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2024-07-29

パリオリンピック開会式共同執筆者たちのインタビュー

マリアントワネットの首が歌うシーンが興味深かったから、意図しりたくて、いろいろ読んだ。

具体的に言及はされていなかったから、はっきりとはわからなかったが、インタビューはどれも面白かった。

id:hazlittさんが教えてくれた、ラジオ番組からいろいろ読み始めた。

増田フランス語は多少わかるが、わからないところは、DeepL先生に頼っているため、正確性は保証できない。

フランスインテル(という名の番組っぽい)

https://www.radiofrance.fr/franceinter/podcasts/l-invite-de-8h20/l-invite-du-week-end-du-samedi-27-juillet-2024-3772628

ホスト:昨日私たちは、コンシェルジュリーにおいて、革命の中、斬首されたマリアントワネットゴジラ(というパンクバンド)とマリナ・ヴィオティと歌うというシーンを見ました。このシークエンスは、いったいどのような意図で書かれたのですか、ダミアン。

ダミアン・ガブリアック(監督):まず私は一人で書いたのではありません。すべてみんな(4人の中心人物)で書きました。そして理由は極めてシンプルです。私たちは、選手が進むルートに沿ってシークエンスを進めていくことにしていました。そして、ここではコンシェルジュリーです。マリー・アントワネット斬首の前に幽閉されていた場所です。我々は自分たちに、これについては言及せざるを得ない、と言い聞かせました。ここで起きた歴史的イベント世界中が知っています私たちはそこにエネルギッシュであることを求めました。だからゴジラです。そして、斬首されたマリアントワネット、その両方。私たちは顔を突き合わせ、私たち価値見出していた(後述する)ロンドンエリザベス女王ジェームスボンドを改めて思い起こしました。これだ、これだ、と。

ホスト歴史家パトリック・ブシュロンはどうですか。

パトリック・ブシュロン:そうですね、まず私たちがやった、みたものは、完全に、楽しく、集合的であったと考えています。そしてそれは全く同じく、議論するつもりがないことです、正確に。議論するつもりはないのです。私たちが見たものはまさに、さきほど述べられた通り、似ているのです。この多様性物語、これが私たちのあり方だと、私たちが、大胆に主張している、複雑さと。それらは、あの歴史的モニュメント(コンシェルジェリー)と、その美しさ、威圧的であることを望まない美しさ、私たち勇気づける過去と一緒に示されました。私たちは誇りを回復しました、国家アイデンティティではなく、あくま政治的プロジェクトなのだ、という誇りを回復しました。私はそれらを若者に見せることができてとてもうれしいです。私の娘もコースでそれを見ました。あの悲痛なものを見たのです。それこそが全てです。シンプルです。私たちは、わずか数分の間にバスティーユを奪還したのです。

(中略)

ホストダミアン、実際にこのセレモニーは、世代間的でもありましたね、だれにとっても自分であるような感覚ミュージカルレベルでもそうですし、サウンドトラックはすばらしかった。ダリダもあったし、クラシックもあった。とてもエモーショナルでした。とても美しかった。そして、話を変えるが、橋の上でのクィアたちとの最後の晩餐。かれらと一緒に生きているというシーンでしたね?ダミアン。

ダミアン:その通り。クィアはいた。でも付け加えるなら、フランスのすべてがあった。背が高い、低い、太っている、痩せている、黒人白人アラブ人、みんな違う衣装で、同じプレイリストを踊ったんだ。グアドループカリブ海)の音楽オーヴェルニュの音楽ヨーロッパ音楽を、同じ時にね。

LeParisianのブシュロンのインタビュー開会式前のインタビュー

https://www.leparisien.fr/jo-paris-2024/ceremonie-douverture-des-jo-2024-au-debut-vous-allez-peut-etre-vous-dire-oh-la-la-cest-cliche-26-07-2024-S35XYLUGNBG53ARPSYLRKMM5PM.php

トーマス・ジョリー監督に選ばれたパトリック・ブシュロンは、このセレモニーに寄せられる期待や懸念さえも承知の上で、「私たちに似た」物語を望むと改めて表明した。 「私たちバカバカしいことや傲慢にならないように努めます。それをやったら、とんでもなく長い道のりになってしまうよ」と冗談を言う。

(中略)

