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2017-10-26

明治維新150周年とはつまり江戸しぐさ伝承殲滅150周年のことになる

江戸しぐさ伝承者は官軍によって根絶やしにされ、最後のひとりにいたるまで徹底した殲滅戦が行われた。

織田信長も一回につき2万人ほどストレス解消に殺したと言うが、明治政府もそれに劣らぬ残虐な行為を行ったわけだ。

江戸しぐさを信奉する立場の人は「明治150年」など粉砕すべき忌まわしいイベントの筈である

粉砕するか、それとも御霊を安んじる、しめやかセレモニーを行うか要注意である

2017-09-23

世界ラノベなのに

某人気異世界ラノベの最新巻を読んでて、ふと、面白いんだけど何かカンに触るな・・・と思って作中人物の行動について考察してみると

 ・最終的には貴族になる

 ・貴族への忖度貴族になる前も後も一貫して当然視している

 ・作品世界内では貴族ネオリベ的なのが普通

 ・庶民への厳罰主義

 ・現代人の知識を持っているくせに国政に影響を及ぼすようになっても家族利益優先

というところがどうも引っかかっているポイントのようだと分かった。

あらためて見まわしてみると、どうも界隈全体が復古主義的だったりミリオタ的だったり優生思想があったり、アレな感じがする。

もちろん現実世界で上記のようなものに大多数の人が現在進行形で悩まされている以上、

作品世界中でもそういうものが描かれている方が入り込みやすいし、また自身処世術について考えさせられる機会が得られるという意味有益なのだが、

現実世界で起きている類似の状況が異常だという意識を薄れさせるという点では、これはきわめて危険図書だと言わざるをえない。

だいたい日本の良くない点は突き詰めればこれらに端を発している(というか明治政府下の日本武家社会の名残で近代国家として微妙だったのを平成になった今でも引きずってしまっている)

ことを鑑みれば、

これらからの脱却ができるかどうか(むざむざ再生産してしまわないかどうか)について、

もっと問題として取り上げられてもいいのではないかと思う。

2017-09-19

anond:20170919151231

資本は集中するほど投資効率が良くなるから、人=資本が一点に集まりやすいのも、経済合理性のみを考えれば自然帰結ではある。

東京一極集中させようとした明治政府初期も、戦後高度成長期も、金(外貨)を稼ぐことが最優先された結果。

じゃあ経済合理性のみで色々判断して良いかどうかというと、ちょっと違うような気もしないでもないし、でも経済が立ちいかなくなるの怖いし、というのが今。

お金好きな人が多いからしゃーない。

2017-09-17

明治政府は、ベトナム人留学生追放したよね

東遊運動」というのを高校世界史で習ったけど、明治政府ベトナム人留学生国外追放している。

  

日露戦争勝利した日本に学ぼうと、ベトナムではファン・ボイ・チャウ日本留学生派遣した(東遊運動)。

しかし、フランスベトナム植民地支配を進めるため、この運動弾圧した。

日本政府もちょうど韓国支配を進めていたので、おなじ列強同士、フランス側の要請を受けいれてベトナム人留学生国外追放した。

  

日本えげつないけど、フランスがやっていることもひどい。

留学も許さないって、あんまりだよ。(´;ω;`)

  

https://anond.hatelabo.jp/20170916194515

2017-09-05

国民国家

戦時中に、兵士として徴用されるのを拒否した人に対して「非国民」という言葉が投げかけられた、というような話をたまに見かける。

もしそのようなことが現実にあったのだとしたら、明治政府の「国民国家形成」という政策は『成功』したんではないかなあ。

なんか変な日本語になってしまった。

2017-07-13

日本人宗教は「滅私奉公

https://anond.hatelabo.jp/20170712073958

ここでも言われてるが道理が通ろうがなんだろうが「死んで償う」という発想がでるのは

儒教を元にした滅私奉公精神から来てる

お家のため、殿のため、一族のため、であるならばいかなる非合法的な手段も取るし判断もする

豪族が出来て

天皇が出来て

武家が出来て

幕府が出来て

戦国が出来て

徳川が治めて

鎖国して

黒船開国させられて

尊王攘夷をして

明治政府が出来て

太平洋戦争して

負けて

GHQ自由平等を教えられて

バブルがはじけて

自由平等を忘れて

滅私奉公精神だけ残り

既得権益だけ残り

システム的癌だけが残り

ブラック企業が産まれ

大企業は自浄作用がないため腐り

潰れ保護され

外資が買い取り

またロジカルシンキングが輸入されて

社員幸福になって

競合はそれを遅まきながらマネ

ベンチャー最初から取り入れて

おかげで景気が回復し始めてる

外敵のいない政治

未だに儒教で回ってる

から政治が糞なまま

 

恐ろしいことにこの間ずっと国民主人公になったことはない

いや、1度だけあった

太平洋戦争戦前

今では朝日扇動たからだとか陸軍が悪いとか言ってごまかすが

なんてことはない

国民のもの自主的に襲撃してたり暴動起こしてたのに

朝日が油を撒いて陸軍が乗っかっただけだ

最初から国民が主犯で国民が悪く国民主人公だった

これを客観的に受け入れないことには

次に国民主人公になったとき同じ失敗を繰り返す

 

もうね

全部儒教のせいなんですよ

またその前から続く天皇を崇拝する信仰から来てるんですよ

年功序列

これ立派な宗教ですよ

日本人お上の言う事、世間の言う事に不平不満はいっても

実際に行動することはない

死ぬか生きるかの一揆ですら権力転覆ではなく減税目的ですよ

徹底的に民衆である自分らが

主役になる気はゼロ

与えられた労働を消化する奴隷になりたいんだよね

これ全部DNAのせいですよ

 

この滅私奉公精神GHQが輸入したシステムバブル絶妙マッチした成果が

経済力2位の栄光時代ですよ

でもバブルが弾けたら滅私奉公けが残り

ブラック企業不正の増加

これこそが儒教の真の姿ですよ

日本人はみんな管理されたい欲求奴隷根性がその血に刻み込まれてる

からちゃんと宗教に入ってるんですよ

「仕組み」よりも「真か否か」よりも「誰が言ったか」の方だ大事

事実」よりも「誇り」、つまり感情」「建前」の方が大事

日本人はみんな漏れなくこれに入ってます、俺でさえ…

日本人はこの滅私奉公自覚してください

これを美しいと感じてるのがあなた信者である証拠です

あなた人生の主役は天皇でもなければお上でもないし世間でもないし将軍会社でもない

あなた自身です

ちゃんとあなた主人公物語を書いてください

 

というと、途端に不安になって何かに縋りたくなるのがDNAのせいなんだよな

自分主人公」という状態に極度にストレスを感じる

ではなく「○○会社サラリーマン」でありたい

自分より大きな存在である○○会社が主役でいてほしい

みんなこう考える

日本人はみんな蟻です

2017-05-19

枝吉神陽

枝吉 神陽(えだよし しんよう、文政5年5月24日(1822年7月12日) - 文久2年8月14日(1862年9月8日))は、江戸時代後期の幕末活躍した佐賀藩思想家教育者国学者藩校弘道館教諭外務卿内務大臣を務めた副島種臣実弟本名は経種。贈従四位佐賀の尊皇派の中心的存在

目次 [非表示]

1 経歴

2 影響

3 同時代評価

4 関連項目

5 参考資料

経歴[編集]

佐賀藩藩校弘道館教授であった枝吉南濠種彰の長男として生まれる。幼児期より神童と賞され、20歳の時には江戸の昌平黌に学んでいるが、ほどなく舎長に推されている。また、漢学に偏重した内容に異議を唱え、国学を学ぶことを認めさせた。

