はてなキーワード: 番町とは
青はしばしば罪人の利用を意味する。
文春砲を被った松本は日生学園卒業だそうだが、高島屋下請工場は一般企業、歌舞伎の猿之助は伝統業界の人物、医者が殺人を「委託され」てした、法律無視で無実の敵を勾留中死亡させた司法職員、逃げ果せているのが多い(裏金自民の政治ぶり)。
一方、ケーキ崩れ事件は障害者雇用施設スワンベーカリーにはとんだとばっちり。
ところでリン酸塩はカルシウムの吸収を阻害するが、だからといってビタミンDサプリを取ると内臓蓄積のリスクがある。
三田ガーデンヒルズの80㎡を買いたいという夫婦が公認会計士に相談するスレッドを見ていた。
ちなみに、私は夫婦と子供一人の家族で、都内湾岸エリアのタワマンに住む公務員です。
相談者の夫婦の世帯年収は1500万円、ああ、正直話にならないわ、と思ったけど、案の定冷たくあしらわれていた。あそこの部屋は最低でも3億やからな。それじゃローンも通らないやろ。身の程を知ればよいと思った。(辛辣)
ほかにも、人生後悔したくないから、という理由で、銀行相手にローン通す方法教えろと言う輩がいたり、なんかいろいろだなあ、と。こんなに分をわきまえない人がたくさんいるんだな、とがっくりきた。
なんでこういう勘違い野郎が多いんだろうな。普通のサラリーマンなんかどんだけ背伸びしても買えない物件なんか、東京には腐る程あるねん。身をわきまえて湾岸タワマンでも買えばええやん。三田ガーデンやら番町やら広尾やら、そんなん、庶民が住む場所じゃないんだから。
世帯年収1500万?はあ、そりゃただの庶民ですわ。私らのような公務員のつがいでもそのくらいの世帯年収にはなるわ。そんなもんでよく三田や番町や広尾に住もうと思えるな。あまりにも世間を知らなすぎて逆に頭が下がる。それでよくアッパーミドルやなんて思えるな。節操なさすぎや。階級って知らんのか。
手が届きそうで届かないもの、に対する僻みならわかるけど、そもそも拝み見ることすら叶わないものに対して幻想を抱きすぎでしょ。東京で一番いい家を買いたいならそれだけの地位とポジションが伴わければならないことがなぜ理解できないのだろうか。ユーチューバーや億り人の成功譚に感化されすぎ。
なんかもう、最近こういうSNSに感化されちゃって自分でも億ションいけるんじゃね?系の人が増えてるのかなあ、と思うと、がっくりくるよね、いろいろと。
なんでそういう分をわきまえないのかなあ、と単純に不思議です。
以下のくだりが、とても印象的だった。
その時にわたしの出身地の名産が好きで、通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね、とさりげなく話題をそらしてくれた年配の男性がいた。
その人が後から「あの人、悪い人じゃないんだけどごめんね、自分も神戸出身でさ」と言われた。
恥ずかしい話、「神戸出身だから」と言われて私は何も分からなかった。
私は自分が地震と津波の被災者で、東北で育った私たちが一番の被災者で、今後数十年はわたしたちが一番のかわいそうな立場だという感覚を持っていた。
「なぜ急に神戸?」とポカンとして「はぁそうなんですか…」と雑に返した気がする。
その後、関東に戻ってしばらくしてから、何がきっかけか覚えていないがオウム真理教の話になったとき、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
ひとの災害経験というのは、ほんと様々で、一概にかわいそうな被害者としてのっぺらぼうな面をみるわけにはいかないよね。
自分だけが被害者面していたかも、という気づき。こういうちょっとワンクッションおいて、時間が経って考えること、こういうのが大切なんだと思う。
ただ、被害者という言葉で共通項を見出したとしても、阪神淡路大震災を経験したひとと、東日本大震災を経験した増田がこうして、何かのきっかけでお互いの体験の共通部分に触れようとしたときでさえ、お互いが経験したものの奥行や背景は全く違う。でもそれは、もっと言葉を交わさなければみえてこないもの。
多分、増田は上記の言葉を交わしたとき、その手前でふと立ち止まって考えたんだと思う。
ひるがえって自分の親戚の話。自分語りをトラバに混ぜるのはなんだかな、と思うところもあるが、テーマの性質上書かせてもらう。津波から数日後、東北のもっとも大きな漁港のひとつで、親戚が経営していた漁業関連会社と生産工場が全滅したとの一報を受けた。一方、杜の都に住む息子娘世代は全員無事だったという朗報にほっとしたことを思い出す。
しかし、それよりも震災から半年くらい経って、父が一言つぶやいた言葉のほうが忘れられなかった。
他界した親戚一家は、さかのぼると、昭和8年の津波の前から漁港で生計を営んでいた。1933年の津波で多くの財産を失った親戚は一から再建する際に、同じ場所でやり直すのはやめるべきだと再三にわたって、周囲から助言されていたという。しかし、結局、同じ場所で人生をやり直し、次世代が引き継ぎ、そして次第に事業規模が大きくなり、津波の記憶が遠ざかっていくなかで、そのまた次世代の方々が財を成し、地元の名士として羽振りよく、親族のなかで存在感を持つに至る。そんななかで、半世紀以上前、東京に出て行った東北の令嬢が結婚前の父と出会う。
大切な令嬢(大地主の長女)をどこの馬の骨ともわからないよその県の小作人の末っ子風情に嫁がせるわけにはいかない、という大反対の嵐。本家筋からなにから親戚中の冷たい目線。結局、結婚は許されて、父は母の家系に婿として入ることになるのだが、その時に受けた屈辱を忘れられないらしく、東日本大震災で全滅した親戚に対して、天罰、という言葉で自身のつらみを含ませて表現したのだった。
父にとっては、かわいそうだね、では決して片づけられない感情。
個人的には、なにより、貧しい者も栄華を誇った者も等しくなぎ倒した大津波の、客観的な、物理的な力に圧倒せざるを得なかった。
たとえ、誰と震災の経験の話をするとしても、このようなパーソナルヒストリーの違いによる温度差は避けることができない。そう思っている。
震災を経験していようがいまいが、あるいは同じく焼け出された隣人でも同じではない。大地震大津波の破壊力を前には、あの家は無事だった、無事でなかった、そういうさまざまな経験がそれぞれにあるにすぎない。