最初のシーンには、『エミリーパリへ行く』シリーズを観たアメリカ人などが期待する、パリで見られるものをすべて詰め込みました。きっと反応は「ありきたりなだな」だろうけど、それは違う。少し忍耐が必要です。所要時間は 3 時間 45 分です。紆余曲折があるでしょう。次に、これらのイメージ正反対の方向に進み、スノードームが転がるように、私たちエッフェル塔私たちが期待しているもの)を目にするでしょう 。私たちはすべてを揺るがすでしょう。違うものが出てきますよ。 」

(中略)

幸せな猥雑さ(売春宿)」を見せる

共同執筆者たちは、過去の開会セレモニー研究しました。そして、アテネ謙虚さと、ロンドン自虐性を継承することとし、北京の誇張されたナショナリズム拒否することにしたのです。

ディベートの仕方を知っている国に生きることはとても大きなアドバンテージです。おそらく、(この国に暮らす)外国人たちが我々にもたらしている、楽しい面のカオス、それには多くの憤りと尊敬が同居していますが、私たちはそれを見せなければならないのです。」

開会セレモニーの原点は、セーヌ川の流れとともに進む、という点である

私たちが見せる、このゆっくりとした流れるイメージ、この空想上のパレードは、パリが示すべき力の中にあります。このステージ軍隊デモンストレーションパレードではないのです。フランスはもはやー私は全く望んでいませんがー世界に対して、我々の歴史について講釈を垂れるような立場ではないのです。私たちは、持っているもの、信じているものでやるしかないのです。我々が込めたメッセージシンプルです。言葉で、あるいは映像で、伝わればうれしいですが、そうです、それは、”すべてがある、それでも私たちは一緒に生きていける”ということです。」

パリ歴史から離れて、歴史家は、パリジャンの通勤のあり方についても、言葉を用いずに示すつもりだといいます

軍事パレードではない

英雄物語の反対にあるもの」を語る、というこの歴史家が大量のインクを費やしてきたフレーズにおいて、彼は、その立場を明らかにした。「私たちはしゃべりすぎです』と彼は笑う。宣言挑発もない。オリンピックゲームは、包括性、平等性、多様性という価値観に基づいていますセレモニーはそうでなければならない。私は歴史家からナポレオンの話をしなければならないなら、どうすればいいか知っているし、そうするつもりです!しかし、それだけではありません。絵画(Tableau)ではより完全なものになります私たちは何も削除していないのです。追加しているんです。セレモニー軍事パレードではないが、謙虚でないのに謙虚なふりをするつもりはない。その一方で、私たちは互いの違いに連帯感を示すことができる。誰もが楽しめるものになるでしょう。」

少し考えた後、彼はこう付け加えた。

「私に、世界(の見たくないもの)に対して目をつむることを期待しないでください。パリ世界を迎えるのであれば、ありのまま世界ドラマなども含めて歓迎します。オリンピックは原義的に政治的ものですから政治的もの排除するということはありえません。しか世界の最も公正な感覚の中にあってほしいとのぞみます。」

彼は微笑みながら、「こんなに複雑なものに参加することになるとは思ってもみなかった」と話した。

RFIまとめ記事開会式の朝に出た記事

増田はルモンドやリベラシオン課金はしていないので、まとめ記事が助かった)

https://www.rfi.fr/en/france/20240726-we-need-this-moment-of-peace-say-olympic-opening-ceremony-storytellers

(略)

ジョリーと4人の作家2022年末に共同の冒険を始めたときルートはすでに決められていました。

東のアウステルリッツからまりノートルダム大聖堂マリー・アントワネットが投獄されたコンシェルジュリールーブル美術館ガラスドームが特徴のグランパレなど中世遺跡を通り過ぎ、エッフェル塔のふもとで終わります

私たちはダウンジャケットを着て、アウステルリッツからエッフェル塔 までボートで川を上下しました」とジョリール・モンドに語った。

私たちパリ歴史の一部であるあらゆるものを見ました。通り、記念碑広場彫像文学的書簡映画ミュージカルも調べました。」

彼らは何度もブレインストーミングした後、約9か月間秘密裏執筆を続けた。

フランスカルト映画アメリ」やアメリカのネットフリックスシリーズエミリーパリへ行く」の夢のようなパリに引き込まれることを警戒し、 彼らは「常套句アメリカ流のフランス解釈についても、茶化さずに扱わなければならない」とわかっていたとジョリーは語った。