早くから儒教朱子学の教えに疑問を抱いており、佐賀藩哲学である葉隠』をも否定したといわれる。

26歳で帰郷してから弘道館教諭や什物方などを務める傍ら、父南濠の唱えた「日本一君論」を受け継ぎ勤王運動を行った。1850年には「義祭同盟」を結成。天皇を中心とした政治体制である律令制などの知識を伝授するなど、藩論を尊王倒幕に向かわせようとしたが藩主鍋島直正を動かすことは出来ず失敗している。なお、この義祭同盟から実弟副島種臣のほか、大隈重信江藤新平大木喬任島義勇明治維新に大きな影響を与えた人材を多数輩出しており、「佐賀吉田松陰」とも言える人物である。また、水戸藤田東湖と「東西の二傑」と並び称された。

1863年、コレラに罹った妻を看病するうち自身罹患し、死去。享年41。墓所佐賀市本庄町の高伝寺。

影響[編集]

神陽は律令制を学ぶことを奨励したが、彼の教えを受けた江藤新平(初代司法卿)や大木喬任(2代司法卿)は法整備活躍した。また、明治政府が当初導入した太政官制副島種臣が起草したものであるが、ここにも神陽の影響がみられている。

ルジャンドルフランスウラン(Oullins)に生まれランス大学およびパリ大学に学んだ[1]。父親のJean-François Legendre-Héralは人物像を得意とした古典主義彫刻家エコール・デ・ボザールの教師[2]。24歳のときニューヨークの著名な弁護士の娘であったクララヴィクトリア・ミュロックブリュッセル結婚した。結婚後すぐに米国移住し、帰化した。

南北戦争[編集]

1861年に南北戦争が勃発すると、ルジャンドルは第51ニューヨーク志願兵歩兵連隊兵士募集に協力し、1861年10月29日に同連隊少佐に任官した。その後ノースカロライナでの戦闘従事し、1862年のロアノーク島の戦いにも参加した。しかしながら、1862年3月14日、ニューバーンの戦いで重傷を負った。

負傷にもかかわらず、ルジャンドルは軍を離れず、同年9月20日には中佐に進級。1863年には第9軍に配属され、多くの戦闘に参加した。1863年3月14日には大佐に進級。ヴァージニア荒野の戦いではユリシーズ・グラント将軍の指揮下にあったが、その最中の1864年5月6日ルジャンドルは再び重症を負った。今回は顔面を撃たれ、左目と鼻を失った。アナポリス病院入院したが、その間にも南軍最後攻撃から街を防衛するための準備を手伝った。その後ニューヨーク移送され、そこで第9軍の兵士募集を手伝った。1864年10月4日名誉除隊したが、1865年3月13日には准将名誉進級した。

中国[編集]

1866年7月13日ルジャンドル厦門米国領事に任命された。7月ニューヨークリバプールに向けて出港し、その後ヨーロッパアジア大陸旅行12月厦門に到着した。領事として、ルジャンドルは5つの条約港、すなわち厦門基隆台北、淡水および高雄責任を持った。そこでは、年季奉公人の不正取引抑制に尽力した。

1867年3月12日米国ローバー号が台湾遭難し、その乗員が台湾原住民殺害されるローバー事件(en)が発生した。ルジャンドルは福州へ赴き、台湾中国側当局問題解決圧力をけるように、福建・浙江総督を説得した。福建総督は自ら行動は起こさなかったが、ルジャンドル台湾に行く許可を与え、台湾知事が協力するように紹介状を書いた。

ルジャンドルは、遭難現場訪問のために米国船アシュロット号を雇い、台湾当局に行動させようとした(これは失敗した)。その後アメリカ合衆国海軍ヘンリーベル少将懲罰作戦実施したが、これも失敗した。さら情報を集めるため、ルジャンドルは再び台湾に出向いた(このときは、紹介状は無しであった)。

中国へ戻ったルジャンドルは、南台湾に軍隊派遣するよう福州の総督を説得し、ようやくこれに成功した。ルジャンドルは400〜500人の規模を希望したが、これよりはかなり小さな遠征隊が、1867年7月25日台湾に送られた。ルジャンドル砲艦派遣ベル提督要請したが、これは拒否された。このため、武装商船ボランティア号が雇われた。ルジャンドル9月4日台湾上陸したが、上司に対しては全くの傍観者として行動したと報告している。

ルジャンドル直ちに本来任務を開始した。南台湾の険しい山岳地帯を通りぬけ、原住民酋長と難破した欧米の船員の安全保証するための条約協議した。

1871年9月6日琉球宮古島)の船が台湾沖で遭難したが、ローバー事件と同様に、多数の船員が殺害された(宮古島島民遭難事件)[3]。1872年2月29日ルジャンドルは先に結んだ条約日本人船員にも適用するよう拡大するため、台湾に出向いた。任務は不成功に終わり、またルジャンドル北京駐在米国公使フレデリックロウ(en)とも不仲になってしまった。

日本[編集]

1872年厦門から米国へ戻る途中、ルジャンドル日本に立ち寄り、明治政府台湾問題武力解決提唱した。これは副島種臣外務卿意見とも一致しており、ルジャンドル米国領事の職を辞し、1872年12月12日外交および軍事顧問として明治政府雇用された[1]。1873年2月、副島は2年前に台湾で起きた宮古島殺害事件の処理交渉特命全権公使外務大臣として北京派遣されたが、ルジャンドルもこれに参加した。この交渉部分的には成功であったが、引き続きルジャンドル1874年台湾出兵の準備を手伝った。台湾問題に関して、ルジャンドル駐日米国公使チャールズ・デロングの支援を受けており、また個人資格でこの遠征に参加するつもりであった[4][5]。加えて、2名のアメリカ軍人が雇用された。ところが、デロングの後任の米国公使ジョン・ビンガムは、ルジャンドルを支持せず、1874年4月19日台湾出兵は一旦延期とされた。ルジャンドルらは長崎で出征準備を整えていたため、大久保利通長崎に向かった。結局遠征部隊5月18日長崎を出港したが、ルジャンドル大久保と共に東京に戻った。その後、ルジャンドル交渉のため福州に派遣されることとなったが、アメリカ総領事職場放棄の罪に問われ、短期間ではあるが上海収監されてしまったため、遠征には参加できなかった。1875年には日本政府から勲二等旭日重光章を授与されたが、これは外国人としては最初のものであった[1]。その年の末には顧問を辞任した。

ルジャンドル1890年まで日本滞在し、大隈重信個人的顧問を務めた。

韓国[編集]

1890年3月ルジャンドル日本を離れ、朝鮮王高宗顧問となった。1899年9月1日漢城(現 ソウル)で卒中により死亡するまで、その職を務めていた[6]。

原因・背景[編集]

1871年(明治4年)10月宮古島から首里年貢輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風遭難した。乗員は漂流し、台湾南部に漂着した。船には役人と船頭・乗員合計69名が乗っていた。漂着した乗員66名(3名は溺死)は先住民現在台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落拉致された。

先住民とは意思疎通ができなかったらしく、12月17日遭難者たちは集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々と殺害し54名を斬首した(宮古島島民遭難事件)。12名の生存者は、漢人移民により救助され台湾府の保護により、福建省の福州経由で、宮古島へ送り返された。明治政府清国に対して事件の賠償などを求めるが、清国政府は管轄外として拒否した。翌1872年明治5年琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良は日本政府に対し責任追及の出兵を建議した。1873年(明治6年)には備中国浅口郡島村現在岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が起こった[1]。これにより、政府内外で台湾征討の声が高まっていた。

