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2024-10-20

横浜文字通り横に浜があったか横浜なのよ

なのよ。

https://anond.hatelabo.jp/20241018154926

画像で見たら一目瞭然なのだ

https://maps.gsi.go.jp/#14/35.444624/139.627604/&base=std&ls=std%7Crelief_free&blend=1&disp=11&lcd=relief_free&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m&reliefdata=03G6060F7G6GGG

今の横浜駅場所関内駅場所も水の底。M字ハゲだった頃の舛添要一みたいな地形で、野毛山や戸部の辺りが半島突き出していて、その隣に二つの湾が剃り込みが入ったみたいにあったのだ。

みなとみらい高島の辺りは近年の埋め立てで高くなっているが無視して欲しい。

というか、東京湾内の神奈川県多摩川河口の三角州以外ほぼ全域が、崖がストンと海に落ちる地形だった。これはリアス海岸のような沈降海岸の特徴でもある。

 

さて、そんな中に山下公園に接した、地下鉄元町中華街駅~日本大通り駅がある一帯が棒状に少し高くなっていて水に沈んで居ない事に気が付くだろう。更にその根元は外人墓地がある山手の丘の方から生えるようになっている。

これは砂州なんである。南の方から沿岸流が漂砂を持ってきて、湾状になっているので山手の崖海岸を延長するように砂州が伸びて来ていた。天橋立とかサロマ湖と同じだ。

まりはこれこそが「横浜」だったのだ。

この横浜砂州があるのでその内側はラグーンになっていて貝とかが獲れる。また周囲は崖海岸ばかりで船を係留するのに便利なのは横浜砂州しかない。

という事でここに横浜村という小さな漁村が出来た。

 

埋め立てて吉田新田

さてこの湾はラグーンで全域水深が浅いし、横浜入口を塞いでいる。この横浜って締切堤防に最適じゃね?

って事で江戸幕府江戸商人吉田さんにここの干拓事業承認を出す。横浜を延長してガッツリ閉鎖、土砂で埋め立てた。この辺はタウンニュースが書いてるので興味のある人はタウンニュースへ。

https://www.townnews.co.jp/0113/2017/01/01/363616.html

リンク先大まかな地図もあって、「横浜」も見える。横浜の先端付近馬車道駅の辺りだ。

 

横浜開港

こんな田舎埋立地だった横浜だが大転機が訪れる。

ペリー黒船がやってきて幕府に門戸開放を迫ったわけだ。幕府はイヤだったが大砲デカ動力軍艦で脅かされては何も言えない。

そこで江戸に近すぎると困るので距離が随分と離れて交通も不便だが不便すぎないという場所を探していた。そこで白羽の矢が立ったのが横浜ってわけ。

今の大桟橋の途中にある「象の鼻」はこの幕府が作った横浜港の防波堤だったものだ。

 

鉄道開通

横浜の名の由縁はこれで終わりだが、横浜駅横浜村が大きくずれてる説明必要だ。だからもうちょい書く。

幕府は倒れ明治政府汐留横浜の間に鉄道を敷くことになった。

さてここで問題になるのが、野毛山を挟んでもう一方の剃り込みだ。

話は前後するが、高島町駅から浅間神社を結ぶ、県道13号より南側幕末にすでに干拓されていた。

https://maps.app.goo.gl/nuiDnwfHNRUhaT2cA

平沼さんが3代に亘って工事をやった平沼新田岡野さんが2代でやった岡野新田などがあり地名として残っている。

すると陸地を通ると神奈川宿京急神奈川駅付近)→浅間神社高島町という迂回ルートになってしまう。

そこで、神奈川宿から高島町に掛けて海の中に土手を通してそこに線路を敷くという思い切ったコースにした。

終点横浜駅現在桜木町駅だ。

 

こうして嘗ての寒村だった横浜村には鉄道が来て倉庫街や歓楽街官庁街、商社街や異人街が出来て異人さんが闊歩するハイカラな街となったのでありました。

 

