小保方案件はまさに「役に立つ」からもてはやされてたものの代表例みたいなものじゃないのか
ジェンダーだってそれこそ「社会問題を解決するのに役に立つ」アピールのための行動がまさに弊害を引き起こしてるような気がする
彼の住んでいるらしい町に降り立つのはもう10回目以上だった。この1年、私は自分の実家がある町よりも彼の町に足を運んでいる。私の住んでいるところから彼の町なんて新幹線でも3時間半かかるというのに。彼の町に行ったところで彼には会えないけれどそんなことはどうでもよかった。
彼が、彼の人格をきっと形成した場所に、今日は初めて行った。私はものすごく寒がりで、冷え性で、体力もなくて、暗いところも嫌いで、でもいつか彼とデートするときに着たいななんて試着室で思ってカードを切った膝上丈のマーキュリーデュオのワンピに履いてないも同然の薄いストッキング、8センチのヒールブーツで、駅から20分私は歩き続けて、彼の痕跡を今日も辿った。
野球のグラウンドに降り立つのは人生でも初めてだった。彼と出会う前もなかったから、初めてをまた彼に捧げられた気がして、嬉しかった。私はたくさんの初めてを彼に捧げてきたけど、彼はそのどれも、私が初めてだったことさえ知らないんだ。
グラウンドに踏み入る前、少し緊張した。一呼吸してから一歩踏み出した。数歩歩いたところで、公園の電気が全て消えた。どうやら夜10時で消灯するようだった。あまりにも暗くて、ケータイのライトで足元を照らしたがあんまり意味はなさなかった。
10月の末に、この公園の外から、野球の練習をする少年たちとコーチの大人を眺めたことがあった。彼は、野球を辞めてからもう4年が経つのに、今も野球がきっと大好きだし大切だ。そういう彼も好き。YouTubeで見た彼の声の出し方と、この時見たキャッチャーの男の子の声の出し方が同じで、また彼らしさに触れられた気がして、嬉しかった。
真っ暗だし、一塁や二塁のベースも置いてなくて、でも彼の位置まで歩いた。途中、少し盛り上がってるところがあって、ここがピッチャーの位置か、この前わたしがキスされた彼の元相棒は、ここから彼をずっと見ていたのか、など考えた。
キャッチャーの、位置についた。なんと呼ぶのかもわからない。ホームベース、でいいのだろうか。ただ、絶対に数年前彼がいた場所だった。彼は、ピッチャーを勧められたこともあったけど真剣な顔のバッターと向き合うと笑ってしまうからだめで、オレはマウンド全体を眺める方が好きだった、と以前話していたことを思い出した。グラウンド、初めてこんな位置から見たけれどすごく広く感じた。ここで、彼はグラウンドに響き渡る大きな声を出し続けて、チームメイトを鼓舞し続けて、成長してきたんだ。
なんとなく目の奥が熱くなって胸が苦しくなった。寒いからだと自分に言い訳しながら、一塁ベースがあるだろう方に歩き出した。グラウンドを歩きながら、何人か覚えた彼の元チームメイト達の名前とポジションが頭をよぎった。彼は、私がこんなことまで記憶しているなんてさすがに思ってもいないだろう。
こんなこと彼じゃないとしない。家の中ですら真っ暗なところは歩けないし、中一の時男の人に追いかけられたこともあるし夜道を1人で歩き続けるなんて怖くて仕方がない。でも彼は、やっぱり私にとって特別で、大好きで、なんでもいいから彼を今夜感じたかった。
グラウンドを歩いて、そろそろ出ようと歩きながら、また彼との思い出がありすぎることを思い出した。彼を好きになって、もう2年が経つ。特にこの1年は、私にとっては奇跡と運命を感じる出来事ばかりだった。でも、そのどれをとってもきっと彼にとっては運命なんてものではない。その事実が私を改めて苦しめた。だからと言って好きなのをやめる気には全くならない。
ゲーム実況は新しいことを孕んでる予感
作れる音楽は色々あるよな。
バンドやオーケストラのサウンドも作れるが、それに面白みがあるかと言われると微妙だ。
初音ミクとかは、ちょっと古いかもだけど、DTM的ではあると思う。
マニアックだけど、抽象的な音楽とかも作ると楽しいよ。参考リンクを貼ってみる。
https://www.youtube.com/watch?v=ZyI64UVWNps&t=183s
https://www.youtube.com/watch?v=aVAjgnE7mcM
https://www.youtube.com/watch?v=WI4-HUn8dFc
https://www.youtube.com/watch?v=SqayDnQ2wmw
もういいです。ネットでの正論、特にはてなで標榜されているような完全理知的な人間像を知ることはなんのメリットにもならないと確信しました。
コミュニカティブで清潔で寛容でそんな人間にはどうにもなれそうもありません。自分みたいにタバコを吸い、怠惰で向上心もなくバイタリティーもほとんどなくなってきたような人間にはどうにもはてなは劣等感をインストールする場所としてしか機能していないのです。いえ、仮にタバコをやめ寛容になり向上心を獲得し論理的な人間になれたとしてもそれはそれはとても気持ち悪いものになるに違いありません。なぜならその理想的人格はあまりにも過去の経験によって成り立っている自己とあまりにもかけ離れているからです。仮に理想的なふるまいをしてみようとすればそれはそれはとても奇妙できもちわるい人間に仕上がるでしょう。
つまりもう他人が考える理想的他人として自己を形成しようが、あるいはしまいがどちらにしてもうまくいくはずがないのです。自己は常に経験と連動してこそ自然であり魅力的であるのです。
理想的な人格から外れてるな、自分は不完全だなというシーンが会社やプライベートなどでたびたび訪れることがあります。タバコを適切な場所で吸ったり誠実な人みたいに振る舞ったり、本当はクズと罵倒したいのに作り笑いで寛容さを発揮してみたり、努力してそういうポーズをとってみたりはするのですがそのようなことをしているたびに自己がずれていく感覚を覚えます。
みんなどうやって折り合いをつけているのかわかりませんが個々人としての人格形成という点においてネットでどういう人間が批判されうるのかを知ることは同時にその思考や行動にいたる経験が訪れた時にその感情にブレーキをかけることになります。
それが例えば明らかに倫理に外れているようなことであれば自己にブレーキをかけるべきだと言えます。しかしインターネットで議論されているような理知はほとんどが無意味で無意義で無思慮な神経質なだけのものです。繊細チンピラ?マンスプレイニング?藁人形論法?いったい誰が言い出したのかわかりませんがそのすべての理想は啓蒙主義的であり一様性に人間の価値を整理していくのです。
フェミニズムやビーガンなどもその一例でしょう。男が敵だと思っている人はそう思っていればいい、野菜だけ食いたければそうすればいい、しかしそういう極端に理念化された価値観は公共性を帯び人々の思考にブレーキをかけることになります。
metoo運動にたいするカウンターとして女性自体を避けようといったようにあらゆる世論にたいして僕達はセキュリティーを装備する習性を持っている。非喫煙者の前でタバコを吸えば文句言われるだろうなと事前に考えるようにすべての価値観にたいし事前に考えるようになり公共的な自己しか発揮できなくなり、とても気持ち悪い人間が出来上がる。
事前に考え対処することが正しいと思われるかもしれないが自己は常に事後によって形成される。つまり物語、経験のない事前による自己の獲得はすべて偽である。事は常にやってしまえばいい。路上喫煙もセクハラも、パワハラも、犯罪も、なにもかも、やってしまえばいい。やってみてはじめて自己と連動した価値が生まれる。
そんなに下ネタ言う男ばかりだったの?