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2019-06-12

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ひさかたぶりに土岐市美濃陶磁歴史館に行ってまいりましたわ

第一展示室では、古田織部お手製と伝わる茶杓が展示されていましたの

へうげもので見た気がしまわ!

中心に竹の節をもってくる茶杓利休以来の流行りだったらしいので

区別がつかないだけかもしれませんわ

くたりと中心で折れ曲がった美濃伊賀水指はどう見ても失敗品でしたわ!

「だがそこがいい!ゲヒヒッ」なのでしょうか

第二展示室では東美濃縄文土器展が開かれていました

順路の最後に石棒をもってこられると、そのことしか記憶に残りません

いけませんわ!いけませんわ!

2019-05-17

芸人で生き抜く難しさ

フースーヤ全然見なくなったなあ、そう思った。

新しい波24」って誰が出てたんだっけ、とも思って検索してみた。

カミナリ竹内まなぶ石田たくみ

霜降り明星粗品せいや

ハナコ菊田竜大秋山寛貴岡部大

ゆりやんレトリィバァ

四千頭身都築拓紀後藤拓実石橋遼大

このあたりは順調にテレビで見る。

ロングコートダディ(堂前透・兎)

さや香新山士彦石井誠一

ここは関西圏だと、割と見かける。

大自然白井・里)

え?のぶひろとロジャー改名してる?そうなの?

バッドナイスバッドナイス常田・内田英輔

解散してた。ツッコミ内田のほうが引退だって

一月に水曜日のダウンタウン母親ネタで出演してた一週間後くらいに解散だって

嵐の解散報道と同じ日だったか話題にならなかったのか。

はなしょー杵渕はな山田しょうこ

吉住

バビロン太田圭介・ノリ・千葉恵)

ここらへんは関東圏では出てそう。

吉住は個人的おもしろいと思ってる。

アメリカンコミックス飯島翔平・鈴木祐介)

こゝろ荒木誠也・山出谷怜門)

さすらいラビー宇野慎太郎中田和伸)

フースーヤ田中ショータイム谷口

ブラゴーリ(塚田鈴木大介)

フレンチぶる(加瀬部駿介・大西翔)

ブリキカラス黒田和基・小林メロディ

ペコリーノ植木おでんクロコダイル ミユ)

マイペース田口秋光・相馬拓斗)

マジメニマフィン知念アマン・ちばけん)

電氣ブラン田井宏明・藤村泰平)

絶対アイシテルズ(らぶおじさん・楠見大輔)

アックスボンバー中村元気矢野レノン

ハリード(八木健太八木和也

やんちゃキャラ」がこころだっけか。

その他「坊っちゃんネタ」やってたコンビとか、

まったく受け入れられなくて全カットコンビかい記憶しか残ってない。

こんなに出ていたのね。

関西ローカル関東番組とでは毛色がまったく違うんだろうな。

今、関西でよく見るのはバツウケテイナー筆頭にこのあたり。

アキナ山名秋山

和牛水田川西

アインシュタイン稲田河合

藤崎マーケット(田崎・トキ

千原ジュニアの「座王」は関西メンバーに時々関東芸人も出演してる。

笑い飯西田が【鬼】と呼ばれるほどの強さを示してる。化けた。

ロングコートダディの堂前がんばってる。

ytv漫才新人賞出場コンビこちら。

からし蓮根たくろうネイビーズアフロセルライトスパ紅しょうが、こうてい

たくろうおもしろいね

セルライトスパ大須賀R-1決勝までいってる。

こうていのズイィーヤのギャグをやるほうが顎の手術してたのとか知らなかったわ。

プリマ旦那が、令和なんたらかんたらに改名したり、

学天即美術教師ぽいほうがいろいろ改名したりもどしたり。

漫才新人賞出演者一覧を見てたら、いろいろ思い出す。

2015年以降。

吉田たちマルセイユアイロンヘッド祇園タナからイケダ

コマンダンテヘンダーソン見取り図ニッポンの社長マユリカ

見取り図祇園はよく見かける。

関西でもあんまりネタ番組やってないから、舞台に行けばみんな頑張ってるんだろうなあ。

スマイル蛙亭ツートライブとかもいるな。

アキナの【吉本超合金A】に出てて東京進出したおいでやす小田

Wの決勝戦にも出演してた紅しょうがが先日夕方ニュース番組バラエティ?にロケ芸人に出てて、

いい感じに無毒化されてて、そういう役割で出演できるのも道よなあ、って思った。

古くは【10カラット】【ゲンセキ】で見かけた芸人検索してみたら解散したり引退してたり。

2005年ですって。14年前ですよ。

ハリセンボンとかプラスマイナス上木総合研究所U字工事イワイガワマチココンマニセンチ

オリエンタルラジオトップリードアームストロングが出てたなあ。

ジャルジャルも出てたんだっけか。

爆笑オンエアバトル】はあんまり見てなかった。

爆笑BOOING】見てた。

あと、あれあれ。

芸人たちがVTRを撮ってきて作って発表しておもしろかった上位五組とかだけ放映されるやつ。

すんげーベストテン?そんなタイトルだっけ?

検索したら懐かしいコンビ名ぼろぼろおった。

ビリジアンとか小籔が生き残ってるんな。

高僧野々村とか美濃長岡とかな!

水玉れっぷう隊ケン吉本坂46に選出されてるよな。すごいな。

火花】じゃないけど、おもしろくても生き残れない人生とか考えたら恐ろしいな。

ハライチ岩井じゃないけどバラエティ風で生き残っていくという選択肢すら選ばされないまま

スタート地点にすら立てないのは大変だ。

そうか。バットナイス内田引退かー。

2019-03-08

「過ぎたるものが二つあり」集

家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八

「唐の頭」とは唐物中国製)の珍しい兜のこと。

追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。実は三河武士あいだでやたらと流行っていて十人いたら七・八人は唐の頭をつけていたと言われており、というのも唐の頭を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。

本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。

三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。

家康に過ぎたるものが」はその活躍を称賛した落首である

治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近佐和山の城

治部少は石田三成(1560生)のこと。

島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。

関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。

佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。

駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠

富士のお山」とはもちろん富士山のこと。

白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。

大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。

本所に過ぎたるものが二つあり 津軽屋敷に炭屋塩原

本所とは東京都墨田区地名

津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。

火災ときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所不思議」として知られている。

「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。

明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。

亀山に過ぎたるものが二つあり 伊勢屋蘇鉄に京口御門

亀山とは、現在三重県亀山市にあった、東海道亀山宿のこと。

伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。

現在亀山市の文化会館移植されている。

京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。

坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。

岩槻に過ぎたるものが二つあり 児玉南珂と時の鐘

岩槻藩は埼玉県さいたま市にあった小藩。

児玉南珂」(1746生)は高名な儒学者

祖父江島生島事件江島の弟だったため甲斐流罪となり、南柯は甲斐で生まれ岩槻藩士養子となった。

儒学を学んだ南柯は、藩の要職歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。

「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。

改鋳されたもの現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。

青山に過ぎたるものが二つあり 鳶の薬缶に原宿山車

青山東京都港区の地名

「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。

本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。

原宿山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。

都座に過ぎたるものが二つあり 延寿太夫鶴屋南北

都座とは江戸にあった歌舞伎劇場の一つ。

「延寿太夫」とは、歌舞伎伴奏音楽として発展した浄瑠璃清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。

鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。

一ノ関に過ぎたるものが二つあり 時の太鼓建部清庵

一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在岩手県一関市にあたる。

「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。

建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。

八代に過ぎたるものが二つあり 天守屋根乞食の松

これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。

八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの地名から松江城」とも言う。

熊本藩本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である

その気兼ねもあったのか、城は未完成放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年落雷消失した。

乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明

保土ヶ谷に過ぎたるものが二つあり 苅部清兵衛に花見寿司

保土ヶ谷とは、現在神奈川県横浜市にあった、東海道程ヶ谷宿のこと。

「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。

花見寿司」は程ヶ谷宿名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。

挙母には過ぎたる物が二つあり 大手御門に海老名三平

挙母とは、現在愛知県豊田市にあった小藩のこと。

挙母城は、三河尾張美濃信濃遠江伊勢近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。

海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名当主名跡で、落語家のことではない。

岸和田に過ぎたるものが二つあり だんじり祭りに千亀利のお城

岸和田とは、現在大阪府岸和田市にあたる岸和田藩のこと。

だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。

「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣1827年に焼失している。

鴨方に過ぎたるものが三つあり 拙斎 索我 宮の石橋

鴨方藩は備中の小藩で、現在岡山県浅口市にあたる。

「拙斎」とは、儒学者西山拙斎(1735生)のこと。

松平定信に「昌平坂学問所朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。

「索我」とは、絵師田中索我(1742生)のこと。

京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。

「宮の石橋」とは、鴨神社参道にある石橋のこと。

川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。

京極に過ぎたるものが三つあり にっかり茶壺に多賀越中

京極とは、讃岐丸亀藩主の京極家のこと。

「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。

「茶壺」とは、二代目藩主京極高豊が好んで収集した、陶工野々村仁清の茶壺のこと。

多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀当主名跡

三原には過ぎたるものが三つあり

三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在広島県三原市のこと。

その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。

三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用許可された「葵の御紋」。

日光東照宮工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。

安中に過ぎたるものが三つあり

安中とは、現在群馬県安中市にあたる安中藩のこと。

「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。

現在も名所とされる「安中杉並木」。

第六代安中藩主板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。

桜田に過ぎたるものが二つあり 火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛

桜田東京麻布のあたり。

「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。

箕輪の重兵衛」は桜田町の名主を代々務めたという家の名跡

永坂に過ぎたるものが二つあり 岡の桜と更科蕎麦

永坂は現在東京麻布永坂町のこと。

「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。

更科蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。

保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森要蔵

保科とは上総国飯野藩主の保科家のこと。

「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。

「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。

この飯野藩保科家の江戸屋敷麻布網代にあった。

森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、

更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、

蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、

同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。

高取に過ぎたるものが二つあり 山のお城に谷の昌平

奈良まれ儒学者森田節斎の言葉であり、高取とは現在奈良高取町にあたる高取藩のこと。

「山のお城」は高取城のこと。

日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。

「谷の昌平」とは、幕末儒学者・谷三山(1802生)のこと。

若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。

新城に過ぎたるものが二つあり 前の小川太田白雪

新城は、現在愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。

「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在存在しない。

太田白雪」(1661生)は、地元名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。

土浦に過ぎたるものが二つあり 刻の太鼓と関の鉄砲

土浦藩は、現在茨城県土浦市にあたる小藩。

「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。

「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。

下総に過ぎたるものが二つあり 成田不動に久保木蟠龍

下総下総国のことで、現在千葉県北部茨城県西部のあたりを指す。

成田不動」とは、言わずと知れた成田山新勝寺のこと。

久保木蟠龍」とは、儒学者久保木清淵(1762生)のこと。

伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。

金沢に過ぎたるものが二つあり 刀正次 兜興里

金沢はもちろん現在石川県金沢市、加賀藩金沢城下のこと。

「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。

そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。

しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。

悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎演目になっている。

「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。

番町に過ぎたるものが二つあり 佐野の桜と塙検校

番町とは、東京都千代田区地名

