有馬記念を制覇し、五冠を達成(当時牡馬が出走できる大レースを全て制覇)

 シンザンが2年連続年度代表馬に選出される

1967 栗東トレーニングセンター開場

1968 中央競馬における繋駕速歩競走はこの年限りで廃止される

1969 競走馬輸入自由化

1970 大阪万博

 スピードシンボリが初めて有馬記念を連覇し、1967年以来2度目の年度代表馬に選出される

 競馬ブックより「合同フリーハンデ」が発表される

1971 ニクソン・ショック

 地方競馬における繋駕速歩競走はこの年限りで廃止される

 貿易自由化に伴い国内生産者への保護政策実施されたことにより、持込馬有馬記念を除く八大競走への出走権を失う

 トウメイ天皇賞秋・有馬記念と連勝し、牝馬として初の年度代表馬に選出される

1972 沖縄返還

 地方競馬における騎乗速歩競走はこの年限りで廃止される(中央競馬では戦前限り廃止

1973 第1次オイルショック高度経済成長の終了)

 ハイセイコー中央競馬移籍し、好成績を挙げ、国民的人気を集める(1974年有馬記念2着(勝馬タニノチカラ)を最後引退

1974 単枠指定制度の導入(1991年10月5日廃止最初指定馬は同年の皐月賞におけるキタノカチドキ最後指定馬は1991年セントライト記念におけるレオダーバン

1977 テンポイント有馬記念トウショウボーイとのマッチレースを制し、年度代表馬に選出される(3着はグリーングラス

1978 美浦トレーニングセンター開場

2020-02-25

[]横浜三塔

横浜港から見える三つの建物神奈川県庁本庁舎横浜税関横浜市開港記念会館のことで、

それぞれキングの塔・クイーンの塔・ジャックの塔という愛称がつけられている。

この三塔を同時に見ることのできる三つのスポット観光名所となっており、

それらを全て回ると願いが叶うという都市伝説がある。

2019-08-23

横浜市カジノ誘致に賛成の市民

賛成の市民もいるんだから市民全員が反対みたいな偏向報道しないでほしいなぁ。市長英断だと思うよ。山下ふ頭の港湾業者なんて、どう考えたって利権守りたいだけでしょ。

今、みなとみらい玄関口になっている桜木町駅は、陸側の方は数百メートル以内にJRAの場外馬券売り場や大型パチンコ店があって、遠くから電車で来てくれる馬券客やパチンコ客で集客している街なんだし、今更、カジノ反対って言ったってねぇ。そりゃ、山下町にはパチンコ屋はないかもしれんが、近隣の長者町とか伊勢佐木町とか関外に行けばパチンコスロットゴロゴロあるわけで。あっちの方がよほど品が悪いのでは。

カジノなんて品格のないものをうんたら、とか、歴史的経緯が云々いう人は、もともと、横浜スタジアムのある横浜公園に何があったか知ってて言ってるんでしょうね…あそこは、開港当時の外国人向けの遊郭(港崎遊郭)の跡地ですよ。ちょっと調べればわかるけど、尊王攘夷運動のあった幕末には、外国人にできる限り居留地に閉じこもってもらって街の外でトラブル起こさないように、遊郭とか競馬場とか、エンターテイメント施設を、全部日本側が作ってあげたり大きく支援したりして作ってたんですよ。

山手洋館ありますよね?あれ、全部、関東大震災外国人居留地が壊滅して、逃げちゃった外国人になるべく横浜にいてもらうために作ったモデルハウスみたいなものですよ。

そうやって、外国人にできるだけいてもらうために街を作ってきた経緯を考えれば、むしろ山下町にカジノがあってしかるべきなんじゃないですかねぇ。

結局、旧外国人居留地だった山下町・山下ふ頭近辺に対する変な幻想市民の中にあって、それを利用して港湾業者利権を守るために騒いでいるだけにしか見えないんですよねぇ。ギャンブルは全部、横浜っぽくない近隣の地区押し付ければいいっていうのが透けて見えて、いけ好かないんですよねぇ。

2019-07-18

anond:20190717135108

Wikipedia曰く、

李氏朝鮮時代末期に開港場となり発展した港町であり、かつて8千人以上の内地住民を抱える日本人の街であった[1]旧市街地では日本統治時代和風建築近代建築が多数残っている。

ええやん。

歴史問題とかが全て最終的不可逆的に解決して、日韓が真の友好国になったら是非行ってみたいねw

各国の政治家たちは、とてもがんばれ!オレの目の黒い内になんとかしてくれww

2018-09-07

関空7日開港

官邸意向(ってか、ごり押し)で無理やり開港にこぎつけたらしいよ。資料に書いてあった。

2018-02-15

横浜

開港した時だけなんだよね。横浜最先端だったのは。今じゃ古いし遅いしろくでもないし・・・ゴミの戸別収集ぐらいやれよ。任意加入の自治会に入らないとゴミ捨てられないとか狂ってるし・・・結局強制じゃん。PTAと同じじゃん。悪質なエロサイトと同じじゃん・・・じゃんじゃん

2018-01-15

俺的、幕末の分かりにくい所

日本史幕末が分かりづらいのは「悪の江戸幕府正義薩長が倒した話」と考えてしまうから

https://togetter.com/li/1190022


朝廷無視して開港したりする幕府に反発して攘夷攘夷!って言ってた倒幕派の人らが、外国武器取引とかお付き合いしだして最終的に開国推し進めていくのが訳分からん。つうかダサくね?維新志士ダサくね?新撰組はカッコイイ。

2017-12-13

先に誤っておきます楽しい話じゃないです、ごめん。楽しくないどころか、大いに気分の悪いことを書きます。読まなくても特に問題ないことしか書いてないので、読まないのも推奨。読むと決めたら注意して読んでください。

#世界一クリスマスツリー というプロジェクトがあります。ひょっとしたら情熱大陸で知ってる人もいるかも。このプロジェクト時間が経つに従ってイベントストーリーが追加されてて、怒りが増していっているので、自分でも自分が当初どう感じていたかからなくなりそう。わからなくなる前に書き留めておこうと思いたった。ただそれだけの記事です。怒りポイントは大量にあって、それぞれの人がそれぞれ怒っているので、私の場合も書いておこうと思った。読まないのも推奨。大事な事なので二回書きました。

最初記事

この話題に一番最初に触れるきっかけは、神戸新聞記事の紹介だった。

港に樹齢150年の巨木でXマスリー 神戸全長30m(神戸新聞NEXT) - Yahoo!ニュース

https://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201710/0010612425.shtml

神戸メリケンパークに今冬、全長約30メートルの生木のクリスマスツリーを立てる計画が進んでいることが3日、関係者への取材で分かった。珍しい植物を追い、世界中を回る「プラントハンター」の西畠清順さん(36)=川西市=が企画世界的に有名な米ニューヨークロックフェラーセンターのツリーと同規模になるという。12月の約1カ月間ライトアップし、神戸港開港150年目を華やかに締めくくる予定だ。(上杉順子久保田麻依子)
西畠さんが率いる植物コンサルティング会社「そら植物園」(川西市)が開港150年目の記念イベントとして主催神戸市が後援する予定。
リーにする木は富山県氷見市山中に生えている推定樹齢150年、推定重量40トンのアスナロ。約2年前に西畠さんが見つけて掘り出す準備を進め、クリスマスツリーとして立てる場所を探していた。
神戸市側との協議を経て、「阪神・淡路大震災から復旧し、開港の大きな節目も迎えた街に立てたい」と神戸港での設営を決心。震災犠牲者をしのぶ「神戸ルミナリエ」とも開催時期を重ねることにした。
木は今月中旬に根ごと掘り出し、輸送可能状態にまで枝を圧縮した後、11月初旬に氷見を出発。トレーラー富山県内の港に向かい神戸港まで海路で運ぶ。同月中旬メリケンパークに到着するという。
会場では大きな鉢に植樹し、反射材入りメッセージカードに観覧者の夢や目標を書いてもらい、飾りとして木に結ぶ。観覧無料で、ツリー周辺でマルシェ音楽イベントも開かれる。
西畠さんは「巨木を立てることは古来、鎮魂の意味があり、やるなら神戸しかない。生まれ育った兵庫から震災の傷痕が残る東北熊本希望を届けたい」と意気込む。

