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はてなキーワード: アウステルリッツの戦いとは

2021-08-09

世界大戦争芸術

世界大戦争芸術

1.アウステルリッツの戦い

 西暦1805年冬、ナポレオン率いるフランス大陸軍六万と、ロシアオーストリア連合軍八万がウィーン近郊のアウステルリッツプラッツェン高地西方で激突した。

 フランス軍は当時のロシア軍に対し数的劣勢であったことに加え、アウステルリッツにおいて最重要拠点であるプラッツェン高地ロシア軍に占拠されていたため(一時はフランス軍によって占拠されていたものの、明け渡された)、当時フランス軍にとって有利な状況は何一つ存在していなかった。その上、アウステルリッツ南北双方からは敵増援が到着しつつあり、これら増援ロシア軍が合流を果たせばフランス軍には万に一つの勝ち目も無かった。

 このことからナポレオンは開戦直前に停戦交渉を行う。

 しか連合軍は数的優勢、土壇場になって停戦交渉に打って出たナポレオン弱腰さらには戦場における最重要拠点であるプラッツェン高地を手中に収めていることを鑑み、勝機ありと見た末に停戦交渉を撥ね退け、フランス軍との大規模会戦に打って出たのである。それらが全てナポレオンの張り巡らせた罠であるとも知らずに。


 1805年12月2日、戦端はロシア軍の先制攻撃によって開かれる。プラッツェン高地南方にて、フランス右翼の守るテルニッツ村が攻撃を受けた。

 当時の布陣図によれば、フランス右翼は極めて脆弱であり、ロシア軍はそこを弱点と見做し自軍左翼のブクスホーデン軍を急行させたのである南北に伸びたプラッツェン高地から出撃したブクスホーデン軍によって、フランス右翼陣地はあわや撃滅されようとしていた。右翼が壊滅すれば突破したロシア軍はフランス軍後方へと迂回し、中央フランス主力部隊挟撃することができる。そうなればフランス軍は終わりである

 しかし、まさにその瞬間に――ブクスホーデン軍がプラッツェン高地から、地上のフランス右翼へと殺到し始めた瞬間に――ナポレオン勝利確信したのである


「もしも、ロシア軍が右翼へ向かうべくプラッツェン高地を離れたなら、彼らは確実に敗北するだろう」  - ナポレオン

 フランス右翼は囮であった。ナポレオンの狙いは、ロシア左翼フランス右翼攻撃するために進撃を開始した瞬間に、手薄になった中央プラッツェン高地を集中攻撃することにあった。

 これによって、重要拠点であるプラッツェン高地ロシアから奪回し、戦場の主導権を我が物にしようとしたのであるさらに、アウステルリッツ会戦当日にはプラッツェン高地周囲の森には深い霧が立ち込めており、この霧の存在ナポレオン企図を助けることとなった。

 ロシア左翼プラッツェン高地から出撃して間もなく、スルト元帥麾下の第四軍団14000がプラッツェン高地中央部を急襲し、霧の中突如として現れたフランス軍を前に、ロシア中央は総崩れとなる。また、脆弱だった筈のフランス右翼も、ダヴ―元帥麾下7000の部隊が後方都市から到着したことで、数的劣勢を克服し、戦況を盛り返しつつあった。

(開戦前日にダヴ―麾下7000の部隊は密かに戦場へと到達すると、言わば伏兵として右翼後方に待機していた)

 やがて激烈なフランス軍主力の攻撃により、ロシア中央は壊走を始め、プラッツェン高地フランス軍により奪回された。同時に、フランス右翼攻撃のためにプラッツェン高地から地上へと降り立っていたロシア左翼は、敵陣の中孤立することとなり、戦局はここに決したのであった。


 ロシア軍は戦端を開こうとせず、増援の到着を待ち戦力を増強しさえすれば、少なくともフランス軍との直接対決において敗北を喫することは無かったであろう。

 しかし、ナポレオンはその裏を掻いたのである。彼はロシア軍が友軍と合流する前に会戦の火蓋を切って落とし、大規模な会戦に持ち込むことで、いち早く敵軍主力を撃滅することを画策したのだ。そのために、敢えて戦力劣勢を露呈し、戦場の最重要拠点を敵軍へと譲り、尚且つ弱気姿勢を見せるために仮初の停戦交渉さえして見せたのである。とどめには、勝機に逸るロシア軍の中央攻撃するために、敢えて右翼の布陣を脆弱にするという周到さであった。それら全ての罠がロシア軍の判断能力を奪い、かくしてロシア連合軍八万はアウステルリッツの地にて壊滅したのだ。

