はてなキーワード: 低所得層とは
学生の感覚だと面白くて長持ちするゲームはいいのかもだけどさあ。
やっぱ社会人的には長くとも30時間ぐらいでそのゲームのエキスを吸い尽くしたいんだよね。
値段が1000円で1時間ぐらいで終わるワンアイデアゲーとかもいいよね。
ゲーム業界って学生やニートや低所得層もターゲットにしてるせいか「ボリュームがスゴイ!」「ずっと遊べる!」みたいなのが持て囃される部分があるじゃん?
でもそれって面白さを測る指標に遣っちゃ駄目だよなあと思うわけ。
長くプレイ出来てずっと楽しいゲームはあるんだろうけど、それでもやっぱボリュームに比例して中弛みはやっぱ大きくなるじゃん?
ベゼスターゲー(エルダースクロールやフォールアウト)とか特にそうじゃん。
めっちゃ面白い瞬間もあるけど、そこそこ楽しいからダラダラ続けてるけど何かこれダルいわ~~~みたいな時間も結構長いっていうか。
オススメされたゲームが短時間で終わるっていうのも、学生時代だったら「オススメされたからやったら10時間で終わった!フルプライスなのに!?お小遣いが貯まるまで勉強でもしてろってこと???」みたいになってたかもだけど、今はもう社会人だからさ。
社会人が社会人にゲームおすすめしてる時に「ボリュームが凄いんだぜ?」は貧乏臭すぎね―か?
子供が産まれて小遣い減って飲み会のことも考えたらケチケチしたいとかはあるのかも知れんがよ、それでもやっぱオススメ理由からプレイ時間は抜くべきだと思うわけよ。
端的に言うとさ、俺は「長く遊べる、ボリュームが凄いを理由に含めてのオススメ」が大嫌いなのよ。
全20巻の大人気シリーズ!とか言われてもドン引きしかないわけ。
そのうち半分ぐらいは一度火がついた人気からの惰性で、読者の多くはオチが気になるから我慢して読んでるだけじゃねーのかって思ってならないわけよ。
マジさ、ダラダラ引き伸ばしてるのを「たくさん楽しめる!」みたいに評価するならそうしてるってハッキリ言ってくれよ。
別に難しいことじゃない。低所得層に対する差別だよ。例えば「40歳非正規でスーパーで働いている人」を思い浮かべよう。
これが「女性」だったら別に何とも思われないけど、「男性」だった場合に、差別的な視線がないと言い切れる人はいないだろう。「絶対やばいやつだろ」から、「今まで何やってたの?」「将来は大丈夫なの?」まで、「まともじゃない人」という視線を浴びせまくる。結果として、自殺者や引きこもりも多くなる。
「男らしさの呪縛から抜け出すべき」などという連中が(とくにリベラルの側に多く)いるけど、これは本当に心底腹が立つ。縛り付けているのは世間や社会であるはずで、なんで差別されていることまで自己責任なんだよ。
「女性の生きづらさ」を否定したり相対化するために「男の生きづらさ」を持ち出す連中(いわゆるアンチフェミ)が多い。こういう連中は本当にクズだと思う。やめてほしい。
多産の家庭は大学を無償化、と言うアイデアが「少子化対策」として出てきたが、
https://digital.asahi.com/articles/ASRD67KLKRD6UTFL011.html
これは
といえるので、最低でももう少し工夫をしてくれという話をする。
簡単に言えば、少子化の主因を捉えていないから、少子化対策にならない。
これは繰り返し言われてきたが、少子化の主要因は、非婚化と言われている(注1)
詳しくは注記に文献を上げておくので見てほしいが、簡単に言うと
と言う状況があるためだ。
結婚した夫婦がもうける子どもの数は微減状態にはあるが、そこに合計特殊出生率の変化のグラフと、婚姻率のグラフを重ねてみてほしい。そうすれば一目瞭然で「結婚した夫婦も減ってるじゃ無いか」という抗弁は枝葉であり、全くマトを得てない事が分かると思う。
結婚しない人を結婚させるより、3人目を諦める人を支援した方が良いと言う事実はない事も既に研究で明らかになっている。確かに理想の人数の子の数を諦めた理由という調査では、その理由に経済を上げる人が多いが、統計で分析すると
要するにまともに取り組むなら晩婚化の対策が必要だと言うことになるが、政治的にタブーでありこの路線はほぼ無理だと思われる。