開戦準備へ[編集]

副島種臣

宮古島台湾遭難事件を知った清国アモイ駐在アメリカ合衆国総領事チャールズルジャンドル(リゼンドル、李仙得)は、駐日アメリカ公使チャールズ・デロングを通じて「野蛮人懲罰するべきだ」と日本外務省提唱した。

初代龍驤台湾出兵旗艦であり副島種臣大久保利通をそれぞれ、中国に運んだ。

孟春(砲艦)は三本マストスクーナー型鉄骨木皮の小型砲艦で、台湾出兵に参加した。

外務卿副島種臣はデロングを仲介しルジャンドル会談、内務卿大久保利通ルジャンドル意見に注目し、ルジャンドル顧問として外務省雇用されることとなった。当時の明治政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論などで対立があり、樺山資紀や鹿児島県参事大山綱良ら薩摩閥は台湾出兵を建言していた。これらの強硬意見の背景には、廃藩置県によって失業した40万人から50万人におよぶと推定される士族の不満のはけ口を探していたことがある[2]。

1873年、特命全権大使として清国に渡った副島外務卿は随員の柳原前光を用いて宮古島台湾遭難事件などの件を問いたださせたが[注釈 1]、清朝の外務当局は、台湾先住民は「化外」であり、清国統治のおよばぬ領域での事件であると回答して責任回避した[1]。その後、日本ではこの年秋、朝鮮使節派遣をめぐって政府が分裂し(明治六年政変)、また、翌1874年1月の岩倉具視暗殺未遂事件、2月の江藤新平による反乱(佐賀の乱)が起こるなど政情不安が昂じたため、大久保利通を中心とする明治政府国内の不満を海外にふり向けるねらいもあって台湾征討を決断し、1874年明治7年)4月、参議大隈重信台湾蕃地事務局長官として、また、陸軍中将西郷従道台湾蕃地事務都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入った[1]。

明治六年政変における明治天皇勅裁は、ロシアとの国境を巡る紛争を理由とした征韓の「延期」であったため、ロシアとの国境が確定した際には、征韓派の要求が再燃する可能性が高かった。政変下野した副島にかわって外交を担当することとなった大久保としては、朝鮮よりも制圧が容易に思われた台湾出兵をむしろ積極的企画したのである

台湾での戦闘[編集]

西郷従道

台湾出兵に対しては、政府内部やイギリス公使パークスやデロングの後任のアメリカ公使ジョン・ビンガム(John Bingham)などからは反対意見もあった。特に参議木戸孝允らの長州系は征韓論否定しておきながら、台湾への海外派兵をおこなうのは矛盾であるとして反対の態度をくずさず、4月18日木戸参議辞表を提出して下野してしまった。そのため、政府は一旦は派兵の中止を決定した。

台湾出兵時の日本人兵士

水門の戦 最も激しい戦いであった。当時の日本人による版画[3]

国立公文書館が所蔵している公文書によると1874年4月4日三条実美により台湾蕃地事務局が設置される。(以後の任命は当時太政大臣であった三条実美からの奉勅となっている)同年4月5日台湾蕃地事務都督に西郷従道が任命される。[4]同年4月6日谷干城赤松則良に台湾蕃地事務局参軍と西郷従道を輔翼し成功を奏する事を任命される。[5]同年4月7日海軍省から孟春艦、雲揚艦、歩兵第一小隊、海軍砲二門と陸軍省から熊本鎮台所轄歩兵大隊砲兵一小隊出兵命令が命じられる。[6]という経緯になっている。

5月6日台湾南部上陸すると台湾先住民とのあいだで小競り合いが生じた。5月22日台湾西南部の社寮港に全軍を集結し、西郷命令によって本格的な制圧を開始した[1]。6月3日には牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。戦死者は12名であった[1]。しかし、現地軍は劣悪な衛生状態のなか、亜熱帯地域風土病であるマラリアに罹患するなど被害が広がり、早急な解決が必要となった。マラリア猖獗をきわめ、561名はそれにより病死した[1]。

収拾への交渉[編集]

明治政府は、この出兵の際に清国への通達をせず、また清国内に権益を持つ列強に対しての通達・根回しを行わなかった。これは場合によっては紛争の引き金になりかねない失策であった。清国の実力者李鴻章イギリス駐日大使パークスは当初は日本軍事行動に激しく反発した。その後、イギリス公使ウェードの斡旋で和議が進められ、8月、全権弁理大臣として大久保利通北京に赴いて清国政府交渉した。大久保は、ルジャンドルフランス人法学者ボアソナード顧問として台湾問題交渉し[7]、主たる交渉相手総理衙門大臣の恭親王であった[1]。会談は難航したが、ウェードの仲介や李鴻章の宥和論もあって、10月31日、「日清両国互換条款(zh)」が調印された[1][7]。それによれば、清が日本軍出兵を保民の義挙と認め、日本は生蕃に対し法を設ける事を求め、[8]1874年12月20日までに征討軍を撤退させることに合意した。 また日清両国互換条款互換憑単によると清国遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)を払い、40万両[注釈 2]を台湾の諸設備費として自ら用いる事を願い出費した。[9]また、清国日本軍の行動を承認したため、琉球民は日本人ということになり、琉球日本帰属国際的に承認されるかたちとなった[1]。

帰結[編集]

日本清国との間で帰属がはっきりしなかった琉球だったが、この事件の処理を通じて日本に有利に働き、明治政府は翌1875年明治8年)、琉球に対し清との冊封朝貢関係廃止明治年号使用などを命令した。しか琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。

1879年明治12年)、明治政府のいわゆる琉球処分に際しても、それに反対する清との1880年明治13年)の北京での交渉において、日本沖縄本島日本領とし八重山諸島宮古島中国領とする案(分島改約案)を提示したが、清は元来二島領有は望まず、冊封関係維持のため二島琉球に返還したうえでの琉球王国再興を求めており、また、分島にたいする琉球人の反対もあり、調印に至らなかった。

また、明治政府兵員輸送英米の船会社を想定していたが拒否され、大型船を急遽購入して国有会社の日本国郵便汽船会社に運航を委託したがこれも拒否され、大隈重信はやむなく新興の民間企業である三菱を起用することに決定したが[10]、この協力により、以降、三菱政府からの恩恵を享受できることとなり、一大財閥になるきっかけとなった[11]。

台湾出兵と熱帯病[編集]

被害[編集]

日本軍の損害は戦死8名、戦傷25名と記録されるが、長期駐屯を余儀なくされたため、マラリアなどの感染症に悩まされ、出征した軍人軍属5,990余人の中の患者延べ数は1万6409人、すなわち、一人あたり、約2.7回罹病するという悲惨な状況に陥った。

軍医部の対応[編集]

1871年(明治4年)、兵部省は、陸軍省海軍省に分かれ、軍医寮は陸軍省に属し、軍医頭は松本良順(のちに順)であった。台湾出兵当時、軍医部は創立より日が浅く経験不足であったが、総力を挙げて事態にあたった。出征軍の医務責任者は桑田衡平二等軍医正(少佐相当)、隊付医長は宮本正寛軍医大尉相当)であった。他に24名の医官を従軍させた。医官は全員奮闘したが、極悪の環境と猛烈な伝染病で病臥する者が多く、西郷都督からは薬だけでも兵士にあたえてほしいと要請された。医官の多くは漢方医で、熱帯病の治療にはまったく経験がなかったという。かれらは交代の22名が到着したため、ようやく帰国できた。宮内省から外国人医師が派遣された。ドイツ出身のセンベルゲル(Dr. Gustav Schoenberg)は、東京大学医学部前身にあたる大学東校お雇い外国人医師レオポルト・ミュルレルの推挙であったが、能力がなくトラブルを起こした。しかし、彼とともに送られた6台の製氷機械は大いに役に立ったといわれている[12]。