彼らはショーを12絵画セーヌ川沿い、セーヌ川の上、さらにはセーヌ川から出る)に分割し、約90隻の船に乗ったアスリートパレードと掛け合わせた。

3,000人を超えるダンサー俳優が岸壁や橋の上でパフォーマンス披露し、それぞれの絵画は、パリシンボルと、過去現在の両方について呼び起こすものを描いており、世界パリ​​の歴史建築の旅へと誘う。

例えば、ノートルダム大聖堂は、ゴシック様式記念碑であり、19世紀作家ヴィクトル・ユゴーとのつながりであると同時に、猛烈な地獄でもあるなど、人によってさまざまな意味を持っています

世界最後テレビノートルダム大聖堂を見たのは、火災ときでした」とブシュロン氏は言う。「誇りと壮大さの物語だけではなく、感動の、再建の物語でもあるのです。私たちが演じたかったのは、どんな困難にも負けずに共に生きていこうとする粘り強く創造的な意志物語です。」

自らを「現代を愛する歴史家」と称するブシュロン氏は、式典はできるだけ多くの人々に語りかけるものでなければならなかったと語る。

パーティーを開いてお気に入りプレイリストをかけるのとは違います世界からフランスへ、そしてフランスから世界へ語りかけるものでなければなりません。私たちはただ、人々が共感できるように、当時の状況を描写しようとしただけです。」

(略)

エマニュエル・マクロン大統領は、セレモニーでは1789年フランス革命から1948年世界人権宣言まで、「解放自由の偉大な物語」を提供すると述べた。

セレモニーの詳細は秘密ベールに包まれているが、フランス価値観が何らかの形で讃えられると推測されている。フランスモロッコ人の小説家であるレイラスリマニは、パリ集合的であろうとする努力価値を置いていることーそして力を合わせることで考えられないようなものを生み出せるーを高く評価している、とル・モンド紙に語っている。

4人の作家は、自分たち物語に寛大な精神を持たせたかったという。

「喜び、模倣、動き、興奮、輝きがなければならない。フランスが時に自信過剰に見せたがる伝統的、哲学的価値観だけでなくね。」

ラグビーワールドカップの二の舞は避けたい

(略)

一方、昨年9月パリで開催されたラグビーワールドカップ開会式は、「反例となった」とブシュロンは言う。

アーティスト』のオスカー俳優ジャン・デュジャルダンが、ベレー帽バゲットという出立ちで、1950年代フランスの村々を再現した模型自転車で巡り、ミルク絞りの女性ダンサーに手を振るというこのショーは、多くの批評家から時代遅れ陳腐フランス表現だと非難された。そして、非常に内向きなフランスだった。

「ただの古臭い過去イメージや、現在の単純な賞賛ではないものでなければならない。歴史は揺らいでいるもので、国家アイデンティティではなく、政治的プロジェクトであることを忘れてはならない。だから未来を語るのです。だから私たちセーヌ川を大旅行し、みんなを巻き込もうとしています。」

フランス革命200周年

ブシュロンは、最も感動的なショーとして、ジャン=ポール・グードによる壮大な舞台美術を伴った、1989年フランス革命200周年記念式典を挙げている。

当時20歳だったブシュロンは、それを見て歴史家になろうと決意した。

「それは歴史を痛感した瞬間でした。1989年ソ連中国天安門広場抗議活動)など、世界では多くの出来事が起こっていました。当時、私たち多文化フランスと呼ばれていたもの価値を声高に明確に宣言することができました。それはより困難になり、ある種の幻滅感もありますが、私たちは怯んではなりません。」

数週間前、フランスでは議会選挙後に極右政党国民連合」が政権を握るかもしれないという懸念真剣にあった。その場合、ショーは「ある種の抵抗セレモニーに変貌していただろう」とジョリー氏は語った。

結局、マリーヌ・ル・ペン氏の党は好成績を収めたが、セレモニーの書き直しを必要とするほどではなかった。

それでも、暴力への抵抗必要性は残っている。

私たちは、切実に、いたるところで起こっている暴力から離れて、平和の瞬間、止められた瞬間を共有することを必要としています」とスリマニは言った。

「私は本当に、7月26日にみんなが流れに身を任せてくれることを願っています私たちの中の子供の部分、発見する楽しみを思い出してほしいです。今では本当に珍しいものになってしまいました」