 かの有名な書物戦争論』の中で、著者であるプロイセン将校クラウゼヴィッツはこの戦いを次の言葉概括している。 「戦争芸術の粋」。


2.カンナエの戦い

 紀元前219年、遥かアフリカ北端国家カルタゴ将軍ハンニバルは、当時世界最大の強国であった共和制ローマ相手取り絶望的な戦いを挑んでいた。

 その絶望的な戦況を好転させるため、ハンニバルは自ら率いた精鋭部隊スペインからアルプス地方へと経由させることで、ローマの中枢であるイタリア半島本土に対し直接攻撃を仕掛けたのである

 最終的に、ハンニバルイタリア半島に十年間留まり、その間絶えずローマ軍に対する圧迫を続けた。その十年の戦いにおいて世界戦史上に燦然と煌めく、もっとも著名な戦いこそがカンナエの戦いである。


 ハンニバルアルプス山脈を越えイタリア北部に侵攻すると、次々と現れるローマ軍を待ち伏せや正面突破によって壊滅させ、イタリア半島南方へと進撃した。当時、快進撃を続けるハンニバルは数万の軍隊を維持するべく、イタリア半島各地で略奪を行っており、農村を中心に甚大な被害が上がっていたこからローマ軍首脳のストレスピークに達していた。更に、イタリア半島南部においてはローマ軍の補給基地存在しており、そこをハンニバルに抑えられるとローマ軍は南イタリアでの行動を制限される可能性があった。そのため、ローマ首脳陣はカルタゴ軍を撃滅するべくローマ史上最大規模の部隊を編成し、約八万の軍を執政官パウルスとウァロに指揮させた。この時、決戦の地に選ばれたのがイタリア南方カンナエである

 決戦の舞台となったカンナエは、川と丘陵地帯に挟まれた地形であり、カルタゴ軍約五万とローマ軍七万は平原ほとんど埋めるように布陣し、正面からかい合った。

 両軍は双方ともに両翼に騎兵部隊を、中央歩兵部隊を配置しており、いかにも窮屈そうな陣形であった。

 しかし、この人馬が埋め尽くす不自由戦場は、後に分かる通り、ハンニバルの用意した殺戮舞台としてはうってつけのものでさえあった。


 戦端は両翼の騎兵部隊同士の衝突によって開かれる。

 ローマカルタゴ双方の騎兵隊は、狭い地形において機動戦法を取ることができず、正面からぶつかった。

 歩兵戦力ではローマカルタゴで比べるべくもない数的差(6万強:4万)が開いていたが、騎兵の質、量においてはカルタゴ軍がローマ軍を上回っており(6500:1万)、カルタゴ軍は開戦から僅かな間に、左翼での騎兵部隊戦闘において優勢に立っていた。単純な数的有利から繰り出される圧力と、また練度の違いによりローマ騎兵は瞬く間に圧迫され、その算を乱していった。


 一方歩兵部隊における戦力差は繰り返すように圧倒的であり、歩兵同士の戦闘に限ってはカルタゴ軍がローマ軍に勝利する公算は無かった。

 そのため、ハンニバルは一計を案じた。

 ハンニバルカルタゴ歩兵陣形をお椀のように変形させ、その弧を描いた部分をローマ中央歩兵部隊と接敵するようにしたのである。これによって接敵する面積をできるだけ減らし、中央突破されるまでの時間を稼ごうとしたのだ。ハンニバル歩兵同士の戦闘をできるだけ遅滞させ、両翼の騎兵部隊が優勢に立つのを待った。

 また、ハンニバルはお椀型をしていた陣形を、戦闘が推移するに従って屈伸させ後退させた。当初の形(お椀の底の部分が接敵する形)とは逆に、ローマ軍の大半をお椀の中へと誘い込んだのであるさらに、ハンニバルは温存していた自軍左右の重装歩兵ローマ軍へと攻撃させ、ローマ歩兵挟撃される形を築こうとした。

 とは言えこの時点ではカルタゴ軍によるローマ軍への包囲は決定的ではなく、ローマ軍は歩兵戦闘において依然優勢な状況にあった。そのためローマ軍は、優勢な戦況を継続し、カルタゴ中央突破することで戦局を優位に進めようとした。