この条約が締結される頃の東アジア世界は、近代国際法を掲げながら、実際には弱肉強食を旨とする西欧列強が浸透してくる時期にあたる。当時朝鮮は清の冊封国であったが、鎖国政策を国是としていたため、国際交流は非常に限られていた。しかしそのような朝鮮にも1860年代以降国際化の波(外圧)が押し寄せ、海上から西欧諸国が訪れるようになる。朝鮮西欧列強との出会いは、概ね芳しいものではなかった。たとえば1866年にはフランス軍キリスト教徒虐殺事件丙寅迫害)の報復として軍艦7隻総兵力1000人で朝鮮江華島攻撃占領する丙寅洋擾が発生し、1871年にはアメリカ合衆国ジェネラルシャーマン事件1866年発生)の報復として軍艦5隻総兵力1200人艦砲85門で朝鮮江華島攻撃占領を行っている(辛未洋擾)。丙寅洋擾と辛未洋擾は朝鮮通商を行うための侵略であったが却って斥和碑を建てるなど攘夷につながった。

当時朝鮮政権を担っていたのは高宗の実父興宣大院君である清朝から西欧列強情報を得ていた大院君は、断固として鎖国を維持する姿勢を貫いた。これは中国における西欧側の非道を知ったこともあるが、朱子学以外を認めない衛正斥邪という思想政策積極的に推し進めたことから分かるように、大院君は中華思想的発想の持ち主であり、その点から西欧諸国夷狄視していたことも理由の一つである。その強い姿勢は「西洋蛮人の侵犯に戦わない事は和議をする事であり、和議を主張することは売国行為である」と書かれた斥和碑を朝鮮各地に建てたことに窺うことができる。このように当時の朝鮮では攘夷熱が高まっていた。

また朝鮮では、文禄・慶長の役時に、中国朝鮮を守ったため、今回も中国朝鮮を守ってくれるに違いないという立場であり、小島毅は「中国東アジア全体にとっての親分だというのが朝鮮認識ですから親分である中国自分を守ってもらおうとするわけですね」と述べている[2]。

日朝間の懸案:書契問題[編集]

他方、西欧列強が迫っていた東アジア諸国の中で、いちはや開国明治維新により近代国家となった日本は、西欧諸国のみならず、自国周辺のアジア諸国とも近代的な国際関係樹立しようとした。朝鮮にも1868年12月明治政府樹立するとすぐに書契、すなわち国書対馬藩の宗氏を介し送った。江戸時代を通じて、朝鮮との関係は宗氏を通じ行われてきたためであるしか国書の中に「皇」や「奉勅」といったことばが使用されていたために、朝鮮側は受け取りを拒否した。近代的な国際関係樹立は、はなから躓いたといえよう。

この問題は、日朝双方の国交に対する思惑がすれ違ったことが原因である日本側は従来の冊封体制的な交隣関係から条約に基礎づけられた関係へと、日朝関係を変化させることを企図したのであるが、一方朝鮮側はこれまでどおり冊封関係にとどまり、その中で日本との関係位置づけようとしていた。前近代における冊封体制下において、「皇上」や「奉勅」ということばは中国王朝にのみ許されたことばであって、日本がそれを使用するということは、冊封体制の頂点に立ち朝鮮よりも日本の国際地位を上とすることを画策したと朝鮮は捉えたのである

なお近代以前の日朝関係については朝鮮通信使に詳しい。

征韓論を唱えた西郷隆盛。ただし江華島事件及びその後の日朝修好条規締結に対して義に悖ると批判していた。

1868年以来、何度か日本から国書がもたらされたが、日朝双方の思惑の違いか両国関係は円滑なものとは言えなかった。書契問題を背景として生じた日本国内における「征韓論」の高まりに、大院君が非常な警戒心を抱いたことも一因である。また釜山においては日朝両国官僚同士が険悪となっていた。長崎出島のごとき釜山倭館限定した国交を望む朝鮮側と、対馬宗氏から外交権を取り上げて外交を一元化し、開国を迫る日本との間に齟齬が生じたのである釜山倭館朝鮮側が日本特に対馬藩使節商人を饗応するために設けた施設であったが、明治政府対馬藩から外交権を取り上げ、朝鮮との交渉に乗り出そうとした。その際、倭館をも朝鮮側の承諾無しに接収日本公館としたことから事態悪化したのである。結果、必要物資供給及び密貿易の停止が朝鮮から宣言される事態となった。

日本側も単に国書を送りつけるだけだったわけではない。版籍奉還という日本国内の難問を無事に乗り越えた1870年朝鮮との国交交渉を有利にするため、冊封体制の頂点に立つ清朝と対等の条約日清修好条規を締結した。これにより冊封体制の維持を理由に国交交渉忌避する朝鮮を、交渉テーブルに着くように促したのである

1873年に対外強硬派の大院君が失脚し、王妃閔妃一派が権力を握っても、日朝関係は容易に好転しなかった。転機が訪れたのは、翌年日清間の抗争に発展した台湾出兵である。この時、日本朝鮮出兵する可能性を清朝より知らされた朝鮮側では、李裕元や朴珪寿を中心に日本から国書受理すべしという声が高まった。李・朴は対馬藩のもたらす国書に「皇」や「勅」とあるのは単に自尊意味するに過ぎず、朝鮮に対して唱えているのではない、受理しないというのは「交隣講好の道」に反していると主張した。これにより朝鮮側の対日姿勢がやや軟化した。

条約締結までの経過[編集]

国交交渉[編集]

国交交渉再開の気運が高まり1875年交渉が行われた。日本側は外務省理事官森山茂と広津弘信、朝鮮側は東莱府の官僚交渉テーブルに着いたが、やはり書契に使用される文字について両者の認識に食い違いが生じた。この他森山洋服着用など欧米スタイルを貫こうとする姿勢朝鮮側が嫌悪感を示したことで交渉ははかばかしくなかった。交渉の停滞に業を煮やした森山4月には砲艦外交を行うことを日本政府に上申した[3]が、三条実美の反対があり、川村純義の建議により日本海軍砲艦二隻(雲揚および第二丁卯)が5月派遣され朝鮮沿岸海域の測量などの名目示威活動を展開した。その後雲揚は対馬近海の測量を行いながら一旦長崎に帰港するが、9月に入って改めて清国牛荘(営口)までの航路研究を命じられて出港した。

江華島事件[編集]

詳細は「江華島事件」を参照

9月20日首都漢城に近い江華島付近で、雲揚所属の端艇が朝鮮砲台から砲撃を受ける事件が発生した(江華島事件)。雲揚は反撃し、永宗島要塞を一時占領、砲台を武装解除し、武器旗章楽器等を戦利品として鹵獲した。この事件における被害は、朝鮮側の死者35名、日本側の死者1名負傷者1名(のち死亡)であった。事件朝鮮側が日本海軍所属軍艦と知らずに砲撃してしまった偶発的なものとされ[4]、この江華島事件の事後交渉を通じて、日朝間の国交交渉が大きく進展した。

条約交渉における日本側の基本姿勢[編集]