こうしたファミリーヒストリーな視点でそれぞれの思いがある一方で、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
という上司の言葉。そして、「やっと気づいた」という言葉。このつながり方は、大変興味深い。「あの年は~」というのは個々の経験の違いを超えた、歴史を振り返った俯瞰的な総括を含んでいるからだ。1995年という時代、そういったマクロな視点での気づきをもたらすのも災害だ。
そして、それが何かの理由で、自分自身のファミリーヒストリーや神戸出身者とのちょっとした会話と結びついたのだとすれば、それは自分のある意味「かわいそうな」私的な思いを、歴史の一コマのなかに着地させようとする、そういう覚醒だったのかもしれない。
実をいうと、よりマクロな視点で、それぞれの災害にはそれぞれの社会的な背景があり、その脆弱性が被害を増幅させている、という視点を最初に提起したのは、阪神淡路大震災だった。
1990年代以前は、災害被害者というのは、災害管理の文脈で救援対象として、比較的ステレオタイプに捉えられていた。しかし、その認識を大きく変え、都市の社会構造の脆弱性に関心が高まったきっかけが1995年の震災だった。こう書くとなにやら上から目線風だけど、阪神淡路大震災が自分が仕事として防災の世界に入るきっかけを作った。
神戸の都市としての成り立ちは、明治の初め、神戸港が開港された時から始まる。以降、港湾労働者が多く流入、低所得層が脆弱な埋め立て地や条件の悪い内陸部へ集住するようになる。他方で、20世紀の鉄道の時代に入ると、阪神間の交通網が充実し、六甲山ろくに高級住宅地が開発されるようになる。高度経済成長期には六甲の開発で切り崩した丘陵地に住宅地を建設、その残土で海岸が埋め立てられ、工場用地や港湾建設が進められていく。おりしも公害問題が深刻化した時代、都市の生活環境はますます深刻化していった。そんななか、オイルショックを契機に産業構造の転換という時代の変わり目を迎え、神戸の産業のシンボルであった造船、鉄鋼は停滞してゆく。それは関連する神戸の零細地場産業を苦境に陥らせ、今度は人口流出が起こり都市部の空洞化が始まった。都市部に残っているのは、流動性の低い層つまり高齢者、低所得者ばかりとなった(インナーシティの形成)。
これに対して1980年代、神戸市の政策的な対応としては、財政問題の打開が先行した。バブル前の当時の考え方では、大規模開発こそが地域経済の再生をもたらすと信じられていた。埋立地の利用による、ポートラインラド、六甲アイランド建設、物流機能強化のための明石大橋建設、最先端技術産業の誘致、ニュータウン建設など、新たな付加価値の創出が事態打開の切り札だった。
その一方、社会の脆弱層への支援、行政による市街地の再生は後手に回っていた。
オイルショック後の産業構造の転換で取り残された低賃金労働者の町、老朽化の進んだ木造住宅密集地域、長屋建ての住宅の占める割合の多い市街地(長田区のスラムのようなオールドタウン)は新陳代謝が進められなかった。地震対策の上でも洪水対策の面でも取り残された街となった。どのような地域であったかは番町地区で検索をしてほしい。
このような経済格差や脆弱性が生み出された、マクロな構造変動のなかで襲ったのが1995年の大地震であり、被害が社会経済的に脆弱な人々に集中した。暴力団員が懸命に救助活動していたエピソードを覚えている人もいるだろう。そういう街だった。
社会学的な視点でみれば、この地震の教訓として、被害が高齢者、低所得者に集中したのは、ある意味、歴史的必然だ。格差が生み出された背景などのマクロな政治的・経済的な動向と切り離せないということだ。
そして、このような格差や脆弱性という切り口でみる構造分析は先月発生したトルコとシリアの大地震でも、当てはめることができる。
このように、可哀そうな存在というのを社会学的に脆弱性として構造的にとらえる、ひとつのきっかけは、やはり他の災害を知るということであるし、昔の災害を知るということだと思う。
パーソナルヒストリーとしてお互いに触れあうことで、お互いに違うバックグラウンドにあることがうすうすわかってくる、それもまた、大切な気づきなのだと思う。
また、パーソナルなコミュニケーションが、例えばまさに「通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね」みたいな会話、これが実はマクロな特性を知るうえでも、その人のパーソナルヒストリーをしるうえでに、もっとも重要なエントリーポイントだったりする。仕事上、ひとから話を聞くときにいつも気に留めていることでもある。
だから、トルコとシリアで現在進行形の震災について全体状況を大きな視点理解している国際機関よりも、よりミクロな視点で、特定の家族や地域の人たちにコンタクトがとれる小規模のNGOや支援団体に私自身は微力ながら支援金を送付している。たまたまシリア難民支援をしている人と知り合いの知り合いくらいの関係でSNSでつながっていたのがきっかけだ。アサド政権が物資を止めてしまう現状も現地の声としてより関心を持つようになった。そのほうが確実に、受け取った人の顔がみえ、困っている状況がミクロにもマクロにもわかってくる。自分が支援したお金が支援先の一家族あたりの支援額(しかも第一バッチ)の1/4にも満たないことを知る。こういうことも大切だと思う。
そのように、何かをきっかけに、他の災害に対して接点を持つ機会を大切にしたい。
というのは、居酒屋のトイレの洗面所とかで何気なくかわす会話、とか想像していたのだけど、そういうのが大切だよね。そういうのが心の残って覚えている、ということがさ。もちろん完全にひとのことを理解するなんてことはどんなに会話を交わしてもない。でも覚えてさえいれば、そのなぜか覚えていた思いを何かにつなげることができる。その「きっかけ」というのはとても大切に思う。
災害を忘れない、というのはそういうことだと思うので。
ガソリン高騰の話になるとさ、
安いとこまで給油しに行くお得な話しが大好きなんだけど、
安くお得にって話しが好きって言うわけではなくて、
ガソリンを給油するためにガソリンを消費するってのが滑稽でって意味のね。
現代の創作落語にもありそうなガソリンって演目絶対あるわよね。
あの1円でも安い遠くのガソリンスタンドに給油しに行くって話しが大好きなのよ。
自分ではしないんだけどね。
だってさー、
遠くまで行く時間を考えたら、