佐野の桜」とは、旗本佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。

「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。

秋元に過ぎたるものが二つあり 無の字の槍と岩田彦助

秋元とは、現在埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。

「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。

岩田彦助」(1658生)は、川越藩家老を務めた儒学者のこと。

松山に過ぎたるものが二つあり 河原布衣徒に千秋の寺

松山は、現在愛媛県松山市にあたる伊予松山藩のこと。

河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。

千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。

谷田部に過ぎたるものが三つあり 不動並木広瀬周度 飯塚伊賀

谷田部は現在茨城県つくば市にあった谷田部藩のこと。

「不動並木」とは、谷田部藩主細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。

広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物

飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学知識を得ていたとも。

徳山に過ぎたるものが三つあり 藩主墓所と桜の馬場奈古里人

徳山は、長州藩支藩で、現在山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。

藩主墓所」は、徳山毛利家の菩提寺である福山大成寺にある歴代当主墓所のこと。

「桜の馬場」とは、初代藩主毛利就隆によって作られた藩士の調馬場のことだが、数百本の桜が植えられて名所となった。

奈古里人」(1671生)は、万役山事件に伴う徳山藩改易の際に活躍し、徳山藩再興運動の中心となった人物

2018-12-12

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多治見市文化財保護センターに行ってまいりましたわ

加藤五輔展がこぢんまりとした展示室で開催中ですわ

加藤五輔は明治時代の染付絵師でお米に字が書けそうな

絵をたくさん磁器に描いていらっしゃいます

花紋花瓶が好みでしたわ

国際万博にも作品出展していらして

昔は「五輔作」を銘で名乗っていたもの

美濃国五輔」「大日本美濃五輔」と世界視野に入れた

銘に変わっていったそうですわ

途中、多治見修道院に立ち寄りました

葡萄園葡萄剪定がほぼ終わっていましたわ

上方向にぴょんと飛び出した枝だけ数本残っている株がありました

いつもの土岐市美濃陶磁歴史館では

「やきもののこま犬大集合!」を拝見しましたの

古い時代狛犬は阿行が獅子で吽行が狛犬だったもの

つのまにか両方狛犬になったそうですわ

愛知県陶磁美術館狛犬館に関して同じことを書いたかもしれませんわ

狛犬と同じように飾られる「神猿:まさる」と「神狐:しんこ」の

展示もありましたわ

阿行の狛犬の方が口のパーツが上下に分割されているため保存が難しく

上顎がなくなってしまった怖い姿でいくつも展示されていましたわ

おかげで内部が覗けて頭と胴体を別部品で作った痕跡などがわかりました

2018-09-05

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おつかれさばですわ

美濃焼ミュージアムで「美濃陶芸明日展2018」を見て参りましたわ

三十代の「せんぱい」と学校を出たばかりの「ふれっしゅ」で部屋をわけての展示ですわ

「ふれっしゅ」を見た直後に荒川豊蔵コレクションを見ることになる良心的な順路でしたの

せんぱい組柳井友一氏は線の模様を陶器にほどこすことに拘りが感じられました

駒井正人氏の作品実用的にシンプルなところから

同時開催の「代用品と統制品」展に出ていた戦時シンプルにせざるをえなかった陶器と、

比較することになって仕事の丁寧さがうかがえましたわ

ふれっしゅ組では海川耕氏の極薄の磁器が、湯葉で器をつくったようでした

背骨を思わせる作品からは少し弐瓶勉空気が感じられましたわ

由良薫子氏の作品は絵の中に動物が隠されていてウォーリーをさがせ的な

楽しみを食卓提供してくれそうでしたの

みなさんの作品ミュージアムショップ販売されていましたわ

同時開催されていた「代用品と統制品」展では、

アメリカとの戦争をはじまる前から金属類回収令が出ていたことを知りましたわ

中国との戦争に禁輸で、既に息が上がっていたのですね

本土決戦用に用意されていた陶器製の手榴弾は、

鉄製の手榴弾殺傷範囲メートルに対して、

範囲メートルで負傷させる力しかなかったそうですわ

怪我をさせた方が戦力を減らせるお話もありますけれど、

それなら被害範囲は同じまま威力を落とせばいいので、

やはり、そういう問題ではなさそうな印象を受けました

前回の美濃焼ミュージアムですわ

https://anond.hatelabo.jp/20170212210259

2018-06-28

今日は断然サビに強く切れ味抜群のステンレスチタンコーティング包丁のご紹介!

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2018-04-30

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ごきげんよう

岐阜県現代陶芸美術館で開催されているデンマークデザイン展と

近代美濃陶芸展に行ってまいりましたわ

デンマークデザイン展では、椅子をはじめとしたおデンマーク家具

拝見することができましてよ

センスを感じさせながらも実用性を失わないところにデンマークデザインの真髄があるそうですわ

最後の方の展示室では実際にデンマーク椅子腰掛けることができました

立ち見に疲れた後の補正込みですけど、座り心地はよろしかったですわ

持続可能な森から樹齢200年の木を切ってきて作っている椅子があるそうですの

素敵ですわね

シンプルな銀食器もあって並べられたステンレスとの微妙な輝きの違いが観察できました

いつもは銀食器しか見ませんので

普段焼き物を展示しているだけに立体物の展示には自信ありとお見受けしましたわ

第二展示会場ではデンマーク家具を唯一ライセンス生産されている

日本メーカー作品が展示されていましたわ

マットレスの中を見せてくださっていて興味深かったですの

蛇腹状の扉で正面が完全に戸締まりができる本棚は欲しくなりましたわ

蝶番の扉と違って本棚に完全収納されて開いても邪魔になりませんの

近代美濃陶芸」は明治150周年とのことで、明治期の作品が展示されていました

ポスターを飾っている西浦焼は、すぐお隣の美濃ミュージアムから借りたものでしたわ

自動車で5分くらいかしら

富本憲吉様の作品「色絵金銀彩四弁花模様飾壷」が完璧対称性をもっていて

惚れ惚れと鑑賞してしまいましたわ

工房の「千点紋食器一式」は名前通り千の点が絵付けされていて

作業想像するだけで気が遠くなりました

ミュージアムショップデンマークミントチョコレートを買いましたわ

万が一やみつきになってしまうと売り切れで地獄をみるので

こういうとき食べ物は気をつけなければなりませんわ

いざとなればデンマークまで泳いでまいればよろしいのですけどね

おほほ

本日はこれくらいにいたしましょう

おさばらですわ

2018-04-02

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おなじみの土岐市美濃陶磁歴史館に行ってまいりましたわ。

桜が満開でしたわ。

織部焼の優れた作品がたくさん陳列されていて、

鰓息を荒くして拝見しましたの。

織部は白と緑の焼き物ですけど、

緑の釉薬を追っていくと先端のたまった部分は

本当の青色になっていることがありましたわ。

加藤景延さまが1597年にいただいた筑後守の口宣案で

藤原景延と呼ばれていました。

藤がつくだけに氏は藤原ですのね。

第二展示会場ではローカル武将妻木氏の居城付近にあった

御殿から出土した陶器が展示されていました。

妻木氏は関ヶ原とき付近で唯一東軍について

大暴れする田丸さまと戦ったそうですわ。

西には織田様がいますから挟み撃ちで大変ですわ。

でも七千五百石で大名にしていただけていませんわ。

徳川さんはケチなのですわ。

なかなかガッツ!のある妻木さまは寺沢広高と

婚戚関係があったそうで、寺沢氏の領地生産されていた

唐津焼御殿からの出土品のあいだには

類似点がみられるとのことでしたの。

戦国時代政略結婚技術のためにも

行われていたのかもしれませんわね。

2018-03-04

鯖ですわ

美濃ナンバー運動って何をおっしゃっているのかしら?

日本首都になればナンバーなんて後から勝手についていらっしゃるでしょうに。

http://www.city.nakatsugawa.gifu.jp/news/048751.php

2017-09-26

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岐阜県現代陶芸美術館で開催中の「浦上父子コレクション引き継がれるコレクター魂」展に