この時点での感想


次の記事

次に目にしたときは既に非難の声を集めた記事だった。曰く「醜悪すぎる」

http://buzzap.jp/news/20171120-xmas-tree-kobe/

いろいろ読み進めると、主催者側は様々なストーリーを追加していたようだった。

「今回のプロジェクト面白いところは、ロックフェラーセンターのツリーよりも大きなクリスマスツリーを立てようというプロジェクトと見せかけて、みんなでギネス世界記録を狙うというところ」

え!!ロックフェラーのような賑わいを作るのは実はどうでも良くて、記録を作る企画すり替えるの?それは騙す気まんまんということ?最初からそう言えばよかったんじゃないの?それはサプライズにはならない、みんなと同じ方向を向いて進んでいないと、おかしくなる。賑わいを作ろうと頑張ってたスタッフ気持ちを、どこかに捨てることになる。最初から記録更新目標なら、みんなでそこに向かえばいいのに、どうしてこんなことをするんだろう?

フェリシモが加工して販売するだって畏敬の念へったくれもない。それじゃぁ、150年の樹木という意味すら必要なくて、それだったら「単に大きな樹を用意して、みんなで楽しみました。楽しんだ記念グッズを販売します」で良かったんじゃないの?関係者ごとに違う話を吹き込んで回ってたりするのか?そもそも移植じゃなかったんだ。この先も敬っていくものとして扱うのではなくて、材木ってことね?

「輝け、いのちの樹。」だって意味がよく分からない。全く共感できない。輝いているのは電飾でしょ?命が輝くというのはそういうことじゃない。賑わいを作り出して祝う場合だって、輝くのは私たちの命であって、クリスマスツリーじゃない。

極めつけは「ヒノキになれない落ちこぼれの木がこのプロジェクト世界一に輝くことを目指す」ですよ。これは、なぁ、もう、ダメだ。完璧に。敬う対象としての木が、材木になるのは、100 歩譲れたとしても、この投影ダメだ。「落ちこぼれ」とか人間らしすぎる。人間投影されてしてしまっている。これはシャレにならない。この木が弱って、材木として加工されていくという過程を、この神戸の人たちに見せようというのか。例えば自宅が燃えていくのを、なすすべもなく見ることしかできなかった人。あるいは、親や子供がれきの下から救出できずに、なすすべもなく失った人。そういう人達が住んでいる、この神戸で。ただの材木ならまだよかった。この投影によって、樹がそういう意味を持ってしまう。過去の辛い思い出を引き出されるのは、それだけでも相当辛い。さらに、その樹が輝くことを目指す、ですよ。もう一度何が投影されているかを考えてみてください。これがどれほど傲慢で不遜な行為に映るだろうか。まさに魂に対する冒涜ですよ。これは駄目です。人の道を外れています

それでもここまでなら、何かを盛大にこじらせた自称アート作家の事案で済んでいたかもしれない。

次の記事

神戸港巨大ツリー 催事伐採生田神社鳥居に」

https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201712/0010779156.shtml

この記事は、さらに踏み込んできた。

ここまで命を弄んだ挙句に、それを町のシンボルたる生田神社に持っていくなどとは、さすがに許しがたい。断じてNOだ。持っていくにしても十分な手続き必要だ。まさに鎮魂をしなければ受け入れられない。生田神社のコンセプトは命の女神なんですよ?

「ツリーを見るのが嫌な人は見なければいい」という発言、これ意味わかりますか?これまで私たち公園だった場所ですよ?ツリーは見たくないに決まってるじゃないですか。過去の傷がえぐられるのを分かっていて、どうして見に行く気になる?そういう前提で、見に来なければいいというのは、公園を奪ったということなんです。私たち土地を奪ったということなんです。これは明確な神戸市民に対する攻撃だと、はっきりしたんです。攻撃されて黙っているとでも思ったんですか?怒って当然でしょうが

2017-12-07

anond:20171207120008

いやー、あれって神戸開港150年記念事業から多分税金が入ってるから

しろ積極的社会問題化しなきゃダメなやつだ。税金の使い道としてどうなのかという話で。

2017-11-20

岡山といえば桃太郎

愛称だけで岡山空港とわかる」が条件 岡山県空港愛称募集 来年3月開港30周年 - 産経WEST

http://b.hatena.ne.jp/entry/www.sankei.com/west/news/171119/wst1711190029-n1.html

桃太郎岡山起源説は在野の研究者の主張に昔の県知事が乗っかっただけのもの学術的な根拠は限りなく薄弱。

起源を主張したがる某国みたいだが定着してしまったので今さらどうしようもない。

宮本武蔵小説では岡山出身になってて宮本武蔵駅であるけれど実は兵県出身ということでほぼ決着がついてる。

黒田官兵衛ゆかりの地ともいうけれど、これも無関係ということでほぼ決着。

他にも金太郎の墓だとか那須与一の墓だとか日野富子の墓だとかいろいろあるよ。

2017-05-19

この条約が締結される頃の東アジア世界は、近代国際法を掲げながら、実際には弱肉強食を旨とする西欧列強が浸透してくる時期にあたる。当時朝鮮は清の冊封国であったが、鎖国政策を国是としていたため、国際交流は非常に限られていた。しかしそのような朝鮮にも1860年代以降国際化の波(外圧)が押し寄せ、海上から西欧諸国が訪れるようになる。朝鮮西欧列強との出会いは、概ね芳しいものではなかった。たとえば1866年にはフランス軍キリスト教徒虐殺事件丙寅迫害)の報復として軍艦7隻総兵力1000人で朝鮮江華島攻撃占領する丙寅洋擾が発生し、1871年にはアメリカ合衆国ジェネラルシャーマン事件1866年発生)の報復として軍艦5隻総兵力1200人艦砲85門で朝鮮江華島攻撃占領を行っている(辛未洋擾)。丙寅洋擾と辛未洋擾は朝鮮通商を行うための侵略であったが却って斥和碑を建てるなど攘夷につながった。

当時朝鮮政権を担っていたのは高宗の実父興宣大院君である清朝から西欧列強情報を得ていた大院君は、断固として鎖国を維持する姿勢を貫いた。これは中国における西欧側の非道を知ったこともあるが、朱子学以外を認めない衛正斥邪という思想政策積極的に推し進めたことから分かるように、大院君は中華思想的発想の持ち主であり、その点から西欧諸国夷狄視していたことも理由の一つである。その強い姿勢は「西洋蛮人の侵犯に戦わない事は和議をする事であり、和議を主張することは売国行為である」と書かれた斥和碑を朝鮮各地に建てたことに窺うことができる。このように当時の朝鮮では攘夷熱が高まっていた。