ボアソナード

明治政府のお雇い外国人ボアソナードは、事件を処理するために派遣される使節への訓令について、以下を決して朝鮮に譲歩すべきではないと具申した。

釜山・江華港を貿易港として開港する。

朝鮮領海航行の自由

江華島事件についての謝罪要求

またこれらが満たされない場合軍事行動も含む強硬外交姿勢を採ることをも併せて意見している。これらの意見ほとんど変更されることなく、太政大臣三条実美を通じて訓示に付属する内諭として使節に伝えられた。さら朝鮮に対する基本姿勢として、三条はこの江華島事件に対して「相応なる賠償を求む」べきとしながら、使節団の目的を「我主意の注ぐ所は、交を続くに在るを以て、・・・和約を結ぶことを主とし、彼能我が和交を修め、貿易を広むるの求に従ひときは、即此を以て雲揚艦の賠償と看做し、承諾すること」だと述べていた(強調、加筆者)。これは欧米列強干渉を招かないよう配慮すべし、という森有礼の言が容れられたものである

さらボアソナードのいう軍事行動も含む強硬外交姿勢も、日本は忠実に実行に移している。使節団一行には軍艦兵士の護衛がつき、威圧効果朝鮮側に与えようとした。また交渉が決裂した場合に備え、山縣有朋山口県下関に入り、広島熊本両鎮台の兵力をいつでも投入できるよう準備していたのであるさらにいえば、日本砲艦外交姿勢は無論朝鮮の屈服を促すものであったが、同時に日本国内の「征韓論」を唱える不平士族の溜飲を下げることも狙ったものであった。

ただこのように軍事的高圧な姿勢を表面上見せながら、当時の日本は軍費の負担という点からいって、戦争が好ましいとは考えていなかった。また戦争の発生がロシア清朝の介入を許すきっかけになるかもしれず、その点からも極力戦争は避ける考えであった。

以上をまとめると日本側の交渉の基本姿勢は、以下の二点に集約される。

砲艦外交を最大限推し進めながら、実際には戦争をできるだけ回避すること。

江華島事件の問罪を前面に押し出しながら、実質的には条約を締結し、両国の懸案で長年解決しなかった近代的な国際関係樹立すること。

また対朝鮮政策は、実質的には朝鮮宗主国である清朝政策でもあり、清朝干渉をなくすべく事前に清朝の大官たちと折衝を重ねることも日本は行っている。19世紀欧米列強アジア侵略に対抗するため、清朝朝鮮ベトナム琉球などの冊封国保護国化あるいは併合することによって皇帝を中心としたアジア伝統的な国際関係をそのまま近代国際関係へと移行させて清の地位と影響力を保持しようとし、冊封国に対して保護国化、モンゴルチベット新疆などの保護国に対しては植民地化を強めようとしていた。

この時期の東アジアは、日中朝そして西欧列強の間における複雑な絡み合いが相互作用する場が形成されつつあった。日朝間の国交交渉再開もその結果としてもたらされたものであると同時に、また別の歴史事象の原因でもあったのである

2017-04-28

http://anond.hatelabo.jp/20170428130025

東京中心日本を学ぶためには明治政府の成り立ちも知る必要があり、

そのためには・・・って感じでどこまでも続くんだけど何言ってんの?

 

日本史世界史に加えて1945年を境目にした現代史って科目の設立なら同意

2017-01-18

http://anond.hatelabo.jp/20170118173525

学校って若い連中が街でやんちゃしないよう、

明治政府が作ったものからなぁ。

学級委員みたいに相互監視させる仕組みを作ったり)