漂流する横浜駅

さて官製鉄道神戸まで延長される事になったのだが、ここで厄介なのは横浜駅(現桜木町)の存在だ。横浜駅から延長すると遠回りになるし港南区丘陵地帯を突っ切る必要が出てトンネル必須になってしまう。

から本線は神奈川駅から保土谷に直行して、横浜駅盲腸線扱いにした。でも大事な駅なので通過はできず、一度横浜に行ってから機関車を付け替えて神奈川に戻り、再度機関車付け替えで神戸へ、という運転をしていた。

クソめんどくせえ。

客もめんどくさいが貨物は更に、で運転系統がややこしいので横浜駅貨物が溜まりまくってしまい、神戸から送った荷物郵便汐留着が1ヶ月以上先、とかがザラになってしまった。

これに陸軍はぶちギレ。鉄道省に文句を言ったが改善しない。しかも当時の役人は元武家ばかりなのでメンツに拘り軍といえども罵倒なんてしたらエライことになる。

なので陸軍の持ち出しで保土谷→高島横浜という線路を敷いて軍の貨物は優先で動かせるようにした。

 

鉄道省も横浜駅の扱いの厄介さと滞貨には頭が痛かったので、盲腸線方式を辞める事にした。最初線路東側線路を新設し、陸軍が敷いた線路に繋げる。で、その繋げた辺りに横浜駅移転、元の横浜駅桜木町と改称した。

https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.456283&lng=139.626467&zoom=15&dataset=tokyo50&age=1&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

 

しかし見れば判るが港にも繁華街ビジネス街からも遠くて不便で、かなりの不評だった。

そこに関東大震災。新しい駅は木っ端微塵に崩壊してしまった。

そこで三度目の正直で、どうせ不便なら分岐点の方がいいだろという事で、今の場所横浜駅移転したのだった。2代目の駅は基礎だけが残っていて、マンションの公開空地として公開されている。

https://maps.app.goo.gl/ZCBUxiAJ9RwfSxvw5

 

3代目駅はもう最近まで海の上だったところで、全く何もないとんでもない場所で今で言う秘境駅だったが、今までと違うのは、帝都震災復興と開発計画が付随していた事だ。

市電が来て新しく開通する東横線京浜急行東海道線立体交差する様に建設されていた。ただ、駅の西側に残っていた水面の埋立地戦後米軍摂取されてしまった。

しか高度経済成長期に摂取解除されると商業ビルが一気に立ち並び、それで横浜=現横浜駅付近認識されるようになったのであった。

因みに駅西側に残った水面は平沼と呼ばれていた。平沼という地名が近くにあるので誤認されたものだ。元は平沼さん埋め立てしたところが平沼なので間違いなのだが、国が発行する地図にも平沼と書かれていた。

 

と、こういう経緯。

横向きの砂州横浜→埋立てで砂州消滅横浜開港鉄道横浜駅場所邪魔素寒貧海辺移転駅前米軍接収解除で繁栄→今はそこが横浜という流れ。

駅前徒歩2分くらいの場所に金港という港があるのもこういう経緯による。

2024-03-14

住民反対運動で街が発展した話すき

これの逆バージョン https://anond.hatelabo.jp/20240313123638

 

池袋サンシャイン地下道

巣鴨プリズン/東京拘置所跡にサンシャイン60ビルを建てるにあたり、池袋から地下道を通す計画があったが、地元商店が「人の流れが変わって駅前が廃れる」と反対し沙汰止みになった。

一番反対したのは洋菓子店タカセ。ここは戦後に繁盛して地元の顔的な立場であった。

これに他の人は「タカセのヤツ、勝手に顔役ぶりやがって」と陰口を叩き、裏では総スカン

地下道都道反対側からだけに短縮されてそこまで利用者は歩くことになった。代わりに都バス乗り入れが行われたが利用者は伸びなかった。

しか地下道入口東急ハンズオープンすると付近カメラ量販店(後にゲーセン)、飲食ビル映画館誕生し、池袋東口東急ハンズは若年向けの飲食サービス業が立ち並ぶ大商圏となった。

 

