はてなキーワード: 日本人女性とは
ビゴーの身長は160cmと欧米人としては低く、当時の日本人成人男性の平均とほぼ同じであった。清水勲は、このことで威圧感を与えずに日本人の中に入り込むことができたこと、また日本人の目線と変わらない絵の構図を獲得できたことを推定している[48]。
ビゴーの描いた風刺画のうち、鹿鳴館や日清戦争を扱ったものは小学校や中学校、高校などの社会科(歴史)教科書にしばしば教材として掲載されてなじみが深い。これらの絵では日本に対して辛辣な描き方がされている。これについて清水勲は、ビゴーは条約改正を尚早と考える点では居留地の外国人と同じスタンスに立っており、日本人の非近代的な側面を強調することでそれをアピールしようとした際に、貧相な容姿と非近代性をこじつけることが読者の理解を得やすいと考えたからだとしている[49][注釈 7]。
ただし、ビゴーが批判したのは日本国家の皮相的な欧化主義であり、日本の伝統的な文化や庶民の営みには敬意と共感を抱いていた。子守の少女が鉢巻きを巻いた姿で遊ぶのを目にして「鉢巻きは赤ん坊の顔に髪が触れないための工夫で、少女が遊ぶことで赤ん坊も楽しめるという点で日本の子守は悧巧である」と感服したという日本人の証言が残されている[注釈 8]。女性については『トバエ』の中で「日本で一番いいもの、それは女性だ。(中略)日本の女性に生まれたのだから、どうぞ日本の女性のままでいてもらいたい」と記し[52]、絵においても上流階級の人々は別として、風刺の少ない絵を描いた。後には日本人女性と結婚している。この背景として、日本の女性がビゴーの求める日本的なものや江戸情緒を伝える存在だったからだと清水勲は記している[53]。
1898年頃と推定される詩画集『横浜バラード』には、日本への幻滅(糞尿を運ぶ荷車の悪臭や、外国人には高額をふっかける日本の商売人)が歌われ[54]、離日直前に刊行した画集『1899年5月』では条約改正後の日本に対する外国人の不安がストレートに表現されていた。しかし、フランス帰国後も亡くなるまで日本に対して愛着を抱き続けた。また、日本軍をよく知っていたビゴーは、日露戦争当時のフランスで「ロシア圧勝」という世論に同調しない数少ないフランス人でもあった[55]。
欧米における日本人描写のステレオタイプとなった「つり目で出っ歯」という姿はビゴーの風刺画にも登場するが、その点について清水勲は「当時の日本人は現在に比べて国民全体の栄養状態が悪く、小柄で出っ歯の人が多かった。そうした日本人の姿が1867年のパリ万博で直に欧米人の目に触れたことと、ワーグマン、ビゴーなどの来日外国人の絵や当時の写真などの影響とによって広まり、欧米人の日本人観の一要因となったのではないか」といった意見を述べている[56]。
一方、同じくステレオタイプとしてよく登場する眼鏡については、ビゴーは「一般的に言って、日本人の視力はたいへん悪い。日本では様々な形をした、また様々な色をした眼鏡をかけている人に出会う」と記している[57]。清水勲は当時の日本人が「栄養状態が悪かったせいか、また家屋の作りから来る照明状態の悪さからか視力がよくなかった」ことと明治以降印刷物を読む機会が増えたことで、眼鏡を多くの人が使うようになったのではないかと推定している[57]。ただし、ビゴーの絵に眼鏡をかけた人物は必ずしも多くない。清水も、昭和期以降の欧米での日本人像に眼鏡が多く出る理由には昭和天皇や東条英機といった眼鏡をかけた要人がいた影響を指摘している[58]。ビゴーが庶民をスケッチした絵では男女を問わず様々な人相・年齢・職業の人物を描き分けている。