また朝鮮では、文禄・慶長の役時に、中国朝鮮を守ったため、今回も中国朝鮮を守ってくれるに違いないという立場であり、小島毅は「中国東アジア全体にとっての親分だというのが朝鮮認識ですから親分である中国自分を守ってもらおうとするわけですね」と述べている[2]。

日朝間の懸案:書契問題[編集]

他方、西欧列強が迫っていた東アジア諸国の中で、いちはや開国明治維新により近代国家となった日本は、西欧諸国のみならず、自国周辺のアジア諸国とも近代的な国際関係樹立しようとした。朝鮮にも1868年12月明治政府樹立するとすぐに書契、すなわち国書対馬藩の宗氏を介し送った。江戸時代を通じて、朝鮮との関係は宗氏を通じ行われてきたためであるしか国書の中に「皇」や「奉勅」といったことばが使用されていたために、朝鮮側は受け取りを拒否した。近代的な国際関係樹立は、はなから躓いたといえよう。

この問題は、日朝双方の国交に対する思惑がすれ違ったことが原因である日本側は従来の冊封体制的な交隣関係から条約に基礎づけられた関係へと、日朝関係を変化させることを企図したのであるが、一方朝鮮側はこれまでどおり冊封関係にとどまり、その中で日本との関係位置づけようとしていた。前近代における冊封体制下において、「皇上」や「奉勅」ということばは中国王朝にのみ許されたことばであって、日本がそれを使用するということは、冊封体制の頂点に立ち朝鮮よりも日本の国際地位を上とすることを画策したと朝鮮は捉えたのである

なお近代以前の日朝関係については朝鮮通信使に詳しい。

征韓論を唱えた西郷隆盛。ただし江華島事件及びその後の日朝修好条規締結に対して義に悖ると批判していた。

1868年以来、何度か日本から国書がもたらされたが、日朝双方の思惑の違いか両国関係は円滑なものとは言えなかった。書契問題を背景として生じた日本国内における「征韓論」の高まりに、大院君が非常な警戒心を抱いたことも一因である。また釜山においては日朝両国官僚同士が険悪となっていた。長崎出島のごとき釜山倭館限定した国交を望む朝鮮側と、対馬宗氏から外交権を取り上げて外交を一元化し、開国を迫る日本との間に齟齬が生じたのである釜山倭館朝鮮側が日本特に対馬藩使節商人を饗応するために設けた施設であったが、明治政府対馬藩から外交権を取り上げ、朝鮮との交渉に乗り出そうとした。その際、倭館をも朝鮮側の承諾無しに接収日本公館としたことから事態悪化したのである。結果、必要物資供給及び密貿易の停止が朝鮮から宣言される事態となった。

日本側も単に国書を送りつけるだけだったわけではない。版籍奉還という日本国内の難問を無事に乗り越えた1870年朝鮮との国交交渉を有利にするため、冊封体制の頂点に立つ清朝と対等の条約日清修好条規を締結した。これにより冊封体制の維持を理由に国交交渉忌避する朝鮮を、交渉テーブルに着くように促したのである

1873年に対外強硬派の大院君が失脚し、王妃閔妃一派が権力を握っても、日朝関係は容易に好転しなかった。転機が訪れたのは、翌年日清間の抗争に発展した台湾出兵である。この時、日本朝鮮出兵する可能性を清朝より知らされた朝鮮側では、李裕元や朴珪寿を中心に日本から国書受理すべしという声が高まった。李・朴は対馬藩のもたらす国書に「皇」や「勅」とあるのは単に自尊意味するに過ぎず、朝鮮に対して唱えているのではない、受理しないというのは「交隣講好の道」に反していると主張した。これにより朝鮮側の対日姿勢がやや軟化した。

条約締結までの経過[編集]

国交交渉[編集]

国交交渉再開の気運が高まり1875年交渉が行われた。日本側は外務省理事官森山茂と広津弘信、朝鮮側は東莱府の官僚交渉テーブルに着いたが、やはり書契に使用される文字について両者の認識に食い違いが生じた。この他森山洋服着用など欧米スタイルを貫こうとする姿勢朝鮮側が嫌悪感を示したことで交渉ははかばかしくなかった。交渉の停滞に業を煮やした森山4月には砲艦外交を行うことを日本政府に上申した[3]が、三条実美の反対があり、川村純義の建議により日本海軍砲艦二隻(雲揚および第二丁卯)が5月派遣され朝鮮沿岸海域の測量などの名目示威活動を展開した。その後雲揚は対馬近海の測量を行いながら一旦長崎に帰港するが、9月に入って改めて清国牛荘(営口)までの航路研究を命じられて出港した。

江華島事件[編集]

詳細は「江華島事件」を参照

9月20日首都漢城に近い江華島付近で、雲揚所属の端艇が朝鮮砲台から砲撃を受ける事件が発生した(江華島事件)。雲揚は反撃し、永宗島要塞を一時占領、砲台を武装解除し、武器旗章楽器等を戦利品として鹵獲した。この事件における被害は、朝鮮側の死者35名、日本側の死者1名負傷者1名(のち死亡)であった。事件朝鮮側が日本海軍所属軍艦と知らずに砲撃してしまった偶発的なものとされ[4]、この江華島事件の事後交渉を通じて、日朝間の国交交渉が大きく進展した。

条約交渉における日本側の基本姿勢[編集]

ボアソナード

明治政府のお雇い外国人ボアソナードは、事件を処理するために派遣される使節への訓令について、以下を決して朝鮮に譲歩すべきではないと具申した。

釜山・江華港を貿易港として開港する。

朝鮮領海航行の自由

江華島事件についての謝罪要求

またこれらが満たされない場合軍事行動も含む強硬外交姿勢を採ることをも併せて意見している。これらの意見ほとんど変更されることなく、太政大臣三条実美を通じて訓示に付属する内諭として使節に伝えられた。さら朝鮮に対する基本姿勢として、三条はこの江華島事件に対して「相応なる賠償を求む」べきとしながら、使節団の目的を「我主意の注ぐ所は、交を続くに在るを以て、・・・和約を結ぶことを主とし、彼能我が和交を修め、貿易を広むるの求に従ひときは、即此を以て雲揚艦の賠償と看做し、承諾すること」だと述べていた(強調、加筆者)。これは欧米列強干渉を招かないよう配慮すべし、という森有礼の言が容れられたものである

さらボアソナードのいう軍事行動も含む強硬外交姿勢も、日本は忠実に実行に移している。使節団一行には軍艦兵士の護衛がつき、威圧効果朝鮮側に与えようとした。また交渉が決裂した場合に備え、山縣有朋山口県下関に入り、広島熊本両鎮台の兵力をいつでも投入できるよう準備していたのであるさらにいえば、日本砲艦外交姿勢は無論朝鮮の屈服を促すものであったが、同時に日本国内の「征韓論」を唱える不平士族の溜飲を下げることも狙ったものであった。

ただこのように軍事的高圧な姿勢を表面上見せながら、当時の日本は軍費の負担という点からいって、戦争が好ましいとは考えていなかった。また戦争の発生がロシア清朝の介入を許すきっかけになるかもしれず、その点からも極力戦争は避ける考えであった。