池袋馬券売り場

90年代JRA女性ターゲットとしたCMを打つなど競馬イメージアップに努めてはいた。

だが池袋東口に場外馬券売り場を開設する計画が持ち上がるとイメージ悪化を恐れて地元商工会は大反対。JRA土地も押さえていたが出店中止に。馬券売り場の上にサロン飲食室などを設ける大規模な計画だった。

この土地を後にヤマダ電機が押さえて都市型店舗第一号としてオープン。その後に近くの三越が閉店して建物が売りに出されるとヤマダ電機が取得して現在LABIとなり、池袋家電激戦区っぷりに火を注いだ。

 

立川飛行場

米軍接収した立川飛行場は手狭のためにジェット機用に滑走路を延長する計画があった。この為に滑走路延長先の砂川町の農地家屋に収用が掛かった。

これに住民は大反対し、そこに学生運動等が乗っかり、デモ隊基地侵入などの事件が起こり大騒動になった。

憲法問題などで出てくる「砂川事件/砂川判決」というのはこの事件

この事件などがどの程度影響を与えたかは判らぬが、米軍立川飛行場の拡大を諦め、瑞穂町横田基地に集約する事を決定。立川飛行場日本返還される事になった。

箱根ヶ崎付近八高線国道16号がぐにゃっと曲がっているのは、横田基地の滑走路拡大をした為である

 

返還された立川飛行場学校研究所法務修習所、陸自基地などに転用されたが、一番広い面積を有するのは昭和記念公園で、電車で3駅分ほどもある巨大公園となった。

真ん中には広大な広場もあり、大コンサートもよく行われている。

 

なお、騒動の原因となった滑走路の残骸が未だ残っている。https://maps.app.goo.gl/ewECyedzGvD9p88t7

(よく見ると滑走路アプローチ>>>>のペイントがうっすら残る)

 

埼京線大宮交通

東海道新幹線が開通して暫くすると、騒音振動問題になり訴訟も提起されるようになった。成田新幹線ゴリ押しによる頓挫もあり、山陽新幹線以降の新幹線開通は困難が予想されるようになった。

そこで都市近郊での建設スキームを変更、新幹線に付随した在来線も同時に工事して迷惑施設というだけではなくて近隣住民利益にもなるスキームにした。

この為に赤羽大宮間では通勤新線(埼京線)、大宮北側には高架にまとわりつく、つる植物のような新交通線が出来た。

なお、東海道新幹線は通常の鉄道のように地面に砕石を敷いて線路を敷く工法なので高速運転では周囲に振動が伝わる。その後は平地でも鉄筋コンクリートの高架を走るのが一般化した。杭基礎で支持されるので振動は地下奥深くに吸収され、コンクリの高架は重いので振動自体が押さえられる。その為に公害は発生しにくくなっているが、交渉時には工法までははっきりしていなかったのでこういう形になった。

 

神楽坂

空襲失地区の戦後復興東京都などが管理して区画整理などを行ったが、計画的過ぎて無機質であるとの反対意見も多かった。

そこで都は神楽坂については住民同士の話し合いで区画整理を決める自律的方法を試す事にした。

しか優越資本や有力な地元のまとめ役が居ない地区だったので、結局は路地などが沢山残る防災的にはアウトな形で復興する事になってしまった。

その為に神楽坂は失敗のモデルケースとされていた。

しか建物の建て替えが進むと、街路側は多くが不燃建物、その路地の奥は不燃建物と古い料亭などが混在する形となって何だか防火風流の両手取りみたいな地区になって、アンテナの高い外国人などにも好かれる町並みとなっている。

 

歌舞伎町

戦後歌舞伎町は全域がゴールデン街のような闇市バラック状態であったが、再開発をする事になった。

しか高田馬場を始発駅とする西武新宿線新宿駅まで伸びる予定であり、歌舞伎町付近に仮駅を設置された。

当時の西武鉄道経営陣としてはピストル堤と言われた堤康次郎も健在であり、堤は人を騙して土地を買収したり、ピストルの名の通りに暴力による脅迫で買収したり人の土地勝手占有して後に所有権移転したりと、要するにやり手実業家の皮を被ったヤクザであった。しか権力とみっちりと癒着しているばかりかその後に代議士にもなっていた。