清水勲は「ビゴーは反日家なのか親日家かと聞かれることがあるが、答えはもちろん親日家である」と述べている[59]。
及川茂は、帰国後のビゴーは、当時フランスで見られたインドシナなど他の風俗と混交したようなでたらめな日本描写を快くは思わなかったが、それに立ち上がって抗議するような形での感情は日本に抱いていなかったとしている[39]。及川はビゴーが「日本をエキゾチストではなく、生活の一部として生きてきた人間」であり、「日本と対決したり競い合ったり摩擦を感じたりするのではなく、あればあるがままに、なければなしでもやっていけた」という[39]。滞日当時の日本は「そこで生活していれば批判の対象であり、揶揄の種であった」が、それはビゴーが初めて知った日本とは別物であったとする[39]。帰国後のビゴーにとって日本は「いつも優しくそこにある国」で、素朴で自然で暖かい日本を自分の心の中にしまっておきたいという感情故に、ジャーナリズムの挿絵画家という職を捨てざるを得なかったと指摘している[39]。
髪の毛を整えるときに前髪を「作る」のがとくに若い日本人女性に多いようだ
額に垂れた前髪が均等間隔に細い束となって並ぶよう、丁寧に整える作業があるらしい
「らしい」というのは、これを書いているのが、実際にその作業をしたことがない日本人男性だからだ
きれいに「作った」前髪はかわいい……のか? と最近考えこんでしまうことがある
いろいろな国の女性の画像を見ていると、前髪をすだれ状に処理したヘアスタイルは見たことがない
ので、電車で前髪をきれいにすだれ状処理した女性を見かけると、丁寧に処理されていればいるほど、なにかしら奇異な感じを受けることがある
前髪のすだれ状処理はなぜ日本で発達し、かわいい、あるいはきれいな女性のヘアスタイルとみなされているのだろうか
だれがそれを拡め、だれがそれを受け入れているのだろうか
あとで詳しく調べるために書いておく
女性専用車両に座っておりふと足元を見まわして気づいたがびっくりするくらいいわゆるヒールパンプスの客が少ない。
数えたら15人中1人だけが3cmくらいのヒールパンプスで、残りはフラットシューズかスニーカーだった。スニーカー人気がすごい。もうちょっと母数を増やそうと見回して20人まで数えたところでようやくもう一人ヒールパンプスがいた。2/20。とても少ない。服装がわりとかっちりしたビジネスカジュアルでも足元はスニーカーでしかもちぐはぐではないという人がかなりいる。
コロナ前はもうちょっとヒールで通勤する人間がいたような気がするが、自分もすっかりフラットシューズだけになった。ヒールを履く人はわかると思うが、あれは慣れなのでしばらく履かないともうしんどい。ただの通勤で履かなくていいなら勘弁していただくと助かる。
ただ、もちろん通勤ではなく通学の学生さんもいるし、会社のデスクの下にパンプスがあり社外ミーティングなどの時は履き替えてジャケット着るという慣習もおそらくまだあると思うので、オフィス内だともうちょっとパンプス率は高いと思う。
日本人の姿勢の悪さは有名だったが、しゃきっと背筋を伸ばして大股で歩く女が増えた気がする。足元はスニーカーが多い。悪名高い背筋の曲がったへっぴり腰の日本人女性の姿勢は好きでもないヒールパンプスのせいだったんじゃないだろうか。
どうしても結婚に踏み切れん。
こんな愛国心の欠片もない政治家が実権握っている国で子供作って超少子化社会の日本で奴隷予備軍作ってどうするんよってのもある。
そもそも子供はペットではないし、一生責任を持って育て生活費を与えていくようなものではない。
自立心ないことに、恥とかいう概念がないのか?例えば、年収300万の女性が年収1000万の男性がいいとか、どの口が言うか?