 ところがその時、歩兵部隊の両翼で戦闘を行っていたカルタゴ騎兵が、歩兵同士の戦闘に加わったのである

 戦端より優勢を維持していたカルタゴ騎兵は、ローマ騎兵を壊滅させた後に、敵歩兵部隊無防備な背後を攻撃した。左右を川と丘陵に囲まれ陣形の狭さ故に、ローマ騎兵有効回避機動を取ることができず、瞬く間にカルタゴ騎兵によって殲滅されたのであった。

 ただでさえカルタゴ軍に包囲されかかっていたローマ軍は、後方から攻撃を受けることによって決定的な混乱を迎えた。周囲を完全に包囲されたローマ軍は逃げ惑い、歩兵中央部では逃げ惑う味方の身体に押されて圧死する者も現れたという。

 この戦いによってローマ軍7万の部隊は完全に壊滅し、6万人が死傷、また、残る1万人は捕虜となった。


 地形を有効に利用し、敵軍を機能不全に陥らせ包囲殲滅する戦法は、いわばハンニバルの御家芸であった。

 機動部隊同士の戦闘を優勢に進め、敵軍を包囲殲滅するこの戦法が、以降近現代軍事教本に取り上げられ、カンナエの戦いのハンニバルに帰する栄光が不動のものとなったことはあまりにも有名であるハンニバルイタリアの地にてローマ軍を完全に破った。この戦闘によって、当初戦闘に参加していた元老院議員政治家八十名が戦死し、議員定員約300名のローマ議会における四分の一が戦死することとなる。