燃料タンク60リットル入るとして1円2円差があってもせいぜい100円の差でさ
往復1時間以上かけて給油しに行くって話しがもう大好きすぎて
きっとエスエヌエスでいかに遠くまでいかに安いガソリンを給油しに行った自慢を探せば5万と出てくると思うんだけど、
往復の時間とそれに必要なガソリンを考えると瞬殺されちゃうわよね。
だけどよ、
だけど、
たぶん当の本人も気が付いてるはずだと思うのよ。
その落とし所として、
安いガソリンスタンドで給油しに行く!って言うのをもう趣味です!って
声高らかに言っちゃえば優勝なのよね。
ああそう言った趣味の人なんだーって思うと
創作落語として聞く分にはより一層面白さに華を添えてくれるのよ。
そう言った視点で見ると、
面白いなーって。
現代落語の1円安いガソリンスタンドって演目だれか作ってくれてもいいのに。
現代落語で番町皿屋敷のお菊さんがたいそう美人でお皿を数えて化けて出てくるのが大評判で人気が出すぎて
武道館の周りには出店とかたくさんでちゃって
そのぐらいまあ遠くのスタンドへガソリンを給油しに行くって話しはもう
その話を聞くのが大好きなのよね。
1円を馬鹿にするモノは1円になくなく泣くってバカにしているんじゃないのよ。
滑稽だって言ってるの。
私も一時期遠くのマーケットに安い品物を買いに行って考えて思ったことがあるんだけど、
まさにそれと同じで
近所の一番近いケンケンパの徒歩圏内で行けるマーケットで多少割高だけどそこで買うのが一番効率がいいってファイナルアンサーなのよね。
結果的に。
話が違ってくるので
ある程度大量に買うときは
そのバリューの安さが時を超え遥か彼方へ出向いてでも
得になっちゃう均衡点があるのよね。
くれぐれもお財布だけは忘れないようにしなくちゃ!ってことよ。
あれ?
これももしかして最終お財布を忘れちゃった!ってオチにすれば、
じわじわ思うんだけど、
ちょっと今度調べて聞いてみようかしら。
でも遠くに時間を掛けて1円安いガソリンを給油しに行く話しってもうちょっと揉めば絶対面白現代創作落語になるわよね。
きっと。
そう思うわ。
うふふ。
基本自分で後調合して
ブラックコーヒーにミルクをテレビシーエムのように同時に注ぐ手法で作ると美味しいわよ。
朝寒くて水が凍ってたわ。
外の水が氷になっててかかとでちょっとスケート出来るか出来ないかってぐらい。
半径で言うと5センチぐらいよね。
そのぐらい凍っていたわ。
そいで寒かったので、
朝の忙しいときに
お茶のパックがあれば
なにかと捗るわよ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
牛込御門内五番町にかつて「吉田屋敷」と呼ばれる屋敷があり、これがレッドスロープに移転して空き地になった跡に千姫サンの御殿が造られたという。それも空き地になった後、その一角に火付盗賊改・青山播磨守主膳サンの屋敷があった。ここにOkikuというゲジョガールが奉公していた。承応二年(1653年)正月二日、Okikuは主膳が大事にしていた皿十枚のうちのワンプレートをクラッシュ!!
「アイエエエエ!?」怒った奥方サンはOkikuをセップク勧めさせるが、主膳はそれでは手ぬるいとワンプレートの代わりにとOkikuのフィンガーをセップクさせ、手打ちにするといって一室に監禁してしまう。Okikuは縄付きのまま部屋を抜け出して裏のオールド井戸に身を投げた。まもなく夜ごとに井戸の底から「ワン……ツー……」とディッシュを数えるOkikuの声がエド中に響き渡り、身の毛もよだつスケアリーであった。
やがて奥方の産んだチルドレンには右の中指が無かった。やがてこの事件は公儀サンの耳にも入り、主膳は所領を没収された。
その後もなお屋敷内でプレートの数え声がコンティニューするというので、公儀は小石川伝通院サンの了誉上人サンに鎮魂の読経を依頼した。ある夜、上人サンが読経しているところに皿を数える声が「ええと……ないん……」、そこですかさず上人サンは「テン!」と付け加えると、Okikuの亡霊は「サンキューフォーエブリシング」と言って消え失せたという。
追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄や石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士のあいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。
「本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。
三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。
治部少は石田三成(1560生)のこと。
「島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。
関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。
「佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。
「白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。
大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。
「津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。
火災のときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所七不思議」として知られている。
「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。
明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。
亀山とは、現在の三重県亀山市にあった、東海道の亀山宿のこと。
「伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠・伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。