もう一度言う。恥って概念がないのか?ここが日本人女性、頭おかしいって常々思っている。日本男子もこれがどれだけ異常なことか、もう少し理解してくれ。
もうこの人との間に子供なんてできて、この時代にその子供が無気力、自立心のないDNAを色濃く引き継いだら凋落の激しいお先真っ暗日本では生きがいも持てず100%ニートの道を進むであろう。
年金もなくなる時代に差し掛かっていて、ニートを持つとか自殺行為である。
子供がいらないとなると、当然結婚の必要性も感じないので、結婚は考えられない。
でも彼女はそうは考えていないようで辛い。
自分も恋愛にそこまで一生懸命じゃないから、別れたあと新しい彼女探すの面倒くさいなと思ったりするけど、仕事がんばってて尊敬できるパートナーがほしい。
https://rootport.hateblo.jp/entry/2016/06/01/233000
「女性の上昇婚志向を人間の本性だと考えれば、先ほどのデータの見方がかなり変わる。
どの国、どの地域でも、平均的な女性は収入の多い男性と結婚しようとするものだ。にもかかわらず、日本だけが突出して夫の収入が多い。つまりこのデータは日本人女性の上昇婚志向の強さを表しているのではなく、男女の賃金格差を反映していると考えたほうが筋が通る。
で、そのことを裏付けるデータを舞田敏彦さんはきっちり見つけてきている。日本ではフルタイムの年収が男女で1.73倍も違うそうだ。結果、大半の女性は男性の収入に頼るしかなくなる。結果として、稼げない男は結婚することが難しくなる。」
占領直後の性的暴行や強姦の件数については確定していないが、藤目ゆきによれば上陸後一ヶ月だけでも最低3,500人以上の女性が連合軍兵士によって被害をうけ、その後も1947年に283人、1948年に265人、1949年に312人の被害届けが確認されているがこれらは氷山の一角であり、藤目は占領とは「日本人女性に対する米軍の性的蹂躙の始まり」でもあったと述べている[8]。
その後も在日米軍による犯罪は続き、1952年5月から1953年6月の警察資料でも殺人8、過失致死435、強姦51、暴行704など合計4476件の犯罪が報告されており、1954年2月には宇治市大久保小学校4年生の女子児童が強姦されたあとに陰部から肛門まで刃物で引き裂かれる事件が発生し、ほかにも4歳の幼児が強姦され、危篤状態になった事件や、突然狙撃されて死亡した事件などが多発した[9]。
日本占領後、多くの市民は連合国軍の上陸によって日本女性が強姦されることを恐れていた。こうした懸念から、内務省警保局をはじめ各省庁および都道府県庁は、女性らに自宅待機、避難、日本人男性から離れずいるようにとの注意喚起、また米兵との接触を回避するよう勧告をしている。
米軍が最初に上陸するものと推測された神奈川県では、県警は若い女性や少女に避難勧告をしている[10]。内務省警保局の情報にも「神奈川県ハソノ特質上敵ノ最初ノ上陸地点タルベシトノ想像モアリ「敵ハ十八日ニ神奈川ニ上陸スル」ノ流言多シ」とあり、戦争関連の諸文書が一斉に焼却廃棄されるなか、行政機関当局にも相当の混乱があったことが窺える。主要港湾を擁する横浜市では、幹部職員の全員逮捕処刑を前提として、緊急措置として市民のうちの婦女子の疎開避難、女子職員の全員解雇などを決定し、これをきっかけとして丹沢方面への疎開騒ぎが広まっていた。
これに呼応し、政府は内務省警保局長名で特殊慰安施設協会(RAA)の設立について全国都道府県に打診し、東京都下の料理飲食業組合、芸子置屋同盟、待合業組合連合会など7団体代表者により、特殊慰安施設協会が急きょ設立され、協会を通し「性の防波堤」となる志願女性を募集した[11]。これにより、各所に「進駐軍将兵慰安施設」が設置され、一例として横浜の大阪商船ビル、日本造船大丸谷寮、箱根、江ノ島の新設施設などがこれに利用された。GHQ当局は1946年1月に、「非民主的であり、女性への人権侵害である」との理由から施設の閉鎖と公娼の禁止を宣言したが、占領軍兵士を相手とする「私的」売春は継続され、兵士たちの間で性病が蔓延した[12]。