刑務所と同様のシステム

規律を守る兵隊になれるように)=富国強兵

2016-10-02

正座歴史は浅い

正座という名前をつけて道徳教育して国民に広げたのは明治政府だとかで、国民に定着してからまだ100年やそこらの歴史しかないらしい。

それ以前は男も女も茶人もあぐらか片方の膝を立てるのが正式な座り方で、利休の肖像画や像はあぐらをかいており、十二単は中であぐらをかくようにデザインされている。

しか着物で立て膝をしたりあぐらをかいたら性器が見えるのではないか

昔の女性ふんどしをしめてないし、布が高価なので貧しい男性もあまりしめてない。

しかテレビで見かける農民は短い着物を着ている事も多くて、あれであぐらは丸見えではないのか。

着物で綺麗にあぐらをかく方法がまるで解らなすぎて昔の人はどうやって隠していたのか気になる。

2016-09-09

西郷どん

昨日、2018年のNHK大河ドラマが、西郷隆盛主人公にした「西郷どん」と発表されましたが

西郷隆盛は、西南の役明治政府に反乱を起こしてた大罪人で、それを美化するドラマNHK放送して良い訳がないです。

NHkのホームページNHKオンラインから苦情を送信したけど無視されそう。

国会予算承認を受けてるNHKで、そんな反乱美化のとんでもないドラマ放送するなんて許せないです。

NHK大河ドラマなんて、視聴率が1けたに低迷してるらしいので、

予算無駄からスポーツ中継や報道番組等を放送すれば良いと思います

2016-08-21

たぶん、根本的に考え方が違うと思う。


人間社会成熟して、科学技術で作られた道具が肉体を凌駕し、マスの心理科学で操れる時代に、必要能力は見極められつつ有ると考える。

基本的に「論理的思考力」と「コミュニケーション能力」と「自制心」の3つが、人間社会必須とされる能力で、異なる文明が有ったとしても変わらないと考えている。

センター試験大学受験は、上記能力を持った者なら容易に突破出来る設定だが、勉強に特化しても突破可能からセンター試験は役に立たないと言われる事になる。

ただし、選別方法としてこれ以上の物を提示出来ないので、まさに「それに代わる明確な測定方法を示しえているわけでもない。」というわけだ。

折しもオリンピックが開催中で、超人たちの祭典を見ているが、彼らの身体能力オリンピックという舞台有ってこそいきる物だ。

戦国時代なら重宝されたかもしれないが、もうそ時代に戻る事は無い。

そして、歴史上の偉人を振り返った時、上記3つの能力の全てか特化したいくつかを持っている事に気付くはずだ。

時代を超えて、人類誕生から必要とされてきた能力に、説明がついたのが今の時代だと考えている。

幕藩体制能力有る者が下級武士に甘んじていた件については、すでに明治政府から改善が始まっている。彼ら自身が、身に沁みて理解していたから。

現代では能力が有ると証明する機会は豊富に用意され、ある意味過剰なほどだ。AO入試世間を騒がせた某塾のような、制度を逆手に取る輩が現れるほどに。

そして最も重要な事なのだが、あなたの指摘通り多様性の確保という観点福祉を行った場合飼い殺しが最適解になる。

さない程度、最低限に与えておけば後はご自由にと。

そこまで割り切る事が俺には出来ないので、3つの能力が劣った者も、多少なりとも普通生活が出来れば良いと考えている。

もちろん、出来る範囲でだが。

http://anond.hatelabo.jp/20160821172148

2016-08-20

九州東北に関する個人的偏見

#九州で女性として生きること のタグが闇すぎてにわかには信じがたいと話題に「目が点になった」 - Togetterまとめ

九州の人は、不平不満が多い。

自分の意に沿わない事態が起こると、それはすべて他人のせいだと考える。

自分の思うとおりにさえなっていれば何も悪いことなど起きなかったはずで、何か悪いことが起きたらそれは他人が悪いのである

そのため他人攻撃することをいとわない。

また、主に「自分より力を持っていそうなだれか」のせいだと考える。

そのまんま上司立場の強い人に噛みつく場合もあるが、

実際にはそうではないのに、「この人は裏で不正に力を持っている」などの妄想を膨らませ

その対象を悪の権化のように言い散らすこともある(上下関係には弱いので、そういうことのほうが多い)。

神話時代から国の興りを自分たちの住処からだと称し、江戸幕府に対して300年恨みをため込んで、とうとう明治政府自分のものにしてしまった人たちを感じる。

彼らは本当は、この世は自分のものであり、自分世界の中心だと信じている。それぞれに。


東北の人は、あきらめが早い。

自分の意に沿わない事態が起こると、「ああもうしょーがないね」とすぐにあきらめる。

基本的に、あらゆる物事について、自分意思など大して影響力のない微々たるものだと思っていて、

なりゆきにまかせ合わせていくしかないと思っている。

東北人間にとって、冬に降る大雪や、夏に吹く冷風や、東京の人たちのお達しや、だれか他人意見はすべて、

逆らいようのない何事かである

あきらめは早いが、さっぱりしている訳ではない。むしろねちっこい。

雪に降り込められた家の中で、欝々と春を待ちながらあきらめたことを執拗く数えている。

数えているだけで、それに対する打開策などは考えない。自分たちは等しく無力だと信じている。

から時々、打開策を考えて自分から動こうとする人が出た時の、同調圧力からくる足の引っ張りようは尋常ではない

坂上田村麻呂時代から虐げられ、そして最後には江戸幕府に殉じ、結局いい目など一度も見たことのない人たちを感じる。

彼らは心の底から自分たち辺境人間であると信じている。その分だけ、無責任である

2016-07-20

日本フリーセックス伝統!とかドヤってる人はどうかしてる

だったら、昔の日本人男性はそんなに他人の子どもを育てたのか?

と疑問に思ったが、よく考えたら大半の人は農家なんだから

子ども=働き手が増えるわけで、奥さんが他人の子をはらんだらむしろラッキーだったんだろうな

どのみち遺産は長子が継承するわけで、最初の子自分の子である確証はほしかっただろうが、

それ以降の子どもはソルジャー扱いで誰の子でも良かったんだろう

ただ、世界的な小氷河期飢饉が連発した江戸時代の後半は、

随分と嬰児殺し&育児放棄問題になっていたらしい。水子供養って実はそれ関係なんでしょ。

フリーセックスの結果、子どもが次々と生まれた瞬間に殺され/捨てられていたとすると、

近代化以降の禁欲化は、西洋キリスト教)の影響だけじゃなくて、

明治政府富国強兵策=人口増加制作の影響もある気がする。

まれたからには殺すな → 殺すくらいなら産むな、的な流れね。

ただ、大正時代ですら産婦人科付きの子殺し業者が捕まっているので

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B0%E3%81%84%E5%AD%90%E6%AE%BA%E4%BA%BA

実のところ明治大正になってもフリーセックスの慣習は残っていたのかも

そう考えると、とてもじゃないが前近代の性倫理を諸手を挙げて賞賛する気も起きないし、

日本フリーセックス伝統!とかドヤってる人もどうかしてる。

2016-07-07

銀行はなぜ合併しなければならなかったのか

江戸時代日本は米・金・銀という三種類の通貨システムを平行して扱っていた。徳川幕府諸侯領(明治時代以降藩と呼ばれるようになるやつ)が入り乱れた連合国家であった。諸侯領間における政治経済システムの違いは大きかった(要するに戦国の遺風を引きずった藩とそうでない藩があった)。上記のような事情があった結果金融業の発達は著しく、幕末には多くの諸侯がこうした金融業者の支配下に置かれるありさまだった。

明治政府戊辰戦争後、

などといった問題対処するために、新貨条例および国立銀行条例が制定した。これらの制度

というなにがなんだか分からない制度になっていた。しかしこれは当時の国際情勢を考えると仕方がない話で

といった状態で、日本近代金融システムを構築するにあたって模範とすべき制度はまだなかった。結果アメリカを真似して兌換券の分権的発行を主軸とする制度が作られた。このため各地に割拠していた金融資本国立銀行への転換が進んでいった。

しか殖産興業の進展、西南戦争による莫大な戦費などといった問題対処するために、不換紙幣の発行を国立銀行に認めるに至った。

結果インフレなど金融システムの混乱が見られたため、ここにアメリカ型分権型金融システムには限界があることが明らかになり、日銀法と旧銀行法が導入されイギリス式中央銀行制度が導入されることになった。これが 1882 年。

このような経緯があったため、金融資本の再編といった事態にまでは話が進まず、そのまま第一次世界大戦関東大震災突入する。戦争景気による企業の無理な業容拡大と戦後景気後退震災によって銀行には不良債権が蓄積された。

上記のように各地に雑多に存在する金融資本江戸時代のそれを引きずっていたため近代銀行としては規模が小さく、これによって金融不安が高まり昭和金融恐慌に至った。これが 1927 年(1929 年や 1930 年ではない)。

その状態さらに 1929 年 1024 日はやってきた。 1930 年にはその影響が日本にも及ぶに至った。

かかる状況の中で昭和二年旧銀行法改正により 1927 年から中小銀行の整理が進められていたが、 1936 年馬場鍈一大蔵大臣により「一県一行主義」が掲げられた。馬場大蔵大臣としては失格者で財界との対立の結果大蔵大臣から放逐され憤死することになるのだが、翌 1937 年に日中戦争が開戦、日米開戦もほぼ既定路線となるなかで一県一行主義継続され日米開戦のころには中小銀行の整理は完了した。

こうした集権的かつ計画的経済運営にあたったのはいわゆる革新官僚たちで、その親玉吉田茂だった。彼らは社会主義的な経済思想国家主義的な政治思想を併せ持っており、戦中戦後日本の内政を主導した。

全然関係ない話だが、社会主義国家主義反自由主義という思想セットは革新官僚リーダーの一人である岸信介の孫の安倍晋三にも受け継がれていることはよく指摘される。

戦後岸が政界進出したこともあり、結果として一県一行主義体制および統制的な銀行体制はほぼそのまま戦後に引き継がれることになった。もちろん建前上は一県一行主義廃止され、戦後資金流通の円滑化のために戦後地銀いくら設立されたが大勢に大きな影響をあたえることはなかったのだった。

このような情勢のなかで、戦後日本金融当局==大蔵省銀行に対して

  • とにかく安定して資金供給を行うこと
  • 間違っても競争などしないこと

を求めて各種の行政指導や各種許認可を縦横にもちいて銀行群をコントロールした。これをいつしか護送船団方式と呼ぶようになっていた。

これは実際うまくいっていた。バブル崩壊までは。バブル崩壊の余波は大きく、護送船団方式では銀行を守り切れないことは明らかになっていた。 1995 年には木津信用組合兵庫銀行倒産するに至った。

また長らくの護送船団によって日本金融システム陳腐化は著しく国際社会において東京金融都市としてまったく影響力が無い点も問題とされた。

これらの問題対処するためとして金融ビッグバンと称し護送船団は解体されてしまった。銀行はここに自由サービス投資を行えるようになった。

ところで足元の経済情勢を見るに 1993 年から 1996 年にかけて経済成長率は 2-3% を維持しており、ここに橋本総理大臣バブル崩壊による不景気は終了したという判断をするに至った。また 1995 年には武村正義大蔵大臣により「財政危機宣言」が出されており財政再建を開始すべきという機運が高まっていた。

そこで橋本内閣は 1997 年、消費税増税などを含んだ超緊縮予算を成立させる。これが大失敗であった。緊縮財政により景気は悪化金融システム不安は再発し北海道拓殖銀行山一證券破綻、翌 98 年には橋本内閣総辞職現在まで続く長い長い不景気が始まった。