以下私なりの見解(読まなくてもいい)

なんでマリー・アントワネット

と思っていたけど、セーヌ川コンシェルジュリーが先にあることがわかった。ルイ16世でない理由もそこにある。またマリーがサン・キュロット版のア・サ・イラをうたい上げた後に上がった数多くの血しぶきは、その後のコンシェルジュリーで数多く処刑された人々のものであろうとも思う。なぜなら、マリーはすでに断頭済みだから。そして、ガブリアック氏、ブシュロン氏のコメントから別に完全に誇っているわけでもないこともわかりました。やるしかねぇな、と言っているのですから。またブシェロン氏はdéchirer(悲痛な、引き裂かれる痛み)という言葉を使って、あそこで起きたことを示しており、歴史家である彼は当然革命期のその後の悲劇を知っているわけですから。それでもなお、彼は「バスティーユを奪還した」といい、国家は終わるもので、政治的プロジェクトに過ぎないのだ、ということを「誇って」いるという点が印象的でした。右派が怒ることなども承知の上でしょう、なにしろ、「ディベートの仕方を知っている国に生きている」のですからね。

最後の晩餐のシーン

開会式全体に込められたメッセージから判断すると、別にキリスト教揶揄はしていないんでしょうね。挑発はしているかもしれませんが。クィア存在する(キリスト教がないものとみなしている)ということを目ぇ開いてしっかり見ろ、ということが言いたいのでしょうから真正からね。

要は、暴力クィアなど、みたくない、特にオリンピックにおいて、というものも当然パリ包摂してるぜ、外国人問題とかもカオスだけど、でもちゃんと一緒に生きてるんだぜっていうメッセージと受け取ったね。論争が起きるのとか、まさに狙い通りでしかないんじゃないですかね。

2023-08-17

世界史で聞いたことのある言葉を1行で解説する

ボストン茶会事件ボストンお茶会テロが起こった

カノッサの屈辱カノッサさんが土下座した

バスティーユ牢獄網走刑務所みたいな怖い牢屋

ロゼッタストーン→使うと光る飛行石みたいなやつ

マグナ・カルタ百人一首みたいなやつ

テルミドールの反動圧政し過ぎて反動が来た

テニスコートの誓い→テニスコートで愛を誓った

バルバロッサ作戦→空から攻撃

アウステルリッツ三帝会戦ドイツフランスイギリス王様が話し合った

死海文書ヤバい文書。読むだけで呪われるので金庫に保管されている

トロイの木馬ウイルスばらまき作戦

2021-08-09

世界大戦争芸術

世界大戦争芸術

1.アウステルリッツの戦い

 西暦1805年冬、ナポレオン率いるフランス大陸軍六万と、ロシアオーストリア連合軍八万がウィーン近郊のアウステルリッツプラッツェン高地西方で激突した。

 フランス軍は当時のロシア軍に対し数的劣勢であったことに加え、アウステルリッツにおいて最重要拠点であるプラッツェン高地ロシア軍に占拠されていたため(一時はフランス軍によって占拠されていたものの、明け渡された)、当時フランス軍にとって有利な状況は何一つ存在していなかった。その上、アウステルリッツ南北双方からは敵増援が到着しつつあり、これら増援ロシア軍が合流を果たせばフランス軍には万に一つの勝ち目も無かった。

 このことからナポレオンは開戦直前に停戦交渉を行う。

 しか連合軍は数的優勢、土壇場になって停戦交渉に打って出たナポレオン弱腰さらには戦場における最重要拠点であるプラッツェン高地を手中に収めていることを鑑み、勝機ありと見た末に停戦交渉を撥ね退け、フランス軍との大規模会戦に打って出たのである。それらが全てナポレオンの張り巡らせた罠であるとも知らずに。