ジョン・ダワーによれば、特殊慰安施設協会設置の効果もあり、占領軍の規模と比較すると日本政府の想定よりは強姦の発生率は低かったが、同時に性病の集団感染も引き起こした。一例としては、検査の結果1個師団の70%が梅毒、50%が淋病の陽性反応を示したため、これを主因として売春施設は閉鎖されることとなった[12]。
公娼施設の廃止後、強姦の発生率は約8倍に増加し、ダワーの調査によるとRAAが活動終了した1946年以降、日本人女性に対する占領軍将兵による強姦件数は一日平均40件から一日平均330件に急増した[13]。これに対してブルマは、「毎日40件以上の強姦が行われた可能性があるが、ほとんどの日本人は、アメリカ人は恐れていたよりも規律的だと認識していただろう」と述べている[14]。
テレーズ・スヴォボダは、慰安施設閉鎖後に強姦の報告件数が急増した事から、兵士に対する慰安婦の提供が強姦事件抑制に一定の効果があった事を認めている。スヴォボダはまた、一例として慰安施設の営業開始前に、待ちきれなくなった数百人の米軍兵士が二棟の施設に乱入し、そこにいたすべての女性を強姦した事件についても言及している[15]。 また、スヴォボダによると特殊慰安施設協会の廃止後少なくとも二件の大規模な集団強姦事件が発生している。
東京都の事例
スヴォボダおよび田中の調査によれば、1946年4月4日の深夜、3台の軍用トラックに便乗した米兵50人が東京都大森区(現・大田区)の中村病院に侵入し、号令の笛とともに約一時間の間に女性患者40人、女性職員37人を回姦凌辱した[16]。被害者のうち、2歳の幼女は事後床にたたきつけられ死亡したほか、止めに入った男性職員一名が殺害された[16]。
名古屋市の事例
また、田中によると、同1946年4月11日に名古屋市の住宅街に侵入した30人から60人の米軍兵士が地域内の電話回線を切断後、各家屋に同時に侵入し、10歳から55歳の女性を強姦している[17]。
マイケル・S・モラスキー(日本文学、日本語学研究者)によると、日本の警察の報告を読むかぎり、強姦やその他の重大犯罪は海軍を中心に広まっており、横須賀基地と横浜周辺における占領後最初の数週間の犯罪件数が突出しているが、日本本土全体では一般的ではなかった[18][19]。
上述のように、駐留米軍兵士による拉致、強姦、殺人は日本全体には波及していないものの、警察記録と報道記録が示している通り、凶悪犯罪を犯す兵士の多くが、1945年に日本に上陸し、最初の数週間の間に記録的件数の犯罪行為をおこなっており、占領最初の10日間だけで1336件の強姦事件が報告され、その後も9月一か月間の横浜市内での強姦事件は119件にのぼっている[20]。ダワーによれば、被害者が数人以内の場合には警察に報告すらされなかった。[21]
北海道の事例
歴史家の竹前栄治、ロバート・リケッツらは、米空挺部隊が上陸後、札幌市内において略奪、強姦、酔ったうえでの日本人への暴行などを働くことはまれではなく、強姦被害者の中には自殺した者も少なからずいたと述べている[22]。
ロバート・アイケルバーガー第8軍司令官は、非番の兵士から女性を保護するために日本人が自警団を組織した際、第8軍の装甲車に協力を命じ、事件の首謀者を逮捕したことを記録している。しかしダワーによれば、一方で強姦事件の中には警察に報告されないものもあった。
竹前とリケッツらによると、オーストラリア、英国、インド、ニュージーランド軍の一部によって構成され、中国及び四国の9県を占領していたイギリス連邦占領軍 (BCOF)も、また多くの強姦に関与していた。
オーストラリア軍は1946年に広島県呉市に上陸するとすぐジープで若い女性を拉致し強姦していた。被害者がほぼ毎晩助けを求めて泣き叫ぶのを聞いていたが、占領軍による犯罪行為の報道は封殺されていた[22]。中には、一人の少女が20人以上の兵士に回姦される事件もあった[23]。