行ってまいりましたわ。

観る順番を間違えて子のコレクションした北斎漫画を先に観てしまいました。

本来冊子の形式であるもの額縁に入れて展示しているので

一度にたくさんの作品を観ることができるそうですわ。

「鯨・鮫ほか」の絵が完全にクリーチャーで、むしろ獏の方が現実動物に見えました。

観察する機会の差なのでしょうか。

有名な「富嶽百景」では、「田面の不二」が物凄い構図で仰天しましたの。

ピンホール原理で障子に富士山が写った場面らしき版画もありました。

他の展示では前後の漢時代の銅鏡が興味深かったですわ。こちらも息子さんのコレクションです。

篆字で書かれた銘文がメーカー宣伝文章だったのですわ。

「新」時代の銅鏡のひとつだけはプロパガンダが書いてありました。

単于文字があっても居丈高異民族政策が失敗したことはおくびにも出していませんわ。

陶器関係では地中の緑釉陶器が白っぽく変色する現象のことを「銀化」と

呼ぶことを覚えましたわ。

同じ建物の下の階では「国際陶磁器美濃」が開催されていました。

白木千華氏作品が実にファンタジーしていましたわ。

同時開催の多治見工業高等学校専攻科の展示にも白木千華氏作品があって、

卒業制作以来、同じ作風を続けていることが分かりましたわ。

世界各国の方が出展されているのですが、

コンセプトの説明をされる方とされない方がいて興味深かったですの。

トルコの方はみんな無言で、韓国の方は説明してくださる傾向でしたわ。

セルビアの方が内戦経験を反映した作品が重かったです。

https://anond.hatelabo.jp/20170709000534

2017-09-17

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土岐市美濃陶磁歴史館で開催中の「お茶美濃焼」展に行って参りましたわ。

お茶と一緒に発展してきた焼き物歴史時系列順にまとめられていて、

わかりやすかったですわ。

最初は禅僧の修行用の眠気覚ましだったお茶が、だんだんと娯楽になってきて、

夢窓疎石という偉いお坊様が「最近若い者は」と闘茶の風習を、

足利尊氏の弟相手に嘆いていたそうですの。

それより兄弟喧嘩を注意したほうがいいですわ。

越前朝倉氏の一乗谷で出土した陶磁器に、国外品を尊びながら国産品にも

注目する当時の姿勢が現れていましたわ。

余談ですが、館内で閲覧できた一乗谷の展示会の本が興味深かったです。

京都府で出土したお店で売っていた国内外陶磁器も、

陶器グローバルな流通を感じさせてくれましたわ。

あと展示されている四耳壷のひとつが、きちんと耳を通したワイヤーで

固定されていました。

現代になっても耳が実用されるなんて大層愉快ですわ。

https://anond.hatelabo.jp/20160717215759

2017-06-11

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またまた瑞浪市陶磁資料館に行ってきたので少しだけ書きますわ。

企画展美濃近代絵付け用具とやきもの」が開催中でした。

加藤孝造氏の常設展示室に場所をとられていてスペースが控えめですわ。

企画展の展示内容は常設展示の上絵、下絵などの説明

染め付け磁器実例説明したもので、絵付け道具も一緒に陳列されています

MADE IN JAPAN刻印が逆さまになっている製品おもしろかったですわ。

作った人が英語のわからない人だったろうとの事ですわ。

これはミステリーで死亡時期ずらしのアリバイトリックを崩すネタに使えそうと思いましたの。

絵付けの方法は手描きからから始まって、いろいろあるのですけど、

先進的に思える銅板転写よりも、どこか子供工作らしいゴム判の方が

新しい技術である点がおもしろいですわ。

合成樹脂技術熟成していなかったせいでしょうか。

結局、明治にはじまった銅版転写の技術はいまだに生き残っており、

大正からゴム判の技術1970年頃に衰退してしまっているそうですわ。

説明文は配付資料にまかせて、展示そのものから文字を排する展示方法

興味深かったですわ。

説明文があると、つい物よりも文字時間を取られてしまますものね。

前回ですわ

http://anond.hatelabo.jp/20170505212410

2017-06-04

山川出版日本史の何がすごいのか、さっぱり分からない

山川出版の日本史いかに凄いかについて情熱的に説明する」

http://blog.tinect.jp/?p=40198

はてなブックマークの人気記事だったので開いてみたのですが、驚くほど中身のない記事でした。

これ、おっさん居酒屋でしゃべっているレベルですよね??

『詳説日本史』を引用するなり参照するなりして、具体的にどこがどうすごいかを語ってほしかったです。

僕も10代の頃はあれが本当に理解できなかった。けど今ならああい教科書が作り続けられる理由がよくわかる。物事を語るにあたって、中立を維持しようとするとなると、事実しか語れなくなるのである

ストーリーというものは、基本的には何らかの価値観を元に構築されるものである日本民族いかに優れているかという視点で歴史を分析すると、それは右翼的な記述にならざるをえないし、平等であろうとすれば、それは左翼的価値観を元に記述せざるをえなくなる。

客観的な記述がされている、左右に偏向していない、中立だからすごいゾ、という感想には呆れ果てました。

いったい全体、どこが情熱的ですか? 教科書を読み返さず、いい加減な記憶をもとに語っても、多分これくらいのことは言えると思います。 

  

クソ記事を読んでしまい、あんまりにもムシャクシャしたので、私が自分で『詳説日本史』を引っ張りだしてきて調べました。

例えば「源平の騒乱」という項目は、次のように記述されています

平清盛後白河法皇幽閉し、1180年に孫の安徳天皇を位につけると、地方の武士団中央貴族・大寺院のなかには、平氏の専制政治に対する不満がうずまき始めた。この情勢を見た後白河法皇皇子以仁王と、畿内に基盤を持つ源氏源頼政は、平氏打倒の兵をあげ、挙兵を呼びかける王の命令(令旨)は諸国の武士に伝えられた。

これに応じて、園城寺(三井寺)や興福寺などの僧兵が立ち上がり、ついで伊豆に流されていた源頼朝信濃の木曾谷にいた源義仲をはじめ、各地の武士団挙兵して、ついに内乱全国的に広がり、5年にわたって騒乱が続いた(治承・寿永の乱)。

平氏は都は福原(現・神戸市)へと移したが、まもなく京都にもどし、畿内を中心とする支配を固めてこれらの組織に対抗した。

しかし、畿内西国を中心とする養和の飢饉や、清盛の死などで平家の基盤は弱体化し、1183年(寿永2)年、平氏北陸で義仲に敗北すると、安徳天皇を報じて西国都落ちした。やがて、頼朝の命を受けた弟の源範頼義経らの軍に攻められ、ついに1185年に長門の壇の浦で滅亡した。

この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。

ここには明らかに編者の歴史観と、因果関係説明が詰め込まれています

  

まず、平清盛後白河天皇幽閉したこと、安徳天皇即位させたことは、この教科書では「平氏の専制政治」と評されています

当時の人たちがそう感じていたのか、それとも教科書の編者がこの評価を下しているのか、どちらなのか判然としませんけど、ともかく本書はこの評価にもとづいて記述がされています

  

次に、この「平氏の専制政治」が地方の武士団中央貴族・大寺院の不満につながって、 以仁王源頼政はそういう情勢を見たので挙兵したと書かれています

これはまさしく因果関係に言及しているわけです。

  