以上をまとめると日本側の交渉の基本姿勢は、以下の二点に集約される。

砲艦外交を最大限推し進めながら、実際には戦争をできるだけ回避すること。

江華島事件の問罪を前面に押し出しながら、実質的には条約を締結し、両国の懸案で長年解決しなかった近代的な国際関係樹立すること。

また対朝鮮政策は、実質的には朝鮮宗主国である清朝政策でもあり、清朝干渉をなくすべく事前に清朝の大官たちと折衝を重ねることも日本は行っている。19世紀欧米列強アジア侵略に対抗するため、清朝朝鮮ベトナム琉球などの冊封国保護国化あるいは併合することによって皇帝を中心としたアジア伝統的な国際関係をそのまま近代国際関係へと移行させて清の地位と影響力を保持しようとし、冊封国に対して保護国化、モンゴルチベット新疆などの保護国に対しては植民地化を強めようとしていた。

この時期の東アジアは、日中朝そして西欧列強の間における複雑な絡み合いが相互作用する場が形成されつつあった。日朝間の国交交渉再開もその結果としてもたらされたものであると同時に、また別の歴史事象の原因でもあったのである

花房 義質(はなぶさ よしもと、1842年2月10日天保13年1月1日) - 1917年大正6年)7月9日)は、明治大正期の外交官岡山藩士で実業家政治家(初代岡山市長)花房端連の長男爵位子爵歴任した主な官公職枢密顧問官日本赤十字社社長など。

目次 [非表示]

1 来歴・人物

2 栄典

3 家族

4 脚注

5 関係記録

6 関連事項

7 外部リンク

来歴・人物[編集]

緒方洪庵適塾で学び、1867年ヨーロッパ諸国アメリカ遊学し翌年帰国1870年から外国官御用掛として外務省出仕。同年日清修好条規の土慣らしの為に渡清。

1872年ペルー国船に乗船の清国人奴隷虐待問題マリア・ルース号事件)で外務卿副島種臣の補佐として書記官担当し、仲介裁判のための代理公使としてサンクトペテルブルク派遣され、訴訟の後は日露国画定交渉のため派遣された榎本武揚全権公使を補佐。

1877年、駐李氏朝鮮代理公使に任命されるが翌年1878年8月10日から1876年5月に締結された日朝修好条規に反して 朝鮮政府釜山の豆毛鎮に税関を設置し、朝鮮国内の輸入行者に対して関税徴収を開始したことから報復措置として代理公使の花房は軍艦と共に釜山派遣され豆毛鎮に設置された税関撤去要求する。最終的に、朝鮮政府が折れる形で事態は沈静化し、1878年12月4日に豆毛鎮の税関正式撤去された。1880年4月日本政府漢城への日本公使の常駐化を決定、初代公使として花房が任命される。だが、この時点ではまだ漢城公使館は開いていなかった。この公使館開設の件と仁川開港問題について金弘集と折衝し、その後、漢城日本公使館正式設置と仁川開港朝鮮政府に認めさせ、それに併せ日朝間で国書の交換がなされ、花房は代理公使から公使へと昇格した。

その後朝鮮駐在朝鮮近代化の為別技軍を提案するが、それが原因となった壬午事変では暴徒に包囲された公使館脱出して命からがら帰国、直後に寺内正毅率いる日本軍と共に朝鮮渡り済物浦条約を締結させ、事件の損害補償とともに、漢城への日本軍駐留などを認めさせる。

1883年より1886年までの3年間にわたり、在露特命全権公使としてサンクトペテルブルク駐在した。

その後は農商務次官、帝室会計審査局長宮内次官枢密顧問官日本赤十字社社長などを歴任した。1896年華族に列せられ男爵

目黒にある城南五山の一つである花房山は、1911年に花房が子爵に陞爵した際に別邸を構えたことが地名の由来。(現在品川区上大崎三丁目付近

1917年慢性胃炎のため死去[1]。

朝鮮朝鮮王朝(李朝)の高宗31(1894)年に起こった反侵略,反封建の農民戦争東学党の乱ともいう。高宗1年,東学1世教主崔済愚が,邪教を広めたとして処刑された。第2世教主崔時亨は東学公認を求め,同 29年以降「教祖伸寃」の請願教徒大衆行動でしばしば行なった。しかし「教祖伸寃」という宗教的訴えは,かえって狡猾な地方官に農民収奪の口実を与えることになった。そこで農民たちの運動は貪官汚吏の処分など政治的要求へと変わっていった。反乱は同 312月全羅道古阜郡の民乱を契機にして始まり,一応の成果を得て解散した。その後政府派遣の按覈使(あんかくし)の不法弾圧激怒した全琫準は,全羅各地に呼びかけ,5月古阜,泰仁で本格的な闘争に立ち上がった。全羅各地で蜂起した農民軍は白山に集結,大多数が農民東学徒は少なく,指導者東学接主であった。全琫準ら指導者は,農民軍を軍隊式に編成,四大綱領を発表し,反封建,反侵略を訴えて広範な農民層の支持を得た。農民軍は黄土峴,長城で政府軍撃破し全州を占領した。閔氏政権はこれに驚き清国出兵要請する一方,農民軍の弊政改革案を受け入れた。全州和約後,農民軍の大半は解散したが,全羅道 53郡に農民軍の自治機関である執綱所が設置され,実質上の政権機関として機能した。日清戦争が起こるとまもなく,全琫準ら農民軍は再起したが,日本軍政府軍の圧倒的な軍事力の前に敗北した。

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デジタル大辞泉解説

うご‐のうみんせんそう〔カフゴノウミンセンサウ〕【甲午農民戦争

1894年朝鮮李朝末に起こった東学信徒を中心とした農民の反乱。鎮圧のため李朝政府清国派兵要請日本出兵して乱は鎮圧されたが、日清戦争を誘発する結果を招いた。東学党(とうがくとう)の乱。

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百科事典マイペディア解説

甲午農民戦争【こうごのうみんせんそう】

李朝末期の1894年(甲午の年)に朝鮮南部で起こった農民反乱。圧政に苦しむ農民の間に広まった民衆宗教東学〉は1890年代には活動公然化させるが,全羅道古阜で全【ほう】準(ぜんほうじゅん)に率いられた農民たちが同年2月郡庁を襲撃し,5月以降全羅道一帯に及ぶ蜂起に発展,閔(びん)氏政権の打倒と日本人駆逐をかかげて各地を転戦した。

→関連項目大院君|李朝朝鮮

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世界大百科事典 第2版の解説

うごのうみんせんそう【甲午農民戦争

1894年(甲午の年)に朝鮮南部でおこった農民反乱。李朝末期の朝鮮では封建的収奪に反対する民乱が続発し,とりわけ南部地方開港後の外来資本主義との接触によって矛盾が激化していた。圧政に苦しむ農民の間に広まった東学は,1890年代に入ると活動公然化するようになった。こうした情勢のもとで,94年2月全羅道古阜の農民は,規定外の税をとるなど暴政を行った郡守趙秉甲(ちようへいこう)に抗議し,全琫準を指導者として郡庁を襲撃した。

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大辞林 第三版の解説

うごのうみんせんそう【甲午農民戦争

朝鮮1894年(甲午の年)東学信徒が主導した農民戦争地方官の悪政に反対した全羅道農民が蜂起したのに始まる。朝鮮王政府鎮圧のため清しんに出兵を求め、清に対抗して日本出兵日清戦争の契機となった。東学党の乱。 → 東学

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

甲午農民戦争

うごのうみんせんそう

1894年(甲午の年)に起こった朝鮮の歴史もっとも大規模な農民蜂起(ほうき)。この戦争きっかけとして、中国、清(しん)の勢力排除朝鮮支配することをねらっていた日本政府は、公使館警護と在留邦人保護名目大軍を繰り出し、日清戦争引き起こした。