イギリス連邦占領軍の公式報告では軍所属の将兵が1946年5月から1947年までの期間に57件、1948年1月から1951年9月の間に、さらに23件の強姦を犯し、有罪判決を受けたされる。しかしながら、1946年2月から4月にかけての英連邦占領軍による占領当初の重大な犯罪の公式統計は存在しない[24]。オーストラリアの歴史家ロビン・ゲルスターによれば、イギリス連邦占領軍の重犯罪公式統計は米国と同様に過小評価されているが、これには日本の警察が被害報告を占領軍に提出していない場合があり、これにより英憲兵隊が調査を行わなかった事も少なからず影響していると述べている[25]。
ジョン・ダワーによれば、GHQ当局は1945年9月から1952年の占領終了までの間、幅広い検閲(プレスコード)を日本のメディアに対して実施しており、開始当初には左翼活動や軍国主義、超国家主義的な思想といった思想分野が差し止め対象となっていたが、占領開始から数か月後にはこの範囲を大きく逸脱し、占領軍による強姦などの重大犯罪や社会問題も幅広く検閲の対象となっていた[26]。
竹前栄治とロバート・リケッツによると、占領軍は、1945年9月10日付連合国軍最高司令官総司令部令「占領活動に敵対的な全ての報告・統計発行物の違法化にむけた報道発表と事前検閲に係る規則」を定め、強姦などの重大犯罪に関する報道を統制していた。占領終了後、一部の日本の雑誌はアメリカの軍人が犯した強姦件数を発表している[22]。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220523/k10013634851000.html
記事を読んだ第一印象:ついに女が旦那だけではなく自分の子供まで敵視するようなプロパガンダを流し始めた、としか思えない本だった。
メディアの言うことをうのみにするの良くないので15分だけ調べることにした。
この記事には「今の知識と経験をふまえて過去に戻れるとしたら、もう一度母になることを選ぶか」という質問に「いいえ」と答えたイスラエル人の女性23人にインタビューした内容をもとに構成」とあるので、イスラエルの出産に対する常識とかそういったものをきちんと理解しなければこの本は理解することはできないだろう。
イスラエルでも女性は母親になったことを後悔している!いわんや日本人女性おや!って大騒ぎしたいならこの本を買えばそれで終わりだがそんなプロパガンダに使われてもイスラエルの女性はちっともうれしくないだろう。
この書籍はOrna Donathという女性がテルアビブ大学のPhD取得時に選択したテーマである「母親になったことに対する後悔」をもとに書かれている。
論文へのリンクもあったがヘブライ語だそうなので読みに行くのは断念したが、原文には一体何が書かれているのだろうか?書籍は和訳される中でいろいろなノイズが入り込むので原文を読まないのは危険極まりないが寄りにもよってヘブライ語ときたか・・・これ原典に当たるのもきつすぎるだろ、フェミたちいい材料見つけたなって思う程度に俺の精神も歪んでいる。
https://en.wikipedia.org/wiki/Orna_Donath
彼女のWikipediaには気になる文言がある、たとえばイスラエルでは女性が子供を産むのは定めであり選択ではないという思想があるとか、つまり女性の自信におけるリプロダクションに対する選択が著しく制限された社会においてあなたは母親になりました、もう一度母親になりたいですか?ということを聞いて回ったのだろう。
つまり日本人女性における「母親になったことに対する後悔」とはだいぶ毛色が違うことがここだけでわかるので、なんで日本人の女性が共感できるのかよくわからない。
ブクマとか見てみても「子供が親の思ったように育たないもんな」とかそんな感じの話に終始しているのを見るあたりこの本の印象はそこに行っていると思われる。