このように、教科書は単なる事実の羅列ではありません。歴史に対する評価因果関係がしっかりと述べられているのです。

そこにどういう学問的な裏付けがあるか、歴史学に無知な私はよく知らないです。あのブログ記事ではそのへんの話を説明していると思ったのですけど、まったくの期待外れでしたね。

  

なお、この教科書とおなじ編者がつくった参考書『詳説日本史研究』(山川出版社)によると、次のように説明されています

治承・寿永の乱は、一般には源氏平氏の戦いといわれている。しか歴史学的にみた場合、この全国的な動乱を単に源氏平氏勢力争いとみるのは正しい理解ではない。以仁王挙兵以降、軍事行動を起こすものが相次いだ。美濃近江河内源氏若狭越前加賀の在庁官人、豪族では伊予の河野氏・肥後の菊池氏である。彼らはあくまでも平氏の施政に反発したのであって、はじめから源氏、とくに源頼朝に味方したわけではない。彼らの背後には在地領主層があり、在地領主たちは自己の要求を実現するために各地で立ち上がったのである

彼らの動向をまとめあげ、武家棟梁となる機会は頼朝以外の人、例えば源義仲源行家、あるいは平宗盛にも与えられていた。頼朝が内乱に終息をもたらし得たのは、彼こそが在地領主層の要望に最もよく答えたからである。この意味で幕府の成立は、時代の画期ととらえることができる。

教科書である『詳説日本史』では、これがたった一文にまとめられているのです。

この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。

こういう史観が妥当なのかというのは、私にはちょっと分からないんですが、この点を強烈にプッシュしているのが『詳説日本史』の特徴と言えるでしょう。

他の教科書を読んでみても、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)を除き、この史観はあまりプッシュされていないと感じました。

  

【参考文献】

山川出版社『詳説日本史』(日B 001)

山川出版社『高校日本史 改訂版』(日B 017)

山川出版社新日本史B 改訂版』(日B 018)

東京書籍日本史B』(日B 004)

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)

桐原書店新日本史B』(日B 011)

(このエントリは上記7冊を参照しています。いずれも平成22年ごろ購入。)

  

  

  

余談:教科書の読み比べ

  

山川出版社新日本史B 改訂版』(日B 018)

伊豆に流されていた源義朝の子・源頼朝も、妻・北条政子の父北条時政とともに挙兵して南関東を掌握し、10月には源氏根拠地鎌倉に入った。頼朝は父祖以来の結びつきを背景に、三浦千葉上総氏などの有力な東国武士主従関係を結んで御家人とし

頼朝の挙兵が、東国武士との「父祖以来の結びつき」を背景にしていたものだったということは、他の教科書ではなかなか分からないと思います

三浦千葉上総という武士名前が沢山出てくるのもおもしろいですね。(三浦氏名前が出てくる教科書は多いですが、それはこの時点ではなく幕府成立後、十三人の合議制か、宝治合戦ときに唐突に登場します。)

[寿永二年十月宣旨から義仲滅亡までの]この間、鎌倉の頼朝は没収した平氏の所領(平氏没官領)を法皇より与えられ、経済基盤を固めていった。また御家人を統制する侍所を設置し、その長官である別当には和田義盛を任命した。これに加えて、行政裁判制度を整えるための公文所(のちに政所)・問注所がおかれ、その長官にはそれぞれ京から招かれた朝廷の役人である大江広元三善康信就任した。前後して、義経軍らは一の谷・屋島平氏を追い、1185(文治元)年に壇ノ浦平氏を滅ぼした。

[]は引用者註。

この教科書の特徴は、幕府の政治機構の形成過程を、治承・寿永の乱の進行に併記していることです。

鎌倉幕府の成立が1192年(いいくに)なのか、1185年(いいはこ)なのかという論争は、世間でよく知られているぐらい有名になりました。どちらが正しいかは諸説あるとしても、ただ一つ言えることは、どこかの時点でいきなり幕府が完成したというわけではありません。治承・寿永の乱が続いていた期間に、徐々に幕府の政治機構が形成されたのです。この教科書はその史観が反映されています

  

  

  

桐原書店新日本史B』(日B 011)

北条時政の援助によって挙兵した頼朝は、東国武士たちに支持されて、富士川の戦い平氏を破ったが、その後は鎌倉にとどまって、東国地盤を固めることに専念した。これに対して平清盛は一時、都を福原神戸市)に移して態勢を立てなおそうとしたが、まもなく京都に戻り、1181(養和元)年に病死した。一方、義仲は1183(寿永2)年、北陸方面から急進撃して、平氏一門を京都から追い出した。しかし、義仲は後白河法皇対立したので、法皇は同年、頼朝に東海東山両道(東国)の支配権を認め、義仲追討を命じた。頼朝は弟の範頼・義経らを上京させて、義仲を討たせた。範頼・義経さら平氏追討に向かい、1185(文治元)年、長門壇ノ浦平氏一門を滅ぼした。

この教科書歴史用語の詰めこみを回避しているようで、内容は簡単、文章としても平易です。

上記引用でも分かるとおり、「頼朝に東海東山両道(東国)の支配権を認め」という記述があるくせに、寿永二年十月宣旨というキーワードがありません。治承・寿永の乱、一の谷、屋島の戦いなどは年表に記載されていますが、本文中に記載なし。養和の飢饉、平氏都落ち安徳天皇を伴ったことも言及なし。

というわけで受験生には不向きですが、他の教科書にはない特色もあります

  

鎌倉将軍に尽くして家人となった武士のことを、鎌倉御家人といった。鎌倉御家人になる目的は、将軍面接して(見参)、先祖伝来の所領を承認してもらい(本領安堵)、さらに勲功のあった者は新たな所領を恩賞としてうける(新恩給与)ことにあった。

教科書の中では唯一、桐原書店けが「見参」を掲載しています。これは鎌倉幕府の権威の構造がどういったものであったかを知るための手がかりになるかも。

(他の教科書ではこの用語がないどころか、「将軍面接して」という説明も省かれています

  

["新恩給与"についての註]

土地のものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権を与えられるのが普通で、そのおもなものが地頭職であった。

これは「職の体系」のことを言っています。他の教科書とは違って、地頭をあえて「地頭職」と見なす視点を紹介し、その意味するところを簡潔に説明しているのがすごい!