しかしここに至って護送船団方式の再開は難しく、銀行はノーガードで野に放り出されてしまった。かかる状況のなかでは銀行経営効率を上昇させるような積極投資は難しいことは明らかで、銀行合併による規模の拡大によって身を守るという手段をとらざるを得なかった。

結果生まれたのが三大メガバンクである。このような事情によって、消極的理由で成立した合併であるから当事者たちは乗り気であるはずもなく、旧来の自己立場防衛のために果てしない内紛が始まることは、それはもう仕方のないことだったと言えるのではないか

そのような事情の中で銀行システムの開発にあたる SIer技術者は内紛の道具の一つとなり疲弊を重ねている。

僕が言いたいことは何か。誰か頭が悪い人が一人いたからこのような状況になっているという訳ではないということ。むしろ一人ひとりができることを着実にやった結果がこうなのだということ。つまり、逆に言えばこの状況を解決する手段など無いということ。みずほ現場で苦しむエンジニアにできることは、逃げることだけだということだ。

2016-05-03

士農工商歴史修正主義と反発する人

士農工商が既に教科書で使われなくなっているという話が話題になっている。


そもそも4つの区分で表せるようなものじゃないとか、明治政府見方から脱却したとか色々あるみたいだけど徐々に歴史観が変化していっているのは確かなようだ。

このように史料を元に歴史を従来の学説とは違った視点で見ることを本来の「歴史修正主義」という。


ところがこの用語ホロコースト否定派が「私は歴史修正主義だが、ホロコーストはなかった。」というような形で使用してしまったがために、歴史修正主義者=捏造する人というレッテルになってしまったわけだ。

そのため、現在この言葉基本的左翼極右否定する際に使われることが多い。


ところが、冒頭で上げたような教科書記述を変更するような本来の「歴史修正主義」的なことも未だに行われている。

これは歴史学では極ふつうの事だからだ。

もちろんアカデミックな場での議論等々はあるんだろうが、教科書記述変更などを考えても普通にやっている。


ところが一部、この手の歴史観の変更に懐疑的見方をしている人がいる。

なぜなのだろうか?と思った時に彼らの態度が何を警戒しているのかと思ったら、レッテル意味での歴史修正主義を警戒しているのだなということがわかった。

自分たちが使っている言葉歴史をよく考えすに、レッテルとして使い続けた結果歴史観を見直すことそのものに警戒してしまうようになったということだ。

今までのポジション発言の内容を振り返ってみていまさら引き返せないということだろう。


このまま進んでしまうと歴史が唯一無二の見方しか存在しないという方向に進みかねず、凝り固まった歴史観に拘泥してしまいかねない。


元寇神風聖徳太子等々もそうだが歴史見方は刻々と移り変わっている。

老害化しないように頑張っていきたいなと思う。

2016-03-20

http://anond.hatelabo.jp/20160315173152

http://anond.hatelabo.jp/20160316231324

女性男性労働結婚出産などの、ここ100年くらいの状況って総括するとどうなるんだろ?

よくまとまってる記事とかブログとか本ってない? なるべく私怨が少ないやつで。

この辺の問題を論じるとき参加者は背景の共有ができているのだろうか。できてないと話ズレるとおもう。

自分の頭の中の認識だとこんな感じなんだけど:

修正・加筆・全部書き直しとか誰かキボンヌ

要点キーワード列挙するとこんな感じ

男女、歴史的経緯政治の無策、教育自分で考える能力のなさ(政治の無関心)、権力構造時代適応して価値観を変えたり次世代に引き継ぐことができない権力

■昔

選択の自由がない単純化されたシステムだった。キツいが、役割を果たせば成立しているシステムであった。でも役割がキツすぎたのか反発が起きていく。

男性労働して家族を養っていた。つまりそれだけの給料をもらえていた。ただ、家庭と職場の両面で社会的重責が課せられた。その反動家庭内では暴力的だった。

女性労働しづらかった。だから一人で生活不可能なので、旦那を見つけて専業主婦するしか選択肢がなかった。たとえ暴力旦那でも。

男女がお見合いで利害の一致によってくっついて家庭になるので必然的子供もできた。

このとき男性側のメリットって何なのだろうか?メリットというよりは社会的圧力だろうか。

まり能力がなくても就職できさえすれば年功序列によって救われた。

女性は生きていけないので、旦那イケメンかどうかとか言ってられない、なりふり構ってられない状況であった。だからブサメン男性も救われていた。

また明治初期は、女性労働どころか選挙権すらなかった。

寿命現代ほどは長くなく、高齢者現代よりも少なかった。

現代

男性給料が減り、家族を養うどころか自分一人を生かすのも危うくなった。男性一人の収入家族を養えるのはごく限られた一部になった。

女性能力意志さえあれば働けるようになり、一人で生活が可能になった。とはい給料男性と同じかそれ未満。給料的に置かれてる状況は同じ。金が無い。

このことから子供を作る場合共働きでないと収入面で辛くなった。それでも働いているので時間がなかったりしてかなり厳しい状況なので子供を作れなくなった。DINKSという。

仕事育児もなんでもこなスーパーウーマンなんかはごく一部である共働きはいベビーシッターを雇えるような状況でもない。

親子間での殺人事件ネグレクト子供騒音問題ベビーカー問題子供への犯罪養育費の高騰、核家族化による育児サポートのなさ、大学まで行かせても低い就職率、ブラック企業日本の将来性など、子供未来にも暗い影があることも出産抑制している。

それに子供以前に、結婚をしなく・できなくなった。女性は自活できるので、結婚への圧力は減り、恋愛自由競争化しお見合いが減った。なので市場価値の高いもの志向するようになった。昔の男性のような家族を養える高収入アイドルブーム二次元の発達による美形、などを志向する風潮。

また、労働能力意思がない女性は、昔の時代女性が受けた暴力反動根拠とするアジテートからか、都合の良いATM旦那家事育児旦那を求めたり、痴漢冤罪恋愛弱者男性迫害といった、婚前・婚後を問わない男性への社会的暴力を開始した。昔の男性の罪など知らない現代男性にとってはこれを不服とし、「イケメン無罪」「※ただしイケメンに限る」「メンヘラ」「(イケメンには良い顔をする)クソビッチ」などの揶揄批判用語を作り出して応戦した。泥沼化している。

昔の男性の罪は、現代男性が負うべきなのだろうか。罪というかみんな別々の辛さだったんだけど。その批判なら男性でなく明治政府に対してすべきでは?