 当時、朝鮮民衆は、朝鮮政府財政危機を取り繕うための重税政策官僚たちの間での賄賂(わいろ)と不正収奪の横行、日本人の米の買占めによる米価騰貴などに苦しんでいた。それにまた、1890年代の初めには干魃(かんばつ)が続いて未曽有(みぞう)の飢饉(ききん)に悩まされていた。これに耐えかねた農民たちが、日本への米の流出の防止、腐敗した官吏罷免租税減免要求して立ち上がったのがこの戦争の始まりである指導者には、急速に教勢を拡大していた民衆宗教である東学教団の幹部であった全準(ぜんほうじゅん)や金開南らが選ばれた。そのため東学党の乱とよばれたこともあった。5月初め、全羅道古阜(こふ)郡で結成された農民軍は、全羅道配備されていた地方軍や中央から派遣された政府軍を各地で破り、5月末には道都全州を占領した。農民軍の入京を恐れた朝鮮政府清国に援軍を出してほしいと要請した。ところが、ここで予期しないことが起きた。清軍の到着と同時に日本軍が大挙して朝鮮侵入してきたのである朝鮮政府は急遽(きゅうきょ)方針を変更して農民軍と講和交渉を行い、農民たちの要求をほぼ全面的に受け入れることで停戦した(全州和約、6月10日)。

 全羅道の各郡には執綱(しっこう)所という機関が設けられ、農民たちの手による改革が始まった。農民戦争はこれで終わったかみえた。ところが、朝鮮上陸した日清両軍は、朝鮮政府のたび重なる要請にもかかわらず撤退しようとしなかった。それどころか、日本政府朝鮮の内政改革を求め、朝鮮政府にこれが拒否されるや、1894年7月23日王宮占領し、親日政府組織させた。

 清国がこうした日本の行動を批判したのを好機として始められたのが日清戦争である日本政府日清戦争と併行して朝鮮植民地化する政策を推し進めた。この日本勢力を追い出すため、朝鮮農民たちは10月かばになって再決起した。全準たちは東学組織を使って各地の蜂起を統一したものにしようとした。このとき立ち上がった農民20万人を超えたといわれる。日本軍朝鮮政府軍相手にして農民軍はよく闘った。しかし、日本軍の圧倒的な火力の前になすすべはなかった。翌年1月農民軍は壊滅し、全準は3月末、ソウル処刑された。[馬渕貞利]

[参照項目] | 日清戦争

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世界大百科事典内の甲午農民戦争言及

【崔時亨】より

92から翌年にかけて東学合法化をめざす教祖伸冤運動を展開。94年の甲午農民戦争では,東学本来非暴力的な教化主義立場から武力蜂起に消極的で,全琫準らの主戦論対立したが,のちに農民軍への合流を教徒に指示した。農民軍の敗北後,98年に江原道原州で逮捕され,ソウル処刑された。…

朝鮮】より

しかし,金玉均ら開化派が政権奪取をめざした甲申政変(1884)は内外の困難を克服しえずに挫折を強いられた。一方,民衆の反封建・反侵略変革運動は,壬午の軍人反乱(壬午軍乱,1882)を先駆として,甲午農民戦争(1894)に大きく花開いていく。甲午農民戦争こそ朝鮮社会近代への移行の決定的転換点となる可能性をはらんでいたのだが,日本侵略意図に立つ軍事力行使がこの可能性を破壊してしまったのである。…

日清戦争】より

… 朝鮮では王妃一族閔(びん)氏を中心とする親清派と国王の生父大院君派および金玉均独立派(開化派)が抗争しており,政治は乱れ,官吏不正日本商人の買占めで民衆の不満は高まっていた。1894年春,民間宗教東学を奉ずる農民分散した民衆の不満を結びつけ,朝鮮南部を中心に汚職官吏の掃滅と外国人排除を求める大規模な反乱を起こし,5月には各地で官軍が敗北するという重大な事態となった(甲午農民戦争)。朝鮮政府日本亡命中の金玉均らが農民反乱に呼応することをおそれ,上海に誘い出して暗殺した。…

※「甲午農民戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています

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2017-04-04

9年継続したニコニコ動画プレミアム会員を退会して1ヶ月が経ちました

主に見る動画ホモ男優MADYoutube rのMADBiimシステムと呼ばれるRTA動画

プレミアム会員初の減少”というニュースを見て自分も解約。


結論から言うと「完全にニコニコ動画は終わっているな」というのを実感した。

プレミアム会員システムが始まってからずっと課金していたので約9年、540×12の6480円、約6万円を今までニコニコ動画に払ってきた。


プレミアム会員をやめて感じたこと

・まず、違和感を感じたのが動画シークバー。

プレミアム会員でないと動画を読み込んでいないところにシークバーを移動させることができない。この行為ができない動画サイトが他にありますか。月540円払わないとこんなこともできない。

・画質についてはもはやプレミアム会員でも悪かったので特に言うことは無い。

HD画質が当たり前の時代ですよ・・・

・ひたすらプレミアム会員に勧誘してくるのがウザすぎる

広告adblockで弾けるのでどうでもいいのに「プレミアム会員になるにはこちら!」と至る所に表れる。

解約するときにひたすら解約させないようにして更にこの仕打。

ニコニコ生放送はあってないようなもの

追い出しでまず見れない。プレミアム会員だった頃は「追い出された」というコメントに「ほ~ん」としか思ってなかったが本当にひどい。

AbemaTV別にニコ生があるからなあ・・・と思っていた自分感覚が完全に麻痺していた。

画質も悪く、有料会員でないとまともに見れないコンテンツからそりゃ人は離れる。

ユーザー生放送も今までいつでもタイムシフトで視聴できたのに見れないのが不便の極み。

プレミアム会員に入っててようやく普通動画サイト、入ってないと完全にどうしようもないゴミサイト

ひたすら焼きそば焼いててくれ。俺はもう見放した。

横浜DeNA主催試合高画質で中継してるのでAbemaTVで見よう!開港横浜

(*^o^*)