 続く:anond:20210809041010

2015-10-16

世界の名争50戦

前1285カデシュの戦いエジプトの大ファラオ・ラムセス2世と、製鉄技術で名高いヒッタイトの王ムワタリの戦い。戦況が膠着状態に陥った後、ムワタリが停戦を申し入れ、ラムセス2世が受諾した。これは記録に残る最古の戦争であり、記録に残る最古の平和条約でもある。
前479プラタイアの戦い古代ギリシアペルシアの一連の戦争における決戦。数十万を誇るペルシア軍の攻勢を、一万のスパルタ軍だけで防ぎ止め、押し返し、打ち破った。これによりギリシアからペルシア軍は駆逐され、スパルタは前年のテルモピュライの戦い(映画『300』で有名)の雪辱を果たした。
前371レウクトラの戦い古代ギリシア都市国家テーバイスパルタの戦い。テーバイのエパメイノンダスが編み出した、兵力を左翼に集中する戦術「斜線陣」により、精強を誇ったスパルタファランクスは打ち破られた。皮肉にも、後に斜線陣はテーバイではなくマケドニアに伝わり、ギリシア諸都市はその戦術によって敗れ去ることになる。
前331ガウガメラの戦い「大王」アレクサンドロス3世率いるマケドニア軍とアケメネス朝ペルシア軍の戦い。マケドニア軍の重装歩兵ペルシア軍を受け止めているあいだに、アレクサンドロス自らが率いる騎兵がペルシア軍にできた間隙を衝く、いわゆる「鎚と鉄床」戦術によってマケドニアが勝利し、大国ペルシアは滅びた。
前260長平の戦い中国の戦国時代、趙の老将・廉頗の持久戦術に手を焼いた秦は、情報工作によって廉頗の悪評を流し、若い趙括と交替させた。趙括は勢い込んで秦との決戦に挑んだが、秦の名将・白起によってあっけなく包囲殲滅された。四十万人の捕虜が虐殺されたという。秦の中華統一の過程において最も大きな勝利の一つである
前216カンネーの戦いアルプスを越えてイタリア半島に侵入したカルタゴの名将・ハンニバルが二倍の兵数のローマ軍に大勝した戦い。中央の歩兵が敵を受け止め、両翼の騎兵が敵側背に回り込む、「包囲殲滅」戦術の鮮やかな見本として史上に名高い。しかし、そのハンニバルも後にザマの戦いで敗れ、地中海の覇権はローマのものとなっていく。
前202垓下の戦い秦が倒れた後、中華を二分して戦っていた楚の項羽と漢の劉邦は、互いに疲弊したことで和睦を結んだ。しかし、劉邦は直後に盟約を破り、引き上げる楚軍に襲いかかった。「四面楚歌」となった項羽は、最後の力を振り絞って包囲を破るも、衆寡敵せず自害した。天下は漢のものとなった。
前48ファルサルスの戦い古代ローマ代表する二人の軍事的天才、カエサルポンペイウスの戦い。カエサルは、包囲を狙うポンペイウスの騎兵を重装歩兵で囲い込み、投槍を投げずにそのまま騎兵の顔や目を刺すよう指示して打ち破った。勝利したカエサルローマの実権を握ったが、やがて暗殺されることになる。
前31アクティウムの海戦カエサルの跡を継いだオクタウィアヌスとその政敵アントニウスの戦い。しかし、アントニウスとその愛人クレオパトラは、本拠地エジプトへ逃れることを優先してすぐに戦場を離脱、取り残されたアントニウス軍は壊滅した。アントニウスクレオパトラは自殺し、数年ののちにオクタウィアヌスは初代ローマ皇帝となる。
23年昆陽の戦い漢から帝位を簒奪した王莽に反発して「赤眉の乱」が起こる。昆陽に篭もる赤眉軍は、実数でも40万と言われる王莽軍に包囲されたが、リーダーの一人である劉秀は数千の兵とともに敵の中枢へ突撃を敢行、王莽軍は大混乱に陥り全滅した。主力を失った王莽はまもなく滅亡。劉秀はのちに光武帝として後漢王朝を開く。
208赤壁の戦い三国志に名高い一大決戦。中原を制し、中華統一を目指して大軍を南下させた曹操だったが、見知らぬ土地での疫病、慣れない水上戦に悩まされ、呉の都督・周瑜の火計によって打ち破られた。呉に協力していた劉備は、勝ちに乗じて荊州の南部を占拠し、後の飛躍へと繋げた。
383淝水の戦い五胡十六国時代、前秦皇帝・苻堅は天下統一を狙って百万を号する大軍を南下させ、東晋の将軍・謝石と謝玄が数万の軍でそれを迎え撃った。苻堅は異民族の融和を目指した理想主義的な君主だったが、異民族の混成軍は実際には統率がとれておらず、偽装後退を命じたことが本当の撤退と勘違いされ、前秦軍は自壊して潰走した。