所有権が重層的に重なりあっていたというのは、中世土地支配構造を知るうえで一番大切なポイントだと思います

なお、山川出版の『日本史B用語集』には「職の体系」という用語は不掲載で、かわりに「職」の項でそれを説明しています

職(しき)②:一般に職務に伴う土地からの収益とその職務自体を指す。荘園場合、有力者への寄進が何回も積み重なり、下記のような複雑な職の改装秩序を生じた。

本家職①、領家職②、預所職②、下司職②、荘官職①

  

[引用者註:丸の数字はこの用語を掲載している教科書の数]

山川出版『日本史B用語集』より

この説明は悪くないと思いますが、桐原書店は「土地のものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権」のことと明記しているので、その方が的確です。

しかも、いかんせん、『日本史B用語集』は「職」の用語説明を「院政期の社会文化」のページに掲載しているので、これと鎌倉時代の地頭職との関連が全然分からないです。そして「鎌倉幕府の成立」のページにある「地頭職」の用語説明は、次のようになっています

地頭職(じとうしき)⑤:職とは役職に伴う権益意味。地頭職は御家人が地頭に任命されて認められた兵糧米の徴収や免田(給田)経営などの権利

  

山川出版『日本史B用語集』より

これは間違っていませんけど、この説明を読んで、重層的な土地支配構造があったことを理解できますか? 絶対に不可能ですよね?

せめて「職」「地頭職」という用語同士を紐付けて相互参照させてほしいです。ふざけんなってかんじです。

  

さて、桐原書店教科書に話をもどすと、欄外にこういう豆知識も載っています

幕府とは、近衛府の唐名であるが、転じて近衛大将の居館のことをいった。のちには近衛大将とは関係なく、武家政権意味する語となった。頼朝は1190年に上洛し、右近大将に任ぜられたが、まもなく辞任した。

[ふたつの源頼朝像]

Aについては南北朝時代武将とする説もあり(伝・藤原隆信筆,京都神護寺蔵)、Bも注目されるようになった(山梨甲斐善光寺蔵)。

とてもユニークですね。受験には使えないかもしれませんが、知っておいて損はないです。

  

  

  

東京書籍日本史B』(日B 004)

養和は平氏政権が用いた年号で、これを認めない頼朝の支配する関東では、ひきつづき治承の年号が用いられた。

網野善彦著作『東と西の語る日本の歴史』に、たしかこの話があったと思います

他の教科書には載ってませんが、ピンポイント東大入試に出題されました。

  

源氏鎌倉の関係は、源頼信のころに源氏氏神となった石清水八幡宮を、前九年合戦の際、子の頼義が相模国由比郷に勘請して鶴岡若宮八幡宮前身)を建設したことから始まった。鎌倉は前面に海をもち、三方を山にかこまれた要害の地で、切通によって外部と結ばれていた。

鎌倉という土地をこれだけ情熱的に語っているのは、東京書籍教科書だけです。

上記引用とはまた別に、「コラム 武家の都鎌倉経済流通」というのも掲載されています

東大入試では、「院政時代から鎌倉時代にかけての京都と鎌倉都市の発展」について論述させる問題が出されたことがありますが(1990年)、この教科書はその答案を書くうえで非常に役立つものだと思います

  

  

  

山川出版社『高校日本史 改訂版』(日B 017)

こののち、後白河法皇義経を重んじ、頼朝追討の命令を下したが、これに失敗すると、頼朝はその責任を追及し、逆に義経追討の命令を得た。さらに頼朝は義経をかくまっていた奥州藤原氏を滅ぼそうと朝廷に追討の命令希望したが、法皇がそれを拒否すると、1189(文治5)年に頼朝は追討の命令を待たず、大軍をもって奥州藤原氏を滅ぼした。ここに全国を平定し、その後、法皇死後の1192(建久3)年に頼朝は念願の征夷大将軍に任じられた。

頼朝の悪人っぷりがこれでもか!?というぐらい強調されています

あいつは自分の野望を実現するため、ときには法皇に逆らって圧力をかけたり、朝廷命令無視して独断専行する奴だった、ということを言いたげな記述です。

  

それはともかく、奥州藤原氏を守ろうとした法皇朝廷側と、それを潰そうとした頼朝の厳しい対立がわかるのは、この教科書だけでしょうね。

両者のぴりぴりした緊張関係が伝わってきます

関西にある政権東北地方を使って、関東独立の動きを牽制するというのは、日本の歴史において繰り返し出てくるパターンなので、この視点を漏らさず記述しているところはアッパレ

  

  

  

実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)

平氏安徳天皇を奉じて西国に落ちていったが、後白河法皇は京都にとどまり、新たに後鳥羽天皇をたてて政権を維持した。法皇は義仲には平家追討を命じるいっぽう、頼朝には上京をうながして、京都の義仲に対抗させ、武士たちをたがいに牽制させて政局の主導権をにぎろうとした。しかし頼朝は、東国の安定に意をそそいでみずからは鎌倉を動かず、弟の範頼・義経を上京させて、1184(元暦元)年、義仲を討たせ、源氏一族の長となった。ついで義経らは、その当時勢力回復して都にせまっていた平氏を一の谷・屋島などの合戦でやぶり、さらに翌1185(文治元)年にはこれを長門壇ノ浦に追いつめて滅亡させた。

この時代に2人の天皇が同時に存在していたとする視点を取り入れているのがナイス

都落ちした平氏はそのままあっけなく滅んだわけじゃなくて、京都にいる天皇とは違う天皇を奉じて勢力を盛り返していたのです。

どちらの天皇が正統かというのは、つまるところ結果論にすぎません。この教科書はそんな歴史観に基づいて書かれています

  

ちなみに、この教科書の編者は、大半が関西教育機関に属する人たちみたいです。後白河法皇平氏を主軸にした書き方は、編者の関西びいきが反映した結果なんでしょうか。(笑)

例えば奥州合戦について、「奥州進撃のために頼朝は東国だけでなく西国武士もひとまず鎌倉に動員し、これを機会に国ごとに御家人組織の整備をいっそうすすめた」とありますさら西国御家人東国御家人とどう違うかを説明しているのもおもしろく、この教科書関西中心っぽい史観は独特です。

  

  

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

  

……って、おい!? 増田がここで文章を掲載できなくなったんだが??

せっかくこの先が本番なのに、文字数の上限なのだろうか。

つづき→http://anond.hatelabo.jp/20170605001028

2017-05-14

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岐阜現代陶芸美術館に行って参りましたわ。

コレクションクロニクル展と「国際陶磁器フェスティバル美濃」の歩み展が開催中でした。

現代アート陶芸作品を展示する常設展的なものでした。

口を塞いだ壷のような実用性をかなぐり捨てて奇をてらった作品が並ぶ中で、

実用性を意識した作品も平行して存在し続けているところが陶芸おもしろさだと思いますの。

現代アート的な作品の影響を受けながらも実用性を確保した作品もつ

緊張感がよいのですわ。

実際に使ったら、どんな気分かしらと想像しながらカップや皿を観賞しました。

ただし脳内作品に盛りつける食品野菜350gやデトックスウォーターしか

出てこなかったのですわ・・・・・・

モザイクタイルミュージアムに寄りましたわ。

企画展ではタイル画家作品が展示されていました。

焼いたタイルの色は変わってしまうので大変なのではと想像していたら、

わりと描いたそのままの色で焼けている様子でしたわ。

でもやっぱりプロの目からはその苦労があるとも説明されていましたわ。

タイトルに入っている大坪高明氏の作品は、他の作品比較することで、

解説にある透明感の高さがいっそう強く感じられました。

タイルで作った額縁越しにスマホ自撮りする企画があったらしく

館内はカッポーで溢れていましたわ。

ですけどわたくしはもちろんおひとり鯖でしたわ。おひとり鯖でしたわ。

2017-05-07

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関市にある岐阜県博物館塚原遺跡公園に行ってまいりましたわ。

岐阜県博物館では岐阜県に生きる生物の展示がありました。

ところが鯖はいませんでしたわ!はいませんでしたわ!