2016-09-02

神戸の「海側」「山側」

神戸の街では方角を示すために「海側」「山側」という呼び方があります

文字通り海を正面にして、背後に六甲山をせおっている地形からくる呼び方なんですけど。

よそから神戸へ来ると「は?海?わかんねえよ」と思うのですよ。

地元民どうしの会話の中ではいくらでも使ったらいいが、駅構内の掲示や店舗アクセスマップなどに使うのは、排外主義もはなはだしいのです。

神戸と同じような幕末明治開港歴史があり、スカした感じが鼻持ちならないという共通項もある横浜は?と思って地図を見たら山がなかった。

そして街がもっとでかかった。

2016-02-17

埼玉県ダサい歴史的必然性を考察する

埼玉県ダサい

都道府県魅力度ランキングで、毎度ワースト争いをするのも致し方ないといえる程度にはダサい

埼玉県に生まれ育った自分が言うんだから、間違いない。

そもそも、律令国時代には「武蔵国」として、埼玉県東京都と一体だったのだ。

で、武蔵国から東京を分離した「あまりの部分」が現在埼玉県なのだから、これがダサくなくてなんであろう。

(余談ながら、ことあるごとに埼玉はおろか、東京すらも下に見る、あの鼻持ちならない「横浜」という地域の大半も、

かつては「武蔵国」であって、そういう意味では、横浜埼玉兄弟であって、ペリーの来航による開港がなければ、

せいぜい千葉と同程度の存在だったはずである)。

日本の各地に行くと、県庁所在地がもとは城下町であって、

かつての城跡あたりに県庁やら市役所やらNHKやらが集まっている地域が多い。

そこには、それぞれに領主がいて、城下繁栄させ独自文化産業をはぐくんでいたのだろうが、

埼玉県県庁所在地であるさいたま市城下町ではない。

合併前の県庁所在地たる旧浦和市は、ただの小さな宿場町だ。

さしたる文化的な蓄積がない。

そもそも幕府の直轄領だったらしいから、まあ、東京江戸)の一部みたいなもので、独自性へったくれもない。

埼玉にある「城下町」で、かつて最も栄えたのは川越だろう。

実際、小江戸と言われたこの街には、日本百名城の一つがあるし、寺社仏閣や蔵造の街並みが観光資源として使える程度には残っている。

にもかかわらず、今一つ存在感が薄いのは、この地をがっちりと育ててきた大名存在しないからではないか。

川越藩というのは藩主がたびたび替わっている。

大坂の陣江戸留守居役を務めた酒井重忠とか、家光・家綱に仕えた酒井忠勝とか、

知恵伊豆こと松平信綱とか、綱吉の寵愛を受けた大老柳沢吉保とか

それなりのビッグネーム藩主だったりするのだが

これは要するに、徳川政権高級官僚が、江戸の手近のところに領地を与えられたという話であって、

川越の殿様」というより「江戸幕府の重臣」だろう。

これはつまり高級官僚官舎埼玉県にあったみたいな話で、

「優秀な人ほど、東京通勤していて、地元にそんなに愛着がない」という

現在埼玉県と一緒じゃねえか。

かくて江戸時代から現在に至るまで、

埼玉県は「東京を支える」役割を、地味に担わされてきた。


西武線沿線東武東上線沿線JR東北・高崎線沿線東武伊勢崎線沿線と、

東京と各地を結ぶ鉄道沿線沿いに都市圏が発達し、住民はなにかと東京のほうを向いていて

県内の各地域の「横の連携」が弱く、それ故に県としての一体感が弱いのも埼玉県の特徴だ。

たとえば「埼玉西武ライオンズ」といっても、さいたま市あたりの住民などは、ほとんど愛着がない。

なにしろライオンズ本拠地たる所沢に行こうにも、鉄道で行くとなると、

いったん、池袋埼玉県であるとの説もあるが、行政区画としては東京都)に出なければならないのだ。

愛着なぞ沸くはずもない。

こうした地域の分断も、江戸時代以前に起源を有する。

なぜなら、各地域の基盤となっている前述の鉄道路線が、おおむねかつての街道筋に沿っているかである

かくて、独自文化も今一つ発達せず、地域が分断されている埼玉県ダサいのは、

歴史的必然なのである

2015-10-26

日本の製糸技術歴史経緯について

NHKドラマが叩かれ気味なので、擁護してみようと思う

ちょっと調べた程度で専門家ではない

背景

もともと日本蚕糸業は国内向けだったため、品質価格国際標準に届いていなかった。

しかし、蚕病により海外生産量が減っていたこから日本生糸世界の注目を集めることになる。

また、高品質生糸よりも安価な物が求められていて、日本の低品質生糸でも十分に需要があった。(日本の糸は、海外では横浜での相場の2倍ほどで取引されていた)

品質な糸の使い道は、織物の横糸など。

織物は縦糸と横糸で構成されている。

機織りの工程では縦糸は強く引っ張るが、横糸は縦糸にくぐらすだけなので品質の悪い糸でも問題なかったりする。

年表

1840年フランスで蚕病が発生
1853年フランスの蚕病がピーク
1860年横浜港開港 生糸輸出開始 蚕病の影響で日本の輸出増
1868年明治元年イタリアで蚕病ピーク
明治3年藩営藩営前橋製糸所を開設(日本で初の洋式器械製糸所)
明治5年富岡製糸場操業開始 "官営で"初の洋式器械製糸を導入した(日本で初とは言ってない)
明治6年星野太郎前橋製糸所を参考に、水沼製糸所建設民間洋式器械製糸所)
明治11水沼製糸所製、パリ万博で一等賞金牌を受賞)

ドラマでの描かれ方

ドラマでは富岡製糸場を視察に来た星野太郎

日本生糸世界一品質」なのに

「諸外国に不当に安く買い叩かれている」

発言

水沼村に器械製糸所を作った」と紹介されていることから明治6年~の場面だろう。

・「日本生糸世界一品質

日本全体で見れば嘘。

品質であっても安いから売れていただけ。

・「諸外国に不当に安く買い叩かれている」

これは本当。

前述したとおり、海外では2倍で取引されていた。

擁護してみる

日本生糸品質が悪かったのはどうやら事実らしい。

しかし、外国人技師を招き、洋式器械をそのまま導入した「前橋製糸所」「水沼製糸所」「富岡製糸場」においては品質世界にもひけをとらなかったのではないか、と推測している。

事実星野水沼製糸所は建設からわずか5年でパリ万博でのお墨付きを得るほどだ。

あの発言星野太郎が「せっかく高品質生糸を作っても、日本の糸というだけで外商に買い叩かれてしまう」という状況に苛立ちを見せたセリフであって、(そして現地で直接取引という話につなげるためで)

脚本家が「日本の製糸技術は昔から世界一ィィィィーーーー!」という認識を与えたかった、と考えるのは少々うがった見方ではないか。

参考文献

NHK大河ドラマ花燃ゆ」(群馬桐生市 水沼製糸所跡) 生糸輸出切り開いた2人の兄弟

産経新聞ウェブ版)

http://www.sankei.com/premium/news/151025/prm1510250007-n1.html

桐生市周辺3(群馬県ホームページ

http://www.pref.gunma.jp/07/p20210002.html

富岡製糸場ホームページ

http://www.tomioka-silk.jp/hp/index.html

藩営前橋製糸所跡 - 日本すきま漫遊記

http://www.sukima.com/35_maebashi_ito/08hanei.html

星野太郎とは【日本人による日本製生糸の輸出を実現した先駆者

http://www.jpreki.com/hoshino-c/

「なぜ、日本は高品質生糸提供することができたか?」

http://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~hjm_kwmr/9/spring/anma.pdf

2011-05-06

県庁所在地名と県名が違う県は旧幕府側に対するなんだかんだという話がある(→http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1211070082)けども

さっき日米修好通商条約wikipediaを見ていたら

ただし実際に開港したのは神奈川はな横浜7月1日6月2日開港)、兵庫はな神戸であった。このことは条約を結んだ各国から批判もされたが明治新政府になると横浜神奈川県神戸兵庫県として廃藩置県することで半ば強引に正当化した

なんてかいてあったのだけどほんとうかしら

2010-10-11

グローバル化によって多様性が失われていく

MMOの話だけど、MMOに限ったことではない。たぶんすべてに適用できる話。

グローバル化したことで、何が一体「一番良い」のかが丸わかりになってしまった。

その結果、皆がそれを追従することになり、ゲームの多様性が失われつつあると思う。

かしここで言いたいのは、だからなんとかしようということではなく、なぜ多様性が失われていくのかということへの考察

MMOにはいろいろな種類があったんだと思うのだが、ここ最近は本当に「クリゲー」とそれ以外しかなくなってしまった。もちろん、それ以外の数はクリゲーとは比べられないほど少ない。