451カタラウヌムの戦いフン族の王アッティラの侵略に対して、西ローマ帝国の名将アエティウスと西ゴート王テオドリックなどが連合して挑んだ決戦。痛み分けに近いものの、西ローマ帝国軍の勝利に終わった。のちにアエティウスの武功を恐れた西ローマ皇帝は彼を暗殺した。この戦いから二十五年後に西ローマ帝国は滅びた。
506鍾離の戦い数十万の大軍同士が激突した南北朝時代最大の決戦。北魏軍は、河に橋を掛けて梁の鍾離城を攻め立てていたが、長雨もあり戦いは長期化した。救援に来た梁の智将・韋叡は、増水に乗じて戦艦を走らせ、北魏が掛けた橋を焼き払った。大混乱に陥った北魏軍は十数万の死者を出して敗走した。
530ダラの戦いサーサーン朝ペルシアの大軍を東ローマ帝国のベリサリウスが破った戦い。ベリサリウスはあえて要塞から出て敵の攻撃を誘うと共に、壕を掘って相手の中央突破を防ぎ、伏兵を巧みに使って撃破した。その後、ベリサリウスは中世欧州最高の名将として、東ローマ帝国の最大版図を現出させる。
627ハンダクの戦い初期イスラムの三つの戦いの一つ。敵対するメッカ軍に対し、ムハンマド率いるメディナ軍は数で劣ったため、ペルシャ人技術者の進言で「ハンダク=塹壕」を巡らせた。メッカ軍は初めて目にする塹壕を突破できず、メディナ攻略を諦めた。以降、アラブ世界におけるイスラムの優位が確立された。世界初の塹壕戦とも言われる。
636ヤルムークの戦い「神の剣」ハーリド率いるイスラム軍と、皇弟テオドロス率いる東ローマ帝国軍の戦い。砂漠の戦闘に慣れたイスラム騎兵が東ローマ帝国軍を渓谷に追い込み撃滅した。イスラム軍は、直後のニハーヴァンドの戦いを経てサーサーン朝ペルシアをも滅ぼし、ここにイスラム帝国が興隆することとなった。
732トゥール・ポワティエ間の戦いイベリア半島から侵攻したウマイヤ朝イスラム帝国と、フランク王国の宮宰カール・マルテルの戦い。イスラム騎兵の猛攻をフランク重装歩兵が跳ね返し、撃退した。イスラム騎兵の強さを痛感したマルテルは、直属の臣下に土地を与えて「騎士」制度を創設し、これが欧州の封建制へと繋がっていった。
751タラス河畔の戦い西へ拡大する大唐帝国と東へ拡大するアッバース朝イスラム帝国中央アジアにおいて衝突した戦い。唐の同盟者ウイグル族に従っていたカルルク族が裏切ったことでアッバース朝が大勝した。これによって、唐の伸張は止まり、中央アジアイスラムに帰し、そして製紙法が西方に伝播した。
1098アンティオキア攻囲戦第一回十字軍は、半年以上の攻城戦の末にアンティオキアを陥落させたが、遅れて到着したイスラム諸国連合軍七万によって逆に包囲されてしまう。しかし「聖槍」の発見で士気を高めた十字軍は、城外に打って出てイスラム軍を打ち破った。次の年にはエルサレムを陥とし、まさしく奇跡的に十字軍成功に終わった。
1141カトワーンの戦いイスラムセルジューク朝を復興させたサンジャルと、遼の再興を掲げて中央アジアに覇を唱えた西遼の耶律大石との戦いで、西遼軍がセルジューク朝軍を包囲殲滅した。セルジューク朝は再び衰退、まもなく耶律大石も亡くなったことで西遼も勢いを失った。この戦いがプレスター・ジョン伝説の原型となったという。
1187ヒッティーンの戦い暑さと渇きに苦しむエルサレム王国軍に対し、イスラムアイユーブ朝サラディンは、夜通し弓矢で攻め立てて士気を挫き、野に火を放って追い詰め、壊滅させた。聖地エルサレムは再びイスラム勢力のものとなった。その奪回のために第三回十字軍、すなわちサラディンと「獅子心王」リチャードの戦いが開始される。
1212ナバス・デ・トロサの戦いイベリア半島で争っていたキリスト教諸勢力が、教皇インノケンティウス3世の要請により連合してイスラム勢力を迎え撃った、「レコンキスタ」最大の決戦。イスラムムワッヒド朝の十二万の大軍が悠然と構えるのに対し、連合軍は猛烈な突撃を敢行。ムワッヒド軍は十万とも言われる被害を出して敗走した。
1214ブーヴィーヌの戦いフランスの「尊厳王」フィリップ2世と、神聖ローマ帝国イングランド王国などの連合軍の戦い。フィリップ2世は北へと逃げてブーヴィーヌに陣取ると、ばらばらに追いかけてきた連合軍を到着した順に各個撃破した。脆弱だったフランスが強国として台頭し、またイングランドで大憲章が成立するきっかけともなった。
1241モヒの戦いバトゥ率いるモンゴル帝国の遠征軍に対し、ハンガリー軍は堅固な陣地を築いて健闘したが、モンゴル軍はイスラムの投石機と中国の火薬兵器で攻撃を加え、さらに周りこんだスブタイの軍によって包囲殲滅した。同時にリーグニッツでもモンゴルの別働隊が勝利していたが、オゴタイ・ハンの死を聞いてバトゥは引き返した。