鉱物歴史など総合的に展示されていて全体を回るのは大変でした。

周り終わる頃にはお疲れ鯖ですわ。

目玉はロビーにある恐竜の全身骨格標本でしょうか。

学芸員の方がお子様を集めての説明会を開いていらっしゃいました。

鉱物では平瀬鉱山の輝水鉛鉱が巨大で素晴らしかったですの。

他の鉱物も「鉱石」と言った感じの迫力ある標本が観られましたわ。

展示パネル歴史があるのと、自治体合併が激しかった影響で、

から修正シールがたくさん貼られていたことが物悲しかったです。

企画展関ヶ原の戦いに関するものと、刀剣のものがありましたわ。

関ヶ原の戦い美濃武将に注目した展示が三角形の小さな部屋で行われていました。

制札や書状などが時系列に並べられていましたけど、

ストーリーを与える解説があるでもなく、物足りませんでしたの。

常設展関ヶ原の戦い発光ダイオードを使ったジオラマが観られ、

三河武士のやかた家康館との比べて観るのも面白かったです。

古今伝授の里でみた、北美濃の東氏の篠脇城模型岐阜県博物館にもありました。

並べて見比べたいところですわ。

刀剣企画展はマイ・コレクション展ということで、

博物館関係者ではない日本美術刀剣保存協会の方がやってらっしゃいました。

写真撮影可能でたくさんの刀と押形を鑑賞することができましたわ。

塚原遺跡公園縄文時代古墳時代遺跡が重なっているところで、

竪穴式住居の復元と円墳が同時に観察できます

展示室では縄文時代復元模型があって、登場する人物家系図が

設定されているところが面白かったです。

縄文時代平均寿命は15歳。平均8人を産まないと人口を維持できないとのことでした。

模型家系図では片方の家は子供が7人、もう片方は6人に設定されていました。

真ん中にあるもう一軒は二軒の子供を生んだ老夫婦の家でした。

娘さんは他の村に嫁に出た設定のようですわ。乳児死亡率を考えれば二軒の子供は多めでしょうかしら。

また、古墳の石室が南方向に開口部をそろって向けている点が印象的でしたわ。

方位は血縁関係があるとの研究もありますし、すべて同じ一族のお墓なのでしょうか。

関係者以外駐車禁止看板に驚きましたけど、来園者以外駐車禁止看板も一緒にあり、

来園者は駐車して良いようでした。

三河武士のやかた家康館ですわ

http://anond.hatelabo.jp/20170430215158

古今伝授の里フィールドミュージアムですわ

http://anond.hatelabo.jp/20170422224555

2017-02-15

空前絶後のォォ!超絶怒涛の戦国大名ォォ!

乱世を愛しィィ!乱世に愛された男ォォ!

謀反、謀殺、国盗りィィ、

すべての謀略の生みの親ァァ!

そう、我こそはァァ!

身長六尺五寸 体重三十貫の息子の親ァァ!

キャッシュカード暗証番号3064

美濃の蝮、ミー、ののー、マー、ムー、シー、って覚えてくださいィィ!

そう 全てをさらけ出したこのワシはァァ!

サンシャイン斎藤

 

イエェェェェェェイ!ドーサァァァン!

2017-01-12

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平日しか開いていない多治見市文化財保護センターに行ってきましたわ。

もはや意地ですわ。

博物館設備は一室のこじんまりとしたもので、常設展はないようです。

現在は「カミさまホトケさまお医者さま」展として医療と祈りに関する

文化財が展示されています

迷信と笑うのは簡単ですけど、原理のわからない病気に人々が感じていた

恐怖から救われたいという思いが伝わってきました。

平成23年になっても自分の患部と同じ部分に濡らした紙を貼り付けることで

治癒を祈願する紙貼り地蔵というお地蔵さまが作られているそうで驚きました。

以前も行ったとうしん美濃陶芸美術館にも立ち寄ってきました。

ちょうど「西浦焼展」がはじまったばかりで明治に新しく生まれ

繊細な絵付けの陶磁器を鑑賞できました。

同じモチーフの器でも、花の描き方や配置が違うことで

一個一個手作りであることが分かります

金魚の絵がついた一輪挿しが特に素敵で、表面に網を浮き出るように

釉薬で立体的に描いた手仕事の見事さに惚れ惚れしました。

最後多治見修道院を観てきました。

西洋風の立派な建物ですが、大きな窓の下の隅に力が集中するらしく、

そこから亀裂が走っている様子が目立ちました。上はアーチで受けているので大丈夫です。

もっとも、すべて丁寧に補修されています

裏庭にとても雰囲気があって、西洋歴史舞台に立った気分にひたれました。

たいへんな面積があるふどう園はすべて葉を落とした状態で、

修道院正面のぶどうはすでに綺麗に剪定されていました。

ここのぶどうで作ったワインは有名だそうです。

わたくしお酒は苦手なので、売店でクッキーセットとニック・ナックを買いました。

クッキーバタの味を活かした素朴な味わい、

瀬戸ドミニカ修道院の薄くて堅いクッキーがとても美味しゅうございます

ニック・ナックさらに素朴な「ぼうろ」みたいな味わいでしたが、

後味がとてもよかったです。

少量のジャム紅茶と一緒にいただきましたわ。ジャムは余分でしたわ。

わずかですが、炊き出し募金をしてきました。

2016-10-30

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中山道みたけ館を訪問してきましたわ。

一階が図書館で二階が無料郷土館になっています

郷土館では地質時代からはじまって亜炭をとっていた近代までの展示がみられます

「カニサイ」の化石があって「蟹犀」かと思いきや

お隣の可児市の名を取って「可児犀」でしたわ。

パリサイ派とも関係ありませんでしたけど、隠れキリシタンの展示はありました。

美濃織田信長領地だった関係宣教師が熱心に布教しており、

ひとつ地域人口の40%以上がキリシタンになっていたそうです。

柱の溝に仕込んだ石にマリア像が掘ってあったり、

水の字がキリストと手に打たれた釘を表していたり、

あの手この手信仰を守る情熱には感動しました。

命を懸ける情熱のない方は転びキリシタンになったわけですけれど……

一種生存バイアスですわね。

でも、熱心な信徒がいらっしゃったのも「裾野広ければ山高し」かもしれません。

特別展示で江戸時代に盛んに作られた土人形が紹介されていて、

人形とは異なったお雛様などを拝見しました。

土人形の保存状態がよいものの表面は白い玉子みたいで綺麗ですわ。

しかし、汚れてしまうと極端に見た目が悪くなってしまます

それも布人形に押されてしまった原因かもしれません。

モチーフお雛様七福神の他には歴史上の人物などがありました。

菅原道真源平合戦人物が多く、戦国時代人物ほとんどないところが

現代と違っていて興味深かったですわ。

それにつけても「だるま乗り亥」のかわいらしさったら!