 1805年12月2日、戦端はロシア軍の先制攻撃によって開かれる。プラッツェン高地南方にて、フランス右翼の守るテルニッツ村が攻撃を受けた。

 当時の布陣図によれば、フランス右翼は極めて脆弱であり、ロシア軍はそこを弱点と見做し自軍左翼のブクスホーデン軍を急行させたのである南北に伸びたプラッツェン高地から出撃したブクスホーデン軍によって、フランス右翼陣地はあわや撃滅されようとしていた。右翼が壊滅すれば突破したロシア軍はフランス軍後方へと迂回し、中央フランス主力部隊挟撃することができる。そうなればフランス軍は終わりである

 しかし、まさにその瞬間に――ブクスホーデン軍がプラッツェン高地から、地上のフランス右翼へと殺到し始めた瞬間に――ナポレオン勝利確信したのである


「もしも、ロシア軍が右翼へ向かうべくプラッツェン高地を離れたなら、彼らは確実に敗北するだろう」  - ナポレオン

 フランス右翼は囮であった。ナポレオンの狙いは、ロシア左翼フランス右翼攻撃するために進撃を開始した瞬間に、手薄になった中央プラッツェン高地を集中攻撃することにあった。

 これによって、重要拠点であるプラッツェン高地ロシアから奪回し、戦場の主導権を我が物にしようとしたのであるさらに、アウステルリッツ会戦当日にはプラッツェン高地周囲の森には深い霧が立ち込めており、この霧の存在ナポレオン企図を助けることとなった。

 ロシア左翼プラッツェン高地から出撃して間もなく、スルト元帥麾下の第四軍団14000がプラッツェン高地中央部を急襲し、霧の中突如として現れたフランス軍を前に、ロシア中央は総崩れとなる。また、脆弱だった筈のフランス右翼も、ダヴ―元帥麾下7000の部隊が後方都市から到着したことで、数的劣勢を克服し、戦況を盛り返しつつあった。

(開戦前日にダヴ―麾下7000の部隊は密かに戦場へと到達すると、言わば伏兵として右翼後方に待機していた)

 やがて激烈なフランス軍主力の攻撃により、ロシア中央は壊走を始め、プラッツェン高地フランス軍により奪回された。同時に、フランス右翼攻撃のためにプラッツェン高地から地上へと降り立っていたロシア左翼は、敵陣の中孤立することとなり、戦局はここに決したのであった。


 ロシア軍は戦端を開こうとせず、増援の到着を待ち戦力を増強しさえすれば、少なくともフランス軍との直接対決において敗北を喫することは無かったであろう。

 しかし、ナポレオンはその裏を掻いたのである。彼はロシア軍が友軍と合流する前に会戦の火蓋を切って落とし、大規模な会戦に持ち込むことで、いち早く敵軍主力を撃滅することを画策したのだ。そのために、敢えて戦力劣勢を露呈し、戦場の最重要拠点を敵軍へと譲り、尚且つ弱気姿勢を見せるために仮初の停戦交渉さえして見せたのである。とどめには、勝機に逸るロシア軍の中央攻撃するために、敢えて右翼の布陣を脆弱にするという周到さであった。それら全ての罠がロシア軍の判断能力を奪い、かくしてロシア連合軍八万はアウステルリッツの地にて壊滅したのだ。

 かの有名な書物戦争論』の中で、著者であるプロイセン将校クラウゼヴィッツはこの戦いを次の言葉概括している。 「戦争芸術の粋」。


2.カンナエの戦い

 紀元前219年、遥かアフリカ北端国家カルタゴ将軍ハンニバルは、当時世界最大の強国であった共和制ローマ相手取り絶望的な戦いを挑んでいた。

 その絶望的な戦況を好転させるため、ハンニバルは自ら率いた精鋭部隊スペインからアルプス地方へと経由させることで、ローマの中枢であるイタリア半島本土に対し直接攻撃を仕掛けたのである

 最終的に、ハンニバルイタリア半島に十年間留まり、その間絶えずローマ軍に対する圧迫を続けた。その十年の戦いにおいて世界戦史上に燦然と煌めく、もっとも著名な戦いこそがカンナエの戦いである。