なので、量産クリゲは嫌だ、という人や、量産だというだけでプレイしないという人が増えてきているのだが、だからといって量産クリゲがなくなるかというとそういう気配はない。

これはつまり、ある一定の需要があるということで、嫌だと言っている人はかなりの少数派ということだ。もし嫌だという声が強ければとっくに量産クリゲなどなくなっているだろう。(量産クリゲを作っている会社の大部分は、競争力のない小さな企業

で、この量産クリゲというものが一体どうして増え続けているのか、それを考えてみると面白いことがわかってくる。

巷でアンチクリゲ派が言っているような「簡単に作れて集金も楽」というのはあくまで金銭から見た、運営からみたメリットの一部分でしかない。

一番重要なのは、「プレイヤーがとりあえずプレイできてしまう」その安定感だ。

クリゲーはまず、操作が楽。クリックするだけでいい上、騎乗アイテムなどもあり、全体的に移動速度は速くなるようにしてある。

さらに、中毒性のある成長システムが多数存在すること。比較的長い期間、ユーザーの厳しい評価にもまれたおかげか、効率的かつ「楽に気持ちよくなれる」強化成長システムが実によくできている。

具体的に言えば生産や装備の強化、ペットの育成など。これらの成長システムをほとんどすべて詰め込むことで、量産であるにも関わらず「たくさんのシステムがある奥の深いゲーム」のように見える。実際は、ほとんどが流用であり開発側はそれだけたくさんのシステムを詰め込んでもあまり人員を必要としない。これはとんでもなく効率的な開発方法だと思う。

なぜ量産クリゲがはやるのか。ここまでくれば大体わかってくる。開発する側にとって、「これが一番効率的でいいものらしい」と認識されているからだ。

ユニクロのような個性的とは言い難い商品を売る企業が潰れないのも同じ理屈で、「苦労して作った」というのは、所詮はただの自己満足に過ぎない部分がある。苦労して作ったので量産品の3倍の値段です、と言われて喜んで出すのは金が余って困っている人間だけなのである。

MMOで考えると、FF14と量産クリゲが非常に好対照だと思う。

FF14はたくさんの人間を使って非常に苦労して作られたゲームのはず。なのに、レビューの点数は軒並み低く、クソゲーと連呼されてしまっている。

一方の量産クリゲーは、雨後のたけのこのように苦労せず次々出てきているにも関わらず、批判の声といえば「量産だからクソ」というもので、システム面が根本的にダメというのはあまり聞かない。

これは、MMOという市場におけるスクエニという企業と量産クリゲ開発ツールの熟練度の差なのだ。

スクエニは八年もFF11を運営していたが、そもそもFF11は同社の初オンラインということで、MMOユーザーが一体何を求めているのかはほとんどわかっていなかったと思う。リサーチをかけたとしても、何年も運営してきたほかの会社と比べれば未熟そのもの。

にも関わらずこれだけ続いたのは、ひとえにスクエニが持つ「ブランド力」というMMOとは関係ない過去の遺産によるところが多い。つまり、スクエニが開発しなければ、そしてFFでなければあのゲームは淘汰されていたのである。

それは、量産クリゲにFF的な特徴を持ったものがほとんどないことからも裏付けられる。時間を使わせ、できるだけ攻略されないようにということだけでユーザーの快適性を考えなかったゲームノウハウは、流用されることすらないのである。

現在MMOにおける状況というのは、まさに黒船到来といった感じ。黒船とは量産クリゲで、開港させられるのはスクエニである。

量産クリゲのような「世界が認めた」システムの前に、独自性やグラフィックがきれいといった小さな利点は何の役にも立たない。非効率なシステムが生き残れるのは、グローバル化していない世界においてだけだったということだ。

そして、ここから考えるに、今後はゲームのみならず、あらゆる面で「量産型」が出回り、多様性が失われていく時代に入っていくと考えられる。というか、21世紀はそういう世紀になるだろう。

グローバル化がもたらしたものとは、「誰が一番なのかを見つけやすくする」ということだったのだ。

多様性は生まれるのではなく、失われていく。なぜなら、誰が一番なのかがわかれば、一番ではないと烙印を押された人間は、そこから撤退するか、一番のまねをするしかなくなる。

そうでなければ生き残れない。

グローバル化時代というのは、頂点とその模倣だけで構成される非常に「画一的」な世界であり、いままさにそれがあらゆる面で進行している。

世界グローバル化しなかったからこそ多様な島宇宙を創りだしていたんだと思う。

たとえば都市都市は効率化を進めることで巨大に、そして便利になれる生き物である。発達した都市は、皆同じような姿をしており、もはや「どこにいっても同じ風景」なのが当たり前なのだ。

人類は発展するにつれて次第に「他の場所に住む人類」との交流をするようになったが、そういった発展の過程で動植物は次々と絶滅している。これも、グローバル化によって多様性が失われていることの証拠といえる。

いまさかんに多様性を残そうという動きが高まっているが、残念ながら人類が発展し続ける限り多様性は失われていくだろう。ある一つの地域の多様性を守るための活動が、3つの地域の多様性を失わせているような状況である。人類努力とはその程度のものでしかない。欺瞞と言われてもしょうがないと思う。

そこで、多様性を失わせないためにどんなことが必要なのか。これはもう、「過去の遺産」をデータ化して守るしかないと思う。

MMOの話でいえば、初期UOなどは、現在MMOとはかなり趣が違うものであり、MMOの多様性を残すために、初期UOエミュレートサーバで起動させ続けることは非常に意義がある。

量産クリゲではないものは、すぐにつぶれてしまうのだから、そういったものを忘れさせないためにエミュレートする。こういった努力無駄ではない。第一、MMO歴史など地球歴史と比べればカスみたいなものだ、生まれた多様性もはっきり言ってほとんどあってないようなもの。だからこそ、守るのも楽だろう。地球が長い年月をかけてはぐくんできた生き物の多様性を守るのは人類には荷が重すぎる。

このように、グローバル化が進むと物事の淘汰が行われ一番のものだけが生き残り後はすべてその模倣になってしまうという話をした。

量産クリゲがはやるのは当然で、それを否定するのも意味がないだろう。ただし、それとは違う、すぐに淘汰されてしまうMMO保護することはとても大切だと思う。

この先一体ゲームやそのほかの娯楽がどんなふうになっていくのか興味がある。もし多様性が失われ続ければ一体どんなことになるのか。時代が出す答えを待ちたい

2010-01-07

日本政府捕鯨の一番の目的は何ですか?オーストラリア政府グリーンピース他か...

ttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1110803096

本当の目的は…水産資源を守り、日本の食糧資源を確保することにあります。

食糧自給率の低い日本ですが、幸い漁場には恵まれていまして、海からの食糧供給はある程度望みが持てます。

科学的でも論理的でもない捕鯨禁止を看過すれば、他の水産資源捕鯨問題と同様の事態になりかねず、

今でも自給率で問題がある日本の食糧資源は、さらに他国に頼らざるを得ないことになります。

つまり有事の際、食糧を日本に販売しないという政策を他国に取られれば、内容に関わらず言いなりにならざるを得なくなるわけです。

# 本音で言うと、関係者捕鯨再開で日本の文化を守る云々という非現実的な夢など見ていません。

外交上、著しく不利になりかねない食糧問題の象徴が捕鯨で、日本政府として絶対に譲れない問題なのです。

国際外交モラルを持った賢人が集まって決めているような幻想を持たないで頂きたい!(当然、経験者です)