その為に歌舞伎町地主たちは鉄道が来るのは歓迎だが堤が来るのはたまらねぇ、として西武の買収に対抗する策を練った。

そこで街路幅はきちんと確保しながらも、その所有区分を細分化、買収しにくくした。それが功を奏して西武も含め、大資本が入り難い地域となっている。道幅を確保しながらも細分化策が功を奏したのは主導的な町会長などが存在した為による。

 

鉄道忌避説は後世の作り話が多い

ブクマページの米でそれは違うというのを幾つか。https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240313123638

 

流山

流山常磐線忌避したという話は良く効くが、多分これは違う。というのも、地理的条件があるからだ。

田端を起点にして北千住を通り、土浦に至るというのは決まっていた。で、その途中には避けねばならぬ「水」があるわけよ。霞ヶ浦牛久沼手賀沼は避けねばならない。だから柏の先のルートはこれしかない。

問題北千住から柏で、今の南回り松戸ルート八潮三郷流山の北回りルートTXコース)がある。

でも北ルートには難点があって、それは毛長川、大場川古利根川の氾濫域の土壌ぐちゃぐちゃ地帯に入ってしまう。今でも越谷レイクタウン南側田んぼのままで、ここは乱開発すると土地の保水力が無くなり八潮市街出水してしまうので開発禁止の状態になっている。武蔵野線敷く時もまず水路の開削からやって平地なのに築堤築いている。そうしないと列車振動で沈下して線路が狂ってしまう。それくらい地盤が悪い地域だ。

から日本鉄道はここを通るのは避けたかったはずで、そうすると流山に行くのは無理って事なのだ

 

鳩ケ谷

日光御成街道宿場町として栄えた名残が邪魔して鉄道忌避の街になり、ついに川口市吸収合併された、元鳩ヶ谷市とか?東北本線って計画では、王子以北は今の埼玉高速鉄道をなぞってたって言うし

これも違うと言い切れる。地形で説明するよ。

 

日本鉄道熊谷線(現高崎線)は日本で2番目の鉄道なので工事量を減らす為に「ここしか無い」という厳選されたコースを通っているのだ。工事期間がやたらと短いのも特長で、コースを厳選した結果だ。

 

海食崖

上野駅を出た京浜東北線大宮までは中距離電車じゃなくてこっちが元のルートを通る)は赤羽までずっと急な崖の下を通る。この崖だが、真っすぐなのが特長だ。こういう真っすぐな崖というのは海食崖の特長だ。海の崖だね。

地球の海面は氷河期には氷河南極に氷となって蓄積するので海面が下がる。一方、温暖な間氷期には海面は上がり、平野のずっと奥までが水没してしまう(海進)。

縄文時代などの間氷期の海進で、関東平野海の底となり遠浅の海となっていた(奥東京湾)。間氷期の気温で海進の程度は変わり、最大で高崎あたり、縄文時代では大宮までが奥東京湾だった。(そういう訳で、尾久とか東三条には貝塚がある)

海には波がある。この波は真っすぐ進んでドンと当たって止まり、ではない。斜めに陸に当たった時は、陸に当たった後にその勢いは横に流れる。波が引く時はその横向きの流れのままに引く。沿岸流が出来るのである

すると陸の出っ張っている所は削られて、やがて必ず真っすぐな海岸になるのである

まり上野赤羽の崖が真っすぐなのは海進時に波に削られたせいである。

 

波蝕台

波は崖を真っすぐに削っていくが、この時潮の干満により崖の下には平場が出来る。満ち潮では海面下に隠れているが引き潮では通れたりするアレだ。親不知子不知が引き潮の時だけ取れるというアレ。

上野赤羽では小規模な波蝕台が連続京浜東北線はこの上を通る。但し複々線化で判り難くなってはいるが。

この波蝕台跡は他の低地より少し高いか田んぼになっていないので用地買収がしやすい。更に少し高い故に大雨でも出水しにくいし、砂礫が多いので水捌けも良い。線路用地として優秀なんだな。