もちろん、ミクロで金銭的理由を子どもをもうけない理由に挙げている人がいるかぎり、それをフォローする事は重要ではある。また経済対策として子育て支援は効率が良い施策なのでやるべきではあるのだが、これを有効な少子化対策として捉えられてしまっても困る。
子育て支援は少子化対策としては有効ではないと言うことをとにかく認識してほしい。
よく「子育て支援・少子化対策」と並べる人がいるが、この二つは似て非なるものである。少子化対策とは別に考えるべきだ。
まず、前提の事実を並べる
最新の統計はコロナ禍の影響があるとは言え、再配分が間に合っていない状況である。
その中で、最近は所得制限なしに給付を行うのがはやり始めている。高所得者層にはそれほど大きな金額ではいのかもしれないが、負担率という形でみると低所得者層ほどインパクトが大きいので、所得制限無しの上に、低所得者層に給付対象者が少ない助成金などをやったりすると、一気に格差が広がる。
つまり、言い方はあるにせよ
と言う事で、現在の状況をより補強し、子育て支援は本質的に少子化対策としては問題が多い。
特定の部分をターゲットにして単純に補助金を作ると、産業が補助金に対して最適化するので、全体として金額が上がって非効率になる。例えば、ネットで買うと5000円、地元で買うと8000円だが、1/2補助の地域振興券がつくので地元で買う、と言うような現象だ。この構造から、一見すると消費者に対する補助の様に見えるが、実際には店側の方への補助金としての性質が強い。
また、最近問題になっているのが、出産一時金である。出産一時金をはじめとして、出産に関する各種の補助は強化されて金額が増えているが、結果どうなったかと言うと、病院がそれに合わせて、出産費用を値上げをした。出産に関わる費用が上昇しているのである。
妊娠出産は自由診療であり、病院は自由に価格設定ができるためだ。結局、出産する人たちへの負担軽減には効果が限定的であるというばかりか、効果の怪しい代替治療のような者まで出ている。これを受けて政府は、出産を保険診療のように、標準報酬のようなものを定めようとしている。
これらから、何も考えずに補助を作ると、大学にも同じ現象が発生する。授業料分は補助が出るだろうが、全体としては助成金を充てにして値上げが行われるだろう。結果、補助の大部分は大学への補助として作用し、実際に支援したい子育て世帯への恩恵はわずかになる。
ではどうするかというと、補助をする対象を個人では無く、大学に支払うようにするべきだということだ。何故かと言うと、個人に給付するときに個人に条件を付けるのは難しいが、大学に条件を付けることは容易だからである。
例えば、便乗値上げをしない事、上限金額を決めた上で「追加で対象の学生から授業料を徴収しないこと」といったはどめをかけて、条件に合致する大学にだけ対応させるといった処置である。
再掲するが、せめて
が必要だ。
ばらまきはある程度民主主義のコストであるので、人気取りで分かりやすい施策をやろうとするのは、まぁ仕方が無いと思う。
ただ、それで「やった感」だけを醸し出して、あるいは、有限の予算の中で優先度を間違えて支出された予算になってしまって、本質的な対策が行われないがまずい。
政治的に
みたいなことを堂々といったら炎上するだけで難しいのはわかる。例えば、子育て支援は所得制限無し無制限が支持される一方で、自治体が頑張って結婚相談所を作っても参加補助どころか無料も無理で、実費請求されるところがほとんどだ。これは有権者の支持が得られないというところであろう。
が、もうこれを上手くオブラートに包んで実行していくほかにないのでは無いと思われる。
子育て支援をするなと行っているのでは無い。子育て支援はやるべきだ。しかし、子育て支援は少子化対策にならないのを直視して、少子化対策は別枠でちゃんとやってくれと言う事である。
https://twitter.com/kazzuaki/status/1681307788864258049
①累進性が壊れてる最大の理由は分離課税+軽減税率の合わせ技。資本軽課=租税支出=補助金によって経済成長を実現できるとした時代があった(2000年代前半)。貧乏人に金を渡すとすぐに消費してしまう。リテラシーが低いので、投資といっても貯蓄に回してしまう。しかし、これからの時代は株式や金融派生商品の時代だ。直接投資を増やさないと経済成長しない。だから金持ちを優遇すれば 彼らは所得の割に消費しきれないわけだから、その余った金を貪欲に直接投資に回すはずだ。そうすれば経済成長する。貧乏人は誰も助けてくれないとなれば一生懸命働くだろう。この合わせ技で経済成長すれば貧乏人だっておこぼれに預かれる。金融立国、聖域なき構造改革とはこのことだ。