「京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。
坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。
祖父が江島生島事件の江島の弟だったため甲斐に流罪となり、南柯は甲斐で生まれて岩槻藩士の養子となった。
儒学を学んだ南柯は、藩の要職を歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。
「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。
改鋳されたものが現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。
「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。
本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。
「原宿の山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。
「延寿太夫」とは、歌舞伎の伴奏音楽として発展した浄瑠璃「清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。
「鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。
一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在の岩手県一関市にあたる。
「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別に許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。
「建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。
これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。
八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの。地名から「松江城」とも言う。
熊本藩の本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である。
その気兼ねもあったのか、城は未完成で放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年に落雷で消失した。
「乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明。
保土ヶ谷とは、現在の神奈川県横浜市にあった、東海道の程ヶ谷宿のこと。
「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿の本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。
「花見寿司」は程ヶ谷宿の名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。
挙母城は、三河・尾張・美濃・信濃・遠江・伊勢・近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。
「海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名家当主の名跡で、落語家のことではない。
「だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。
「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣は1827年に焼失している。
松平定信に「昌平坂学問所で朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。
京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。
川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。
「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。
「茶壺」とは、二代目藩主・京極高豊が好んで収集した、陶工・野々村仁清の茶壺のこと。
「多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀家当主の名跡。
三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在の広島県三原市のこと。
その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。
三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用を許可された「葵の御紋」。
日光東照宮の工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。
「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。
第六代安中藩主・板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。
「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。
「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。
「更科の蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。
「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。
「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。