男性に対する結婚への社会的圧力も減ったので、男性側も結婚を選択しないで済むようにはなった。というか市場価値不足によってしたくてもできないのも大きい。女性社会的暴力辟易してしまう成分もあるし、二次元の発達、性風俗従事する女性の美形レベルの向上もある。旦那がガンになったら捨てられたりする。熟年離婚セーフティネット互助機能家族から失われている。「病める時も健やかなる時も〜」という宣誓は何だったのか。昔のところに書いたように、イヤイヤでも仕方なく結婚したケースも多いから仕方ないのか。

労働意思能力があり、自活できる女性DVから救われ自由を手に入れた」わけだが、「労働意思または能力がないので高収入旦那ATM必要とする女性」はあまり救われてない感じであるATM旦那を見つけたとしても、そんな妻をもった旦那のほうはイヤイヤ結婚生活であり苦痛である鉄道模型を捨てられたりするし。

恋愛市場価値の高い男性引く手数多であり、未婚率が男性が高く女性が低いのは、そういった男性再婚をするからである

恋愛市場価値の高い男性と、低い男性との間でも溝ができた。「恋愛アドバイスだって?じゃあさ、まず女の子食事いくとするじゃん?」といった、前提レベルが違いすぎる分かり合えない溝を産んだ。

告白したらフラれたリア充しね。

労働能力意思の無い(低い)男性は、強い社会的圧力さらされている。

昔は年功序列によって無能も救済された。だが、徐々に能力主義になっていくにつれ無能は淘汰され、そもそも入社できなくなっていく。しかし昔の無能年功序列によって上層部になっていくので、能力主義による淘汰を免れた。いまでは上層部の中・高齢者無能と有能が混在し、中堅以下の中年や若年には無能存在できなくなった。そういう組織構成になった。医療進歩寿命が延び、高齢化社会になったのもある。

女性ならまだしも、男性が働かないとはなにごとだ」

それでもニートは200万人くらいいるらしい。「働いたら負け」の名言も産んだ。デイトレード新小岩も産んだ。

ニートはなぜか上限が35歳までで、そこまでしか統計を取っていないようだが、あまり年齢上限の意味はないと思う。

から現代を通じて「男性への労働圧力」はなんら改善されていないし、反発もされていないのだが、ニート200万人が無言の反発ともいえる。

女性労働機会改善」「DV改善」などはなされているのに。

昔の男女の役割固定の価値観は、現代役割生き方自由化しようとしていることと相性が悪い。男だって働きたくない、男だって家事育児したい、女だって働きたい、女だって産みたくない。昔の価値観どおりにいくのはごく限られた一部であり、多くの現代人の足かせになり、もはや適さない。誰も得せず不幸にするだけ。

現代人は昔の人に教育をされたわけなので、昔の価値観教育されている。それがもはや現代人を幸せにしない価値観なのにも関わらず。だから価値観再構成する必要がある。そこに気づくことのできない、"優等生"現代人が、その意味理解しないまま社会的圧力次世代担い手となり、自分自身をも苦しめている。昔の人の誰得価値観を守るために。20代-30代の労働における自己肯定感の低さと自殺率の高さたるや。棄民された氷河期世代も含まれる。

結婚出産への社会的圧力は減ってはいるが、無くなったわけではなく、むしろ昨今の年金問題少子化問題が深刻化するにつれて圧力が復活しているようにも見える。政治的失策国民責任転嫁する形で。

先述の「昔側の男性」に属する為政者による発言にもそういった圧力が増えた。産む機械発言とか。それが、男性へは収入(労働)への圧力女性へは収入(労働)と出産への圧力となっていて、男女間でのさらなる火種となっている。というかすでに炎上しているところに油を注いでいる。

2016-01-25

日本宗教の変遷について。(近現代

http://anond.hatelabo.jp/20160125135604

いろいろあった。

で、廃仏毀釈が行われた。

廃仏毀釈はいろいろ言われているが、理由の一つに明治政府戸籍管理寺社から奪いたかったいうのがある。

これと王政復古を背景とした天皇権威向上もあって、神仏分離令から国家神道の成立となる。

で、国家神道

国家神道大日本帝国実質的国教だったわけだが、建前として、神道宗教ではない、ということにされた。

これまたいろいろな理由があるのだが、外国との通商条約改正するにあたり、キリスト教排斥をしていると交渉の場に立つことすらできなかったとかがある。

初詣などが宗教行事ではなく、日本の慣習・習俗であるなどの論法はこのころに広まった。

で、敗戦

GHQにより国家神道解体された。昭和天皇人間宣言象徴的やね。教育勅語墨塗りされた。

ただでさえ、宗教行事が単なる慣習に過ぎないとされていたうえで、宗教的教義は完全に破壊された。

で、復興期。

東京一極集中政策帰結として、地方人間東京に集った。

地縁から切り離された人間の拠り所として、本来なら宗教大事役割があったはずなのだが、前述のとおり破壊されてなにもない。

こういう拠り所を求める人間を鴨として新興宗教が猛威を振るったわけで。そうかそうか。

で、現在

あらゆる宗教的儀式は、外装だけを奪われて、商業的なマーケティング材料になっている。

心の拠り所を求める人は、多いが、それを宗教に求めることは少ない。

あるいは、それを宗教として意識することは少ない。

2016-01-22

明治政府退職しました

去る明治6年10月24日、私江藤新平明治政府を辞職し下野することになりました。

皆さんご存知の通り、私は征韓派でありまして、志を同じくする西郷氏、板垣氏、副島氏、後藤氏とともに陛下にその重要性を述べてまいりました。

しかし、こうした動きに対して、あえて隠す必要もないかと思いますが、大久保利通氏が強硬に反対しておりました。

無論大久保氏の言い分は充分に解っているつもりです。朝鮮を征伐することが国際的不安をもたらす、と。

その通りかもしれません。しかし我々は西郷氏を挑戦へ派遣することを閣議で決定していたのです。

どうして岩倉氏は両論を陛下に奏上したのでしょうか。三条さんはぶっ倒れてるし。


ええ。負け惜しみです。大久保さんの方が一枚も二枚も上手でした。

今年明治7年、私たち民撰議院設立建白書という文書政府左院に提出しました。

ええ、負け惜しみ反動です。これから政府官僚だけでなく、人民が広く政治に参加して、同じ意見の人々が政党を作り、その意見政権に反映されるべきなのです。

負け惜しみです。だからこそ、この立場政治を考えたいのです。この動きは絶対に広まっていくでしょう。何百年もかけてね。その礎にしたい。板垣君が頑張っています

最近故郷佐賀がなんだか騒がしい。士族鬱憤が溜まっていると伝え聞いています

なんだかそういうの聞いていると、故郷に帰りたくなってきます

みんな何故かめちゃくちゃ私が故郷に帰ることを止めようとしてきました。

故郷が同じ大木君なんかめっちゃやめろ! って言ってきます、笑。 退職したんだから別に良いじゃんw

板垣君も副島君も慰留します。みんなそんなに東京が好きなの? まだ東京で消耗しているの?

私は佐賀で育ちました。幕末には桂君と会ったり(今は木戸君ですね)、姉小路さんに会ったり。大隈君や大木君、副島君、島君あたりとサークル作って活動したり。

維新後は学校を整備したり、四民平等なんて訴えたり、あと民法について仕事したり。警察制度作ったり。いろんなこと中央でをやらせいただきました。

自信あるのは警察制度の中に、新しい技術である写真」を使った捜査を盛り込んだこと。写真ってすごいですよね。これを人相の手がかりにすると効果てきめんだと思います。我ながら先進的な施策だと思います。多分100年以上これ使える手段になるんじゃないかな? とにかく、いろんなことをやらせいただきました。

負け惜しみ反動で書いてます。今佐賀でこれを書いています板垣君、副島君。留めてくれてありがとう大久保氏が私の帰郷するよう権謀術数をめぐらせているということ、聞きました。

でもいいんです! 東京で消耗するより、今は佐賀です。生まれ育った佐賀はいろんなことが今起こっています。あの島君も佐賀に帰ってきているようです。昔は島君といろいろケンカしましたが、今また会ったら。この佐賀で会えたら。また違ったケミストリーを生むことができるんじゃないかと思ってます

板垣君や大木君、副島君等とは遠く離れてしまいましたが、また皆で議論したり、政治をしたりしたいなーと思ってます! まだまだ日本はこれからなんだから!! 今は・・・故郷ゆっくり考えることにしようと思いますそんじゃーね。また連絡するからね。

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