②日本の所得税がスカスカになってる理由は所得控除。特に給与所得控除と公的年金等控除がでかいが、これは減税額によってサラリーマンと自営業者(青色申告)と年金受給者との負担を調整してきた結果。所得控除の仕組みが高所得者減税になっていて、低所得層に恩恵がない形だったのは勤労を重視していた(小熊/井手)から、というのが通説だろう。
③福祉国家を維持するための財源として他の制度が重要であったこと。日本の社会保障の中心は社会保険(ビスマルク型社会保障)。社会保険料の負担の特徴は再分配を効かさないこと。リスクに応じた負担(民間保険)よりは定額保険料の方が社会的であるし、定額保険料よりは定額から所得に応じて負担が減少してゆく擬似比例負担の方が社会的。この社会保険の共助的公平性が日本の公平感の基礎にあり、それが諸税の女王たる所得税の地位を低いものとした。社会保険料控除も大きいし。そこに付加価値税が登場することになる。付加価値税に触れ始めるとこれはこれで長いが、直間比率を間接税に寄せた方が経済成長する(2度目の登場だが言説としてはこっちが古い)、高齢者の負担(年金所得を控除しといてなので減税スパイラル)が不当に小さい、などといった理由で所得税より付加価値税が好まれた。欧州的には輸入品に課税できるということ、輸出品に課税しない(租税支出=補助金)ということで、経済のグローバル化に対応した税だということだったはずだが。福祉国家の充実には、この新しい税制である付加価値税が鍵なんだと(事後的にではあるが)評価され、所得税へと注目が集まらなくなっていった。
この辺りの再分配の不味さに対して専門家はずっと苦言を呈してきたが、社会/政治的な支持は減税/増税阻止で安定してきたので、金持ち減税/勤労(プロテスタンティズムとは違った意味で)を重視する租税制度が出来上がって今に至る。ここにメスをれようてして失敗したのが新しい資本主義ね。
一ヶ月ほど前、以下のようなタイトルで少子化対策の記事を挙げたのだが、特に注目されることもなく流れてしまった。
https://anond.hatelabo.jp/20230605005221
ただ、政策としてそれなりに自信があったので、5chなどで少子化のスレッドを見つけると
何度か「出産したら子供一人に付き1000万円給付しろ」というレスを書き込んだ。
そしたらそれなりにレスが返ってきたので、そこで得られた反応をもとにまた記事を書いてみようと思った。
岸田政権はじめ、歴代の政権が打ち出してきた少子化対策の多くは子育て支援がメインであったが
これではすでに結婚し、子供を育てる余裕のあるパワーカップルを支援するだけの政策ではないかとの指摘が多い。
だが、出産したら報酬を与える、という仕組みであれば中絶をある程度抑止することができるし、金目当ての出産、結婚を増加させることができる。
世の中、将来の予定や緻密なライフプランに基づいて生きている人間ばかりではない。目先の金につられて行動してしまう人はかなりの数存在する。
では、実際の反応とそれに対する筆者の考えを述べていく。
という声が複数あった。目先の金に釣られた貧困層が子供を産むことでストリートチルドレンの増加、それに伴う犯罪率の増加を不安視する人は多い。
チャウシェスク政権は少子化対策のために、コンドームの販売や中絶手術を禁止した結果、出生率が3.66まで向上したのだが
結果として育児放棄され、満足に教育を受けられない孤児が増加したとされている。
近代国家で劇的に出生率が改善した例としてはほとんど唯一といっていい政策であるが、批判的に語られることが多い。
だが、それで今のルーマニアが他の東欧圏より治安が悪い国、発展の遅れている国になったかと言うとそういうわけでもない。
最も治安の良い国ランキング2022では31位(移民の多いアメリカやイギリスやフランスよりも遥かに良い)であり、経済的にも東欧圏のなかで格別悪いということもない(一人あたりGDPは60位)。
「チャウシェスクの子どもたち」は悲惨な少年時代を送ったかもしれないが、多くはのちに社会人となり、労働力としてルーマニアの経済を支えているわけだ。