NHKの記事も書いたやつはこの本本当に読んだのかという気持ちがぬぐえない。
個人的な境遇で選択の余地などなく産まざるを得なかった人の苦しみとかそういうものですらなくて、社会に女は子供産んでナンボな生き物でしょ位の差別が完全に常識として織り込まれた中で生きている女性にとっての出産・育児が一体どういうものなのかという話なのだと思っている。
母親が「育児つらすぎる!子どもなんか産むんじゃなかった!」と書くと単なるわがままに見えてきてしまい恐縮なのだが、そういう話ではないのだろう。
おそらくだけど育児つらたんとか言った瞬間にすさまじい怒号がどんで来る社会とかそんなんでつらさを吐露することすらできないばかりか、子供を産めて幸せです!って言って始めて合格な位の社会における女性の気持ちの調査で会って日本で出しても本来なら「イスラエルの女性まじきついわ・・・」っていう感想はモテても「わかりみすごすぎ育児マジつらいからな」っていう感じの共感をしているならこの人はこの本ちゃんと読めてないかそれを言いたくて読んでるかのどっちかだ。
真実を伝えたい。約70年前に結婚の約束を交わした日本人女性を探しています。
当時のペギー・ヤマグチさんの写真
アメリカのアイオワ州に住む91歳のデュエイン・マンさんは、海軍時代に駐屯していた日本で出会った女性、ペギー・ヤマグチさんを、約70年間探し続けている。
2人は愛し合い結婚まで約束していたが、ある出来事がきっかけで結ばれることはなかった。
マンさんはヤマグチさん、もしくはその家族を見つけ、真実を伝えたいという。
彼はその願いを込めて、Facebookに自身のストーリーを投稿した。
海軍に所属していたマンさんは、1953年から1954年にかけて日本に駐屯。1952年に日本政府に一部返還され「東京国際空港」(羽田空港)となった「ハネダ・エアベース」で海軍連絡係として働いていた(全面返還は1958年)。彼は空軍の下士官クラブの利用を認められており、ヤマグチさんはそのクラブでクローク係として勤務していた。
自由時間にはそこでスロットマシンの修理係としても働いていた22歳のマンさんは、ヤマグチさんとダンスを通じて仲を深め、恋に落ちていった。
約14カ月の交際を経て、式の準備が出来しだい結婚しようと計画していた2人だったが、当時、アメリカの軍人と日本人が結婚するのは容易なことではなかった。
そんな時、予定より数カ月早くマンさんに帰任命令が出た。結婚する間もなく、マンさんはアメリカに帰る飛行機に乗ることになった。
残されることとなったヤマグチさんはその時、妊娠していたーー。涙する彼女にマンさんは「心配しないで。貯金があるから、すぐに君をアメリカに呼び寄せるよ」と話した。
しかし、帰宅すると思いもよらぬ事態が起こっていた。すべての貯金が父親に使われていたのだ。彼はヤマグチさんに手紙でその旨を説明し、仕事を見つけて必ず早く呼び寄せると伝えた。
マンさんは高速道路の建設会社で仕事を見つけ、週6日必死に働いた。その間ヤマグチさんと手紙のやりとりをしていたが、約1カ月後には返信が来なくなった。
約3カ月後、妹が渡してくれたヤマグチさんからの手紙には、赤ちゃんを流産してしまったこと、そして日本で出会ったアメリカ軍人の男性と結婚したことが書かれていた。
実は、その間実家に送られてきていたヤマグチさんからの手紙は、日本人との結婚に反対だった母親によって燃やされていたのだ...。
会って真実を伝えたい
母親に手紙を焼かれて彼女の連絡先を失い、連絡の方法がなくなってしまったマンさん。それから約70年たった今も、未だにヤマグチさんを探している。
「彼女にもし会えたなら、見捨てたんじゃない、ということを1番伝えたい」とマンさんはハフポスト日本版の取材に答え、ぜひこのストーリーをシェアして欲しいと語った。