 ハンニバルアルプス山脈を越えイタリア北部に侵攻すると、次々と現れるローマ軍を待ち伏せや正面突破によって壊滅させ、イタリア半島南方へと進撃した。当時、快進撃を続けるハンニバルは数万の軍隊を維持するべく、イタリア半島各地で略奪を行っており、農村を中心に甚大な被害が上がっていたこからローマ軍首脳のストレスピークに達していた。更に、イタリア半島南部においてはローマ軍の補給基地存在しており、そこをハンニバルに抑えられるとローマ軍は南イタリアでの行動を制限される可能性があった。そのため、ローマ首脳陣はカルタゴ軍を撃滅するべくローマ史上最大規模の部隊を編成し、約八万の軍を執政官パウルスとウァロに指揮させた。この時、決戦の地に選ばれたのがイタリア南方カンナエである

 決戦の舞台となったカンナエは、川と丘陵地帯に挟まれた地形であり、カルタゴ軍約五万とローマ軍七万は平原ほとんど埋めるように布陣し、正面からかい合った。

 両軍は双方ともに両翼に騎兵部隊を、中央歩兵部隊を配置しており、いかにも窮屈そうな陣形であった。

 しかし、この人馬が埋め尽くす不自由戦場は、後に分かる通り、ハンニバルの用意した殺戮舞台としてはうってつけのものでさえあった。


 戦端は両翼の騎兵部隊同士の衝突によって開かれる。

 ローマカルタゴ双方の騎兵隊は、狭い地形において機動戦法を取ることができず、正面からぶつかった。

 歩兵戦力ではローマカルタゴで比べるべくもない数的差(6万強:4万)が開いていたが、騎兵の質、量においてはカルタゴ軍がローマ軍を上回っており(6500:1万)、カルタゴ軍は開戦から僅かな間に、左翼での騎兵部隊戦闘において優勢に立っていた。単純な数的有利から繰り出される圧力と、また練度の違いによりローマ騎兵は瞬く間に圧迫され、その算を乱していった。


 一方歩兵部隊における戦力差は繰り返すように圧倒的であり、歩兵同士の戦闘に限ってはカルタゴ軍がローマ軍に勝利する公算は無かった。

 そのため、ハンニバルは一計を案じた。

 ハンニバルカルタゴ歩兵陣形をお椀のように変形させ、その弧を描いた部分をローマ中央歩兵部隊と接敵するようにしたのである。これによって接敵する面積をできるだけ減らし、中央突破されるまでの時間を稼ごうとしたのだ。ハンニバル歩兵同士の戦闘をできるだけ遅滞させ、両翼の騎兵部隊が優勢に立つのを待った。

 また、ハンニバルはお椀型をしていた陣形を、戦闘が推移するに従って屈伸させ後退させた。当初の形(お椀の底の部分が接敵する形)とは逆に、ローマ軍の大半をお椀の中へと誘い込んだのであるさらに、ハンニバルは温存していた自軍左右の重装歩兵ローマ軍へと攻撃させ、ローマ歩兵挟撃される形を築こうとした。

 とは言えこの時点ではカルタゴ軍によるローマ軍への包囲は決定的ではなく、ローマ軍は歩兵戦闘において依然優勢な状況にあった。そのためローマ軍は、優勢な戦況を継続し、カルタゴ中央突破することで戦局を優位に進めようとした。


 ところがその時、歩兵部隊の両翼で戦闘を行っていたカルタゴ騎兵が、歩兵同士の戦闘に加わったのである

 戦端より優勢を維持していたカルタゴ騎兵は、ローマ騎兵を壊滅させた後に、敵歩兵部隊無防備な背後を攻撃した。左右を川と丘陵に囲まれ陣形の狭さ故に、ローマ騎兵有効回避機動を取ることができず、瞬く間にカルタゴ騎兵によって殲滅されたのであった。

 ただでさえカルタゴ軍に包囲されかかっていたローマ軍は、後方から攻撃を受けることによって決定的な混乱を迎えた。周囲を完全に包囲されたローマ軍は逃げ惑い、歩兵中央部では逃げ惑う味方の身体に押されて圧死する者も現れたという。

 この戦いによってローマ軍7万の部隊は完全に壊滅し、6万人が死傷、また、残る1万人は捕虜となった。


 地形を有効に利用し、敵軍を機能不全に陥らせ包囲殲滅する戦法は、いわばハンニバルの御家芸であった。

 機動部隊同士の戦闘を優勢に進め、敵軍を包囲殲滅するこの戦法が、以降近現代軍事教本に取り上げられ、カンナエの戦いのハンニバルに帰する栄光が不動のものとなったことはあまりにも有名であるハンニバルイタリアの地にてローマ軍を完全に破った。この戦闘によって、当初戦闘に参加していた元老院議員政治家八十名が戦死し、議員定員約300名のローマ議会における四分の一が戦死することとなる。