チャウシェスクの少子化対策は映画をはじめとしたプロパガンダによって、単純に「失敗例」として片付けられているが、社会の安定性や持続性を致命的に揺るがすほどの愚策ではなかった。
もちろん、人権を無視した政策であり、親にとっても子供にとっても苦痛を伴うものであった事実は否めないので、その点では批判に値する。
ただし、低所得層の子供や親のない子が増えても移民を増やすよりはよっぽどマシな社会になるのではないか、という参考にはなるだろう。
また、ルーマニアのケースは避妊や中絶を禁止しただけであり、出産した子供やその家庭に対するケアは殆どなされなかった。
1000万円の出産報酬金と既存の子ども手当、養護施設の拡充でルーマニアのような状況はだいぶセーブできると考えられる。
国家政策としてはあまり完成度の高い人間を求めすぎても益がない。
完成度の高い日本人を求めるあまり少子化して、新興国出身の移民に日本社会が蹂躙されては本末転倒である。
貧乏、低学歴な日本人が増えることによる治安の悪化よりも、移民が増えることによる社会不安のほうがはるかに危険であることは
また、不良児童の増加には教員の権限強化も視野に入れるべきであろう。
学校への監視カメラの設置、いじめ加害者の出席停止や刑事事件化など速やかに行えるようにすべきである。
出産報酬金目当ての授かり婚やシングルマザーが増えればそれにつられてそうした人々の価値観も徐々に変わるだろう。
底辺層へ金が回ることにより、景気が良くなり、中流階級が分厚くなり、成婚率があがることも期待できる。
また、徹底するなら学校教育に恋愛の授業を取り入れても良いかもしれない。
「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」のもと、日本の社会保障にフリーライドする外国人の問題については
現在でも様々な条件が設けられていて、保険のタダ乗りもそれなりにハードルが高い。
出産報酬金の運用についてもビザの発給条件を厳しくする、制度設計段階で過剰に外国人につけこまれないようにする、などできることは多いだろう。
ChatGPT4くんに色々聞いてみた
例
・極度の貧困国の低所得層の人々は、1日あたり1000キロカロリー以下の摂取量を持つことがあります。このような低カロリー摂取は、栄養失調、免疫力の低下、成長障害、学習能力の低下、労働生産性の低下など、さまざまな健康問題や社会問題を引き起こします。
・世界保健機関(WHO)によると、極度の飢餓状態の人々は、1日あたり約400キロカロリー以下の摂取が報告されていることがあります
・日本の第二次世界大戦後期の苦しい時期、特に1944年から1945年、日本政府は配給制度を導入し、一般市民に対して食料を配分していました。
1944年当時の主食である米の1日あたりの配給量は、おおよそ300グラムでした。これにより、大人1人あたりの摂取カロリーは、おおよそ1,500キロカロリー程度だったと推定されています。(300gは2合でカロリーでいうと1100kcalくらい)
以下のくだりが、とても印象的だった。
その時にわたしの出身地の名産が好きで、通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね、とさりげなく話題をそらしてくれた年配の男性がいた。
その人が後から「あの人、悪い人じゃないんだけどごめんね、自分も神戸出身でさ」と言われた。
恥ずかしい話、「神戸出身だから」と言われて私は何も分からなかった。
私は自分が地震と津波の被災者で、東北で育った私たちが一番の被災者で、今後数十年はわたしたちが一番のかわいそうな立場だという感覚を持っていた。
「なぜ急に神戸?」とポカンとして「はぁそうなんですか…」と雑に返した気がする。
その後、関東に戻ってしばらくしてから、何がきっかけか覚えていないがオウム真理教の話になったとき、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
ひとの災害経験というのは、ほんと様々で、一概にかわいそうな被害者としてのっぺらぼうな面をみるわけにはいかないよね。
自分だけが被害者面していたかも、という気づき。こういうちょっとワンクッションおいて、時間が経って考えること、こういうのが大切なんだと思う。