5月2日に投稿されたマンさんのFacebookポストはすでに700回以上シェアされており、400件以上のコメントが寄せられている。その中には、「見つけられますように」などの応援メッセージだけでなく、情報提供や捜索手段のアドバイスも多くある。しかし、未だに確実な情報は得られていないとマンさんは語った。
彼はすでに2度結婚を経験しており、6人の子どもと18人の孫、そして6人のひ孫がいる。彼らも今回の調査を手助けしている。
【ヤマグチさんの手がかり】
現在ペギー・ヤマグチさんの手がかりとしてわかっていることは、
・1953年~1954年に「ハネダ・エアベース」(東京国際空港)の空軍の下士官クラブ(Air Force Non Commisioned Officers Club)でクローク係(Hat check girl)として勤務していた。
・当時の写真(↑)
・当時、「ハネダ・エアベース」(東京国際空港)すぐ近くの寮に住んでいた。
残念ながら、マンさんは 彼女を「ペギー」と呼んでおり、正確な日本語名を覚えていない。Facebookで彼は「Iyackoだったと思ったが...」と述べており、コメント欄ではAyakoやIchikoではないかとの憶測がなされている。結婚後の姓もわかっていない。
現在、アメリカでもこの投稿は広くシェアされ、ニュースでも取り上げられ調査の輪が広がっている。
【ヤマグチさんは米軍の男性と結婚したとのこと。その後、渡米しアメリカにいる可能性も高いですが、もし何かご存知の情報があれば、件名に「ヤマグチさん情報」と記入し、news@huffpost.jpにぜひご提供ください。編集部からマンさんに連絡いたします】
https://news.yahoo.co.jp/articles/27578dd76d48b1fc7dfe50e37769b7f496f77c7c
5個かどうかは数えてないけどちょっとやってみっか
「『特定属性の人への嫌がらせを娯楽化した作品』の一面広告を許容するべき(批判するべきでない)」
と主張するなら、
「特定属性の人への嫌がらせを娯楽化した作品である」という前提は合意を得られていない
彼らの「直接に人を身体的に傷つけないなら、その表現は場所を問わず全て許容されるべきだ(批判するのは表現規制だ)」という主張
「許容されるべきだ」と「批判するのは表現規制だ」が同じ主張であるという前提は合意を得られていない
というか「表現する自由があり、批判する自由がある」という主張が存在するくらいなので明確に異なるものとして認識されている
差別表現だという主張は一方だけが言っているものであって、合意を得られたものではない
君らってまず「差別だ」と断定して、以後その前提が絶対崩れない想定で話を進める戦法ほんと好きだよね
それが性的嫌がらせ描写であるという前提は合意を得られていない
あなたがそれを嫌がるのは自由だが、漫画のキャラクターはあなたではない
「本邦外出身者に対するものであるか否かを問わず,国籍,人種,民族等を理由として,差別意識を助長し又は誘発する目的で行われる排他的言動はあってはならない」とあるので、当然女性差別もヘイトスピーチ対策法の対象範囲にある。
女性差別がヘイトスピーチ対策法の対象範囲にあるかどうかは別の議論が必要
というか「日本人が日本人を叩くことはヘイトスピーチではない」「もちろん日本人オタクを叩くこともヘイトスピーチではない」という主張はリベラルからさんざん聞いたものだが
これらと「でも日本人男性が日本人女性を叩くのはヘイトスピーチだ」を両立させるのは無理がある
(どうでもいいけどアンチ表自戦士の人がsenbuuと対立するの珍しいな)
「特定属性の人への嫌がらせを娯楽化」の部分が一致してなきゃ意味がないと言っているのだろうが、それはあくまであなたの見解であって合意を得たものではない
たとえば元増の「不快に思う人がいても実害がないなら」という部分が本質だと考えるならこの例で十分一致している
そして既に述べた通り「特定属性の人への嫌がらせであるかどうか」「実害があるかどうか」も意見が分かれている段階なので、仮定の上に仮定を重ねても意味はない