 続く:anond:20210809041010

2013-02-26

大学読書人大賞があまりにクソな件について

http://www.jpic.or.jp/dokushojin/

 

 

「はて、読書人とはなんぞや?」という気分になることでお馴染みの

キングオブクソ文学賞こと、大学読書人大賞ですが

今年はますますそのクソさに磨きがかかっております

 

読書人などと名乗るのはおこがましいけど…まあ、話題作くらいは、少し、ね」

程度の方で構いません、ある程度本を読まれるモニター前のあなた

このリストから、ご自分が読まれている本の推薦文をぱらりと御覧ください。

http://www.jpic.or.jp/dokushojin/kouho/2013/

 

 

百聞は一見にしかず、いかにこの賞がクソか一発で分る素敵な書評しかございませんので

どれを読んでも安心して怒りを感じることが出来るようになっています

なお、『アウステルリッツ(改訳)』、『嵐のピクニック』、

スワロウテイル序章/人工処女受胎』『BEATLESS』がお好きなアナタは残念でした。

こちらの作品、候補作にもかかわらず一通も推薦文が集まら自動エントリ落ちという

斜め上の展開になっておりまして、1本も推薦の書評を読むことができません。素晴らしい。

っつーか、候補作に推薦文の一本も集まらないこと、途中で分からなかったの?

そういうのは途中でサークル間で情報を共有して仕込みで入れるんだよバカが。

見た目だけでも整えろや。

 

話がそれましたが、こちらにある推薦文、

ですますであるを混ぜるくらいに日本語能力がクソ、

なんでも自分の体験に結びつけるのがクソ、あらすじのまとまりのなさがクソ

編集者がオビを書いているわけでもないのに無意味に煽ったり意味ありげに引っ張って伏線を回収しないのがクソ、

読書好きである自分によっていることを欠片も隠さないのがクソ、

明らかに文意を読み間違えているのがクソ

てにをはがオカシイのを校正もせずにあげているのがクソ、

最後の1文が「…。」で終わることを余韻が残る名文と勘違いしていてクソ、

冒頭のエピソードが締めに帰結せずなんのためにあるかわからないのがクソ、

「この本ほど現代学生が読むことを想定されている本はない。」って意味からなすぎてクソ、

などクソな部分を100個でも200個でも上げることは可能です。

 

 

はいえ、クソがクソがと怒ってばかりいてもしかがたありませんので、

どうしてこういうクソな「さくぶん」が沢山出来上がってしまったのかを

ちょっと考えてみたんだけど、小学校教育での「読書感想文」が

元凶なのではないかと思うんだよね。もう口調砕けますけどすんません。

 

 

アレってさ、あらすじとかよかったところを並べた後、

テンプレ的に自分の体験とリンクさせて落としこむのがほめられるじゃん。

この本によって私はこう感じて、現実自分がこう成長しました~ってアレね。

あのテンプレートが、大学生になっても抜けてない。

あらすじ書いて~印象に残ったエピソードあげて~僕は私は自分経験だと~って。

そのテンプレも上手に使えてるならいいけど、

全然まとまっていないので読むに耐えない。

しかも『それだけだとちょっと格好悪い、いい子なだけの自分ダサい』って

大学文学賞の運営なんかしているバリバリに膨らんだ自意識は主張するから

結果、もうちょい小難しいことからめて「SFは僕らの人生を変えていくのだ」とか

それっぽいこと言った結果まったく意味からなくなってんだよね。

 

小学生の作文レベルで「最後主人公が、人の心を信じて立ち向かっていった姿が

とても格好良く感じました。僕もこういう大人になりたいと思いました。

今の世の中では、それがとてもむずかしいのだとしても。」とか言ってくれたほうが

ぜんぜん分かりやすいし、本を勧められている感じがする。

 

 

これは本の推薦のための賞だろう?

お前を推薦してどうすんだよクソが。

お前の自意識に飾ったブローチの自慢ご苦労様。

でもそのブローチ、馬の糞でできてるんだね。すごい臭うよ。

 
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