 

砂嘴

陸地の角があると波による沿岸流はその先に砂を置いていく(漂砂)ので、真っすぐの海岸線が延長された地形が出来る。砂嘴である北海道標津の野付半島京都天橋立が有名だ。砂嘴で延長された浜により沿岸流と漂砂の働きも延長されるから砂嘴はどんどん伸びていき海底が深くなると砂嘴の延長はとまる。

赤羽台地の角なので波蝕台に繋がる形で砂嘴が出来た。

この先で荒川を渡らねばならないので当然線路はこの砂嘴の上を走る。高さを稼ぐ為である。この砂嘴江戸時代荒川開削と田んぼ開発により削られているが、根元だけは残っている。赤羽の北で環八を跨ぐ時の橋台はこの砂嘴に乗っている。

 

荒川川口町

当時蛇行していた荒川を真っすぐ渡る為に(鉄橋の距離が短くなるから)右に曲がり、荒川を渡る。川口方には堤防曽根)があるのでそれを超えると熊谷に向けて左に曲がりながら築堤で地平に降りていく。地平に降りた所に川口町駅設置。川口宿からは離れているが駅は水平でないといけないのでここしか無い。

 

川口町から熊谷まではほぼ真っすぐ

川口町からは当初の終点熊谷、その先の高崎までは殆ど直線なのだが、所々に緩いカーブがある。このカーブの全てには必然性があり、全て工事の最小化の為のものだ。

特に芸術的とさえ見えるのは南浦和北浦和間だ。

https://maps.gsi.go.jp/#15/35.859927/139.661572/&base=std&ls=std%7Canaglyphmap_color%2C0.79&blend=0&disp=11&lcd=anaglyphmap_color&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m

南浦和までは低地にあるが、この先で大宮台地に登る。そこで沢が削った斜面に入り、他の沢の斜面側面に取りついて高さを稼いでいく。

浦和駅からはもう芸術点が高く、沢山の小さな沢がある所を、最小限のカーブでその谷頭を両側でギリギリかすめるルートを取っている。ここはダッジボーナスが沢山入る所だろう。舞踏家みたいな避け方である

 

大宮から先も小さいカーブ芸術点高いルートを通るが、中仙道に平行している。中仙道自体芸術点高いルートを通っているのでこの区間コピー忍者って感じだ。

 

このルートの良いところはもう一つあって、途中の蕨から中仙道が平行してくるので宿場町近くに駅を造れば集客と集荷が期待できる。更に当時は道が限定されているので、名のある街道に近くないと客や貨物が駅に来れないのだ。

 

当時の日本が高度な測量でルートを決められたワケ

文明開化したばかりの明治日本が、鉄道二本目でこんだけ緻密なルート選定出来たのは何故か?

お雇い外国人英国人の力だけではない。江戸時代新田開発と用水路開削をしまくっていた為なのだ

台地上に水田を作る場合もっと標高が高い場所から用水路を引いてくる必要がある。水は一度低いところに行ってしまったらもう高さが上がらないから、長距離の測量を正確にせねばならない。その技術が蓄積されていた。

 

やり方は結構単純だ。長い木箱を作り(水盛り箱という)、水を入れる。水面は必ず水平だ。両端の水面から10センチのところに糸を張ったらそれも水平だ(水糸という)。

更に両端の水面から10センチのところにライフルの照準的なものをセットする。その照準で200m先を見て、照準が合っている場所はやはり水平だ。200m先に助手が目盛りが付いた物差しを持って立つと、その地面はこっち側からセンチ下/上がっているかが判る。

これをずっと正確に繰り返す。だから両側の谷頭の直ぐ上を抜けるルートなんてお茶の子さいさいだったかもしれない。

 

という訳で、日本鉄道などが造った初期の鉄道路線は土木技術で地形無視って事を極力避けるルート選定をしているので、マクロ的にもミクロ的にも必然性の塊となっているのでありますよ。

 
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