捕鯨問題は日本高度経済成長を疎ましく思った勢力が、人種差別的な反日キャンペーンを張ったことから持ち上がりました。

別に日本人が野蛮な人種であることを世界にアピールできれば、捕鯨でも何でも良かったわけです。

さらに水産資源問題で圧力を掛けて畳みかければ、世界トップレベル技術力を持ち、世界最大の日本水産市場に大打撃を与えることができるかもしれません。

日本貿易黒字の増大を憎む人々が、日本経済を脅かそうと放ってきた問題だったわけです。

当然国内の大反発が予想されたのですが…工業製品の輸出で利益を受けている人々が問題を大きくしたがらなかったため、

国内世論が割れ、水産庁国家が一枚岩となっての効率的な手を打てず、漁業者は一方的に損害を受けました。

200海里経済水域なんて、今では当たり前に思われているかもしれませんが、これも日本を標的とした世界国家間の取り決めです。

結果、日本遠洋漁業は、完全に衰退の一途を辿りました。

それでなくても、捕鯨問題を持ち出されるだけで、日本としては諸国にODAをばらまかざるを得ないのです。

もし今まで看過すればどうなったでしょう?10年以上前マグロが制限を掛けられていたはずです。

英語で魚のことをプアミートと呼びます。

他国では、魚が食べられなくても肉を食べればいいや…程度の扱いなのです。

魚を食べる社会の底辺の人々のことなど知ったことではありません…と。

文化的な側面も考えてみて下さい。

ペリー黒船で来航し、日本開港を迫った理由は捕鯨基地が欲しかったからですよ。

当時の女性スカートに鯨の髭が使われていたのです。肉は海に捨てていました。

これにより鯨資源は減少しました。

また、敗戦直後の日本人タンパク質を提供するために、漁師さん達が命懸けで捕鯨を行ったのです。

日本子供達に栄養を!」それが、彼等の合い言葉でした。

歌のサビの一部にもありますが「生きて帰らん、望みは持たじ」です。

ちなみに、捕鯨問題で国内がごたついた際、漁師さん達からは「裏切られた」と水産庁は責められました。

捕鯨問題の最先鋒であるアメリカでは、絶滅の危機にある北極鯨を捕鯨問題から外し、現在でも捕鯨しています。

一方で、資源として増えすぎ、他の水産資源を減らす原因となっているミンク鯨などは、捕鯨が許されていません。

あまりにも不公平で異常である状況にお気付き願います。

捕鯨問題が持ち上がった時点で、減少している鯨資源に関しては、日本政府としては保護の立場を取らざるを得ませんでした。

日本水産庁の方針は、持続的利用可能な水産資源です。

減少している種類は、保護すべきという立場ですし、領土問題中国韓国ロシアとの間にあるため、

EEZ経済水域)が事実上設定できない(相互乗り入れ海域)と、資源保護に関して頭を抱えています。

でもですね、こと水産問題に関しては、この国は本気で取り組んでいますよ?ODAの内訳でも見てみればよいです。

理不尽な要求を甘受すれば、さらに理不尽な要求が来ます。

さしあたってはマグロですし、次は中国を叩くために、サメキャンペーンが張られますよ。

FAOも国連も一切活動していない海域、しかも私達が水産資源管理庁の頂点にいる、そういう国で、のうのうとサメの漁獲量が減っているグラフなどが発表されるのです。

日本を支持した大臣の首がすげ替えられ、協力者が失踪する…外交戦の裏側です。

盲目的に他国の宣伝を信じ、自分自身の首を絞めることに荷担しますか?

国民感情反米に傾くことは拙い。従って、国民事実を伝えることが許されない。

検閲もありますし、メディア自主規制もあります。やめたからこそ書けるのですけど。

2009-11-03

富士山静岡空港を使って思ったこと

静岡県に住んで2年になる。出張がてら富士山静岡空港を3回くらい使ってみた。今年開港したばかりのあたらしい空港だ。

 

感想としては、この空港ビジネス客のこと一切考えてないということですね。というのも、書類やパソコンを置くデスクがない。あと、今どき、電源プラグがない。

 

この空港は、クルマジャンキー静岡県らしく、自家用車でのアクセス(だけ)が想定されている。結果、連絡バス飛行機との接続が悪く、空港で2時間近く待たされるなんてことがざら(東名高速はすぐ渋滞するので、ぎりぎりのバスでは危険すぎる)。というわけで、県外からのビジネス客はラウンジどころかコンビニ寿司屋しかないような空港で、ベンチに腰かけて待つしかない。作業のできるデスクくらい作ろうよ。

 

さらに、上述のとおり電源がない。たまたまないわけではなく、無断借用を警戒して、利用客のいる空間からコンセントプラグ)をほとんど追放している。確信犯羽田札幌中部福岡無料の電源が豊富にあるし、佐賀愛媛小松女満別などは、職員に言うと「不便な空港すみませんね~」と言われつつ、電源を貸してもらえた。

 

ところが、富士山静岡空港の職員は違った。

 

掃除用のコンセント勝手にお使いになる方が多いので、その都度、注意しております」とのこと。

 

その物言い違和感を覚えた私が、「今どき、空港の電源使用は必須のサービスだと思いますけど?」と聞いたところ、

 

「みんなの空港ですので、一部の方だけを優遇することはできないという、公共のルールです」と自信たっぷりに言われた。

 

 

静岡県ネイティブはこの手の高飛車役人的な奴が多くて私はいつもうんざりしているんだが、それはともかく、

 

「では、空港使用料を払っていない、空港見学の住民がトイレを使って水を流しているのも注意なさっているんですか?」とお聞きすると、

 

「この空港の決まりごとですので!」と繰り返すだけの壊れたレコードになってしまった。

 

 

 

いや、無許可で電源を使ってはいけないのは分かるよ。私もそれはしない。

 

ただね、空港での電源開放が「一部の方への優遇」になるという発想はどうなのかなと。

 

私は、空港での電源使用は最低限のインフラに含まれると思います。特に、こういうフライト前後にやたら待たされる空港では。実際、静岡空港の複数の職員は、電源プラグがないというクレームをよく受けていることを認めた。

 

富士山静岡空港(というか静岡県庁)のおかしいなと思うところは、クレームが多い案件改善点として上にあげるのではなく、「ルール違反者」として処理したがるところ。別に、空港温泉を作れとかムチャクチャ言うてるわけじゃないのにねえ。

 

そのようなわけで、富士山静岡空港の真意がどうであれ、この空港ビジネス用途で使うのはやめたほうがよいなと思った。

 

 

 

あと、コンセントを無断使用していたわけでもなく、ただ利用の有無を問い合わせただけの人間にまで「説教」口調で話しはじめたのがいかにも静岡県民らしいと思いました。この県は全般に、接客下手なんだよな。これは余談だけど。

 

 

2008-06-14

http://anond.hatelabo.jp/20080614073131

60??70年代日本だって「それなりに都市消費文化を享受して」いたわけで、だから、学生運動の記録をあらためて見返してみると結構あぜんとするのも事実。だから「学生運動をググれ」という意見は正しい。

お茶の水駅前交番が焼き討ちされ、車を倒したバリケードが組まれ、歩道の敷石をはがして投石したカルチェラタン闘争は'69年、開港直前の国際空港に集団で侵入し、管制室占拠・破壊スクラムを組む反対派に機動隊がガス弾を水平発射(?)して死亡者を出したのは'79年。

今40代の人たちが子どもの頃の日本て、こういう時代だったんだよ、と思うとすごく違和感があるね。

 
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