1260アインジャールートの戦いモンゴル帝国西アジア遠征軍と、イスラム勢力のクトゥズやバイバルスの戦い。先鋒のバイバルス軍が退却を装い、それを追撃したモンゴル軍は、伏兵のクトゥズ軍に包囲されて壊滅した。モンゴルの西進はここで止まった。バイバルスはその後もモンゴル軍に勝ち続け、マムルーク朝実質的建国者となった。
1267襄陽・樊城の戦いモンゴル帝国のクビライ・カンは、入念な準備の上で襄陽と樊城を大軍で包囲、長大な土塁を築いて封鎖した。南宋の主力軍十万が救援に向かったがモンゴルの水軍の前に完敗した。中東由来の新型投石機「回回砲」による攻撃が開始されると襄陽・樊城は為す術なく降伏した。この敗北は南宋の滅亡を決定付けた。
1346クレシーの戦いイングランドフランス百年戦争における初期の決戦。イングランド軍は斜面にV字に長弓部隊を並べ、中央に下馬騎士を置いた。フランス軍クロスボウは射程の違いで長弓に対抗できず、重装騎兵も敵軍を突破できずに惨敗した。その後、百年戦争の終盤まで、イングランドは同様の戦術で勝利を収めていった。
1363鄱陽湖の戦い中国・元末の群雄である朱元璋と陳友諒の戦いで、それぞれ数十万人規模の大船団同士が激突した。大型の艦を鎖で繋いでいた陳友諒軍は、朱元璋が特攻させた火船によって大炎上して敗北した。この勝利により優位を確立した朱元璋は後に明の建国者となる。三国志演義における赤壁の戦いの描写はこの戦いがモデルだという。
1402アンカラの戦いニコポリスの戦いで欧州連合軍に圧勝したイスラムオスマン帝国の「雷帝」バヤズィトと、モンゴルの後継を自称して大帝国を築いたティムールが激突した戦い。結果、オスマンが敗れてバヤズィトは捕虜となり、日の出の勢いだったオスマン一時的に衰退した。ティムールもこの戦いを最後に生涯不敗のまま亡くなった。
1410グルンヴァルトの戦いポーランドリトアニア連合軍ドイツ騎士団が戦った、中世最大とも言われる会戦。リトアニア軍の偽装撤退に誘い込まれたドイツ騎士団は、連合軍の反攻によって壊滅した。この勝利のあと、ポーランドリトアニアは欧州最強国として最盛期を迎える。現代では古戦場跡で行われる祭りが有名。
1420ヴィトコフの戦いヤン・ジシュカ率いるフス派と、それを鎮圧するために結成された10万の十字軍の戦い。フス派は包囲されプラハに立てこもったが、欧州で初めて銃を装備し、武装した荷車をつなげて砦とするなど、革新的な戦術を用いたジシュカの活躍で、十字軍は撤退に追い込まれた。以降もフス派は勝ち続けていくことになる。
1450フォルミニーの戦い他国に先駆けて常備軍を創設し、長弓より射程の長い大砲を活用するなどの軍政改革を行ったフランス元帥リッシュモンは、百年戦争で負け続けだったフランス軍を立て直してイングランド軍を撃破した。このフォルミニーでの勝利は、百年戦争におけるフランスの勝利と、そして以降のフランス軍事的優位を決定付けた。
1453コンスタンティノープルの陥落東ローマ帝国首都にして史上最強城塞都市と、それを包囲したオスマン帝国軍の戦い。「ウルバンの巨砲」「艦隊の山越え」といった大仕掛けにも耐えたコンスタンティノープルだったが、施錠を忘れていた通用口からオスマン軍に侵入され、あえなく陥落した。古代から続いたローマ帝国は中世と共に終わりを迎えた。
1503チェリニョーラの戦い二次イタリア戦争におけるスペインフランスの戦い。レコンキスタにおいて攻城戦の経験豊富だったスペイン軍指揮官ゴンサロは、野戦に攻城戦の技術を持ち込んだ。長槍兵と銃兵の陣形「テルシオ」と塹壕の組み合わせによって、フランスの重装騎兵を打ち破り、欧州に野戦築城の有効性を知らしめた。
1514チャルディラーンの戦いイスラムサファヴィー朝建国者スマーイール1世は神がかり的な戦争の天才だったが、対するオスマン帝国のセリム1世は鉄砲と大砲を大量に運用して、不敗の騎兵「クズルバシュ」をさんざんに打ち破った。初めての敗北を味わったイスマーイール1世は無気力となり、サファヴィー朝の拡大は停滞した。
1588アルマダの海戦黄金時代スペインイングランドが迎え撃った戦い。接舷攻撃を企図するスペインの大艦隊に対し、ドレイク率いるイングランド海軍はヒットアンドアウェイの砲撃戦で勝利した。以降、海戦の主役は白兵から大砲へと移っていく。スペイン没落の画期とも言われるが、実際にはスペインの優位はしばらく続いた。