ただ、被害者という言葉で共通項を見出したとしても、阪神淡路大震災を経験したひとと、東日本大震災を経験した増田がこうして、何かのきっかけでお互いの体験の共通部分に触れようとしたときでさえ、お互いが経験したものの奥行や背景は全く違う。でもそれは、もっと言葉を交わさなければみえてこないもの。
多分、増田は上記の言葉を交わしたとき、その手前でふと立ち止まって考えたんだと思う。
ひるがえって自分の親戚の話。自分語りをトラバに混ぜるのはなんだかな、と思うところもあるが、テーマの性質上書かせてもらう。津波から数日後、東北のもっとも大きな漁港のひとつで、親戚が経営していた漁業関連会社と生産工場が全滅したとの一報を受けた。一方、杜の都に住む息子娘世代は全員無事だったという朗報にほっとしたことを思い出す。
しかし、それよりも震災から半年くらい経って、父が一言つぶやいた言葉のほうが忘れられなかった。
他界した親戚一家は、さかのぼると、昭和8年の津波の前から漁港で生計を営んでいた。1933年の津波で多くの財産を失った親戚は一から再建する際に、同じ場所でやり直すのはやめるべきだと再三にわたって、周囲から助言されていたという。しかし、結局、同じ場所で人生をやり直し、次世代が引き継ぎ、そして次第に事業規模が大きくなり、津波の記憶が遠ざかっていくなかで、そのまた次世代の方々が財を成し、地元の名士として羽振りよく、親族のなかで存在感を持つに至る。そんななかで、半世紀以上前、東京に出て行った東北の令嬢が結婚前の父と出会う。
大切な令嬢(大地主の長女)をどこの馬の骨ともわからないよその県の小作人の末っ子風情に嫁がせるわけにはいかない、という大反対の嵐。本家筋からなにから親戚中の冷たい目線。結局、結婚は許されて、父は母の家系に婿として入ることになるのだが、その時に受けた屈辱を忘れられないらしく、東日本大震災で全滅した親戚に対して、天罰、という言葉で自身のつらみを含ませて表現したのだった。
父にとっては、かわいそうだね、では決して片づけられない感情。
個人的には、なにより、貧しい者も栄華を誇った者も等しくなぎ倒した大津波の、客観的な、物理的な力に圧倒せざるを得なかった。
たとえ、誰と震災の経験の話をするとしても、このようなパーソナルヒストリーの違いによる温度差は避けることができない。そう思っている。
震災を経験していようがいまいが、あるいは同じく焼け出された隣人でも同じではない。大地震大津波の破壊力を前には、あの家は無事だった、無事でなかった、そういうさまざまな経験がそれぞれにあるにすぎない。
こうしたファミリーヒストリーな視点でそれぞれの思いがある一方で、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
という上司の言葉。そして、「やっと気づいた」という言葉。このつながり方は、大変興味深い。「あの年は~」というのは個々の経験の違いを超えた、歴史を振り返った俯瞰的な総括を含んでいるからだ。1995年という時代、そういったマクロな視点での気づきをもたらすのも災害だ。
そして、それが何かの理由で、自分自身のファミリーヒストリーや神戸出身者とのちょっとした会話と結びついたのだとすれば、それは自分のある意味「かわいそうな」私的な思いを、歴史の一コマのなかに着地させようとする、そういう覚醒だったのかもしれない。
実をいうと、よりマクロな視点で、それぞれの災害にはそれぞれの社会的な背景があり、その脆弱性が被害を増幅させている、という視点を最初に提起したのは、阪神淡路大震災だった。
1990年代以前は、災害被害者というのは、災害管理の文脈で救援対象として、比較的ステレオタイプに捉えられていた。しかし、その認識を大きく変え、都市の社会構造の脆弱性に関心が高まったきっかけが1995年の震災だった。こう書くとなにやら上から目線風だけど、阪神淡路大震災が自分が仕事として防災の世界に入るきっかけを作った。