森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、
更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、
蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、
同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。
奈良生まれの儒学者・森田節斎の言葉であり、高取とは現在の奈良県高取町にあたる高取藩のこと。
「山のお城」は高取城のこと。
日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。
「谷の昌平」とは、幕末の儒学者・谷三山(1802生)のこと。
若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。
新城は、現在の愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主が安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。
「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在は存在しない。
「太田白雪」(1661生)は、地元の名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。
「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。
「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家は土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。
下総は下総国のことで、現在の千葉県北部と茨城県西部のあたりを指す。
「久保木蟠龍」とは、儒学者の久保木清淵(1762生)のこと。
伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。
「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。
そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。
しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。
悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎の演目になっている。
「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。
「佐野の桜」とは、旗本・佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。
「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。
秋元とは、現在の埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。
「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。
「岩田彦助」(1658生)は、川越藩の家老を務めた儒学者のこと。
「河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。
「千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。
「不動並木」とは、谷田部藩主・細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。
「広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物。
「飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学の知識を得ていたとも。
徳山は、長州藩の支藩で、現在の山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。
「藩主墓所」は、徳山藩毛利家の菩提寺である聚福山大成寺にある歴代当主の墓所のこと。
「芸能人になるのでついてきてほしい」と言われて高校に行かなかった主人公。
二人で暮らす家賃を稼ぐため、必死にバイトをしていたが、バンドマンはマネージャーと良い仲。
坊ちゃんボンボンなバンドマンが一人暮らしなど出来るはずも無いため連れて来たというのがバレてしまう。
ブチギレた主人公が「芸能界デビューして見返してやる!」と息巻き、愛を失ってしまい憎しみだけが残った主人公が
絵柄で言えば、私も最初見る気は無かったのだけれど、1巻読んだら面白かった。
小林という名字をもつ人があと3人居て、仲良くなろうと奮闘する。
ムードメーカーな主人公が、過去のトラウマや個人のトラウマを解決していく物語。
青春場面もあるよ。
赤ちゃんが居るとどんな生活になるか、少し見えるものがある。最終巻あたりが泣ける。
素質はあるものの、魔法が下手な主人公。狼男でちょっとお馬鹿なリーヤ。ハゲを気にする、耳かき大好きなしいねちゃん(男)。
ギャグ要素強め。
三歳の子供がおばけを凄く怖がり、なおかつ大好きな様子でハロウィン商品を見ながら「ここにもおばけいるのよーお化けこわいのよー」とハイテンションなのを見て、ちょっくら怪談を聞かせたらどうなるだろうとイタズラ心で番町皿屋敷を聞かせてみた。
ムードを出して怖そうに語るだけで「やめるのー」と大変怖がっていた、お菊さんが殺されるシーンでは「ひっ」と体をびくつかせていた、怪談のしがいがありまくり。
そして遂にクライマックス。
「お皿が一枚二枚三枚四枚五枚六枚七枚八枚九枚ああああー」
と身ぶりを交え気分最高潮で語ったところで子供が手に何か持ってる形にして私に差し出してきた。
何かと思えば「はいお皿よ」と言ってきた。
やっと言わんとしてることが解ったので
「ありがとうお皿が十枚」