とりあえず何でも足してみる日本人の発想はこの頃からお盛んだったみたいでしたわ。

2016-10-15

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とうしん美濃陶芸美術館に行ってきましたわ。

ここでは現代名人がつくった陶器が一堂に展示されています

加藤卓男氏の三彩陶器は一度みれば彼の作品であるとわかる圧倒的な個性があります

鈴木徹氏の緑釉陶器だんだん分かってきました。

あらあらしくもスピード感のある器に、濃い緑色釉薬がかかった陶器ですわ。

志野の中には、厚くひびわれた釉薬がお煎餅の白いお砂糖状態になっているものがあって、

ちょっとおいしそうですわ。

注目は曜変天目茶碗の再現をめざしたと思しき林恭助氏の作品で、

油滴のまわりが色づいている様子がわかります

展示場の構造おもしろく、ドーナツ型の展示室を一周することで作品をみることができます

ドーナツの真ん中は中庭なっていて、茶室風の席から松と竜の髭、石灯籠風景ゆっくり眺めることができました。

つづいて多治見文化財保護センターに行ったら、土日祝休館でしたわ……

プロ陶芸家の方なら都合をつけられるのでしょうけど。

代案で行った「こども陶器博物館」編 http://anond.hatelabo.jp/20161015191937 に続きますわ。よしなに

2016-10-12

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苗木遠山史料館でもよおされた「美濃の刀展」に行ってまいりました。

これでわたくしも刀剣お嬢鯖の仲間入りですわね。

べ、べつに秋刀魚が気になるわけではありませんわ!

常設展示では遠山の金さんの遠縁である苗木遠山氏が治めた苗木藩の歴史が紹介されています

1万石と最小サイズ大名なので財政のやりくりには苦労したようです。

東濃歴史には悪名高い森長可も関わっており、(3)6人斬りを自慢して悪趣味に名付けた歌仙兼定のレプリカも置かれていました。

美濃の刀展では近隣神社から寄託された鎌倉時代室町時代太刀が大きく扱われていました。

国や県の重要文化財である

備前国長船住近景

吉則

貞綱

三振ですわ。腰に下げるときと同じく、太刀は刃を下向きに、刀(脇差短刀も)は刃を上向きに展示していると

説明されていて感心しました。他所刀剣をみるときにも役立ちそうなトリビアですわ。

刀身58cmの脇差があって、そのあたりの定義がよくわかりません。

神社の刀は拵えを直す機会がないので目釘の穴を空けなおしたあともないですわ――と気づいた気持ちになったのですが、

他の刀も目釘の穴を空けなおしているものは少数派でしたわ。

展示されている刀の大半が個人蔵で、当館所蔵のものは一振りだけでした。

秘蔵されているものを拝見する機会をくださって感謝しますわ。

2016-10-09

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美濃焼ミュージアムに行ってきましたわ。

お祭り中で入館料100円(通常は300円)、福引きができました。

から6番目、下から1番目に良い景品のポストカードが当たりました。

美濃陶芸明日展(あすてん)として現地の若手陶芸家作品特別展示されていました。

「せんぱい」と「ふれっしゅ」に分かれて別の部屋におかれているのですが、

つの間の展示室には巨匠荒川豊蔵のコーナーが存在していました。

創意を表に出さざるを得ない若手作品をみた後の

しぶい荒川豊蔵コーナーでは思わず「いいしごとしてますわね」と呟きました。

巻物に墨で書かれた彼の作品論も興味深くて、

「古いものに名品が多いのは時代を通じて淘汰されているからで、

 古いから良いものではない」と言い切っていました。

直感を信じることの勧めには銀と金美術商編を思い出しました。

「あすてん」では単色の陶磁器に無数の小さな穴をあけた新里明士氏の作品

やはり存在感があります。この方の作品は各博物館に長く展示される気がします。

時間のかかる緻密な仕事ができる精神作品を通じて触れることで、

自分が恥ずかしくもなります

ふれっしゅ部門では白木千華氏の壷に魚をたくさん張り付けた作品ユニークで魅了されました。

鯖もいたと思いたいですが、魚がカラフルすぎたので怪しいです。

後、常設展示の総織部の茶碗が気に入りじっくり眺めました。

げんだいの緑釉作品はいささか緑色がきれいすぎて、

ひ色が混じったこの茶碗のわびがなかなか出せていないように感じます

ひたすら眺めたところ胎土も赤色のようでした。

鳴海織部では別々になっている赤土と緑釉が一緒だから

総織部と言うのでしょうか。

休憩コーナーにはへうげものの全巻がおいてありました。

2016-07-17

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土岐市美濃陶磁歴史館の美濃桃山陶のデザイン展に行ってきましたわ。

茶道お嬢鯖として当然の嗜みですものね。

瀬戸茶碗とされるものが、向付の転用であることを学習しました。

最初から茶碗として作られた黄瀬戸はないか、珍しいようですわ。

そもそも向付とは食卓の向こう側に付けるお皿の意味らしいですわ。

向こうケツではありませんわ。

わたくしもいろいろ美術館を回って瀬戸黒と織部黒の見分けが付くようになってきましたわ。

瀬戸黒は利休おじさまキリッという感じで、

織部黒は織部へんなおじさまゲヒヒッという感じですわ。

志野茶碗のサバサバした良さも分かってきましたけど、

さすがに歪みなく歪んだ破損した器にはゲヒ様の狂気に近いものを感じましたわ。

(破損は焼成の失敗でしょうけど)

2016-01-28

ここで聞くと逆に怒らるかも知らんが、単なる参考としてもし知ってたら、レット美濃

医者で両親の病歴を聞かれたんだが、これって一族(例えば祖父母)の病歴もデータとしてあった方が医者って喜ぶのかな。

両親に糖尿はないのだが、確か爺さんが1人、糖尿でかなり前に死んでるんだけど。

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