神戸の都市としての成り立ちは、明治の初め、神戸港が開港された時から始まる。以降、港湾労働者が多く流入、低所得層が脆弱な埋め立て地や条件の悪い内陸部へ集住するようになる。他方で、20世紀の鉄道の時代に入ると、阪神間の交通網が充実し、六甲山ろくに高級住宅地が開発されるようになる。高度経済成長期には六甲の開発で切り崩した丘陵地に住宅地を建設、その残土で海岸が埋め立てられ、工場用地や港湾建設が進められていく。おりしも公害問題が深刻化した時代、都市の生活環境はますます深刻化していった。そんななか、オイルショックを契機に産業構造の転換という時代の変わり目を迎え、神戸の産業のシンボルであった造船、鉄鋼は停滞してゆく。それは関連する神戸の零細地場産業を苦境に陥らせ、今度は人口流出が起こり都市部の空洞化が始まった。都市部に残っているのは、流動性の低い層つまり高齢者、低所得者ばかりとなった(インナーシティの形成)。
これに対して1980年代、神戸市の政策的な対応としては、財政問題の打開が先行した。バブル前の当時の考え方では、大規模開発こそが地域経済の再生をもたらすと信じられていた。埋立地の利用による、ポートラインラド、六甲アイランド建設、物流機能強化のための明石大橋建設、最先端技術産業の誘致、ニュータウン建設など、新たな付加価値の創出が事態打開の切り札だった。
その一方、社会の脆弱層への支援、行政による市街地の再生は後手に回っていた。
オイルショック後の産業構造の転換で取り残された低賃金労働者の町、老朽化の進んだ木造住宅密集地域、長屋建ての住宅の占める割合の多い市街地(長田区のスラムのようなオールドタウン)は新陳代謝が進められなかった。地震対策の上でも洪水対策の面でも取り残された街となった。どのような地域であったかは番町地区で検索をしてほしい。
このような経済格差や脆弱性が生み出された、マクロな構造変動のなかで襲ったのが1995年の大地震であり、被害が社会経済的に脆弱な人々に集中した。暴力団員が懸命に救助活動していたエピソードを覚えている人もいるだろう。そういう街だった。
社会学的な視点でみれば、この地震の教訓として、被害が高齢者、低所得者に集中したのは、ある意味、歴史的必然だ。格差が生み出された背景などのマクロな政治的・経済的な動向と切り離せないということだ。
そして、このような格差や脆弱性という切り口でみる構造分析は先月発生したトルコとシリアの大地震でも、当てはめることができる。
このように、可哀そうな存在というのを社会学的に脆弱性として構造的にとらえる、ひとつのきっかけは、やはり他の災害を知るということであるし、昔の災害を知るということだと思う。
パーソナルヒストリーとしてお互いに触れあうことで、お互いに違うバックグラウンドにあることがうすうすわかってくる、それもまた、大切な気づきなのだと思う。
また、パーソナルなコミュニケーションが、例えばまさに「通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね」みたいな会話、これが実はマクロな特性を知るうえでも、その人のパーソナルヒストリーをしるうえでに、もっとも重要なエントリーポイントだったりする。仕事上、ひとから話を聞くときにいつも気に留めていることでもある。
だから、トルコとシリアで現在進行形の震災について全体状況を大きな視点理解している国際機関よりも、よりミクロな視点で、特定の家族や地域の人たちにコンタクトがとれる小規模のNGOや支援団体に私自身は微力ながら支援金を送付している。たまたまシリア難民支援をしている人と知り合いの知り合いくらいの関係でSNSでつながっていたのがきっかけだ。アサド政権が物資を止めてしまう現状も現地の声としてより関心を持つようになった。そのほうが確実に、受け取った人の顔がみえ、困っている状況がミクロにもマクロにもわかってくる。自分が支援したお金が支援先の一家族あたりの支援額(しかも第一バッチ)の1/4にも満たないことを知る。こういうことも大切だと思う。
そのように、何かをきっかけに、他の災害に対して接点を持つ機会を大切にしたい。
というのは、居酒屋のトイレの洗面所とかで何気なくかわす会話、とか想像していたのだけど、そういうのが大切だよね。そういうのが心の残って覚えている、ということがさ。もちろん完全にひとのことを理解するなんてことはどんなに会話を交わしてもない。でも覚えてさえいれば、そのなぜか覚えていた思いを何かにつなげることができる。その「きっかけ」というのはとても大切に思う。
災害を忘れない、というのはそういうことだと思うので。