1619サルフの戦い女真族を統一したヌルハチ率いる後金軍と、その討伐に差し向けられた明軍の戦い。圧倒的に数で優る明軍は、四手に分かれて後金を包囲しようとしたが、全く連携が取れておらず、ヌルハチの見事な内線作戦によって各個撃破された。後金はやがて清となり、明を滅ぼすことになる。
1631ブライテンフェルトの戦い三十年戦争に参戦したスウェーデン王グスタフ・アドルフと、ティリー伯率いる神聖ローマ帝国軍の戦い。グスタフ・アドルフは歩兵・騎兵・砲兵が緊密に連携する「三兵戦術」によって、神聖ローマ帝国軍のテルシオを完全に打ち破った。この三兵戦術が近代的な軍制の基礎となる。
1683二次ウィーン包囲オスマン帝国は15万の大軍をもってオーストリア首都ウィーンを包囲したが、要塞化された都市は容易に陥落しなかった。キリスト教諸勢力は連合して救援に向かい、特にポーランドが誇る有翼重騎兵「フサリア」3000騎の中央突破によって、オスマン軍は大敗した。オスマン帝国の衰退を決定付ける戦いとなった。
1704ブレンハイムの戦いスペイン継承戦争において、イングランドマールバラ公とオーストリアプリンツ・オイゲンの名コンビが、フランス軍を打ち破った戦い。開戦後、しばらくは一進一退が続いたが、マールバラ公はオイゲンと連携して粘り強く戦い、フランス軍の両翼を釘付けにした上で手薄になった敵中央を突破して撃破した。
1709ポルタヴァの戦い北欧の覇権を握ったスウェーデンをめぐる大北方戦争最大の決戦。スウェーデンの若き天才カール12世は、並み居る敵国を瞬く間に撃破し、残るロシアに攻め込んだが、寒さと焦土作戦により疲弊、ポルタヴァで大敗を喫した。カール12世はオスマン帝国に亡命し、スウェーデンの「大国時代」は終わりを迎えた。
1757ロイテンの戦い七年戦争プロイセンの「大王」フリードリヒ2世とオーストリア軍の戦い。斜めに行軍して敵の側面に回りこみ火力を集中させる「斜行戦術」により、プロイセンは倍する敵に勝利した。その後も、イギリス以外のすべての国を敵に回した状況で、フリードリヒ大王は粘り強く戦い抜き、七年戦争プロイセン優位に終わった。
1781ヨークタウンの戦いアメリカ独立戦争。チェサピーク湾の海戦でフランス海軍に敗れたことにより、ヨークタウンに篭もるイギリス軍に支援は届かず、彼らはアメリカ軍に包囲された。イギリス軍は幾度かの抵抗の後に降伏し、この戦いが事実上の終戦となった。勝利の立役者となった総司令官ワシントンは、のちに初代大統領に選ばれた。
1805トラファルガーの海戦欧州を支配し、イギリス本土へ侵攻せんとするナポレオンと、名提督ネルソン率いるイギリス海軍の戦い。敵列の側面に縦列で突入する「ネルソンタッチ」によりイギリスが勝利、ナポレオンの計画は頓挫した。勝利したネルソンは、しかし狙撃により重傷を負い、「私は義務を果たした」と言い残して亡くなった。
1805アウステルリッツの戦いフランス皇帝ナポレオンと、オーストリア皇帝・ロシア皇帝が戦ったために、「三帝会戦」の異名がある。ナポレオンの正確な洞察と完璧な機動により、数で劣るフランス軍が大勝利を収めた。あえて要地を明け渡し、機を見て奪回することで敵を分断する、その華麗な用兵は「戦争芸術」と讃えられた。
1819ボヤカの戦い南米を植民地とするスペイン軍と、それからの独立を目指すシモン・ボリバル率いる革命軍との戦い。わずか三時間で革命軍の勝利に終わったが、南アメリカ諸国の独立を決定づける重要な戦いとなった。敗れたスペインは彼らの独立を承認し、ボリバル大統領とした大コロンビアが誕生することになる。
1863ゲティスバーグの戦い「鉄道と電信の戦い」となったアメリカ南北戦争、最大の決戦。鉄道と街道が集まる要衝ゲティスバーグを巡り、偵察部隊の小競り合いが発生。増援を送りあって戦闘はみるみる拡大、両軍に多大な損害を出して終わった。国力に劣る南軍にとっては、より大きなダメージとなり、名将リーが計画した北部侵攻も頓挫した。
1870セダンの戦い国民皆兵制と鉄道による大規模かつ迅速な動員、参謀幕僚制と電信による戦略レベルでの分進合撃戦術により、参謀総長モルトケの指揮するプロイセン軍が、フランス皇帝ナポレオン3世と十万のフランス兵を捕虜とした戦い。これにより邪魔者を排除したプロイセンは、「鉄血宰相」ビスマルクのもとでドイツ統一を成し遂げる。
 
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